「あれ、弥生さんどうしたの?」
「どうするも何も、俺が居れば邪魔じゃね?」
「邪魔じゃないでしょ」
「ていう過去の前、俺の分買って来なかったくせに」
「それは悪かったと思ってるよ……」
 苺音ちゃんの誕生日当日。俺の家でケーキを食べる程度だけれど、軽いお祝いをする予定で組んでいたのだが、同居人である弥生さんが家から出て行こうとするので、思わず声を掛ければこの返答だ。
 彼の返答に拍子抜けしつつぱちりと瞬きをすれば、彼は「こいつマジか」と言いたげに、ジトリと少しだけ目を細めて、小さく溜息を吐いた。
「だって、俺はあの子達とは初対面よ? お祝いの席に俺が居たら気まずいでしょ」
「いや、そんな豪華なパーティとかじゃないから。学校の帰りに友達の家でおやつを食べる、程度の気軽さだよ」
 そんな事を言っても、いやいやと彼は首を横に振る。
「俺は苺音ちゃんに嫌われてるから駄目」
「嫌われてるって、会ったこと無いって言ったじゃん」
 俺が彼女達の話を彼にすることはあっても、彼が彼女達に会ったことは無いはずだ。というか彼が自分でそう言った。
 会っていないのに、知り合いでもないのに勝手に嫌われるのは悲しすぎる。いつも、俺が二人の話をすると、笑顔で楽しそうに聞いているのに。そんな悲しいことが、目の前の人当たりの良さそうな彼に限って無いはずだと思うのだ。
「良いんだよ。3人水入らずで楽しんでなよ」
「まあ、君がそう言うなら無理強いはしないけど……」
 ピンポーン。
 玄関先からインターホンの音が聞こえ、返事をしながら玄関の方へ向かう。
 曇りガラス張りの引き戸を開ければ、ちょこんと佇む一人の女の子。本日の主役である苺音ちゃんがそこに居た。
 いらっしゃい、と小さく笑みを浮かべながら歓迎の声を掛ければ、彼女はこくりと首を縦に振った。
「あれ。杏哉くんは?」
「ケーキを取りに行くと言っていました。だから、先に家に居ろと」
「ええ、何だったら俺も一緒に行ったのにな」
 案外行動派なんだなあの人。
 玄関先で動きを止めていた俺の後ろに、いつの間にか弥生さんはやって来て、俺の肩越しに苺音ちゃんを覗き見た。
「ああ、この子が苺音ちゃんね」
 彼がそうポツリと名を呼べば、突然人が現れたからか、苺音ちゃんはビクリと少し大げさな程に肩を揺らした。少しだけ慌てるようで、少しだけ困惑しているようで、少しだけわたわたと手を動かしている。最終的に、少し怯えた様に瞳を揺らして、俺のズボンの裾を小さな手で掴んできた。
「……ほら見ろ」
 弥生さんが再度、俺のことをジトリと睨んできた。こうも事実を目にしてしまえば、上手く庇う事も出来なかった。小さく苦笑いを浮かべながら、彼女は人見知りだからと精一杯のフォローをした。
「それにほら、君がデカいってのも……」
「大して変わらんから」
 どす、と背中に軽く拳を叩きこまれてしまった。小さく謝っていると、彼は溜息を吐きながら俺の隣をすり抜けて、苺音ちゃんを見下ろす。
 彼女は少しだけ怯えつつも彼をじっと見上げていて、弥生さんは小さく笑みを浮かべてしゃがみ込んだ。少女の顔が少しだけ目を開いているのを見て、止めようという意思が沸いてきたのは事実だ。
 弥生さんの名を呼んで、肩を掴んで離そうとする瞬間に、彼は立ち上がって彼女から離れた。伸ばした手は彼とぶつかりそうになり、慌てて引っ込める。
「それじゃあ、程々の時間になったら帰るな~」
「ちょっと、弥生さん!」
 手をひらひらと振りながら、彼は少しだけ楽しそうに軽い足取りで家を出て行ってしまった。あの人、俺の案内人なんだよな? 自由が過ぎないか?
 今度は俺が彼の背中をじとりと眺めてから、ああそうだと苺音ちゃんの方に目を向ける。
 彼女は、いつのまにか、いつも通りのすまし顔に戻っていた。
「……怖かった?」
「いえ、大丈夫です」
 真っ直ぐと真剣な表情で言われてしまえば、深く問い詰めるのも難しい。そもそも、そんな権利など、俺には無いのだ。俺は彼女の親でもないんだから。
 少しだけ苦笑いを浮かべてから、彼女を家の中に通して、ローテーブルの置いてあるリビングへ彼女を案内する。
「先にお茶でも用意しておこうか」
 俺が用意しようとキッチンの方へ足を進めれば、彼女は俺の後をついてくる。彼女の足音は軽い物で、大人の後をついてくる姿は、なんだかカルガモの親子を思い出させた。
「苺音ちゃんはほうじ茶で良い?」
 ティーポットとマグカップと、至って普通なほうじ茶のお茶っぱ。この器は、どう考えても日本茶には似つかわしくないと思う。管理人さんの時から何も成長していない。いい加減紅茶を買うべきだ。
 それでも、苺音ちゃんは文句の一つも言わない。彼女が良い子なのか、単純に自分の意見を口に出せないのか。
 両方かもな、という考えが過って、飲み物の種類の無さに改めて悔いた。
「苺音ちゃんは、誕生日に何かプレゼントを貰うのかな?」
「はい。パパに、本を買ってもらうつもりです」
「本ですか」
 彼女の返答に、やっぱりな、という考えを持ったのが正直な気持ちだ。
 彼女の口から、新作のゲームを買ってもらう、魔法少女などのおもちゃを買ってもらう、という言葉が飛び出すのは、想像が出来なかった。キラキラと顔を輝かせて、おもちゃコーナーに行って「これが欲しい!」と少々値が張るものを必死にねだる。その姿は思い浮かばない。
 本が欲しい、というねだりを、杏哉くんは多少なりとも悩んでいるのかもしれない。あの子は本を読まないみたいだし、彼女のねだるものの理由はあまり分からないかもしれない。だって、本だったら日常生活でも買えるのだから。
 まあ何だかんだ言って、娘に買ってあげるのだろうが。
 俺が彼女くらいの歳の時、何を親にねだっていたんだろうなあ。
「おじさんは何が好きですか?」
「ん? 何がって?」
「本です」
「本かあ……」
 んー……と小さく悩む声を零す。好きな本といっても、ジャンルごとに話は変わるだろう。それに現在進行形で記憶の無い俺だ。記憶のあった頃はどういう本が好きだったのか、全く分からない。彼女と同年代の頃に好きだった本も思い出せない。
 現在進行形で、好きな物でも良いのだろうか。だが、彼女の年齢に沿える本は、読んでいない気がする。
 んー、うーん、なんて悩みの声を零しながら、ケトルに水を入れていく。
「最近は、手軽だから漫画を読んでるかな」
 我が家には、本屋もびっくりな程に沢山の本が並んでいる。知識の海に飛び込んで、どれから手を出せばいいのか、俺にはよく分からなかったから、取りあえず最初に手に取ったのは漫画本だった。
 表紙がシンプルな文庫本も、何冊かは読み終えている。なんせ、期間はあるとはいえ、時間だけはたっぷりあるので。
「苺音ちゃんは漫画は読まない?」
「あんまり、そういうのは」
「絵より文字のほうが好きなのかな」
 彼は少し時間をおいてから「うん」と小さく言った。四割くらいは本心だろう。
 ケトルの中から、コトコトと音がし始めた。水がお湯に変わろうと準備しているのかもしれない。
「苺音ちゃんは沢山本を読んでるもんなあ」
 今度、俺の方こそおすすめを教えてもらおうか。

 ふと考えていれば、小さな手が服の裾を掴んだ。どうかしたのかと、少女と顔を見合わせようとするが、彼女は顔を伏せていて表情が読めない。そのまま、密やかに告げられる。
「あの。できれば怒らないで聞いてほしいんです」
 重要なことを言いたいらしい。何かに怯えているようにも見える少女を見下ろした。
 真剣に、何かを伝えようとして来る彼女のつむじに目を向けてから、しゃがみ込んで、彼女と視線の高さを合わせる。
 彼女はそれでも、俺と目は合わせなかったし、ずっと俺の服の裾から手を離さなかった。
「ずっと言えなかったの」
「うん」
 少女の頬にまつ毛の影が落ちていた。子どもとは思えない陰鬱と冷静の面持ち。
「本当はね。何書いてあるのかちょっとわかんないの。いつも持ってる本……」
 苺音ちゃんは心苦しそうにそう告げた。
 下を向き、俺の服を掴んでいる手は反対の手で、自身のスカートをぎゅうと握りしめていた。言葉遣いも、いつもの大人びたような口調ではなく、年相応の、幼い少女がぽつりぽつりと囁く。不安の渦中でひとり佇んでいるように見えた。
 その様子に合わせるよう、努めて柔らかな声をかける。
「そうなんだ」
「嘘、いったのに。怒んないの」
「なにか理由があるんじゃないかな?」
 子供が素直になれないなんて、そんなの誰もが知っている。子供は時に素直に真っ直ぐで、時にうそつきだ。そうした生き様が、許されている存在だ。可愛らしい嘘に俺が怒る理由など、見つからなかった。
 だが、そのときはじめて、彼女の泣きそうな顔を見た。大きく安堵の息を吐き、安心のせいか頬が薄紅に火照っていた。見開きの大きい目に涙がいっぱい溜まっている。
「本を開いているとね、本が助けてくれる。一人でもさみしくないの」
 声が震えている。
「おじさんは学校好き?」
 彼と同じ歳の「おじさん」に聞かれている。だが、生憎、俺には記憶が無い。
 俺は彼女と同い年の頃、学校はどうだっただろうか。好きだったんだろうか。楽しく毎日を過ごしていたんだろうか。
「……どうだったかな」
「私、学校きらいなの」
 嫌いというより憎いという感情が見えた。
「前へならえをしたときに、私だけがはみ出てるような気がする」
「苺音ちゃんが?」
「うん。私だけが」
 この世に生まれて10年も経っていない、たった一桁代の子の言うことだが、どうにも笑い飛ばせない。むしろ人生初心者ゆえに、些細な事でも感じ取り、異様なもの扱いが鋭く刺さったのかもしれない。
 彼女の繊細な心は、乱雑に放り出されてしまった。彼女の切々とした声を聞いていると、そんな風にさえ思えるのだった。
「私、おかあさんが居ないの」
「……うん」
 どこか、察していた。
 彼女の言葉を聞いて、俺は真っ直ぐと返事をする。
 毎日のように、彼女は父親である杏哉くんと一緒に来る。彼女は、一度も母親と来ることは無かった。
 一度も、その存在についての話題を出す事が無かった。彼女くらいの歳の子が、一度も母親の話をしないのは、話したくない事だからなんじゃないかと、どこかで悟っていたのだ。
「普通はおかあさんおとうさん両方居るのに、苺音ちゃんは居ないんだって」
「うん」
「皆に変だって言われて、普通じゃないって。それにかわいそうって。皆が言うの」
 服を掴む手に、力がこもった。
 結婚は、他人同士で行うものだ。夫婦がたとえ離婚したとしても、当人達は血が繋がっておらず、ただの他人に戻るだけ。
 だが、夫婦の間に生まれた子供は違う。嫌でも、どうしても、あらがえない血の繋がりが存在してしまう。その繋がりは、一生消えない。
 だから当たり前だと思ってしまうのだ。大切にされ、そばに居るのだと、他人になることは無いのだと。信じてしまうのだ。
 子どもというものはどうしてだか、己の認識の範囲外にあるものを悪とし排除したがる傾向がある。
 彼女の周りでは、両親が居るのが当たり前の世界であり、彼女の父親のみという世界は、同じ世界ではないのだろう。
「私は、かわいそうじゃないもん。パパがいて、おばあちゃんおじいちゃんがいて、みんな大好きで、一緒だよ。かわいそうじゃない」
「うん」
「だけど、私だけ変だから、前へならいで真っ直ぐに腕を伸ばせてないの」
「うん」
「おかあさんにも、普通じゃないって言われた」
「おかあさんが?」
「パパに言ってたのを聞いたの。扱いにくいとか、生きにくい子って言ってるのを聞いたの」
 苺音ちゃんはそう言って、とうとう泣きだしてしまった。声をあげてもいいのに息さえ殺すように涙を流す。いいもいやだも好きも嫌いも、きっとその言葉を聞くまでは簡単に言えていたはずだったのだ。
 ハンカチを出して涙を拭っていく。大粒の涙はひとつひとつが重い。少女はされるがまま、殺しきれない嗚咽の中で時折「おじさん」と呼んでくる。そのたびに無力な大人は「うん」「はい」と返事をした。
「毎日怖くて、もらった本を持っていったんだよ。大きくなったら読んでねって、もらった本。その本を開くとね、私を守ってくれるの。読めなくても、開いてるだけで、周りの人から守ってくれるの」
 難しい題材を元にした、文字が沢山敷き詰められた分厚いハードカバーの本。いつだって大切に、身を守る様にして抱えていた本は、まさしく彼女の盾だったのだろう。
 盾を手放して、無防備になって、鼻水を垂らしてひっそり泣いている少女が、立ちすくんでいる。
「そうしたら、学校、行きたくなくなっちゃった」
「うん」
「おじさん。私は間違ってるの」
「間違っていないよ」
 彼女の問いかけに、俺は即座に否定した。間をあけてはいけないと思ったのだ。時間をかけて返事をすれば、それだけ彼女を傷つけるのだと、すぐに察したから。
 シュウシュウ、とケトルが鳴き始める。白い湯気がもくもくと上がってきた。
「俺が読んだ本にね、書いてあったんだ。自分が楽に生きられる場所を求めたからと言って、後ろめたく思う必要はないって」
「どういうこと?」
「そうだなあ。魚が砂浜に置かれて、魚が『苦しい、息が出来ない、辛いから海に住みたい!』って言って、苺音ちゃんは魚が悪いと思う?」
「ううん。魚は海に住んでいいと思う」
「そうだよね。そういうことだよ。苺音ちゃんもね、望む場所を選んでもね、悪くないんだよ」
 ぱちくり、と苺音ちゃんが瞬きをした。その表情を見て、くすりと小さく笑みがこぼれた。
 他人である俺が言っていいことなどそうない。ただ、この少女が、いつか自分のペースで呼吸できたらいい。
「おかあさんの言葉を聞いて、悲しかった?」
「……うん。でも、おかあさんが言うんだからそうなんだって。仕方ないって。認めざるを、えなかった」
 最後に無理矢理に取って付けたような難しい言葉。必要ないのに、どこかでその言葉を見つけて、そうして自分で悲しい気持ちを抑え込んだのだろう。こんなに幼い少女には、重くてしんどい荷物を、抱え込ませてしまったのだろう。
「杏哉くん、お父さんはそう言ってた?」
 俺がそう問いかければ、彼女はふるふると首を横に振った。
「苺音ちゃん。事実というものは存在しない、存在するのは解釈だけだよ」
「解釈?」
「ニーチェっていう人の言葉」
 ほう、と彼女は小さく声を零した。
「解釈って分かる?」
「ううん……よくわからない」
「うん。解釈は、事の意味を、受け手の側から理解することを言うよ」
「ほう」
 ちょっと難しい言葉を選んでしまったけれど、彼女に変な誤魔化しや適当な言葉を並べた慰めはいらないのだ。一人の大切な相手として、言葉を伝えたいと思った。
 今は難しい言葉でも、そのうち理解できたらいい。そして、少しでも心が軽くなれたらいい。
「苺音ちゃんの家庭に関すること、苺音ちゃんに関すること、色々な事を言う人がこれからもいるかもしれない。でも、それはその人達の解釈……考えであり、正しい答えでは無い。苺音ちゃんがどう思うかは、苺音ちゃんが決めればいい」
 貴方はこうだよね、という解釈を向けられる。けれど、私はそうは思わないという解釈を持っている。いくつかの解釈が目の前に現れた時、どの解釈を選ぶかはその人の自由だ。
 ぽかん、とした表情のまま彼女は俺の顔を見る。
「お母さんはそう言ったけれど、お父さんは言わなかった。お父さんの方が嬉しかった。だったら、お父さんを選べばいい」
「選んでいいの?」
「勿論。だけど、俺は少し、厳しいことを言うかもしれないけれど……この世は、努力が全て報われるわけではない」
 努力すれば夢は叶う、というのは、現実的ではない。
 そうしたら、きっと、この世界にケーキ屋さんは今の数百倍も居て、ノーベル化学賞を得られた人も山ほど居て、皆が夢を叶え幸せになっているのかもしれない。
 だけど、現実はそうじゃない。
 きっと、彼女がいくら努力しても、自分の解釈を述べても理解してくれない人はいるだろう。苦しい思いはするだろう。
「かと言って、努力が全て無駄って訳じゃない。努力をしないと得られない物も、存在するんだよ」
 彼女の年齢からすれば、難しい話となっただろう。けど、再度言うが、彼女には俺の気持ちや考え、解釈を素直に伝えないといけないと、そう思わせた。
「だから、色々なものを、選べるようになれるといいね」
 両頬をそれぞれ手で覆って、むにむにと揉む。うむ、とか小さく声を零しながらも、彼女の表情から曇り模様はどんどんと消えていくようだった。
「苺音ちゃん。友情は義務じゃないよ。もっと軽い気持ちで、急がないで良いんだよ」
 お母さんの居ない家、お父さんの居ない家。そう言った家庭事情は、今ではそんなに珍しいことでもないだろう。それでも、一般よりは多いとは言えない。そんな中、異端だと解釈をする人だって存在するだろう。
 けれど、そんなのを全く気にしないような子だって、彼女の前に現れるかもしれない。彼女自身を、好んでくれる人だって現れるはずだ。
 それはどこで出会えるかは分からない。どこかに行けば誰かがいる。そんな世界なのだ。
 彼女が必死になってひとつ順応できたとしても、また新たな項目が現れてしまうだろう。そんな徒労に苛まれる前に、何も聞こえない場所まで、息のできる場所まで行けたらいい。
 切実に、そう願いうのだ。