「三日月さんっ……!」
緩やかな上り坂を全良疾走して、目の前の女の子に声をかける。
僕の声にピタリと立ち止まるのを確認して、ホッと安堵した僕は、はあはあ、と膝に手をついて息を整えた。
「……向葵…くん?」
おそるおそる僕の名前を呼ぶ声に、聞き覚えがあった。
やっぱり、見間違いじゃなかった。
「三日月さん」
肩で息をしながら顔を上げると「なんで」僕の顔を見て困惑する。
「どうしてここに?」
「あ、えと、それは……」
焦点が定まらない瞳と、歯切れの悪い声。
いつもならそんなことありえないのに、今日の三日月さんは何かを隠しているようでならない。
ただの風邪で休んでいるなら、素直にそう言えばいいのに。どうして言葉を詰まらせるんだろう。
やましいことがあるから、そうとしか考えられなかった。
「もしかしてそれ、薬?」
左手に下げている小さな袋を、僕が尋ねると「う、うん」とぎこちなく答えたあと、ササッと後ろへ隠す。
僕に見られたらまずいものなのだろうか。
僕は、何も聞かない方がいいのだろうか。
今までの僕なら、それ以上相手に踏み込んだりしなかっただろう。
けれど、三日月さんは堂々と土足で僕の心に踏み込んできた。おかまいなしに。
だったら、
「ねぇ、三日月さん。僕に何か隠してることない?」
僕も、踏み込ませてもらうよ。
きみが、僕にしてみせたように。
「え、隠してること? やだなー。そんなこと、ないよ……?」
笑って誤魔化しているようだったけれど、わずかに目線が下がった。それを、僕は見逃さなかった。
「嘘でしょ、それ」
「え? だから嘘じゃないって…」
もう何言ってるの、誤魔化して逃げようする彼女に「だって三日月さん」言葉を続けた僕は、
「いつも僕と話すとき、目を見て話す。先に逸らすのは、いつも僕だった。でも今は逆。三日月さんが先に逸らしたんだよ」
決定的な証拠を突きつけると、下唇をわずかに噛んだ。
やっぱり何か隠してるんだ……。
「ねぇ、三日月さん。僕に話してくれない?」
「だ、だから何を」
「三日月さんが抱えてるもの」
気づいたら僕は、そう言っていた。
「え」困惑した彼女は、僕を見上げた。少しだけ、震えているような瞳で、真っ直ぐに。
「僕、この前の三日月さんの言葉が気になったんだ。ううん、多分それよりもずっと前。何か、引っかかってた。三日月さんのこと」
どうしてそんなことを言ってしまったのか自分でもよく分からなかった。
でも、
「決定的なのは、この前の言葉。『限りある命の中で私は一生懸命自分が生きた証を残したいの。こんなに楽しい人生だったんだよって、みんなに残したいの』って。それが僕、引っかかってて……」
あのときの僕は、そのあとに『それ聞いてると、まるで三日月さんがいなくなる前提みたいに聞こえる』そう答えた。
そして、三日月さんは少しだけ黙った。
「もし何か隠してるようなら…」
「──何もない!」
僕の言葉を遮った、大きな声。びっくりして言葉に詰まらせていると、
「ほんとに何もないの」
俯いて、顔がよく見えなかった。
泣いているのか、怒っているのか、それすらも分からない。
「ただの、風邪。なかなか治らなくて病院に行っただけなの、ほんとに」
ポツリポツリと紡がれる言葉は、思っていたよりも冷静で、冷たくて。
「私、まだ風邪治ってないから、もう行くね」
僕の目を見ないまま、横を通り過ぎる。
「待って!」
咄嗟に掴んだ手は、思っていたよりも冷たい。
外はこんなに暑いのに。
「ごめん、離して」
僕を拒絶しているような声色が落ちる。
でも、今離してしまったら二度と後悔するような気がして。
「嫌だ」
「お願い、向葵くん」
僕は、ぎゅっと力を込めた。
逃げられないように。
恥ずかしいとか、そんなのもう関係なくて。
「お願い…」
ふいに、僕の手に触れる。
その手はわずかに震えている気がして、僕は「三日月さん?」声をかける。
冷たくて、真っ白な色をしていて。
「早く、離して…」
途切れる声に、さすがの僕も違和感を覚えて彼女の顔を横から覗き込むと、蒼白な顔が見える。
わずかに顔を歪めて、早く、と言葉にならない声を呟いて。
僕の視界でグラついた彼女は、僕の方へ寄り添うように倒れてくる。
「みっ、三日月さん?!」
しゃがみ込むように抱きしめると、目を閉じたまま眉間にしわを寄せて、唇を噛みしめて。何かに耐えるような表情を浮かべる。
僕は何度も何度も声をかけるけれど、返事がなくて、怖くなった僕はあたりをキョロキョロ見渡す。
けれど、タイミング悪く誰も人が歩いて来ない。助けを呼ぶことができない。
どうしよう。三日月さんが苦しそう。僕はどうすれば……
でも、このままじゃダメだ。
「三日月さん、ちょっとごめんね」
彼女の膝の裏と背中に手を添えて、一気に持ち上げる。
非力な僕でもなんとか持ち上がる。
つらいとか、苦しいとか、そんなの全部どうでもよくて。とにかく彼女を救いたいと思った。
だから僕は、他のものには目も暮れず病気へと走ったんだ。
病院に駆け込むと、すぐに看護師さんたちが集まってくれた。
「三日月さんが倒れた」
僕がそう告げると、どこからともなく担架がやってきた。彼女を担架で運びながら、僕はそのあとを駆け足で追いかける。
それから一室に運び込まれた彼女。
「きみは、ここで待っていて」
処置をしている間、僕は廊下で待った。
五分、十分、二〇分と過ぎる。
僕の目の前を行ったり来たり慌ただしい看護師さん。「あのっ」たまらず声をかけた僕。
「……三日月さんは、ただの風邪じゃないんですか?」
聞かずにはいられなかった。
彼女を抱きかかえたときの軽さが、いまだに手のひらに残っている。
あまりにも軽くて、消えてしまうんじゃないかと怖かったから。
「きみは、彼女のご家族ですか?」
「あ、いえ……友人です」
ぎこちなく答えると、そう、と眉を下げながらチラッと腕時計に目を落としたあと。
「ご家族以外の方に彼女の容態を教えるわけにはいかないの」
「容態? 三日月さん、どこか悪いんですか?」
「ごめんなさいね。何も教えられないの」
僕の問いかけに答えることもなく、慌ただしくパタパタと音を鳴らしながら駆けて行った。
その音だけが虚しく響いて、嫌に耳にこびりついていた。
ただの風邪ならこんなふうに看護師さんが慌ただしくなるはずがない。
ただの風邪なら“容態”とは言わない。
だとすれば、彼女には何か秘密があって……
それを三日月さんは、僕にずっと隠してた。
そしてさっきも隠そうとしていた。
一体、何を……?
「三日月さん………」
僕は、すごく怖かった。
このまま三日月さんと話せなくなってしまうんじゃないかと。
怖くて、手が震えた。
抱えた身体の軽さも、少し低い体温も、苦しそうな息遣いも、全てが鮮明に残っている。
それからしばらくして先生が出てきた。僕を見て、軽く微笑んだ。
「あのっ、三日月さんは……」
「大丈夫ですよ」
落ち着いた声を聞いて、ホッと安堵する。
一気に身体の力が抜けた。
「今は、薬も効いてぐっすりと眠ってます」
「そう、ですか……」
……よかった。
さっきは、すごい苦しそうだったもんな。
「きみが彼女の近くにいたのかな?」
「あ、はい、たまたま偶然ですが…」
そうかそうか、軽く何度か頷いたあと、
「きみが気づいてくれてよかった。ほんとにありがとう」
僕の肩をポンッと叩くと、先生は慌ただしくどこかへ歩いて行った。
けれど、僕はお礼なんて言われる筋合いはない。
だって、嫌がる彼女を僕が引き留めたんだから。そして、急に顔を歪めて苦しそうにした。
だから、僕が原因なのかもしれない。
そんな僕は、何もできず、
ただただ、遠さがる後ろ姿を見つめることしかできなかったんだ──。
*
三日月さんが倒れてから、しばらく経つけれど、やっぱり学校は休んだままだった。
さすがのみんなも心配して、特に藍原なんてこのところ元気がなかった。
──ピコンッ
昼休み、中庭で弁当を食べているとベンチに置きっぱなしのスマホが音を立てる。
行儀が悪いと思ったけれど、箸を加えたままスマホを手に取った。
「えっ……」
相手は、三日月さんからで。
僕は咥えている箸を掴むと、弁当箱の上に置いた。
【 向葵くん、この前はごめんなさい。
やっと心が決まったので、ぜんぶ話します。
だから放課後、病院の五階の三〇九号室に
来てください。待ってます。】
……ぜんぶ、話す。
文面を見て、嫌な動悸が加速した。
怖かった。逃げたかった。
けれど、三日月さんは勇気を出してくれたんだ。僕と、向き合おうとしてくれたんだ。
だから僕が今ここで逃げたらダメだ。
【分かった】
打っては消して、打っては消してを繰り返しで、たった四文字を打つのにかなり時間がかかった。
それに既読が付いた頃、昼休みの終わりの合図のチャイムが鳴る。
学校が終わって僕は病院へと向かった。
エレベーターで五階まで行って、三〇九号室を探しながら長い廊下を歩いた。
【 三〇九号室 三日月 ひまり】
視界に入ったその名前を見て、ピタリと足が止まる。
この奥に三日月さんが……
コンコンッ、二度ノックをすると「はい、どうぞ」聞き覚えのある声が聞こえた。
すーはー、と息を整えてから僕は、ドアに手をかけた。
すぐに三日月さんの姿が見えて、小さくホッとしていると、
「呼びつけちゃってごめんね」
しおらしい態度で違和感すら覚えた僕は「あ、いや」と目を逸らす。
心なしか、少し元気がない。
締め切ったドアの前で立ち尽くしていると、こっち、と言ってベッドの脇に置いてある椅子に指をさす。
言われるがまま僕は、足を進めて静かにそこへ腰掛けた。
何を話せばいいのかな。僕はそんなことを考えて、しばらく口を閉ざしていた。
そんな空気を気遣ってか、小さく、クスッと笑って。
「向葵くん、元気にしてた?」
「……あ、う、うん」
目線を下げたまま返事をすると、そっかよかった、と声が落ちてくる。
「三日月さん…」逆に尋ねようと思った。けれど、今の状況を見てハッとして口をつぐむ。
元気なら、入院してるはずがないと思ったからだ。
「ごめん、何でも、ない」
手ぶらで来てしまった僕は、少し場違いだ。
花とか、果物とか持って来ればよかった。
「やっぱり、向葵くんは向葵くんだね」
そんな僕を見て、彼女はそう紡いだ。
困惑した僕は、え、と声をもらしながら顔をあげる。
そしたら「ようやく目が合った」と笑って、
「向葵くん、何か言いにくいことがあるとすぐ目を逸らして誤魔化すんだもん。すぐ分かる」
僕を見て微笑んだ彼女は、少しだけ痩せたように見えた。
どうしたの? 何があったの? 聞きたいことはたくさんあった。
でも、のどの奥に詰まったまま声が出なかった。
「この前は、あんな態度取ってごめんね」
僕の代わりに先に封を切ったのは、三日月さんの方だった。
「どうしても向葵くんには知られたくなくて」
眉尻を下げて悲しそうに笑う彼女は、いつもより弱々しく感じる。
ついこの間まで制服を着て、楽しそうにはしゃいでいたのに、今は病院服で。
「私ね」言いかけた彼女は、一瞬言葉を詰まらせたあと、ふう、と息を整えて。
「病気なんだ」
その言葉が、僕に重たくのしかかる。
「病気……?」
「うん。頭の中に腫瘍があるの。それを取り除かないと命に関わるんだって」
“命に関わる”と言うわりには、淡々と言葉を告げていて、
「腫瘍の近くに神経がたくさんあってとても難しい手術なの。だからね、手術をしたら記憶を忘れてしまうかもしれないんだって。ぜんぶ」
まるで他人事のように、言葉を紡いだ。