「お義兄さん離婚するって。」
「あぁ、そうなんですか。」
「淡白ねぇ。
わたしの父親といい、
イサムのお母さんといい。
ウチの家系ってどうしてそうかね。」
姉の強引な行動によって、イサムは
亜光と貴桜とそのまま校門で別れた。
そしてマオの送迎用の車に
(今回はハルカに)押し込まれ、
ハルカが指定した場所へと向かっている。
イサムに選択権は与えられなかった。
「家系というのは?」
「教えてないの?」
座席の真ん中に座るハルカが、面倒な説明を
イサムに押し付けるかのように詰め寄った。
実際に説明は難しく、イサムは頭をひねった。
「えーっと、ハルカさんは…
アレってなんて言うんですか?
隠し子?」
「私生児ね。
イサムの父親が不倫してたのを隠してて、
そんでわたしを娘だと認めてないの。」
「ということです。」
「省略しない。」
「えぇ…。僕は僕で、
母親の不倫で産まれたんで、実のところ
ハルカさんとは血が繋がってないんです。」
「そうなんだ。似てないと思った。
髪型はそっくりですけど。」
「興味なかった?
動物園でイサムはどうだった?
ちゃんとエスコートした?」
「デートじゃありませんよ。」
「吐いてました。」
「あっ。」
「やったのかー。」
ばつの悪そうにするイサムに、
こんなとき、ハルカは責めようとはしない。
彼女はマオと向き合うと深々と頭を下げた。
「色々とご迷惑をおかけしております。」
「いえ、お気になさらず。2度目ですし。」
「そうなの?」
「え? あー…。そういえば。」
動物園よりも以前に、
駐車場で吐いて倒れていた場面を見られていた。
その後にも謹慎に至った事件もあるので、
多大に迷惑をかけたと自覚はしている。
「複雑な事情をお抱えしていることは察します。
おふたりは非血縁者なんでしょうけれど、
ハルカさんはどうして八種…イサムくんを?」
姉が顔をうかがうが、
イサムはうなずくだけで黙った。
説明を求められたところで、
実のところ詳しくはなかったせいもある。
「さっきも言った通り、ちょっと変でね。
イサムも知らないでしょうから教えるか。
お義兄さんが産まれていまは26歳かな。
あ、違う。孕んだから結婚したらしい。」
「そうなんだ。また下世話な話ですね。」
父親は俳優、母親は舞台女優の結婚だった。
「最初から無計画なんだよ。あの人たち。
6年後に、父親の不貞でわたしが産まれて、
その5年後、今度はイサムの母親が不貞。」
「あのダンサーだ。」
「そう。『YNG』の振付師ね。
頭が緩いのか、股が緩いのか、両方か。」
ハルカは大きくうなずき、呆れながら半笑いする。
「おふたりはずっと前からお知り合い?
イサムくんの保護者となったと
話には聞きましたが。」
「それは一昨年くらい?」
「だね。
でもわたしはもっと前から知ってたわよ。
『毎日ハム食むー。』で名府の事務所に
入ったもの。」
イサムが昔出演した広告動画を
ハルカが見事にマネした。
「似てますね。」
「やめてください。」
「でしょ? でしょー。
イサムは3歳のときからデビューで
この業界わたしより9年も先輩なのよね。」
初めて見る姉のやった自分のモノマネに、
イサムは顔を覆って羞恥に耐えるしかなかった。
できれば見た記憶さえ消してしまいたかった。
「わたしが18のときにイサムの…じゃなかった
わたしの父親に確認したら認めてね。
公表には至らなかったけど。
で、イサムの両親が離婚ってことになったし、
お義兄さんの不倫騒動もこのとき、一家大混乱。
そんでイサムが孤立したからっていう理由で、
どさくさ紛れで引き取ることにしたの。
それが一昨年。」
「ハルカさんは一昨年の卒業生。」
「どう? どう?
まだ学生で通ると思わない?」
「同じ花瓶でも華がよいと、
花瓶も際立ちますね。」
「ははっ。お上手ね。マオちゃんだって、
わたしに劣るとも勝らないくらい綺麗よ。
イサム聞いた? あれが褒め言葉。」
「いたいんですけど。
ちゃんと聞こえてますよ。
なんですか、劣るとも勝らないって。
負けず嫌いなんだから…。」
隣のハルカに全体重を押し付けられて、
イサムはドアとの間に挟まれる。
しかし、イサムはあることに気づき、
神妙な顔つきでハルカの顔を見つめた。
「どした?」
「ハルカさん痩せた?」
姉と一緒に暮らしたのはわずか1年余りだが、
離れて過ごすと微かな違いが
いまのイサムには不思議とよくわかった。
「イサムに体の心配をされたくはないわね。
お姉ちゃんもお年頃なので気にするんだよ。
イサムこそ少しくらい背は伸びた?
ぶらさがり健康器使ってる?」
「伸びてませんね。」
イサムがなにか言うよりも先に、
マオに断言されてしまった。
彼女の言う通りこの3ヶ月身長は伸びない。
ぶらさがり健康器は随分前から使っていない。
いまでは制服かけに重宝しており、動物園で
マオが買ったシャツもそこに挟まっている。
ハルカの笑い声を耳にしながら車窓を眺めると、
街中に回転する建造物が目の前に飛び込んできた。
「なにこれ…?」
「あ、着いたね。
わたしの第2のふるさと。」
そこは学校から車で15分程の繁華街で、
目の前には巨大な観覧車が屹立していた。
――――――――――――――――――――
黒色の巨大な支柱に支えられた観覧車。
ゴンドラの最高頂は100mにも達する。
繁華街の中央にある公園の真ん中に建ち、
名府、名桜市のデートスポットにもなっている。
周囲には服屋、飲食店、家具屋から劇場、
それから〈3S〉などが充実し、
客層は老若男女を問わない。
平日の夕方にも関わらず賑わいを見せる。
イサムも名桜市に越して3ヶ月にもなるが、
繁華街にまで出かけることは初めてであった。
「こっちよ。」
周囲を見渡し呆然としていたイサムは、
ハルカに手を取られて近くの〈3S〉まで来た。
「いやいや…。」
公園の隅にポツンと立つ〈3S〉。
16歳になれば誰でも〈3S〉で
容姿や肉体を変更した〈ニース〉になれる。
制約によって16歳未満が入れない施設に、
思わずイサムはハルカの手を拒んだ。
「なに照れてるの?」
「僕まだ15ですよ。」
「知ってるわよ、そのくらい。
じゃあ、マオちゃん。一緒に行こ。」
「はい。」
「迷惑をかけないでください。」
「素直にお姉ちゃんと手を繋げないからって
やっかまないでよ。ねぇ?」
「それなら私と手を繋ぎますか? ふふ。」
「ははは。
ここは〈3S〉じゃないわよ。」
「え?」
外見は明らかに〈3S〉にそっくりの構造物だが
出入り口は真っ黒に塗装された扉になっている。
『修理中』の立て札が偽装された扉の中には、
地下へと向かう階段が存在していた。
「服屋じゃないのは確かね。」
「えぇ…と。
服を買いに来たんじゃなかったんですか?」
「服なんていつでもどこでも買えるじゃない。
それにマオちゃんいるのに、
イサムの服買うのに付き合わせても
つまんないでしょ?」
「ここは、なんですか?」
「わたしも詳しくは知らないけど。
みんなはここを『非合法地帯』って呼んでる。」
静まり返るふたりの反応を見て、
ハルカは口角を上げて肩で笑った。
地中から湧いた水や雨が集まり、
高いところから低いところへと流れる。
水流は長い年月をかけて
岩を砕き、大地を削り、川ができる。
その川の近くには文明の跡がある。
多くの生命は水を求め、
それから他の生命が糧を得た。
川の水質、流れ、大きさや深さは
地域によってそれぞれに異なるが、
澱みは等しく存在する。
視界を遮る濁った水で
生物は外敵から身を守り、
迷入したものは糧となる。
光を失っても優れた感覚を頼りに
糧を得られる種が、生存し、繁栄し、
やがて滅んだ。
水が溢れれば生物は行き場を失う。
水が涸ればが生命を失う。
古代から〈人類崩壊〉を経て、
現代に至るまでそれは変わらない。
――――――――――――――――――――
地下への入り口となる階段は細く、薄暗い。
置き石を詰めた手製の階段に、
壁はコンクリートブロックではなく
赤レンガが敷き詰められていて、
モルタルの亀裂からは水が漏れている。
螺旋を大きく描く階段を
時計回りにひたすら降りる。
足場は悪く、昇降機もない。
長い階段を終えても通路はまだ続く。
細い通路には細かな霧が撒かれ、
小さな照明が光を散乱させ道を照らす。
肌に水が張り付く感覚を覚えるほどの湿度。
「霧?」
「なんですか、ここ。」
「〈個人端末〉出してみ?」
イサムは首をかしげながら、ハルカの言う通り
〈個人端末〉を開き、〈個体の走査〉を試みる。
しかし反応しなかった。
隣に立ったマオさえ識別しない。
「変な場所ですね。」
「名府は〈ニース〉特区だから
だれの情報でも見放題。
それに悪いことをすれば、
〈更正局〉に連行される。
けどここだけは管轄外だって言われてる。
『非合法地帯』なんて怪しい名前した
ここは、社会の吹き溜まり。
ようこそ、悪い子たちのたまり場へ。」
振り向いてプリーツスカートを指で摘むと、
お辞儀をして見せた。
「それは大変、面白いところですね。」
マオは楽しそうに言った。
通路を進むと網目状に分岐している。
そんな分岐路でも先を行くハルカは、
迷うことなくこの迷路を突き進む。
方向感覚は階段を降りたときから失われていた。
「いまどっち進んでるんだろう。」
「前でしょ。」
「北北西ね。」
「よくわかりますね。」
五里霧中のイサムのひとりごとに、
マオはさらっと方角を答えた。
先頭を歩くハルカは
わざと見当違いのことを言ったが、
イサムは姉を相手にしなかった。
「なんでわたしにはなにも言わないのよ。」
「じゃあどこまで行くんですかー?」
「もうすぐ着くわよ。」
通路を曲がるたびにイサムはハルカと
同じやり取りを何度かしたが、
同じような景色が続き、帰り道ももうわからない。
人の気配がなく、他の人間に出くわすこともない。
「どうなってるんだろう。」
「八種くん、上。」
「あ…。」
通路の天井には人の気配に塗料が反応して
青色の光をほのかに発している。
分岐点には赤色、黄色、緑色、紫色など
目的地に合わせて塗料が付着していた。
「なるほどなぁ。動物園と同じか。」
扇状になっていた動物園の『歴史通路』の天井ほど
親切な案内表示ではなかったが、
ハルカが迷わず移動できた仕組みが理解できた。
「ちぇっ! もうバレたか。
これならイサムひとりでも来られるでしょ。」
「そうまでして来たくなるところですか?」
「それはイサム次第よ。
ほら。着いた。」
何度目かの通路を曲がると雰囲気は一変して、
寒々しい青色の照明が霧を照らす広い空間に出た。
青い霧の先に待っていた青色の髪の女。
「シバさん、おひさ。」
「あら、親の顔よりよく見た女の顔。」
「2年ぶりなのにその言い草。」
「あんたじゃなくて、そっくりさん。」
「有名だもんねぇ、わたし。」
シバと呼ばれた凍ったように
冷たい青色の髪をした女が、
しゃがれた声でハルカと親しげに会話をする。
「繁盛してるみたいでなによりです。
わたしのお陰?」
「おかげで毎日忙しいったりゃありゃしない。
しかしなんだい、その格好は。」
「どうよ、二十歳の色気。」
「そんな顔する女はいても、
そんな格好する二十歳いないわよ。」
シバはストライプのパンツスーツを着崩し、
暗い部屋に関わらず大きなサングラスで
長い足を組んで椅子に座っている。
「元気そうでなによりだわ。
弟くんも月曜以来だわね。
今日はちゃんと朝ごはん食べた?」
どこか見覚えのある女に
顔を向けられて、イサムは肩を驚かす。
「知り合い?」
マオに尋ねられたが、
イサムは首を横に振って否定した。
だが月曜について思い返すと、
ひとりだけ心当たりがあった。
「まさかカフェの?
オープンカーの!」
「ご明察。」
月曜日の朝に安いトーストを
目当てに通う『カフェ名桜』、
その窓際の席。
その席からよく見かける、
青色のオープンカーから
いつも手を振る運転手が彼女だった。
「ハルカさんの知り合いだったんだ…。」
「あの店、月曜だけは賑わってるわよね。」
「えぇ…、トーストが安いですから。」
「お客はみんなあなた目当てじゃないかしら?
ハルカはもうちょっと食費出してあげたら?」
「働いてもないのにお金あげたら、
こういう不健全なお店で浪費するのが
目に見えてるからダメよ。
社会復帰する為のリハビリには
なるかもだけどね。」
「あはは。社会復帰とは程遠い場所よ。ここ。
こんなとこに通ってた不良のハルカに
そんなこと言われたらおしまいね。」
シバは青く塗られた薄い唇を大きく開けて笑った。
「ここはなんのお店ですか?」
「あまり詮索しないことをおすすめするわ。
いうなればここは器からこぼれた液体の場所。
つまり普通のヒトが来るべき場所じゃないわね。
お姉ちゃんに聞いてみな。」
向けられた視線に応えず、
ハルカは黙って周囲を見渡した。
入り口にも空間にも、
どこにも店の名を示す看板はない。
あるのは天井まで届くほどの大きな機械が十台程、
円形の部屋を囲むように等間隔に設置されている。
青色のくもりガラスの向こうに人影が見える。
人がいないところはガラス扉が開かれていた。
「よかった、空きあるじゃない。」
「その前に入場料。」
「〈個人端末〉が使えないのに?」
〈個人端末〉が使えなければ、
当然お金のやり取りはできない。
疑問が先立つイサムを無視して、
ハルカは自然と〈個人端末〉をかざすと
さっさと支払いを済ませてしまった。
「地下じゃ〈個人端末〉は使えないけど、
店じゃ支払いはできるんだよ。
悪い人が考えた抜け道には、
別の悪い抜け道を用意してるもんよ。」
呆気に取られるイサムを見て、
シバは再び口を開けて笑う。
「弟ちゃんはハルカなんかと違って真面目ねぇ。
自分と同じく道を踏み外すなんて
心配しすぎよ。過保護なんだから。」
「だからこうして悪いことを
率先して教えてるんじゃない。」
「それ『教師』ってやつぅ?
まぁそんな悪い子のお陰でアタシたちは
こんなお仕事が成り立ってるけどね。」
「イサムはこういう大人に
なっちゃダメだからね。」
「矛盾してる…。」
ハルカに人差し指をさされると
シバは肩を上下させて笑った。
シバの店となっている円形の広い空間は
青色のタイルが張り巡らされ、
その壁面に沿って機械が等間隔に配置される。
ハルカは近くの空いている
機械のガラス扉を開けた。
中腰で片足の膝は床につけ、
片手を差し向けふたりを誘導した。
「さぁさ、おふたがたぁ、入りなすって。」
「なんですか、それ。」
「〈人類崩壊〉の時代劇。」
「また歪んだ情報でも仕入れたんですね。」
「それでこれはなんの機械ですか?」
「入ったらわかるわよ。」
「またそれだ。」
機械の中は6人ほどが立っていられる
小さなエレベータ程度の質素な空間だった。
機械に入ると正面から柔らかな光で照らされる。
斜め上と、膝下からふたつの大きな板型の照明。
「これ写真機?」
手元には小さなディスプレイとその上には
カメラレンズが埋め込まれており、
機械に入ったマオとイサム、
それからハルカが鏡写しで表示される。
「なんで写真…?」
写真程度であれば〈個人端末〉を使えば、
撮影だけでなく日付や場所と共に
個体情報を残せる。
こんな辺鄙な場所まで来る必要はない。
イサムは自問しつつ〈個人端末〉の使えない
この場所での機械の特性を察した。
「これは個体情報が残らないの。
〈人類崩壊〉前の機械を再現させた写真機ね。
ほら、イサム。ここ立って。いくよー。」
正面のボタンを押すとすぐに、
ディスプレイに映ったイサムたちの背後は
透明だったガラス扉が青色に曇った。
左右のスピーカーからカウントダウンが始まった。
「イサム、前見て。」
ハルカに両手で頭を捕まれて
イサムは首を無理やり捻られる。
カウントダウンを終えると同時に
擬似的なシャッター音が鳴ると、
正面のディスプレイは映像が静止画に変わる。
長身で顔の整った女子ふたりと、
まぶた半開きのイサム。
「イサム、変な顔。」
「首が痛い。」
ハルカはディスプレイの案内に従い、
青色の背景を浜辺や芝生の丘へと
好みの景色に切り替えて合成し、
今日の日付を手で書き加えた。
「印刷ができる機械なんですね。」
「ほら、シールにもなるわよ。
はい、マオちゃんの分。」
機械から出力されたシールには
指ほどの大きさで同じ写真がいくつも並び、
台紙ごとミシン目が入っていて
素手で切り離すことができる。
「ハルカさん、これをしに来たの?」
「あとアイスを食べに行くわよ。
地下名物違法アイス。」
「それって食べても大丈夫なやつです?」
ハルカはもう一度機械のボタンを押して、
撮影のカウントダウンを開始させた。
「今度はこのポーズに合わせて。
ほら、マオちゃんも。」
「なんだこれ…。」
「なにやってるのかしらね。ふふふ。」
姉に振り回されている状況に、
隣でマオが自虐的に笑った。
自らの意志ではないものの、
マオとの外出は『動物園』以来のことだった。
鏡像に映る正面のディスプレイを見て
ふたりでハルカの仕草をマネる。
右手の親指と人差し指を伸ばして顎に当て、
片目を薄く閉じてカメラを睨むように
3人同じポーズで撮影した。
――――――――――――――――――――
「おいしぃー…。2年間ぶりのこの味…。」
『地下名物違法アイス』と怪しげな名ではあるが、
値段以外は普通のソフトクリームショップだった。
地下へと降りる螺旋階段と、
ソフトクリームの渦巻きをかけた
名前の由来は肩透かしするほど単純なものだ。
素朴なバニラ味のソフトクリームに、
たっぷりのカラースプレーチョコを付け
ハルカは舌鼓を打つ。
とろけそうな顔をして喜ぶ姉の表情を初めてみた。
写真機を出て店主のシバと別れてから、
再び迷路を歩いて、巨大な空間へと出た。
通路では一切見かけなかった人が大勢集まり、
それぞれに酒や音楽を楽しみ踊る。
長椅子に3人で腰かけて、イサムは
なにも付けていないバニラアイスを口にして
その様子を眺めていた。
ロビーのような円形の巨大な空間の両脇には、
真っ黒な柱上の構造物が天井まで伸びて霧を出す。
その噴霧によって、ここでは
〈個人端末〉を開くことも
〈個体の走査〉さえも妨げられる。
マオはイチゴ味のソフトクリームを食べて、
写真機で撮った謎のポーズのシールを見つめる。
「それもおいしいでしょ?」
「はい。」
「ひと口交換しよ。」
ハルカの身勝手な要求にも、マオは素直に応じる。
「うん。甘酸っぱくておいしい。どう?」
「さっぱりしてます。八種くんも交換する?」
「僕のはハルカさんと同じ味ですよ。」
ハルカとは違いチョコのないバニラアイス。
マオには交換するメリットはない。
「いいから食えっ。」
ハルカがマオの肘に触れ、
ソフトクリームを押し付ける。
ハルカの強引さに諦め半分で目を閉じたとき、
なにか思い浮かぶが、瞬間イサムの口元を外れて
ソフトクリームは鼻に衝突した。
あ然とした。
「あ、ごめん。」
「ハルカさぁん…。」
顔にこびり付いたソフトクリームが
落ちないように、恨みがましく姉に抗議した。
呆れと共にハンカチを取り出して、
顔を拭いながら考えていたことを口にする。
「ハルカさん、なんでここに誘ったんですか?」
「気になるぅ?」
「言いたくないならもう聞きませんよ。」
「言う言う。ちょっと待ってって。」
イサムに意地悪くされると、ハルカは急いで
ソフトクリームのコーンを小気味よくかじる。
「んんー。」
冷たさに声にならない声を上げて、
座ったまま足踏みで悶てた。
「あぁー美味しかったぁ。」
「そんな急いで食べなくてもよかったのに。」
「わたしは急いで喋りたかったのじゃ。」
「左様でございますか。」
「うむ。苦しゅうない。」
ドラマのマネごとが好きな彼女は満足したのか、
腕を組んで大げさにうなずき
ようやく話しを始めた。
「わたしがモデルデビューして
仕事が軌道に乗ったときに、
わたしのマネする人が増えたのね。」
それは〈デザイナー〉と呼ばれる〈ニース〉たち。
形の差異はあれど、他人に成りたいと思う
〈ニース〉はハルカのようなモデルをコピーする。
「それは別にいいのよ。
人気が出てきた証拠だもの。
ただ、仕事として、モデルとしての
悠衣と、ハルカというわたしが
わたしである部分を失いかけてたときに、
シバさんて悪い人に誘われて
ここに通うようになったの。
美味しいものもあるし。」
「アイス目当て?」
「そうよ。最初はね。シールもいいでしょ。
悠衣にそっくりの人がいっぱいいるのに、
〈個人端末〉が使えないから、
本物のわたしのことは誰も気にしない。
変なところだって思ったわ。」
「そうですね。〈更生局〉も
ここを見逃しているのでしょうか。」
「よくはわからないけど。
わたしにとってここは
わたしを再認識するための場所。」
それからアイスを食べるイサムを見た。
「イサムもそのうち、こういう
自分だけの居場所を見つけて欲しいの。
来月にはもう16歳だもの。
いまは学生って身分のイサムを演じてるけど、
役者や歌手のユージでじゃなくて。
ひとり暮らしして、友達でも恋人でも作るか、
自分なりの居場所を見つけられればいい。
それは単なる住居じゃなくてね。
たとえばこんな場所で道を踏み外してもね。」
「そんな無茶な。」
「無茶じゃないわよ。
人として正しくあろうって思うほうが無茶だわ。
望むままに生きた方が人間、よっぽど健全よ。」
以前、学校の駐車場でマオに言われたときのことを
思い出してイサムは黙った。
「もし、イサムが結婚できなかったら、
お姉ちゃんが結婚してあげてもいいし。」
「えぇ…。
道を踏み外すって、そういうことですか?」
「たとえ話よ。」
からかい笑う姉の姿を訝しみ、
イサムはマオと顔を見合わせた。
大広間の中央の柱はエレベータになっていた。
「最初からこれ使えばよかったんじゃ…?」
「これは外からは使えないのよ。
搬入のときだけは地上から使えるっぽいけど、
元は外の客を寄せ付けない場所だしね。ここ。
でもこうして出るのは簡単。」
ハルカの言う通りエレベータを出ると
扉が2重になっており、侵入する
部外者を拒む仕組みであった。
地下の通路でも他の人と出くわさないのは、
中心にエレベータがある一方通行に近い
構造だったからだ。
「ハルカさんはこれからどうするんですか?」
帰るのか、イサムの部屋に泊まるのか
尋ねたに過ぎなかった。
「なに言ってんの。
これからこれに乗るわよ。」
ハルカが真上に指差した乗り物。
観覧車。
全長約100mもの構造物が真上に伸びて、
イサムは口を開けて呆けた。
地上で〈個人端末〉を開けば
真下から観覧車の全容が閲覧できる。
名桜市のランドマークにもなっており、
街が見渡せる乗り物として景観が楽しめ
カップルに人気。一周15分程度。
「えぇ? これに? カップルって。」
「イサム、乗らないの?」
「ふたりで行ってきてください。
僕はもう疲れましたよ。」
「恥ずかしがっちゃってー。
じゃああることないこと
マオちゃんに話しちゃうわよ。」
「ないこと言われるのは困ります。」
ハルカの脅しにためらったが、結局観覧車に乗らず
ベンチに腰かけてイサムはふたりを見送った。
――――――――――――――――――――
ゴンドラが地上を離れると、
縦に長い芝の敷かれた公園が眼下に広がる。
「昨日、ようやく両親がね、
イサムが成人するまでの生活費を
支払う気になったの。」
開口一番、ハルカは愚痴る。
「これまではハルカさんが?」
「そうよ。だから無駄遣いさせないよう、
必要なものはなるべくこっちでそろえてたの。
爪切りの次は服が欲しいとか言い出して。
もー! こっちの身にもなれーって!」
「ふふ。それは大変でしたね。」
「それで一段落付いたから、
今日やっと会いに来たら
イヤな顔してなかった?」
「恥ずかしいんでしょう。
お友達の前でしたから。」
「ねぇマオちゃん。
イサムと結婚する気はない?」
「唐突ですね。」
「そうよ。そのために
マオちゃんを誘ったんだもの。」
「メリットがわかりませんが、
なぜそんな提案を?」
「ははは。残念。」
演技じみた笑いを見せる。
「イサムは引きこもりだったのよ。」
「引きこもり。家から出ない、あの。」
「そう、その。
中学のときに事件に巻き込まれてね。
それとイサムの両親が離婚して、
それでわたしが預かることにしたの。」
マオはその話をうなずいて聞いた。
この公園まで移動する車内で、
ふたりがどのような関係だったのかを話していた。
保護者と被保護者。
非血縁者。血の繋がらないきょうだい。
一般的には家族とは呼びにくい間柄。
「いまの高校に入れるまで大変だったのよ。
勉強もそうだけど…。」
ハルカが言葉を濁らせた。
「事件、ですか?」
イサムの両親が別れる前のことを、
ハルカは詳細に話しはしなかった。
「事件。
ユージが『YNG』から突然いなくなったのも、
…イサムが引きこもったのもそのせい。
あのときはもう、引退するしかなかった。」
顔の前に両手の指を絡めてうつむく。
口に出すのをためらい声が震えた。
「ユージは強姦を受けたの。」
ビルの谷間を抜けたゴンドラは、
目がくらむほどの西日を浴びる。
「体調を崩して医務室で休んでたところ、
共謀したクラスの女子達に。」
駐車場で倒れていたイサムが、
医務室で休むことを強く拒んだ理由がこれだった。
イサムは今も医務室に過度の恐怖心を抱えている。
「初めてちゃんと会ったときのユージは、
ひどいものだったわ。」
ハルカがまぶたを閉じて思い出すのは
暗い部屋で、ヘッドホンをしたまま
ふさぎ込む小さな男の子だった。
誰を見ても怯え、物音に敏感になり、
触れられれば泣き、叫び、うずくまる。
ハルカの知る『ユージ』とは全く別人だった。
その背中が不憫でならなかった。
「人とは思えない…。」
ハルカは言葉が続かなかった。
嗚咽を堪えて涙を拭う。
「それじゃ生きていけないもの。
無理やり引っ張り出して、
ユージとしてじゃなく、
イサムとしての生き方をしなくちゃ。
ちゃんと教えられたかはわからない。
いまは道半ばってところかしら。」
ハルカの言葉の先に、目線の先にマオがいる。
「それで私を伴侶に?」
「そう。マオちゃんなら、
イサムをどん底から引っ張り上げる力が
あるんじゃないかなって、
勝手に淡い期待を抱いてるだけかもね。」
ハルカが照れ笑いをした。
「なんならわたしでもいいんだけどね。
上手いこと血も繋がってないし。へへ。」
窓に夕日が強く差し込み、
ハルカの顔を赤く染めた。
ゴンドラが頂点に達する。
マオは少し考え言葉を選ぶ。
「八種くんには私と同じ道を
辿って欲しくはないと思っています。」
「マオちゃんと…?」
「えぇ。たぶんこれは、
相互利益に関係なく。
…よき隣人として、ですかね。」
「…わかったわ。
イサムは振られたわけじゃないのね。」
「そこは冗談と受け取った方がいいですか。」
「真面目な話よね?
やめときましょう。」
「なので彼の助けになる為に、
ハルカさんに知恵を拝借したいんです。」
「わたしの? イサムの苦手な食べ物とか?」
「はい。そういうのじゃないです。事件以前の、
八種くんの過去を他になにかご存知ですか?」
「私がイサムに会ったのは1年半前。
それ以前は私も知らない。
けれども家族も知らないのよ。
あの子は〈キュベレー〉に育てられた。
家族は全員あの子に関心がなかった。
転府じゃ割とよくあるそうよ。」
育児・教育用〈キュベレー〉が、
イサムの育ての親と呼べる存在だった。
「あ、でもひとり。
わたしがイサムの知り合いを探してたときに、
彼のむかし通っていた劇団で
同じ中学だった子がいたわ。」
「そのヒトは?」
「女の子で名前はたしか…。」
マオはゲルダの言葉を思い出した。
「たぶん好きな人がいて…。」
遠くの山に陽が沈む。
――――――――――――――――――――
イサムは観覧車の足元でベンチに腰かけ、
脱力してふたりの戻りを待っていた。
観覧車に乗るカップルたちは、
今頃夕焼けに染まる街を見るのだろうか。
姉になにか、今日のお礼をしないといけないな。
などと考えていたがよい案は思い浮かばない。
物を贈ろうものなら倍で返すようなお人好しで、
物を贈るにも先立つものを持ち合わせていない。
せめて真っ当に生活して、卒業し、成人するのが
一般的に恩返しと呼べるのかとも考えた。
だが、今日のように『非合法地帯』に誘い、
道を踏み外せなどと『教師』らしいことを
言われると、なにが正解かわからなくなる。
身近な番犬のように髪の毛を金に染めて
逆立てるのが『不良の正解』とも思えず、
頼もしいクラスメイトのマネをして
姉弟愛を語ることが『教師』らしいわけでもない。
『ユージ』を演じてきたこれまでと、
『イサム』として姉に生かされてきた今まで。
ハルカが『イサム』になにを望んでいるのか。
なにが正しく、なにが誤ちなのかわからない。
役者として仮初めの生き方をしてきた
イサムにとって、それは難儀な話だ。
姉たちの乗る観覧車を見上げて途方に暮れ、
深くため息をついたときに不気味な人物が現れた。
「私のことでもお考えですかぁ?
くふふ…。」
「ぅぁ。」
イサムがこれまで一度も
出したことのない変な声が出た。
目の前に立っていたのは、
クラスメイトの夜来ザクロであった。
目が隠れるほど真っ黒な髪を切りそろえて、
真っ白な顔にソフトクリームを手にしていた。
口元になにか付いていると思ったが、
上顎の犬歯が奇妙なほどに長い。
制服姿のザクロは、赤い裏地の黒色のマントを
自らの手でなびかせて見せる。
長く尖ったマントの襟を立て、
首から肩を覆い、足元にまで伸びている。
「え? 夜来さん?
どうしたんですか、その格好は。」
「今日の私は吸血鬼。
吸血鬼っていうのは吸血性コウモリを
モチーフにした〈人類崩壊〉以前の変質者。
このマントは下駄箱に保管してるの。
ソフトクリーム食べる? あが。」
口に手を当て、上顎の犬歯を取り外した。
それは付け八重歯と呼ばれる装飾だった。
「結構です。
変質者の格好して出歩かないでください。」
「美味しいですよ。ドリアン味。」
風と共に甘ったるい臭いと
腐敗臭が漂い顔をしかめる。
彼女との会話は玄関以来だが、
上の階のストーカーが連行された後は…。
「〈更生局〉に行ったんじゃ…。」
「だってアレ、えん罪だもの。
今日も教室にいたでしょ?
私と一緒のクラスじゃない。」
「…そうでしたね?」
「私くらい特別な存在になると、
檻を抜け出すことだってさいさいですわ。」
「さいさい…?」
「そしてこのタイミング。
これぞ、逢い引き。」
言うやいなやイサムの隣に素早く堂々と座る。
「いや、なにを…まさか本当にストーカー…。」
「ではないわね。する必要もない。」
予想に反し、すぐに淡白な返答がかえってきた。
「ここは私の庭みたいなものだからね。
どこに誰がいるかなんて全て丸わかり。
くふふ。」
いつもの不気味な笑いを浮かべる。
「イサムくんは将来、なんになるのかしら。
私と一緒に未来を語ってみない?」
「え? 将来?」
姉のことを考えていたときに、ザクロと
近いことを考えていたのでギョッとさせられた。
「えぇ。八種くんの。
いずれ復調して芸能活動を復帰?
『SPYNG』が解散するからそれはない?
誰かと結婚して、家庭を築き、子を作る?
16歳になったら〈3S〉で別の誰かになる?
たしかにそれも悪くはないわね。」
ザクロが早口に尋ねた内容は
以前、マオとも同じ話をしたことがある。
どれも自分の中では現実味を帯びない質問に、
イサムは黙って首を横に振る。
「でもまだ決まってないんでしょう。
くふふ。わかるわよ、そのくらい。
思春期だものね。」
ソフトクリームを舌ですくって口に入れる。
「ひょっとして、からかいたいだけですか?」
「別にこれは八種くんに限ったことじゃない。
全てのヒトたちに言えること。
誰だって、いつまで経っても
きっと同じ考えをする。
有限の肉体の中で。
そしてこう考える。」
手の中のソフトクリームを
くるくると回して螺旋を描く。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
溶けた金色の液体が、
コーンからあふれて手を滑り落ちる。
「いつか選択しなくちゃいけない。
それでも疑問と不安に苛まれながら、
いつまでも逡巡を繰り返す。
その選択が正しかったか、過ちだったか。」
手にしていたソフトクリームは
いつの間にか消え、彼女は両手の指を
互い違いに組み合わせて胸元に当てる。
「そして、死んだときに気づくの。
あぁ、これでよかったのか。ってね。」
腕を大きく開いて、手を2度叩く。
夕方だった空には帳が降りて、
照明が観覧車を黄色い光で照らす。
疲れていたのか目をしばたたかせ、
イサムは目の前のザクロを見上げた。
しかし彼女は黙って去っていった。
見送る後ろ姿がマントと共に夜闇に溶けた。
「いつか選択しなくちゃいけない。」
ザクロの残した言葉が頭の中で繰り返される。
しかし彼は、愚かな選択をした。
私の人格を形成したのは叔父だ。
彼は父親の弟で、幼い頃から
よく私の面倒を見てくれた。
父親は機械工学の研究者で、
母親は動物専門雑誌の編集者と、
転府では珍しい共働きの夫婦だった。
そのために叔父が毎日のように家に来て、
私の世話係を買って出るのが日常だ。
叔父は働いていない。
働かないことは珍しいことではない。
〈人類崩壊〉以降では、必要な仕事は
〈ALM〉の労働用〈キュベレー〉が担当する。
そもそも人類に労働は課せられてはいない。
100年近くにも及ぶ人生にとって
娯楽の創生や、趣味の充実こそが
人類にとって重要な役割を担っている。
人生、退屈こそが死に等しい。
父と母の仕事も言ってしまえば趣味の延長だ。
みんなで一緒に機械の玩具を作る。
昔の動物の映像を掘って切り抜いて配信する。
その程度のことを仕事にしている。
私もよく両親の仕事のマネごとをして育った。
〈NYS〉によって環境耐性を得た人類は、
〈ALM〉の構築する社会によって争い事のない
平和な世界を実現することに成功した。
〈人類崩壊〉以降の人の役目といえば、
減った人口を増やすことぐらいしかない。
社会的な義務とも呼べる行為を終えた両親は、
私に興味を向けることはなかった。
趣味にも劣る煩わしい存在だったのかもしれない。
あとは私が無事に成人すれば、
両親としての役割も終えるつもりだったようだ。
逆を言えば叔父は珍しい存在であった。
叔父は結婚もしていなければ子供もいない。
子育ては育児・教育用〈キュベレー〉で済む。
叔父の介在は両親にとって必要ではなかったが、
叔父は産まれたときに顔に大きなアザがあった。
叔父の両親はアザを治すことをせず、
アザを治したいという叔父の意志も
通らなかったらしい。
人は自然のままの姿が最もよい、
とする思想が叔父の両親あったようだ。
ただその考えが世間に理解されることはなかった。
顔の半分を覆うアザは他者に忌避感を与え、
社会から爪弾きにされた叔父は孤立していた。
叔父はそんな境遇にあっても明るく和ませ、
どんな誹謗を受けても怒らず柔和な性格だった。
計算高く、頭の回転は早かったのだと思う。
私は叔父の顔を物心がつく前から
見慣れているので、アザなど気にすることもなく
毎日を楽しく過ごした。
そんな叔父とはアニメーションや
映画を見て、マネをするのが日課だった。
私はピンク色の子供向けドレスで変身し、
ごっこ遊びに興じたり、いつも黒色の
フードパーカーを着ている叔父は悪役を演じ、
道路に魔法陣を描いたりと楽しい毎日を過ごす。
家にいない両親よりも、叔父を好いていた。
――――――――――――――――――――
私が叔父に犯されていたことが
発覚したのは、高校1年のときだった。
性格の裏表が激しく、共働きであった
両親の影に隠れて私に暴言を吐いていた。
いつか貰った私のお気に入りの
イヌのようなぬいぐるみを激しく叩いた。
私のかわりに怒鳴りつけ、
目の前で何度も踏みつけた。
私は叔父の行動に目をつむり、
激しい音と罵声に耳を塞いで耐えた。
「お前は両親に愛されていない。」
「捨てられてもよかった。」
「俺がとりなしてやった。」
「一生俺に感謝しろ。」
「あぁ…すまない。」
「言い過ぎた。」
「俺が愛してるのはお前だけだ。」
「見捨てないでくれ。頼む。」
昂りをおさめた叔父は、常に改心して、
自己嫌悪に陥り許しを乞う。
その姿はまるで悪役そのものだった。
だから私はそれを許したのかもしれない。
かもしれない。というのも、実際に
私が許したわけではない。
私は目をつむり、耳を塞いでいたから、
暴言を受ける私はそこにはいなかった。
叔父の癇癪は何度も繰り返された。
私は泣きもせず、罵声を浴びる私を見ていた。
叔父は何度も謝り、私でない私は何度も許した。
やがて初経が訪れ、乳房や臀部が発達し、
肉体が成長する頃になると私ではない私は
叔父からの暴言が、性的な暴行へと変わった。
私でない私は暴行を受ける。
私は、私でない私を見ている。
私ではない、可愛そうな子。
私は暴行を受けてはいない。
暴言を受けたのは私ではない。
暴行を受けているのは私ではない。
イヌのようなぬいぐるみ。
大好きな叔父はこんなことをしない。
そんな叔父からは私はこんな目には合わない。
ごっこ遊びの延長。
だから私は私を保っていられたのかもしれない。
そして叔父が捕まった。
家事用の〈キュベレー〉が、
私の異常を検知して通報した。
両親が自宅で発生した異常を、いつもの
叔父の癇癪が原因だと思い込んでいた。
叔父は〈更生局〉に連れて行かれた。
体液がその証拠だった。
診断結果を知っても、
両親は私を慰めはしなかった。
やはり両親は私を愛してはいなかった。
このときになってはっきりとわかった。
両親が大事なのは世間体だ。
生まれながらにアザを持ち
社会から隔絶され〈更生局〉に連行された叔父と、
精神的に不安定な叔父を拐かした不埒な娘。
叔父よりも成人する前に問題を起こした娘こそ、
本当に捨てられるべき存在かもしれない。
両親の目が私を拒絶する。
「私じゃない!」
私は叔父の犯行を否認した。
私は自らの被害を否定した。
だってそうだもの…。
子供の虚偽の訴えなど、
大人の耳に届くはずはなかった。
いまにして思えばその発言に、
どんなメリットがあったのだろうか。
私の人格はふたりに分かれていた。
長い腕から振り下ろされた硬球は、
イサムの革製グラブを突き破りそうな勢いで、
公園には乾いた音を響かせた。
貴桜大介に呼び出されたイサムは、
彼が終始無言のままキャッチボールの
相手をさせられた。
キャッチボールと呼ぶよりも投球練習だった。
小学生時代から9年、野球ひと筋だった貴桜が
野球部のない女子ばかりの高校に入った
理由は知らない。
時折りキャッチボールに駆り出されるのは
よくあることだった。
ただ今日の貴桜は機嫌が悪い。
同じ中学出身の亜光百花がいないので、
貴桜の投球にイサムが対応するほかない。
野球のルールを知らないイサムは、
亜光と貴桜のキャッチボール風景を
見学するだけの日が多かった。
黙り続けて不機嫌な貴桜の投球相手を、
初心者のイサムが受ける。
貴桜による一方的な投球であったが、
イサムはどんなに速い球でも、
どんなに変化のある球でも受けとった。
彼の投げる球は、初心者のグラブに
吸い込まれるように収まった。
『動物園』で見たジャグリングに比べれば、
投げ放たれたひとつの球を目で追い
受け止めることは、イサムには容易だった。
厳しい貴桜の顔が、ひとつ、またひとつと
ボールを受け止める度に驚きと困惑に変わる。
右へ曲がる球、左へ曲がる球、手前で落ちる球。
事前に合図があったわけでもないが、
貴桜の投げ方から球筋まで見て取ることができた。
これがマオの指摘した『変』だった。
ボールが上手く取れたところで返球はボロボロで、
貴桜があっちこっちへ移動する羽目になった。
彼が球を拾っているわずかな間だけ、
イサムは手を休められた。
「もう無理!」
イサムは立ち上がり叫び、
グラブを外して手を振り降参した。
硬球をグラブで正しく受け止める方法を知らず、
痛みに手の感覚を失いだしていた。
手が燃えるように熱を帯びて、冷まそうと
息を吹きかけるが痛みしか感じなかった。
「やぁー楽しかったなぁ。
デブ相手だとこんなに投げられないからな。」
「僕は初心者なんだから。限度がある。
百花はどうしたのさ。また妹とデート?」
亜光は溺愛する妹を連れてよく出かけるので
今日もいないものと思っていたが、
貴桜の表情を見るに違うようだった。
「あいつはいなくなったよ。」
「いなくなった?」
「妹と一緒に帰ってこなくなったって。
あいつの両親が言ってた。」
「じゃあ…〈更生局〉?」
「知らねえって。」
仲良くなった亜光が突然いなくなり、
貴桜もどのように感情を整理して良いのか
わからずに苛立ちをあらわにする。
「課題どうしようか。」
夏期休講で出された自己学習課題は、
亜光が頼りだったのを思い出した。
学力が怪しいふたりが取り残された形となった。
「大介はなんでウチの学校入ったの?」
「なんでって。」
「僕は姉が無理やりだったけど、
大介は中学、野球部だったんだろ?」
「あぁー。」
照れくさそうに逆立てた金髪を指でつまみ上げた。
「スポーツ選手を真面目にやろうとしたら、
〈パフォーマー〉になるしか道がないからな。」
イサムの手からボールを奪い取って、
手のひらで巧みに回してみせる。
「そういうもんなんだ。」
「スポーツったって興行だからよ。
〈レトロ〉の地味な競技をいまどき、
金を払って見るやつなんていねぇよ。」
「そんなに身長があるのに、か?」
「手足が長いから有利なのは、
〈ニース〉になっても体格が
慣らしやすい最初の数ヶ月程度だ。」
公園の長椅子に腰掛けて、
貴桜は長い手足を伸ばしてみせる。
肉体と脳の不一致が起こす〈ニース〉症も、
肉体の成長と同じように時間を掛けて慣らせば
発症することはない。
「スポーツは〈パフォーマー〉でこと足りる。
生まれつき恵まれた肉体の差なんざすぐ埋まる。
〈レトロ〉は不要なんだとよ。」
〈レトロ〉は〈ニース〉ではない人間、
〈レガシー〉の蔑称だ。
貴桜も〈レガシー〉なので自嘲した。
「〈パフォーマー〉になってまで、
規格化された選手になりてぇわけじゃねえし。
なんならこうしてキャッチボールしてる
だけだって構わないぐらいだぜ、オレは。」
〈レガシー〉のみで構成された芸能界は
人気役者、色男、道化などの持ち前の容貌や
演技力に合わせた役割が存在する。
モデルなど天然素材を好む現在では、
〈ニース〉が同じ〈ニース〉である
〈デザイナー〉や〈パフォーマー〉などを
ありがたがることはない。
〈3S〉を使えば誰でもマネできることだ。
けれども貴桜の語るスポーツの世界では、
〈レガシー〉と〈ニース〉の価値は真逆となる。
〈パフォーマー〉は〈パフォーマー〉であるが故に
その役割に合わせた行動を常に求められる。
ともすれば肉体の損壊を恐れない
資質こそが重要とされる。
貴桜が〈レトロ〉と蔑称を用いる理由が、
役者という真逆の環境にあったイサムでも
少しだけ理解できた。
「だからオレはスポーツよりも青春に生きる。」
「は?」
虚を突かれたイサムの
間の抜けた顔を見て貴桜は盛大に笑った。
公園に彼の大きな声が響き渡る。
「いや、わるい。
からかってるわけじゃないぜ。
まぁ、そうなるだろうなって思ったけど、
想像以上の反応してくれるんだからよ。」
「頭おかしくなったのかと思った。
もともとおかしいやつだけど。」
「なんだとぉ? このぉ。」
「やめろぉ。」
貴桜の大きな手で頭を掴まれて、
髪をもみくちゃにされた。
いつもどおりの貴桜に戻って
イサムは少し安心した。
「一般的な家族ってのに憧れんだよ。
結婚して子供を作る。
そうやって自分の遺伝子を後世に残す。
ウチは家族多いからそういうのに憧れんだ。
弟たちの面倒とかあんま見たくねぇけどな。」
「花嫁探し?」
「中学で進路どうすっかなぁってときに、
百花が妹と同じ高校通うために、
女子ばっかのとこ行くってなったから。」
「不純な動機だ。」
「すっげー反面教師だろ?」
「大介もだよ。」
貴桜は言われて腹から笑う。
「勉強が追いつかず、進級できず、
そんで留年や退学なんてしたところで、
百花に責任負わせるもんでもないしな。
あいつが責任負うべきは、
オレたちの課題ぐらいなもんだ、ぜっ。」
立ち上がって、真上にボールを高く投げた。
「少しは勉強しようよ。」
落ちてくるボールを素手で綺麗に受け取ると、
貴桜は白い歯を見せ、屈託のない笑顔を見せた。
未だに昔の傷を抱えたまま、
いびつな状態で毎日を過ごすのに
精一杯のイサムには、貴桜の生き方は
とても羨ましく思えた。
貴桜の将来への展望に、昨日の夜に聞いた
ザクロの言葉が重なった。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
彼女の言葉は矛盾している。
――――――――――――――――――――
イサムはキャッチボールを終え、
鬱憤を晴らした貴桜とは公園で別れた。
亜光と会えなくなったことを思い、同時に
課題のことを考えなくてはいけなくなった。
日は沈みかけ、
マンションの廊下にも明かりが灯る。
イサムの手はまだビリビリと痺れて痛む手を
眺めて歩くと、廊下に人影があった。
「お帰り。八種くん。」
「あ…海神宮さん。
これからお出かけですか?」
丁度いいタイミングで隣人のマオが
扉を開けて現れた。
今日はオレンジ色のスポーツウェアで
服の上下を揃えている。
彼女を見て、イサムはわずかに違和感を覚えた。
「八種くんに聞きたいことがあって。
ハルカさんにこの前の御礼を
用意しようと思うのだけれど。」
風のごとく現れた姉は、
観覧車の後で次の仕事があると言って、
風のごとく去っていった。
「そんなことを…?
あの人にそんなことしても、
逆に倍で返されると思うので、
キリがなくなりますよ。
それにあー…、メリットありません。」
「そう。」
残念がるマオに、
イサムは違和感の正体に気づいた。
「…海神宮さんって、
ご実家に帰ったりしないんですか?」
「実家…?」
意外な質問だったのか、マオは目を点にした。
夏期休講でもひとり暮らしであれば、
寮生は寮の休みにともない帰省している。
両親の離婚で帰る家のない
イサムのような例外でなければ、
ひとり暮らしを続ける理由もない。
マオがひとり暮らしを始めた建前は、
寮と学校を往復する生活ではなく、
自分の行動範囲を広げ、見聞を広めること。
それと入寮申請に遅れたことが原因のはずだ。
「あっ…。」
もしくは、帰れない理由があったのかもしれない。
野暮な質問をしたと、口をつぐんだ。
「そうね…、帰ることもできたのね。」
「え? そりゃ…
私的な話にまで干渉はしませんが。」
そんな気はなかったものの、
クラスメイトであり隣人でもある
海神宮家という存在には、
イサムにも少なからず興味があった。
「でも帰るのならその前に、
ひとつ試してみましょうか。」
マオは自室の扉を大きく開いた。
「八種くん、ウチに上がってみる?」
「は?」
突然の提案に驚き、声を廊下に響かせた。
自分の声の大きさに驚き、手で口を抑えた。
「ちょっと、唐突過ぎて。」
マオの誘いにイサムも戸惑わないわけがない。
「興味があるなら、中に入って。
なければ、なかったことにしていいわよ。」
イサムの理解が追いつかないまま、
マオの部屋に招かれた。
部屋に誘う前に、「試す。」と言った。
その意味も分からなかった。
彼女はメリットがなければ断り、
好奇心がそれに勝れば行動するような、
時には御令嬢とは思えない突飛な言動をする。
イサムには彼女の部屋に入る理由がなかった。
マオにそんなメリットもなければ、
彼女なりの冗談だと思った。
上の階の住人によるストーカーの件もある。
イサムはまだ恐怖があった。
学校でもクラスメイトの女子の目線を恐れ、
時折り近づけなくなり、ひとり立ち尽くす。
女子たちが求める『ユージ』を演じられなくなる。
吐き気を催し、隠れて嘔吐するときもあった。
日常の中で、自分が襲われたときのことを、
どうしても思い出してしまう。
だがいまは足が前へと体を運ぶ。
イサムの足が、自然とマオの方へ向かった。
イサムは一度でもマオに対して、
『ユージ』を演じたことはなかった。
まず彼女は『ユージ』に興味がないからだ。
自分に矛盾を抱えている。
「自らを律して自由を得るか。
自らを欺き、幸福を享受するか。」
反芻したザクロの言葉は矛盾している。
自由なら、自分を律する必要はない。
幸福だったら、自分を欺きはしない。
恐怖心の中に紛れた、好奇心があった。
彼女はなにかを試している。
イサムはそれを確かめたかった。
答えのない自問自答を繰り返して、
部屋の入り口の前に立った。
真っ暗だった。
廊下の照明の光さえも吸い込まれるほどに、
暗闇が部屋の玄関から先の全てを支配している。
イサムはマオの顔を見たが、
彼女は切れ長の目をさらに細めただけで
なにも答えなかった。
からかうでも、呆れるでもない表情。
いますぐ踵を返すこともできた。
だがイサムは意を決して、
暗闇に一歩足を踏み入れた。
「だから、八種くんは変なのよ。」
瞬間、転落した。
マオの言葉と同時に、
舞台から落ちたと錯覚したように、
あるはずの床からさらに下へと落ちた。
なにか掴めるものはないか手を伸ばすが、
暗闇は自らの手さえも視認させない。
それどころか、落ちたにも関わらず、
不思議なことに風も重力も感じない。
なにも身体に触れていない。
空気も、温度も、匂いや
手足の感覚さえすべて失った。
声を上げようにも声が出ない。
目を閉じているのか、開いているのかさえ
イサムにはわからなかった。
――――――――――――――――――――
イサムは寝ていた。
『YNG』のセンターとして
芸能活動に励む傍らで学生の身分であり、
多忙な日々の中でも繕うように
中学校に通っていた。
成長途中の小さな身体のイサムは、
溜まった疲労によって授業中に倒れてしまい、
医務室で寝ていた。
そして事件が起きた。
寝ていると、息苦しさに目を覚ます。
しかし顔面を厚い布で塞がれて、
なにも見えない。
助けを呼ぼうにも口に布がねじ込まれ、
呼吸さえもろくにできない。
溺れる気分でもがくも、身体の自由が効かず、
なんとかして鼻で浅く短い呼吸を続けた。
イサムの身体は大の字にされた状態で、
手足首を複数人に押さえつけられ縛られた。
身体をよじって脱しようとも、
腹部もベッドに押し付けられて抜け出せない。
喉でもがくイサムの耳に、
女子生徒たちのささやきと荒い息遣いが聞こえる。
イサムはクラスメイトらによって、
衣服を無理やりに脱がされ強姦を受けた。
恐怖と下腹部の違和感に、
頭が理解を超えて狂気する。
胃液が逆流して何度も吐き出そうとしたが、
口は塞がれ鼻の穴から吹き出せば
胃酸が激痛を与えて涙腺を刺激した。
呼吸も覚束なくなっていく。
過剰なストレスの連続によって筋肉を硬直させ、
高音の耳鳴りが続き、異常な発汗で身体が冷える。
長く続いた行為が止んだ頃には、
イサムの意識を失っていた。
その後、幼なじみの少女の通報によって
イサムは救出される。
彼女の名前は磐永チルという。
〈キュベレー〉によって救出されたイサムは、
肉体と精神が衰弱して会話もできない状態だった。
また精神的なストレスで一時的に視力を失い、
長い治療期間を必要とした。
視力がしばらく戻らず、わずかな声にも怯え、
誰ともまともに会話ができなくなった。
家族以外とは面会もできない精神状態で、
当然、芸能活動もできない。
予定していた公演は全て中止となり、
事務所はいくらかの負債を抱える大事となった。
それから両親はこの事件をきっかけに離婚した。
両親は壊れてしまった子供に、
容赦なく見切りをつけた。
元より父親の子供ではなく、
母親の不貞によって産まれた子、と
突きつけられた現実。
家族を演じる必要がなくなったと同時に、
イサムは居場所を失った。
そんなイサムに手を差し伸べたのは、
血の繋がっていない姉のハルカだった。
粗野ながらも彼女の献身的な介助のおかげで
視力は回復したが、人間不信は深刻で、
長い間ハルカとも会話ができなかった。
外出もままならない状態で、
学校にも通えない状況が続く。
イサムの将来を危惧したハルカは、
彼に勉強を教えて高校に通わせることを決意する。
イサムにとって勉強は得意ではなかったが、
苦手意識もなかった。
勉強よりも付きっきりになる、
無機質な教育用〈キュベレー〉が苦手だった。
勉強は何日も繰り返し、
試験を合格して高校に入学した。
イサムは晴れて高校生となり、
軽度な症状の再発や、生活費など
多少の問題はあったものの社会復帰を果たした。
通学路に立つ海神宮真央を見た。
彼女の柔らかそうな唇が動く。
それから思い浮かんだふたつの言葉。
――――――――――――――――――――
額をなにかに小突かれ、イサムは目を開けた。
目の前に鼻を近づけるマオの顔が迫った。
「わっ! って。」
寝ていたイサムはマオの顔に驚いて、
横に飛び跳ねて床に落ちた。
腰ほどの高さのベッド。
見上げた天井には夜空の星々の中に浮かぶ
プラネタリウムに見える。
プラネタリウムの中心には穴のような黒い円。
円は輪郭がうっすらと浮かぶ球体だった。
その奥には白い紐か、帯が見えた。
変な天井だった。
目を覚ましたイサムは身体を起こして、
壁さえも真っ白な部屋を見回す。
部屋の隅に立っていたのは、
マオの連れていた〈キュベレー〉だった。
黒髪のウィッグに真っ白な顔と黒色の目、
額には第3の目が存在する。
椅子に腰掛けたマオと目が合う。
「どうしたの? 記憶はちゃんとある?」
「…わからない。」
なぜここに寝ていたのかさえわからない。
イサムは発した声に違和感を覚えて、
自分の喉に手をあてる。
「はい。これ。」
マオは水の入った透明なボトルを投げ渡した。
ボトルは自然落下とは異なり、
ボールのように重力を感じさせない。
さらに回転するボトルと
内部の不安定な水で重心が変わり、
上へ下へと不規則な動きで飛んでくる。
それでもイサムは軌道を読んで見事に掴んだ。
イサムを見てマオは確信したようにうなずいた。
燃えるような真っ赤な髪に、
身体のラインが出た白色の服を着ているマオ。
マンションで見たオレンジ色の
スポーツウェアではなかった。
〈キュベレー〉もマオと似た服で、
普段のメイド服は着ていない。
ふたりの姿を見てから、
イサムは自分の状態を確認する。
イサムは青緑色をした
見慣れないゆったりとした服を着ていた。
記憶を辿ればマオの部屋に入る直前までは、
砂埃にまみれたジャージ姿だった。
意識を失っている間にまた脱がされたのかと、
動物園での出来事を思い返す。苦い思い出。
「僕は…なにが、どうしたんですか?」
天井がプラネタリウムになっていて、
床も壁もやわらかな光に包まれているこの部屋は、
同じマンションの同じ階の隣室であっても
明らかに異なる奇妙な空間だった。
「アレ、なにか見える?」
マオは右腕を上に伸ばして天井に指をさす。
その先にあるものは天井で、
プラネタリウムの光のはずだった。
黒色の球体の表面には、
小さな針のような構造物がいくつも建っている。
大きな黒色の針がびっしりと刺さった地表。
その針の隙間を、いくつもの〈キュベレー〉が
抜き取った針を担いで移動している。
天井を超えた先の宇宙空間が、
イサムにははっきりと見えた。
「なんで?」
すぐにマオの顔を見て、
もう一度天井を、その球体を見上げた。
天井の球体は高精細な映像でも、
それが勝手に拡大されたわけでもなかった。
この部屋から球体の表面までの距離は、
ゆうに数百kmはある。
それがいま、イサムの眼でも
はっきりと見える。
「なんで見えるんですか?
あんなに遠くの…。」
「目がよくなったでしょ?」
「そんな程度の話じゃ…。
ここ、なんなんですか?」
「少なくともここはマンションじゃないわね。
〈光条〉と呼ばれる場所よ。
あそこにある天体が、
あなた達の住む名府、名桜市。」
「まるで…状況が飲み込めないんですが。」
「つまり、あれが〈NYS〉。
〈人類崩壊〉後の、いまのヒトの姿。」
「え…と…。」
マオの顔を見るに冗談を言っている様子はない。
「ヒトの記憶・意識を〈カルマン〉って呼ばれる
機械人形に移したのが〈ALM〉という企業。
過酷な環境に適応できなかった人類を、
〈NYS〉として製造したのがこの〈光条〉。
〈NYS〉は絶滅したヒトの複製なの。」
「それも冗談…。」
発した言葉が遮られたような、
考えに妙な違和感が生じて眉間にシワを寄せた。
「冗談を言うメリットがないわ。
八種くんもその目で見たでしょ。」
見た。
球体に植えられた黒色の針を、
イサムはこの目ではっきりと見た。
「あの針の中身が〈NYS 〉。
いまのヒトを構成する〈受容体〉。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、それから触覚。
あの天体、名府に接続された〈受容体〉は、
仮想の街で、光、音、匂い、味、手触りを得る。
器官や細胞を情報として接続し感覚を与える。
それから〈受容体〉で培養されたヒト同士が、
生殖細胞を与えて新たなヒトを作る。」
「人って…!」
イサムは再度、天井を見上げる。
マオの呼んでいた「ヒト」は、
イサムの知る「人」ではなかった。
口が開いて見上げていると
身体がひっくり返りそうになり、
ベッドに力なく腰を落とす。
目の前には夜空に浮かぶ球体と、
そこに植わった無数の針のみ。
淡々と喋るマオの声が部屋に響いた。
「あれがいまの人類。」
イサムは黙って頭を抱えた。
整理が付かない。理解が追いつかない。
マオの部屋に入った途端、
見知らぬ空間で横たわっていた。
名府から数百km離れた一室。
この場所、〈光条〉から見上げる
天体に植えられた黒い針…。
現在のヒトの姿、〈受容体〉を眺めている。
名府であった天体を囲む、今いるこの環は、
〈NYS〉を製造する〈光条〉と呼ばれる。
マオ曰く人類は絶滅し、〈NYS〉は複製品。
「ここで目覚める前、
なにか思い浮かんだことはない?」
先に妙なことをマオが尋ねてきたので顔を上げた。
唇を見て、イサムはなにかを思い出そうとしたが、
腸をかき混ぜられる不快感が蘇る。
記憶の中にある忌々しい事件。
それから思考が妨げられる頭の違和感に、
頭痛に似た痛みを覚え、眉間にシワを寄せた。
頭の中で目の前の人物を畏れる。
それは動物園の歴史通路で見た、
ヒトとイヌのような主従の感覚。
「そう。やっぱり『保護』した影響かしら。」
「どうして、僕はここにいるんですか?」
「理由はふたつ。
ひとつは八種くんが望んだから。」
彼女はそう言ったが、
イサム自身はその言葉に納得いかなかった。
「もうひとつは貴方が、変だから。」
ふたつの理由にやはり納得がいかず、
眉間にシワを寄せた。
「僕の妄想でしかなかったけど…
海神宮さんは〈キュベレー〉なんですね。」
マオと〈キュベレー〉が似ている
と思ったのはイサムの直感に過ぎない。
第3の目は〈キュベレー〉のみが持つ。
〈ニース〉が〈3S〉で複数の目を
取り付けたところで、脳が対応しなければ
装飾にしかならないが、マオは
その額に自在に動かせる目を持っていた。
海神宮家の御令嬢だから持てる、
〈ニース〉の制約を超えた機能かもしれない。
あくまでイサムの予想に過ぎない。
それから、イサムは〈キュベレー〉に育てられた。
〈キュベレー〉は両親が指示する上で動いた。
幼かったイサムは〈キュベレー〉に連れられて、
家、学校、劇団と、どこへ行くにも一緒だった。
しかしマオの〈キュベレー〉は
指示を必要としない。
通学路で迷惑な後続車両を排除したとき、
公園にいたザクロを連れてきたときも、
彼女は一切の指示を出していない。
言葉を介さずとも意味を理解し行動する。
〈3S〉で出会ったときに、
公園まで後をついてきたマオ。
そのときはイサムも無理だとわかっていたが、
マオを先に学校へ向かわせるように
遠くに立つ〈キュベレー〉に指示した。
〈キュベレー〉への指示は、
登録者の言葉でなければ意味は通じないが、
不思議なことに理解したようにうなずいた。
海神宮家の〈キュベレー〉は他とは違った。
予想が確信に近づいたのは、
マオが〈キュベレー〉を連れて
イサムの家に来たときだ。
玄関で天井を見上げた〈キュベレー〉と
同期するように上を見上げたマオ。
なにも言わずとも朝食を用意する〈キュベレー〉。
指示した寝室に隠れる〈キュベレー〉。
マオと〈キュベレー〉の行動の類似で、
イサムのよく知る従来の〈キュベレー〉との
違和感は多くあったが確証はなかった。
マオが〈キュベレー〉という信じがたい事実から、
目を背けたかっただけかもしれない。
「そう。察しがいいわね。
第3の目は本来〈キュベレー〉が持つもの。
八種くんの言う通り、私は〈キュベレー〉、
…かもしれない。」
〈キュベレー〉は〈更生局〉の
機械人形であり〈ALM〉が管理している。
警備等の治安維持、学習施設での教育用、
育児、医療、または愛玩用など広範に扱われる
〈人類崩壊〉以降の人類のパートナー。
しかしマオはそのどこにも該当しない。
「でもちょっとだけ違うわね。
それは私が海神宮真央だから。」
名府にのみ存在する〈3S〉や〈個人端末〉など、
社会システムを統括する海神宮家に彼女は関わる。
「〈ALM〉の〈キュベレー〉は、
誤りを探すのが役目。
エラーがあれば〈更生局〉が対応する。」
「エラー…僕が『変』だから、
〈更生局〉に引っかかったってこと?」
マオはイサムを『変』だと指摘した。
しかし彼女は自分の言葉を自ら否定した。
「残念ながら八種くんはエラーじゃない。
エラーとはヒトが罪を犯すこと。
名府の〈更生局〉はエラーの個体を抹消する。」
「…抹消?」
マオの言葉に疑問を発した。
〈更生局〉は罪を犯した人を収容するための施設。
月曜のカフェに現れて窓を叩いた女や、
イサムを殴りつけた3年生のライオン頭、
上の階から屋根裏に潜んでいたストーカー。
収容された人はその罪状によって、
何年も〈更生局〉から出られなくなる。
「あっちの…転府の〈更生局〉では、
収容したヒトに年月をかけ更正を促している。
けれども過ちを犯したヒトが、
真に更生した事例がなかった。
〈ALM〉がどのように手引きし、
整備しても無意味だったの。
結果はエラーを繰り返すばかり。
こぼれ落ちた水。負の螺旋。」
人の社会は善意で成り立っている。
食べ物を買う、物品や知識や技術、
または労働力の対価を支払う。
包丁は食べ物を切るための道具。
車は移動手段であり、交通規則を守る前提。
そんなことは誰でも習い、誰でもわかる。
人を脅し、他者を威圧する道具ではない。
暴力と恐怖で相手を支配し、屈服させる。
あるいは言葉巧みに相手を欺けば、
簡単に相手から奪えてしまう。
社会のルールを捻じ曲げる行為。
犯罪こそがマオの言うエラー。
「一度でも過ちを犯したのなら、それは獣と同じ。
ヒトの定義を外れる。
だから名府はエラーを抹消した。」
「それじゃあ百花も?」
「亜光くんは転府に移動したわ。」
〈更生局〉に連行されたと思われた
亜光の行方がわかり、安堵の息が漏れる。
「妹さんも一緒なら逃避行ってやつかしら。
そんな程度で転府や名府の〈更生局〉は
出しゃばらないわよ。ふふ。」
「海神宮さんもそのために…?
人を抹消するために…?」
彼女は人を殺すための存在であるのか。
思考に言葉が追いつかない。
頭にかかった妙な束縛がさらに思考を鈍らせる。
それは今までの常識がくつがえったせいか。
マオの言葉を疑うことさえ憚られた。
「そう、ちゃんと『保護』が効いてるのね。」
困惑するイサムに、
マオは自らの顎に手をやり見つめる。
イサムの思考や発言がどこかで制限されるのは、
マオによる『保護』なるものが原因だった。
目に見えるもの全てが信じがたくなり天を仰ぐ。
天体の表面に植えられた針、〈受容体〉。
それが〈キュベレー〉に抜き取られる。
抜き取られた〈受容体《レセプター》〉は天体の極点に運ばれ、
天体の重力を離脱し〈光条〉に回収される。
これが名府の姿であり、〈更生局〉の行う抹消。
「私の役割は八種くん、
貴方の欠陥の隔離なの。」
「グリッチ…。」
彼女がイサムを常々『変』だと指摘していた。
それがグリッチに当たる。
〈キュベレー〉としての彼女の役割。
マオの額に第3の目はもうない。
絆創膏で隠してもいなかった。
「名府と異なる〈光条〉の重力下でも、
私が投げたボトルを受け取り、確認が取れた。
法則を理解し、予測する能力。
その発生原因を私が調べていたの。
八種くんがいつ、どうして、
グリッチとなったか。」
彼女がイサムの身近によくいたのは、
決して偶然ではなかった。
亜光の暴投したボールも、
ライオン頭をした3年生の拳も、
貴桜とのキャッチボールも。
それと部屋に散らかしたポテトチップスも。
全てはグリッチが原因だとマオは言う。
「…それで、原因がわかったんですか?」
「残念ながら、わからなかったわ。
どこかに頭を強くぶつけたのか、
ヒトが絶対食べない野草でも食べたのか、
八種くんに原因がないのなら。」
「そんな貧しい生活を
送ってるように見えましたか?」
彼女の口元に笑みがこぼれる。
「私は貴方の過去に起因すると仮定し、調査した。
ナノさん、ゲルダさん、お姉さんのハルカさん。
そして磐永チル。」
懐かしい名前に、イサムは目を見開いた。
それはハルカがマオに伝えた、
イサムの幼なじみの名前だった。
イサムは3歳の時に劇団に入り、
『灯火ユージ』の名で舞台デビューした。
そこは後に『YNG』の振付師になった
若き演出家の属する劇団で、女優であった母親が
逢瀬を重ねる場所でもあった。
イサムはよく似た顔立ちの演出家に、
自分の知る父親が本当の父親ではないのだと、
自然と受け入れ、諦めていた。
父母や兄とは仕事での関係でしかなく、
なにかをねだったり甘えたりは一切なかった。
役者として全員が家族を演じていた。
身の回りの世話は〈キュベレー〉が常に付き、
家族とは肩書きに過ぎないと幼いながら
イサムは察して、愚かにも利口者を演じた。
磐永チルはイサムと同じ劇団の幼なじみだった。
同い年のチルとは同じ年に入所して、
稽古で顔を合わせることが多かったので
自然と仲良くなった。
丸い顔に太い眉毛が特徴の彼女は、
容姿端麗とは呼び難いが愛嬌にあふれ、
一部の高齢の観客には非常に好評だった。
5歳になったイサムは広告動画が
美少年と評されて人気を博すと、
ドラマや映画など多方面から出演を求められ
劇団に顔を出すことが減った。
それでもチルとは以前にも増して仲良くなり、
物陰に隠れて口づけを交わすなど
大人たちのマネごとをした。
幼かったイサムはチルのことを
自分の家族以上に好いていたが、
異性としての意識はまだ薄かった。
小学校高学年になると男女の身体の
発育の違いをお互いに意識してしまい、
顔を合わせるのが気まずくなった。
劇団にも顔を出すこともなくなった。
イサムの出演料は高騰を続け、
依頼は極端に減った。
11歳の頃には事務所に移り、母親の姓から
『九段ユージ』に芸名を変更した。
役者時代の『ユージ』の知名度を活かし、
振付師の元で歌唱ユニット『YNG』の
センターとなり方針を転換をする。
役者業を離れるとチルとはますます疎遠になった。
両親は報酬の件で毎日のように喧嘩をしていたが、
イサム自身は一切口を挟むことはなく
ずっと子供として『ユージ』の役を演じた。
中学に進学してチルと同じ中学校に通い、
ふたりは再会を喜んだ。
しかし歌手業と学業の両立は困難を極め、
2年の間、ふたりが密かに会える時間もなかった。
――――――――――――――――――――
「磐永チル。
八種くんの幼なじみの名前ね。
彼女の名前も〈更正局〉の記録にある。」
今日のマオはいつもに増しておかしなことを言う。
チルは犯罪者ではない。
「え…? 〈更生局〉…?
どうしてですか?」
「それは彼女が…、
強姦の実行犯のひとりだったから。」
「冗談…。」
思考が切れると同時に言葉が途切れた。
頭痛の煩わしさに眉間に深くシワを寄せた。
彼女が冗談を言うはずもなく、
そんなメリットはどこにもなかった。
マオの報告した内容に、
イサムは信じられず、反射で出た言葉に過ぎない。
マオもそれを察して、イサムを
いつものように否定はしなかった。
「八種くんを襲ったのはクラスメイトの6人。
通報と自白をしたのが彼女、磐永チルだった。
他の5人はいずれも犯行前後に
避妊薬を服用したけれど、
磐永チル、彼女だけは妊娠を望んだ。」
マオは赤土色の瞳でイサムをじっと見つめ、
事件の詳細を淡々と述べた。
「でも、チルは…。」
転府と名府では〈更生局〉の役割が異なり、
年月を経て出てこられる。
ついさきほどマオから説明を受けたが、
彼女にかけられた『保護』によって
イサムは声が出ない気がした。
彼女は首を横に振った。
「〈ALM〉は強姦による
ヒトの繁殖を許容しない。
その加害者であれば更正の余地なしとして、
接続を解除して磐永チルは抹消された。」
手にしていたボトルが床に落ち、
マオの足元に転がった。
「どうして…。」
信じられないイサムは、
ついにマオから目を背けて顔を伏せた。
「罪の自白をしたところで
犯した事実は消せはしない。
5人の共犯者を〈更生局〉に送って、
自らの罪が軽くなると思ったんでしょ。」
「チルはそんなことしない!」
頭の中の抑制を振り切って声を張り上げた。
「信じたくなければ信じなければいい。
私が嘘を言っていると思えばいい。
誰だって裏切られたくはないわよね。
利口者や道化でも演じれば楽になるわ。
それなら事実を嘘で塗り固めて、
妄想に浸ることもできる。
目を閉じて耳を塞ぐことも、
八種くんにはできるでしょ。
その権利まで取り上げる気はない。」
イサムに返す言葉はなく、
目を伏せて黙るしかなかった。
足元に水が流れている。
マオがボトルの水を床にこぼしていた。
器を失った水は床のわずかな傾斜から、
より低い排水口を探してゆっくりと移動する。
「器からこぼれた水は
高いところから低いところへ、
こうして逃げ道を探してさまようの。」
イサムには彼女の言動が理解できなかった。
それ以上に考えが追いつかなかった。
人類は絶滅した。
天体に植えられた黒色の針、
〈受容体〉として複製した人類、
〈NYS〉。
動物園で見たタヌキの映像が脳裏によぎる。
小さな部屋で小さな人工の水たまりを、
ストレスで歩き回る1匹のタヌキの姿を。
〈キュベレー〉であるマオにとって
複製させた人類は観察対象に過ぎず、
タヌキ同然の存在かもしれない。
虚像の顔の人たち。虚飾の世界。
「八種くんは暴行によって視力を失った。
でもそれはグリッチの発生には関係なかった。」
彼女の声は小さな部屋に響き、
聞く気はなくともイサムの耳にまで届いた。
イサムを『変』だとみなした理由をマオは探し、
いまこうして隔絶された空間にいる。
マオがここまで大げさな嘘をつく
その理由が、イサムには見つからない。
「八種くんの過去に原因がないのであれば、
私が投じられ、観測を始めた時点から、
グリッチが発生したと考えられる。」
勉強して高校に入学した当時を思い返したが、
入ってみれば女子ばかりの学校だった。
そのため、緊張と恐怖で記憶はおぼろげだ。
クラスに男子が3人だけだったのは驚いた。
イサムは勉強が得意でもなければ、
運動能力も高い方ではない。
ライオン頭との暴力事件で、
マオから指摘を受けるまでは
変であることさえ自覚しなかった。
公園で亜光がボールを投げるより前に、
ボールの落下予測がついていたことがある。
イサムはマオの胸元に飛び込み、
受け止めた彼女の鼻先が頭頂に触れた。
それよりも少し前に
カフェで襲われたときは咄嗟に動けず、
無様にも椅子から倒れた。
散々ないち日の始まりが、
昨日のことのように記憶は鮮明だった。
マオの言葉を思い返す。
「私が投じられ、観測を始めた時点。」
海神宮真央が出現したことで
海神宮家が存在し、クラスメイトだけでなく
名府に来た『SPYNG』のふたりや、
ハルカの認識さえも変えたことになる。
イサムがマオと出会ったは、登校直前の通学時間。
カフェを出て、〈3S〉を通る前の間。
彼女は何者かによって投じられた〈キュベレー〉。
「海神宮さんは僕を消せない。
グリッチを隔離する君の役割は終わった。」
イサムの半ば自暴自棄な言葉に、
マオは口を閉ざした。
〈キュベレー〉の役割は、
滅んだ人類にその事実を暴くことではない。
滅んだ人類の世界を安定させるための、
欠陥という存在の隔離。
目の前の〈キュベレー〉に
命乞いをすれば、グリッチが
元の場所に戻れる道理はない。
たとえ元に戻れたところで、
そこは人類が滅んだ仮想の世界
であることに変わりはない。
事実を触れ回ったところで正気を疑われる。
虚像と虚飾の世界に戻っても、
待ち受けるのは虚無でしかない。
利口者や道化を演じろと彼女は言った。
だがイサムはそれを拒んだ。
「グリッチなら、君は僕を抹消すべきだった。
こんな場所で僕を起こす必要なんて、なかった。
『保護』したことに意味があるんじゃないか?」
マオの言動のどこに意味があるのか考えた。
メリットはどこにもない。
マオが自らの部屋へ誘った理由は別にあり、
彼女を〈キュベレー〉と暴く為に
イサムは招待を受けた訳ではない。
「察しがいいのも困りものね。」
イサムの質問に対し、マオは返事を拒絶した。
「えっ…。」
拒絶によってイサムの意志とは別に、
身体はベッドに横たわり口も開けず目を閉じた。
海神宮真央という存在に逆らえない。
マオは『保護』によってイサムを従えさせた。
主従の関係が彼女の命令を強制的に実行する。
「おやすみ、八種くん。」
イサムは最後の抵抗に、眉間に深くシワを寄せた。
――――――――――――――――――――
長かった夏期休講が終われば、新学期が始まる。
ハルカが玄関でイサムを見送った。
まだ夏の名残りのある日差しの中で、
再び学校に通う日々が続く。
イサムは普段と変わらずいつものカフェに通い、
安いトーストに無料のバターを塗って頬張る。
垣根の向こうで青色のオープンカーが停まり、
運転席からシバさんがこちらを向いて手を振る。
通学路にある〈3S〉で、
頭を元に戻す〈デザイナー〉の行列を眺める。
学校近くの公園では、亜光と貴桜が
いつもと変わらずキャッチボールをしている。
クラスの女子生徒たちから視線を浴びる。
あいかわらず男子は肩身が狭い。
イサムは16歳の誕生日を迎え、
〈ニース〉になる選択肢ができた。
『ユージ』ではなくなることも可能だった。
1年はあっという間に過ぎ、
進級するとナノとゲルダが後輩になった。
高校を卒業して誰かと結婚する。
家庭を築き、子供を作る。
『イサム』として姉に誇れる利口者になれたか。
それとも誰かに笑われながら道化を演じるのか。
選択は無限に広がり、時間には限りがあった。
高いところから低いところへ水が流れるように、
日常はなにごともなく連綿と続く。
心のどこかで、溜め込んだ澱みを覚える。