「おーい! 兄ちゃん!!」
 玄関先から、元気な声が響いた。幼い子供の声だったと思う。
 突然の大きな呼び声に驚いて思いっ切り肩を跳ねらせ、思わず玄関のある方へ顔を向ける。苺音ちゃんに謝ってから立ち上がって、キッチンから顔を覗かすと同時に、壁に寄り掛かっていた杏哉くんとばったりと鉢合わせた。
「うわっ! 杏哉くんいたんですか!?」
「……ごめん、居ました」
「いや、まあ、それは良いんだけど……」
 彼の手元を見れば、取っ手のついた白い箱。お店のロゴ入りのシールが張られているのを見て、この間のケーキ屋のものだと察した。
 彼はケーキを取りに行ってくれて、家にやってきた。それは分かったので良いのだが、玄関先から、その店員さんである日向くんの声がしたのだが。
「ケーキここに置いていい?」
「あ、ああ、良いですよ」
 リビングのテーブルに置いても良いかと問われたので許可を出しつつ、玄関へ小走りで向かえば、扉の所で日向くんが立っていた。眩しい太陽のような笑みを浮かべて、手を振られる。
「よっ、兄ちゃん」
「日向くんどうしたんだい。ここまで来て」
「んー……今日でさよならだから、挨拶に来たんだ」
 少しだけ寂しそうに眉を下げて、彼は言う。
「今日、なんだ」
「そう。バス停もすぐそこだから、兄ちゃんと一緒に来たんだ」
 えへへ、と少し気恥ずかしそうにいうもので、彼が本当に最後に会いたかったのは誰なのか、すぐに分かった。
「呼んでこようか」
「え!? いや、えっと!!」
 こっちまでつられて照れてしまいそうなほどに真っ赤になっている。
 可愛らしい。甘酸っぱい。
 小さく笑みを浮かべて、少し待ってるようにお願いをして、苺音ちゃんの名を呼ぶ。すれば、杏哉くんと一緒に、玄関へ向かって歩いて来た。
 涙が伝っていた苺音ちゃんの顔に、涙の痕はなかった。どうやら顔を洗ったらしい。
「日向くん、今日でバイバイなんだって。一緒にお見送りしません?」
「ええ!? 良いよ!」
 さらに顔を真っ赤にさせて、今にでも顔から湯気が出てきそうだ。苺音ちゃんは俺と日向くんを交互に視線を向ける。目を向けられた日向くんは、あうあうと小さく、言葉にならない声を零している。
 可愛らしい、と、面白い、の両方の感情が入り混じってしまう。面白い、と思ってしまっている辺り、自分は悪い大人だろう。
「……行きます」
「へ!?」
「うん、それじゃあ行きましょうか」
 彼女の手を掬いながら、彼女が靴を履く際に傍にいて。その間も、日向くんは、そわそわと視線を泳がせて、服を握りしめたり引っ張ったりしつつも、苺音ちゃんの方に目を向けていた。
 そんな彼の動作が、まさしく恋する男の子で、見ててとても微笑ましい。
 子供組が先に靴を履いて準備万端になったので、大人組である俺と杏哉くんも靴を履く。全員で玄関から出て鍵を閉めて。
 日向くん曰く、お兄さんはバス停で待っているらしい。

 *

「日向遅いぞ。もうすぐバスが来る」
「ごめんな~!」
 日向くんの言う兄ちゃん、という人は自身の腕時計を確認しながら、少し眉間に皺を寄せて此方を見た。
 日向君だけが来ると思っていたのに、彼を筆頭にぞろぞろと数人で歩く姿を見て驚いたのか、ぎょっと目を開いたが、すぐにどこか納得はしたらしい。ああ、と小さく声を零して、薄く笑みを浮かべる。
「ああ、貴方が知唐さんですね」
「え? ああ、そうです」
「話は聞いてますよ。大変そうですね」
「は、はあ……」
 お兄さんが笑みを浮かべながらも意味深な事を言ってきた。つられて笑みを浮かべる。
「皆さんでうちに来てくれたんでしょう? ありがとうございました」
「いえ。ケーキとっても美味しかったです。この後も食べるので、楽しみです」
「それは良かった。日向が、ケーキ屋やりたいって言ってたから。最終日まで、という約束だったんですよ」
「そうだったんですね」
 お兄さんは日向くんを優しい目で見つめてから、そっと彼の背中を手で押した。
「ほらほら、もうここには戻って来ないんだから。悔いの無いようにしなくちゃ!」
「はあ!? 何を!?」
「言っちゃえよ、ほら」
 ぐいぐい、と背中を押すけれど、日向くんは顔を真っ赤にして、お兄さんに負けない様に押し合っている。
 けれど、お兄さんに根負けしたらしい。彼は少しだけ口を尖らせてから、苺音ちゃんと真剣に向かい合う。
 胸元に手を添えて、数回、すうはあと深呼吸をして、最後に大きく息を吸ってから決心したようだ。彼は少しだけ前屈みになるような勢いで、気持ちを言葉にした。
「好きです!!!」
 その大きな声に、苺音ちゃんはパチクリと真ん丸な目を更に丸くして、驚きの表情を浮かべた。
 真っ赤にしている少年の方を暫し眺めてから、自分が好意を向けられたことに、段々と気付いて来たらしい。少しだけ頬を赤く染めて、俺と杏哉くん、そして日向くんの方へと、3方向へ視線を忙しそうに泳がせた。
「……苺音、真っ直ぐな気持ちには、素直に答えるんだぞ」
 顔を手で押さえながら杏哉くんは言った。お父さんショック受けてるじゃん。
 お父さんである彼のアドバイスを聞いて、彼の方へ一瞬目を向けてから、日向くんの方へ真っ直ぐと視線を向けて、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「だよな!」
 知ってた! と日向くんは服の胸元の部位を握りしめた。悔しそうに唇も噛みしめている。勇気ある行動だったと思う。君は素晴らしい。
 彼の様子に、苺音ちゃんも少し慌て始めた。少しだけ忙しなく手を動かしてから、唇を小さく噛んでから、ゆっくりとその小さな口を開いて、ぽつりぽつりと言葉にする。
「えっと、でも、嬉しかったです……」
「……本当?」
「あの、その、ほんとう、です」
 少しだけ恥ずかしそうに、顔を赤くしながら顔を下げていく。
 先程までの彼女が話していた内容を思い出した。学校を嫌っていて、人と関わろうとしていなかった彼女は、もしかしたら、同年代からこうして好意を向けられたことが初めてだったのかもしれない。それは友愛的な意味でも、恋心と言う意味でも。
 こんな純粋な好意を、真っ直ぐと向けられたことは、きっと、彼女にとって自信となると思う。フラれてしまった日向くんには大変申し訳ないが、俺も礼を言いたい気分になった。
「日向、次があるさ。良い経験になったな」
「うるさい、兄ちゃんのばか……」
 少しだけいじけている日向くんをお兄さんが宥めていると、バスが走ってきた。
 そちらに目を向ければ、小型のバスだった。乗客は見るかぎり一人もいないようで、まさしく田舎のバス。
 バス停でスピードを落とすと、空気が抜けるような音がして車体が少し沈んだように止まった。そのまま扉が開かれて、お兄さんが先にバスに乗り込む。
「ほら、日向。約束だろ」
「……分かってるよ」
 日向くんは最後にこっちを見ると、少し浮かべている涙を腕で乱暴に拭ってから、ニッと歯を見せて笑みを見せてくれた。
「少しだけだったけど、楽しかった! ありがとう!」
「……こっちこそ、美味しいケーキありがとう」
 また会えたらいいね。という言葉は口にする事が出来なかった。何故だかは分からない。
 きっと、彼とはもう会えないだろう、というのがハッキリと脳が訴えてきていたからだ。
 バイバイ、と大きく腕を振って、少年はバスに乗り込んだ。乗り込んだのを待っていたかのように扉は閉まり、少ししてからバスは発車する。
 一番後ろの席に座り込んだらしい。少年は最後まで此方に手を振っていて、俺達3人も揃って、手を振り続けていた。

 暫く手を振り続ければ、バスの姿もすっかり見えなくなった。
「……ケーキでも食べましょうか。今日は、苺音ちゃんの誕生日ですし。苺音ちゃんのケーキは大きく切り分けましょうかね」
「っ! はい!」
 俺の提案を聞いて、苺音ちゃんは元気良く返事をして、俺達より早く踵を返して、家に向かって足を進めた。
 彼女の柔らかく長い黒髪が揺れるのを見て、小さく笑みを零してから、彼女に置いて行かれないように足を進める。
「……さっき、苺音に色々と話をしてくれただろ?」
「……聞いてたんですか?」
「ごめん。立ち聞きしてた」
「べつに怒りませんよ」
 勝手に家に上がって良い、とは言っていたし、家主と大切な娘が真剣に話をしている場面を見つけたら、気になって耳を立てても不思議ではない。
「ありがとう」
「え?」
「俺、ちゃんとあの子に伝えられなかった。頭の良いあの子に、何を言えばいいんだろうって」
「……あの子は、どんな言葉でも受け止める子なんだと思います」
 杏哉くんが俺の方に目を向ける。小さく口元を緩ませた。
「良いことも、悪いことも、受け入れる。きっと長所ではありますが、辛いと思う事も増えると思う」
「……うん」
「だから、君の真っ直ぐな気持ちを。自身は苺音ちゃんの味方なのだという事を、素直に伝えてあげてください」
「……そうだなあ」
 俺の言葉を聞いて、彼は小さく吹きだした。
「誰かに似て、優しい子だからな」

 *

「はい、アンタの分」
「うん、ありがとうございます」
 真っ白なお皿に載った、真っ赤な宝石で彩られたタルト。あの少年の大好きが込められているような気分がして、より一層美しく感じた。
「苺音ちゃん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」
 お祝いの言葉を述べれば、頬をほんのりと色づけて、口元をゆるゆるにしていた。
「……苺音おめでとう。俺は、お前の父親で嬉しいよ」
「……えへへ」
 父親からの真っ直ぐな言葉がこそばゆいのか、彼女は両頬を手で添えて、赤くなった頬を隠す。けれど、隠しきれずにいて、それが何だか可愛らしくて仕方ないのだ。
 なお、杏哉くんも、普段からは言い慣れていないのか、顔を赤くしている。その表情や態度がそっくりで、ああ、親子なんだなと思わせた。
「そういえば、杏哉くんの誕生日はいつなんですか?」
「パパは、今月の最初だよ」
「そうなんですか!?」
 思わず彼の方へ顔を向ける。それがどうかしたか、と言わんばかりの表情だ。
「言ってくださいよ、も~……」
「だって、アンタと会う数日前だったから」
「それは確かに? 言うタイミング無いかもしれませんけど?」
 出会った人の誕生日が、出逢う前にもう終わってしまってるほど虚しいことはない。
「よし、じゃあ杏哉くんの遅ればせながらのお祝いも込めましょう!」
「は!? 別にいいのに」
「良いんです。俺が祝いたかったので」
「……あんがと」
 大切な存在となった二人の誕生日を一緒に祝えて、逆に自分が幸せなのだ。逆に俺の方こそ礼を言わせてほしいくらいだ。
「……アンタの誕生日は? 覚えてる?」
「あー……分からないです」
「折角だし一緒に祝っとく?」
「それじゃあ、3人分の誕生日おめでとう、ってことで」
 ジュースの入ったコップを軽く、カツンカツンと鳴らし合って。
 ケーキが待ちきれなかったのか、それとも照れ隠しか。苺音ちゃんは目を輝かせて、フォークをタルトに突き刺した。迷いのない動きに小さく笑みを浮かべ、俺もつられて右手にフォークを手に取った。
 一番尖った部分を、フォークで刺してすくい取った。数分の一のサイズになった苺から一刺しされたタルト生地が、ホロホロと少しだけ崩れて、お皿の上にこぼれた。
 一口サイズの、少年の宝物を口に含んだ。甘酸っぱい苺の味を邪魔しない程度のシロップ。程用柔らかく、けれどさっくりとした食感のタルト。どこかさわやかな風味も広がって、脳裏には眩しい少年の姿が映し出された。
 砂糖がいっぱいではない、苺の甘みを生かしたケーキは、優しくて、何度も口に運びたくなる味がした。
「君は優しい人だね」
 俺はいつの間にか椅子に腰かけていて、机を挟んで向かい側に一人の男性が座っている。
 その男性には見覚えがあった。本人曰く、この世界の管理人さん。テーブルに頬杖をついて、俺をにこにこと眺めている。
 彼の言葉を聞いた俺は一瞬間の抜けた顔をしたが、直ぐに眉間に皺を寄せ、唇を小さく噛んで、目線を逸らす。
「そんな事じゃないです」
 少し乾いたような声色だったと、自分でも思う。
「褒め言葉を素直に受け取ってもらえないの、結構悲しいんだけれど」
「それはすみません」
 けれど、俺からすれば、どうも素直に受け取れるほどの褒め言葉には思えなかったので。
「俺は、優しい人間ではないですよ」
「そうかな。昔からの君を見ても、今の君を見ても、多くの人が君を優しい人だと口を揃えて言うと思うよ」
 彼は自身の手元にあった紙の束に目を通し、薄く目を細めて、薄ら笑いを浮かべた。
「とりわけまじめで、頑張る働き者で、滅多に怒らないで、些細な事でも相手を褒めてしまう。人たらしってやつかな? 簡単な事ではないんだよ」
「……そうせざるを得ないからですよ」
「ほう?」
「その様な動作をするのは、自惚れと爽快感からだ」
 ぽつり、と口から零れて呟いた言葉は、自分でも驚くほどに冷めていた。
「礼を言われれば心が軽くなり、疲れがとれたりもする。人に親切になれば、自分の事も好きになる。自分は優しい人間。自分は余裕のある人間。と、手軽に自分自身に酔えるからだ」
 目の前の彼には嘘は言えない。許されない。正直にならないといけない。
 彼と対峙するときに正直に話そうと考えてはいたが、言葉を選ぼうと、考えようとする前に、口が勝手に動く。脳の考える機能が無くなってしまって、口だけが自立してしまっているんじゃないかって。そう思わざるを得ないくらいに、勝手に動いていく。
「他人の為に自分が犠牲になって貢献しようとする行為そのものが、『自分は意味あって生きている』『自分は価値があって生かされている』『生きるのを許されている』という自己肯定感を生み出すんです」
「うん」
「俺が俺の為を思って、生きるのを誰に許されたいのかも分からないまま、それでも許されたいと思いつつ、自分を認めたくてやる。それだけだ」
 俺は、貴方が言うような、そんな立派で優しい大人なんかじゃない。
 溢れ出てきそうなものを必死にこらえるように唇を噛みしめて、今すぐにでもどこかに逃げ出したい気分でいっぱいだった。誰かが俺を握りしめてしまえば、砂の塊のように、ぐしゃりと、さらさらと崩れ落ちてしまうんじゃないかと思わせる。それほどに、俺は脆くてろくな人間じゃないのだ。
「この世界に認めてもらう為に、生きるのを許されるために、良い人で居ようとした。それだけだ」
「ふうん、そっかそっか。成程ね。人って難しいことを色々と考えてしまうよねえ」
 やれやれ、と言いたげに目の前の彼はテーブルに両肘を乗せ、手を組みながら、その手の上に顎を乗せて、小さく笑みを見せる。
「僕からすれば、生きているだけで勝ちだと思うんだけどね」
「……そう、ですかね」
 脳裏に浮かんだのは、杏哉くんと苺音ちゃんだった。二人揃って此方に顔を向けて、小さく笑みを見せてくれる。

「ケーキ屋の子、どうだった?」
「良い子でしたよ?」
「だよね。まあ、彼もこの世界から卒業したし、寂しくなるな」
 彼はテーブルを推すようにして腕を伸ばし、何かを思い出したように「ああ」と声を零す。
「君があの子たちとよく言っていた喫茶店。あそこも卒業したんだ」
「え?」
「残念だね」
 彼は思い出すためにか紙の束に目を通してから、あまり感情を見せない声色でそう告げた。
 そうか、あの喫茶店も、無くなってしまったのか。
 目に見えて分かる気の落ち具合だったのかもしれない。彼は小さく笑みを浮かべた。
「やっぱり君は優しいんだね」
「だから……!」
「うん、君のことは分かった。これも仕事だからね。色々と聞いて悪かったね」
 彼は納得するように何度か首を縦に振って頷いて、にこりと笑みを浮かべた。
「それじゃあまた来週。来週が最後だからね。寂しくなるなあ」
 それだけを言って、彼は立ち上がってそのまま外へ通じる扉の方へ向かって行った。
 見送りは良いよ、と小さく手を振られたので、俺は立ち上がることもせず、彼の背中を見送るだけにとどまった。
 寂しくなる。嘘をついているんだな、というのは、何となく察した。
 恥の多い生涯を送ってきました。
 とある有名作品の一説が脳裏に浮かぶ。恥の多い生涯ってなんだろう。罪を犯すことだろうか。誰かに償えない程の傷を負わせることだろうか。

 ガタン、ゴトン、という音と共に身体が少し左右に揺れた。
「うーん、やっぱり、窓くらいは閉めて来ればよかったかな」
 ぽつり、と呟いた俺の言葉に、俺の隣に座っていた杏哉くんは、一瞬だけ俺の方に顔を向けて、すぐに反対の方に目を向けた。
 杏哉くんとは反対の俺の隣には、苺音ちゃんが腰かけて本を読んでいる。
 俺達は今、いつもいる街から出て、電車に揺られている。
 簡単に言えば、弥生さんの言いつけを破ったのである。


 事の発端は至ってシンプルだ。
 俺はまず管理人さんの言葉を確かめるように、お世話になっていた喫茶店に一人で向かった。
 だが、そこには最早建屋など存在せず、最初から何も無かったと言われても信じてしまうくらい、寂しい景色となっていた。
 どんどんと、居なくなっていく。管理人さん曰く卒業、していくのだなと、小さく「寂しいな」と声が零れた。
 けれど、ここから居なくなるとは、つまり夢の様なこの世界から脱する事だろう。それはつまり、眠りから覚める事……なのだろうか。
 いや、そうだとずっと信じて過ごしていたけれど。あの人の言う卒業という言葉がどうも引っかかってしまう。夢から覚めるなら、普通に目を覚ますとか言えばいいのに。あの人の言葉の選び方はどうも謎に溢れている。

 喫茶店跡地から戻り、その後は一人、ぼうっと庭で立ち尽くしていた。
 庭に咲いている花に、適当に如雨露で水をあげて。俺は花なんて詳しくないから、水さえあげてればいいだろうと言う安直な考えの元に行っていた。
 少しずつ雨の様に降り注ぐ露。太陽の光を反射して、きらきらとしている。
 管理人さんとの対話を、思い出していた。
 ふ、と誘われるようにして、空気を入れ替えるために少しだけ開いていた窓ガラスを覗きこみ、そこに映し出された自身の顔を見る。
 くたびれて疲れた顔が映っていた。
 これのどこが、優しい人間に見えるのだろう。
 ふ、と自嘲して俺が笑うと、うつった顔は、ほ、と笑う。ガラス面にうつる男は、意思を持たぬ虚無の表情に、稚拙に、ほ、と笑うように顔を歪めている。
 とろりと意志のない顔をして笑っている。違和感を覚え、顔に手をやれば、俺の口元もとろりと笑っている。
 恐ろしくなり、ふらりと後退る。
 ぱしゃり、と水たまりに足をついた音がした。
「ねえ、どうかしたの」
 後ろから声が聞こえて、ゆっくりと振り返った。その時に舞い起こった風で、ふわり、と俺達の髪の毛が揺れる。
 髪の毛越しに見えたのは、もう馴染みのある杏哉くんと苺音ちゃんの姿だった。
 彼等の姿が見えたので、どこか少し遠くへ行っていた自身を呼び戻して、小さく口角を上げて笑みを見せる。
「杏哉くんと苺音ちゃん。いらっしゃい。どうかしたんですか?」
 そんな俺の表情を見て、彼は眉間に濃い皺を寄せた。
 あ、あれ? 何か怒らせるようなことをしたかな!?
 慌てながら彼の名を呼べば、ずんずんと彼は俺の方へ歩み寄ってくる。顔が整っている人が感情を露わにすると、少し恐ろしく感じる。
 慌てながら、どうしたんだと何度も問いかけ、最後に彼の名を呼んだと同時に、彼に手首を握られた。
「気晴らしに、海行かない」
「……海?」
 彼の提案に思わず首を傾げると、そのまま、ぐいっと腕を引っ張られた。手に持っていた如雨露を落とし、中に残っていた残り少ない水が少し零れて、地面に水たまりを作る。
「い、今から行くんです?」
「そうだよ」
「どこの」
「電車に乗って、少し先の所」
「で、電車は乗っちゃいけないんだ」
 弥生さんの言葉を思い出す。乗り物に乗ると、行き先があやふやになって危険になるのだと、言っていた。
 そんな俺の言葉に、彼は少しだけ視線を横に動かしてから、すぐに何事も無かったかのように脚を踏み出した。
「え、ちょ……!」
「大丈夫だよ。俺達も居るし。俺達がよく乗る電車だから、行先とかも全部、分かってるから」
「そう、なんだ」
 それなら、行き先が迷子になることも無いかもしれない。
 先程までは抵抗をして、自身の方へ引っ張る様に力を込めていたが、抵抗する気持ちは失せてきて、彼の引っ張る力に任せるようになった。
 それを察した彼は、苺音ちゃんに声を掛けて、一緒に駅の方へ歩き始めた。


 ということで今に至る。
 電車内の窓は少しだけ開かれていて、外からの風が勢い良く入り込んでくる。やっぱり、家の窓を閉めて来ればよかった。もしかしたら、部屋の中に砂埃とか葉っぱとか、入り込んでしまっているかもしれない。とそんな事ばかりが頭をよぎっていた。
 海に行こう、と言われたものの、詳しい場所はまだ分からない。どのくらい時間がかかるのか、それも分からないまま、彼等に着いていく。
 電車内には人はいなかった。田舎の電車など、その程度だろう。それとも、俺の想像力が足りていないから、乗客を生み出せないのだろうか。

 電車は、30分もしないで目的地に到着したようだ。
 降りるよ、と杏哉くんに促されて、彼の後を追う様にしてついていく。
 駅は無人だった。改札口にICカードはおろか、自動改札機すらない。本来であれば駅員さんがチェックするのかもしれないが、居ないのであればチェックを行う事も出来ない。
 取りあえず、杏哉くんに習って、改札口に置いてある籠の中に切符を入れておいた。
 駅から出れば、すぐに潮のにおいがする。
 ぶわり、と海から舞い上がる様にして吹いた風が、俺達を包み込む。う、と小さく声を零して、顔をしかめて、少しだけ顔を伏せる。
 この駅は、海が目の前にあった。
「行くよ」
 杏哉くんに促されて、海風が吹いてくる元へ足を進める。
 夏はまだ遠い季節の海は、真っ青とは言えない色合いをしていた。
 夏のコントラストの強い海と空の組み合わせとは違って、今の季節の海と空は、どこか淡い色合いのフィルターがかかっているように見えた。
 砂浜に足を踏み入れてみれば、足は少しだけ沈んでしまう。
 靴の中に砂が入ってしまったのだろうか。苺音ちゃんが片足を挙げて、少しだけ顔をしかめた。思わず苦笑いを浮かべつつ、彼女の前にしゃがみ込んで、彼女の手を掴んで、俺の肩を掴んでいるようにと言えば、彼女は頷いてそれに従った。
「サンダルで来ればよかったかもね」
 彼女の靴を丁寧に脱がせて、靴の中の砂を全部出してやる。とんとん、と少しだけ叩いてから、もう一度彼女の足に、丁寧に履かせた。
 また砂が入るのも嫌だよね、どうしようか。
 すぐ傍に石塀があるし、そこに腰かけようかと提案すれば、彼女が頷いた。折角砂を出したのだし、彼女を抱きかかえて、石塀まで移動して、座らせる。俺と杏哉も並んで腰かければ、苺音ちゃんは再び手に持っている本を開き始めた。
 彼女を横目で見てから、目の前に広がる海に目を向ける。
 白く泡立っている波が、何度も何度も打ち寄せている。ここ数日、雨も降っていなかったのか、海は濁っておらず、とても綺麗に透き通って見えていた。
 それでも、俺達の他に人の影は見当たらず、もしかしたら隠れスポットなのかもしれないなと、少しだけ優越感に浸ってしまった。

「何考えてたの?」
「え?」
 隣に座る杏哉くんが問いかけてきて、思わず彼の方へ顔を向けた。
 彼は真っ直ぐと俺を見ていて、彼の真っ直ぐな目から視線を逸らすことは不可能だと悟る。
「何か考えてるでしょ。気にかかって解決していない事。あるんだろ」
「考えてること……」
「アンタ、癖があるんだよ」
 ふわり、と彼の金髪が揺れる。空と海の青と彼の金色。色合いの組み合わせが、夏を思い浮かばせられる。
「……多分何か考え込んで、それがアンタの中でつっかえになってる時。……俺が気付けなくなるから言わないけど、何か胸に引っかかってる時、外に出すか悩んでいる時、静かに耐えて気持ちを消そうとするんでしょ? ……知ってた?」
 教えてもらわなければ分かるわけがない。
「知らなかった」
「……いつでもいいから、言ってよ。俺が気になるから」
「ありがとうございます」
「ああ、でも……アンタは、記憶を無くす前と比べると、今の方が楽しそうだもんな」
 それだけ言うと、彼は立ち上がって俺達に背を向ける。
「どこ行くんです?」
「飲み物買ってくる。海風に当たると乾くでしょ。苺音も大人しく待ってなさいよ」
 背を向けながら手を振って、彼は歩く。苺音ちゃんは小さく返事をするが、この返事は彼に届いていたのだろうか。
 ぶわり、と海から舞い上がる様にして吹いた風が、俺を包み込む。
 潮のにおいが届いた。
 この季節の海は、どうも風が冷たい。俺の隣に居る少女も、そこまで感動しているようでも無い。海風を感じながら、いつものように本を読む。
 海からの塩っけのある風は、髪や服をかぴかぴに乾かしてしまう。どうも、それが苦手だ。
 ばさばさ、と隣の少女のスカート裾が荒ぶるのが、視界の隅で見えた。
「苺音ちゃんの読んでいる本は、どういう話ですか?」
「主人公の世界が終わっちゃうお話です」
 また大層なお話ですね。よく言えばメジャーな、無難な。悪く言えばありきたりな、そんな題材だろう。この年代の子が読むにしては、少し重いような気がしないでもないが。それでも理解しているのだろうから、この子はやはり地頭が良い。
 ズイ、と少女が見せてきた本に目を配る。海と青空をモチーフにした青い本。その中にたたずむ一人の少女。一見すると爽やかなイラストだが、これで世界が終わる物語なのかと思うと、何とも不思議なギャップがある。
「おじさんは、世界が終わっちゃうならどうしますか?」
「難しい事を聞きますね」
 うーん、と小さく声を零す。
 世界が終わってしまうなら、どうするだろうか。美味しいご飯を食べるのだろうか、豪遊するのだろうか、欲しかったものを手に入れるのだろうか、どこかに出かけるのだろうか、必死にお祈りでも捧げるのか。
 人によっては様々な返答が帰ってきそうな問いかけ。だからこそ、題材として多く使われてくるものなのだろう。
「何もしないかもなあ。いつも通り」
「ほう」
「苺音先生はどうしますか?」
「私は、おじさんに会いに行く」
 本当にぐいぐい来るなこの子。
 流石ですね、と少しだけ笑みを浮かべながら口にすれば、少女は青年と同じ目で俺の目を見る。
「おじさんはいつまで居てくれる?」
「ん?」
 さわさわ、と海の風が吹いてくる。
「私、おじさんと、まだ一緒に居たい」

 こぽり、こぽりと水の音が耳に入ってくる。耳に入って、そのまま脳へ直接訴えてくるかのように、身体全体がその音を拾っている。
 こぽり、こぽり。

 この子の感情はどこからくるのだろう。執着はどこから生じるのだろう。才覚光る眼は俺に何を見出したのだろう。
「……苺音ちゃん」
 彼女の名を呼んだ瞬間、ぶわりと今まで以上に強い海風が舞う。一際強い風が俺達を包んだかと思うと、彼女の被っていた帽子が無いことに気付いた。
 顔を上げれば、少し高いところに帽子が飛んでいる。軽いから飛び上がってしまったようだ。
 帽子はそのまま風に乗って、招かれるようにして海面の上に着地した。
「あ……」
「俺が取ってくるよ。苺音ちゃんはここで待ってるんだよ。危ないからね」
 頭に手を添えて、帽子が飛んで行ってしまったことを少し悲しんでいる彼女を見て、自然と名乗り出た。少し癖のある黒髪を撫でて、待ってるようにお願い。
 彼女から少し離れられることに、ホッと安堵している自分が居る事に気付いて、自分に嫌気がさす。砂浜に足をついて、そのまま波打ち際まで足を進める。
 白波がどうどうと押し寄せている。冷たいだろうなあ、と考えながら、靴を履いたまま、波を裂くようにして海にお邪魔する。
 ザムザブ、と音を立てながら足を進めて突き進んでいく。夏がまだ遠いこの季節の海水は、冷たい……はずだ。
 沖に向かって、波と一緒に揺れている帽子を目指して突き進む。波に連れられて、中々距離が縮まらない。海の神様も、帽子が欲しいのだろうか。もしそうなら、申し訳ないが、その帽子は少女のモノだから、返してほしい。
 ようやく追いついた時には、腰が沈んでいた。返しておくれ、と声を零しながら、波と同じ動きで揺れる帽子に手を伸ばす。
「……あれ」
 小さく声を零したと同時だった。

「お前! 何やってんだよ!」
 怒号が鼓膜に突き刺さり、ぐいっと力強く手首を掴まれたかと思えば、波が大きく揺れる。
 ぐい、と後ろから波に押されたかと思えば、再び岸へ向けて俺を押す。自由な奴め。
 手首だけが熱い。振り向けば、髪を乱れさせ、息を荒げている杏哉くんが居て。
 目が少し血走っている。ぜえ、ぜえ、と肩で呼吸をし、服は海水によってびしょぬれだ。髪の毛も、しっとりと重みを感じる。
 彼の頭のてっぺんから腰元まで視線を動かし、「帽子が」と呟けば、彼は大きく舌打ち一つ。
「んなもん、海にプレゼントしとけ」
 振り向いて帽子を確かめてみれば、今さっきの大きな揺れによって沈んでしまったのかもしれない。姿が見えなくなっていた。海の底まで沈んでいって、本当にプレゼントしてしまったのだろうか。
 ぐい、と手首を引かれて、岸へ連れ戻される。彼が率先して海を割いてくれる。ザブザブ、と二人並んで海の中を歩く。
「……ねえ杏哉くん」
「なに」
「さっき、帽子に届きそうだった時、掴もうとしたとき……掴めなかったんだよね」
「――っ、」
 彼が息を飲んで、ピタリと足を止めた。引かれて歩いていた俺も自然と足を止め、後ろから波で押される。
「杏哉くん、さっきの君からの質問、今答えてしまうんですけどね。俺、やっぱりおかしいと思うんだ」
 掴まれてはいない、自由な手を持ち上げて、親指と人差し指の爪先をこすり合わせる。カシカシ、と引っ掻く。ささくれが引っかかる。
「あの喫茶店無くなったそうですよ」
「……へえ」
「卒業したんだって。あの喫茶店の人も、日向君も」
 卒業。そう、ぽつりと杏哉くんが呟いた。それと同時に、握られている手首に力がこもったのが分かる。
「杏哉くんはカフカの『変身』って話を知ってます?」
「知らない」
「学校の授業でも使われていたりするみたいだよ。知らない?」
「覚えてない」
「そっか。とても面白いんですよ。まず、主人公が虫なんです」
「虫ィ?」
 浜に向かって、再びざぶざぶと波を裂きながら、杏哉くんに腕を引かれながら歩く。
 主人公は外交販売員で、いつも通りに朝を迎えたと思ったら虫になっちゃった。主人公がなってしまった虫は、俺の想像だと多分足の多いムカデ系統だと思う。ああ、これはこまったな。父も母も妹も困ったなって、泣いてしまったりもして。
「冒頭から超展開ですよね」
「笑えねー……虫キモイ」
「そうだよね、キモイですよね。しかもサイズも変わってないからね」
 なにしろ人間じゃないから。普通に暮らすことはできない。他人に相談することも、バレるわけにもいかない。主人公の家族は、気持ち悪いって思ったりしながら、色々な事を我慢しながら世話をするんだけど……。
「でもやっぱり気持ち悪いんだよね。人間じゃないから。普通じゃないから」
 ぎり、とまた力が強くなる。
「……別に、虫だからって、……気持ち悪いなんてことないと思うけど」
「え? そう? さっきキモイ言っていませんでしたか?」
「……言ってない」
 むす、と口を尖らせているのが目に見えた。
「一番好きなシーンは、最後の所。主人公である虫が死んで、お父さんとお母さんと妹が、すっきりしてこれからさきの未来に希望を感じてるの。苦悩が消えて、心が楽になる。そのシーンが凄い晴れやかで清々してて、気持ちいいんだ」
 苦難を乗り越えた家族は、新しい一歩を踏み出す。まずはそれは、ハッピーエンドと言われる定番の展開だ。
「……なに? アンタはその虫だってコト?」
「ふと考えたんです。あの人たちみたいに、俺はこの世界から近いうちに卒業する。元々俺は記憶の無い異端だったし、主人公と同じだ。きっと、周りは清々すると思う」
「アンタはそれで良い訳? 違うからって一人ハブられて、忘れられて、めでたしめでたし? どこがだよ。どんな形になったとしても、守ってこその家族じゃねーのかよ」
「……はあ、杏哉くんは良い子ですね。別に無理に守る必要はないと思うんですよ、俺は。虫一人いなくなって幸せになれるなら、その方が効率は良くない?」
「―――っ!」
「そんな苦しそうな顔しないでよ。それに、俺の所為で苦しんでほしくないもの」

  感動と愛情をもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。
 フランツ・カフカ『変身』

「本当、うそつきだなお前は。自分が消えて、皆が幸せになるならそれで良い? 苦しんでほしくない? じゃあなんで、アンタは自分の姿を見失っちゃったの」
 杏哉くんが俺の手を掬いあげて、俺の手の甲をじっと眺めている。
「そんなになるほど苦しいんだろ、本当は。本当は、独りなんてイヤなくせに」
 彼の言葉に一瞬間の抜けた表情になってしまうが、すぐに目元が潤んでくる。

 杏哉くん、名を呼ぼうとした。

 彼は、俺の言葉など聞きたくないとばかりに、俺の肩を押してきた。突然の行為に力負けして、身体が倒れる。水しぶきが上がった。
 海水が大雨のように俺達に降り注ぐ。彼の腕の檻の中に、俺が居る。真っ直ぐと、俺を見下ろしているのが分かった。
「なあ。俺は、アンタは馬鹿だと思うし変でもあるだろうと思うし、偶に怖いし。けど、お前が居なくなる方が嫌だよ……」
 そう言った彼は、言った本人が傷ついたような顔をして、泣きそうだった。その瞳は潤いを帯びていて、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
 彼の髪の毛から、頬から、首筋から、服から、海水が滴り落ちる。頬から落ちた一滴が、俺の顔に落ちた。
「……ごめんね。忘れてくれていいよ」
「無理だよ」
「忘れてってば」
「無理だって言ってるだろ! だったら忘れ方を教えてくれよ!」
 杏哉くんの声に、思わず言葉を失くした。彼の頬からぽたぽたと水滴を零しながら、必死にこっちを見ている。
 拭わないと、風邪をひいてしまうだろうに。この時期の海風は、冷たいだろうに。分かっているはずなのに、彼は止まらなかった。
「俺の中にはまだお前が居るんだよ。奥の方、取り出せないようなところに居るんだよ。何をしても何回も、お前が顔を出すんだ。こんなに深く居るのに忘れろだなんて無理だ……」
「杏哉くん……」
「嫌だよ。お前を見てたら苦しいんだ。頭も痛くなる。俺の中にお前が住み着いてて取り出せない」
 ギリ、と彼が歯を食いしばり、手が俺の首元に回される。そのまま彼の親指で、ぐり、と力を込められる。驚いて目を開く。
「お前の事を無かったことにしたって、明るい未来なんて想像できないんだよ」
 突然の事に言葉が出ない。ただ、何とかしなければならない事だけはハッキリと分かる。
「……お前が、思い出せないのは、俺達が嫌いだったからじゃないの?」
 はく、と言葉を出せないまま口だけを動かす。

「何をしているんだ」
 第三者の声が聞こえた。
 そう思うと同時に、目の前の杏哉くんは小さく息を飲み、目を開き、彼の手が俺の首元から離れ、慌てて後ろへ飛び退いた。
 バシャンッ、と音を立てて、杏哉くんが尻餅をつく。首元に手を添えて、身体を捻りながらもゆっくりと体を起こせば、ぼちゃぼちゃと音を立てながら、体に纏っていた海水が、元の場所に戻る様に海面に零れ落ちた。
 声のした方へ顔を向ければ、弥生さんが、苺音ちゃんを抱えてそこに立っていた。少女は何があったのか理解は出来ていないみたいで首を傾げているが、弥生さんは真っ直ぐと俺達を見ている。
「あ……」
 目の前の彼は小さく声を零し、両手で口元を覆う。
「違う、俺だ……俺だよ。お前を追い込んだのは、トドメを刺したのは、間違いなく俺なんだ」
 それだけを言うと、彼はついにぼろぼろと涙を零した。
 ぼろぼろと大粒の涙を零し、嗚咽を零しながら、必死に必死に涙をぬぐう。零れ出る涙を押し戻すように、手の甲で、手の腹で目元を擦ったり押したりを繰り返す。
 嗚咽を零すたびに、身体が上下に揺れる。髪の毛が揺れる。
 それは、まるで懺悔のようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 地面に手をついて、こうべを垂れながら、ただ謝る。跪くその姿は、まるで罪人のようだった。泣きながら、必死に許しを請い、一人訴える彼を、責められる筈などなかった。
「パパ? おじさん?」
 少女の声が聞こえる。幼い子に、酷な物を見せてしまった。
 苺音ちゃんの顔が見られない。自分の心の内を整理しきれない。
 少女は何を思っただろう。パシャパシャ、と軽い足取りで此方に向かって歩いてきて、服の裾をまた引いた。おじさん、と小さな声が呼ぶ。どこか心配を含んだ声。
 大人として、ひとりの友人として、優しく応えるべきなのだ。
「パパに助けてもらったんだよ。心配してくれてありがとうね」
 俺の言葉を聞いて、ビクッと杏哉くんの肩が、申し訳ないほどに大げさに跳ねる。
 ふぅん? と少女の声が聞こえる。目を逸らす。逸らすしかなかった。
 いつまでも座り込んでいる俺の手首を、弥生さんが掴み上げた。
 杏哉くんの手は、掴まなかった。
「……帰ろう」
 服から海水が零れる。大雨のようにして、海に海水が帰っていく。
 手を引かれてこの場から離れそうになる際、今一度服を摘ままれた。
 その動作に、その場にいる全員の目が開かれた。
「どうかした?」
 弥生さんが問えば、杏哉くんは自身が行った動作に自分で驚いた様子で、慌てながら小さく謝り、手を離す。摘まんでいたのは、彼だったようだ。
 離す手は震えており、俺が苦しくなる。胸が、ぎゅうと締め付けられるような、そんな感覚がする。
「風邪をひいてしまうね。帰ろうか」
 二人に対してそう言葉をかければ、苺音ちゃんが代表するかのように首を縦に振った。
 海での出来事があった後、杏哉くんがパタリと来なくなった。理由は、明確なような気がする。あの時の彼は、心底悲しそうな顔をしていた。
 あの時、弥生さんが止めなければ、彼は俺をどうして居たのだろう。彼は、俺をどうしたかったのだろう。俺に、どうなってほしかったんだろう。
 短時間ではあるが、多少は彼と接してきて、大まかな性格くらいは分かってきたつもりだ。
 彼は優しい。優しい人と言ったら彼を思い浮かべるであろうくらいに、優しい人だ。そんな人が、俺の首に手をかけたのだ。そっ、と自分の首元に指先で触れる。
 彼を怒らせたのだろうか。ちょっとのことでは怒らなさそうな彼が? もしそうなら、俺はどれだけの事をしたのだろう。何か、地雷のような物でも踏んでしまったか。それすら分からない程、俺に心が無いのだろうか。
 顔を合わせる気も起きないくらいに怒ったのか、それとも失望でもしたのか。何にせよ、嫌われたかもしれない、という考えに行きついてしまって、気分が沈む。
 椅子にもたれかかって、右肩に頬をくっつけるような体勢で、ずっとそんな事を考え続けている。
 何だかもやもやとする。胸の辺りがじくじくと傷む。心の中の自分が、本当に馬鹿だなと罵倒してくるような感覚がする。ええ、どうせ俺は馬鹿ですよ。
 眉間に皺が寄り、ムッと少しだけ口が尖ったのが分かる。自分で自分に腹が立つなんて救いがない。

「……よし、出かけよう!」
「え?」
 同じ空間に居た弥生さんが、大きな声を上げてそう言った。
 突然の大きな声に身体を跳ねらせ、顔を上げて彼の方を見れば、にこりと笑みを浮かべている。
 確かに空気が重かったのは分かる。同じ空間に居た彼には申し訳ないとは思っていた。だが、急に出掛けようって。
 弥生さんは読んでいた本を閉じて立ち上がり、俺の腕を掴んで立ち上がらせようとする。顔は起き上がらせてはいるが、突然の考えと行為に思考はついて行かない。混乱したまま、されるがままに上半身からぐにゃりと持ち上げられた。
 椅子から立たされ、そんな俺の姿を見て彼は満足するように頷いて、俺の前から移動して部屋の奥に。バタバタと音が聞こえるのを見守っていると、彼は少しだけ荷物を持って笑顔を見せる。
「準備オッケー! じゃあ行くぞ!」
「え、ちょ……」
 彼はノリノリで家を飛び出した。彼を呼び留めようと伸ばした手は、虚しく宙で放置されている。
 その手の行き場が分からなくて、そのまま頭まで持っていって、がしがしと雑に頭を掻いて、深い溜息を吐いた。
 こうなったら、彼に付き合うしかないだろう。

 そもそも、こうして彼と行動するのは初めてだったかもしれない。この世界に来て、彼と共に家に暮らしていたけれど、どこかに出かける事はしなかった。俺はいつも、杏哉くんたちと一緒に居たから。
 ずきん、と頭が痛む。
 鋭くて、それでいて鈍い痛みに眉間に皺を寄せ、痛みの部位に手を添えた。添えたからと言ったって、痛みそのものを撫でる事は出来ないので、所詮気休めに終わってしまうけれど。
 彼の後を追って家から出て、玄関の鍵を閉めた。泥棒など存在しないだろうけれど、念のためだ。
 歩く間に、俺達の間に会話は無い。弥生さんの小さな鼻歌が、風向きの影響からか、こちら側に向かって小さく聞こえるだけだ。周りを見渡せば、見慣れたはずの田舎道が何だか寂しく見えた。
 家はポツン、ポツン、と距離を置いてあるだけ。人が歩く姿は滅多に見えない。道に立つ電柱には偶に落書きがある。電線に止まっている烏の鳴き声が聞こえる。風は弱いからか音はしない。広がる田園には田植えの準備が整っていて、水が張られていた。風がないから、空が田園に逆さに映し出される。海外のウユニ塩湖を思い起こさせた。そんな、静かな世界だった。

 ゆっくりと、周りの景色を見渡すように眺めて歩いていれば、弥生さんが立ち止まって、振り向いて待っていた。
「ここのバスに乗るぞ」
 彼が立ち止まった場所は、日向くんとお別れをしたあのバス停だ。
 ああ、俺達もここのバスに乗るのか。
 彼が指差したのは時刻表。時刻表を見てみれば、バスが来るまで少し時間がかかる。2時間に、行先の違うバスが2本走る。ど田舎という訳ではないが、不便という言葉が脳裏に浮かぶ。
 横に立って並ぶ弥生さんに問う。
「どこ行くの」
「お前を連れて行きたかった場所」
 結局答えになってないな。

 少しだけ待っていれば、予定時刻より10分ほど遅れてバスがやってきた。都会だったら苦情が来そうだ。
 バスの後ろ側の扉が開く。
 行き先を表示するはずの電子板は、何も表示されていない。本当にこのバスに乗って大丈夫なんだろうか。あの時も、ちゃんと表示されていたのかな。ちょっと前の出来事だけれど、今更ながら不安になってきた。
 そんな俺の不安をよそに、弥生さんは気にしないでバスに乗り込んだ。乗車券を手に取って、早く来いと、バスの中から俺に呼びかける。
 平地より高い位置にある入り口に足を踏み入れて、彼に倣って乗車券を一枚とってバスに乗り込んだ。
二人で乗って、まとまって座れる一番後ろの席に並んで座った。窓際に弥生さん、その隣に俺、という順番だ。
「少し遠いから、時間かかるよ」
 バスの中には俺達以外に誰もいない。寂しいなと思った。
 距離のあるバス停に次々と通っても、誰も立っていないので、誰も乗ることは無い。
 時間がかかるのなら、初めから言っておいてほしかった。何か暇潰しの物でも、持ってこれたのに。
 ああ、でも、バスの揺れの中で本を読んでいたら酔ってしまうかもしれないな。乗り物酔いはしんどいから、やっぱり持ってこないで正解だったかも。
 窓枠に肘をついている弥生さんを横目に、俺は左手の親指の爪で、左手の爪を其々かしかしと掻いていた。
 換気の為か窓は空いていて、窓の外から室内に向けて風が吹きこんでくる。隣に居る彼の髪の毛が風で揺れていた。
「……ねえ弥生さん」
「ん?」
 名前を呼んでも、彼は此方を見ない。景色を眺めるだけだ。
「明日、世界が終わるならどうする?」
 自分でそう問うた瞬間に、また、ずきんと頭が痛む。一瞬、自分でも険しい顔をしたのが分かる。隣の彼にバレなかっただろうか、と横目で確かめてみるが、彼は此方に目を向けてはおらず、バレずに済んだようだ。
「えー? 知らん」
「だよね」
 前に、少女に問われた質問を、彼にも聞いてみた。まあ、全く参考にはならなかったわけだが。でも、突然問われたって、答えなんて簡単には出ないか。
「だって、俺には関係ないし」
 確かに、そうだった。彼は幽霊のようなものなのだから、関係ない話ではあったか。
「……俺も、聞かれた時に、分からなかったんだ。その答え」
「だろうね」
 彼は変わらず、俺を見ないで窓の向こうを見続けている。
 相も変わらず人は誰も乗らないで、バスは少し揺れながら、道路を走り続ける。
 元々家の数は少なかったけれど、どんどんと山の中を走って行けば、見えるのは畑や田んぼ、ぽつんと建っている老人ホーム、今にも潰れそうな家。そんな物が目に映る。
「ここで降りるよ」
 弥生さんが眺める方とは反対側の窓の向こうを遠目で眺めていれば、彼の声がした。少し遠くに行きそうになっていた意識を呼び戻して、顔を向けてみれば、にこりと笑みを浮かべた。
 バスがゆっくりとスピードを落として、完全に止まってから腰を上げれば、まとめて払うからと弥生さんに言われる。彼に乗車券を手渡した。
「先に行ってて」
 ドアの先を指さして言うので、先にバスから降りる。
 バスから降りれば、風が吹き上げてきた。どこか、覚えがあった。
 ああ、そうだ。海の風だ。この間、あの子たちと行ったあの海と、似た風が吹いて来たのだ。もしかしたら、あの場所からそう遠くない場所なのかもしれない。
 周囲を見渡せば、住宅はぽつりぽつりと見えるが、全然人影が見えない。人も家も、そう多くない。田舎町、ぽつりと呟いてしまった。
 乱れた髪の毛を手櫛で軽く整えていれば、勘定が済んだらしい弥生さんがバスから降りてくる。バスは、俺達が全員降りたのを確認して、続いて誰も乗らないのを確認してから、走り去っていった。
「ここから少し歩くぞ」
「そういえば、前から気になってたけど、幽霊みたいな存在なのに飛べないのか」
「残念ながらセンスが無かったね」
 小さく笑いながら、彼は先導するように歩き始める。
 田舎町、と思えども……逆に、だからこそ、車が走るからだろうか、整備されたアスファルトの道を歩く。すれ違う人はいない。
「本当はもっと早く連れてくるべきだったんだろうけれど、お前が楽しそうにしてたからさあ」
 数歩前を歩いている彼が、いつも通りの声色で突然言うものだから、思わず首を傾げた。
 何が言いたいのだろうか。意図として、何かを含ませて言いたい内容があるように思われたが、どうも察することは出来なかった。
「弥生さん?」
「……なあ、さっき、どうしてアレを聞いたんだ?」
「アレ?」
「バスの中で聞いたやつ」
 バスの中で。そう小さく呟いてから、すぐに思い出した。明日世界が終わるなら~ってやつだ。
「え? 何となく」
「あっそ」
 それ以降、彼は何も言わないで、ただ歩く。
 周りを見渡せば、また、ずきんと頭痛がする。
 ここ最近、酷い頭痛に悩まされている。元々、俺は片頭痛持ちだったのかもしれない。だから、今でも頭痛が続くのかもしれない。けれど、最近の頭痛は無視できないものになっていた。
 薬を飲んでも、休息を得ようとも、それは変わらず、ただ割れるように痛かった。夢のような世界なのに、痛みは存在するのだな。
「知唐?」
 少し遠くの方から声がして、そこで漸く自分の脚が止まっていたこと気付く。
「……今、行く」
 目指していた場所は、バス停から少しだけ距離のある場所だった。
「さっきも言ったけど、本当は早く連れて行きたかったんだ」
「うん」
 ズキン、と頭が痛む。痛みが和らぐわけではないと分かっているのに、額に手を添えて。痛みによって、眉間に皺が寄るのが分かる。
 脳裏に、誰かが過る。
「お前は理解をするべきだと、思い出すべきだと。それが、お前の責任なんだからと」
「うん」
 ズキン、ズキンと頭が痛い。
 脳裏に浮かんだ人物が、俺を呼ぶ。後ろを向いていて、顔が見えない。
「だけどさあ、お前、本当に楽しそうだったんだもん。一緒に笑ってさあ、話をしててさあ。ああ、まだ良いかなあって思っちゃうじゃん?」
 頭が割れるように痛い。
 脳裏に浮かんだ人物が、振り向こうとした瞬間、ざり、と音を立てて、弥生さんは足を止めた。

 目的地に着いたのかと、顔を上げる。そこにあったのは一般的な一軒家だ。二階建てで、瓦屋根で、曇りガラスの引き戸。
 弥生さんがインターホンを押せば、一瞬、空間が静まり返った。インターホンはただのボタンだけ。室内との通話機能は備わっていない。家主は誰も居ないのだろうか、と思うと同時に、ぱたぱたと駆け足気味にこちらへ向かってくる足音があった。
 少しだけ、聞き覚えのある、軽やかな足音だった。大人ではなくて、身体の軽い、子供のような。
 長考する間も無く、引き戸は開かれる。
 弥生さん越しに、玄関先に人影が見えた。
 玄関先に立っていたのは、苺音ちゃんだった。思わず驚いて目を開く。彼女が出迎えた、ということは、ここは、彼女の家なのだろうか。
 ふわふわと長い髪を風で揺らし、訊ねたのが俺達なのだと分かると、少し驚いたように目を開く。彼女はサイズの合っていない、誰かのサンダルを履いて俺達を迎えた。大人の誰かが愛用している物なのだろう。
「おじさん、どうしたんですか?」
「あ、え、えっと……」
 目の前にやってきた彼女の視線に合わせるように、少しだけ膝を曲げてみれば、彼女は相変わらず真っ直ぐと俺の目を見る。
 目が合うと、彼女の瞳が一瞬だけ揺らいだように見えたが、彼女は少しだけ目を伏せて、すぐにまた俺の顔を見る。
「入ってください」
 彼女の声は少しだけ震えていた。どうしたのだろうか、そう思って彼女の頭に手を乗せようとしたとき、よし! と弥生さんが声を上げたので肩が跳ねて動きが止まる。
「お言葉に甘えて、おじゃましよう」
「え、ちょっと待って。大人が居ないのに、入るのは……杏哉くんもいないし」
「まあ色々と準備があるんだろ。だから大丈夫だって。寧ろ今このタイミングしかないし」
 それだけ言うと、彼は小さく鼻歌を歌いながら、軽い足取りで歩きだす。
 おじゃましまーす、と軽い声色で挨拶をして、靴を丁寧にそろえながら、家に上がる。
 彼の背中を少し見送っていると、くいっと服の裾を摘ままれた。見下ろせば、苺音ちゃんが引っ張っていて、俺を見上げている。
 小さく苦笑いを浮かべて、俺も彼の後に続いた。

「ただいま」

 自分が口にした言葉に違和感を覚えたのは、靴を脱いで、玄関マットを両足で踏んでからだ。
 どうして、俺はただいまと口にしたのか。
 俺の家は、あの、大きくて古い本の山で。ここは、苺音ちゃんと杏哉くんの家なのに。
「おじさん?」
 家の中から呼ばれて、はっと意識を戻した。彼女は真っ直ぐと俺を見ていて、疑問気に首を傾げている。
 どうしてこないの? と問うているように思えた。
 まるで足の裏に根が生えたんじゃないか、と思う程に自由に動かせなかった一歩を踏み出す。ぶちぶち、と根っこが引きちぎれるような音が聞こえた気分がした。
 こっち、こっち、と弥生さんが呼んでいる。そんな彼の呼び声に応えるように、苺音ちゃんが俺の手を引っ張る。
 玄関から上がると目の前に十字路の廊下があった。右は、二階へ続くのだろう、階段と階段のスペースを利用している靴箱。左は、各部屋へ続く廊下。目の前は、キッチンへ続く廊下。俺を呼ぶ声は、左側のとある一室からしているようだった。
 ズキン、ズキンと頭が痛む。
 一番手前にあった障子戸を開けば、8畳ほどの居間が2部屋繋がっていた。座卓と座布団が数枚置いてあり、薄型のテレビが置いてある、至って普通の部屋だった。
 声がするのは、手前の部屋と隣り合わせの位置にあるであろう、襖で遮られている部屋からだ。
 ゆっくりと襖を横に引いた。そこはどうやら仏間だったようだ。部屋の隅に、金色の仏壇が置かれている。
 弥生さんは、その部屋で正座をして、こちらに背を向けていた。
「……なあ、本当はどこか察してたんじゃないか?」
 ズキン、ズキン、ズキン、と頭が更に大きく痛む。
 弥生さんと向かい合う様に置かれているのは、小さなテーブルのようだった。主張が激しいわけではないが淡い色合いの菊などの花々。灰が小さな山のように盛られ始めた線香立て。真ん中に置かれた、白い箱。俺はこれを知っていた。
 そして、何よりも主張が激しいのは、笑みを浮かべている、俺の写真だ。
 は、と小さく息を飲む。

「知唐が、死んでるってこと」

 窓でも開いていたのだろうか。ふわり、と空気が入れ替わったような心地がした。

「……え、」
「……まず言うけど、遠野知唐、お前と遠野杏哉くんは、兄弟だ」

 脳裏に居た人が、完全に振り向いた。
 振り向いた顔は、俺の良く知った顔、杏哉くんだった。脳裏に浮かぶ彼は、寂しそうな、今にも泣いてしまいそうな顔をして、俺を見ている。
「彼は遠野杏哉。遠野家の次男。そんな彼の兄が、お前、遠野知唐。身に覚え、あるんじゃねーの」
 ぼう、とした意識の中、一歩、二歩、と足を後ろに動かした。
 仏間と隣り合わせの部屋をふと見渡せば、沢山の額縁が飾られていた。賞状が数枚、苺音ちゃんが笑みを浮かべている写真。入園式当たりであろう、制服を着ている苺音ちゃん。七五三なのだろうか、鮮やかな着物を着つつ、少し目元を赤くして、少しだけ不機嫌そうな顔をしてる苺音ちゃん。
 その中に、二人の男性が並んでいる写真が何枚か飾られていた。
 そのうちの一枚に、俺は目が離せないでいた。
 一つのホールケーキを前にして、二人並んでピースサインをして、満面の笑みを浮かべている少年二人だ。ホールケーキにちょこんと乗っているチョコプレートには『お誕生日おめでとう 知唐くん 杏哉くん』と書かれていた。
 右の隅に、日付が記されている。今から20年以上前の、3月1日だった。
 頭が痛くなってきて、痛みを逃がすようにくしゃり、と前髪を握りしめる。

 こぽり、こぽり、と水の音が耳に入ってくる気がした。耳に入って、そのまま脳へ直接訴えてくるかのように、身体全体がその音を拾っている。
 こぽり、こぽり。
 口から空気が泡となってぼこりと零れる。
 水に包まれて、視界は最悪。水の中では、とてもじゃないが何も見えない。
 ごぼごぼ、と口から泡が大量にこぼれる。口を開いてしまって、声の代わりに空気を蓄えた泡が大量に逃げて行った。
 視界はぐにゃりと曲がったかのように見えて気持ち悪い。手を伸ばそうとも体は一向にいうことをきかない。
 上も下も右も左も分からない。何が正しいのかも分からない。何にしがみつけばいいのか、縋ればいいのかも分からない。伸ばした腕は、絶対に、何も掴めない。
 「誰か」そう口にしたくても、救いを求めたくても、潰れそうなほどの痛みを訴える肺が、喉が、それを許してくれない。必死に伸ばした腕が、何度も空ぶって何も掴めない。握った拳の中には、何も無い。本当に俺は腕を伸ばしたのだろうか。腕を伸ばして助けを求めたのだろうか。
 本当に?
 恐怖だけが、脳内を占めていた。
 どうどうと大きな音が、目の前に迫る。
 水の中が、恐怖が、どうしてこうも鮮明にありありと思いだされるのか。
 当たり前だ、これは、俺の体験した記憶。

 視界が大きく揺らぎ、恐怖が湧き上がる。ふっ、と一瞬足が宙に浮かんだような気分がする。足場が無くて、バランスを崩す。足元を見れば、俺の身体はもう水に浸かっていた。
 その恐ろしさに息を飲み、その場でたたらを踏む。
 ふらりと大きく揺れた体は、バランスを崩してその場で尻餅をついてしまう。
「おじさん?」
 大丈夫? と、突然座り込んでしまった俺に向けて、少女が問う。
 ――おじさん、そうだ。最初から、答えは出ていた。苺音ちゃんは杏哉くんの娘。そんな杏哉くんと俺が兄弟だったのなら。
 彼女は、俺の姪っ子。幼いころから、ずっと俺に懐いてくれた、可愛らしい姪っ子。彼女からすれば、俺は、叔父さん。
「……思い出した」
 胸元を握りしめて、ぽつり、と呟けば、弥生さんが俺の腕を掴んで立ち上がらせる。苺音ちゃんは、不思議そうに首を傾げていた。
 ここ最近、酷い頭痛に悩まされている。
 元々片頭痛持ちで、雨の日など、気圧が変化する時には締め付けられるような痛みを伴う体質ではあるものの、最近の頭痛は無視できないものになっていた。
 薬を飲んでも、休息を得ようとも、それは変わらず、ただ割れるように痛かった。
 ああ、死ぬのかもしれない。
 安易にそう思った。

 公務員は楽でいいね。たまにそんな言葉を頂いてしまう時がある。その言葉を貰ったときは、あはは……と苦笑いを浮かべて誤魔化した。その人のイメージでは、公務員は残業なしで仕事内容も簡単なものだと思っていたのかもしれない。確かに、俺は貴方のように精密な作業をするための機械をいじることは出来ないけれどもね。
 ずずっ、とブラックの缶コーヒーを飲みながら、目の前のパソコンと俺は真剣勝負を繰り広げていた。ダカダカダカ、とキーボードを打つ音が響いている気がする。この仕事になってから、俺はブルーライトカットの眼鏡を買った。そのメガネを軽く外して、目頭を指で押さえる。
 楽な仕事なんて、そうそうあるわけねえだろうがクソっ。
 俺は周りに誰も居ないことを良い事に思いっ切り力強い舌打ちをした。
 ああ、頭が痛い。
 社会人になると一気に日々の過ぎるスピードがあっという間すぎて笑う。
 省エネを促しているポスターを横目に、自分の席付近の電気だけがついて、パソコンと向き合っている。暗い部屋の一か所だけ着いている電気。その中央に居る俺は、何だかスポットライトの中にいるみたいだ。
 新年度へ向かうこの時期は、どんな会社でも多忙期だろう。俺が務める役所も、例に漏れない。
 役所は、約3年付近で部署が変更になる。俺の後輩も、来月は別の部署へ移動となる。その手伝いに追われる日々だ。
 そうした忙しい時期に差し掛かる先月、親戚のおばあさんが亡くなった。詳しく言えば、祖父の姉、つまるところ大叔母だ。3親等には含まれないので、普通に有休を使って休みを貰った。休んだ当日は、来客が多くて多忙だったと聞いている。その分、俺に仕事が少々回ってきた、というところだ。
「クリーニング……明日、取りに行かないとだな」
 誰も居ないことをいいことに、ぼそりと小さく呟いた。喪服、クリーニングに出して、全然引き取りに行っていなかった。申し訳ない。
 少し遠い目をしながら、画面と向き合う。

 最初は、司書になりたいと思ったのだ。
 だが、図書館司書の正社員の門の狭きこと。倍率を確認して、俺は直ぐに匙を投げた。少しだけ本を読むのが好き、本に囲まれているのが好き、という理由だけでは、簡単にはなれないのだ。
 それでも、地方公務員という職の倍率も高い。大学時代は勉学に励み、個性をアピールできるようにボランティア活動も行った。面接では、噛んだりアホな返答もしてしまって試験官に何回か笑われたけれど、こうして受かっているのだから、俺は中々に運が良い。
 23歳から市中の役所で務めて、1回部署移動して、2回目である今は広い市内の外れにある事務所で日々働いている。
 どこでも、沢山の人が頑張っていて、働いたり学んだりして生きている。そんな沢山の人々の少しの手助けにでもなれるなら……とずっと思っていたし頑張っていた。
 大切な息子が亡くなって、手続しているときに泣きだすお母さんやお父さんも居た。奥さんを亡くして悔しそうな旦那さんもいた。おばあちゃんは安らかに逝けて幸せ者だった、と寂しそうにだけどどこか安心するように話す孫も居た。沢山の人がこの施設に来た。
 窓口で向き合いながら、何度もハンカチやティッシュを差し出した。死というのは辛いししんどいものだ。
 俺は何度も葬式を経験している。
 生きている限り、人は死ぬ。だから、周囲の人物が亡くなることは、決しておかしなことじゃない。一人、一人と亡くなるたびに、死は身近なものになっていく。
 幼少期から、どうも死という存在は近かった。
 高齢の身内が多かったのもあるが、今の自分の年齢の割には、人の死というものを何度か経験していた。
 壽命や癌などの、小説や漫画では話題にもならない死因。だけど、当の本人たちである俺達からすれば原因なんて関係ない。ただ、その死と言うものに寂しさが大きいのだ。
 だから、泣きだしたのなら、どうぞ泣いてくださいと言う空気を醸し出す。おかげで俺は仕事に行くときに、綺麗なハンカチ数枚と箱ティッシュを持ち歩くようになった。いっぱい使ってくれ。時間が許す限りなら話を聞いて、少しでもスッキリできたらと思って相槌を打つ。悲しみを我慢するというのは、どこか臭い物に蓋をする的なところがあって、無視しようとか考えないようにしようとしている間はいつまで経っても、その匂い物が残り続ける。だから、その蓋がずれたのが分かった時は、そっと外すのだ。少しスッキリした表情を見せてくれた時は、あぁ良かったと一安心できる。
 でも、その様な人々はキチンと話を聞いてくれるし必要な書類を書いてくれるから良い。
 中にはとんでもねえクレーマーが居たり、しょうもないことで電話してきたり窓口に来たりもする。いや知らねえよ、貴方の家の庭に咲いてる花の名前なんて知らねえよ! なんていう愚痴は口にせず、花の特徴を聞いて調べてお答えした。

 ダカダカとキーボードを打ち続けていれば終わりが見えた。ッターンッ! と勢いよくエンターボタンを押せば、本日の仕事は無事終了! 終わった! と思いっ切り拳を突きあげた。俺は勝ったのだ……!
 ちらりと時計を確認すれば、日付が変わる前に無事に終えることが出来た。
 たまに、電気がついているとクレームがやって来るのだ。こんな時間まで電気ついてて、俺等の金で何やっているんだ! と。だからこそ、使用している箇所以外の電気は消して、こっそりと、隠れるように仕事をしているのだ。悲しいかな。
 最後の確認を済ませて、不備が無いことも確認したし大丈夫。デスク周辺の片づけをして、電源もきちんと消してあるか一つ一つを指さしながら最終確認して、窓も閉まっているか確認。よし! と頷く。宿直さんにお疲れさまでしたと挨拶をしてから、職員用の扉から出る。
 どうしようかな、明日は休日だから今日は何もしないでいいかもしれない。今日の夕飯ビールでいいかな……いやここ数日ずっとビールだけど。家に着くのが真夜中になるのが多くて、食事をするのも面倒くさくなり、ビールなら炭酸だから腹膨らむし程よい量の酒なら眠気も来るから……と暫くずっとこんな調子だ。冷蔵庫の中はビールとほんの少しの調味料しか入っていない気がする。俺も、30歳。こんな生活では、そろそろ怒涛の勢いで太り出すかもしれない。

 元々実家から通っていた俺だったが、この担当地域の端に建っている事務所に異動が決まって、俺は実家から出て一人暮らしを始めた。実家からも通えはするのだが、少しでも通勤時間を減らしたかったのだ。
 実家から向かうには電車で少しかかる、郊外の日本家屋、という位置。だからこそ、逆に今の端っこに存在する職場からだと、通勤は徒歩でも可能。そんな場所。
 俺が住んでいる家は、遠い親戚がだいぶ前に住んでいた。その親戚に会ったことはない。管理ができるなら使ってくれと譲ってくれたのだ。読書家の家系らしいこの屋敷には、どこかの市立図書館レベルの量の本が置いてあるんじゃないかと言わんばかりである。本好きの俺は、得をしたと力強いガッツポーズを決めたものだ。

 田舎で元々本数の少ない終電車は、もうとうに終わっている。遠くに見える駅舎も、ホームも、照明が落とされて暗い。駅内に経営しているコンビニも、24時間営業なんてしておらず、とっくに明かりを消している。駅周辺の商店も、住宅も、明かりの漏れている建物は少なく、田畑はもとより夜の闇そのものみたいに真っ暗、というか真っ黒に映る。
 夜になると光がなくなる。この町は、驚くほど従順に、夜に飲み込まれていく。
 清潔な暗闇が、街を覆う。
 家路を歩いている最中に、スマホがポケットの中で震えた。
 慌てて取り出して画面を確認してみれば、表示された文字は『遠野杏哉』。実の弟からの電話だ。街明かりが無い真っ暗闇の現状、誰かとすれ違えば、俺の顔が浮き上がっている状況になり、相手にはトラウマを植え付けてしまいそうである。
 まあ、すれ違う人なんて、そうそう居ないのだけれど。
 数コール経ってしまった後で電話に出る。
「もしもし」
『今大丈夫?』
「大丈夫だよ」
 ごう、と音を立てて、俺の横をトラックが走り去った。田舎の分類に入るであろうこの町は、ガードレールや縁石すらない。細い道を示す、白線が掠れながらも存在しているだけだ。
 車の音が聞こえたのだろう、電話の向こうから、外に居るの? と問われた。
「今、帰りなんだ」
『今日、土曜日じゃん』
「今の時期は忙しいんだよ」
『大変そうだね』
 俺の一歳年下の弟は臨床検査技師に就いている。職の名を言われても、当時の俺にはピンと来ないで、どういう職業? と申し訳なく聞いたら、血液検査とか尿検査とか諸々の検査をする仕事だよ、と大雑把に面倒くさがられながら説明された。
 その分野を専門に学ぶ学校に進学し、そこで出会った女性と晴れてお付き合いをし、そのまま二人は同じ職場に就職し、そのままの流れでゴールインを迎えた。彼が22歳のことだ。そしてその同年、二人の間に可愛らしい女の子が生まれた。俺にとっては姪っ子になる。夫婦それぞれの良いとこどりをしたような、可愛らしい少女だった。
『苺音もね、話したがってたよ』
「それは申し訳ないことをしたな……」
 姪の名は苺音ちゃん。初孫となる彼女は大層かわいがられ、身内から沢山の愛を貰っていた。その可愛らしい姿は、仕事で荒れた俺からすれば眩しい物だったし、俺にとっても宝物のような存在だった。

 実家から離れて3人で暮らしていた弟一家。臨床検査技師の給料は、国家資格を必要とする割には、多額ではない。夫婦共働きをしないと、安定した生活をするには難しかった。
 夜勤も存在する職業。弟は、夜勤専属の技師になった。夜勤は手当てが出るために、昼間に働くより給料が良い。一家で暮らすために、弟は必死だったのだろう。
 けれど、二人が結婚し、苺音ちゃんが生まれて3年後。杏哉が25歳、俺が26歳の時。俺が家から返った時、実家に杏哉と苺音ちゃんが居た。
 遊びに来ていたのか、と思ったのが違った。どうにも揃って神妙な顔をしていて、軽率に話しかけて良い雰囲気ではなかった。
「別れたんだよ、嫁さんと」
 妙に凛と張ったその声色に、俺は一瞬自分の耳に違和感を感じた。弟の声だけにピントが合って、あとの音がすべてぼやけているような感覚だ。別れた、口の中で復唱して、その意味を噛み締めるが、いまいち上手く情報を処理出来ない。
 そもそも、当事者である弟が、まるで他人事の様に言うものだから、俺の方が受け止めきれなくて。座卓で腕を組んでいる弟の横に腰かけて、顔を覗きこんだ。
「俺は真夜中だろ? んで、あいつは昼間働いて。時間が全然合わなかった。夜勤だから、昼間は家に居るから、昼間寝て、夕方あたりに起きて、家事をして、俺が迎えに行く。あいつが帰ってくるまで苺音と一緒に居て、あいつが帰ってきたら俺が出勤する。見事にすれ違ってて」
「うん」
「それで、仕事から帰ってからとか、休みの日とかも、俺疲れたりして、あいつのこと、ほったらかしにしてて」
 それは、杏哉が悪かったかもしれない。でも、話し合う機会があれば、この人はきっと努力しただろう。
「俺、全然あいつの気持ちとか、解ってなかったみたいで、それで」
 そこで、杏哉は一度息をついた。深くて、重い。長く長く息を吐ききってから、肺の中を入れ替えるように大きく吸い込んで、杏哉は首を少し傾けて俺に視線を送った。
「俺と苺音を置いて、出て行っちゃった」
「……そっか」
「苺音に悪いことをしたなあ」
「……けれど、がんばったね」
 スムーズに何かをなんて言える訳がない。どれほど緊張していると思う。それでも、確実に今、伝えるべきだと思った。いくら市役所で来客対応して、色々な人と出逢っても、他人と身内とでは全然違うのだ。まさに、他人事では済まされないのだ。
 さて、精一杯の言葉は本人にどう届いたのか。恐る恐る顔を上げると、杏哉はぽかんとした顔でこちらを見ていて、それから、目が合うと一気にぐしゃりと顔が歪んだ。
 あ、零れる。と俺が思った瞬間には杏哉の涙は瞳からこぼれ落ちて、食いしばった歯の隙間に吸い込まれていった。とめどなく追って出てくる雫は顎を伝って、座卓の上に水たまりを作っていった。呻くような声を上げながら泣く弟を、体中の水分が涙になっちゃって、消えてしまったらどうしようと思いながら、俺はただ見つめていた。
 元々、彼は器用な人間であった。自分の力量を大体に理解し、可能な範囲を見極めることができる。失敗、という経験をあまりしないで生きてきたのだ。ある意味、才能であったと思う。逆に俺は不器用な人間であり、自分の力量も見極めきれずに、数多くの失敗を経験してきた。
 だからこそ、俺は弟が羨ましいと、この20数年の間、思っていたのだ。俺にない物を持っている弟が、ズルいと、思ってしまっていた。彼は俺とは違う、他人なのではないかと、思っていたのだ。
 だが、そんな弟が、こうして生まれて初めての挫折を味わっているのだと思うと、俺は最低な事に、生まれて初めて、彼が俺の弟なのだと認識できた。
 そんな俺を認識して、俺は、自分に酷く嫌悪を抱いたのだ。

 まあそれ以降、杏哉は実家に戻ってきたわけだけれど、元々一緒に暮らしてきた身だし。何か関係が大幅に変わるわけでもないし。両親も両祖父母も、何かとやかく言う事は無かった。兎に角、初孫で初曾孫ある苺音ちゃんにデレデレで沢山世話を焼いていたので、杏哉も少しは気を楽にして、転職して、新しい職場で働き始めた。
「おじさん、きょうもごほんよんで」
「ん、良いよ」
 運が良いのか、どうしたことか、俺は姪っ子に懐かれた。気が付けばいつも俺の後をついて、いつも俺を呼んでいた。服を引っ張られたら、彼女を抱きかかえ背中を撫でる。
 甘やかさないでよ、とジト目で杏哉が言うので、どうしたもんかと悩んだものである。
 俺の異動が決まって、実家から離れるとなった時に、一番反対したのは彼女である。
 普段はおとなしいのに、ぎゃんぎゃんと大きな声で泣いて、俺の服を必死に引っ張って、いかないでと必死に叫ぶ。家族にも近所の人にも、後程笑い話にされるネタとなった。
 けれど、決まってしまったのはしょうがない。必死に彼女の顔を拭ってやって、宥めて、頭を撫でてて。
「いつでも遊びに来て良いからさ」
「ぐす、行ぐ……!」
「うん。パパと一緒に遊びにおいで」
「うん」
 大粒の涙をボロボロと零しながら、全ての言葉に濁点が付きそうな声色で言うものだから、思わず笑ってしまった。
「苺音ちゃんの誕生日。一緒にお祝いしようね」
「約束だよ。絶対だよ。これからもずっとだよ」
「うん。分かったよ」
 指切りをして、約束。俺と杏哉は偶然にも誕生日が一緒で、丸々一年歳が離れている。だから、まるで双子のようだと一緒に祝われてきた。苺音ちゃんが産まれ、彼女は毎年欠かさず、父親である杏哉と叔父である俺におめでとうと言葉とプレゼントをくれる。だから、俺等より後に誕生日が来る彼女の誕生日には、お礼も含めて、美味しいケーキをプレゼントするのだ。

『……おい、おい兄さん』
 呼ばれてはっと顔を上げる。随分長く回想してしまっていたらしい。声の主に意識を向ければ、少し困ったよう溜息を吐く弟。
 気が付けば俺は我が家に着いていて、鞄を放って、ジャケットも放って、家の中を歩き回っていた。
『あ、そろそろ時間だな』
 それだけ言うと、ガサゴソと電話の向こうから音が聞こえる。
 遠くから、おーいと誰かを呼ぶ声。通話を繋げっぱなしだから、スマホを耳にあてながら、テレビをつけた。
 時間は、丁度日付が変わろうとしている瞬間だった。
 パッと時刻が0:00を表示した瞬間――……
『パパ、おじさん、おたんじょぉびおめでとお!!!!!!』
 スマホの向こうからの突然の大きな声に、キーンッと耳鳴りがした。思わずスマホを耳元から離してしまったが、すぐに元の位置に戻す。
 大きな声で多少音が割れてしまっていたが、声の高さ的に女性で、更に言うと、彼女からのメッセージなのだとすぐに察した。
「苺音ちゃん?」
『……はい』
「ははっ、声がショボショボしてるよ。こんな時間まで起きてくれてたんだ?」
『つい数秒前まで寝てたんだよ』
「なんだ、起こしたの?」
『どうしても、おじさんにもおめでとう言う! って聞かなくて』
「それはそれは、ありがたいねえ。苺音ちゃんありがとうね」
『ん……』
 寝てる寝てる。思わず笑いながら言えば、おやすみなさい……と言う声が遠くなっていくのが聞こえた。6歳の子がこの時間まで起きているのは辛かっただろう。ありがたいけれど、申し訳なさもあるな。
「そっか、今日、俺もお前も誕生日だったか。誕生日おめでとうございます」
『あちがとうございます、おじさん』
「一歳違いだって毎年言ってるだろ……全く」
 額に手を添えて、小さく溜息を吐く。
『誕生日だけど、あと、あのじいさんの命日』
「そうそう。ああ、あと、何人か居たよね。今年は誰も死なないと良いな」
 俺達が祝福されるべき誕生日に、亡くなる人が多い因果があるのかもしれない。その度に葬列に参列したものだ。幼い頃は、その度毎に、新しい喪服を着た。
 誰が居たかな、と片手で指を折り曲げて、頭の中で数字を唱えて数える。
『それで、もう今日になったけど、苺音と遊びに行こうって話、してたじゃん』
「あ、」
 思わず口元に手を添えて、慌てて声を封じようとした。
 彼の言葉を聞いて、俺の脚は風呂場へ向かった。ビールを飲んで夕飯を終えて、明日の朝にシャワーを浴びようかと思ったが、予定変更だ。
 大変申し訳ないことに、予定を忘れていた。
「お祝いするって苺音ちゃんが言ってくれたの、嬉しかったよ。大丈夫だよ。お前も一緒に来るんでしょ?」
『まあ、ね』
「どこ行く予定なの」
 シャツの腕を捲って、バスタブに洗剤をかけてからブラシで擦る。今の洗剤はバスタブを擦る必要はありません、とCMしているが、本当に大丈夫なのだろうか……と不安になる為、つい擦ってしまう。
『決まってない……』
「なんだよ。決めてから言ってくれよ」
『じゃあ、アンタはどこか行きたいところあるの』
「えー……最近はどこも出掛けてないからな。どこが良いのかも分からない」
 世間ではどこが話題に出ているのだろうか。SNSをやってはいるが、最近は流し読み、それどころか疲れてアプリを開いてすらいない。疲れている時に、新たな情報を脳に入れるのは、とても疲れる。
 一通りバスタブを洗って、シャワーで泡を流す。最近の洗剤は、泡切れも早くて良い。
『……アンタ、大丈夫か』
 泡を全て流し終えた所で、彼の言葉が耳に響いた。思わず動きが止まって、息も止まったような感覚だった。
 少しだけ開いた口を閉じて、入ってきていた空気をごくんと小さく呑み込んでから、シャワーを止めて、栓をし、お湯を入れた。
「大丈夫だよ」
『うそ。アンタ、嘘を吐く時って、ちょっと間を空けるんだよ』
「そんなことないってば」
 ついやけになって、彼の言う事を否定するように、即座に返答する。その声は、少しだけボリュームが大きくて、乱雑だったかもしれない。
『アンタは旅行が好きで、いつだってどこかに行きたいとか、色々な観光地や穴場スポットを探すのが好きだったよな』
「い、まだって好きだよ」
『それもうそだ』
 真っ直ぐな声を聞いて、眉間に皺が寄ったのが分かった。
『最近、俺達と会わないよな。迎えることが出来ないからって、来るなって遠回しに言ってたし』
「……それは苺音ちゃんには申し訳ないと思ってるよ。だから、明日会うんだろ」
『ねえ、兄さん』
「いつも通り、10時頃に家に来て、どこか食べに行こう。ケーキも買ってさ。そこから、そうだ、海にでも行く?」
『兄さん』
 名を呼ばれて、ぺらぺらと自転車の空漕ぎのように回っていた舌が、急に落ち着いて来た。
『話を聞けよ。だから、出掛けるのは止めようかと思ったんだよ。こっちだって、お前に合わせるし、出掛けるのはいつでもいいんだから』
「大丈夫だよ」
『無理に、俺達を気にし続けなくても』
「大丈夫だって言ってるだろ!」
 俺は、彼の言う通りに疲れていたのかもしれない。
 出来る限り、俺は人と丁寧に接しようと考えて生きてきた。そうすれば、敵を作らないからだ。それは家族も一緒で、弟に対してだって、いつだって笑みを浮かべていたはずだった。
 その化けの皮が剥がれ始めていた。
 それに自分で気が付いて、は、と少しだけ自虐気味に口角が上がった。
「……ごめん、忘れてくれ」
『兄さん、』
 彼の返答を聞かずに、俺は通話を切った。
 スマホの画面には、通話終了を示す画面が表示され、すぐにホーム画面に戻った。
 何をやっているのだろうか。弟に対して、当たってしまった。彼は誤解しているようだったが、俺は決して、彼女と会うのは苦痛ではない。むしろ、会うのは、俺にとっての一番の楽しみでもあったのだ。

 謝らないといけない。
 だけれど、今の気分のまま通話したら、先程の気分が尾を引いて、上手く言葉に出来なさそうだ。
 日が昇ってからでも良いだろうか。大丈夫、俺達は家族だから、いくらでも時間はあるのだ。喧嘩だって何度もして、日付を跨いだことだって何回もある。その都度、互いに素直になれないまま言葉ばかりの謝罪を口にしたのだ。
 今回もそうだろう。
 折角湯を入れたのだ。気持ちを落ち着かせるために、風呂にでも入ろうか。
 スマホの画面を伏せるようにしてテーブルに置いて、着替えを手に、浴室へと足を進めた。

 湯船に浸かるのは随分久しぶりだった。
 少し熱めのお湯に肩まで浸かっていれば、意識がうつらうつらとして来る。もう日付を超えた時間だ。眠気が襲ってきてもおかしくない。
 風呂に浸かりながら思わず欠伸をして、少しだけ、少しだけ寝てしまおうかと、重たい瞼を閉じる。
 こぽり、こぽり、気泡が水面へ向かって行く、心地よいような音が脳裏に響く。
 水の音どれだけ聞いていたかは分からない。けれど、次第に音が何も聞こえなくなってきて、視界が真っ暗になった。
 
 そこからの、記憶はない。
 居間に飾られているカレンダーは、2個ほどあった。一つは一月ごと捲っていくタイプ。もう一つは、2月分が記されている、縦長のカレンダーだった。
 先日お祝いした、苺音ちゃんの誕生日。3月31日には、ちゃんと『苺音誕生日』と記されている。
 そして、3月1日の箇所には、『知唐、杏哉誕生日』と記されていた。
「3月1日、誕生花は杏。俺の唐は杏の別名が唐桃だから。杏哉くんも杏からきてる」
「花言葉は?」
「臆病な愛」
「ぴったりじゃん。じゃあ、苺音ちゃんは? 名前からもう察して、誕生花は苺?」
「そう。花言葉は、幸福な家庭」
「あはは、まさしく君達らしいな。幸福な臆病者って感じで」
「皮肉は止めてくれよ」
 そして4月。4月18日には、四十九日法要と記されている。
 3月1日からずっと、カレンダーには色々と書き込みがされている。誕生日に関して書き記している字とは違う筆跡。見覚えがあるのは、予定を書き記している筆跡だった。これは、杏哉くんの字だ。
「あの日、お前は日付が変わるであろう時間に家に帰った。その後、お前は風呂場で眠って、死んだ。風呂場で寝るのって気絶と一緒なんだぞ。本当に馬鹿だよなお前」
「馬鹿って言うな」
 いや、自覚はしているけれど。
 けれど、風呂場で寝て? 死ぬ? 要は溺死? マジか、これはちょっと笑えねえわ。
「でも、俺ってあの家に一人暮らしだっただろう? 誰が見つけたの?」
「……杏哉くんだよ」
「え?」
 間の抜けた顔をして彼の横顔を見る。
「お前が死ぬ前に、お前等は電話越しで少し喧嘩した。……まあ、杏哉くんも喧嘩して居心地が悪かったのか、謝ろうとしたんだろう。それか、嫌な予感でもしたのか。些細な口喧嘩なら今までやってきたのに、変に胸騒ぎでもしたのか。偶に、凄い敏感な人間っているよな。すぐに家に来たよ。そして、最初に沈んでいるお前を見つけたんだ」
 ぐ、と下唇を噛み、拳を握る。
 声が脳内で木霊する。いつも落ち着いて喋る彼が、何度も、何度も兄さんと俺を呼ぶ。それに対して俺は、何も言えなかった。
「『忘れてくれ』……お前が電話した時の最後の言葉だ。アイツにとっての、兄に言われた最後の言葉になるな」
 口元に両手を添えて、そのまま首を垂れる。
 脳裏に浮かぶ、海での彼の言葉。
 ――違う、俺だ……俺だよ。お前を追い込んだのは、トドメを刺したのは、間違いなく俺なんだ。
 ――ごめんなさい、ごめんなさい……。
 まるで罪人のように跪く姿は、俺に対して許しを乞うていた。けれど、それは、俺も同じだ。
 俺が、あの子をここまで追い込んでしまった。責任を感じさせ、心に傷を負わせてしまった。トドメを刺したのは、間違いなく俺の方なんだ。
「葬式を終えての弟くんは、それから暫く抜け殻みたいだった」
「……うん」
「まあ、そう言われても、俺は俺の仕事がありますし。お前と会ったわけですよ。こいつも若かったから未練もあるんだろうと、49日間は好きな事させてやろうって思ったんだ。そうしたら、まさか記憶が無いとは思わなかったけど」
「……玄関先で話しかけられて、初めて会ったんだ」
 ぽつり、と声が零れる。
「俺は分からなかったけど、あの子は分かってたのかな。いや、すぐに分かったんだろうなあ」
「……」
「俺は死んでる身だし。なんで居るんだと思ったんだろうなあ。不思議な経験をしてる自覚合ったのかな」
「……」
 納骨箱を前に、まるで他人事のように見つめて、ははっと小さく笑ってしまう。
「誰の所為でもないのにな」
「そうだよ。誰も悪くなかったよ。強いて言うならお前が寝たのが悪い」
「違いない」
 あの子はどうも、不幸とか責任を率先して引き受けようとする。それが彼自身が己の為にやっていたのだとしても、俺の馬鹿な不幸など、背負い込まないで。馬鹿な奴だったな、で終わらせてくれればよかったのに。
「この中に、俺が入ってるの?」
「そうだよ」
「ふぅん」
 不謹慎だが、こつこつと納骨箱を叩こうとする。だが、俺の手はそれをすり抜けた。
 ああ、そうか。俺の中見、ここにあるんだった。肉体が無いんだから、こっちのモノ……現実のモノは触れないに決まってるか。
「俺ってこんなに小さくなるんだね」
「そりゃあ砕かれるから」
「粉々に?」
「粉々って程ではないけど。入る程度に」
「あー……そういえばそうだったね」
 過去の葬式の事を思い出す。長い箸をもって、一つ一つ丁寧に白い骨を骨壺入れる。ご飯を食べる時と大して変わらない動作に、拍子抜けしたことを思いだした。
 ガンガンとくだかれて、あんなに小さくまとめられて。少し粉々にされる部位もあったかもな。死んでて良かった。生きていたら、それこそ死にそうになるほど痛かっただろうな。
 俺の地元は、限られた人数で、全ての骨を拾う。全て、粉になったものまで、全部。
 あの子は、俺の骨も拾ったんだろうか。
「俺達は、昔から葬式に縁があったからなあ。あの子も、手慣れたものだっただろうな」
「てきぱき動いていたぞ」
「素晴らしいな」
 ふふ、と小さく笑みを浮かべた。飾られている俺の写真も笑っている。俺、こんな顔をして笑っているのか。いつの写真だろう。
「元々お前等は、身内の葬式が多かっただろう」
「うん、そう。しかも、俺等の誕生日に亡くなる人も多かった」
「そう。だから、元々お前等は死が近い存在だったんだ。世界の境界線が、あやふやになりそうな、そんな状態だったんだ」
「そして、俺が俺達の誕生日に死んだから、杏哉も、一緒に居た苺音ちゃんも境界に入りやすくなってしまった……と」
「そういうこと」
 ぽつり、ぽつりと呟く言葉に、弥生さんの目は真剣なものになる。
 小さく息を吸ってから吐きだして、心を少し落ち着かせる。
「……お前が死んで、48日だ」
 彼がポツリとつぶやいた言葉を聞いて、彼の方へ顔を向けた。
「まだ、それだけなんだよ。知唐。お前、生きてたら、まだ30歳だったんだよ。なったばかりだったんだぞ。まだまだこれからだったんだ」
「あー……そうか。まだ、って歳だったのか。俺」
 自分ではまあまあ生きたなと思ったのに、数字で表されたら、半世紀も生きていなかったことに驚いた。
「弟君は、お前が亡くなったことは分かっている。理解している。けど、お前を見て懐かしさを感じている。あの顔は、そんな顔だ」
 幼い頃、何をする時も一緒に居た兄は、命を終えた。その喪失感はどれだけだったのだろう。
 全てを忘れ去ることはできない。
 新たな家族を持っても、忘れられない。
 記憶が無くても、懐かしさを感じてしまった。
 自惚れでなければ、血の繋がった兄弟とは、そういうものなのだろうか。
「なあ知唐。お前に残された時間は、あと1日だよ」
「……うん」
「1日経ったら、お前を連れて行く」
 ああ、だから卒業ね。
 管理人さんの言葉の意味をようやく理解した。この世からの卒業。来世へ向かうために、あえての前向きな言葉であの人は言ったわけだ。
「……君も、一緒に逝くのか」
「それが、俺の仕事だから」
 仕事ならしょうがないな。
 親指と人差し指の爪先をこすり合わせる。カシカシ、と引っ掻く。
「明日、お前の世界が終わるならどうする?」
 顔を上げて、問うて来た彼の方へ顔を向けた。そして、少女の顔が過る。ああ、彼女もどこか分かってたのかもしれないなあ。だから、一緒に居たがってたのかな。置いていくの、申し訳ないなあ。
 何のために、俺はまだここに居るのか。49日間、まだあの世に行っていない、残された時間。悔いがあったからに決まっている。
 けれど、49日間って思った以上に短い。まあ、記憶が無かったから仕方がないんだろうけれど。
 明日、俺の世界が終わる。それならどうする。その問いに、すぐに答えが出せないでいた。
「……まあ、そんなもんだよ」
 生前で悔いがあったように、全ての悔いが無く終われるだなんて、そんなわけがない。それが普通なんだ。結局、何もしない。少女への返答と、全く同じことを実行しようとしている。
「……会わない方が、良かったのかなあ」
 ぽつり、と呟いた言葉。頬に、温かい雫が垂れていくのが分かった。
「それは、俺が答えられるものじゃない」
「……そう、だね。ごめん」
 脳裏に、自身の知っている弟が思い浮かぶ。そんな弟が、もう二度と会えないはずだったのに、目の前に現れた。
 また、姿を見れて、一緒の時間を過ごせた自分は、とんでもなく幸せ者なのだ。

「俺は、死んだんだもんな」
「あの子たちに会いにはいかないのかい?」
 この世界に居座る最終日、俺の目の前に管理人さんが現れた。
 手持ち無沙汰でやることが思い浮かばなかった俺は、何の意味も、必要もないと分かっていながらも、本棚の整理をしていた。
「卒業生がわざわざ会いに行くのもどうかと思いましてね」
「おや、ちょっと嫌味が混じってる?」
「貴方の言葉は遠回しすぎる。率直に言ってくれればよかったのに」
「はは、だって君は記憶が無いのに、ここで楽しそうにしてたから。率直な言葉は無粋かと思ってね」
 お茶でも出そうかと、抱えていた本をテーブルの上に置けば、お茶はいらないよと前もって言われてしまった。
「それで、あの子達には会わないのかい? 最近会ってないんだろう」
 彼の言うあの子達、とは、杏哉くんたちのことだろう。今日で最後だから、会わないのかと、彼は単純に疑問気に聞いて来た。しかし、俺の行動も筒抜けだ。最近彼が来ていなかったことも知っている。
 いや、管理人だからこそ、逆に知っていたのかもしれない。生者がこの世界に来るのは普通ではないはずだろうから。ちゃんと見張っていたのかもしれないな。
 小さく笑い声を零しながら、頭の裏を掻く。
「今頃、墓に俺が入れられるんだと思うんですよ。自分が墓に入るの、見たくないし。それを見届けて、居座る度胸も無いですよ」
 自虐的な笑みを浮かべれば、彼はそんな俺とは対照的に、いつものように微笑んだ。
「それは確かに」
 彼は書庫の中をうろうろと動き回っているようだ。足音と声が、毎度毎度違う箇所から聞こえる。
「今までの人は大体ね、時間が足りないとか大慌てで最終日を迎えていたよ」
「確かに、そうかもしれませんね」
「けれど君は全然慌てないからさ。もう、会えなくなるのに」
 最後の言葉を聞いて、己の動きが全て止まったような気がする。
 そんな俺の様子を、彼は察していたのだろう。こつこつと靴の音を鳴らしながら、俺の元までやってきた。
「他の皆さんは、記憶があったんですか?」
「そうだね。大体の人は、現世のことを覚えていた。君、そんなに現世が……あの子達が嫌いだったの?」
「そんなわけっ……!」
「じゃあ、会いに行かないのかい?」
 また同じことを問われる。
 小さく息を飲む。最初に問われたときよりも、空気を吸える量が減った気がした。
「……俺は、もう、死人です」
 伏せていた顔を上げて、管理人さんの方へ顔を向ける。少し垂れ気味の目尻で、俺を真っ直ぐと見る瞳は、俺の動きを、考えを、じっと見張っているようにも見えた。テストを受ける学生を、じっと見張る先生の視線を思い出した。
「会って、彼等にどうすれば良いのか、急に分からなくなっちゃったんです」
 正直に、ぽつりぽつりと呟けば、じわりと目頭が熱くなってきた気がした。
 込み上げてくるものを我慢するように、唇を噛んで、唇が眼のふちの境界線と同化しているように堪えて。
 あの子達との思い出も、これからやりたいことも、沢山あった。
 去年は紅葉を満喫したから、今年は花見でぞんぶんに楽しみたかった。今年は雪が積もったから、雪かき作業と並行して一緒に雪で遊ぶのが楽しかった。
 全部、思い出してしまった。思い出さなければ、俺は、最後の数十日の楽しかった思い出だけで、満足に全てを終えられていたはずなのに。
 思い出してしまえば、悔いが浮かんできてしまう。
「アンタ等の所為だ!」
 これで最後だと思うと、心に封じ込めてきたものを全てさらけ出したくてたまらない。
 俺はばかだ。思い出さなくても支障はないと言われていたのに、自分で記憶を思い出したいと言っていたくせに。苦しんだ理由を、他人に擦り付けている。
 本当にばかだ。最低だ。
 プツリと切れた唇から、じわりと鉄の味が口内に染み込んでくる気がするせいで、じんわりと痛みの様なものを感じてしまう。
 生きて、沢山の事を見て、楽しんで。幸福だから、もっと生きていたいとも思う。しかし、全く同じ理由で、いつこの生を終わっても悔いがないような気もする。
 なのに、いざ生を終えると、案外、あれもやればこれもやればよかったと、記憶とともに蘇って来て。
 満足していたのに。世界が終わるといわれても、とくにやりたいことは無かったはずなのに。今の俺はどうだ。世界が終わる目前となって、悔いが思い出されてしまった。
 どうしてくれるんだと。胸元を握りしめながら、残り少ない時間で何が出来るんだと訴える。

「会いたいんだ?」
 俺の方を指さしながら、管理人さんは笑みを浮かべながら言う。
 俺との温度差、突拍子な言葉に、ポカンとした間の抜けた表情をしてしまう。
「けれど、自分に素直になるのに時間をかけ過ぎだよ。今どきの子は皆こうなのかな」
「まあ、この子は変に捻くれてはいますよ」
 第三者の声に思わず振り向けば、弥生さんが笑みを浮かべながら俺の方へ向かって歩いて来た。
 ずんずんと進んでくるから、俺はとっさに動くことも出来ないで慌てふためいていれば、彼は俺の許可も得ないで、手首を掴んで強引に引っ張る。
「兄弟そろって、素直じゃないよな」
 彼は笑みを浮かべたまま、庭の方へ向かって進む。そして、初めて会った時に手にしていた杖を、どこからか取り出した。
 久しぶりに見たな、と思えば、彼は自身に杖を馴染ませるようにくるくると回してから、コォンと音を響かせ、地面を突いた。土の地面なのに、まるで大理石に固いものが追突したような音がした。
 はじめてのときも、こんな音がしたな。
 この音は、彼の特別な力を示す存在なのかもしれない。
 突かれた先から、水の波紋のような物がどんどんと広がっていく。
 ふっと、鼻に甘く、しかしどこか優美さを含んだ匂いが掠める。次いで、これから日の陽気を吸収するようなそよ風がびゅう、と頬を凪いだ。
 彼が俺を境界に連れてきた時に、時間を巻き戻したのではないかと、錯覚してしまった。
 春の花独特の、服に染み込むような甘い香りに覆われ、しかしそれでも清廉な凛とした空気のある不思議な空間、そんな場所に俺はいた。
 境界で暮らしていた家と、変わらない景色。
 弥生さんが失敗でもしたのだろうか。そう考えると同時に、ふわり、と温かな風が舞った。かと思うと、管理人さんと弥生さんとは別の人影が見えた。
 あの子達は杏の木の元に立っていた。
 俺は、彼等の背中を見る位置に立っている。
 そうだ、ここは、俺の家だ。現世の、俺の家。周りを見渡せば、境界と同じようで少し違う、季節を教えてくれるような草花がぽつりぽつりと咲いていた。
 その中で境界と同じ様に見事に咲き誇っているのは、杏の花だ。
「現世と無理矢理繋げたんだ」
「そんな事も出来るんだね」
 周りを見渡して驚いていれば、弥生さんが自慢げに胸を張る。
「ただ、こっちから向こうに、もう干渉は出来ないよ。お前が駄々をこねたから」
「……充分だよ」
 つまり、もう少し早かったら、最後に彼等と会話くらいは出来たという事だ。全く、人間、素直じゃないと損をする。
「そうしたら、俺達と一緒に、終わりにするんだよ」
「分かった」
 けれど、自己満足、自己中と怒られても、もう、俺には関係ない。
 一歩、二歩、と歩みを進めて、花を見上げている二人の数歩後ろで足を止める。

「俺、お前に言いたいことはあったんだ」
 小さく拳を握って、呼吸を整えて。
 俺の声を聞いても、二人は振り向かない。
「けど、これを言ったら、もう、二人と会えないような気がして、ずっと口に出来なかった」
 ならば、もう告げなくてもいいのではないか、と挫けそうになる自分を叱咤して、震えそうになる唇をこじ開ける。
「ごめんなあ、二人共」
 短い謝罪の言葉が二人の間を通り抜けて、風と共に杏の花びらを攫って空へと舞う。
 謝るのは怖い、と思ったのはいつの事だっただろうか。
 兄弟として共に過ごした幼い頃は、兄弟喧嘩は日常茶飯事で、罵ったり謝ったりは挨拶よりも軽いくらいだった。それが学校と言う組織に放り込まれて、謝罪が挨拶代わりにもなる軽い言葉であると同時に、謝罪に必ずしも許しが帰ってくるわけではないことも、それが原因で壊れてしまう関係があることも知った。
「……杏哉、苺音ちゃん、怒ってるんだろう? 君達、イジケたら俺が呼んでも振り向かなかったもんなあ」
「……知唐、あし、が」
 弥生さんの言葉を聞いて、自身の足元を確認する。
 まさしく幽霊です、と言わんばかりに透けてきていた。それが、最後の最後に俺と言う存在がどういう立場か教えてくれているような気分がして、ふへ、と間の抜けた声を零しながら笑みを浮かべた。
 一歩、一歩と背を向けている弟の元へ向かう。
「分かったんだ。何で君達と会えていたのか。勿論、俺達が死に近かったのもあるだろうけれど、俺が、知らないうちに君達を呼んでしまったんだよね」
「……」
「苺音ちゃんと一緒に遊びに行くっていう、予定を目の前にして、勝手に死んで予定もパー」
 ひゅう、と風が吹く。俺の隣には、いつの間にか弥生さんが立って、俺の手を握っていた。
「杏哉、怒ってたんだよな。……そうだよな」
「知唐……」
「……杏哉、こっち向いてくれよ」
 今更遅いんだよ。そう言われて、殴られるのかもしれない。
 俺はいつだって、素直になるのが遅い。その所為で、こうして未練を残して死んだのだ。
 何度も、弟の名前を呼ぶ。記憶が無かった時に呼べなかった、馴染みのある呼び方で、何度も、何度も。涙ぐんできて、上手く名前が呼べない。
 ぐず、と鼻をすすりながら呼んだ声は聞くにも堪えなかったかもしれない。
 それでも、消えちゃう前に、君に……。
 脳裏に浮かぶのは、生前の、同じ立場だった時の彼と、抱きかかえられていた姪の、揃った可愛らしい笑顔だった。
 そんな笑顔が見れなくて、涙が自然と流れて、唇を噛みしめて、小さく息を飲む。

「二人の歩む道が幸せに満ちた、祝福されたものになりますように」
 ふわり、とこの場に居る全員を包み込むようにして風が舞う。
「杏哉、苺音ちゃん……ごめんね。だいすきだよ。ばいばい」

 それだけ言うと、パツン、とテレビの電源を切れられたように、目の前から二人の姿が消えた。
 現世から、弾き出されてしまったのだろうということを、もう彼等とは世界が違うのだと、ありありと叩きつけられた気分がした。
「……もう大丈夫か?」
「ああ、もう、大丈夫」
 隣に居た弥生さんに問われて、ゆるりと笑みを浮かべる。
 彼もつられて優しい笑みを返して、俺の手を取って引っ張り、そのまま歩き出す。
「どこへ行くの?」
「バス停へ」
「その後は?」
「あの世」
 ああ、案内人として、彼は連れて行ってくれるのだ。本当に優しい人だな。
 腕を引かれて、少しだけ駆け足気味にバス停へ向かう最中、杏の木の方へ思わず振り向く。
 優しくて穏やかで柔らかい、蕩ける様な笑顔を見せてくれた二人。姿は見えないけれど、向こうではまだ居るのだろうな。そう思うだけで、自然と柔らかい笑みがこぼれた。
 二人に出会えて、本当に良かった。


「……兄さん?」
 振り向いた際に聞こえるのはただの風の音。彼はただ、何度も、兄さんと虚空に声を掛け続けるだけだ。
 さらさら、と杏の花びらが舞い上がる様にして散った。

 *

 ゆらり、ゆらり、と身体が左右に揺れる。赤子が親にあやされて眠るような心地よさに、瞼が閉じてしまいそうだ。
 ああきっと、ゆっくりと遠野知唐の幕が閉じられていくのだろうな。
 杏哉、苺音ちゃん。俺はね、君達に謝りたかったし、自分達を大切にしてほしかったんだ。だから、まだここに居たんだよ。
 二人共、頑張って生きるんだよ。
 生きていてくれたらそれでいい。そんな願い事が、何より難しいことを、俺は知っている。
 でも、俺は君達に生きていてほしい。我儘だとでも、何とでも言ってくれ。怒ってくれて良い。それで許されるのなら、いくらでも。
 死んでから気づいたよ。案外世界って、目を配ると味方がいるんだ。きっと、君達の味方になってくれるのが現れる。

 死んだら終わりなんだ。それは誰よりも俺が知ってる。
 生きている“今”を楽しんでほしい。
 そうしたら、いつのまにか大切なものが増えて行って、手放すのが惜しくなるだろう。
 頑張りたくないのに頑張れだとか、死にたいのに生きろだとか、人は自己満足に他人の心を傷つけてしまうけれど。
 誰かに健やかであってほしかったように、君の望みを否定してでも、生きていてほしいんだ。
 自分では何故? と思っても、横に居る人は生きていてほしいと願ってしまう。横にいた人も、実は何故? と思ってるかもしれない。互いに自分を棚に上げているだろうけれど、大切な人には生きていてほしいと願ってしまうんだよ。
 色々な人と改めて向き合って、出逢って繋がって。同じ場所で、同じ時間で、共に過ごして。そんな平和で当たり前な日常を過ごしていたら、心の糸が解けていくみたいに、いつのまにか、いつのまにか、笑い合っている君達を、見られる日がやって来るんだろう。
 優しくて穏やかで素敵な君達と、少しでも一緒に過ごすことが出来た。それだけでどんなに幸せか、君達に伝わるだろうか。
 せめて願わせてほしい。

 幸せになってほしい。
 
 好きな人や物に囲まれてさ、新しい歳を迎えたりするんだ。
 何も心配しないで良いよ。心を、気持ちをさらけ出して。この世界には個性あふれる人が沢山居る。君達の事を待っている。色々な所へお出かけしてみたりして。
 この世界は、思ったより君達の味方なんだって、やっぱり分かってほしいから。

 生きて、生きてよ。俺も、正直、生きたかったんだ。
 君達と色々なところを遊びに行きたかった。優しくしたかった。話をしたかった。まだまだしたいことたくさんあるんだ。
 だから、二人共。

 またね。