手紙文化は〈人類崩壊〉以前に広く存在した。
人類が滅びかけるはるか昔、
絵や文字を書くための紙が発明される。
正確に伝える記録の手段はやがて
情報を遠くに運ぶ通信へと発展し、
市場から墓場まで広く用いられた。
機械の普及で〈人類崩壊〉以前に
滅びかけたとされるが、今でも
レトロな手法を好む好事家や
一部の若者の間で秘密のやりとりとして、
特に授業中に使われる暇つぶしの
一種で暗躍を続ける。
絵や文字や写真などのやりとりであれば、
〈個人端末〉で番号を交わせば済む時代。
大量の手紙を持ったイサムが教室に入ると、
女子たちに緊張が走った。
生徒の男女比から異物扱いを受けるのは
いつものことであると言えるが、
今日の雰囲気はいつもと異なる。
会話は止まり、
視線が集まる。
イサムはこの淀んだ空気に
胃液が逆流する感覚を覚える。
件の封筒が詰まった袋を机に置く。
厚紙でできた袋の底の肉みその瓶が、
重しになってバランスを崩さず倒れない。
亜光が神妙な顔でつぶやいた。
「これ『有事協定』違反じゃないか。」
『有事協定』とは元芸能人であった
イサムに対する接触を禁じることを示す。
不純異性交遊などを規制する校則によって、
先輩女子が取り決めたとされる。
イサムは1通の封筒を手に取り表裏を観察する。
表は利き手とは反対の手で書いたような
ミミズのはったような字で『八種勇様』。
裏にはピンク色をしたホログラムのシールで
封がされており、差出人は書かれていない。
「これも差出人不明だ。筆跡が違うぜ。」
「封筒もシールも見事にバラバラだなぁ。」
貴桜と亜光、それからマオまでもが
イサムの机を囲んで封筒を鑑賞する。
クラス33人の中の男子3人。
男子の席は窓際の後ろ隅に追いやられている。
イサムは男子の中で一番うしろの席だった。
教室内の女子たちは、イサムたちに混じった
マオに対してなにか言いたげに遠目で眺めている。
だが海神宮家の御令嬢を咎められる生徒など、
この教室どころか学校には存在しない。
もしもマオに危害を加えようものならば、
テニスコートの向こうで待ち構えている
メイド服の機械人形が文字通り飛んで
駆けつけそうなものだ。
『有事協定』を犯したマオに対して、
女子たちは誰も指摘をしなかった。
「どうしよう、これ。」
イサムが困り果てた顔で
亜光と貴桜に助けを求めるので、
ふたりは顔を見合わせて協力する。
友人としての互助精神よりも好奇心のが勝った。
「手紙とか貰ったことないのか?」
「たぶん劇団か事務所で処理してたから、
実際に手紙なんて見たことないよ。」
「手紙に位置情報を登録すれば、
相手の自宅まで追跡も可能だしな。」
「僕の自宅調べてどうするの?」
「〈更生局〉直行。」
両手をヘソの前に差し出して、
手枷を具体的に想起させた。
カフェに現れた女と同じ末路をたどる。
柔らかなパステルカラーの色とりどりの封筒に、
色ペンで書かれた宛名は丸みを帯びて
記号混じりの文字を解読するのに時間がかかる。
中に1枚だけ真っ黒な封筒が混ざっており
マオがそれを袋の中から抜き出した。
「これも八種くん宛ね。」
「もう開けちまっていいんじゃねえの?」
「貴桜の言う通りデリカシーに欠けるけど、
差出人がわかっかも知れないぜ。」
「デリカシーってなんだ?」
「俺みたいな。」
「はいはい。」
「海神宮さん、なにしてるの…?」
マオが封筒を照明に透かしていた。
「『貴方は現世で結ばれる運命のヒトです。』」
「なんだそりゃ。」
貴桜が内容にあきれて口を挟むが、
マオは淡々と続きを読み上げる。
「同封の手紙に想い人の名前と
差出人の項目に貴方の名前を書きなさい。
さすれば貴方は運命の人とめぐり合えます。
これは呪いの手紙です。
この手紙を無視したり、捨てた場合、
貴方に不幸な災いが降りかかるでしょう。」
マオは額の絆創膏を取っていた。
手紙の封を開けることなく、
額にある第3の目で中身を走査した。
読み上げる途中で、マオは
内容のバカバカしさに少し鼻で笑っていた。
「なんか、凄いことやってのけたな。御令嬢。」
亜光と共にイサムも黙って感心するが、
手紙の内容が気になりそれどころではなかった。
「なにこれ…。宣誓書。ふふっ。」
黙読しながら内容に笑みがこぼれる。
「この別紙、宣誓書を要約するとね、
『有事協定』の破棄をするって内容。
相手の名前と八種くんに名前を書かせて、
配らせるって算段なんでしょう。」
「それなら名前を書けばいい?」
「書くな書くな。」
「よくあるイタズラだな。
そうか、こういうのやられたことないのか。」
亜光に指摘を受けて、
経験のないイサムは首を横に振る。
「全部入ってるのかしら。」
マオはいくつか別の封筒を手にとり、
同じく別紙が添えつけられているのを確認した。
「捨てようぜ、こんなもん。」
「捨てるなんて! あんまりじゃない。
相手の思いが込められた手紙なのに!」
「えぇっ?」
ファンデーションを薄く塗った顔には、
よく見ればうっすらとそばかすが見える。
唇にはべったりとグロスを塗った過剰なおめかし。
短い金髪を耳の上から左右にまとめた女子生徒が、
イサムたちの輪に混じって話しかけてきた。
同じクラスの舫杭ソニアであった。
「なぁ、これって有事違反?」
「『有事協定』違反な。」
「黙ってて!」
「はい。」
冗談半分でからかう貴桜につられた亜光が、
舫杭に叱られ、ふたりはだまってお互いを
肘で小突いて責任をなすり付けあった。
「相手への思いなんてあったか?」
「しっ!」
これ以上の軽率な発言は、
貴桜の教室内での立場を危うくするだけだった。
「捨てたらきっと呪いが発生するわよ。
くふふ。」
「わぁっ!」
舫杭の後ろで真っ黒にした前髪を
目が隠れるほど伸ばした白い顔をした女子生徒、
夜来ザクロが脅しをかける。
ザクロが呪いなどと言えば妙に雰囲気が出ており、
牡山羊のツノを模したカチューシャを付けている。
〈ニース〉を禁じられた寮生の抜け道だった。
こんな格好は許されるのか疑問が湧いたが、
〈ニース〉も授業を受けられるのであれば
些末な問題に過ぎない。
「なるほど。捨てちゃだめなら
溶かしてまとめちまうってのはどうだ?」
「いいわけないじゃない!
トンチやってんじゃないのよ。
このバカデカノッポ!」
廊下にも響く金切り声を上げる舫杭。
「怒られてやんの。」
「ねぇ、今の蔑称は許容範囲?」
「女子に言われる分にはセーフだね。」
「どんな判断だよ。貴桜。
いや、バカデカノッポ。」
「いいか、亜光。
貴様も肥満デブと罵られてみろ。」
「意味が重複してるぞ。
海神宮さんお願いします!」
亜光の要望などマオは無視するのかと思ったが、
イサムの視線を察知して彼女は目を合わせた。
「それ、私にどんなメリットが…。
肥満…デブ?」
言われた貴桜は黙ってうつむき、
亜光はメガネに触れて天井を見上げた。
ふたりはなにも言わず、
ゆっくり拳をぶつけ合った。
「なんなのこれ。」
尋ねられても答えようがない。
経験のないイサムには、
黙ったまま首を横に振るしかなかった。
「手紙による呪いの力は古来より、
他の人に渡すことで薄れて弱まるのよ。
くふふ…。」
「呪いってなんだよ。」
「呪い…?」
「八種も真に受けるなよ。
こういうのは昔からあんだよ。」
「昔から?」
「それこそ〈人類崩壊〉以前からな。」
紙袋いっぱいの手紙を目の前にして、
途方に暮れるイサムの顔を亜光は覗き見た。
亜光がここぞとばかりにメガネを押し上げ、
イサムを相手に教鞭をとる。
――不幸の手紙とは。
『この不幸の手紙を複数人に送ってください。』
と書いて、届いた不幸の手紙は内容を複写して、
ふたり以上に送って呪いを分散させんのが原則だ。
子供だましのよくあるイタズラのひとつ。
それが不幸の手紙と呼ばれるもんだ。
分散させた手紙は倍倍に増える。
ネズミ算式って呼ばれるやつな。
すぐに学年全体に行き渡らせて、
やがて別学年、別学校にまで伝播する。
送り続ければ、って前提ではあるがな。
呪いが相手に心理的な強制力を与えるんだ。
細かなルールがある。
送り主や親族に手紙を返してはいけないとか、
そういうルールを守らなければ呪われる。
ただしルールは厳密でもない。
懇切丁寧に差出人名を書けば、
相手から多大に恨みを買う。
他にも、手紙を分散させない相手に、
送り主が催促する必要もない。
不幸や呪いと欺いて、受取人の不安を煽り、
良心に付け込む卑劣な手法だ。
今でも〈個人端末〉を使った
メッセなんかが存在するが、
もちろんこれらは相手にするだけ
時間の無駄だな。
――以上。
亜光はさらに付け加えた。
「〈更生局〉がこの脅迫めいた手紙を
わざわざ規制もしない。
金銭目的や相手の自由を奪うもんでもない。
実際、子供騙しに過ぎないのは、
誰の目にも明らかだ。」
イサムは亜光の講義を毎度熱心に聞く。
しかし当事者が知りたかったのは
不幸の手紙の歴史ではなく、
目の前の問題に対する処理の方法だったので
さらに表情は険しくなる。
貴桜とマオは講義そっちのけで、
机にみっしりと封筒を並べた。
封筒はどれも色や形が異なり筆跡も様々だ。
ピンクや青など透明なプラスチックビーズを
貼り付けて飾られた封筒とは思えない物もあり、
匿名の封筒の割に存在感をアピールしている。
「見事に全部違うな。」
「こんな大量に…。
業者にでも頼んだのかしら?」
「失礼ね! それはちゃんと直筆よ。」
「ソーニャん、それ自滅…。」
マオが手にとったショッキングピンクの封筒。
舫杭の発言はマオが手にした封筒が、
自ら書いた物と告白したも同然だ。
顔を真っ青にした舫杭は頬を両手で抑え、
自分の発した言葉の意味を徐々に理解した。
「ご、ごめん! あたしたちのせいだって
バラしちゃったゆかりん。」
「どんまいソーニャん。
でもいまので私も共犯だって
バラして道連れにしたけどね。くふふ…。」
ザクロの両腕にしがみついて
自責の念に苛まれている舫杭に向けて
彼女は平然と親指を立てた。
「んだよ呪いって。
バカバカしい結末だったな。」
「これそのまま送り主に返却すれば
いいんじゃないか。目の前にいることだし。」
「そんなのダメよ! せっかく書いたのに。」
「一方的な手紙だけどねぇ。」
亜光の提案に舫杭は拒絶するが、
後ろのザクロは至って冷静だった。
「ごめんなさい。
手紙の返信はできません。」
イサムは深々と頭を下げ、
机に広げた手紙をまとめると紙袋に入れた。
袋を舫杭に手渡すと、
真っ青だった彼女の顔はみるみるうちに紅潮する。
イサムの手を握ったまま離さず硬直したので、
ザクロが舫杭の固まった手を解いた。
「『有事協定』を抜けられる
いいアイディアだと思ったのにぃ…。」
舫杭は涙を堪える。
「今度は魔術とかどうかな、ソーニャん。
私、魔法陣描くから。」
「ありがと、ゆかりん。
それなにか知らないけど。
あたし、諦めないね!」
「まったくこりてないぞ、こいつら。」
「人形に八種の顔写真を貼りつけて、
釘で打ち付けるのもいいらしいぞ。」
「亜光なに焚き付けてんだよ!」
「手芸部でユージくん人形を作ったら
売れると思ったんだが。陰毛付きで。」
「作るな! 売るな! 陰毛植えるな!」
舫杭とザクロが友情を深め合う場面に、
混じった亜光を貴桜は怒鳴りつけた。
「八種くんはどうなの?
『有事協定』。」
マオの言葉に教室中の視線が集まる。
急に嫌な汗が背中に湧いて、視界が濁り狭まった。
まぶたを強く閉じて、深く息を吐いて決心する。
「僕の知らないところで、
『有事協定』を決められて困ってました。
同じクラスメイトなので、これからは
普通に話しかけてください。」
恐る恐る目を開くとマオの顔が横目に見える。
イサムの言葉に、
教室内の淀んだ空気が一瞬で吹き飛ぶ。
その衝撃は廊下にまで走り、
学校全体に轟くには時間を要さなかった。
渦中の存在であったイサム本人は、
意図してはいないもののその澄んだ声が
『有事協定』によって束縛された
クラスの女子たちを解放した。
「それって『有事協定』破棄ってこと?」
「よかったねぇ。」
舫杭とザクロに続いて、
クラスの女子たちもイサムの提案にざわつく。
手提げ袋の中の手紙を室内にばら撒く女子たち。
その光景をマオは怪訝な顔で見つめる。
「ひょっとして…。」
ぼそぼそと喋るマオの言葉にイサムは耳を傾ける。
「送り主はクラスの女子全員じゃない?」
「いや、まさか?」
彼女の推察は想像しないものだった。
手紙の内容を読み上げられた
舫杭とザクロのふたりが実行犯と思っていた。
机に並べた手紙は全部で29通。
マオと男子3人を除けば、手紙の枚数は
クラスの女子の人数と一致する。
しかし不幸の手紙とは違い、
複数人に送り返すものではなかった。
29通が今日の朝には、
下駄箱に収められていた。
舫杭とザクロのふたりだけ
とは思えない封筒の量や、
統一された『宣誓書』の存在。
女子たち全員の喜びを見るに、
マオの推察は当てはまる。
「俺からの動物園土産は?」
「んなもん、どこでも買えんじゃねえか。」
「あ…。しまった…。」
「そっちは後悔するのね。」
「え…?」
瓶詰めの肉みそが入った手提げ袋を
恨めしそうに眺めるイサムだったが、
マオの言葉に心当たりを探した。
貴重な食料とわずかな残高が
イサムの脳裏をかすめたが、
今更袋だけ返して欲しいとは言い出せなかった。
3年生が取り決めたイサムへの『有事協定』は、
本人たっての希望によって破棄された。
けれどもイサム自ら女子に話しかける
勇気はまだなかった。
それは他の女子たちも同じままであった。
だがマオの懸念は別のところにあった。
亜光の説明通り、不幸の手紙と呼ばれる
児戯を相手にする必要はない。
騒動が風化するのを待てばいいに過ぎない。
それにも関わらずイサムは
周囲の求めに応じる形で、
『有事協定』を破棄した。
彼は愚かな選択をした。
〈ALM〉が私の計画の障害になっている。
罪を犯せば〈キュベレー〉が駆けつけ、
〈更生局〉に連行され、隔離される。
自身も世話になったので、
存在自体は否定しない。
〈キュベレー〉はいまの人類にとって
なくてはならないパートナーだ。
〈ALM〉が生み出した〈キュベレー〉や、
〈更生局〉を出し抜く方法はないものか。
悩んでいた矢先に、不快な知らせが届く。
父の弟である叔父が〈更生局〉から出てきた。
40年ほど収容されていたところで、
私の財を目当てに、のこのことやってきた。
自分がなぜ〈更生局〉に収容されたか、
もう覚えてないのだろうか。
私の人生を狂わせた人物。
年老いた姿ではあったが昔の面影がある。
腐ったジャガイモのようなだ。
応接室に案内すると、叔父から発せられた
獣のような異臭に顔をしかめる。
しばらく風呂に入っていないのだろう。
「金を貸してくれ。」
「俺とお前の仲じゃないか。」
案の定、彼は私に生活費を求めてきた。
〈更生局〉が浮浪者を出すことはない。
当然ながら多少の支援を受けているはずである。
私が生活費を出さねばいけない社会的責任もない。
それで私に会いに来た理由は安易に想像がつく。
彼を罵倒して追い返すこともできる。
だが追い返そうとすれば、
過去のことを材料に私を脅しにかかる。
厚顔無恥にも程がある。
〈更生局〉も40年経って被害者との
接触までは想定していないのか。
加害者が男だからか、
それとも私の人格が問題なのか。
更正の内容とは収容年数だけで、
所詮は名ばかりだと実感した。
叔父がこのまま生きていたところで、
〈更生局〉に逆戻りだ。
彼の考えの浅さに頭を悩ませる。
しばらく考えて、
1ヶ月間の生活費を工面した。
それから〈ALM〉に申請し、
彼に〈キュベレー〉を手配した。
『多忙な私の代わりに。』
そう、身の毛がよだつメッセージを添えた。
生活支援のための機械人形を、
彼がどうするかは知らない。
彼が感情にまかせて〈キュベレー〉に
危害を加えるほど愚かではないはずだ。
それから半月経って叔父からメッセージが届いた。
内容は想像通り、私への罵倒と
『餓死させるな。』との無心だ。
爛れた生活で放蕩三昧であることは、
〈キュベレー〉からの報告でわかっていた。
老いてもなお殊勝な心がけをしている。
そこで私は追加でもう1ヶ月分の生活費と、
仕事になるであろう事を手配した。
まず口うるさい叔母を
金で黙らせ、面倒事を押し付けた。
叔母に会社を紹介されたにも関わらず、
叔父は顔も出さず、連絡もすっぽかした。
人には裏がある。
優しかった両親や、叔父にもあったように。
そうした反面教師を私も少しは見習い、
地下組織のひとつでも作っておけばよかった、
などとバカバカしい後悔をした。
私にはひと癖もふた癖もある人が集まる。
もちろん表では真っ当な商売をしている人だ。
しかし裏では後ろ指をさされる趣味で、
私の技術を買い求めたり、ときには自らの
趣味の売り込みに来るものが後をたたない。
金を持て余したよほどの暇人の趣味だ。
多数の理解を獲られないものは存在する。
代表的なもので言えば性癖だ。
恋人同士、夫婦間、仕事関係でもよい。
需要があるので商売にもなりやすいが、
そのぶん犯罪率も高い。
そうした裏の顔を持つ会社に、
叔父への接触をお願いした。
私が直接関わることはない。
裏の会社も自社の商品と依頼内容を送るだけ。
ひとつは服飾の会社だ。
叔父に似合う老人向けの服を
こしらえる会社などではない。
〈キュベレー〉専門の服を作っている。
機械人形相手に劣情を抱いてしまう、
趣味の人を対象に商売をしている。
私がその会社に要請したのは、
女子生徒の制服と肌着だった。
この服装で間近に行われる
品評会への出品を叔父に依頼させた。
〈キュベレー〉を経由せずとも、
彼が床を踏んで怒るのは想像がつく。
もうひとつの会社はさらに特殊だ。
動物の毛皮を服にすることは、
〈人類崩壊〉以前より行われていた。
人類が生き残るための知恵であり、
〈NYS〉の原型とも評されることもある。
その会社は毛皮を人の型に裁断し縫う。
要望に応じて毛を全て抜き、
人の皮膚に近い状態で納品も行う。
理解し難い性癖の持ち主ではあるが
技術は秀出している。
このふたつの会社から
送り届けられた商品で、
叔父がなにをしようと勝手だ。
ただ彼の元にある〈キュベレー〉は、
当時の私と同じ小型のものを選んである。
突然の来訪から1ヶ月経ち、
叔父は律儀にも私の想定どおり
〈更生局〉に連行された。
叔父の末路には興味はなかったが、
それと同時にひとつの考えがまとまった。
私は人を観察した。
人も動物だ。
言語が使える分、動物よりもわかりやすい。
時間はかかるが金はある。
〈ALM〉や〈キュベレー〉に依頼しても、
家族でない他人の秘密など教えてはくれない。
そこで複数の調査会社に依頼して、
段階的に情報を入手させる。
住所、名前、年齢、家族構成など
単純なものは簡単に取得できる。
そこから掘り下げるには、
親会社が子会社へと調査を依頼する。
秘密の取得は趣味を超え、
ストーカー行為に等しい。
極力〈更生局〉に関わらない為、
リスクの分散には大勢の調査員が必要だった。
仕事、趣味や日常の行動、交友関係、
それから性癖などを詳らかにする。
調査の対象は誰でもよかった。
調査員が調査数を水増しするために
自分や自分の家族の情報を売るのもよく、
架空の情報をでっちあげても構わなかった。
真偽は重要ではない。
誰かが加害者になるでも、
被害が生じない方法を探った。
素質の有りそうな人がいれば
それが一番だが、叔父を釣るより複雑だ。
私の目的には偶発性が求められるからだ。
落とし穴を作ってはいけない。
この原則を絶対とする。
いくつかの目標を商品と考え、
要素となる原材料を無作為に投げ込む。
穴を掘る道具、穴の掘り方、穴の隠し方。
大事なことは目的と手段と方法を分解し、
必ずひとつの群れにばら撒く。
他者を落とす為に穴を掘らせては、
自らが落ちる結果になる。
それでは本末転倒だ。
それぞれの情報が伝播しあい、
運がよければ落とし穴が完成する。
落とし穴でなくてもよい。
皆で高い塔を作らせ、太陽に届けばよい。
私でなくてもよい。
私はいつしか自分の足で
歩くことさえままならなくなっていた。
足は痩せ細り、手は風に吹かれた
枯れ枝のように揺れて覚束ない。
それでもまだ調査をやめさせなかった。
偶然が芽吹いたのはいつ頃か。
小さな集団からひとりの指導者を生み出し、
多くの人を集めるように呼びかける。
美貌や知性、または巧みな話術を利用して、
大勢の人に崇められる存在になる。
人の煽動は禁じられ、
多くの関係者が〈更生局〉に連行された。
しかし私が〈更生局〉に
連行されるには至らなかった。
人々の異変に〈ALM〉が気づくまで、
私の死から60年が過ぎていた。
――あなた達は16歳になれば、
〈3S〉によって顔や体を
変更する権利が得られます――。
教壇に立つ〈キュベレー〉が講義を行う。
その声は中性的で話し方は淡々としている。
額に第3の目を持つ
〈キュベレー〉は常に正面を見つめ、
生徒を観察する。
〈キュベレー〉背後のディスプレイには、
講義の進行具合に応じて動画が流れる。
イサムは机に置いた教則を睨んで頭を抱えていた。
〈キュベレー〉の声が頭に響く。
――本校では既に〈ニース〉になっている
生徒も少なくはありません。
若くして身体に劣等感を抱くヒトも、
運動力の劣るヒトも、名府では
どのようなヒトであっても平等に
〈NYS〉の技術を享受できます。
事故によるケガや、病気で手足を失ったヒトも、
筋肉の衰えなどで障害を持つヒトでも、
肉体の回復に用いられる技術が〈NYS〉です。
差別は減り、〈ニース〉とそうではない
〈レガシー〉に区別される時代になりました。
新たな時代を築いたこの〈NYS〉ですが、
ふたつのことに気をつけなければいけません。
〈ニース〉を使い体型を変えたとき、
脳への負担が一時的に増し、目線の高さ、
手足の距離感覚に脳が違和感を覚え、
体調不良を引き起こす場合が多くあります。
脳はすぐに順応することはできません。
肉体の成長と同じように少しずつ変化をさせ、
時間をかけて馴染ませる必要があります。
もうひとつ注意しなければならないこと、
それは〈ニース〉が引き起こす乱暴性です。
たとえば自動車の運転手は、車という乗り物に
金属の鎧をまとった気分で気性が荒くなるなど、
感情に流されやすくなります。
同じように〈ニース〉で体格を変化させたヒトは、
自分が強くなったと錯覚します。
精神が未成熟であれば誘惑も多くなります。
肉体と脳の不一致、感情の制御。
このふたつは〈ニース〉症とも呼ばれています。
あなた達が現在、もしくは今後〈3S〉で
外見や身体を変更した場合、我が校の生徒として
社会に恥じない行動をしてください。
この名桜市では現在、月に十数人の〈ニース〉が
〈更生局〉によって隔離されています。
残念ながらその中には
我が校の生徒、新入生も含まれます。
あなた達がヒトの道を踏み外さないことを
我々は願います――。
〈キュベレー〉の言葉に反応して
ディスプレイは消え、講義は終わりに見えたが
表示が切り替わったに過ぎなかった。
――なお転府から移住した生徒には、
放課後にテストが控えています。
合格基準を満たさない場合は
休日の外出の禁止など、
校則により規制がかかります。――。
移住者として該当するイサムは、
講義への集中を欠いていた。
両のこめかみを指で抑えたり、
頭皮を指先で揉みほぐして唸り声を上げる。
「なぁにやってんだ?」
前の席で背も座高も高い貴桜大介《だいすけ》が、
自分の後ろで怪訝な顔をするイサムにささやく。
イサムが正面に目をやる度に
彼の逆だった金髪が視界を邪魔する。
「朝からちょっと頭が痛い。」
鬱蒼とする頭髪を片手で抑えて揉み、
血行をよくして頭痛を緩和できる。
民間療法に頼ってみたイサムであったが、
眉間のシワがほどけはしなかった。
講義が終わってもなお机に突っ伏して、
冷えた机に熱を帯びた額を押し付ける。
「おーい、昼だぞ。」
丸くふくよかな男子生徒、亜光百花が
メガネをかけ直すいつもの仕草で寄ってきた。
男子生徒が1割しかいないこの学校では、
イサム達は肩身の狭い思いをしている。
その為に昼食やトイレなど移動の際には、
3人揃って行動をともにする。
だが今日に限っては頭痛が酷く、
イサムは移動さえも拒んだ。
「頭が痛いんだとよ。頭痛だと思うぜ。」
「当たり前だろ。なに言ってんだ。」
「静にしてくれ。僕は寝てるから
今日はふたりだけで行ってくれ。」
普段の食事は東の別館にある、
カフェテリアで取る。
学生向けの理にかなった値段で、
懐貧しいイサムでも毎日通える場所だった。
しかし今日のような残高では、
軽食を注文することさえ厳しい。
そう考えると頭痛はさらに強まった。
「わかったけど、お土産はないぞ。」
「2人前食うもんな、お前。」
「残念ながら今日から俺はダイエットだ。
なので大盛りで済ませる。」
「…変わってないんじゃないかなぁ。」
「もしアレなようなら医務室行けよ。」
亜光の提案にイサムは突っ伏して
唸り声で返事を済ませた。
亜光の前の席では赤髪を真ん中に分けた
長身の海神宮真央も、机の上の教則を片付けて
教室を出た。
「ねぇ。あなた。」
マオは目に痛いピンク色の髪をした
女子生徒に呼びかけられた。
長身のマオに比べ、相手の背はやや高い。
胸につけた青色の校章バッジを見ると、
上の学年の3年生であった。
ピンク色の長い髪を太いみつ編みにして
青白い小さな目と、小さな鼻、色づく唇と細い顎。
いずれも綺麗な顔のつくりで、
マオは違和感に目を細める。
「なんですか?」
「ゆ…えーとぉ、
八種勇くんってぇこのクラスよねぇ。」
やや間延びした甘ったるい喋りの女子生徒が
マオ越しに教室内で眠りこけるイサムを見た。
「勇くんのぉお姉さんが、
学校に来てるから、駐車場んとこまで
呼び出して欲しいんだけどぉ?」
「質問よろしいですか?」
「はぁ? 質問とかいいから
さっさと呼んできなよ。」
「なぜお姉さんは学校を経由せずに
先輩を遣わせたんですか?」
苛立ちを抑えて両腕をぎこちなく組む。
「ユージくんのお姉さんて、
ここの卒業生で有名なモデルなのよ。
あんた、んなことをも知らないのぉ?
そんな人が呼んだら大騒ぎでしょ。」
イサムの呼称がころころと変わる。
それでもマオは静かにうなずいた。
「わかりました。
嘘ではないんですよね?」
「わかったんならさっさと呼びなよ。
ブスロブスター。」
苛立ちをあらわにする〈ニース〉の生徒に
マオは釈然としないあだ名で呼ばれ、
自らの赤髪を撫でてため息をつく。
仕方なしに踵を返し、
イサムの席に向かった。
頭痛でうなされる彼の肩を
指先で軽く叩いて起こす。
「八種くん。起きて。」
寝ぼけ眼を確認して、
マオは廊下に向かって指差した。
しかし〈ニース〉の生徒は
先程までいた場所におらず、
廊下まで戻って姿を探した。
「なにかあったんですか?」
「ブスロブスターってあだ名は
どうかと思うの。」
脈絡のなく不機嫌そうなマオの言葉は、
イサムの眉間に深いシワを刻んだ。
マオから見ず知らずの先輩を経由して、
イサムは駐車場まで呼び出された。
そんな面倒事と頭痛に堪えながら、
裏門にあたる来客者用の駐車場に辿り着いた。
だがイサムは姉からの呼び出しを
無下にはできなかった。
駐車場は保護者の送り迎えでもなければ、
生徒が昼休みに利用する場所ではない。
車の出入りもなければ、
車も停まっていない殺風景な場所。
姉の姿を探し、駐車場を一周したが
それらしき姿は見えず、コンクリートの
輪止めに乗って背伸びもした。
頭痛で頭が回らなかったが、
〈個人端末〉で姉にメッセージを入れてみても
反応はなかった。
ついでに残高を再度確認する。
トースト代が引かれてから
残高は増えてはいない。
一番の頭痛の種がこれだった。
「頼むよ、ハルカさん…。」
今日振り込みがなければ
晩御飯もなしになる。
せめて亜光から貰った肉みそが
手元にあればよかったが、
クラスメイトに渡してしまい
取り返すことは難しかった。
悔やめば悔やむほどに頭は痛い。
頭皮を揉み、頭痛の緩和を試みる。
立っても歩いても、じっとしていても
頭痛はいっこうに治まりを見せず、
背中に冷たいものが走り身震いする。
途方に暮れてこのまま帰宅を考えたとき、
姉らしき姿を目の端に捉えた。
目を細めてその姿を凝視したが、
それは姉とは似ても似つかない人物だった。
そもそも姉が制服姿で校内をうろつくはずもない。
名府は『聖礼ブーム』の影響で、
転府、聖礼市の芸能人やモデルをコピーする
〈デザイナー〉が街にあふれている。
〈個人端末〉で〈個体の走査〉をしても、
イサムの知らない人物だった。
「誰…ですか?」
「あれぇ、やっぱきょうだいだとわかるのぉ?」
女子生徒のやや濁った声質や間延びした口調が、
明確に姉とは異なっている。
マオが〈3S〉にいた〈ニース〉のことを、
魔人や魔女などと形容したその意味を実感する。
『ヒトを惑わすもの。ヒトを害するもの。』
青色の校章バッジで彼女が3年生だとわかる。
イサムの知る姉、ハルカは厳格な人物だった。
この学校に入れるために勉強を強いて、
ひとり暮らしになってもそれは変わらない。
無駄な買い物は許さず、月曜は朝食までも
『名桜カフェ』での外食を指定し徹底した。
姉はモデルという職業柄、
ピンク等の奇抜な髪色をすることもあるが――。
卒業生であっても、制服を着て訪問するような
享楽的な性格の人間とは思えない。
この先輩は姉のパーツを寄せ集めた顔をしている。
〈3S〉によって他人の外見を
いくらそっくりにできたところで、
皮を被ったような違和感は拭えない。
足の開き方や、背中の曲がった立ち姿が
特に強い違和感を与える。
この先輩は明らかに〈ニース〉であり、
姉を模して日の浅い〈デザイナー〉。
厚く塗られたファンデーション。
粘膜に粘りつく甘いニオイの香水。
それから、鼻を突く獣臭が混じって、
イサムは耐えきれず咳き込んだ。
「ケイ!」
振り向くとそこにはライオンがいた。
正しくはライオン頭に
詰め襟の制服を着崩した生徒。
獣臭の正体はこのライオンだった。
「自己紹介しとくね。
アタシ、荒涼潤。」
「一十圭だ。」
ライオン頭が人間の言葉で喋った。
目も鼻も口もライオンだが、
異形の頭でも声帯を含む発声器官は
〈ニース〉の制約がかかる。
『ヒトの形の範疇であること。』
胸元まで大胆に着崩した制服。
赤色のシャツからでも見える大きな筋肉の塊。
一十は〈NYS〉の技術によって
頭部を変化させた〈デザイナー〉であると共に、
肉体は筋肉を増加させた〈パフォーマー〉の
いわゆる〈ハイブリッド〉であった。
「ユージくん
『有事協定』拒否ったってホントぉ?」
「はい…。」
首肯してからイサムは首をかしげる。
荒涼の質問の意図を読み取れなかった。
『有事協定』は元芸能人であるイサムに対し、
不純異性交遊の禁止を呼びかけた校則の別称。
警戒心が高くなった女子生徒たちのおかげで、
教室内でイサムたち男子は孤立していた。
イサムへの接触を禁じられたことで
一部の女子生徒らが反発心を懐き、
今朝方、不可解な行動に出た為に
イサム自ら勝手な決め事の破棄を申し出た。
それが昼休みの今になって
3年生にまで広まっている。
女子たちの伝播力は恐ろしくもあり
感心さえもするところだ。
「ユージくんってさぁ。
芸能人のあのユージくんだよねぇ。」
「はぁ…。元ですけど。」
「『SPYNG』にもいただろ?」
「ちが…いや…まあそう、ですが…。」
歌手活動をしていたころの
ユニット名は現在とは異なる。
否定と肯定が混じったあいまいな返答に、
隈取られた金色の目がイサムを睨む。
「ユージくんさぁ。
ジュンと付き合ってよ。」
「オレたち友達になろうぜ。」
香水臭い女と獣臭い男の板挟みになり、
ふたりの要求が理解できずに顔をしかめた。
「え? どうしてですか。」
「付き合うのに理由っているぅ?
知りたいから付き合うんじゃん。
お互いの相性ってやつ。」
「女に恥かかすんじゃねぇよ。ボケ。」
一十に肩を強く叩かれた。
稽古で顔以外を叩かれるのは何度か経験がある。
痛みに対し顔で不満を示すことしかできなかった。
「ユージくんってひとり暮らしなんだよねぇ。
今日学校終わったら遊びに行っていい?
ねぇ。もちろんいいよね。」
「え!」
唐突な要求は度を越して、
イサムは驚き声を上げた。
一十が今度は腹を強く小突く。
頭と腹の痛みに声も出せないままひざまずいた。
ふたりの理由と目的はわかったが、
もはや手遅れだった。
「帰り、教室まで迎えに行くから待ってろよ。
逃げんじゃねえぞ。ユージくん。」
一十がしゃがむイサムに肩を寄せ、
彼の毛深いタテガミが圧をかける。
「わかったよな?」
一十に髪の毛を捕まれ、
強制的に首を縦に振る。
「素直でよろしぃ。いい子いい子。」
それから荒涼はイサムの頭を平手で叩いて、
満足したのか去っていった。
去りゆく荒涼の耳障りな高笑いを聞いて、
言い知れぬ気持ち悪さが喉から湧き上がる。
イサムの頭痛はピークに達すると、
平衡感覚を失いその場に倒れた。
排水桝のグレーチングに、
淡黄色の胃液を吐き出した。
グレーチングに残る胃液の跡を見て、
頭痛に目から入る光さえも苦痛になり
まぶたを強く閉じても視界は真っ白に変わる。
脈打つような頭痛はやがて意識を奪い、
イサムはその場で寝入ってしまった。
まぶたに透ける光に意識を取り戻し、
香ばしいニオイに鼻腔をくすぐられて
頭と腹が空腹を同時に訴える。
冷たいコンクリートの上ではあったが、
黒の詰め襟に暖かな日差しを浴びていて
背中にじっとりと汗をかいていた。
頭痛は未だに止む気配はないが、
寝てもいられなくなり無理矢理に目をこじ開ける。
「おはよう。八種くん。」
真正面には燃えるような赤髪の女子生徒、
マオが弁当を食べていた。
焼き鮭の皮をジッと見て、
咀嚼しながら食感に首を傾げる。
「どうして、こんなところで…。」
締め付ける頭の痛みに苛まれ、
眉間にシワ寄せ声を絞る。
「お弁当を持ってきたから。
日当たりもいいし、ヒトも少ないもの。」
頭痛が言葉を妨げる。
「放置してもよかったんだけど。」
鮭の切り身を箸で切り分け、
白米と共に頬張る。
困窮するイサムはマオの食事姿を羨ましく思うも、
口の中に残った胃酸に気持ち悪さを覚えた。
「あの先輩。八種くんのお姉さんが
来ていると嘘をついて呼び出したのは、
気づいてたからね。」
「えぇ…なんで…?」
磯辺揚げを食べてうなずく。
イサムは彼女の額。その絆創膏を見た。
「それで心が読めるんですか?」
「これにそんな機能ないわよ。」
駐車場の出入り口に
メイド服の〈キュベレー〉が佇む。
3つの目でイサムを見つめている。
「有名人だからって
わざわざ3年生を経由するより、
〈個人端末〉か学校内の〈キュベレー〉を
使えば済むでしょ。」
「たしかに…そうですけど…。」
〈個人端末〉を使うことは、
イサムも後になって気づいた。
「海神宮さんはどうしてそれを早く
教えてくれなかったんですか?」
「処世術ね。
学校という小さな社会で
上級生相手に逆らっても面倒だし、
それにメリットないもの。」
イサムは言葉を失った。
マオが至極真っ当な考えであったからだ。
中学校もまともに通っていないイサムには、
役者として自分の役を演じる以外の処世術など
持ち合わせてはいなかった。
その伝言役が役目を果たさないのであれば、
理不尽にも彼女が責任を負う羽目になる。
男子生徒が呼び出される程度で、
波風を立ててもいいことはない。
「私を騙したのは気に食わないけど。
はい、これお詫び。」
マオはひとくちサイズに切った
だし巻き卵を箸で摘んでイサムに向けた。
そのイタズラな行動を受け入れられず
イサムは小さく首を横に振る。
頭痛のせいか、詫びる態度が気に入らないのか、
イサムはなにかひどく苛ついているのを感じた。
「あら、ダイエット中?」
「頭が痛いんですよ。」
「それならなおのこと、
こんなとこで寝てないで
ご飯食べてお薬飲んで医務室行けば?
連れてってあげよか?」
「イヤだ!」
マオが目を見開くほどイサムは大声を発し、
幼い子供の癇癪のように拒絶した。
「病人の癖にわがままね。
ヒトってお腹が空いてると、
怒りっぽくなるのよ。
それならこれあげる。
そのままじゃ気持ち悪いでしょ。」
水筒の中身をコップに注いで差し出した。
それはただの水だった。
口の中を洗い流す為にマオが手渡した。
受け取ったコップの水面を眺めて、
イサムは眠りこける前の事を思い出し、
深くため息を吐いてしまった。
「お悩みごとかしら?
今度は思春期ね。忙しい。」
「わかってて聞いてるでしょう。それ。」
「だって私は部外者なんだもの。」
愉快そうに首を横に振るマオに、
イサムは再びため息を吐いた。
「突然知らない人たちから
わけもわからず大量の手紙を渡されたり、
変な決め事が勝手にできていて、
それがなくなれば今度はいきなり
交際だの交友だの求められてですよ。」
「まぁ見事に青春って感じね。ふふ。
でも協定を拒んだのは八種くんでしょ。」
「笑い事じゃありませんよ。
上級生の相手なんて。」
「同級生のお友達はよくて、
上級生のは嫌なの?」
「僕だって役者ですから、元。
相手に合わせる努力はしましたよ。
それは仕事なんで。」
「理由はもう役者を辞めたから?
お仕事じゃないから?」
なだめるようなマオの質問に
イサムは一度は首肯したものの、
すぐに首を横に振り異なる回答をした。
「仮に相手に合わせたところで、
そんなの破綻するに決まってるんです。」
「デートして、セックスして、さらに子育て。
なんてことになったら大変よね。
まだ学生なのに。
育児なら〈キュベレー〉にでも託す?」
「セッ…。」
明け透けなマオの発言に恥ずかしくなり
イサムは耳を赤くした。
「それにしたって、ぼんやりした答え。」
「ぼんやり?」
「判然としない。すごく言い訳がましい。
嫌なら嫌ってさっき見たいに言えばいいのよ。
医務室行く?」
「…行きません。
そうは言いますけど…。」
「それなら私からのありがたいお言葉。」
「自分で言わないもんですよ。そういうの。」
「じゃあやめる。」
彼女の潔さに、
コップの水を飲み干して呆れるほかなかった。
荒涼も一十も無視して帰ってしまおう。
学校に来ることさえも嫌気が差し始めた。
問題は残高ぐらいだ。
気だるさで視界がまた暗くなるのを覚えた。
「亜光くんや貴桜くんとは、どうして友達なの?
同じ学校の、同じ教室で同じ性別だから?
蔑称で呼び合うのは友達じゃないんでしょ。
お土産が貰えれば、それはお友達?」
滝のように浴びせられた質問に
ギョッとさせられ顔を上げた。
そんなことを考えたこともなかった。
「付き合いが長くなければいけない?
それとも短い方が気兼ねがない?
自分の過去を知らない相手だから。
自分を演じれば、相手を御しやすい?
相手の言う通りのが自分を演じやすい?
友達というものを一度言葉で説明すべきよ。
たとえば水を分け与えた私は、
八種くんにとって…給水所?」
亜光や貴桜といったクラスメイトを、
友達とは明確に言葉で表わせないと思っていた。
しかし、卑しい言い方をしてしまえば、
彼女の言葉の通りなのかもしれない。
「交友関係なんて簡単な駆け引きよ。」
「そんなに割り切れませんって。」
「八種くんが欲しがってる
このミートボールを私があげたとする。」
「別にミートボールが欲しいわけでは…。」
問答の途中で、先程の疑問が吹き飛ぶ。
それは彼女がよく口にする言葉だった。
「それがメリット?」
「その通り。」
言うが早いかイサムの口に
ミートボールがねじ込まれた。
ケチャップソースのほのかな酸っぱさと
肉汁が口内に広がり、胃液の不快感は
さっぱりと消えてしまった。
彼女の行動原理はまずメリットがあること。
もしくは、不幸の手紙のときのような
好奇心にあるのかもしれない。
「ヒト付き合いなんて、
お互いのメリットの上で成り立つわ。
運動が得意な子、容姿、体型、
自分にないものを羨み、また妬む。
名府にはそうした願望を緩和する
〈3S〉が用意されている。
けれどお金を生み出すことや、
勉強ができる賢さ、それから名声なんかの
欲は満たされない。
それを友達や愛って言葉でぼかしてるだけ。
あと性欲とかね。」
モデル同然の容姿を得た〈ニース〉であっても、
マオの言う通り、獲られないものがある。
「性…。
もう少しぼかして言えないんですか。」
マオはイサムの言葉など無視し、
最後に残したミートボールに舌鼓を打った。
「八種くんも、もう少し
自分に正直に生きた方が楽よ。
私からのありがたい言葉。」
彼女との問答には疲労感を覚える。
水のお礼を言って立ち上がったが、
不思議と吐き気と頭痛は治まりを見せていた。
「亜光は今日部活?
八種ん家行く?」
「なんで貴桜が仕切るんだよ。
んで、体調どう?
今日移住者はテストだろ。」
イサムは黙ってうなずいた。
昼休みに寝ていたおかげで
頭痛は治まったが、
頭を悩ませる原因は取り除けていない。
3年生の荒涼潤がイサムに交際を求め、
ライオン頭の一十圭が教室にまで
出迎えに来る予定になっている。
それから亜光の言う通り、
イサムには移住者のテストが控えていた。
口を開いたが、言葉を選び悩んだ挙げ句に
なにも言えずにいたところにマオと目があった。
彼女は鞄を持って帰る様子であったが、
口元が笑っていた。
「八種くん。
テスト終わったら帰ってもいいわよ。
嘘ついて呼び出した例の3年生の件は、
私から話しておくわ。」
「は?」
「なにが?」
「3年となんかあったん?」
「ふふ。」
マオはイサムと3年生の事情を知っており、
荒涼が自分に嘘とついたことを根に持っていた。
教室を出ていくマオを、男子3人のみならず、
残っていた女子全員の視線を背中に浴びる。
イサムは口を開けて呆けたまま、
目だけで亜光と貴桜の顔を見た。
――――――――――――――――――――
荒涼のいる3年の教室は3階にある。
長身に燃えるような赤い髪が、
教室に残っていた生徒らの注目を集めた。
教壇から室内を見回して、
座席を横に座って足を組む
ひとりの生徒を指差した。
蛍光ピンク髪の〈ニース〉。荒涼潤。
その隣にはライオン頭の一十圭が立つ。
「海神宮の…。」
周囲の女子生徒らがマオの姿にささやく。
海神宮家の御令嬢。
海神宮真央を知らない人間はいない。
「荒涼さん。
私に嘘をつきましたね。」
「あんたダレよ。
先輩に向かって勝手シャベって、
まずはアンタが名乗りな。」
「1年の海神宮真央です。
昼休みに教室で
貴女がブスロブスターと罵った相手です。」
「どこにんな証拠があんだよ?」
荒涼は年下であるマオに
指をさされ、見下されたことで
侮辱を受けて苛立ちをあらわにした。
「いいから。」
前に立とうとした一十を制止させる。
無礼な同性の年下に対して荒涼は、
躾のように命令し従える。
「ライオン頭は飾りかしら?
ここでは女子のが偉いのね。」
「ひとりで乗り込んできて、
あんた頭湧いてんじゃない?」
「貴女が事実を認めないのであれば、
〈更生局〉を通じて隔離も可能です。」
「脅してるつもり? 笑わせるわぁ。
それこそあんたが〈更生局〉行きじゃない。」
「脅しではありません、警告です。
貴女と冗談を交わすメリットがありません。」
「しつこい。あんた、〈更生局〉の
〈キュベレー〉でもなったつもり?
それとも自分の思い通りになんなきゃ
気が済まないワガママちゃん?」
荒涼はマオを睨んだが、
すました顔で少し目を反らして息をつく。
「私を〈キュベレー〉と呼ぶのは、
なかなか面白い冗談ですね。」
そうは言っても笑わないマオに、
荒涼はさらに苛立って立ち上がった。
「もう冗談は済みましたか?」
「ユージくん迎え行くから、そこどいて!」
謝罪を求めていたはずのマオであったが、
荒涼から頂いたのは平手の突き飛ばしだった。
胸を力強く押されバランスを失ったところに、
荒涼が足を引っかけて床に尻もちをつかせた。
扉に後頭部をぶつけて座るマオの姿を
見下ろして、気分が高揚した荒涼は笑った。
マオは彼女の行為の愚かさに呆気に取られ、
見上げながらしばたたくのであった。
「海神宮さん?」
イサムが現れたのは丁度そのときだった。
荒涼と目があった。
口元は笑っているが、怯えて見えた。
アタシじゃない、と目で訴える。
「ユージくん。会いに来てくれたんだぁ。
ジュンが迎えに行ったのにー。」
声音を高く変えて、甘えた演技で喋ると、
イサムの手首を抑える形で両手で握る。
だがイサムは握られるすんでのところで
荒涼の手を素早く振り払った。
「は? ちょっ、なに?
あ、照れちゃってる~。」
表情がころころと変わる。
彼女は演技が未熟だとイサムは思う。
「すみません。
あの、名前、覚えてませんけど、
僕はあなたと付き合うつもりありません。」
「はぁ? ジュンとの約束もう忘れたの?
今日家まで遊びに行くって言ったじゃん。」
高い声音を維持したまま苛立ちをあらわにし、
荒涼はイサムを言い聞かせようと
今度は足先を力強く踏みつけた。
だがそれよりも早くイサムは足を躱す。
「嘘の呼び出しで僕をダマすのは、
まあ…まだいいですが、姉の格好を
マネる人の、支配欲の道具に扱われるのは
気分がよくないです。」
思っていたことを口に出してみたが、
不満を溜め込んだままの気持ち悪さがまだ残る。
「ジュンの容姿がイヤなの?
そんなの〈3S〉で変えてあげるし。
どーいうのが好みなのか教えてよ。
アタシ言ったじゃん。
付き合うってそういうことでしょ。
道具扱いじゃないし、ワケわかんないし。
いいじゃん、1回ぐらい付き合っても。
お互いの相性の確認ってやつ?
元芸能人てそんなにお高く止まってるの?」
大げさな身振り手振りでまくしたてる荒涼に、
イサムは次の言葉を失った。
相手はイサムを見ていない。
まるで幻想を追っている。
教室から集まる視線が気持ち悪い。
視界が急激に暗くなり狭まる。
この教室で求められているものは、
みんなが知っている役者の『ユージ』だった。
自分なりに荒涼を拒絶しているつもりでも、
この舞台に『イサム』は存在しなかった。
荒涼の後ろでは巨木のように一十が立つ。
イサムはそれを見上げて生唾を飲み込んだ。
それから荒涼と向き合う。
胸元で腕を組んで睨みつけている。
無関係であるはずのマオがまた押し倒されたり、
これ以上の害が及ばない為に
なにか方法がないかを考えた。
処世術というやつを。
思い浮かんだのは後ろの彼女の顔だった。
それからイサムはため息を吐いた。
「はっきり言います。
僕は、あんたとセックスなんてしたくない!」
一瞬の静寂の後、吹き出したのはマオであった。
それに続いて教室に残った女子生徒たちも笑った。
侮辱を受けた荒涼は顔を紅潮させ、
イサムの頬を平手打ちしようとした瞬間、
割って入った一十の拳が鼻を打った。
荒涼を嘲笑していた女子生徒らはサッと静まり、
中には小さく悲鳴を上げる。
イサムは鼻の中を切り、
一滴、また一滴と鼻血を床にこぼす。
淡黄色の床に落ちる赤い血を見つめた。
こぼれる鼻血にハンカチで鼻を押さえる。
怒り心頭に発して睨みつける一十だが、
イサムは殴られたことに対して臆さない。
胸のすく思いすら感じていた。
割り込まれた荒涼は驚いたまま
平手が行き場を見失っていた。
「チョーシに乗んなよ、1年。」
一十が拳を固く握りしめると緊張が走る。
彼はライオン頭の〈デザイナー〉であると同時に、
肉体を変更した〈パフォーマー〉であり
〈ハイブリッド〉と呼ばれる〈ニース〉だ。
〈NYS〉の技術で身体能力を向上させた
〈ニース〉の呼称であるが、
肉体を使った仕事に就くことが多い分、
損傷も多くあるが、皆それをいとわない。
故障や破壊や欠損さえも
〈3S〉で修復が可能となっている。
自分の発言が引き起こした報いだったが、
血に染まったことはさほど気にならなかった。
さらに血の出ていない鼻の穴を抑え、
吸い込んだ鼻血を吹き出した。
胸のつかえが下りて気分がよい。
興奮状態なのかもしれない。
鼻血が香水と獣臭さを抑えてくれる。
目の前に立つライオン頭を見上げる。
丁度、亜光と貴桜を足したような大きさだった。
「先輩だって…
ちょっと早く生まれただけでしょう。」
一十が荒涼を押しのけると、
再び右の拳がイサムの眼前へと迫った。
拳が頬に触れる瞬間にイサムは
半歩外側に避けて制服の肘を掴むと
勢いのまま前方へと引っ張った。
攻撃対象のイサムを失った一十の拳は、
上体ごと床に倒れる事態を回避すべく
とっさに右足を前に出した。
見抜いてイサムは一十の足を引っかけた。
獣がうめき声を上げて床に倒れたところを、
イサムは飛び乗って背中にまたがる。
左腕を左足で押え
右脇から右腕を潜り込ませると、
イサムは両腕で一十の首を締め付けた。
一十はその拘束から抜け出すべく
足や膝でもがき、締め付けられる
右腕でイサムの顔を力なく殴った。
拳が当たった先はまた鼻で、
今度は反対の鼻腔から血が湧き出す。
「ちょっ、なにしてんのチビ!
ケイから離れなって!」
うつ伏せに倒された一十に加担して、
荒涼がイサムの背中を平手で叩いたものの、
リズムよく乾いた音が教室に響いたに過ぎない。
イサムはこれ以上顔を殴られないために、
一十のライオン頭のタテガミに顔を埋める。
息を吸い上げようにも、
鼻血が喉に貯まり咳き込む。
今度はタテガミから発せられた獣臭に当てられ、
鼻水と唾液混じりの血を吐き出した。
暴れる一十を抑えるために
イサムは自らの両手を握り、
前腕で相手の喉をさらに強く押さえた。
一十からの抵抗がなくなるとやがて、
張り詰めている肩の筋肉が緩むのが腕に伝わる。
イサムは一十を床に眠らせ、
立ち上がってまともな空気を吸った。
鼻から顎まで顔は血まみれになっていた。
寝転がった一十のタテガミの一部が、
見事なまでに赤く染まっている。
荒涼はなおも背中を叩き続けたが、
鼻血を吹き出すイサムの赤い顔に
小さく首を横に振ってその手を止めた。
マオはイサムの肩に手をやると、
後ろに押しのけて荒涼の前に立つ。
「それで荒涼さん。
ブスロブスターってあだ名、
訂正してもらえますか?」
「それ、気にしてたんだ…。」
思わず鼻で笑うと、
固まった鼻血の塊がすっぽ抜けた。
――――――――――――――――――――
透明な水は朱に染まると、
排水口へと吸い込まれていく。
イサムが手洗い場で血に汚れた顔を洗い、
鉄の味が残った口をうがいした。
女子生徒らの通報によって、
警備の〈キュベレー〉が駆けつけたときには
既に一十は床に倒れて気を失い、
荒涼がマオに謝罪をしていた。
その〈キュベレー〉により、
一十と荒涼は〈更生局〉に連れられていった。
また今回の事件に関わった人物の中に、
海神宮家の御令嬢がいたこともあり
混乱も速やかに収束した。
亜光いわく、海神宮家は
〈3S〉や〈個人端末〉といった
名府の社会システムを統括している。
今回の事件はマオは被害者という立場であり、
責任が問われはしない。
しかし自己と他者の為の正当防衛とはいえ
相手の首を絞めて気絶させたイサムには、
校則により1週間の謹慎処分が下された。
乾いた血を伸びた爪で剥がして洗い流し、
ハンカチで拭うとマオが近くに立っていた。
「テストは?」
「名前だけは書きましたよ。」
「追試確定ね。
…八種くんは変ね。」
「変?
それなら海神宮さんのが。」
「私のどこが変なの。」
「変ですよ。
ロブスターって言われたから、
3年生にケンカ売ったんですか?」
「ロブスターじゃないわよ。
ブスロブスターよ。」
「はぁ。」
「つまらない嘘を放っておく気に
なれなかっただけよ。あと恐喝も。
〈更生局〉が動く前にね。」
「結果は散々な感じになっちゃいましたが。」
「これも老婆心ってやつかしら。」
「好奇心の間違いじゃないんですか。
どんな会話をして怒らせたんですか?」
「怒らせた? ヒト聞きが悪い。
彼女は冗談がそんなに上手じゃないみたい。」
「海神宮さんが言いますか。それ。」
マオに言われてイサムは荒涼に少し同情した。
「八種くんこそ。
〈レガシー〉なのに、変よ。」
マオがそう繰り返した。
彼女の言う〈レガシー〉は、
〈ニース〉によって容姿や肉体を
変更していない人や、
変更できない15歳以下の人をさす。
つまりただの〈NYS〉のままの人間だ。
人類が残した遺産である、と
仰々しく名付けられた〈レガシー〉だが、
この名府においては懐古趣味とみなされ
〈レトロ〉とあだ名される場合もあった。
転府ではイサムや姉のハルカなど
生まれつき整った顔立ちは天然物とも評され、
今は『聖礼ブーム』と呼ばれる流行によって
名府の〈ニース〉にコピーされている。
「その、どこが変なんですか?
〈レガシー〉は、普通じゃないですか。」
「あぁ、価値観の問題じゃないの。
殴られて見事に避けたじゃない。」
「殴りかかってくる相手なら
そりゃ避けますって。」
好き好んで殴られる趣味はなく、
それに1発目は当たりだった。
「運動神経よかったのね。」
「まぐれ…ですよ。
すごい大振りだったじゃないですか。
僕はそんなに機敏でもないし。」
カフェで襲われそうになって
椅子ごと倒れたのを思い出したが、
それを口にするのは控えた。
マオの表情はなおも疑い深いままだった。
質問はまだ続く。
「じゃ、今朝のボールは?」
「ボール…。」
公園で亜光が投げたボールがすっぽ抜けて、
取ったときにはマオの胸に収まった。
思い出してイサムの顔が急に熱を帯びる。
「やっぱり八種くんは、変なのよ。」
マオがひとりで納得してうなずいた。
彼女は僕を変だと言った。
人類が〈キュベレー〉をつくるより遥か昔。
〈人類崩壊〉以前に百獣の王とも
呼ばれた動物がライオンだという。
食肉目の大型野生動物であり、
日がな一日ごろごろと寝ているので
動物園ではとても観察しやすい。
オスとメスではタテガミの有無が
判別の材料になり、老若男女誰にでも
わかりやすい優秀な商品だった。
本来ライオンという動物は乾いた草原に棲む。
十数頭のメスが集団で狩りをして
ときに子育てをし、数頭のオスは
メスを他所のオスから守る。
厳しい野生環境では、
自らの遺伝子を残すために群れを形成する。
いまでは雌雄2頭が
コンクリートで作られた土地と、
水堀と鉄柵で囲んだ檻に展示してある。
私はこの転府、聖礼市に
広大な『檻』を創生して財を成した。
檻の中にいる復元した機械動物を見ようと、
毎年何千万の人が訪れた。
映像でしか見られなかった動物が、
機械動物として復元されて喜んだ。
海洋生物を復元し、水族館も建てた。
娯楽に飽くなき人は、こぞって群れをなした。
音楽や演芸など個人や集団で
生み出せるこれらの娯楽に比べ、
檻の世界は人々を魅了するものだった。
人は〈人類崩壊〉以前の世界に関心が高い。
〈NYS〉になり、転府で暮らす人々には
潜在的に、望郷の念があるのではなかろうか。
ただそれはあくまで私の想像に過ぎない。
過去に恐竜を復元したこともあったが、
男性以外からの評判はすこぶる悪かった。
曰く幻想の度が過ぎるのだと。
生身の映像が保管されているわけでもない。
湖に浮かぶ首長竜など冗談染みた映像の典型だ。
卵生で哺乳類のカモノハシに比べれば、
私にはまだ理解可能な範疇であるとも思う。
恐竜は商品サイズに比例して
施設も大きくなりがちなので、
結局短期間で閉園した。
水族館では恐竜時代よりも、
遥か昔に繁栄した巨大エビなども
復元を試して併設展示したが、案の定
誰からも見向きもされない代物になった。
それでも大勢の人が私の前に列をなし、
貴重な機械動物を自分のものにしたいと考えた。
並ぶ人の数が多ければ多いほど、
購入価格で競い、商品の値段は釣り上がっていく。
生命に対する支配欲、希少性に対する独占欲が、
人を動かす原動力になるのだと理解した。
とても不思議な光景だった。
鏡の前の醜い動物の輪郭を思い出し、
笑いがこみ上げた。
同時に私の中に強烈な退屈を生み出した。
人生道半ばで満足することに
強い不快感を覚える。
群れの中の動物を見て、
満足する私もまた
〈NYS〉でできた動物だ。
不快感の正体は同族嫌悪。
人という動物の集団が文化を生み、
社会を作り、文明を築いた。
他の生物と共に滅びゆく運命の中で、
どういうわけか環境耐性となる
〈NYS〉を編み出した。
新青年構想。
〈NYS〉は生命の自然な変化ではない。
もちろん、趣味や偶然の産物でもない。
全て〈ALM〉が作り出したものだ。
趣味に生きるいまの人には
到底編み出すことはできない。
その原動力はなにか。
檻の中の、ライオンを眺めて考えていた。
オスとメスの性差か。
生存率を高める為に野生では群れをなす。
異性に対する魅力、
たくさんの子を生み育てる肉体。
ライオンは狩猟を行う。
かつては人も同じであったという。
肉体、能力の差…。
餌を獲得しやすければ、
雌雄に関係なく魅力はある。
資産による格差…は動物にはない。
クマやリスのような冬ごもりであっても、
食料の貯蔵には限度がある。
土地・家屋・金銭は人が持つものだ。
人が持つもの…。
暴力と支配…。
絶滅に対する恐怖か…。
叔父との記憶が蘇り、深くため息をつく。
50歳を過ぎて独身の私に相利共生や愛など、
綺麗な言葉が思い浮かぶはずもなかった。
群れを成すライオン。百獣の王。
その群れを破壊するのもまた同族のライオンだ。
メスを守るべきオスが
他所からきたオスに負けてしまうと、
育てていた子供は噛み殺されてしまう。
これはメスの発情を促すための行為とされる。
他所からきたオスが群れの頂点に立ち、
自分の遺伝子を残す。
人が他人の家族の子供を殺めれば、
ただちに〈更生局〉に連行される。
当然の帰結だ。
詐欺・窃盗・殺人などが起きれば
〈更生局〉が対象の人を隔離する。
他者を欺き、陥れてはいけない。
落とし穴を作ってはいけない。
破ったものは〈更生局〉によって
社会から隔離されるのが世の理。
それが社会のルールだ。
同じ動物であっても、人とライオン。
自然との違いはここにある。
文化、社会、文明には必ずルールが存在する。
それは人が生み出した知恵であり法だ。
しかし法にも限度がある。
環境耐性だ。
自然が生命に死を与える。
自然の変化で生物が死に至る状況であれば、
〈更生局〉の出番はない。
過去の人類は〈NYS〉を編み出す
必然に迫られた。
だが〈NYS〉を編み出したのは自然ではない。
同じく人が編み出したものだ。
群れの古きオスが死に、新たなオスが
自らの遺伝子を残す為に生み出した
新たな法だ。
〈NYS〉、〈更生局〉、〈キュベレー〉…。
転府に生きる全ての人の法が、
なにによって築かれてきたか。
想像するだけで笑いがこみ上げてくる。
その想像が私の退屈を埋めてくれる。
さぁ、〈ALM〉でできた『檻』を抜け出そう。