「……のさきくん!」
あ、俺か――と思ったのは数歩進んでからだった。立ち止まると同時に隣に現れたメガネの女子――大和若葉だ。駅から出てくるうちの生徒たちが左右を通り越していく。
「あ……と、おはよう」
教室でも小さなあいさつしか交わしたことがない大和が今朝はわざわざ声をかけてきた。それくらい大事な――彼女にとって――用があるということか。一瞬、俺に輪をかけて社交的ではなさそうな大和と上手く話せるか不安がよぎったけれど、用事があるのは彼女の方なのだから、と思い直す。
「あの、劇の役のことなんだけど」
歩き出してすぐに用件を切り出されてほっとする。
「びっくりしたよね? ごめんね」
うつむいたまま、大和は言った。きのうの熱心さは影をひそめ、視線を落としている様子は教室で見慣れた姿だ。
「そうだね。びっくりした」
自然な声が出て、自分が思いのほかリラックスしていることに気付いた。
「自分に声がかかるとはまったく思ってなかったから。はは」
宗一郎に指摘されたように、他人事だと思っていた。俺を見ている誰かがいるなんてほんとうにびっくりだ。
そっと大和が顔を上げた。その視線が何かを確認するように俺に据えられたと思ったら、また下がった。
「鵜之崎くん……、たぶん苦手だよね、舞台に上がることとか」
「ああ……、まあ、そうだけど……、もう覚悟ができたから大丈夫だよ。やることはちゃんとやるから」
笑顔をつくって答えたのに、彼女は驚いたように見返してきた。俺の答えが予想と違っていたのか? 謝罪しにきてくれたのかと思ったけれど、この反応は、何か別な用事があるということか。
――あ。
もしかしたら。
俺が舞台に上がるのが苦手だということを確認されたということは、それが前提の話だ。
「あ、あのさ」
期待で少し早口になる。しぃちゃんと話していくらか前向きな気分になったとは言え、やっぱり。
「もしかして、俺、出なくてよくなった? あの役、誰かほかのヤツがやってくれるのかな?」
きっとそうに違いない。なのに俺が覚悟ができたなんて言ったから、「やっぱりほかの人に」とは言い出しにくくて困っているんだ。
「それなら全然気にしなくていいよ。俺、恨んだりしないし。たぶん、誰でも俺なんかよりもずっと上手くやれるんじゃないかな。絶対そうだよ。うんうん」
しゃべっているあいだに大和の目がだんだん見開かれて――。
「ごめんなさいっ」
「お?!」
思い切り頭を下げられて驚いた。思わず身構えた俺を見上げた表情がきのうとダブる。大和はいつも真剣で一生懸命だ……。
「ごめんなさい。やりたくないのは分かっているけど、役のチェンジはないんです。ただ謝ろうと思っただけで。きのうは無理強いする形になっちゃったから」
「あ、そう……? そうなんだ? そうかー……」
そうだよな。きのうの今日で変更にはならないよな。でも、ほんとうに変更でもよかったんだけどなあ……。
「きのう話したとき、鵜之崎くん、青天の霹靂って顔してたから……。言葉が出ないほどショック……って感じで」
「うん、まあ……」
「喜んで引き受けてくれるひとばかりじゃないって分かっていたんです。でも、予想していたよりもずっと鵜之崎くんはショックが大きかったように見えたので……申し訳なかったな、と思って」
「いや。いいよ」
がっかりだけど、それ以外答えようがない。あのとき理久が言ったように、本人の希望を聞いていたらきりがないと分かっているから。理久と大和が一人ずつ出演交渉するなんて負担が大きすぎる。
それでも大和は俺の反応を気にしていてくれたのだ。
「わざわざありがとう。気を使ってくれて」
一応、笑顔で言ったのに、彼女は探るように俺の顔を見た。嫌味を言っていると思われたのだろうか。数秒後、ようやく納得した様子でうなずくと、おずおずと微笑んで。
「紫蘭が言ってました。鵜之崎くんは大丈夫だって」
「しぃちゃんが?」
「はい。気が進まないことでも、一旦引き受けたら『ちゃんとやる』って言ってくれるよって」
しぃちゃんが……。
――やばい。
鼻の奥がつーんとする。気を抜くと涙が出そうだ。俺ってこんなに涙腺ゆるかったっけ? こんな……、ほんの少しの言葉で感動したりして。
「そうかー」
急いで向きを変え、歩き出す。慌ててついてきた大和は下を向いているから気付かないだろう。こちらを向かないことを祈りながらこっそり洟をすすり、ゆっくりまばたきして涙をひっこめる。
「さっき……」
視線を上げないまま大和が話し始めた。
「ちょっと驚きました。鵜之崎くんが紫蘭が言ったとおりの言葉を使ったから」
「言ったとおりの言葉?」
それであんな顔をしたのか。
「はい」
大和が俺を見上げた。涙の名残がないか不安ではあるものの、彼女は気付かないようだ。
「『やることはちゃんとやる』って」
「……ああ」
そうだ。たぶん、あのとき。
最初の図書委員会の日。図書委員の仕事に不安になった俺に、しぃちゃんが難しいわけではないと言ってくれて、それなら……と口にしたような気がする。
そういえば、あのときのしぃちゃんも驚いた顔をした。俺がやる気を出すことが意外だったのだろうか。それほど期待されていなかったのか。それも情けないけれど……、今はかなり挽回できている気がするからいいかな。
「紫蘭は鵜之崎くんのこと、とっても信頼してます」
「あはは、そう? それならよかった」
第三者にそう見えるのなら信憑性が高い。
「“相棒”って言ってました。うらやましいです。そういう相手がいるって」
「そう?」
「はい。わたしはなかなか……」
彼女が言い淀んだ内容がなんとなく分かる。教室での様子からの想像だけど、彼女はあまり対人関係を築くのが得意ではないのだと思う。理由はたぶん、自信がないから。要するに、俺と同じだ。
「そんなことないよ」
俺の言葉に彼女が抗議のこもった表情を向ける。でも。
「そんなことないよ。きのう、理久が、大和の言いたいこと、ちゃんと伝えてくれてたじゃん」
「それは……、ええ……」
彼女は視線を逸らし、もどかし気に片手を胸に当てた。
「配役のこと、ふたりで話し合ったんじゃないの?」
「そう……ですけど」
またうつむいてしまう。
「わたし、自分の都合で役を頼むことになったのに、みんなに自分の責任で頼めなかったことが申し訳ないんです。田原くんが前に出て大事なことを言ってくれたから、わたしも説明できたっていうだけで……」
「それでいいんじゃないかな」
きのうの大和と理久を思い出す。きっぱりと「断るのはなしにしてほしい」と言った理久、そして、どんな役かを懸命に説明した大和。
「しぃちゃんが俺を“相棒”って言ったのは、目標に向かって協力し合える相手っていう意味だよ。苦手なこととかできないことはカバーし合って、ふたりで一つのことをさ。きのうの大和と理久も、俺にはそう見えたけど」
「わたしと田原くん? ……そうですか?」
「うん。理久は理久ができることをやって、大和は大和ができることをやってるって、俺は思ったけど」
「でも、田原くんの方がきのうはたくさん……」
彼女の思考過程が手に取るように分かる。なぜなら俺も同じだからだ。俺も、自分は役に立たない、自分には足りないところばかりだと思っていた。できなかったことばかりを考えていた。
けれど、相棒のことなら彼女よりも俺の方が少しだけ余分に知っている。
「きのうだけを見たら、たしかに理久の方が目立つよ。だけど、シナリオを書いてるのは大和だよね? その方が時間がたくさんかかってるよ? きのうの放課後だけで終わる仕事じゃないよね」
彼女が目を瞠る。
「ああ、やっぱり」
思ったとおりだ。
「自分がやってることはたいしたことないって思ってるんじゃない? でもさ、シナリオを書くなんて誰にでもできることじゃないよ。しかも、原作があるって言ってもオリジナルだし」
「でも。そうかも知れないけど、わたしは好きなことをやってるだけですよ?」
「うん。そうだろうけど、だから、少なくとも理久は、それをやらないで済んでるってことだよ?」
彼女が狐につままれたような顔でまばたきをした。
「もしかしたら、理久はそれが申し訳ないって思ってて、きのうは自分が前に出たんじゃないかなあ?」
「田原くんが……?」
うん。きっとそうだ。
たぶん、理久も普段の大和を見ていて、対人関係が苦手そうだと気付いていたに違いない。そして、監督と演出を担う理久は劇全体のリーダーとも言えるのだ。
「理久はきっと、大和といい相棒になりたいと思ってると思うな」
だからきのう、大和の決めた配役をみんなにきっぱりと伝えたのだと思う。彼女の案を指示すると態度で示すために。あとは大和が理久を信じるかどうかだけだ。
「分担をきっぱり分けなくてもいいんじゃないかな。得意なことと不得意なことで分担のラインがでこぼこになっても、ふたりで協力できていれば」
「……ありがとう」
つぶやくような声。けれど、俺に向けた表情はやわらかく微笑んでいて。
「鵜之崎くん、やさしいですね。紫蘭が大丈夫って言った意味が分かります。嫌な父親役でごめんなさい。もっとやさしいお父さんだったらよかったんだけど」
「いや、それはもういいよ」
俺が気にしているのは“嫌な”父親だからじゃない。父親役とはつまり、“おじさん”だからだ。嫌な役でも若ければあんなにショックじゃなかった。
そこのところ、察してほしいんだけどなあ……。
でも、まあ、いいか。
しぃちゃんが俺を信じてくれていると分かった。これからはもう少し自信をもって一緒にいられそうだ。