大広間の中央の柱はエレベータになっていた。
「最初からこれ使えばよかったんじゃ…?」
「これは外からは使えないのよ。
搬入のときだけは地上から使えるっぽいけど、
元は外の客を寄せ付けない場所だしね。ここ。
でもこうして出るのは簡単。」
ハルカの言う通りエレベータを出ると
扉が2重になっており、侵入する
部外者を拒む仕組みであった。
地下の通路でも他の人と出くわさないのは、
中心にエレベータがある一方通行に近い
構造だったからだ。
「ハルカさんはこれからどうするんですか?」
帰るのか、イサムの部屋に泊まるのか
尋ねたに過ぎなかった。
「なに言ってんの。
これからこれに乗るわよ。」
ハルカが真上に指差した乗り物。
観覧車。
全長約100mもの構造物が真上に伸びて、
イサムは口を開けて呆けた。
地上で〈個人端末〉を開けば
真下から観覧車の全容が閲覧できる。
名桜市のランドマークにもなっており、
街が見渡せる乗り物として景観が楽しめ
カップルに人気。一周15分程度。
「えぇ? これに? カップルって。」
「イサム、乗らないの?」
「ふたりで行ってきてください。
僕はもう疲れましたよ。」
「恥ずかしがっちゃってー。
じゃああることないこと
マオちゃんに話しちゃうわよ。」
「ないこと言われるのは困ります。」
ハルカの脅しにためらったが、結局観覧車に乗らず
ベンチに腰かけてイサムはふたりを見送った。
――――――――――――――――――――
ゴンドラが地上を離れると、
縦に長い芝の敷かれた公園が眼下に広がる。
「昨日、ようやく両親がね、
イサムが成人するまでの生活費を
支払う気になったの。」
開口一番、ハルカは愚痴る。
「これまではハルカさんが?」
「そうよ。だから無駄遣いさせないよう、
必要なものはなるべくこっちでそろえてたの。
爪切りの次は服が欲しいとか言い出して。
もー! こっちの身にもなれーって!」
「ふふ。それは大変でしたね。」
「それで一段落付いたから、
今日やっと会いに来たら
イヤな顔してなかった?」
「恥ずかしいんでしょう。
お友達の前でしたから。」
「ねぇマオちゃん。
イサムと結婚する気はない?」
「唐突ですね。」
「そうよ。そのために
マオちゃんを誘ったんだもの。」
「メリットがわかりませんが、
なぜそんな提案を?」
「ははは。残念。」
演技じみた笑いを見せる。
「イサムは引きこもりだったのよ。」
「引きこもり。家から出ない、あの。」
「そう、その。
中学のときに事件に巻き込まれてね。
それとイサムの両親が離婚して、
それでわたしが預かることにしたの。」
マオはその話をうなずいて聞いた。
この公園まで移動する車内で、
ふたりがどのような関係だったのかを話していた。
保護者と被保護者。
非血縁者。血の繋がらないきょうだい。
一般的には家族とは呼びにくい間柄。
「いまの高校に入れるまで大変だったのよ。
勉強もそうだけど…。」
ハルカが言葉を濁らせた。
「事件、ですか?」
イサムの両親が別れる前のことを、
ハルカは詳細に話しはしなかった。
「事件。
ユージが『YNG』から突然いなくなったのも、
…イサムが引きこもったのもそのせい。
あのときはもう、引退するしかなかった。」
顔の前に両手の指を絡めてうつむく。
口に出すのをためらい声が震えた。
「ユージは強姦を受けたの。」
ビルの谷間を抜けたゴンドラは、
目がくらむほどの西日を浴びる。
「体調を崩して医務室で休んでたところ、
共謀したクラスの女子達に。」
駐車場で倒れていたイサムが、
医務室で休むことを強く拒んだ理由がこれだった。
イサムは今も医務室に過度の恐怖心を抱えている。
「初めてちゃんと会ったときのユージは、
ひどいものだったわ。」
ハルカがまぶたを閉じて思い出すのは
暗い部屋で、ヘッドホンをしたまま
ふさぎ込む小さな男の子だった。
誰を見ても怯え、物音に敏感になり、
触れられれば泣き、叫び、うずくまる。
ハルカの知る『ユージ』とは全く別人だった。
その背中が不憫でならなかった。
「人とは思えない…。」
ハルカは言葉が続かなかった。
嗚咽を堪えて涙を拭う。
「それじゃ生きていけないもの。
無理やり引っ張り出して、
ユージとしてじゃなく、
イサムとしての生き方をしなくちゃ。
ちゃんと教えられたかはわからない。
いまは道半ばってところかしら。」
ハルカの言葉の先に、目線の先にマオがいる。
「それで私を伴侶に?」
「そう。マオちゃんなら、
イサムをどん底から引っ張り上げる力が
あるんじゃないかなって、
勝手に淡い期待を抱いてるだけかもね。」
ハルカが照れ笑いをした。
「なんならわたしでもいいんだけどね。
上手いこと血も繋がってないし。へへ。」
窓に夕日が強く差し込み、
ハルカの顔を赤く染めた。
ゴンドラが頂点に達する。
マオは少し考え言葉を選ぶ。
「八種くんには私と同じ道を
辿って欲しくはないと思っています。」
「マオちゃんと…?」
「えぇ。たぶんこれは、
相互利益に関係なく。
…よき隣人として、ですかね。」
「…わかったわ。
イサムは振られたわけじゃないのね。」
「そこは冗談と受け取った方がいいですか。」
「真面目な話よね?
やめときましょう。」
「なので彼の助けになる為に、
ハルカさんに知恵を拝借したいんです。」
「わたしの? イサムの苦手な食べ物とか?」
「はい。そういうのじゃないです。事件以前の、
八種くんの過去を他になにかご存知ですか?」
「私がイサムに会ったのは1年半前。
それ以前は私も知らない。
けれども家族も知らないのよ。
あの子は〈キュベレー〉に育てられた。
家族は全員あの子に関心がなかった。
転府じゃ割とよくあるそうよ。」
育児・教育用〈キュベレー〉が、
イサムの育ての親と呼べる存在だった。
「あ、でもひとり。
わたしがイサムの知り合いを探してたときに、
彼のむかし通っていた劇団で
同じ中学だった子がいたわ。」
「そのヒトは?」
「女の子で名前はたしか…。」
マオはゲルダの言葉を思い出した。
「たぶん好きな人がいて…。」
遠くの山に陽が沈む。
――――――――――――――――――――
イサムは観覧車の足元でベンチに腰かけ、
脱力してふたりの戻りを待っていた。
観覧車に乗るカップルたちは、
今頃夕焼けに染まる街を見るのだろうか。
姉になにか、今日のお礼をしないといけないな。
などと考えていたがよい案は思い浮かばない。
物を贈ろうものなら倍で返すようなお人好しで、
物を贈るにも先立つものを持ち合わせていない。
せめて真っ当に生活して、卒業し、成人するのが
一般的に恩返しと呼べるのかとも考えた。
だが、今日のように『非合法地帯』に誘い、
道を踏み外せなどと『教師』らしいことを
言われると、なにが正解かわからなくなる。
身近な番犬のように髪の毛を金に染めて
逆立てるのが『不良の正解』とも思えず、
頼もしいクラスメイトのマネをして
姉弟愛を語ることが『教師』らしいわけでもない。
『ユージ』を演じてきたこれまでと、
『イサム』として姉に生かされてきた今まで。
ハルカが『イサム』になにを望んでいるのか。
なにが正しく、なにが誤ちなのかわからない。
役者として仮初めの生き方をしてきた
イサムにとって、それは難儀な話だ。
姉たちの乗る観覧車を見上げて途方に暮れ、
深くため息をついたときに不気味な人物が現れた。
「私のことでもお考えですかぁ?
くふふ…。」
「ぅぁ。」
イサムがこれまで一度も
出したことのない変な声が出た。
目の前に立っていたのは、
クラスメイトの夜来ザクロであった。
目が隠れるほど真っ黒な髪を切りそろえて、
真っ白な顔にソフトクリームを手にしていた。
口元になにか付いていると思ったが、
上顎の犬歯が奇妙なほどに長い。
制服姿のザクロは、赤い裏地の黒色のマントを
自らの手でなびかせて見せる。
長く尖ったマントの襟を立て、
首から肩を覆い、足元にまで伸びている。
「え? 夜来さん?
どうしたんですか、その格好は。」
「今日の私は吸血鬼。
吸血鬼っていうのは吸血性コウモリを
モチーフにした〈人類崩壊〉以前の変質者。
このマントは下駄箱に保管してるの。
ソフトクリーム食べる? あが。」
口に手を当て、上顎の犬歯を取り外した。
それは付け八重歯と呼ばれる装飾だった。
「結構です。
変質者の格好して出歩かないでください。」
「美味しいですよ。ドリアン味。」
風と共に甘ったるい臭いと
腐敗臭が漂い顔をしかめる。
彼女との会話は玄関以来だが、
上の階のストーカーが連行された後は…。
「〈更生局〉に行ったんじゃ…。」
「だってアレ、えん罪だもの。
今日も教室にいたでしょ?
私と一緒のクラスじゃない。」
「…そうでしたね?」
「私くらい特別な存在になると、
檻を抜け出すことだってさいさいですわ。」
「さいさい…?」
「そしてこのタイミング。
これぞ、逢い引き。」
言うやいなやイサムの隣に素早く堂々と座る。
「いや、なにを…まさか本当にストーカー…。」
「ではないわね。する必要もない。」
予想に反し、すぐに淡白な返答がかえってきた。
「ここは私の庭みたいなものだからね。
どこに誰がいるかなんて全て丸わかり。
くふふ。」
いつもの不気味な笑いを浮かべる。
「イサムくんは将来、なんになるのかしら。
私と一緒に未来を語ってみない?」
「え? 将来?」
姉のことを考えていたときに、ザクロと
近いことを考えていたのでギョッとさせられた。
「えぇ。八種くんの。
いずれ復調して芸能活動を復帰?
『SPYNG』が解散するからそれはない?
誰かと結婚して、家庭を築き、子を作る?
16歳になったら〈3S〉で別の誰かになる?
たしかにそれも悪くはないわね。」
ザクロが早口に尋ねた内容は
以前、マオとも同じ話をしたことがある。
どれも自分の中では現実味を帯びない質問に、
イサムは黙って首を横に振る。
「でもまだ決まってないんでしょう。
くふふ。わかるわよ、そのくらい。
思春期だものね。」
ソフトクリームを舌ですくって口に入れる。
「ひょっとして、からかいたいだけですか?」
「別にこれは八種くんに限ったことじゃない。
全てのヒトたちに言えること。
誰だって、いつまで経っても
きっと同じ考えをする。
有限の肉体の中で。
そしてこう考える。」
手の中のソフトクリームを
くるくると回して螺旋を描く。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
溶けた金色の液体が、
コーンからあふれて手を滑り落ちる。
「いつか選択しなくちゃいけない。
それでも疑問と不安に苛まれながら、
いつまでも逡巡を繰り返す。
その選択が正しかったか、過ちだったか。」
手にしていたソフトクリームは
いつの間にか消え、彼女は両手の指を
互い違いに組み合わせて胸元に当てる。
「そして、死んだときに気づくの。
あぁ、これでよかったのか。ってね。」
腕を大きく開いて、手を2度叩く。
夕方だった空には帳が降りて、
照明が観覧車を黄色い光で照らす。
疲れていたのか目をしばたたかせ、
イサムは目の前のザクロを見上げた。
しかし彼女は黙って去っていった。
見送る後ろ姿がマントと共に夜闇に溶けた。
「いつか選択しなくちゃいけない。」
ザクロの残した言葉が頭の中で繰り返される。
しかし彼は、愚かな選択をした。
「最初からこれ使えばよかったんじゃ…?」
「これは外からは使えないのよ。
搬入のときだけは地上から使えるっぽいけど、
元は外の客を寄せ付けない場所だしね。ここ。
でもこうして出るのは簡単。」
ハルカの言う通りエレベータを出ると
扉が2重になっており、侵入する
部外者を拒む仕組みであった。
地下の通路でも他の人と出くわさないのは、
中心にエレベータがある一方通行に近い
構造だったからだ。
「ハルカさんはこれからどうするんですか?」
帰るのか、イサムの部屋に泊まるのか
尋ねたに過ぎなかった。
「なに言ってんの。
これからこれに乗るわよ。」
ハルカが真上に指差した乗り物。
観覧車。
全長約100mもの構造物が真上に伸びて、
イサムは口を開けて呆けた。
地上で〈個人端末〉を開けば
真下から観覧車の全容が閲覧できる。
名桜市のランドマークにもなっており、
街が見渡せる乗り物として景観が楽しめ
カップルに人気。一周15分程度。
「えぇ? これに? カップルって。」
「イサム、乗らないの?」
「ふたりで行ってきてください。
僕はもう疲れましたよ。」
「恥ずかしがっちゃってー。
じゃああることないこと
マオちゃんに話しちゃうわよ。」
「ないこと言われるのは困ります。」
ハルカの脅しにためらったが、結局観覧車に乗らず
ベンチに腰かけてイサムはふたりを見送った。
――――――――――――――――――――
ゴンドラが地上を離れると、
縦に長い芝の敷かれた公園が眼下に広がる。
「昨日、ようやく両親がね、
イサムが成人するまでの生活費を
支払う気になったの。」
開口一番、ハルカは愚痴る。
「これまではハルカさんが?」
「そうよ。だから無駄遣いさせないよう、
必要なものはなるべくこっちでそろえてたの。
爪切りの次は服が欲しいとか言い出して。
もー! こっちの身にもなれーって!」
「ふふ。それは大変でしたね。」
「それで一段落付いたから、
今日やっと会いに来たら
イヤな顔してなかった?」
「恥ずかしいんでしょう。
お友達の前でしたから。」
「ねぇマオちゃん。
イサムと結婚する気はない?」
「唐突ですね。」
「そうよ。そのために
マオちゃんを誘ったんだもの。」
「メリットがわかりませんが、
なぜそんな提案を?」
「ははは。残念。」
演技じみた笑いを見せる。
「イサムは引きこもりだったのよ。」
「引きこもり。家から出ない、あの。」
「そう、その。
中学のときに事件に巻き込まれてね。
それとイサムの両親が離婚して、
それでわたしが預かることにしたの。」
マオはその話をうなずいて聞いた。
この公園まで移動する車内で、
ふたりがどのような関係だったのかを話していた。
保護者と被保護者。
非血縁者。血の繋がらないきょうだい。
一般的には家族とは呼びにくい間柄。
「いまの高校に入れるまで大変だったのよ。
勉強もそうだけど…。」
ハルカが言葉を濁らせた。
「事件、ですか?」
イサムの両親が別れる前のことを、
ハルカは詳細に話しはしなかった。
「事件。
ユージが『YNG』から突然いなくなったのも、
…イサムが引きこもったのもそのせい。
あのときはもう、引退するしかなかった。」
顔の前に両手の指を絡めてうつむく。
口に出すのをためらい声が震えた。
「ユージは強姦を受けたの。」
ビルの谷間を抜けたゴンドラは、
目がくらむほどの西日を浴びる。
「体調を崩して医務室で休んでたところ、
共謀したクラスの女子達に。」
駐車場で倒れていたイサムが、
医務室で休むことを強く拒んだ理由がこれだった。
イサムは今も医務室に過度の恐怖心を抱えている。
「初めてちゃんと会ったときのユージは、
ひどいものだったわ。」
ハルカがまぶたを閉じて思い出すのは
暗い部屋で、ヘッドホンをしたまま
ふさぎ込む小さな男の子だった。
誰を見ても怯え、物音に敏感になり、
触れられれば泣き、叫び、うずくまる。
ハルカの知る『ユージ』とは全く別人だった。
その背中が不憫でならなかった。
「人とは思えない…。」
ハルカは言葉が続かなかった。
嗚咽を堪えて涙を拭う。
「それじゃ生きていけないもの。
無理やり引っ張り出して、
ユージとしてじゃなく、
イサムとしての生き方をしなくちゃ。
ちゃんと教えられたかはわからない。
いまは道半ばってところかしら。」
ハルカの言葉の先に、目線の先にマオがいる。
「それで私を伴侶に?」
「そう。マオちゃんなら、
イサムをどん底から引っ張り上げる力が
あるんじゃないかなって、
勝手に淡い期待を抱いてるだけかもね。」
ハルカが照れ笑いをした。
「なんならわたしでもいいんだけどね。
上手いこと血も繋がってないし。へへ。」
窓に夕日が強く差し込み、
ハルカの顔を赤く染めた。
ゴンドラが頂点に達する。
マオは少し考え言葉を選ぶ。
「八種くんには私と同じ道を
辿って欲しくはないと思っています。」
「マオちゃんと…?」
「えぇ。たぶんこれは、
相互利益に関係なく。
…よき隣人として、ですかね。」
「…わかったわ。
イサムは振られたわけじゃないのね。」
「そこは冗談と受け取った方がいいですか。」
「真面目な話よね?
やめときましょう。」
「なので彼の助けになる為に、
ハルカさんに知恵を拝借したいんです。」
「わたしの? イサムの苦手な食べ物とか?」
「はい。そういうのじゃないです。事件以前の、
八種くんの過去を他になにかご存知ですか?」
「私がイサムに会ったのは1年半前。
それ以前は私も知らない。
けれども家族も知らないのよ。
あの子は〈キュベレー〉に育てられた。
家族は全員あの子に関心がなかった。
転府じゃ割とよくあるそうよ。」
育児・教育用〈キュベレー〉が、
イサムの育ての親と呼べる存在だった。
「あ、でもひとり。
わたしがイサムの知り合いを探してたときに、
彼のむかし通っていた劇団で
同じ中学だった子がいたわ。」
「そのヒトは?」
「女の子で名前はたしか…。」
マオはゲルダの言葉を思い出した。
「たぶん好きな人がいて…。」
遠くの山に陽が沈む。
――――――――――――――――――――
イサムは観覧車の足元でベンチに腰かけ、
脱力してふたりの戻りを待っていた。
観覧車に乗るカップルたちは、
今頃夕焼けに染まる街を見るのだろうか。
姉になにか、今日のお礼をしないといけないな。
などと考えていたがよい案は思い浮かばない。
物を贈ろうものなら倍で返すようなお人好しで、
物を贈るにも先立つものを持ち合わせていない。
せめて真っ当に生活して、卒業し、成人するのが
一般的に恩返しと呼べるのかとも考えた。
だが、今日のように『非合法地帯』に誘い、
道を踏み外せなどと『教師』らしいことを
言われると、なにが正解かわからなくなる。
身近な番犬のように髪の毛を金に染めて
逆立てるのが『不良の正解』とも思えず、
頼もしいクラスメイトのマネをして
姉弟愛を語ることが『教師』らしいわけでもない。
『ユージ』を演じてきたこれまでと、
『イサム』として姉に生かされてきた今まで。
ハルカが『イサム』になにを望んでいるのか。
なにが正しく、なにが誤ちなのかわからない。
役者として仮初めの生き方をしてきた
イサムにとって、それは難儀な話だ。
姉たちの乗る観覧車を見上げて途方に暮れ、
深くため息をついたときに不気味な人物が現れた。
「私のことでもお考えですかぁ?
くふふ…。」
「ぅぁ。」
イサムがこれまで一度も
出したことのない変な声が出た。
目の前に立っていたのは、
クラスメイトの夜来ザクロであった。
目が隠れるほど真っ黒な髪を切りそろえて、
真っ白な顔にソフトクリームを手にしていた。
口元になにか付いていると思ったが、
上顎の犬歯が奇妙なほどに長い。
制服姿のザクロは、赤い裏地の黒色のマントを
自らの手でなびかせて見せる。
長く尖ったマントの襟を立て、
首から肩を覆い、足元にまで伸びている。
「え? 夜来さん?
どうしたんですか、その格好は。」
「今日の私は吸血鬼。
吸血鬼っていうのは吸血性コウモリを
モチーフにした〈人類崩壊〉以前の変質者。
このマントは下駄箱に保管してるの。
ソフトクリーム食べる? あが。」
口に手を当て、上顎の犬歯を取り外した。
それは付け八重歯と呼ばれる装飾だった。
「結構です。
変質者の格好して出歩かないでください。」
「美味しいですよ。ドリアン味。」
風と共に甘ったるい臭いと
腐敗臭が漂い顔をしかめる。
彼女との会話は玄関以来だが、
上の階のストーカーが連行された後は…。
「〈更生局〉に行ったんじゃ…。」
「だってアレ、えん罪だもの。
今日も教室にいたでしょ?
私と一緒のクラスじゃない。」
「…そうでしたね?」
「私くらい特別な存在になると、
檻を抜け出すことだってさいさいですわ。」
「さいさい…?」
「そしてこのタイミング。
これぞ、逢い引き。」
言うやいなやイサムの隣に素早く堂々と座る。
「いや、なにを…まさか本当にストーカー…。」
「ではないわね。する必要もない。」
予想に反し、すぐに淡白な返答がかえってきた。
「ここは私の庭みたいなものだからね。
どこに誰がいるかなんて全て丸わかり。
くふふ。」
いつもの不気味な笑いを浮かべる。
「イサムくんは将来、なんになるのかしら。
私と一緒に未来を語ってみない?」
「え? 将来?」
姉のことを考えていたときに、ザクロと
近いことを考えていたのでギョッとさせられた。
「えぇ。八種くんの。
いずれ復調して芸能活動を復帰?
『SPYNG』が解散するからそれはない?
誰かと結婚して、家庭を築き、子を作る?
16歳になったら〈3S〉で別の誰かになる?
たしかにそれも悪くはないわね。」
ザクロが早口に尋ねた内容は
以前、マオとも同じ話をしたことがある。
どれも自分の中では現実味を帯びない質問に、
イサムは黙って首を横に振る。
「でもまだ決まってないんでしょう。
くふふ。わかるわよ、そのくらい。
思春期だものね。」
ソフトクリームを舌ですくって口に入れる。
「ひょっとして、からかいたいだけですか?」
「別にこれは八種くんに限ったことじゃない。
全てのヒトたちに言えること。
誰だって、いつまで経っても
きっと同じ考えをする。
有限の肉体の中で。
そしてこう考える。」
手の中のソフトクリームを
くるくると回して螺旋を描く。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
溶けた金色の液体が、
コーンからあふれて手を滑り落ちる。
「いつか選択しなくちゃいけない。
それでも疑問と不安に苛まれながら、
いつまでも逡巡を繰り返す。
その選択が正しかったか、過ちだったか。」
手にしていたソフトクリームは
いつの間にか消え、彼女は両手の指を
互い違いに組み合わせて胸元に当てる。
「そして、死んだときに気づくの。
あぁ、これでよかったのか。ってね。」
腕を大きく開いて、手を2度叩く。
夕方だった空には帳が降りて、
照明が観覧車を黄色い光で照らす。
疲れていたのか目をしばたたかせ、
イサムは目の前のザクロを見上げた。
しかし彼女は黙って去っていった。
見送る後ろ姿がマントと共に夜闇に溶けた。
「いつか選択しなくちゃいけない。」
ザクロの残した言葉が頭の中で繰り返される。
しかし彼は、愚かな選択をした。