クールダウンしてきたところで、紫織が、「そろそろ寝る?」と言ってきた。
「まだちょっと早い気もするけど」
涼香と紫織は、同時に壁時計に視線を向ける。
十時を回ったばかり。
ちょっとどころか、普段の涼香は今頃が一番フィーバーしている。
「眠くなった?」
紫織に訊くと、「全然」と返ってくる。
「てゆうか、さっきのですっかり目が覚めちゃったし」
「あらあら、紫織ちゃんには刺激が強過ぎましたな」
「――刺激が強いとかどうとかって以前の話でしょ……」
紫織は盛大に溜め息を漏らし、ベッドに潜り込んだ。
結局寝てしまうのか、と思ったが、違った。
「――涼香」
肩まですっぽりと布団を被った紫織が、ベッドの下にいる涼香を見下ろす。
涼香は床に直に敷かれた布団の上で胡座をかきながら、黙って紫織に視線を注いだ。
そのまま沈黙が流れた。
涼香は紫織が何かを言うのを待ち、紫織は紫織で、相変わらず涼香を見つめ続ける。
時計の針の音が煩いほどにカチコチと部屋中に響いている。
このまま、互いに口を開くことなく眠りに就いてしまうのだろうか。
そう思っていた時だった。
「今、好きな人とか、いる?」
遠慮がちに訊ねられた。
涼香の心臓がドキリと跳ね上がる。
だが、努めて冷静を装い、「どうだと思う?」と逆に訊き返した。
「――ごめん……」
紫織が謝罪を口にした。
どうやら、涼香の反応を拒絶だと受け止めたらしい。
涼香は微苦笑を浮かべ、ゆっくりと立ち上がって紫織の頭の側に腰を下ろした。
「今日まさに、偶然再会したよ」
主語はあえて抜かした。
だが、紫織は誰かを察したようだ。
半身を起こし、涼香と並んで座り直すと、まじまじと視線を向けてきた。
「まだ、好きだったんだ……」
「呆れてる?」
肩を竦めながら問うと、紫織は首を横に振った。
「私だって、ずっと長いこと宏樹君に片想いを続けてたから。でも凄いね。涼香と朋也が再会したのって。だって、お互い連絡先は知らないんでしょ?」
「そりゃあね。そこまで親しい間柄だったわけじゃないし。ああでも、今日ご飯食べてから携帯番号とメールアドレス交換したわ」
「いつの間に……」
「ビックリした?」
「ビックリするに決まってるじゃない……」
紫織はそう言ってから、「でも」と満面の笑顔を見せながら言葉を紡いだ。
「ほんとに良かった。これがきっかけで距離が縮まるんじゃない?」
「だといいけどねえ」
涼香は上体を反らせ、足を組んだ。
「世の中、そんな都合のいいように出来ちゃいないからねえ。それに、私は別に高沢と深い関係になりたいなんて大それたことは思ってない。ほんのちょっとでも、私の存在が高沢の中に残ってくれれば充分だと思ってる」
「そう、なの……?」
「うん」
「そっか……」
紫織は少し哀しげに笑みを浮かべる。
「私、よけいなこと言っちゃったかな?」
「よけいなこと?」
怪訝に思いながら訊ねると、紫織は一呼吸置いてから口を開いた。
「『距離が縮まる』なんて軽率なこと言っちゃったから……」
涼香は呆気に取られ、けれどもすぐに声を上げて笑った。
「あっははは! そんなの軽率でも何でもないって! てか、紫織は昔っから細かいこと気にし過ぎだっての!」
「でも……」
「これ以上、『でも』はなし!」
そう言って、涼香は紫織の唇に人差し指をくっ付けた。
「正直言うと、紫織に今日の惚気話を聞いてもらおうと思ってたんだからさ。紫織がいいタイミングできっかけを作ってくれたから、こっちはラッキーだったわよ。つっても、私の話なんて大したもんじゃないけどね」
それでも興味ある? と訊くと、紫織は勢い良く首を縦に振り続ける。
「何でも話して! ほんと、涼香と朋也ってどんな会話するのか全く想像付かないから! すっごく興味ある!」
過剰なまでに期待されている。
とはいえ、『大したもんじゃない』と前置きしているから、オチも何もない話にも喜んで耳を傾けてくれるだろう。紫織はそういう人間だ。
しかし、以前は紫織の恋愛話ばかり聴いていたはずだったのに、今はすっかり立場が逆転している。
紫織の場合、収まるべき所に丸く収まって落ち着いたからというのもあるのだが。
結婚はまだのようだが、どこか余裕は感じられる。
泣いている姿を何度も見ていただけに、本当に大人になったな、と改めて実感する。
(私はいつまでもガキのままだな……)
涼香の話を頷きながら聴いてくれる紫織を前に、涼香は思った。
[第三話-End]
心の底から合コンなんてものは参加したいとは思わなかった。
だが、充からの強引な誘いで、仕事が終わってから渋々出ることを了承させられてしまった。
「俺、二次会とかあってもぜってえ出ないからな?」
合コン会場になっている居酒屋に向かっている間、朋也は何度同じことを充に言っただろうか。
だが、当の充は、「分かった分かった」と、明らかに適当に返事をしている。
だからこそ、しつこく念を押してしまう。
「ほんとに気が進まねえな……。つうか、俺はただの人数合わせだろ? 他にいなかったのかよ?」
「他にも何も、女子達がお前をご指名だったんだから仕方ねえだろ」
「はあ? なんで俺が指名されるわけ……?」
「自覚がまるっきりねえな……」
「どういう意味だよ?」
「言ってる通りだ」
「だからそれが分からないっつうの……」
「かあーっ! お前ってほんと罪な男だねえ!」
嘆かわしい、と充が大袈裟に頭を振る。
朋也は朋也で、やっぱり充の言わんとしていることが理解出来ずにいるから頭が混乱していた。
(ただでさえめんどくせえのに、まためんどくせえ……)
そう思っている間に、目的の居酒屋に到着した。
充が先頭になって引き戸を開けると、ほどなくしてそこの従業員が駆け寄ってきた。
充はそこで予約していた人物の代表名を告げ、従業員は復唱してからふたりをその場所まで案内してくれる。
通された広めの個室には、男子三人と女子五人が先に待機していた。
「おっせーぞ!」
幹事と思しき男子が、挨拶もそこそこにふたりに言ってくる。
何となく、すでに出来上がっている様子だ。
「お前、先に飲んじまったのか……?」
充が問うと、幹事男子は「ちょーっとだけな」と答える。いや、絶対ちょっとじゃねえだろ、と朋也は心の中で突っ込みを入れた。
「ま、これで無事全員揃ったし、そろそろ始めようか?」
ピッチャーで注文していたビールをそれぞれ注ぎ、乾杯の音頭とともに一斉に飲み始める。
朋也も充分いける口だから、なみなみに注がれたビールを一気に半分以上飲み干した。
いったい、どんな面子なのだろうと思っていたら、何のことはない。
女子は全員、同じ会社の人事や経理、総務に所属する人間だった。
しかも同期だから、何となくではあるが、入社時の研修期間中に見たことがあるような気がする。
ただ、わりと大きめな会社だから、よほどのことがない限りは、同じ部署の人間と関わる機会は非常に少ない。
だからこそ、彼女達の顔を見ても、〈何となく〉でしか思い出せない。
元々、朋也が紫織以外の女子に関心を持たないからというのもあるにはあるのだが。
「ねえねえ高沢君、私達のこと憶えてる?」
女子の中でも一番積極性のありそうな人物が、身を乗り出す勢いで朋也に訊ねてくる。
朋也は温くなったビールをちびちびと流し込みながら、その女子を一瞥した。
「まあ、ちょっとだけ……」
つい、馬鹿正直に答えてしまった。
だが、その女子は気分を害した様子はなく、むしろ、「やっぱあんまり憶えてなかったんだねえ!」とケラケラ笑っていた。
「高沢君ってさ、すっごくクールで私ら女に全く関心なさそうだったもん。けど、そうゆうトコが結構良かったんだけど」
「く、クール……?」
「うん。若いのにちょっと大人びた印象があった」
マジかよ、と思っていたら、隣から、ククク、と忍び笑いが聴こえてきた。
笑い声の主は考えるまでもない、充だ。
(こいつ……!)
朋也がキッと睨み付けるも、目が合った充はさらにツボにはまったらしく、とうとう声を上げて爆笑した。
「いやいやいや! そりゃねえわ! こいつ大人ぶってるようだけど中身は純情少年そのものだぜ? ちょっとからかうとムキになるから面白いんだこれが!」
言いながら、またさらにヒイヒイと笑い続ける。
確かに言っていることは的を射ているが、完全に馬鹿にされているとしか思えないから、納得するどころか苛立ちが募る。
朋也は拳を握り締めた。
一発ぶん殴ってやろうかこいつ、と思ったが、何度も深呼吸を繰り返し、何とか心を落ち着かせた。
「でも、そうゆう高沢君もいいよ」
朋也と充、ふたりのやり取りを見守っていた女子が、頬杖を突きながら訥々と続けた。
「つまり、高沢君ってちょっと不器用なんでしょ? クールに振る舞ってしまう人に多い気がするし。私、そうゆうギャップって好きよ」
深い意味はなかったと思う。
しかし、恥ずかしげもなく、サラリと『好き』などと口に出してしまうのは如何なものだろうか。
これには朋也だけではなく、充までも固まってしまった。
「あれ、私なんか変なこと言った?」
呆然としている男ふたりに気付き、女子が首を傾げながら訊いてくる。
「あ、いやあ、別になんも変なこと言ってねえよ。なあ?」
充に振られた朋也は、我に返って、「あ、ああ」と同意する。
喉の渇きも急に覚え、残っていたビールを一気に飲み干した。
「俺、ちょっとトイレ」
充が思い立ったように腰を上げた。
残された朋也は、近くにあったピッチャーに手を伸ばしかけた。
「手酌なんてしたら出世しないわよ?」
朋也よりも先に、女子がそれを取り上げた。
そして、朋也に向けてそれを傾けてくる。
朋也が無言でグラスを持つと、女子は上手にビールを注いでゆく。
「ねえ、高沢君」
ピッチャーを元に戻してから、女子が真っ直ぐな視線を向けてきた。
朋也はグラスに口を付けた状態で女子を見返す。
「メールアドレス交換しない?」
いきなりの申し出に、危うくビールを噴き出しそうになった。
だが、そんな朋也にお構いなしに女子は続ける。
「別に深い意味はないから、友達になってくれればって思って。ついでに私の名前もちゃんと教えとく」
朋也が返事をする間も与えず、女子は自分のバッグから手帳と携帯電話を取り出した。
手帳を開き、携帯画面を見ながらメモする様子を、朋也はジッと見守る。
ほどなくして、女子が手帳の一部を破き、それを朋也に渡してきた。
考えるまでもなく、携帯番号と名前が記載されていた。
「井上誓子さん、でいいの……?」
間違っていては失礼だと思い、恐る恐る確認する。
女子――誓子はパッと表情を輝かせ、「そう!」と大仰に頷いて見せた。
「やっと憶えてもらえたわあ! あ、私のことは『誓子』って呼んでいいから!」
誓子はそう言ってきたものの、いきなり下の名前でなど呼べるわけがない。
紫織のように子供の頃からつるんでいれば別だが、誓子とは面識がないといっても過言ではないのだ。
そもそも、高校からの知り合いである涼香ですら、苗字で呼ぶだけでもかなりの勇気が必要だった。
「まあ、そのうちに……」
曖昧に濁すのが精いっぱいだった。
誓子は是とも非とも答えなかった。
代わりに、朋也の表情を口元を緩めながら眺めている。
(どうも調子狂うな……)
朋也は誓子から視線を逸らすと、再びビールを飲み始めた。
そのうち、充が戻ってきたタイミングで誓子は朋也の側を離れ、別のグループの元へと行ってしまった。
◆◇◆◇
合コンという名の飲み会は二時間で終わった。
だが、今度はカラオケに行きたいと数人が言い出し、そのまま自然に全員がカラオケ店に向けて歩き出す。
朋也は悩んだ。正直、人前で歌うのは苦手だし、何より一次会だけで疲労が溜まっている。
仕事でも充分疲れるが、気疲れはその比ではない。
「あ、あのさ……」
場の空気を壊すのを覚悟で、朋也は意を決して切り出した。
「わりいけど、俺先に帰るわ。明日早いし……」
案の定、白けた雰囲気となった。
やばいな、と思いつつ、かと言って、一度出てしまった言葉は取り消しが利かない。
「ほんっとにごめん! じゃな!」
逃げるが勝ち、とばかりに、朋也は素早く踵を返し、脱兎のごとくその場を去った。
もう、これから先のことは知ったことじゃない。
女子には完全に嫌われただろうが、そんなのはどうでもいい。
むしろ、最初から合コンなんて参加したいとは思っていなかったのだから。