☆
ひとしきり泣いたあと、梨歩は「今日はありがとうございました」と律子さんに頭を下げた。私も梨歩に同調する。
「こちらこそ。わざわざ遠方から足を運んでくれてありがとう」
律子さんは玄関先まで見送ってくれた。
「涼平の思いを知ってもらえただけで十分やわ。わたしとしては、あまり過去にとらわれすぎないようにあなたには生きていってもらいたいから。もし、その指輪が重荷だって感じる日が来たら……手放してくれていいでね」
「大丈夫です。先のことはわからないけど、今はまだ涼ちゃんを感じていたいから。もしこれを卒業する時が来たとしても、あたしは絶対に……涼ちゃんのこと、忘れません」
☆
「押さないでくださーい!」
「列の最後尾はこちらでーす!」
「二列ずつ順番に前へお進みくださーい!」
今日の会場『フラワーフェスタ記念公園』は、世界中の薔薇が寄り集まった公園だ。この公園の特色は、何と言っても人々の夢が詰まった『ブルーローズガーデン』と呼ばれる青い薔薇の品種が数多く揃った場所。
「これ、来場者やばいね。人数制限かかりそう」
「うん。ほら、チケット譲ってくださいって人が何人かいるよ」
「本当だ」
「譲れないけどね。あたしの大事なチケットちゃん」
「まあ、そうね……」
ゲートでチケットを提示すると、受付スタッフのお姉さんが半券を切り取ってくれる。
「あ、そういえば。関係者は特別に座席が用意されているみたいよ」
*
簡易なバリケードみたいな柵が、座席と立ち見席の境界線に当たる部分に設置されている。
「もみくちゃ防止ね。これであたしは安心して観られるってわけか」
後ろの観客スペースには申し訳ないけど。
私は荷物を座席の下に置く。
「あれ? 関係者って結構いるんだね。若葉、聞いてない?」
「さあ。出演メンバーの友達とかじゃないの?」
「ああ、なるほど」
そうこうしてるうちに、関係者席に何人か入ってきた。
「あら」
「あ」
「まぁ、若葉ちゃんじゃないの!」
ロゼさんだ。
「嬉しいわ~。アタシも隣座っていい?」
「どうぞ」
ロゼさんが私の右隣の席に腰掛ける。
「お邪魔しま~す……あら、そちらは例のお友達かしら?」
ロゼさんが梨歩の方に視線を移す。
「!!」
梨歩の表情が引き攣った。
「梨歩、この人はロゼさんって言ってね……」
私はすかさず梨歩にロゼさんを紹介した。
「わ、若葉っ……。何普通に会話してるの?」
戸惑う梨歩。
「何って、ロゼさんはエディさんのバイト先のカフェのマスターで――」
梨歩が私の説明を遮る。
「い、いくら何でも怪しすぎでしょう! こんな網タイツに、真っ赤なハイヒール履いたオッサンのどこが……」
「んまっ! オッサンですって!?」
「オッサンじゃなきゃ何だっていうのよ、きンも」
「むっきぃ~! アンタ、超失礼な子ね。アタシはまだ35よ。ロゼ姐様とお呼びっ!」
「はいはい、わかったよ。オッサン」
「ぐぅ……」
ロゼさんが下唇を噛みしめている。
「ちょっと、梨歩。挑発しないの。失礼でしょう」
「あ、バレた?」
「まったく……」
*
照明が再びステージを照らし始めた。
5つのシルエット。仄暗いステージに降り立った5人の姿が静かにその時を待っていた。
ドラムのカウントを刻む音が、再開を合図した。同時にスポットライトがステージ中央に立った人物を照らし出す。
*
開演まであとわずか。
「ねえ、若葉。ナマEDENだよ。ヤバい、あたし緊張して……チビりそうなんだけど。どうしよう」
「トイレ行っとく?」
「ダメ! 漏らしてでもこれだけは見る!」
「それはさすがにEDENもドン引くから、やめた方がいいわよ……」
「じゃあ漏らさないように気を付ける!」
「……はいはい」
「あれ、エディ?」
梨歩はステージ上のエディさんの存在に気付いた。仄暗い周囲のぼんやりとした常夜灯のような僅かな光が、その存在を曖昧にしていた。
「梨歩、始まるよ」
エディさんがマイクを握りしめた。
「あ、ほら。やっぱりエディじゃん。何でエディが?」
梨歩は不思議そうにステージのエディさんに視線を向けている。
エリサちゃんが軽やかなステップを踏むように、滑らかにストリングスのサウンドを響かせる。その後を追うように、アサトさんのベースが音に厚みを加え、ミナト君のギターソロでイントロが完成――。
ほんの少し、時が止まったかのような静寂が会場を包み込む。
一瞬にして咲いたスポットライトの花――迸る火花のように彼らを映し出す。
「ねえ、あれ……モデルのELLIEじゃない?」
「わ、本当だ! ELLIEだ!」
「何だ、このバンド!」
観客席からは、次々と歓声の嵐がこだまする。
「す……すごい!」
最前列中央の席で、私と梨歩は初めてのライブに夢中で魅入る。
「やば、鼻血出そう……」
梨歩は会場の気迫に押され、卒倒しそうになっている。
「だ、大丈夫?」
「うん、平気。この席は……譲れない」
「平気って……。気分悪いなら無理しなくてもいいのよ」
「ダメ、ここで見たいの」
「そう……そりゃそうよね」
ステージ上で初めて聴く彼の歌声。それは、どこか儚げに掠れる独特の声質。やや高めの、ハスキーだけど透明感のある不思議な声。うまく言い表せないけど、ガラス細工のように繊細で、蒼天を突くように力強い。異なる声質を絶妙に織り交えた魅惑の声。
だけど、梨歩はまだ知らない。この声の主が誰なのかを。
梨歩が突如立ち上がった。
「う……そ……」
梨歩は漸く悟ったようだ。
バックスクリーン上に映し出されたその文字が、踊るように次第に形を変えていく。
そして、ある文字が浮かび上がった。
E
D
E
N
アップテンポで爽やかなメロディーラインが心地良い。
疾走感溢れる旋律――歓声に包まれたステージ周辺を彩る七色の光はまるで夜の虹。
夜風に揺られて歌うように咲き乱れた薔薇の花々は、まるで観客の一部のようにも見えた。
エディさんが、歌いながらステージを降りる。
「えぇ! 嘘でしょ……何で――」
エディさんは梨歩の手をとり、そのままステージに向かって歩いていく。
「ちょ、ちょっと……!」
ステージ中央のステップを半ば強引に駆け上るエディさん。その勢いで梨歩も一緒にステージへと上げられた。
梨歩はひどく困惑している様子。
歓声が大きくなる。
案の定、梨歩は視線の先に広がるその景色に目を瞬かせている。
一曲目が終わり、 エディさんが大きく一礼する。
それに合わせて残りのメンバーの人たちが、それぞれのパートの楽器音を鳴らす。
「皆さんこんばんは! はじめまして、 EDENです!」
歓声と喝采がこだまする庭園。
「続いての曲は、新曲! たくさんの応募の中から見事音源化のチャンスを勝ち取ったのは、ここにいる彼女……桜ヶ丘梨歩! おめでとう!」
「あ、ありがとう」
エディさんは続ける。
「その唯一無二のコラボ作品。その名も……」
「“ブルーヘヴンの彼方に”!」
エディさんがアンプの裏に回り屈み込んだ――。すぐさま立ち上がると、その腕の中には、クリスタル仕様のエレキハープ。
「え、何あの楽器……」
「ハープ? あんなの初めて見た!」
エディさんが弦を爪弾く。柔らかなハープの音色が、エリサちゃんのシンセサイザーが放つグラスハープの音色と重なる。
観客席からは、早くも感嘆の声が溢れ出す。
「綺麗な音……」
ハープの音色に続き、ドラムのキリト君がリムショット(太鼓の達人でいうと、「ドンドン」「カ」の後者の方)をテンポよく刻む。
夜空を彩る星々が瞬くような煌びやかな旋律が会場を包み、スポットライトが徐々に白い光を放ちステージ中央に集まっていく。
梨歩はその光を辿るように、ステージ中央へと歩を進めた。だいぶ緊張している様子。
(梨歩、頑張れ)
アサトさんのベースが加わり、繊細なメロディーはより一層重厚なサウンドへと変容する。エディさんのエレキハープは、繊細な音色から徐々にグルーヴィーな電子音を響かせ、ミナト君のエレキギターのチョーキング音と重なり合う。
梨歩はマイクに意識を集中させるように佇んでいる。イントロが終わる頃。
Dreamin’ 思い出して
埃まみれの夢だとしても
その先に望んだ未来を描けばいい
踊るスポットライトの傍らに設置されたキャノン砲から、無数の銀テープが色彩を帯びて放たれる。
「良かった。少し遅くなっちゃったけど、間に合ったみたいね」
春奈おばさんは安堵したような笑みを浮かべる。
「あら?」
「アラ?」
ロゼさんと春奈おばさんの声が重なった。
「まぁ、源ちゃんじゃないの!」
「は、春奈先輩!? どうしてっ……」
「娘のステージを、ね」
「え! あのクソ小生意気な……」
「――え?」
「あ、いえ。何でも。ほほ。まぁ~、可愛らしいお嬢さんだこと」
(まさかの知り合い同士……)
偶然の再会を果たした二人は、元職場の先輩後輩の関係だそうで。
ということは。
「あの、ロゼさん」
「なぁに? 若葉ちゃん」
「ロゼさんって、看護師……だったんですか?」
「――ええ、そうよ」
「本名は、高科源氏っていってね。当時はイケメン看護師で名を馳せてたのよね。大人気だったのよ、おばあちゃんに」
春奈おばさんが暴露する。
「ちょっと、先輩! アタシはっ――」
「とっても優秀でね。患者さんからも人気があって、あっという間に看護師長への話まで進んだほどよ」
「へぇ。そんなに優秀な看護師さんだったんですね」
「えぇ。実習生の頃から面倒見が良くて。当時、まだ小さかったエディ君の担当もしていたのよ」
ああ、それでエディさんとは親しいんだ。
「まぁ、そんなこんなで今は――こんなんになっちゃったけどね~」
ロゼさんは春奈おばさんに「あとでゆっくりお話ししましょう」と言って、ステージの方に向き直る。
見上げた空の広大さに気付いたら
この世界に楽園を見たような気がした
時折相見える梨歩とエディさん。二人の視線が重なり合う度に、演出に熱が込められる。
晴れ渡る空に青い薔薇を想う
理想・現実・夢・幻
願いは一つ「叶えたい」
間もなくサビに差し掛かる。エディさんは華麗に低音から高音へと滑らかな滑奏で旋律を繋いでいく。
Believen’ 咲き誇る奇跡の花
どんな困難があろうと
自分にだけは負けないで
Blue sky 空に誓うよ
あなたが今日 踏みしめている大地の温もりは
今を乗り越えた証
今日まで生き抜いた証
オーケストラサウンドにエレキピアノの音が重なる。透明感溢れる旋律を紡ぎ出すシンセサイザーを自在に操るのは、ELLIEことエリサちゃんだ。
朝日の向こうに広がる景色
灼熱の太陽に
ありったけの夢 叫びたい気分だ
実現不可能でも 恐れずに
戸惑い捨てて 小さな一歩
踏み出してみようよ
サビ直前。グランドピアノの澄んだ音色が夜の薔薇園に響き渡る。ベースは大地を揺さぶるように力強くメロディー全体を支え、ドラムは時折静寂を含んだビートを緩やかに刻む。ベースからヴァイオリンに持ち替えたアサトさんは、伸びやかで華麗な主旋律が情熱的に高らかに空気を振動させるようにその音色を響かせる。
Blessin’ I love You
魂が震える 僕らの旋律奏でよう
空にとけてく 泡沫のように儚くとも
Blue time 祝福の時
いつか必ず咲くと信じた花は
どんな花より美しく
明日を彩る道標に
青く染まったステージに、白い光が一筋差し込む。光はステージ中央に立つ梨歩から徐々に末広がり、やがてバンド全体を包むようにゆっくりと照らし出していく。
Amagin’ 本当の願い
気付かないフリ もうやめよう
大丈夫
Blue rose 夢は叶うよ
不可能だって越えてみせる
信じ続けよう
夢 叶うまで
ヴァイオリンがさらに甲高いサウンドでうねりを上げる。シンセベースの重低音が重なると、ドラムのキリト君が激しくクラッシュシンバルを連打し、瞬時に消音をかけ、音に抑揚をつけていく。
Believen’ 咲き誇る奇跡の花
どんな困難があろうと
今を生きて 「あなた」を生き抜いて
Blue heaven 空に誓った
夢の続きを描いていこう
諦めないで
命ある限り 夢は終わらないから
転調――さっきよりも高くパワフルに、梨歩はラストに向けて全身全霊を込めるように――熱く熱く歌い上げる。
ひらひらと舞い降りる色とりどりの花弁。ステージに降り積もるカラフルな花は雪のように、舞台面を鮮やかに彩っていく。
「素敵な演出ね」
春奈おばさんが口を開く。
「うん」
持つべきものは、頼れる上司。特別に譲り受けたフラワーシャワー。まさかこんな形で使える日が来るなんて。
ここは、まるですべての人の夢を叶える場所のよう。今、この瞬間に私自身の夢も同時に叶ったような――そんな気さえした。
Blessin’ I love you
魂が震える 僕らの旋律奏でたら
空にとけてく 泡沫のように儚くとも
Blue heaven 幸福だね
必ず咲くと信じたあなたは
他の誰より美しく
「梨歩……」
無限の色彩を帯びた旋律。それはきっと、確かな明日へと続く、希望に満ちた歓びの歌。
私の視界が、涙で滲む。
Hammin’ いつか
あなただけのPrecious dream
ずっと 描いて
心のままに Shinin’
溢れ出す数々の思い。でも、もう涙には頼らない。
私は頬を伝う最後の一滴を拭うと、意を決してステージ上手側へと向かった。
Ah――
終幕を彩る鮮やかなスポットライトの下で、梨歩はEDENの演奏をバックにマイクを介し、まるで言霊を放つように溌剌とした声で言った。
「みんな、今日は最後まであたしの歌を見届けてくれて本当にありがとう! 今までで一番、最高に幸せなライブだった。あたし、またこうしてみんなの前で歌えるように……。いつか、いつか今よりもっとパワーアップレベルアップして、プロの歌手としてステージに立てるように……あたし、絶対元気になって帰ってくるから。その時はまた是非、あたしのステージ観に来てね!」
ありがとう! と、梨歩は生声で叫んだ。
鳴り止まない喝采。
終始笑顔と涙に包まれた観客席。
電子音を放ったエレキハープの音色。リバーブを利かせた心地よいサウンドは、次第に本来の繊細で神秘的な音色に変わる。
そして、最後の旋律――
幻想的な青いスポットライトが梨歩を包む。
「若……葉?」
「梨歩……」
私はステージ上に立った。
白い光が、ステージ全体を照らす。
どよめく観客席。
私は手に持ったブーケを梨歩に渡す。
「ステージデビュー、おめでとう」
「……!」
いつか出逢った、青灰色の花弁が印象的な品種〝ブルーへヴン〟
青薔薇に願いを込めて。
「若葉……あたし……」
私はマイク越しに梨歩に言った。
「青い薔薇の花言葉覚えてる?」
「……うん」
「まず1つ目は?」
「『奇跡』」
「2つ目は?」
「『神の祝福』」
「じゃあ、3つ目は……私たちから言うね」
突如、照明が落とされ、ステージは再三、暗闇に包まれる。
「え、何?」
「停電?」
どよめく観客。
静寂の合間を縫って、エディさんが私の右隣に立った。僅かな視界の中、彼と私は息を合わせ、呪文を唱えるように声を放った。
「夢、かなう」
青と白のスポットライト。閃光弾のような眩さが、今一度ステージ周辺をきらびやかに染め上げる。
「若、葉……っ」
梨歩の手に渡ると同時に、梨歩の温もりが私の全身に流れてくる。
「梨歩……っ」
いつか、梨歩が自らの足でステージに立つ日が来たら、この世で最高の、祝福の花を贈るから。
いつかの約束。やっと果たせた。この瞬間、私の夢も叶ったんだ。
「あ……!」
「どうしたの? 梨歩」
「今、涼ちゃんが」
「涼平さん?」
姿形は見えなくても、それはきっと夢でも幻でもない。涼平さんは、梨歩のステージを観に来たんだ。
「うん。来てくれてたんだなと思って」
「きっと観てるわよ。今も」
時空を超えた涼平さんの思いは、十分すぎるくらい梨歩に伝わっているのが私にもわかる。
「そうだね」
梨歩は涼平さんの忘れ形見となったエンゲージリングを見つめる。
スポットライトの光を浴びたダイヤモンド。小さいながらも、一貫して洗練された輝きを放ち、梨歩をより一層引き立たせる不思議な存在感。
まだあどけなさが残る梨歩のはにかむような笑みですら、“大人の女性”を感じさせる。
「涼ちゃん……」
喝采が手拍子となって、ステージから楽器の音色が幾重にも響き始めた。
「それでは、桜ヶ丘梨歩……アンコール、歌います!」
続いての曲は、と梨歩は高らかにマイクを天に掲げる。
――梨歩。
君がいて 僕がいて
世界が次第に色づいて
これからもずっと、歌い続けて。
幸せな時を刻む日も
終わり告げる鐘が響く日も
(La La La……)
エディさんのハミングが、梨歩の伸びやかな歌声に重なる。
すべて君と僕がいた
愛しい記憶
永遠より永い 宇宙の彼方に
すべての人の心に届く、あなたの歌声を。
いつまでも どこまでも
どうか、どうか……
届け 響け
永遠に続く、祝福の旋律に乗せて。
Over the world
〈Fin〉