砂浜に足を踏み入れてみれば、足は少しだけ沈んでしまう。
 靴の中に砂が入ってしまったのだろうか。苺音ちゃんが片足を挙げて、少しだけ顔をしかめた。思わず苦笑いを浮かべつつ、彼女の前にしゃがみ込んで、彼女の手を掴んで、俺の肩を掴んでいるようにと言えば、彼女は頷いてそれに従った。
「サンダルで来ればよかったかもね」
 彼女の靴を丁寧に脱がせて、靴の中の砂を全部出してやる。とんとん、と少しだけ叩いてから、もう一度彼女の足に、丁寧に履かせた。
 また砂が入るのも嫌だよね、どうしようか。
 すぐ傍に石塀があるし、そこに腰かけようかと提案すれば、彼女が頷いた。折角砂を出したのだし、彼女を抱きかかえて、石塀まで移動して、座らせる。俺と杏哉も並んで腰かければ、苺音ちゃんは再び手に持っている本を開き始めた。
 彼女を横目で見てから、目の前に広がる海に目を向ける。
 白く泡立っている波が、何度も何度も打ち寄せている。ここ数日、雨も降っていなかったのか、海は濁っておらず、とても綺麗に透き通って見えていた。
 それでも、俺達の他に人の影は見当たらず、もしかしたら隠れスポットなのかもしれないなと、少しだけ優越感に浸ってしまった。

「何考えてたの?」
「え?」
 隣に座る杏哉くんが問いかけてきて、思わず彼の方へ顔を向けた。
 彼は真っ直ぐと俺を見ていて、彼の真っ直ぐな目から視線を逸らすことは不可能だと悟る。
「何か考えてるでしょ。気にかかって解決していない事。あるんだろ」
「考えてること……」
「アンタ、癖があるんだよ」
 ふわり、と彼の金髪が揺れる。空と海の青と彼の金色。色合いの組み合わせが、夏を思い浮かばせられる。
「……多分何か考え込んで、それがアンタの中でつっかえになってる時。……俺が気付けなくなるから言わないけど、何か胸に引っかかってる時、外に出すか悩んでいる時、静かに耐えて気持ちを消そうとするんでしょ? ……知ってた?」
 教えてもらわなければ分かるわけがない。
「知らなかった」
「……いつでもいいから、言ってよ。俺が気になるから」
「ありがとうございます」
「ああ、でも……アンタは、記憶を無くす前と比べると、今の方が楽しそうだもんな」
 それだけ言うと、彼は立ち上がって俺達に背を向ける。
「どこ行くんです?」
「飲み物買ってくる。海風に当たると乾くでしょ。苺音も大人しく待ってなさいよ」
 背を向けながら手を振って、彼は歩く。苺音ちゃんは小さく返事をするが、この返事は彼に届いていたのだろうか。
 ぶわり、と海から舞い上がる様にして吹いた風が、俺を包み込む。
 潮のにおいが届いた。
 この季節の海は、どうも風が冷たい。俺の隣に居る少女も、そこまで感動しているようでも無い。海風を感じながら、いつものように本を読む。
 海からの塩っけのある風は、髪や服をかぴかぴに乾かしてしまう。どうも、それが苦手だ。
 ばさばさ、と隣の少女のスカート裾が荒ぶるのが、視界の隅で見えた。
「苺音ちゃんの読んでいる本は、どういう話ですか?」
「主人公の世界が終わっちゃうお話です」
 また大層なお話ですね。よく言えばメジャーな、無難な。悪く言えばありきたりな、そんな題材だろう。この年代の子が読むにしては、少し重いような気がしないでもないが。それでも理解しているのだろうから、この子はやはり地頭が良い。
 ズイ、と少女が見せてきた本に目を配る。海と青空をモチーフにした青い本。その中にたたずむ一人の少女。一見すると爽やかなイラストだが、これで世界が終わる物語なのかと思うと、何とも不思議なギャップがある。
「おじさんは、世界が終わっちゃうならどうしますか?」
「難しい事を聞きますね」
 うーん、と小さく声を零す。
 世界が終わってしまうなら、どうするだろうか。美味しいご飯を食べるのだろうか、豪遊するのだろうか、欲しかったものを手に入れるのだろうか、どこかに出かけるのだろうか、必死にお祈りでも捧げるのか。
 人によっては様々な返答が帰ってきそうな問いかけ。だからこそ、題材として多く使われてくるものなのだろう。
「何もしないかもなあ。いつも通り」
「ほう」
「苺音先生はどうしますか?」
「私は、おじさんに会いに行く」
 本当にぐいぐい来るなこの子。
 流石ですね、と少しだけ笑みを浮かべながら口にすれば、少女は青年と同じ目で俺の目を見る。
「おじさんはいつまで居てくれる?」
「ん?」
 さわさわ、と海の風が吹いてくる。
「私、おじさんと、まだ一緒に居たい」

 こぽり、こぽりと水の音が耳に入ってくる。耳に入って、そのまま脳へ直接訴えてくるかのように、身体全体がその音を拾っている。
 こぽり、こぽり。

 この子の感情はどこからくるのだろう。執着はどこから生じるのだろう。才覚光る眼は俺に何を見出したのだろう。
「……苺音ちゃん」
 彼女の名を呼んだ瞬間、ぶわりと今まで以上に強い海風が舞う。一際強い風が俺達を包んだかと思うと、彼女の被っていた帽子が無いことに気付いた。
 顔を上げれば、少し高いところに帽子が飛んでいる。軽いから飛び上がってしまったようだ。
 帽子はそのまま風に乗って、招かれるようにして海面の上に着地した。
「あ……」
「俺が取ってくるよ。苺音ちゃんはここで待ってるんだよ。危ないからね」
 頭に手を添えて、帽子が飛んで行ってしまったことを少し悲しんでいる彼女を見て、自然と名乗り出た。少し癖のある黒髪を撫でて、待ってるようにお願い。
 彼女から少し離れられることに、ホッと安堵している自分が居る事に気付いて、自分に嫌気がさす。砂浜に足をついて、そのまま波打ち際まで足を進める。
 白波がどうどうと押し寄せている。冷たいだろうなあ、と考えながら、靴を履いたまま、波を裂くようにして海にお邪魔する。
 ザムザブ、と音を立てながら足を進めて突き進んでいく。夏がまだ遠いこの季節の海水は、冷たい……はずだ。
 沖に向かって、波と一緒に揺れている帽子を目指して突き進む。波に連れられて、中々距離が縮まらない。海の神様も、帽子が欲しいのだろうか。もしそうなら、申し訳ないが、その帽子は少女のモノだから、返してほしい。
 ようやく追いついた時には、腰が沈んでいた。返しておくれ、と声を零しながら、波と同じ動きで揺れる帽子に手を伸ばす。
「……あれ」
 小さく声を零したと同時だった。

「お前! 何やってんだよ!」
 怒号が鼓膜に突き刺さり、ぐいっと力強く手首を掴まれたかと思えば、波が大きく揺れる。
 ぐい、と後ろから波に押されたかと思えば、再び岸へ向けて俺を押す。自由な奴め。
 手首だけが熱い。振り向けば、髪を乱れさせ、息を荒げている杏哉くんが居て。
 目が少し血走っている。ぜえ、ぜえ、と肩で呼吸をし、服は海水によってびしょぬれだ。髪の毛も、しっとりと重みを感じる。
 彼の頭のてっぺんから腰元まで視線を動かし、「帽子が」と呟けば、彼は大きく舌打ち一つ。
「んなもん、海にプレゼントしとけ」
 振り向いて帽子を確かめてみれば、今さっきの大きな揺れによって沈んでしまったのかもしれない。姿が見えなくなっていた。海の底まで沈んでいって、本当にプレゼントしてしまったのだろうか。
 ぐい、と手首を引かれて、岸へ連れ戻される。彼が率先して海を割いてくれる。ザブザブ、と二人並んで海の中を歩く。
「……ねえ杏哉くん」
「なに」
「さっき、帽子に届きそうだった時、掴もうとしたとき……掴めなかったんだよね」
「――っ、」
 彼が息を飲んで、ピタリと足を止めた。引かれて歩いていた俺も自然と足を止め、後ろから波で押される。
「杏哉くん、さっきの君からの質問、今答えてしまうんですけどね。俺、やっぱりおかしいと思うんだ」
 掴まれてはいない、自由な手を持ち上げて、親指と人差し指の爪先をこすり合わせる。カシカシ、と引っ掻く。ささくれが引っかかる。
「あの喫茶店無くなったそうですよ」
「……へえ」
「卒業したんだって。あの喫茶店の人も、日向君も」
 卒業。そう、ぽつりと杏哉くんが呟いた。それと同時に、握られている手首に力がこもったのが分かる。
「杏哉くんはカフカの『変身』って話を知ってます?」
「知らない」
「学校の授業でも使われていたりするみたいだよ。知らない?」
「覚えてない」
「そっか。とても面白いんですよ。まず、主人公が虫なんです」
「虫ィ?」
 浜に向かって、再びざぶざぶと波を裂きながら、杏哉くんに腕を引かれながら歩く。
 主人公は外交販売員で、いつも通りに朝を迎えたと思ったら虫になっちゃった。主人公がなってしまった虫は、俺の想像だと多分足の多いムカデ系統だと思う。ああ、これはこまったな。父も母も妹も困ったなって、泣いてしまったりもして。
「冒頭から超展開ですよね」
「笑えねー……虫キモイ」
「そうだよね、キモイですよね。しかもサイズも変わってないからね」
 なにしろ人間じゃないから。普通に暮らすことはできない。他人に相談することも、バレるわけにもいかない。主人公の家族は、気持ち悪いって思ったりしながら、色々な事を我慢しながら世話をするんだけど……。
「でもやっぱり気持ち悪いんだよね。人間じゃないから。普通じゃないから」
 ぎり、とまた力が強くなる。
「……別に、虫だからって、……気持ち悪いなんてことないと思うけど」
「え? そう? さっきキモイ言っていませんでしたか?」
「……言ってない」
 むす、と口を尖らせているのが目に見えた。
「一番好きなシーンは、最後の所。主人公である虫が死んで、お父さんとお母さんと妹が、すっきりしてこれからさきの未来に希望を感じてるの。苦悩が消えて、心が楽になる。そのシーンが凄い晴れやかで清々してて、気持ちいいんだ」
 苦難を乗り越えた家族は、新しい一歩を踏み出す。まずはそれは、ハッピーエンドと言われる定番の展開だ。
「……なに? アンタはその虫だってコト?」
「ふと考えたんです。あの人たちみたいに、俺はこの世界から近いうちに卒業する。元々俺は記憶の無い異端だったし、主人公と同じだ。きっと、周りは清々すると思う」
「アンタはそれで良い訳? 違うからって一人ハブられて、忘れられて、めでたしめでたし? どこがだよ。どんな形になったとしても、守ってこその家族じゃねーのかよ」
「……はあ、杏哉くんは良い子ですね。別に無理に守る必要はないと思うんですよ、俺は。虫一人いなくなって幸せになれるなら、その方が効率は良くない?」
「―――っ!」
「そんな苦しそうな顔しないでよ。それに、俺の所為で苦しんでほしくないもの」

  感動と愛情をもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。
 フランツ・カフカ『変身』

「本当、うそつきだなお前は。自分が消えて、皆が幸せになるならそれで良い? 苦しんでほしくない? じゃあなんで、アンタは自分の姿を見失っちゃったの」
 杏哉くんが俺の手を掬いあげて、俺の手の甲をじっと眺めている。
「そんなになるほど苦しいんだろ、本当は。本当は、独りなんてイヤなくせに」
 彼の言葉に一瞬間の抜けた表情になってしまうが、すぐに目元が潤んでくる。

 杏哉くん、名を呼ぼうとした。

 彼は、俺の言葉など聞きたくないとばかりに、俺の肩を押してきた。突然の行為に力負けして、身体が倒れる。水しぶきが上がった。
 海水が大雨のように俺達に降り注ぐ。彼の腕の檻の中に、俺が居る。真っ直ぐと、俺を見下ろしているのが分かった。
「なあ。俺は、アンタは馬鹿だと思うし変でもあるだろうと思うし、偶に怖いし。けど、お前が居なくなる方が嫌だよ……」
 そう言った彼は、言った本人が傷ついたような顔をして、泣きそうだった。その瞳は潤いを帯びていて、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
 彼の髪の毛から、頬から、首筋から、服から、海水が滴り落ちる。頬から落ちた一滴が、俺の顔に落ちた。
「……ごめんね。忘れてくれていいよ」
「無理だよ」
「忘れてってば」
「無理だって言ってるだろ! だったら忘れ方を教えてくれよ!」
 杏哉くんの声に、思わず言葉を失くした。彼の頬からぽたぽたと水滴を零しながら、必死にこっちを見ている。
 拭わないと、風邪をひいてしまうだろうに。この時期の海風は、冷たいだろうに。分かっているはずなのに、彼は止まらなかった。
「俺の中にはまだお前が居るんだよ。奥の方、取り出せないようなところに居るんだよ。何をしても何回も、お前が顔を出すんだ。こんなに深く居るのに忘れろだなんて無理だ……」
「杏哉くん……」
「嫌だよ。お前を見てたら苦しいんだ。頭も痛くなる。俺の中にお前が住み着いてて取り出せない」
 ギリ、と彼が歯を食いしばり、手が俺の首元に回される。そのまま彼の親指で、ぐり、と力を込められる。驚いて目を開く。
「お前の事を無かったことにしたって、明るい未来なんて想像できないんだよ」
 突然の事に言葉が出ない。ただ、何とかしなければならない事だけはハッキリと分かる。
「……お前が、思い出せないのは、俺達が嫌いだったからじゃないの?」
 はく、と言葉を出せないまま口だけを動かす。

「何をしているんだ」
 第三者の声が聞こえた。
 そう思うと同時に、目の前の杏哉くんは小さく息を飲み、目を開き、彼の手が俺の首元から離れ、慌てて後ろへ飛び退いた。
 バシャンッ、と音を立てて、杏哉くんが尻餅をつく。首元に手を添えて、身体を捻りながらもゆっくりと体を起こせば、ぼちゃぼちゃと音を立てながら、体に纏っていた海水が、元の場所に戻る様に海面に零れ落ちた。
 声のした方へ顔を向ければ、弥生さんが、苺音ちゃんを抱えてそこに立っていた。少女は何があったのか理解は出来ていないみたいで首を傾げているが、弥生さんは真っ直ぐと俺達を見ている。
「あ……」
 目の前の彼は小さく声を零し、両手で口元を覆う。
「違う、俺だ……俺だよ。お前を追い込んだのは、トドメを刺したのは、間違いなく俺なんだ」
 それだけを言うと、彼はついにぼろぼろと涙を零した。
 ぼろぼろと大粒の涙を零し、嗚咽を零しながら、必死に必死に涙をぬぐう。零れ出る涙を押し戻すように、手の甲で、手の腹で目元を擦ったり押したりを繰り返す。
 嗚咽を零すたびに、身体が上下に揺れる。髪の毛が揺れる。
 それは、まるで懺悔のようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 地面に手をついて、こうべを垂れながら、ただ謝る。跪くその姿は、まるで罪人のようだった。泣きながら、必死に許しを請い、一人訴える彼を、責められる筈などなかった。
「パパ? おじさん?」
 少女の声が聞こえる。幼い子に、酷な物を見せてしまった。
 苺音ちゃんの顔が見られない。自分の心の内を整理しきれない。
 少女は何を思っただろう。パシャパシャ、と軽い足取りで此方に向かって歩いてきて、服の裾をまた引いた。おじさん、と小さな声が呼ぶ。どこか心配を含んだ声。
 大人として、ひとりの友人として、優しく応えるべきなのだ。
「パパに助けてもらったんだよ。心配してくれてありがとうね」
 俺の言葉を聞いて、ビクッと杏哉くんの肩が、申し訳ないほどに大げさに跳ねる。
 ふぅん? と少女の声が聞こえる。目を逸らす。逸らすしかなかった。
 いつまでも座り込んでいる俺の手首を、弥生さんが掴み上げた。
 杏哉くんの手は、掴まなかった。
「……帰ろう」
 服から海水が零れる。大雨のようにして、海に海水が帰っていく。
 手を引かれてこの場から離れそうになる際、今一度服を摘ままれた。
 その動作に、その場にいる全員の目が開かれた。
「どうかした?」
 弥生さんが問えば、杏哉くんは自身が行った動作に自分で驚いた様子で、慌てながら小さく謝り、手を離す。摘まんでいたのは、彼だったようだ。
 離す手は震えており、俺が苦しくなる。胸が、ぎゅうと締め付けられるような、そんな感覚がする。
「風邪をひいてしまうね。帰ろうか」
 二人に対してそう言葉をかければ、苺音ちゃんが代表するかのように首を縦に振った。