すると暇そうにスマホをいじっていた隣の席の葉田が、「あくびもため息も随分でかいな」とふいに話しかけてきた。
上半身を机に預けたまま、顔だけ右に向ける。
「だから生理現象だっつーの…」
「さっき愛未にも同じこと言ってたな。でもいくら生理現象って言ってもある程度は自分でコントロールできるだろ」
さらっと出てきた1つのワードに引っ掛かったけれど、「なぁ、さっきの授業のノート貸してほしいんだけど」とその引っ掛かりは一旦スルーした。
「あぁ、ちょっと待って」
机の中に手を突っ込み、古文のノートを捜索するその姿をぼんやり眺めていたら「てか、雨宮のこと下の名前で呼んでるんだな」と自然に口走ってしまっていた。確かに一度はスルーしたはずなのに、結局その引っ掛かりを無視することはできなかった。
内心焦ったけれど、「あー、俺あいつと中学同じでさ。人数がめちゃくちゃ少ない学校だったし、なんつーのかな…内輪感みたいなのが強くて、みんな割りと普通に下の名前で呼び捨てとか、あだ名とかだったんだよ」とあっけなく種明かしをされて、自分の中に生まれたおかしな焦りは最初から無かったことにしようと思った。
「なるほどな。確かに雨宮、山の中にある中学に通ってたって前に言ってたわ」
「山の中はさすがに盛りすぎだな。正確に言うと山のふもとだな」
「え、同じだろ。どっちにしろ田舎ってことじゃん」
「森下、確実に馬鹿にしてるな」
もちろん馬鹿にしている。冗談から外れない域で。
俺の知らない中学時代の雨宮は、どんなだったのだろう。その頃から飴配りの活動をしていたのだろうか。
でも中学校だと基本的に、菓子の類だとかスマホだとか、授業と関係のない物の持ち込みは禁止されていたような気がする。自分が通っていた学校はそうだった。
「…なぁ、あいつがちょくちょく飴くれるのって、高校入ってから?」
「あー…あれね。何なんだろうな。どこぞの老人かって感じだけど、少なくとも中学の時はやってなかったよ」
「老人っておい」
「でも老人だったらみかんとか…あとはいちごとかか。愛未は絶対レモンだもんな。レモンはいまいち老人感無いよな」
俺は心の中でぎょっとして、でもそれをなるべく表情には出さないようにして、改めて冷静に尋ねた。
「いつも、レモン?」
「だろ?バリエーション増やしたほうが良さそうな気もするけど、そこら辺は不平等が生まれないようにとかって意識でもしてんのかな。それか老人感じゃなくてあくまでJKのフレッシュ感を出すために、レモンで統一?」
「…なんかとんちんかんな考察になっていってるような気が」
「俺も自分で言っててよく分かんねえわ」
とりあえずこれな、とノートを手渡された所でなんとなく会話もフェードアウトしてしまった。男同士で話す特に意味のない会話なんて、大抵そんなものだ。
今回に限り、その内容自体は俺にとって重要案件ではあったけれど、それはあくまで俺自身の問題だ。
とにかく、1つの疑惑がよりはっきりとしたものになった。
雨宮が人にあげる飴は、レモン味。でも俺は、レモン味を一度も貰ったことがない。苺味しか、貰ったことがない。
その差というか理由というか、それって一体何なんだ?
今日の午後の授業も相変わらず眠かった。
けれど今日は自分にしては珍しく、すぐには降参しないで睡魔と戦った。ただ、どうにかこうにか打ち勝ったとは言え、それはそれで眠気が残るから後味は正直良くない。一度しっかり意識を無くしてしまったほうが、起きた後それなりにすっきりするような気がする。
なんて持論をぼんやりした頭で繰り広げながら、帰り支度を始める。
長い1日からの解放、さらには長い1週間からの解放でもある今日は金曜日。
とは言っても、週末の過ごし方もいつも同じようなものだ。部活の休日練習に顔を出すか、家でだらだら過ごすか。悪くはないけど、かと言って特別何か楽しみがあるわけでもない。可もなく不可もなく、平々凡々。
まあ、何でも普通が1番だ。そこそこでいい。
と思っていたのに、リュックのチャックを開けたところで、その半分寝ぼけたような平和的な気持ちが若干乱れた。
目に飛び込んできたのは、前払い済みの貸し出し用ノートだった。
今日の時間割に古文は無かったけれど、貸すことを約束させられた以上、よっぽど嫌でもない限りそれは守るのが道理だ。
土日を挟む前に渡しておこうと思って今日持って来たのを、今の今まですっかり忘れていた。
そのノートを使って目の前の背中を軽くつつく。「ひっ」と一瞬変な声を出し、顔を小さくしかめながら雨宮が振り向いた。
「ねえ…急にやめて?心臓に悪い」
「いやただのノートじゃん。刃物突きつけられたみたいな反応するなよ」
「背後からそういうことするのほんと良くないよ」
「案外ビビりなんだな」
そういうことじゃなくてね、と目を細めながら雨宮は俺を睨んできたけれど、差し出されたノートを見てその表情をぱっと変えた。
「そうだそうだ、貸してってこないだ言ったもんね。さすが雨宮専属のノート係、何だかんだ言いつつ仕事はきっちりやるよね」
「何で微妙に上から目線なんだよ」
という俺の言葉なんてまるで聞こえてないかのように雨宮は平然と受け流し、ノートをぱらぱらとめくりながら、「あー…これくらいの量なら今ささっと写しちゃおうかな」と呟いた。
「別に今じゃなくても。ノート返すのなんて来週でいいよ」
「だって月曜日に古文の小テストあるじゃん。ノート無いと休みの間に森下が勉強できなくなっちゃうでしょ」
「俺小テストの前に勉強とかしたことないんだけど…てかテストあること自体忘れてた」
「もう、そういう所が森下のダメポイントだよね」
「ずいぶんはっきり言うな。じゃあそんなダメな奴からノート借りてる雨宮ってどうなの?」
「はいはいもううるさいな。とにかくすぐ写しちゃうからちょっと待ってて」
強制的に会話を終了させて、雨宮は身体の向きをくるりと前に戻してしまった。そして本当にそのままノートを写し始めた。
そのうち担任が教室にやって来て帰りのホームルームが始まったけれど、その間も雨宮はお構いなしにシャーペンを走らせ続けた。
特別な連絡事項だとか配布物の類が無ければ、ホームルームなんていうものは一瞬で終わってしまう。
日直当番の号令を合図にガタガタと席を立ち、部室へ、グラウンドへ、もしくは家へ、それぞれがそれぞれの場所へと散る。
「ごめん、ほんとあとちょっとだから待てる?」と手を合わせてきた雨宮と、「そんな急がなくてもいいけど」と答えた俺は、再び椅子に腰を下ろした。
俺自身この後はと言うと部活だけれど、着替えるために部室に行っても結局そこでだらだら喋っている時間がいつも無駄に長いのだ。だから多少そこに遅れた所で特に問題はない。
先輩達が揃って引退してからというもの、どうにも部の空気が緩んでいる。上に立つ人がいなくなった以上、仕方のないことなのかもしれない。そしてまた自分達2年生と後輩の1年生の距離感が妙に近く、馬鹿みたいなことで笑って一緒になって騒いでいる。
要するに、運動部の割りにはゆるっとしている部ということになるらしい。だから、部活に手を抜いている適当な奴ら、なんてよその部の連中から裏で言われていることもある。
確かにハードだとかキツいだとか、そういう雰囲気からは縁遠いのかもしれないけれど、かと言って部外者からあれこれ言われる筋合いもない。練習そのものは自分達なりに真剣にやっている。
おもむろに席を立ち、俺らの陰口を言っているのは大体あの辺だろうな、とグラウンドにちらちらと姿を現し始めた野球部や陸上部を窓越しに見やる。
どこか遠くから、金管楽器やら木管楽器やらが入り混じった音が聞こえてくる。
俺と雨宮以外にも何となく教室に残って駄弁っているクラスメイトがいたけれど、だいぶ閑散としていた。
周りを取り巻く空気の全てが、放課後のそれへと入れ替わっていた。
余談だが、今せっせとノートを写している雨宮は帰宅部だ。
「あ、森下、ここ漢字間違えてる」
「え、どこ」
机の上に広げられたノートを覗き込む。
とその時、妙に馴染みのある匂いが、ふっと鼻の辺りを通り過ぎた。
そのたった一瞬でもこうして分かってしまうくらい、はっきりと濃く、そして甘い。今自分の口の中にそれがあるわけでもないのに。
参ったな、と少し途方に暮れたくなった。
「飴、舐めてる?」
「え?あー、うん」
それは、苺の香りだった。
「まあ正確にはもう溶けて無くなっちゃったけどね。でも舐め終わった後もすごく残るんだよね、味とか、匂いとかも」
「いつも俺にくれるやつ?」
「そうそう。あの苺の飴ね、私すっごい好きなの」
へえ、とか、ふうん、とか適当な返事をしながら、雨宮の隣の空いている席を拝借して、そこに腰を下ろした。なるべく自然な動作で。
そう、不自然さは生み出したくなかった。その苺の飴って俺以外にもあげてんの?なんていうド直球な質問は、やっぱり不自然に値してしまうのだろうか。
でも、ここまで来たらもう思い切って聞いてしまいたい。曖昧なままでいい、そんな風に今までは思っていたけれど、そんなのは嘘だ。嘘と言うべきか、逃げと言うべきか。
「…俺もあれ好き」
「ほんと?なら良かった」