「うう、寒いっ」
病院から帰った私は、リビングのファンヒーターの前でコートを羽織ったまま丸まっていた。
唸るような送風音。それとともに、もふぁん、とした熱風が心地よく送られてくる。
「はぁ、生き返る……」
「若葉、せめてコート脱いで。せっかくのコートが台無しよ」
ママが台所から私に言う。
「あともうちょっとだけ暖まらせて~。今帰ってきたばかりで、歯までガチガチいってるのよ」
小刻みに振動する私の躰は、ファンヒーターの熱風だけでは物足りないようだ。私はソファーの上に置いてあった毛布を広げ、頭から被る。
「しょうがない子ね。あら、そんな体勢じゃ、パンツ丸見えよ」
「え!?」
私はとび起きる。
頭隠して何とやら。
「あら、動けるじゃない」
ママがニタッと笑う。確信犯か。
「う……」
はめられた。
「そのままついでに着替えちゃいなさい」
相変わらず、ママは人を動かすのがうまいな。
「……わかったわよ」
私は部屋着をワードローブの中にある籠から取り出した。
コートを脱いでハンガーに掛ける。
「ん?」
続いてニットワンピを脱ぐと、背後に視線を感じた。
「何? ママ」
ママがじっとこちらを見ている。
「……」
「ママ?」
「若葉、あなた……」
ママが真顔でにじり寄って来る。
「な、何? 怖いんだけど」
手を伸ばしてきたかと思えば、その手で私の二の腕を摘んだ。
「ねえ……太った?」
「!!」
私は慌てて上着を羽織る。
「やだ、今更隠しても遅いわよ。はみ出てるし」
は、はみ出てるとは……失礼な。
「それにしても……」
ママが私の上着を捲り上げる。
「ちょ! やめ……」
「あらぁ、何てご立派なムッチムチボディー。見てると何だかムラムラしちゃうわねぇ」
何ですか、そのオヤジ発言は。
「ママにも負けず劣らず、まるで”パーピーちゃん”みたいなボディーねぇ」
出た、”パーピー”。ママの子どもの頃に流行ってたメリハリボディーの女の子の人形だ。さっき私に「太った」なんて言ったくせに、全く持って意味が解らない。
「もう、返して!」
「若葉も普段からもっと躰のライン出る服着ればいいのに。ママみたいに」
「い、嫌よ! そんなパッツパツなのッ」
ママは普段から膝上丈のスカートとか穿いているような人だ。実年齢を言うと周りにかなり驚かれるが、私は若々しさよりも、年齢相応に慎ましくしていてもらいたいと思っている。
「あ、でも……よく見ると脚が若干太めかな。昔の名残?」
「もう、ほっといてよ!」
大きなお世話だ。下半身が肉厚なことくらい、自分が一番よく知っている。
ママはというと、年齢の割にはスレンダーで、メリハリのある――所謂理想的な体型だ。20代の頃からほぼ変わりないそのプロポーションは、同年代の友人からも羨ましがられるほど。実は私も羨ましいと思っている。
さらに、ママは若い頃、街中でよくナンパされたり、デートの誘いは毎日のようにあったりと、とにかくモテモテだったとか。正直いって、顔立ちは地味目でものすごく美人というわけではない。が、当時から流行に流されず、常に自分流のスタイルを追い求めてきた結果がモテに繋がったのかもしれない。そんなママに、私は到底適うはずがないと思っている。そこまで自分に興味がもてないというか、野心がないというか。情熱を傾ける対象が違うのだ。
「ねぇ、若葉」
「何?」
私はママから奪還した上着を羽織った。が、何となく寒いので中にもう一枚着ることに――再び上着を脱ぐ。
「あら、もう一回見せてくれるの?」
「違う!」
「なーんだ、つまんない」
ウォーミーテックという薄手なのにポカポカのトップス。パステルグリーンというなかなか季節感を無視した色合いだけど、肌触りや質感が良くて結構気に入っている。
私は気を取り直して上着を羽織った。
そういえば、ママ。さっき何か言いかけていたような。
「若葉」
絶妙なタイミング。
「何?」
「今、恋はしてるの?」
「は?」
「彼氏は? 好きな人は?」
唐突すぎる。
「い……いないけど」
「え、本当に?」
ママに嘘を言ったところで、この調子だとさらに深堀りしてくるのは目に見えている。一体、私に何を期待しているのだろう。ママの意図がわからなくて私は困惑するばかりだ。
「残念だけど、今の今までいたことないわ。私はママと違って、全然モテないから」
こう切り返すのが精一杯。ここで納得してくれればいいのだけど、何と答えてもそうはいかないような気がする。
「なんだぁ、つまんないなぁ。ママってば、娘の恋バナとか聞きたいお年頃なのに。若葉、全然そういう話してくれないんだもん。因みに、ママが若葉の歳の頃には、もうパパと付き合ってたわよー」
ほら、やっぱり。あ、今……さりげなく自慢入れたな。
こういう人だから、仮に私が恋をしたとしても、ママにだけは絶対に話さない。話したくない。きっと、それはこの先も変わらない。
「だ、だから何よ?」
反論してみるものの、ママは続ける。
「待ってるだけじゃ、恋は成就しないわよ。もっと積極的に自分から行かないと」
「だから、待つも何も……そんな人いないって言ってるじゃない」
「もう! そんなんだから全然彼氏できないのよ。もったいないわねぇ。せっかく大学生になるんだから、貴重なキャンパスライフの中で彼氏の一人や二人うちに連れてこなきゃ、女じゃないからね」
大きなお世話だ。
何でそこまでいわれなきゃいけないの。これは語弊云々の話では済まない――何たる言い草。たった今、この人は私を含む全世界中の非リア充女子を敵に回した。この無差別的な母の爆弾発言に、私は断固として己を貫く決意を表明した。
「ママと一緒にしないでよ。私には私のペースがあるんだから」
「そんなこと言ってたら、若葉の場合すぐおばあちゃんになっちゃうでしょう」
なかなか手ごわい。
「じゃあ、せっかくだから特別に」と、ママは聞いてもいないのに『パパとの馴れ初め話』をし始めた。
「はぁ……」
もう、どうでもいい。
長いので簡単にまとめると、ママが美容専門学校に通う少し前に、バイト帰りに立ち寄ったコンビニの駐車場でパパと運命の出会いをした――という話だ。その日は台風で天気は大荒れ。自転車も傘も飛ばされて、家に電話しても繋がらなくて立ち往生してた時に、当時大学生だったパパが車で家の前まで送ってくれた。それがきっかけでデートを重ねて付き合うようになったっていう何とも少女漫画チックなお話。
私としては、台風の中自転車でバイトに行ったママの根性がすごいと思うのだけど。きっと、恋愛ってそういうことではないのだろう。
私はまだ誰かを特別に好きだと思ったことすらないのだが、恋とは本当に些細なきっかけからスタートするものなんだな、と何となくは思う。共感にまでは至らないが……梨歩の恋も、こんな風に始まったのだろうか。
この歳になるまで、恋愛したことがないのはおかしいのだろうか。
人それぞれとは思うが、こんな私でも実は少しだけ期待している。この先、私はどんな人と出会うのか。どんな人を好きになって、どんな人と恋をして、どんな人と結婚するのか。
全く興味がないわけではなくて、今までなかなかそういうチャンスに恵まれなかっただけなのだ。大学生になったら、ママの言うように彼氏の一人や二人とやらができる日が来るかもしれない。人並みに恋をして、人並みに結婚して……。
ところで、今日のママはいつになく饒舌だ。でも、私はすべて「へえ、そう」と、素っ気なく返す。
「プロポーズの言葉は……」
ここまで来れば、もうメンタルが強いのか弱いのかすらわからない。ただ、何を言っても無駄だということは確かだ。
「パパが大好きだった花時計の前で、『これから先もずっと、君と同じ時間を共に生きていきたい。僕と、結婚してください』って。あぁ、思い出したら何だか泣けてきた……」
「えっ!」
「う……うっ……」
うわ、本当に泣き出した。
「あの、泣くくらいならもういいから……」
実に面倒くさい人だ。こうなったが最後、手を付けられない。心行くまで思いのたけを吐かせ、時が過ぎるのをひたすら待つしかない。
「ママが26の時に、グスッ……若葉が生まれたの。パパなんて、赤ちゃんのためにって自分でアレンジメントした花束持ったまま子どもみたいにわんわん泣いて。見ている方が恥ずかしかったわ」
私は今のママを見ている方が恥ずかしいんですけど――。と喉まで出かかっていたが、言葉に出したところで延長戦に持ち込まれては困る。
早く終われと思うばかりで、私は敢えて何も言わず本音を飲み込んだ。スルーだ。今はこれに尽きる。
「あ、そうそう。若葉を最初に抱っこしたのは、ママじゃなくてパパなのよ」
「え、そうなの?」
それは知らなかった。
「で、そのまま顔面至る所に『可愛い、可愛い』ってチューチュー吸引しまくってたわ。分娩も吸引、パパからも吸引。出生早々若葉は忙しかったわよ」
「え!?」
それも知らない。初耳だ……。
「……そのあとママにもしてくれたけどね」
細やかな対抗心だろうか? ママがパパを吸引した情報は別にいらない。それより、何で急にパパの話になったのか。いい加減理由が知りたい。
「若葉が生まれた日。ママ、本当に幸せだった。パパと結婚して、本当に良かったって思ったわ」
さっきからずっと、パパの話ばかりで不可解極まりない。
私はとうとう勢い余って言ってしまった。
「じゃあ、どうして別れちゃったのよ」
一番言ってはいけないことだと、わかっていたのに。
「…………」
案の定、ママは無言になった。
「――ごめん、今のは言い過ぎたわ……。もういいの、パパのことは」
「若葉……」
私は、いつも優しいパパが大好きだった。物心ついた頃から、パパにいろんな花の名前や花言葉、花の育て方を教わって、いつの間にか私もパパのように花が大好きになっていた。
パパが優しかった分、当時ママはとても厳しかった。まだ幼稚園に通っていた頃、ママが私を学習塾に通わせようとしてパパと激しく揉めたり。二人が喧嘩するのは、決まって私の子育て方針のことで、それを間近で毎日見ているのは幼いながら辛かったのを覚えている。でも、当時の私は黙って見ているだけしかできなくて――論争が鎮まるのをカーテンに包まりながら耳を塞いだり、布団の中や押入の中でひたすら待っていた。自分の気持ちに正直だと言えば聞こえはいいけれど、ママは感情の起伏が激しくて、怒ったり泣いたりすると収集がつかなくなる。特に、私はママがヒステリックになるのが恐ろしくて、ひたすら自分の声を押し殺すように、ママのいうことにはすべて従って過ごしてきた。でも、小学校も高学年になると勉強も難しくなって成績が落ち始めて。それから間もなくして、「勉強の邪魔になるから」と、気に入っていた長い髪を、ママに首のあたりまでバサッと切られた。その時、抑えていた感情が一気に溢れ出して――
「ママなんて大嫌い!」
確か、あれは私が小学5年生の時だ。この時すでにママとパパが別れて4年か5年が経っていた。あとでわかったことだが、ママはパパがあまりにも優しすぎて、私を甘やかしすぎてしまうのを心配していたのだとか。それで、心を鬼にして私にいつも厳しく接していたのだと話してくれた。でも、当時の私には理由の後付けにしか聞こえなくて、余計に腹が立った。どうせ私は、ママにとっては自分の幸せを壊した忌むべき存在で、何かと癇に障るから八つ当たりをしていたというのが大方真実だろう、と。私もこの一件で、随分と捻くれたことを言うようになってしまった。その経緯には、実は少し梨歩も絡んでいるのはママには内緒の話。梨歩とはちょうどその時に出逢い、友達になったので、もうかれこれ8年近く一緒にいることになる。
でも、あの時梨歩がいてくれたから、今の私が私でいられるようになったのは紛れもない事実。自分で言うのも何だが――私は、今の自分が結構好きだったりする。
『自己主張は、したもの勝ち』だと、梨歩が教えてくれた日から。
「ごめんね、若葉。ママ、さっきから勝手なことばかり言ってるわね」
「……知ってるわ」
「そう……」
ママはあからさまに落ち込んだ。
私は居たたまれない気持ちに押し潰されそうになるものの、敢えて訊く。
「ねぇ、さっきからパパの話ばかりしてるけど。何で?」
「それは……」
ママが口を噤む。
「あの、言いたくないならいいの。だから――」
「……、してたんだって」
「え?」
「もともと若葉の高校卒業までは、パパが養育費を毎月支払うっていう約束だったの。約束通り一度も滞りなく払ってくれていたんだけど、この3月で若葉は高校卒業したでしょ? そしたらパパの方から大事な話があるって切り出してきて……」
ああ。
ママはさっきから、私にこのことが言いたかったのか。
やっと理解できた。
「まさか、10年も前に再婚してたなんて……」
ママが笑う。とても悲しそうに……。
「そんなに大事なことなら、リアルタイムで教えてくれたっていいのにねぇ」
「……まあ。大事なことだからこそ、頃合いを見計らって切り出したんじゃないの?」
とはいうものの。
正直、私にとってもパパの再婚の事実は衝撃的だった。パパは、私だけのパパだとどこかで思っていた節があったから。たとえ別れても、パパは私だけのパパであってほしいと願っていた。
時は、残酷だ。
「しかも、子どもまでいるのよ。小学生の男の子が2人。1人は、今の奥さんの連れ子みたいだけど」
知らなかった。そして、知りたくなかった。
「若葉、いきなり弟が2人いるって聞いてびっくりでしょ?」
「そ、それはびっくりだけど。うん、私も未だに信じられない」
パパは別れても、私の養育費の他、私とママの誕生日にはいつも誕生花の花束をおくってくれていた。そしてもう一つ。秋に決まっておくられてくる花の種があった。
勿忘草――。
今年もまたその花の種は、鮮やかな水色の小花を実らせたばかりだというのに。
――――私を忘れないで――――
それはきっと……家族を想う父の心情。そして、かつて愛した女性に贈る唯一のメッセージなのだろう。でも、パパの再婚を知った今、大好きだったパパが少し憎らしく思えて……何だか無性に悲しかった。忘れようと思って忘れられるような関係でもないし、この花がなければ忘れてしまうというものでもない。でも、願わくば、これが最後の花になりますように。
私は自分にも言い聞かせるように、ママに言った。
「もう、いいじゃない。パパには今の幸せがあるんだから」
「……でも。何か、悔しいわ」
「ダメよ、ママ。そんなふうに思ったら」
「若葉……」
ママは昔から、私にいろいろ教えたがるけれど、私はもう……ママが思っているほど子どもじゃない。
ママのいうこと100%絶対的なものだなんて思っていた、あの頃の自分はどうかしてたんじゃないか――歳を重ねていく毎にそう思うのは……決して単なる反抗心だけではないはずだ。
「良い子」でいることが、生きる術。そう信じて疑わなかった子ども時代が終わっていく。そうやってみんな、自分自身の在り方、生き方を見つけて大人になっていくのだろう。
ママにとってはそれが寂しいことなのかもしれないけれど。でも、私とママの人生は……もともと別物なのだ。
どんなに血が繋がっていようと、私の人生は私のもの。だから、
「ママこそ、恋愛したほうがいいわ」
もう後戻りできないのなら。
過去に執着したって、虚しいだけじゃない。
きっと、ママは若さと勢いで結婚したのだろう。そして、その若さと勢いでパパと別れてしまった。そのことをずっと悔やんで今日まできたんだ。
大好きなパパと、もう一度やり直したくて。もしかしたらまた、やり直せるかもしれないって、心のどこかで期待してたのだろう。でも、パパにはもう新しい家族がいて、それは叶わない。
「……私がいるわ」
「え?」
「ママには、私がいるじゃない」
どうか、パパを憎まないで。
「……そうね。ママには、あなたがいる」
ママは安堵したように笑った。
病院から帰った私は、リビングのファンヒーターの前でコートを羽織ったまま丸まっていた。
唸るような送風音。それとともに、もふぁん、とした熱風が心地よく送られてくる。
「はぁ、生き返る……」
「若葉、せめてコート脱いで。せっかくのコートが台無しよ」
ママが台所から私に言う。
「あともうちょっとだけ暖まらせて~。今帰ってきたばかりで、歯までガチガチいってるのよ」
小刻みに振動する私の躰は、ファンヒーターの熱風だけでは物足りないようだ。私はソファーの上に置いてあった毛布を広げ、頭から被る。
「しょうがない子ね。あら、そんな体勢じゃ、パンツ丸見えよ」
「え!?」
私はとび起きる。
頭隠して何とやら。
「あら、動けるじゃない」
ママがニタッと笑う。確信犯か。
「う……」
はめられた。
「そのままついでに着替えちゃいなさい」
相変わらず、ママは人を動かすのがうまいな。
「……わかったわよ」
私は部屋着をワードローブの中にある籠から取り出した。
コートを脱いでハンガーに掛ける。
「ん?」
続いてニットワンピを脱ぐと、背後に視線を感じた。
「何? ママ」
ママがじっとこちらを見ている。
「……」
「ママ?」
「若葉、あなた……」
ママが真顔でにじり寄って来る。
「な、何? 怖いんだけど」
手を伸ばしてきたかと思えば、その手で私の二の腕を摘んだ。
「ねえ……太った?」
「!!」
私は慌てて上着を羽織る。
「やだ、今更隠しても遅いわよ。はみ出てるし」
は、はみ出てるとは……失礼な。
「それにしても……」
ママが私の上着を捲り上げる。
「ちょ! やめ……」
「あらぁ、何てご立派なムッチムチボディー。見てると何だかムラムラしちゃうわねぇ」
何ですか、そのオヤジ発言は。
「ママにも負けず劣らず、まるで”パーピーちゃん”みたいなボディーねぇ」
出た、”パーピー”。ママの子どもの頃に流行ってたメリハリボディーの女の子の人形だ。さっき私に「太った」なんて言ったくせに、全く持って意味が解らない。
「もう、返して!」
「若葉も普段からもっと躰のライン出る服着ればいいのに。ママみたいに」
「い、嫌よ! そんなパッツパツなのッ」
ママは普段から膝上丈のスカートとか穿いているような人だ。実年齢を言うと周りにかなり驚かれるが、私は若々しさよりも、年齢相応に慎ましくしていてもらいたいと思っている。
「あ、でも……よく見ると脚が若干太めかな。昔の名残?」
「もう、ほっといてよ!」
大きなお世話だ。下半身が肉厚なことくらい、自分が一番よく知っている。
ママはというと、年齢の割にはスレンダーで、メリハリのある――所謂理想的な体型だ。20代の頃からほぼ変わりないそのプロポーションは、同年代の友人からも羨ましがられるほど。実は私も羨ましいと思っている。
さらに、ママは若い頃、街中でよくナンパされたり、デートの誘いは毎日のようにあったりと、とにかくモテモテだったとか。正直いって、顔立ちは地味目でものすごく美人というわけではない。が、当時から流行に流されず、常に自分流のスタイルを追い求めてきた結果がモテに繋がったのかもしれない。そんなママに、私は到底適うはずがないと思っている。そこまで自分に興味がもてないというか、野心がないというか。情熱を傾ける対象が違うのだ。
「ねぇ、若葉」
「何?」
私はママから奪還した上着を羽織った。が、何となく寒いので中にもう一枚着ることに――再び上着を脱ぐ。
「あら、もう一回見せてくれるの?」
「違う!」
「なーんだ、つまんない」
ウォーミーテックという薄手なのにポカポカのトップス。パステルグリーンというなかなか季節感を無視した色合いだけど、肌触りや質感が良くて結構気に入っている。
私は気を取り直して上着を羽織った。
そういえば、ママ。さっき何か言いかけていたような。
「若葉」
絶妙なタイミング。
「何?」
「今、恋はしてるの?」
「は?」
「彼氏は? 好きな人は?」
唐突すぎる。
「い……いないけど」
「え、本当に?」
ママに嘘を言ったところで、この調子だとさらに深堀りしてくるのは目に見えている。一体、私に何を期待しているのだろう。ママの意図がわからなくて私は困惑するばかりだ。
「残念だけど、今の今までいたことないわ。私はママと違って、全然モテないから」
こう切り返すのが精一杯。ここで納得してくれればいいのだけど、何と答えてもそうはいかないような気がする。
「なんだぁ、つまんないなぁ。ママってば、娘の恋バナとか聞きたいお年頃なのに。若葉、全然そういう話してくれないんだもん。因みに、ママが若葉の歳の頃には、もうパパと付き合ってたわよー」
ほら、やっぱり。あ、今……さりげなく自慢入れたな。
こういう人だから、仮に私が恋をしたとしても、ママにだけは絶対に話さない。話したくない。きっと、それはこの先も変わらない。
「だ、だから何よ?」
反論してみるものの、ママは続ける。
「待ってるだけじゃ、恋は成就しないわよ。もっと積極的に自分から行かないと」
「だから、待つも何も……そんな人いないって言ってるじゃない」
「もう! そんなんだから全然彼氏できないのよ。もったいないわねぇ。せっかく大学生になるんだから、貴重なキャンパスライフの中で彼氏の一人や二人うちに連れてこなきゃ、女じゃないからね」
大きなお世話だ。
何でそこまでいわれなきゃいけないの。これは語弊云々の話では済まない――何たる言い草。たった今、この人は私を含む全世界中の非リア充女子を敵に回した。この無差別的な母の爆弾発言に、私は断固として己を貫く決意を表明した。
「ママと一緒にしないでよ。私には私のペースがあるんだから」
「そんなこと言ってたら、若葉の場合すぐおばあちゃんになっちゃうでしょう」
なかなか手ごわい。
「じゃあ、せっかくだから特別に」と、ママは聞いてもいないのに『パパとの馴れ初め話』をし始めた。
「はぁ……」
もう、どうでもいい。
長いので簡単にまとめると、ママが美容専門学校に通う少し前に、バイト帰りに立ち寄ったコンビニの駐車場でパパと運命の出会いをした――という話だ。その日は台風で天気は大荒れ。自転車も傘も飛ばされて、家に電話しても繋がらなくて立ち往生してた時に、当時大学生だったパパが車で家の前まで送ってくれた。それがきっかけでデートを重ねて付き合うようになったっていう何とも少女漫画チックなお話。
私としては、台風の中自転車でバイトに行ったママの根性がすごいと思うのだけど。きっと、恋愛ってそういうことではないのだろう。
私はまだ誰かを特別に好きだと思ったことすらないのだが、恋とは本当に些細なきっかけからスタートするものなんだな、と何となくは思う。共感にまでは至らないが……梨歩の恋も、こんな風に始まったのだろうか。
この歳になるまで、恋愛したことがないのはおかしいのだろうか。
人それぞれとは思うが、こんな私でも実は少しだけ期待している。この先、私はどんな人と出会うのか。どんな人を好きになって、どんな人と恋をして、どんな人と結婚するのか。
全く興味がないわけではなくて、今までなかなかそういうチャンスに恵まれなかっただけなのだ。大学生になったら、ママの言うように彼氏の一人や二人とやらができる日が来るかもしれない。人並みに恋をして、人並みに結婚して……。
ところで、今日のママはいつになく饒舌だ。でも、私はすべて「へえ、そう」と、素っ気なく返す。
「プロポーズの言葉は……」
ここまで来れば、もうメンタルが強いのか弱いのかすらわからない。ただ、何を言っても無駄だということは確かだ。
「パパが大好きだった花時計の前で、『これから先もずっと、君と同じ時間を共に生きていきたい。僕と、結婚してください』って。あぁ、思い出したら何だか泣けてきた……」
「えっ!」
「う……うっ……」
うわ、本当に泣き出した。
「あの、泣くくらいならもういいから……」
実に面倒くさい人だ。こうなったが最後、手を付けられない。心行くまで思いのたけを吐かせ、時が過ぎるのをひたすら待つしかない。
「ママが26の時に、グスッ……若葉が生まれたの。パパなんて、赤ちゃんのためにって自分でアレンジメントした花束持ったまま子どもみたいにわんわん泣いて。見ている方が恥ずかしかったわ」
私は今のママを見ている方が恥ずかしいんですけど――。と喉まで出かかっていたが、言葉に出したところで延長戦に持ち込まれては困る。
早く終われと思うばかりで、私は敢えて何も言わず本音を飲み込んだ。スルーだ。今はこれに尽きる。
「あ、そうそう。若葉を最初に抱っこしたのは、ママじゃなくてパパなのよ」
「え、そうなの?」
それは知らなかった。
「で、そのまま顔面至る所に『可愛い、可愛い』ってチューチュー吸引しまくってたわ。分娩も吸引、パパからも吸引。出生早々若葉は忙しかったわよ」
「え!?」
それも知らない。初耳だ……。
「……そのあとママにもしてくれたけどね」
細やかな対抗心だろうか? ママがパパを吸引した情報は別にいらない。それより、何で急にパパの話になったのか。いい加減理由が知りたい。
「若葉が生まれた日。ママ、本当に幸せだった。パパと結婚して、本当に良かったって思ったわ」
さっきからずっと、パパの話ばかりで不可解極まりない。
私はとうとう勢い余って言ってしまった。
「じゃあ、どうして別れちゃったのよ」
一番言ってはいけないことだと、わかっていたのに。
「…………」
案の定、ママは無言になった。
「――ごめん、今のは言い過ぎたわ……。もういいの、パパのことは」
「若葉……」
私は、いつも優しいパパが大好きだった。物心ついた頃から、パパにいろんな花の名前や花言葉、花の育て方を教わって、いつの間にか私もパパのように花が大好きになっていた。
パパが優しかった分、当時ママはとても厳しかった。まだ幼稚園に通っていた頃、ママが私を学習塾に通わせようとしてパパと激しく揉めたり。二人が喧嘩するのは、決まって私の子育て方針のことで、それを間近で毎日見ているのは幼いながら辛かったのを覚えている。でも、当時の私は黙って見ているだけしかできなくて――論争が鎮まるのをカーテンに包まりながら耳を塞いだり、布団の中や押入の中でひたすら待っていた。自分の気持ちに正直だと言えば聞こえはいいけれど、ママは感情の起伏が激しくて、怒ったり泣いたりすると収集がつかなくなる。特に、私はママがヒステリックになるのが恐ろしくて、ひたすら自分の声を押し殺すように、ママのいうことにはすべて従って過ごしてきた。でも、小学校も高学年になると勉強も難しくなって成績が落ち始めて。それから間もなくして、「勉強の邪魔になるから」と、気に入っていた長い髪を、ママに首のあたりまでバサッと切られた。その時、抑えていた感情が一気に溢れ出して――
「ママなんて大嫌い!」
確か、あれは私が小学5年生の時だ。この時すでにママとパパが別れて4年か5年が経っていた。あとでわかったことだが、ママはパパがあまりにも優しすぎて、私を甘やかしすぎてしまうのを心配していたのだとか。それで、心を鬼にして私にいつも厳しく接していたのだと話してくれた。でも、当時の私には理由の後付けにしか聞こえなくて、余計に腹が立った。どうせ私は、ママにとっては自分の幸せを壊した忌むべき存在で、何かと癇に障るから八つ当たりをしていたというのが大方真実だろう、と。私もこの一件で、随分と捻くれたことを言うようになってしまった。その経緯には、実は少し梨歩も絡んでいるのはママには内緒の話。梨歩とはちょうどその時に出逢い、友達になったので、もうかれこれ8年近く一緒にいることになる。
でも、あの時梨歩がいてくれたから、今の私が私でいられるようになったのは紛れもない事実。自分で言うのも何だが――私は、今の自分が結構好きだったりする。
『自己主張は、したもの勝ち』だと、梨歩が教えてくれた日から。
「ごめんね、若葉。ママ、さっきから勝手なことばかり言ってるわね」
「……知ってるわ」
「そう……」
ママはあからさまに落ち込んだ。
私は居たたまれない気持ちに押し潰されそうになるものの、敢えて訊く。
「ねぇ、さっきからパパの話ばかりしてるけど。何で?」
「それは……」
ママが口を噤む。
「あの、言いたくないならいいの。だから――」
「……、してたんだって」
「え?」
「もともと若葉の高校卒業までは、パパが養育費を毎月支払うっていう約束だったの。約束通り一度も滞りなく払ってくれていたんだけど、この3月で若葉は高校卒業したでしょ? そしたらパパの方から大事な話があるって切り出してきて……」
ああ。
ママはさっきから、私にこのことが言いたかったのか。
やっと理解できた。
「まさか、10年も前に再婚してたなんて……」
ママが笑う。とても悲しそうに……。
「そんなに大事なことなら、リアルタイムで教えてくれたっていいのにねぇ」
「……まあ。大事なことだからこそ、頃合いを見計らって切り出したんじゃないの?」
とはいうものの。
正直、私にとってもパパの再婚の事実は衝撃的だった。パパは、私だけのパパだとどこかで思っていた節があったから。たとえ別れても、パパは私だけのパパであってほしいと願っていた。
時は、残酷だ。
「しかも、子どもまでいるのよ。小学生の男の子が2人。1人は、今の奥さんの連れ子みたいだけど」
知らなかった。そして、知りたくなかった。
「若葉、いきなり弟が2人いるって聞いてびっくりでしょ?」
「そ、それはびっくりだけど。うん、私も未だに信じられない」
パパは別れても、私の養育費の他、私とママの誕生日にはいつも誕生花の花束をおくってくれていた。そしてもう一つ。秋に決まっておくられてくる花の種があった。
勿忘草――。
今年もまたその花の種は、鮮やかな水色の小花を実らせたばかりだというのに。
――――私を忘れないで――――
それはきっと……家族を想う父の心情。そして、かつて愛した女性に贈る唯一のメッセージなのだろう。でも、パパの再婚を知った今、大好きだったパパが少し憎らしく思えて……何だか無性に悲しかった。忘れようと思って忘れられるような関係でもないし、この花がなければ忘れてしまうというものでもない。でも、願わくば、これが最後の花になりますように。
私は自分にも言い聞かせるように、ママに言った。
「もう、いいじゃない。パパには今の幸せがあるんだから」
「……でも。何か、悔しいわ」
「ダメよ、ママ。そんなふうに思ったら」
「若葉……」
ママは昔から、私にいろいろ教えたがるけれど、私はもう……ママが思っているほど子どもじゃない。
ママのいうこと100%絶対的なものだなんて思っていた、あの頃の自分はどうかしてたんじゃないか――歳を重ねていく毎にそう思うのは……決して単なる反抗心だけではないはずだ。
「良い子」でいることが、生きる術。そう信じて疑わなかった子ども時代が終わっていく。そうやってみんな、自分自身の在り方、生き方を見つけて大人になっていくのだろう。
ママにとってはそれが寂しいことなのかもしれないけれど。でも、私とママの人生は……もともと別物なのだ。
どんなに血が繋がっていようと、私の人生は私のもの。だから、
「ママこそ、恋愛したほうがいいわ」
もう後戻りできないのなら。
過去に執着したって、虚しいだけじゃない。
きっと、ママは若さと勢いで結婚したのだろう。そして、その若さと勢いでパパと別れてしまった。そのことをずっと悔やんで今日まできたんだ。
大好きなパパと、もう一度やり直したくて。もしかしたらまた、やり直せるかもしれないって、心のどこかで期待してたのだろう。でも、パパにはもう新しい家族がいて、それは叶わない。
「……私がいるわ」
「え?」
「ママには、私がいるじゃない」
どうか、パパを憎まないで。
「……そうね。ママには、あなたがいる」
ママは安堵したように笑った。