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夏を知らせる音は、匂いは、どこからやってくるのだろうか。
蝉の声、プールの塩素の匂い、花火があがる音、祭りの屋台の匂い。
それを見つけたころにはもうとっくに夏は来ていて、むしろもう終わりに向かっているのだと思う。
「志茂センパーイ」
「なんだよ」
「今日もまだ帰らないんっすかー?」
「うるせえな、集中してんだ」
「ち、ツレナイ男っすね」
「お前は少しは女の子らしく座れねえのか」
「ウチに女の子らしさを求めないでくださーい」
「ハイハイ、悪かったな」
「センパイが相手してくれないので帰りまーす」
「おう、じゃーな」
「引き留めてよ、センパイのバカ―!」
揺るぐことなくひらひらと手を振ってやれば、むすっとした顔がこちらを睨んでいるのが視界の端っこに映る。
短いスカートを揺らして、一冊のスケッチブックを自分のロッカーに片付けた後輩は、ご丁寧にあかんべをして教室を出て行った。
独特な匂いで包まれた教室にただ一人、イーゼルに立てかけた真っ白だったキャンバスにひたすら青色を塗りたくっている、俺。
だらしなくシャツが出てしまうのはしまうのがめんどくさいからで、何となく染めた金色の髪の毛は黒寄り似合うから続けているだけだ。
ネクタイなんて堅苦しいものは始業式や終業式以外は絶対につけないし、腰パンになっててもそれすら直すのがめんどくせえ。
気づけば「不良」のレッテルを貼られている俺が3年になって、部員がたったの二人しかいない美術部の部長になっている。
6月の日本はじめじめした雨が降り続いていた。
あたりまえのように4日間雨は降り続けるし、急に止んだと思って傘を持っていかなければ帰るころには降っている。
湿度は最悪で匂いが教室にこもるし、どこにいってもこのべたつく空気の肌触りは取れない。
この不安定な気候に振り回される一か月弱が俺は死ぬほど嫌いだった。
それがなんだ、昨日までの不安定な天気がまるで全部嘘だったかのように晴れている。
意味わからないくらい太陽が熱を地上に届けて、冷房が7月にならないとつかないこの教室はまさに最悪の状態だ。
扇型筆《ファン》を左手に持って、右手で適当に作った5種類くらいの青を適当な感覚でべたべたと塗り付けている。
物心のついたころからじいちゃんの部屋にあったたくさんのデッサンを見たときから、俺のよくわからない美術への興味と感性は育ち、この見た目でありながら美術室に篭る毎日を続けている。
美術センスなんてものは人の感じるそのままだから、上手いとか下手じゃなくて、あー、なんかいいじゃん、これ。くらいの感覚で完成させていいものだと思っている。
テキトーに、何にも考えずに、ぼけーっと筆を動かしているだけで一日が終わるなら、それは別に苦ではないと思っているのだ。
『海の色って角度変えるだけで全く別の色に見えるんですよね、センパイのそのパレッド、海の深さレベルを5段階で表現してるみたいっす』
美術部に変なやつが多いという偏見は、あながち間違っていないと思う。
そんなことは作品を見れば一目瞭然だが、あの女っ気ゼロの唯一の部員も相当な天才だと思っている。(本人には絶対に言わねえけど)
この場所からは海が見えない。
こんな山奥にある学校で、どうやって海を想像すればいいんだ。
この山をずっと下れば海があるのはわかっているけどそこへ向かうのすらめんどくさくてもう何年も降りた記憶が無い。もはや空と海の色は大して変わんねえだろうとやけくそになっている。
「………あーー、海って何色だよ」
ペンを放り投げる行為は、たぶん天国で見ている爺がブチギレる案件だがしょうがない。
適当に塗りたくった5つの青は、ちっとも腑に落ちない。
教科書すら入っていない空っぽのスクールバックに画材を詰めて、放り投げた筆はしっかりと元に戻して、混ざり合ったパレッドの色は何となくスマホのカメラに収めてから洗って、流した冷たい水に少しだけ癒されながら、そんな時間は無駄だと教室を出た。
時刻は18時10分。
日が伸びた空は一向に暗くなる気配がしないまま、やっぱり大して海も変わんねえ色をしているんだろうとやけくそに原チャリにまたがった。
スマートフォンというものは便利なもので、行きたいところへ音声で案内してくれるもんだから馬鹿でも絶対目的地にはたどり着けるようになっているんだろう。
原チャリで1時間以上もかかったたどり着いた頃には、海は青色どころか真っ黒で、5色なんて嘘みたいに波音だけがここが海だと囁いているようだった。
時刻は19時20分。
「……これのどこが青だよ」
空の色と比例するなら、それは確かに黒なのかもしれない。
黒というよりは青よりの、鉄紺色と言えばいいだろうか、まあ、どっからどう見ても一色にしかならないそれを見ながら、ため息をついた。
行動に起こすのが遅すぎた、この時間じゃ海は一生空と同じ色の認識のままだ。
「──ねえ、海は青いよ?」
ふと後ろから投げかけられた声に眉間にしわを寄せて振り返れば、見たこともない制服を着ている女子高生らしき女が裸足で立っていた。
「……なんだよ、誰?」
「きみ、いま来たの?海を見に?」
「そうだけど」
「海が青いか確かめに?」
「……悪いかよ」
ふふ、なんて可笑しそうに片手で口を押さえて笑っている初対面の女に対してなんだこいつと警戒すれば、そんな警戒に気づいたのかもっと可笑しそうに笑った。
「ねえ、明日の朝もう一回来なよ!」
「はあ?」
「海は、太陽出てるうちに見ないと」
「………、」
「明日の9時!海が青いこと教えてあげるよ!」
「明日雨予報だけど」
「いや、晴れるよ?」
「どっからくんのその自信」
「まあ、晴れるからさ、おいでよ、海」
「……だから、お前は誰なの?」
「わたしはねー、ナツ!」
「……、」
「きみの名前は、明日きくね、じゃあ、また明日ね!」
ぱたぱたとはだしで駆けていくそのセーラー服に向かって「おい、行くとは言ってねえから!」と投げかけたけれど、振り返ることもなく、走ったまま気づけば見えなくなっていた。
なんだ今の、幻か?
なんて阿保らしく思うくらい一瞬の出来事だった。
台風みたいな勢いのやつだ、突然現れて、たったの5分しないうちに消える、意味の分からない女に出会ってしまった。
そして俺はまんまと、その台風に振り回されることになる。
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学校に向かう道の真反対に頭を向けた原チャリに母親は呆れていたが、昨日のスケッチブックと色鉛筆だけが放り込まれたスクバを背負いそれにまたがった。
たった12時間ほど前に走った道をもう一度辿っている俺はこの上ない馬鹿なんだろうけど、天気予報が見事に外れたせいで俺はまんまと学校をさぼることになる。
「なんだ、さぼりかー?」
「そっすねー、さぼりっす」
海の前に畑があるなんてへんてこな街だと思いながら、せっせと耕している腰の曲げたじいちゃんがのんきに伸ばしてきた声に返事をする。
晴れているおかげで畑に生息している生き物たちはさぞご機嫌だろうに、なんて見えない畑の奥をやんわりと想像しながら通り過ぎた。
9時5分前に昨日の場所に原付を止めて、堤防によじ登った。
朝9時に堤防にいるのは俺みたいなさぼりか、畑のじいちゃんくらいしかいないものだ。
キラキラと、言葉で表すには表しきれないその景色に、言葉を失った。
太陽を反射させる青を見て、俺は呆気にとられていた。
それから、はっとしてスマホをポケットから取り出して昨日とったパレッドの写真を開いた。
「………確かに、海だわ」
それでも、足りない。
もはや黒だろなんて思っていた昨日とは全く違う景色に、それから自分で作り上げた5色を重ねて、これをこうすれば、ここにあれを足せば、なんて脳内で新しい色ができていく。