こぼれる鼻血にハンカチで鼻を押さえる。
怒り心頭に発して睨みつける一十だが、
イサムは殴られたことに対して臆さない。
胸のすく思いすら感じていた。
割り込まれた荒涼は驚いたまま
平手が行き場を見失っていた。
「チョーシに乗んなよ、1年。」
一十が拳を固く握りしめると緊張が走る。
彼はライオン頭の〈デザイナー〉であると同時に、
肉体を変更した〈パフォーマー〉であり
〈ハイブリッド〉と呼ばれる〈ニース〉だ。
〈NYS〉の技術で身体能力を向上させた
〈ニース〉の呼称であるが、
肉体を使った仕事に就くことが多い分、
損傷も多くあるが、皆それをいとわない。
故障や破壊や欠損さえも
〈3S〉で修復が可能となっている。
自分の発言が引き起こした報いだったが、
血に染まったことはさほど気にならなかった。
さらに血の出ていない鼻の穴を抑え、
吸い込んだ鼻血を吹き出した。
胸のつかえが下りて気分がよい。
興奮状態なのかもしれない。
鼻血が香水と獣臭さを抑えてくれる。
目の前に立つライオン頭を見上げる。
丁度、亜光と貴桜を足したような大きさだった。
「先輩だって…
ちょっと早く生まれただけでしょう。」
一十が荒涼を押しのけると、
再び右の拳がイサムの眼前へと迫った。
拳が頬に触れる瞬間にイサムは
半歩外側に避けて制服の肘を掴むと
勢いのまま前方へと引っ張った。
攻撃対象のイサムを失った一十の拳は、
上体ごと床に倒れる事態を回避すべく
とっさに右足を前に出した。
見抜いてイサムは一十の足を引っかけた。
獣がうめき声を上げて床に倒れたところを、
イサムは飛び乗って背中にまたがる。
左腕を左足で押え
右脇から右腕を潜り込ませると、
イサムは両腕で一十の首を締め付けた。
一十はその拘束から抜け出すべく
足や膝でもがき、締め付けられる
右腕でイサムの顔を力なく殴った。
拳が当たった先はまた鼻で、
今度は反対の鼻腔から血が湧き出す。
「ちょっ、なにしてんのチビ!
ケイから離れなって!」
うつ伏せに倒された一十に加担して、
荒涼がイサムの背中を平手で叩いたものの、
リズムよく乾いた音が教室に響いたに過ぎない。
イサムはこれ以上顔を殴られないために、
一十のライオン頭のタテガミに顔を埋める。
息を吸い上げようにも、
鼻血が喉に貯まり咳き込む。
今度はタテガミから発せられた獣臭に当てられ、
鼻水と唾液混じりの血を吐き出した。
暴れる一十を抑えるために
イサムは自らの両手を握り、
前腕で相手の喉をさらに強く押さえた。
一十からの抵抗がなくなるとやがて、
張り詰めている肩の筋肉が緩むのが腕に伝わる。
イサムは一十を床に眠らせ、
立ち上がってまともな空気を吸った。
鼻から顎まで顔は血まみれになっていた。
寝転がった一十のタテガミの一部が、
見事なまでに赤く染まっている。
荒涼はなおも背中を叩き続けたが、
鼻血を吹き出すイサムの赤い顔に
小さく首を横に振ってその手を止めた。
マオはイサムの肩に手をやると、
後ろに押しのけて荒涼の前に立つ。
「それで荒涼さん。
ブスロブスターってあだ名、
訂正してもらえますか?」
「それ、気にしてたんだ…。」
思わず鼻で笑うと、
固まった鼻血の塊がすっぽ抜けた。
――――――――――――――――――――
透明な水は朱に染まると、
排水口へと吸い込まれていく。
イサムが手洗い場で血に汚れた顔を洗い、
鉄の味が残った口をうがいした。
女子生徒らの通報によって、
警備の〈キュベレー〉が駆けつけたときには
既に一十は床に倒れて気を失い、
荒涼がマオに謝罪をしていた。
その〈キュベレー〉により、
一十と荒涼は〈更生局〉に連れられていった。
また今回の事件に関わった人物の中に、
海神宮家の御令嬢がいたこともあり
混乱も速やかに収束した。
亜光いわく、海神宮家は
〈3S〉や〈個人端末〉といった
名府の社会システムを統括している。
今回の事件はマオは被害者という立場であり、
責任が問われはしない。
しかし自己と他者の為の正当防衛とはいえ
相手の首を絞めて気絶させたイサムには、
校則により1週間の謹慎処分が下された。
乾いた血を伸びた爪で剥がして洗い流し、
ハンカチで拭うとマオが近くに立っていた。
「テストは?」
「名前だけは書きましたよ。」
「追試確定ね。
…八種くんは変ね。」
「変?
それなら海神宮さんのが。」
「私のどこが変なの。」
「変ですよ。
ロブスターって言われたから、
3年生にケンカ売ったんですか?」
「ロブスターじゃないわよ。
ブスロブスターよ。」
「はぁ。」
「つまらない嘘を放っておく気に
なれなかっただけよ。あと恐喝も。
〈更生局〉が動く前にね。」
「結果は散々な感じになっちゃいましたが。」
「これも老婆心ってやつかしら。」
「好奇心の間違いじゃないんですか。
どんな会話をして怒らせたんですか?」
「怒らせた? ヒト聞きが悪い。
彼女は冗談がそんなに上手じゃないみたい。」
「海神宮さんが言いますか。それ。」
マオに言われてイサムは荒涼に少し同情した。
「八種くんこそ。
〈レガシー〉なのに、変よ。」
マオがそう繰り返した。
彼女の言う〈レガシー〉は、
〈ニース〉によって容姿や肉体を
変更していない人や、
変更できない15歳以下の人をさす。
つまりただの〈NYS〉のままの人間だ。
人類が残した遺産である、と
仰々しく名付けられた〈レガシー〉だが、
この名府においては懐古趣味とみなされ
〈レトロ〉とあだ名される場合もあった。
転府ではイサムや姉のハルカなど
生まれつき整った顔立ちは天然物とも評され、
今は『聖礼ブーム』と呼ばれる流行によって
名府の〈ニース〉にコピーされている。
「その、どこが変なんですか?
〈レガシー〉は、普通じゃないですか。」
「あぁ、価値観の問題じゃないの。
殴られて見事に避けたじゃない。」
「殴りかかってくる相手なら
そりゃ避けますって。」
好き好んで殴られる趣味はなく、
それに1発目は当たりだった。
「運動神経よかったのね。」
「まぐれ…ですよ。
すごい大振りだったじゃないですか。
僕はそんなに機敏でもないし。」
カフェで襲われそうになって
椅子ごと倒れたのを思い出したが、
それを口にするのは控えた。
マオの表情はなおも疑い深いままだった。
質問はまだ続く。
「じゃ、今朝のボールは?」
「ボール…。」
公園で亜光が投げたボールがすっぽ抜けて、
取ったときにはマオの胸に収まった。
思い出してイサムの顔が急に熱を帯びる。
「やっぱり八種くんは、変なのよ。」
マオがひとりで納得してうなずいた。
彼女は僕を変だと言った。
人類が〈キュベレー〉をつくるより遥か昔。
〈人類崩壊〉以前に百獣の王とも
呼ばれた動物がライオンだという。
食肉目の大型野生動物であり、
日がな一日ごろごろと寝ているので
動物園ではとても観察しやすい。
オスとメスではタテガミの有無が
判別の材料になり、老若男女誰にでも
わかりやすい優秀な商品だった。
本来ライオンという動物は乾いた草原に棲む。
十数頭のメスが集団で狩りをして
ときに子育てをし、数頭のオスは
メスを他所のオスから守る。
厳しい野生環境では、
自らの遺伝子を残すために群れを形成する。
いまでは雌雄2頭が
コンクリートで作られた土地と、
水堀と鉄柵で囲んだ檻に展示してある。
私はこの転府、聖礼市に
広大な『檻』を創生して財を成した。
檻の中にいる復元した機械動物を見ようと、
毎年何千万の人が訪れた。
映像でしか見られなかった動物が、
機械動物として復元されて喜んだ。
海洋生物を復元し、水族館も建てた。
娯楽に飽くなき人は、こぞって群れをなした。
音楽や演芸など個人や集団で
生み出せるこれらの娯楽に比べ、
檻の世界は人々を魅了するものだった。
人は〈人類崩壊〉以前の世界に関心が高い。
〈NYS〉になり、転府で暮らす人々には
潜在的に、望郷の念があるのではなかろうか。
ただそれはあくまで私の想像に過ぎない。
過去に恐竜を復元したこともあったが、
男性以外からの評判はすこぶる悪かった。
曰く幻想の度が過ぎるのだと。
生身の映像が保管されているわけでもない。
湖に浮かぶ首長竜など冗談染みた映像の典型だ。
卵生で哺乳類のカモノハシに比べれば、
私にはまだ理解可能な範疇であるとも思う。
恐竜は商品サイズに比例して
施設も大きくなりがちなので、
結局短期間で閉園した。
水族館では恐竜時代よりも、
遥か昔に繁栄した巨大エビなども
復元を試して併設展示したが、案の定
誰からも見向きもされない代物になった。
それでも大勢の人が私の前に列をなし、
貴重な機械動物を自分のものにしたいと考えた。
並ぶ人の数が多ければ多いほど、
購入価格で競い、商品の値段は釣り上がっていく。
生命に対する支配欲、希少性に対する独占欲が、
人を動かす原動力になるのだと理解した。
とても不思議な光景だった。
鏡の前の醜い動物の輪郭を思い出し、
笑いがこみ上げた。
同時に私の中に強烈な退屈を生み出した。
人生道半ばで満足することに
強い不快感を覚える。
群れの中の動物を見て、
満足する私もまた
〈NYS〉でできた動物だ。
不快感の正体は同族嫌悪。
人という動物の集団が文化を生み、
社会を作り、文明を築いた。
他の生物と共に滅びゆく運命の中で、
どういうわけか環境耐性となる
〈NYS〉を編み出した。
新青年構想。
〈NYS〉は生命の自然な変化ではない。
もちろん、趣味や偶然の産物でもない。
全て〈ALM〉が作り出したものだ。
趣味に生きるいまの人には
到底編み出すことはできない。
その原動力はなにか。
檻の中の、ライオンを眺めて考えていた。
オスとメスの性差か。
生存率を高める為に野生では群れをなす。
異性に対する魅力、
たくさんの子を生み育てる肉体。
ライオンは狩猟を行う。
かつては人も同じであったという。
肉体、能力の差…。
餌を獲得しやすければ、
雌雄に関係なく魅力はある。
資産による格差…は動物にはない。
クマやリスのような冬ごもりであっても、
食料の貯蔵には限度がある。
土地・家屋・金銭は人が持つものだ。
人が持つもの…。
暴力と支配…。
絶滅に対する恐怖か…。
叔父との記憶が蘇り、深くため息をつく。
50歳を過ぎて独身の私に相利共生や愛など、
綺麗な言葉が思い浮かぶはずもなかった。
群れを成すライオン。百獣の王。
その群れを破壊するのもまた同族のライオンだ。
メスを守るべきオスが
他所からきたオスに負けてしまうと、
育てていた子供は噛み殺されてしまう。
これはメスの発情を促すための行為とされる。
他所からきたオスが群れの頂点に立ち、
自分の遺伝子を残す。
人が他人の家族の子供を殺めれば、
ただちに〈更生局〉に連行される。
当然の帰結だ。
詐欺・窃盗・殺人などが起きれば
〈更生局〉が対象の人を隔離する。
他者を欺き、陥れてはいけない。
落とし穴を作ってはいけない。
破ったものは〈更生局〉によって
社会から隔離されるのが世の理。
それが社会のルールだ。
同じ動物であっても、人とライオン。
自然との違いはここにある。
文化、社会、文明には必ずルールが存在する。
それは人が生み出した知恵であり法だ。
しかし法にも限度がある。
環境耐性だ。
自然が生命に死を与える。
自然の変化で生物が死に至る状況であれば、
〈更生局〉の出番はない。
過去の人類は〈NYS〉を編み出す
必然に迫られた。
だが〈NYS〉を編み出したのは自然ではない。
同じく人が編み出したものだ。
群れの古きオスが死に、新たなオスが
自らの遺伝子を残す為に生み出した
新たな法だ。
〈NYS〉、〈更生局〉、〈キュベレー〉…。
転府に生きる全ての人の法が、
なにによって築かれてきたか。
想像するだけで笑いがこみ上げてくる。
その想像が私の退屈を埋めてくれる。
さぁ、〈ALM〉でできた『檻』を抜け出そう。
「最近、視線を感じるんだが…。」
座卓を囲む中で、イサムが
話題を提供するつもりでつぶやいた。
亜光百花と貴桜大介。
いつものふたりが、
手元の教則から目を離して
イサムの顔を見上げた。
「それ、この勉強会よりも面白い話?」
貴桜はただでさえ少ない集中力が尽きて、
教則を手にしたまま寝転がった。
「謹慎で外に出ないだろ、イサム。」
「まぁ…そうだけど。」
イサムは週明けの一件で
一週間の謹慎処分が下り、
家から一歩も出ていない。
それ以前に名府移住者向けのテストを、
名前しか書かなかったので
校則に従い休日の外出はできない。
ひとり暮らしには持て余すサイズの冷蔵庫に、
タイミングよく送られてくる大量の冷凍食材。
保護者代わりの姉から、
お古のランニングマシンと
ぶらさがり健康器まで提供を受け、
小さな部屋の一角を占領している。
謹慎に至った事件については
姉から叱責を受けなかったが、
テストはメッセージでのみ忠告を受けた。
そんな訳でイサムは一切外出せずに済み、
週末に亜光を招いて勉強会となったのだが、
学力の怪しい貴桜までもセットとなった。
貴桜はデニム地のジャケットとパンツに、
長い身体を狭い部屋いっぱいに伸ばして
逆立つ金髪が床と水平を保って横になる。
亜光は普段どおりの丸刈りにメガネで、
アロハシャツという〈人類崩壊〉以前の
伝統的な服とハーフパンツという出で立ち。
夏はまだ3ヶ月も先なので、
見ているだけで肌寒さを感じる。
おしゃれなふたりとは対照的に、
イサムは中学校時代に買った
紺色の体操着を部屋着にしていた。
「おい大介。サボんじゃないよ。
はじめのうちからちゃんと
勉強しないと留年するぞ。」
「なぜオレが休日に〈人類崩壊〉以前の
歴史なんぞという退屈極まりない勉学に
精を出さねばならんのだ。」
「テストで赤点を取らない為じゃないの?」
「イサム。その回答はつまらないから追試。」
「イサムの真面目さが
大介にも少しぐらいあればな。」
「オレぐらい真面目だと
謹慎にはならないぜ。」
「これが面白い回答というやつだ。」
「面白くはないよ。亜光教師。」
亜光のことはたまに教師と呼ぶ。
〈人類崩壊〉以前、人間の教育・指導は
すべて人間が行っていたが、現在では
教育用の〈キュベレー〉が用意され、
『教師』と呼ばれる役職は存在しない。
また当時は教師による検挙数の多さから
『反面教師』と呼ばれる事例・熟語が存在し、
道を外れた者に対して『教師』と略して使われた。
妹を溺愛している亜光を、
同様に道を外した者として
貴桜がこう呼んでいたのをイサムもマネた。
亜光をたしなめる時に使う別称となった。
「んで、見られてるってのは、
カフェのときからそうなんだけど。」
「出たよ、タダ食い。」
「だからタダ食いじゃないって。」
月曜の朝に通う『カフェ名桜』でイサムは、
安いトースト1枚の為に訪れる迷惑な客となる。
「〈ニース〉見んのに慣れて来たから、
外側への意識が今度は内側、
自分に回るようになったんだろ。」
あいまいに唸りながらうなずく。
亜光の言う通りかもしれない。
「仮にそうだとしても、だ。
部屋にいる今現在も見られてる
って感覚はあるのか?」
「どうなんだ?」
「仮に、な。」
考えながら天井を見上げ、
さらにはぐるりと部屋を見渡してから
窓の向こうを眺めた。
ベランダに誰か立っているはずもなく
7階建ての4階の部屋の先には、
半地下構造の高速道路を挟んだ大通りと、
遠くの木々に埋もれる緩衝緑地の公園が見える。
貴桜も窓の外を眺めてふたりは現実逃避に励んだ。
「ひょっとするとストーカーかもな。」
「ストーカー?」
「動物園知識だが、
動物が狩りをするときの――。」
「百花のうんちくはどうでもいいぜ。」
「亜光の話はすぐ横道にそれる。」
「教師だけにな。」
生徒たちから不満が上がり、
教師はメガネをそっと押し上げる。
「つきまとい行為だそうだ。
これは知人同士でなくとも成立する。
その人のファンであるとか、
道端ですれ違った他人が、そら似や
ひと目惚れで家まで追いかけたり。
前世の記憶がよみがえったとか。
相手に一方的にメッセージを
大量に送りつけたり。」
「あぁ。この前みたいな。」
「教室まで押しかけたり。」
「あるな。」
「家まで来たり。」
「先輩以外にも気をつけろよ。」
「気づいたら家の中にいて、
料理作って待っていた、とか。」
「こえぇ…。」
「一方的な愛の押し付けだからな。
それで顔も名前も知らない相手の
手料理食って、結婚を決意した。
…とか、してないとか。」
「どっちだよ。」
客人ふたりは相談者である部屋の住人を
置き去りにして盛り上がっている。
「僕はどう反応したらいいのさ。」
「タダで料理作ってくれるんなら
食料には困らないだろ。」
「イヤだ、怖すぎる。」
「〈更生局〉案件だな。
でも相手が接触してこない限り、
どうしようもない。
こっちの様子をずっと遠くから
覗いてるだけかもしれないしな。」
「来てくれるといいなぁ、イサム。」
「他人事だと思って…。」
不安がるイサムを他所に盛り上がっていたとき、
部屋にインターコムが鳴り響く。
音の大きさにイサムは肩を驚かせたので、
亜光と貴桜がそれを見てさらに笑う。
「これがストーカーだったりして。」
「こえぇ…。」
「ウチがオートロックなの知ってるだろ。」
マンションの玄関にカメラがあるので、
室内からそれを見ることができる。
しかしディスプレイに映し出されたのは
玄関ではなく、扉前の廊下であった。
「えぇ…。」
イサムは驚き焦り、慌ててディスプレイを切った。
ふたりにはなにも言わず
玄関へと小走りして、
ドアスコープを覗く。
燃えるような赤色の髪に
額の絆創膏はうっすらと隠れ、
白色のパーカーを着たクラスメイトが
部屋の扉の前に立っていた。
「なんで…?」
扉の向こうに立つ〈サーディ〉のマオが
見えないはずのイサムを見て微笑んだ。
――――――――――――――――――――
鍵を開けた瞬間に、イサムは
いくつか後悔と疑問が湧き上がる。
日頃の癖で警戒してドアガードをかけてしまった。
彼女相手であればその必要はなかった。
しかし彼女が訪問する理由がわからない。
親しくもない異性のクラスメイトがなぜ
マンションの玄関ではなく、扉の前にいたのか。
それ以前に、扉を開けず、
居留守を使えばよかったかもしれない。
生唾を飲んで顔を上げた。
燃えるような赤い長髪を、
今日は後頭部に束ねて丸めている。
そして亜光の話が脳裏によぎる。
心の中でマオがストーカーかも
知れないと疑いを持った。
「こんにちは、八種くん。お久しぶりね。」
マオのささやき声を聞いて、
同意の意味でうなずいた。
謹慎を受けたので月曜以来、彼女には会ってない。
だが休日昼間に彼女が訪れる理由もなかった。
「なんの用でしょうか? どうして、ここに?」
「引っ越しの挨拶。前に言ったでしょ?」
「あっ!」
忘れていた。
通学路の〈3S〉の前で会ったときに、
ひとり暮らしの為の下見と言っていた。
「まさか? …このマンション?」
「そうよ。お隣。」
「スぅ…。」
思わず声を上げてしまいそうになり、
口元を抑えて目を伏せた。
嫌な予感は的中したかもしれない。
「これ、引っ越しのお土産?」
「なぜ疑問形なんでしょうか。
これはわざわざご丁寧に…。」
受け取った手提げ袋が軽く
音を立てるので中身に視線を落とすと、
芋を薄切りにして高温の油で揚げた
お菓子のポテトチップスだった。
「えぇっと…?」
「せっかくお茶請けを用意したのに、
失礼にもドアガードをしたまま
私を追い返すのかしら?」
「驚くぐらい厚かましいですね。」
あまりに堂々とまくしたてるので、
ドアガードを解除し扉を開放してしまった。
流された自分に後悔した。
その長い脚にデニムのスキニーパンツと、
赤茶色のローファーを脱いで玄関に上がり込み、
マオがイサムとの間を詰めた。
「いや、ちょっとまってください。
どうしてしれっと上がろうとしてるんですか。
それもポテトチップスひと袋で。」
「なにを言ってるの。
通常の2倍サイズじゃない。
ふた袋分よ。」
「特別サイズでさも当然だと言わんばかりに。
普通にそこらで買える駄菓子ですよ。これ。」
「もう手遅れね。
部屋に上げた私を力づくで
無理やり追い返す勇気が
八種くんにあるのかしら?
立場が危うくなるのはどちらか明白よね。」
「それは…ズルいですよ、それは。」
海神宮家の御令嬢に敵うわけはない。
庶民の抗議は虚しく、
先客のいるダイニングに案内した。
「3人でなにしてたの? エッチなこと?」
思いがけない来客に、
先客ふたりも驚き目を点に口を開けた。
客人に驚いたのか、
その言葉に驚いたのかは定かではない。
マオの突飛な発言にイサムは鼻水を吹き出す。
「健全な男子の勉強会に、
なんではしたないこと言うんですか。」
「健全な男子ならボノボぐらいしないの?」
「しませんよ。そんなの。」
マオと亜光の会話に意味がわからず、
貴桜とイサムは顔を見合わせ首を傾げた。
「なに? ボノボノって。」
マオの猥談に亜光が返答に窮した。
「女子の間ではいち大ジャンルだそうです。
今日はそういう勉強会でしょ。」
「そんな勉強しません。」
「デブは勉強会のつもりだろうけど、
オレは違うな。」
「あら。ほらほらほら。」
「大介は弟たちの面倒見るのが嫌で
家から逃げてきたんですよ。」
「オレが負けたみたいに言うない。」
「ほんとにただの勉強会ですよ。」
机の上の教則を見せる。
「俺は妹との楽しい休日が台無しだぜ。」
「みんなきょうだいがいるのね。」
「そういやイサムもいたな。」
「兄貴と姉貴だろ。」
「そんな話してた、してた。
勉強で頭いっぱいで。」
「ウソをつけ。サボってたじゃん。」
「んで。海神宮さん、なにしに来たの?
イサムとおデートのお誘い?」
「冗談が下手ね。
引っ越しのご挨拶よ。」
「…だって。これお土産?」
イサムが座卓の真ん中に紙袋を置く。
疑問形で。
ふたりは歓声の後で
覗き見た袋の中身に嘆息を漏らした。
「なに? 肉みそのがよかった?」
海神宮家の御令嬢が用意したとは思えない
ギャップの品物だった。
「あまりご冗談がお上手じゃないね。
あ、前に下見って言ってたな。」
「隣に引っ越してきたんだよ。」
「よりにもよって? なんだそりゃ。」
「八種くんは、
どうしてひとり暮らしなんてしてるの?」
「海神宮さんも知らんのか。」
「本人の希望を無視して
調べる上げることもできるわよ?」
「こえぇ…。」
「姉が僕の保護者になったからですよ。
姉は仕事で転府にいます。あ――。」
「やっちまったぜ。」
貴桜がポテトチップスの袋を開けた瞬間、
中身を盛大にばらまいて嘆いた。
イサムはその前に貴桜の失敗を察して声を上げた。
「ふたりはこっちが地元なんでしょ?」
「そう。大介とは同じ中学だし。」
「そのときは、こいつと
ひと言も喋ったことないけどね。」
「イサムは姉貴がすごい美人のモデルだよな。」
「そうかな。すごい厳しいよ。
それにひとり暮らしの理由というか、
隠してるわけでもないし、調べなくても
聞かれれば普通に答えますよ。」
「なんだ。そうなの? ガッカリね。」
「残念がるところですか。」
「秘密のひとつやふたつあったほうが
楽しいじゃない。調べる方は。」
「こえぇ…。」
亜光が持ち込んだ紙コップに、
粉末の紅茶を入れて湯を注ぐ。
室内にフルーツの香りが漂い
マオが興味深そうに覗いている。
「御令嬢のお口に合うかわかんねぇけど。」
「ポテチ持ってくる御令嬢だぞ。」
「私を貧乏舌だとでも言いたいの?」
「百花がまた怒らせた。」
「俺ぇ?」
「歌手活動辞めて両親が離婚したのを機に、
姉の名字をつかって生活はじめて。
卒業生だった姉に無理やり願書かかされて
こっちに越してきたんですよ。聞いてます?」
マオはポテトチップスと紅茶に夢中だ。
「生活費もその姉ちゃんが出してんだ。」
「いいねぇ。姉弟愛。」
「教師はいつもそれだ。
見ての通り、貧しい思いしてるよ。」
「愛ねぇ。」
亜光が戯れに言った言葉を、
マオはポテトチップスを摘んで繰り返す。
「海神宮さんはホントに
イサムと付き合ってないの?
百花がストーカーじゃないかって
さっきから疑ってるんだけど。」
「おい。言ってませんからね。俺。」
からかい半ばに貴桜が質問をした。
ぶち撒けたポテトチップスの
後始末(拾い食い)をしつつ。
ストーカーの話題を出していた矢先に、
マオ本人に尋ねたので当然それを亜光が止めた。
「なにかの冗談?」
「僕が最近、誰かに見られてる気がして
ふたりに相談したら、亜光が
ストーカーの仕業じゃないかって。」
「そしたら見事なタイミングで
海神宮さんが来たから、こいつが
ストーカーだと疑ってんですよ。」
「大介だって言ってただろぉ!」
巨体が立ち上がって喚く。
もはや勉強会どころではない。
「八種くんひとりを
ストーキングするなら
誰か雇ったほうが早いわね。」
「いやぁ、そこに
愛はあるのかなって話ですよ。」
「ぶっこんでくなぁ、大介。すげえよ。」
「愛があれば、相手に押し迫って
いい理由にはならないわね。
そんなことしたら〈更生局〉が
必要なくなるじゃないの。」
「正論でぶん殴ってきた。」
「ポテチひとつで
部屋まで上がりこんだくせに…。」
「これあまり美味しくないわ。」
イサムのぼやきは無視された。
自分で持ってきたポテトチップスの味は、
どうやらお気に召さなかった。
「ポテチなら自分で作った
できたて熱々が1番ですな…。あ?」
マオは突如立ち上がって額の絆創膏を取ると、
窓から周囲を見渡して外の公園を見下ろした。
亜光の話どころか自分の話でさえ
まるでどうでもいい事であったかのように。
「あぁ、いた…。」
それからマオは絆創膏を貼り付け、
何事もなかった風を装って紅茶を口にした。
10分後、イサム宅に新たな客が訪れる。
イサムの部屋の玄関に、
ひとりの少女と1体の〈キュベレー〉が立つ。
黒髪のウィッグをした〈キュベレー〉は、
海神宮家の御令嬢であるマオの警護用機械人形。
今日も変わらずメイド服を着ている。
それから機械人形の前に立つ小柄な少女が、
夜来ザクロであった。
ザクロはイサムのクラスメイトであり、
月曜日に不幸の手紙なるものを送りつけた
実行犯のひとりだ。
ザクロは色素の薄い白い顔に
まるで光を反射させない真っ黒な髪を、
以前の容姿のまま目を覆うほど伸ばしている。
今日は休日なので制服姿ではない。
黒色のケープにフードを被り、
ほつれが目立つ破れた黒色のコート姿は
6月上旬とは思えない暑苦しい服装だ。
右腕と頭には包帯が乱暴に巻かれている。
「いくらなんでもこれは…手荒くないですか?」
「それ〈キュベレー〉のやったことじゃない。」
「これは前世で負った名誉の負傷なので…。
くふふ。」
「前世の負傷は現世に関係ないだろ。」
ザクロは相変わらず元気そうに、
亜光にしか意味のわからない言葉をつぶやく。
〈キュベレー〉に連れられる道中で
私的制裁を過剰に受けたのかと按じたが、
これらはすべてザクロのファッションであった。
マオが窓から公園を見下ろしたしばらく後に、
彼女の合図で玄関に全員集合している。
なぜか流れでイサムの部屋の玄関で
ザクロを出迎えていた。
この状況を彼女は妙に楽しそうに不気味に笑う。
「すげえ格好…。」
「なに持ってんだ?
マルチコプター?」
「大砲か。」
「カメラだろ。」
ザクロは両の手に
プロペラのおもちゃを抱えていた。
六角形のフレームの角には2重のローターがあり、
中央には大きなカメラレンズが備わっている。
それがマルチコプターと呼ばれる種の、
無人航空機のラジコンだった。
「わかったぜ、盗撮だ!」
「これは誤解。そう誤解なの。」
「そのラジコンは? 夜来さんの?」
「これが本物のストーカーか…。
初めて見る。」
「誤解…、いえ偶然よ。そう。偶然。」
「あからさまに言い直した。犯人だ。」
「なんで貴桜たちそんなに楽しそうなんだ。」
「今日は公園でこれを飛ばして遊んでたの。
そしたらこの〈キュベレー〉さんに見つかって、
理由もわからず連れてこられちゃって。
信じて。前世の記憶を思い出して。」
「だから前世ってなんだよ。」
「輪廻転生。生まれ変わって、
前世では恋人同士だったとか。」
「なんでそんなもんに詳しいんだ。」
「俺と妹のような運命的な関係を
あらわした適切な単語だからだ。」
「妹、騙されてないか?」
「よくある詐欺の手口ね。」
「海神宮の御令嬢から許可が出たぞ。
百花も現行犯だぜ!」
「ご冗談でしょ?」
亜光と貴桜にマオが混ざって
廊下の奥で盛り上がる。
「ちょっと静かに。
夜来さんそれ、誤解でもなんでもなく、
まぎれもない盗撮ですよね。」
「盗撮じゃないとは否定できないわね。
くふふ。」
なにひとつ疑惑が払拭できない
白々しい演技を重ねる彼女の弁明に、
部屋の住人があきれるしかなかった。
「ついにウチのクラスからも
ひとり〈更生局〉行きかぁ。」
「なんで大介が嬉しそうなんだ。」
「知ってるやつが捕まったらおかしいだろ?」
「もし俺がえん罪で捕まったら?」
「えん罪ってなんだよ。」
「罪を犯してもいないのに捕まることだ。」
「そりゃ絶対に笑うね。」
「大介、お前は追試だ。」
後ろのふたりは放っておいてイサムは話を続ける。
「〈更生局〉って…、
それじゃあ夜来さんどうなるの?」
「〈更生局〉はねぇ。
犯罪者を拘束して、反省を促すために
一定期間収容する場所だから。
私に反省の見込みがなければ、
一生〈更生局〉暮らしかしら。
名ばかりよね。くふふ。」
ザクロは余裕を持って丁寧に説明する。
「さてそれでは問題です。
私が反省するところはどこかしら。」
「反省の見込みなさそうだ。」
「あきらかに素行不良だもんな、その格好。」
「お前のその髪型も言えたもんじゃないぞ。」
「お前の体型だって不良じゃねーか。」
狭い廊下で騒ぐふたりに
イサムは辛抱強く堪えた。
「私がどんな罪を犯したのか。
誰がどんな被害を受けたのか。
それを証明できるものはありますかしら?
どうかしら。」
「なに言ってんだ。撮影記録があるだろ?」
「あーそれだ!」
「あらっ、そうだった。
私ってばうっかりさん。
でもね、これで八種くんのお着替えとか
お風呂場とか、盗撮したわけじゃないからね。」
「そんなこと言われて、
この場で確認したくないんですけど…。」
「そんなの見たって誰にもメリットないわよ。」
「酷い言われようだな、イサム…。」
悪びれる様子もないザクロは
ラジコン本体から〈記録媒体〉を取り出して、
包帯が巻かれた右手からイサムに手渡す。
取り出した爪ほどの大きさしかない棒状の
〈記録媒体〉は薄く細く小さい。
そのため巻かれた包帯の隙間を滑り落ちて、
玄関に置かれた靴と黒色のタイルに紛れ
どこかへ消えてしまった。
「あ。」
「証拠隠滅だ!」
「私と八種くんとの初めての共同作業が…。
これは不可抗力! 不可抗力です!」
「お前はなにを言っとるんだ。」
「どこに落ちたんだ?」
「わかんない。」
ザクロと貴桜たちが廊下で大騒ぎする中、
〈記録媒体〉を見失って焦り、
イサムはよつん這いで探す。
「天井裏とか?」
「適当な事抜かすな。」
「偽証罪だな。」
なにかがぶつかる物音が
上の階から響いて一瞬耳を傾けた。
「私の靴の中よ。」
マオが指差して落ちた場所を教えた。
彼女のローファーを逆さにすると、
目的の〈記録媒体〉が手のひらに落ちてきた。
「どうして海神宮さんはわかったのかしら?」
小さな照明の薄暗い玄関では
イサムには見えなかった物が、
後ろに立っていたマオには見えていた。
立ち上がってザクロの顔を見ると、
窮地に立たされているにも関わらず
不敵な笑み浮かべている。
そんな彼女の後ろに立つ
マオの警護用〈キュベレー〉が
廊下から部屋の天井を見上げた。
機械人形のおかしな動作に振り向いて
マオの顔を見ると、彼女もまた
廊下から天井を見上げている。
彼女の額にある第3の目が、
照明に反射して赤く光っている。
その視線は玄関からダイニングに向かい、
彼女は部屋の奥へと誘われて歩き出した。
容姿や肉体を変更した〈ニース〉の中でも、
彼女の額には自在に操ることのできる
第3の目と呼ばれる〈サーディ〉を持っている。
貴桜を避け亜光を洗面所に押し込んで退かすと、
マオはダイニングに入って天井を眺めた。
彼女の〈サーディ〉には廊下から脱衣所、
トイレ、ダイニング、それから寝室に至るまで、
天井には光点が等間隔で浮かび上がって見えた。
「なにかいるのぉ?」
天井を向いたまま歩くマオの奇行に、
ザクロは愉快そうに呼びかける。
マオはザクロを無視し、
イサムを見てから尋ねた。
「八種くん、天井になにか飼ってる?」
「なにか? ってなんですか?」
「このくらいの、大きさの、…ネズミ?」
マオが腕を左右にやや小さく広げて見せた。
「飼ってませんよ。
それにそんなに大きなネズミいるんですか…。」
「こえぇ…。」
「なんだ?」
イサムの言葉に反応したのか、
天井裏の物体が動きを見せて
ダイニングに物音が小さく響いた。
「あれぇー?」
〈キュベレー〉は連行してきたザクロを
その場に放置して、部屋の外の
廊下を走り去ってしまった。
「どっか行っちゃったよぉ?
いーのーぉ?」
廊下の外から金属の破裂音が響いて
ザクロの声はかき消された。
「いた。」
「…なにがいたんですか?」
「ヒト。」
「ひと? がいたんですか? ひと?」
イサムが同じことを2度尋ねたのは、
なにを言っているのか混乱したからだった。
「天井ってさ、だれか入れるの?」
「そりゃ点検口があんだろ。
配線調べたりするために…
小型の〈キュベレー〉が…点検したり…。
いや、どうやって入ったんだ?」
亜光の押し込まれた洗面所の天井にある点検口は
当然、同室内からしか入れない。
それを察して不気味さに亜光は身震いを起こす。
「自分の部屋の床をくり抜いて入った、
上の部屋の住人でしょうね。
50cmくらい〈デザイナー〉。」
「50cm?」
「人類史上、最小サイズのね。」
〈ニース〉でも変更が可能な
身体の大きさは、〈人類崩壊〉以前に
記録された基準を規定にしている。
身体の大きさには限度があり、
山のような巨人やアリのような小人に
誰もがなれるわけではない。
制限がなければ濫用の恐れもある。
『ヒトの形の範疇であること。』
それが〈ニース〉の制約だ。
「50cmって…これくらい?」
イサムが前腕2本分の長さを広げて、
だいたいの大きさを想像で示す。
「嘘だろ。オレん家の下の弟が
産まれたとき、そんぐらいだったわ。」
「いくらなんでも小さすぎやしないか。
イサムの3分の1くらいか。」
「もっとある!
…160cmはあるわ!」
反射で反対したイサムは、
反芻に間を置いて再度反論する。
実際は160cmには満たない、些細な反抗だった。
「狭くても小さきゃ動かす手足が短い分、
自由に動き回れるってことか。」
貴桜が立ったまま肘を曲げた状態で、
手首だけで小さく平泳ぎの仕草をしてみせた。
マオが〈個人端末〉を両手で開いて、
〈キュベレー〉視点の映像を取得した。
映像は上の階の部屋にあたる。
部屋の構造はイサムの部屋と同じだ。
「床下に侵入経路を掘って、
そこから満遍なく測定機器を置いてる。
室内の移動や生活音なんかの
八種くんの活動を監視してたんでしょう。」
「そんな危ないやつが、
イサムん家の上に住み着いてたのかよ。」
「俺らも見られてたってこと?」
「そうなる。」
マオは平然とうなずくが、
男3人は背筋に冷たいものを感じた。
「ねぇー! ボノボでもしてたのぉ?」
「だからしてねえよ!」
廊下でぽつりと立っていたザクロが、
マオと同じようなことを言ったので
亜光がすぐさま否定した。
「どうなってんだ、ウチの女子は。」
「なんの話をしてるのさ?」
「そんなの一般教養よ。」
「一般であってたまるか!」
「そんなに口答えしていいのかよ?
海神宮家の御令嬢だぜ。」
「ぐぅっ。」
貴桜の私的に亜光は目を強く閉じて、
無力さに下唇を噛んだ。
「ストーカーって本当にいたんだな。」
「だから言ったじゃん。」
「それじゃあ、私は彼女連れて帰るわね。」
「お勤めご苦労さまです。御令嬢。」
「〈更生局〉帰りみたいに言うな。」
「私、えん罪なんですけど?」
「そうね。悪かったわね。」
扉は閉まった。
残された男3人は、
マオによって連れ去られるザクロの最後を見送り、
顔を見合わせ天井を見上げた。
冷めた紅茶とポテトチップスをつまむ。
「なあこれ。上どうなってんだろ。」
「上?」
「まだこの部屋監視されてたり。」
「えぇ…どうしよ。」
「どうしよったって。なぁ。」
「そうだな。俺らにできることと言えば、
帰ってメシ食って寝るぐらいだな。」
「あぁ…、オレもそうだな。
忘れてたぜ。大事なことを。」
ふたりは荷物をまとめて立ち上がった。
「え? 帰るの? テスト勉強は?」
「あぁ、達者で暮らせよ。」
「いなくなってもオレたちのことは
気にしなくていいぞ。」
「見守ってるからな…、イサムのこと。
天井から。」
「怖いこと言うな!」
またふたりが帰るのを
今度はイサムひとりで見送った。
その晩はいつも通り布団に入り、
眠ろうとしたものの目が冴えて寝付けなかった。
謹慎も明けた月曜の朝、制服に着替えて
歯を磨き出かける準備をしていると、
インターコムが鳴り響いた。
早朝の来客に心当たりはない。
イサムはいつものトースト目当てで、
『カフェ名桜』に行く大事な予定があった。
歯ブラシを咥えたまま
ディスプレイに表示された人物を見て、
唾液混じりの歯磨き粉を床にこぼした。
ドアスコープを覗けば
隣部屋の住人、マオが制服姿で立っている。
燃えるような赤い髪を真ん中で分けて、
額にはいつもの絆創膏を付けている。
イサムは警戒心を解かず、
ドアガードをかけたまま
恐る恐る顔を覗き見た。
「こんな朝早くになんの御用でしょうか?」
「おはよう、八種くん。」
「おはようございます。」
「先日の騒動のお詫びに、
朝食を用意したのだけれど。」
マオは後ろを振り向いた。
メイド服の機械人形〈キュベレー〉が、
大きな包みを抱えてたたずむ。
「え? なんで、ですか?」
「どうせいつもの喫茶店で
パンをタダ食いするんでしょ。」
「タダ食いじゃありません。
そんなこと調べないでください。」
「親切なご友人からの情報提供。」
マオの〈個人端末〉にメッセージが表示される。
偽情報の提供主は亜光百花。
「偽証罪だ…。」
忌々しげに言い放ったが、
トースト1枚の為に足繁く通っているのは
事実であり惜しむ情報でもなかった。
偽情報を流して名誉を傷つけた
亜光には〈更生局〉行きを請求したい。
「せっかく朝食を用意したのに、
このまま追い返すつもり?」
先日と同じような文句で催促をするので、
イサムも渋々マオを部屋へと上げた。
マオと共にメイド服姿の〈キュベレー〉が
部屋に上がり込み、予期せず目を見開いた。
今更この機械人形の入室を拒否することもできず、
自分の部屋にも関わらず居心地の悪さを抱く。
〈キュベレー〉の顔と目がかち合う。
真っ白な顔に大きな3つの目で見られると、
イサムはすぐに目を伏せて体を強張らせた。
「座ってていいわよ。」
マオは既に座卓に座って足をくずし、
〈キュベレー〉が食事を用意するのを待っている。
本来の住人は部屋の隅に立ったまま、
自分の置かれた状況を俯瞰するほかなかった。
「あの…
〈キュベレー〉もご飯を食べるんですか?」
「え? なにそれ? 食べないわよ。
ご飯を食べるのはヒトだけよ。」
自らの愚かな質問に後悔した。
朝早く変な事に巻き込まれ
頭が上手く回っていない。
イサムは自らの愚かさ加減に
嫌気が差して眉間にシワを寄せた。
「今日も頭痛?
ご飯食べたら学校休んじゃえば。」
「頭痛じゃありませんが、
いますぐベッドで横になりたいところです。」
しかしテストの追試も控えているので
休んではいられない。
白地に黒色の文字が
縦横交互に印刷されたテーブルクロス。
それが足の短い座卓に広げられた。
向かい合わせで座るイサムとマオの前に、
釉薬の使われた真っ白な磁器の皿が置かれる。
それから銀製のナイフとフォークは、
顔が映り込むほどに光沢がかかる。
今頃なら紙製のバター用ナイフを眺めていた。
皿の上には見事な弧を描く大きなクロワッサン。
湯気が立つオムレツにケチャップがかけられる。
焼き目のついた香ばしいソーセージが食欲を誘う。
次に取り出されたのは
ラップがされた透明なガラスの器。
レタスが敷かれたポテトサラダに
キュウリとハムが彩りを与える。
ソーサーにティーカップ。
ポットから透明な湯を注ぐと
褐色の紅茶ができあがる。
無限になんでも湧いて出そうな、
不思議なバスケットから
〈キュベレー〉は手際よく並べ終えた。
「さぁ、早く食べましょう。」
テーブルナプキンを膝に置き、
マオはクロワッサンを千切って食べる。
イサムも彼女に習い、ナイフとフォークを手にして
ウインナーをひと口サイズに切って食べる。
「食べながらでいいのだけれど。」
紅茶の香りを嗅ぎながら、
マオはイサムの顔を見た。
「やっぱり八種くんは変ね。」
先週、手洗い場で言ったことをマオは繰り返した。
この話はイサムにしか関わりがなく
亜光や貴桜がいてはややこしくなる為に、
マオはこうして日を改めたのであった。
マオの指摘にイサムは黙ってうなずいた。
もちろん肯定しているつもりはないが、
元芸能人の自分が他の一般人と同じと
錯覚しているつもりもなかった。
「八種くんはなにか、
ヒトには見えないものを見えている。」
「見えないものって?」
「ボールの運動を予測するだけなら
誰でも可能だけど、投げる前に
ボールの落ちる位置はわからない。
普通はそうよね?」
「そうです…よね。」
指摘を受けたイサムだが、自覚はないので、
曖昧に答えるしかなかった。
「あの日、どうして殴られたの?
八種くんには躱すことができた。
そうでしょ。」
3年生の荒涼潤を怒らせたときの話だ。
「まぐれですよ。やっぱり。
平手打ちが来ると思ってましたし。
結果、鼻血で制服を汚しました。」
「でもそのおかげで、
ライオン頭の魔人を気絶させられた。
正当防衛ってカタチで。怪我の功名ね。」
「功名?
それで謹慎1週間ですよ。
それに僕には天井裏は見えませんし、
〈記録媒体〉だって落としますよ。」
「えぇ、そう。
そこは私も疑問なのよね。
あのとき、なぜか私には見えたの。
どうしてだと思う?」
「〈サーディ〉、だからですか?」
絆創膏に隠された額の目を見たが、
彼女は首を横に振る。
「だって八種くんの後ろにいたのよ、私。」
「あ…たしかに。
絆創膏もしてましたね。」
ザクロもそのことを指摘していた。
「その〈キュベレー〉からは…?
あ、夜来さんの後ろに立ってたね。」
「そこが私のいま抱えている疑問。
わからないことを考えても仕方がないわ。
で、八種くんはどうして変になったの?
いつから? 生まれつき?」
「どうして変って言われても…。」
「私はその原因に興味があるの。
たとえば〈3S〉の経験は?」
「まだ15ですよ。夏まで無理です。」
「転府の違法な〈ニース〉?
過去に名府で〈3S〉をおこなったとか。
事故にでもあってケガをしたことは?
誰かに頭を殴られたりしたのかしら。」
クロワッサンを口に含んでそれらを否定する。
〈3S〉を使うには16歳になる必要がある。
住んでいた転府には〈3S〉がなければ、
高校入学までは名府に来たこともない。
仕事で名府に来た記憶も記録もない。
事故の経験も今まで一度もない。
商売道具ではなくなった顔を
殴られたのは先日が初めてだ。
マオの指摘する『変』の自覚はない。
「それなら仕方がないわね。」
マオはまた紅茶の香りを嗅いで、
残りをひと口で飲み干した。
〈キュベレー〉の用意した朝食を食べ終える頃、
部屋にインターコムの鐘が鳴り響いた。
本日2度の訪問者に、
イサムはディスプレイの前で硬直した。
「おーい、ユージーィ。」
よく通る声で、イサムの以前の芸名を呼びかける
同い年ほどの少女。
帽子と不似合いな色眼鏡にマスク。
隣に立っていたもうひとりが肩を叩くと、
すぐに色眼鏡とマスクを取り外す。
茶褐色と碧色目をしたふたりが、
カメラレンズを覗き込んだ。
「ユズー。」
「ナノさん、ゲルちゃん?」
イサムが役者業を辞めて、
歌手として2年間を共に過ごした
仕事仲間の少女たちの顔が、
ディスプレイに表示された。
よく知ったふたりの、突然の訪問だった。
「もう学校行っちゃったかと思ったー。」
「間に合った。」
ディスプレイ越しにふたりがカメラを覗き込む。
それは月曜日の朝。
マンションに突然現れたのは、
イサムが歌手として2年間を共に
過ごしていたふたりの女子。
今では『SPYNG』と名乗り、
名府の街中でも広告を見かけるユニットだった。
「え? なに? どうして…?」
イサムは来訪者に気が動転し、
疑問が渦潮となって頭の中をかき回す。
「ねぇはやく開けてー。」
マンションの玄関で騒いでいようものなら、
彼女たちが衆目を集めてしまう。
要求を受けて施錠を解除し、
ふたりはマンション内に入ってきた。
しばらくすれば、部屋の前に来る。
カメラの前を去ったふたりを眺めてから、
イサムは失態に――失態の原因に振り向いた。
イサムの部屋の座卓で、
呑気に食後の紅茶を楽しむマオ。
燃えるような赤い髪が、
差し込む朝日に照らされて煌々と輝く。
それから隣には真っ白な顔に
3つの目を持つメイド服を着た〈キュベレー〉。
この異様な光景をどう釈明すればいいのか、
イサムは眉間に深くしわ寄せた。
間もなくしてインターコムが再び鳴る。
言い訳が思い浮かびはしなかった。
ふたりの訪問理由はわからないが、
マオのいるこの状況をふたりに見られたら、
説明に窮するのはわかりきっていた。
イサムにやましい気持ちはないものの、
できる限りの面倒事と誤解は避けたかった。
えん罪で〈更生局〉行きは困る。
「海神宮さん、お願いが。
ちょっとだけそっちの寝室に
隠れて待っててください。」
「ん、わかったわ。」
焦るイサムになにも聞かず素直にうなずき、
隣の部屋へ入って行った。
〈キュベレー〉が目の前に座っていたので、
黙って指で部屋に移動するように命じた。
主人ではない相手からの指示には、
不承不承といった様子で移動するのが
イサムには不思議でならなかった。
マオと〈キュベレー〉入室時に外した
ドアガードを、かけ直し忘れていたのは
大失態だった。
恐る恐る扉を小さく開けると、
空気が外へと吸い出されるように
扉が強く引っ張られた。
「ユージ、制服だぁ。」
「ナノさん。」
詰襟制服姿のイサムを見て、
目の前に現れた少女が歓声を上げる。
日に焼けた濃い肌をして茶褐色のやや吊り目に、
太い眉毛が力強い彼女の芸名はナノ。
本名はノンナであるが、
お互い芸名で呼び合うのが常である。
イサム(灯火ユージ)よりも早く
幼い頃から芸能活動をしている
先輩なので敬称を忘れてはいけない。
「声変わりした?」
「わからない。」
薄水色のトップスと黒のキュロットを着合わせて、
派手な橙色をしたショートボブヘアの上には
白地に青い帯のセーラーキャップを被っている。
さらに扉の影から顔だけを覗かせる少女。
「ユズ。かっこいい。」
「ゲルちゃんも。久しぶり。」
なにか言うでもなく何度もうなずく。
久々に会ったことで
とても興奮しているように見えた。
ゲルダの碧色の目は彫りが深く、
薄白い唇と肌からは冷たさを感じる。
まばゆい銀色の髪の上には、
手のひらサイズで黒色の
小さなシルクハットを乗せて飾る。
扉から全身を見せたゲルダは、
首元まで覆う深緑色のブラウスに
黒色のティアードスカートと
底の厚い革のブーツを履いている。
ふたりが大きく見えたのは靴のせいだった。
「ユズー!」
突如ゲルダに強く抱きつかれて、
イサムは胸部と腕を圧迫され
声にならない声をもらす。
「ちょっとゲルちゃん、離れなさいよ!」
「ユズ、小さくなった?」
「ふたりが大きくなったんだよ。」
1年半で背は伸びた。
イサムは心の中で自分に言い聞かせた。
「なに突然抱きついてるの。」
「はい、お裾分け。」
ゲルダはナノにも同じく抱きついた。
「もー。」
彼女の突飛な行動に慣れているナノは、
諦めて腕を回して背中を優しく叩いた。
「それでどうしたの、ふたりとも。」
イサムにとってふたりとは
約1年半ぶりの再会であった。
「悠衣さんからここ聞いたの。」
「そうじゃないよ、ゲルちゃん。
アタシたちは『来名コンサート』。日曜ね。」
「らいめい…。コンサートか。凄いね。」
彼女たちの活動拠点である転府から名府まで、
府をまたいでのコンサートは客層の違いから
滅多にない。
これも『聖礼ブーム』の影響に他ならない。
ナノの説明にイサムは驚くも、
それで朝早くに訪れる理由はない。
「そう。ユズに会いに来た。」
「ゲルちゃん、そろそろ離して…。」
ゲルダはナノに頬を貼り付けたまま会話を続ける。
「明日からこっちで撮影に入るから、
前日入りしたの。
それでナノがユズに会いたいって。」
「もー、ゲルちゃん。
変なこと言わないでよ。」
そうは言ってはいるものの、
まんざらでもないナノの様子に
イサムは懐かしさに頬を緩めた。
「八種くん。そろそろ学校。」
再会に玄関で盛り上がっていた3人だが、
廊下に現れた制服姿のマオを見て
瞬時に静まり返った。
「え…ユージ…?」
抱き合っていたナノとゲルダは離れて、
マオとイサムを交互に見つめる。
「ちょっと! なんで出てくるんですか。」
「まだ? 寝室で待ってろってこと?」
「しん…。」
マオの放ったひと言は
イサムの言葉そのままで、言った本人も、
立ち会ったナノとゲルダをも
完全に黙らせるひと言であった。
イサムは顔を手で覆って自らの迂闊さを嘆いた。
ふたりとの再会にも関わらず、
イサムは目を合わせ辛い結果となった。
彼女たちの訪問で、彼は分岐路に立たされる。
私には家がない。身寄りもない。
手元にあるのは
イヌに劣るとも勝らない機械人形だけ。
途方に暮れても仕方がない。
まず〈ALM〉に依頼して家を建てて貰う。
転府の市民としては当然の権利を行使する。
住所不定の浮浪者であれば、
〈更生局〉に即日連行される。
それから私は両親を探す。
氏名。旧姓。年齢は40歳。独身。
近くにいた〈キュベレー〉から、
〈ALM〉の情報網を用いるので捜索は容易い。
結果を見て、私は両手で目を塞いだ。
得たい情報ではなかった。
その情報によって
自分がなにかを得られるわけではない。
失ったものが取り戻せるわけでもなかった。
深く息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。
家で新たに機械動物を組み立てる。
ストレスを軽減させるのはこれが一番だった。
小型の動物であれば半年程度で組み上がる。
時間はいくらでもある。
そう思っていた矢先に、
疎遠だった叔母からメッセージが届いた。
仰々しい文面の中身は、
「結婚して子供を作ったらどうだ?」
と単純明快なものだった。
母方の姉にあたる彼女は、
社会的な義務を果たした
自負心があったのかもしれない。
高校も卒業できない不出来な姪御に
社会の一員になれるように気配りをしたのか、
それとも自尊心を満たしたいお年頃なのか
意図を測りかねるが無下にもできない。
久々に鏡を見たが、赤土色の髪はボサボサで
自らの性別を放棄した容姿だったので笑った。
それも仕方がないことだ。
この顔を写真にして叔母に送りつければ、
お互いに折り合いがつくだろう。
結婚していない男女は年々増えている。
長い寿命の中で子をなし育てる時間よりも、
趣味に生きる時間のが多い。
〈人類崩壊〉から人口は全盛期まで回復した。
現人類はその役目を果たしたとも断言できる。
そうして性交は娯楽の一部に変わった。
叔母のような考えの人はもう稀かもしれない。
叔父のような人が普通とは思わないが、
結婚に対して拒否感を覚えたのは確かだ。
その上、この容姿だ。
鏡を見ても変な笑いが込み上がる。
この遺伝子を残すにしても相手は悪食が過ぎる。
叔母は「容姿よりも内面だ。」と
執拗にメッセージを送ってきた。
内容に反論する気もわかず、
その日はふて寝した。
内面よりも容姿だ。
それは叔父の末路を知っているからこその結論だ。
内面は容姿に比例する。
治療や整形を済ませたところで、
遺伝子まで変化して醜い親から
美しい子が生まれるはずもない。
また個人が持つ美醜の価値観よりも、
集団の美意識こそが遺伝子を大きく変化させる。
サルのメスに乳房や臀部が発達して
人になったのは、そうした根拠がある。
内面を重宝するというなら、
凶暴なイノシシから性格のおとなしい
ブタをつくるのと大して変わらない。
〈人類崩壊〉以前の家畜の世界だ。
「内面は容姿に比例する…。」
鏡を見て私は自分の言葉を繰り返した。
――――――――――――――――――――
叔母のメッセージを無視して
気がつけば10年が過ぎた。
結婚もせず、子供も産まず育てずだった。
日差しの眩しさに気づいてカーテンを開けた。
また徹夜をした。
シンクに置かれたコップに
入ったままの液体を口にして、
味のひどさにむせて吐き戻した。
外から差し込む光に、
舞い散る毛と埃が目に入る。
それに喉も痛い。
コップに入れた新しい水を口にする。
頭が朦朧としている。
何日目の徹夜だろうか。
眠気覚ましを手にして噛んだが、
効果のほどはわからなくなっていた。
空気の入れ替えついでに、
近くの公園まで散歩をした。
身体の重たさと気だるさで遠くまで歩けない。
それから長椅子に横たわって考え事をした。
家の中は毛玉で埋まって手狭になっている。
引っ越しか、はたまた別の趣味でも
探そうかとぼんやり考えていたときだった。
視界に見覚えのある姿を見た。
中年の男女が並んで道路を歩くのを目で追った。
談笑するふたりの背中を走って追いかける。
ひざ関節と心臓が悲鳴をあげている。
なにをやっているのか自分でもわからなかった。
これではまるでストーキングだ。
物陰に隠れて、ふたりの背中を追うと
涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
未練がましい自分が情けなくなり足を止めた。
気恥ずかしさに、転府から
どこか遠くへ逃げ出したくなった。
いそいで家に帰り毛玉に顔を覆った。
自分が幼いままで、なにひとつ成長がない。
怒りと呆れの両方を感じて、またふさぎ込んだ。
結婚もせず、子供も産まず育てず。
自分がなにも残せず消えることが悔しかった。
叔母の言葉に反論できた気になっていた。
鏡の前に立っているのは、
ぶくぶくと膨れ上がった脂肪の塊。
怠惰な自分だった。
――――――――――――――――――――
暴飲暴食を控えた。
徹夜をやめて生活を改善した。
朝起きて、夜に寝る。
時間通り過ごす、当然の日常生活を送る。
健康状態に問題がなければ、寿命は伸びる。
鏡を見て、理想像を考え、自らを律した。
姿勢を正し、運動して、体型を整えた。
髪をとかし、化粧を覚え、服をこしらえた。
イノシシのような体中のムダ毛を抜いた。
他人との交流を増やし、会話をし、
話に変化をつけて和ませ、信頼を得る。
いくつかの失敗をして、修正を繰り返せば
そこから成功が生まれ、自信が身につく。
判断・行動・評価の繰り返し。
直接交渉を行い、自分の能力を売り込む。
多くの資金を集め、巨大な企画を立てた。
見合った商品は既に用意してある。
資金があればさらに巨大な商品が用意できた。
私の過去には大きなつまずきがあったが、
それを乗り越えて多くの人に支えられて
ここまで辿り着いたのだと感慨に浸る。
40歳になってようやく私は、自分を確立できた。
こうして私は転府に初めての
『動物園』を作り上げた。
ここから私は再び道を踏み外す。
2mほどの高さのある
円筒状をした黒石の柱が等間隔に並ぶ。
石柱の間はケーブルで仕切られ、
内と外との境界を作り出す。
親子連れ、夫婦、カップル、それから魔人――
動物の頭などをした〈デザイナー〉らが列をなし、
アーチ状の入り口に吸い込まれる。
ネコ、イヌ、オオカミ、イノシシ、タカ…。
〈NYS〉の技術によって、
思い思いの頭に変えた〈ニース〉が門をくぐる。
門前の時計台から
午後1時を知らせる鐘が鳴り響く。
イサムは待ち人らの予定に合わせて
現地に到着したものの、予定の時間を過ぎても
〈個人端末〉にメッセージさえ来ていない。
落ち着きなく周囲を見渡す。
〈個人端末〉をかざし、派手な服装をした
ふたり組の、似たような待ち人の中から
『本人』を探す。
『来名コンサート』を明日に控えている、
転府聖礼市の人気歌手ユニット『SPYNG』。
彼女たちをコピーする〈デザイナー〉は
男女問わず、『聖礼ブーム』の影響は
恐ろしく広範だった。
両手の親指と人差し指で〈個人端末〉を広げて
視界内すべての〈個体の走査〉をしていたが、
〈3S〉を済ませた〈ニース〉ばかりで
目と二の腕が疲れて、手を降ろして休憩した。
それぞれ金と銀に髪を染めたふたりの少女。
街中でも学校内でも見かけることはあったが、
何組もの来園客を目の当たりにすると
本物の人気の高さを改めて実感する。
イサムはそんな光景を眺めながら、
場違いな雰囲気に飲み込まれていた。
小さな体に似合わない大きめのデニムパンツを
革ベルトで腰にきつく固定して、
灰色のトレーナーを着て待ちぼうける。
あか抜けない服装だと自覚した。
役者時代は周囲の人が服について
あれやこれやと意見を聞くことがあったが、
芸能界を離れてしばらく経ったいまになって
恵まれた環境であったと思い返す。
そんな現在では、服を買うお金がない。
黒い七分丈のスキニーパンツに
キャンディーレッドの派手なスニーカーが、
すらりと長い足から視界に入る。
薄桃色のロングカーディガンを羽織った中には、
薄白い肌をした首筋から覗く白色のトップス。
みつ編みのおさげにわけた燃えるような赤い髪。
マオがイサムの足元に座って退屈している。
手元には赤いリボンを巻いた麦わら帽子の
大きなつばで、顔を扇いで涼んでいる。
マオが視線を察してイサムの顔を見上げるので
すぐに視線を逸らし、また周囲を見回した。
〈キュベレー〉と同じく第3の目を持つ、
彼女の額にはいつも通りの絆創膏が貼られている。
破茶滅茶な状況に憂うイサムは
マオとふたりで『動物園』に来ていた。
――――――――――――――――――――
ナノとゲルダとイサムの再会、
そしてマオとの出会いは最悪なものとなった。
最悪な結果を招いたのは
寝室から出てきたマオのせいか、
それともイサム自身によるものだったか。
責任の所在を求めていられる余裕はなかった。
ナノは唇を強く噛んでから、
マオを睨みつけて尋ねた。
「ユージ、だれ、この人。」
「小さなお嬢ちゃん。
他人に名前を尋ねるのなら、
まずご自分から先に名乗りなさい。」
「おじょ…なんなの、この人!」
「ナノさん。海神宮さんも。
どうしてそんなに突っかかるんですか。」
「お子様へのしつけ。」
「おこッ…!」
「大人げないですよ。」
「ユージまで…!
アタシを子供扱いしないで!」
「ユズー。」
ゲルダがイサムに呼びかけて、
ナノと自分に向けて指をさす。
彼女は仲立ちを求めていた。
「はい…。ナノさん、ゲルちゃん、
この人は、海神宮真央さん。
僕の通ってる学校のクラスメイト。」
「どうしてそのクラスメイトさんが、
ユージの家に上がり込んでるの。」
「寝室でナニしてたの?」
「あッ! まさかエッチなこと?」
ゲルダに続きナノまで
イサムに容赦と、突拍子もない質問を浴びせる。
「私になにかメリットが…、
それはたとえばどんなことをエッチと呼ぶのか、
せっかくだからお姉さんに教えてくれる。」
ナノは煽られて耳まで真っ赤に染めた。
「冗談言ってからかわないで下さい。
海神宮さん、こっちのふたりは
ナノさんとゲルダちゃん。
僕が歌手時代に一緒に活動してた――。」
「たしか『SPYNG』でしょ。
街中で見た覚えがあるもの。」
「一緒に活動してたときは、
『YNG』だったの。」
イサムは以前、歌手としてこの3人で、
『YNG』のセンターで踊っていた。
人気絶頂であった子役が歌手に転向し、
口パク担当となったのが売り文句だった。
役者時代の実績が人寄せとして
申し分ない存在で、客入りも上乗であった。
イサムが引退したことにより、
権利の関係で『SPYNG』として
名前を改めてふたりで活動を再開した。
「はじめまして。海神宮真央です。
ナノさん、ゲルダさん。」
さっと握手を求めるマオに、
ナノは渋々とそして力強く手を握り、
ゲルダは素直に握手に応じた。
「引っ越しのときにお騒がせしたので、
朝早くにお礼に上がっていた所を、
偶然、貴女たちが訪問されたので
八種くんが私に気を使ったんです。
やましいことは一切ありませんよ。
私は。」
「含むような言い方しないでください。
僕だってそんなつもりありませんよ。」
マオの言葉に嘘偽りは含まれていないものの、
もっともらしい説明をつらつらと述べる。
マオと目を合わせたが、
経緯の説明がややこしくなるので
イサムは仕方なくうなずき会話を続けた。
「そう。ふたりとも来るなら
連絡してくれたらよかったのに。」
「サプライズー。」
「到着が遅れたから、
会えるかどうかわからなかったの。」
「ナノ、それ。」
ゲルダがナノの持っていた手提げ袋を指さす。
「そうだ。はい、これ。」
「わたしたちからのプレゼント。」
「えっ、あ、ありがとう。」
「肉味噌かしら?」
「それはないですよ。」
マオに言われて手提げ袋の中身を見て、
お菓子らしき包装紙にイサムは安堵する。
ふたりがそこらで買えるような品物を、
持ってくるとも思えなかった。
しかしイサムとマオの通じ合った様子に、
ナノとゲルダが半眼で疑う。
「ねえ…。」
「ふたりって付き合ってるの?」
「そんな訳ない。」
イサムは首を横に振ってからマオの顔を見た。
彼女のよく言う『メリットがない。』という
強い否定の言葉を期待した。
「だったらどうする?」
期待とは真逆の返答をしてマオは目元で笑う。
ついさっきもナノを煽っていたばかりだ。
「そんなのイヤ!」
予想通りナノが金切り声を上げた。
「ちょっと海神宮さんっ、
冗談が過ぎますって。」
「ふたりはこれを渡しに来ただけでしょ。
私たちはこれから学校があるから。」
マオがこれみよがしに
イサムの二の腕に手を回して見せる。
嫌がらせとしか思えない言動の連続に、
イサムは抗議の言葉を失ってしまった。
「ウソばっか!」
「ナノ~ちょっと落ち着いてね。
わたしたち土曜日のお昼にお休みだから、
ユズに遊びのお誘いをしに来たの。」
「遊び?」
「お誘い。お誘いのお願い。
どこか連れてって。ユズー。」
意気も抑揚もない気だるさの混ざる、
いつもの口調でゲルダがねだる。
マオにおちょくられたナノも
やや涙目でイサムを見つめた。
「そっか…。どこか…。」
3人そろった時間が訪れたことを静かに喜んだ。
しかし学校と家の往復で、
名府に越して来て日も浅い。
土地に疎い為にふたりを連れて、
遊びに行ける場所はなにひとつ
思い浮かばなかった。
なにか案を求めてマオの顔を見た瞬間。
「その人も誘うの?」
「え?」
「彼女なんでしょ?」
「違うよ。ゲルちゃん。
海神宮さんなら、どこか場所ないかなって
聞こうとしただけ。」
「あ、ひょっとして〈3S〉の海神宮家?」
マオの名前からゲルダは察して顔を明るくする。
名府で〈3S〉や〈個人端末〉など、
社会システムを統括しているのが海神宮家だ。
その彼女が転府の〈ALM〉に並ぶほどの
家柄だと気づいたゲルダだが、
ナノの方はさして興味なく聞き流す。
「海神宮さんは、
さっさと学校行ったらどうです?」
「そうだ、学校。」
「送迎の車があるのでご心配には及びません。」
「海神宮さん、どっかない?
遊びに行けるとこ。」
「それならひとつ、心当たりがあるわよ。
お土産の肉みそ。」
イサムの手にした紙袋を指差す。
「肉みそって…? あっ!」
彼女が提案した場所は、以前
亜光が妹と行った動物園だった。
「ボノボ。」
マオのつぶやきに反応して、
表情の薄いゲルダの口角が上がった。