しぃちゃんの相談のことが気になって、午前中はそわそわしているうちに終わった。ようやく昼休みになり、礼央に図書館に行くことを伝えると、礼央も「俺も」と一緒に教室を出た。

図書館で待ち合わせていることが気になったけれど、考えてみたら、礼央は図書館ではたいてい俺とは別行動だ。しぃちゃんが図書館に来ることも特別ではないから、わざわざ話しておく必要はないだろう。

「景のお陰で図書館のハードルが下がったよ」

階段を下りながら礼央が言った。

「自由に使えるって忘れてた。……っていうより、図書館自体を思い出さなかったもんね」
「うん、俺も」

もちろん、存在は知っていた。でも、自分には関係のない――個人的な用事では――場所だと感じていた。

「社会に出てからもさあ」

礼央がずっと遠くを見るような表情をする。まるで未来を見ているように。

「市立図書館が使えるんだって気がついたんだ。調べてみたら、休日も開いてるし、夜は七時までだから仕事の帰りに寄ることもできる。俺さあ……」
「うん」
「就職したら、もう自由時間がないって思ってたんだ。ほら、働く時間って、学校の授業よりも長いじゃん? 春休みとか夏休みとかないし。だから、仕事が終わったらまっすぐ家に帰って、太河とご飯食べて、あとは家のことやって終わり、みたいな。もちろん、太河と一緒だから楽しいと思うけど」
「……うん」

礼央の覚悟だ。俺に自分が恵まれていることを思い出させる覚悟。そして、礼央に何もしてあげられない自分の無力さが悔しくなる――。

「でもさ、図書館に行ったら自分を取り戻せるような気がするんだ。図書館にいるひとって、みんな自分のやることに集中してるじゃん? 他人のことなんか関係なくって。だから、そこにいる間は完全に自由で……って、分かるかなあ?」

照れたように礼央が笑う。

「うん。分かる。俺は本を読んで、似たようなこと感じた」

周囲との関係が断ち切られた自分。孤独ではなく、独立。自分に問いかけ、自分の思考に潜りこんでいく時間。

「ん……、そっか。うん。景なら分かってくれると思った」

一足先に社会に出る礼央が、自由を取り戻せる場所がある。そう思うとずいぶん慰められる気がした。

図書館に着くと、礼央はふわりと離れて行った。俺はカウンターで本を返し、館内を見回してみる。なんだか緊張してきた。教室を出たのは俺の方が先だったから、彼女が来るまで次に読む本を――。

「ごめんね、遅くなっちゃって」

隣にひょっこり現れた頭はもちろんしぃちゃんだ。分かっていたけれど、心臓が跳ね上がった。

「いや。俺も今、本を返したばっかりだから」
「そう? ありがとう、頼みを聞いてくれて」

俺を見上げる瞳がやさしく輝く。向けられた笑顔には信頼が込められている……と思う。自分の口許が変に緩んでいる気がして困る。

「あのね、図書委員会の夏休み向けのコーナーに出す本のことなんだけど」
「あ、ああ……、あれ」
「テーマに沿った本が決まらなくて困ってるの」
「そうなんだ……?」

これは……。

もしかしたら、単なる仕事の相談か?

「それで、景ちゃんに一緒に考えてもらおうと思って。景ちゃんは飾り付けの担当だから、本の心配はいらないでしょう?」
「あ、うん。そうだね」

そうだったのか……という脱力感。けれど、だとしても、今、ふたりで一緒にいるという事実がある。彼女は本について相談する相手として俺を選んでくれたのだ。俺よりも本を読んでいるらしい宗一郎ではなく!

「テーマは<夜空を見上げて>だったよね?」

誇らしさを感じると同時に、仕事だったという認識で緊張が解けた。心臓は平静を取り戻し、顔の筋肉もリラックスしている。

「そうなの。本が被らないように連絡取り合ってるんだけど、迷ってるうちに、知ってる本はほかのひとに決まっちゃって……」

まつ毛が長いんだなあ……なんて考えていることに気付かれてはいけない。顔を上げた彼女に「なるほど」とうなずいてみせ、どうやって選ぶのか尋ねる。

「連想」

彼女が楽しそうに答えた。

「ブレーンストーミング的な感じかな」

それはちょっと面白そうだ。

「最初に思い付いたのは『夜のピクニック』っていう本。ある高校の歩行祭っていう二十四時間歩き続ける行事のお話」
「二十四時間歩く。すごい行事だね」
「でしょ? 主人公たちは高三で、最後の歩行祭なの。途中でちょっとした謎が解けたり、思っていたよりも深い友情に気付いたり、今までの思い出とか……いろんなことを考えて、最後に新しい決意をするの。キツいんだけど、星空の下を歩きながら思い浮かべる言葉が印象的でね」
「ふうん。夜も歩くからそのタイトルなんだね」
「そう。過酷な行事だけど、この学校の生徒には特別なの。まあ、これは有名な本で、すぐに紹介者が決まっちゃったんだ」

有名だと言われても、俺は知らなかった。本好きの間では知られている――ということか。でも、俺もちょっと興味がわいた。いつか読んでみよう。

しぃちゃんに促されて空いている席に向かい合って座る。

「で、次に思い付いたのは『銀河鉄道の夜』」

机越しに身を乗り出して彼女が言った。正面から距離が近付いて、思わず照れてしまった自分を隠した。

「あ、それは知ってる。宮沢賢治だ」
「そう。でも、それもほかのひとに決まっちゃった」
「そうだよなあ……」

俺が知ってるほどの作品だから、誰でも思い付くだろう。

「あと、ほかに決まってるのが銀河系を舞台にしたSFと竹取物語」
「竹取物語って、古典の?」
「そう」

たしかにかぐや姫は月を見上げて淋しそうにしていたんだっけ。よく思い付いたな。

「それから花火師の仕事紹介と夏の星座、それにギリシア神話」

しぃちゃんが指を折りながら教えてくれる。仕事紹介と星座なんて、小説以外も選択肢に入るのだと今さら気付いた。

「俺、やっぱり飾り付け担当になっておいてよかったよ。本の知識が足りないから選べないもん」

思わずつぶやくと、しぃちゃんが「何言ってるの」と、呆れた顔をした。

「今、あたしだって決まってないでしょう?」
「そうだけど、仕事紹介とか星座の本とか、みんなすごいよ」
「それはテーマから連想して、あとは雪見さんに手伝ってもらってるんだよ。最初から仕事紹介の本を知っていたわけじゃなくて」
「あ、そうなんだ?」

<夜空を見上げて>から花火を連想して、花火関連の本を雪見さんに教えてもらうってことか。

「最終手段として、雪見さんに連想も手伝ってもらうっていう方法もあるの。でも、まずは景ちゃんに聞いてみようと思って」

しぃちゃんの瞳がきらりと輝く。

「だって、相棒でしょ? 頼ってもいいよね?」
「も、もちろん」

頼ってくれた? 彼女が俺を。こんなふうに親し気に微笑んで。

めちゃくちゃ嬉しいぞ!

「なるべく雰囲気が偏らないようにしたいんだよね……」

椅子の背にもたれながらしぃちゃんが言う。

「夜空っていうと宇宙を思い浮かべるけど、銀河系と星座が入ってるでしょう? ギリシア神話も星座関連だから、宇宙からは離れたいなって」
「じゃあ、ガリレオはダメか」

俺の言葉にしぃちゃんが目をぱちくりさせた。

「ほら、天体観測して地動説を唱えたんだよね? まさに夜空を見上げてるなって。でも、宇宙から離れるなら――」
「いや、でも、ガリレオなら伝記だし、ありだよ」
「そういう括りでいいんだ?」

それほど悪いアイデアではなかったらしい。小学生のときに読んだ漫画版の伝記がこんなところで役に立った。しぃちゃんは机に肘をついて考え始めている。

「天体観測なら望遠鏡もあり? たしか、すばる望遠鏡の本があったような……。ああ、だけど、それじゃあまた宇宙? でも技術系の話なら……」
「『星の王子さま』って空は見上げないのかな?」
「え?」

彼女が俺を見る。

「いや、なんとなくしか知らないけど、小さい星に住んでるイメージが……」
「うん、そうだ。そうだったよ。あたしも紹介文しか読んでないけど、宇宙の中の孤独な王子さま――」

しぃちゃんが立ち上がった。

「見に行こう」
「あ、うん」

文学のコーナーに向かう彼女に慌てて続く。

ところが、彼女も俺も、作者の名前が思い出せない。小説は原作の言語別に作者の苗字順で並んでいる。仕方がないから手分けして端から見ていったけれど、どうしても見つからない。

あきらめて雪見さんのところに行くと、呆気なく「ああ、サン=テグジュペリだね」と教えてくれた。

「フランス文学だから953だよ。ハードカバーと文庫本、両方あるよ」

追加でもらった情報に、「フランスか」と顔を見合わせた。さっきは外国文学の中で一番多い英文学の場所を探していたのだ。

再び書架に向かいながら、いつの間にかにこにこしている自分に気が付いた。

「楽しいなあ」

すごく楽しい。しぃちゃんと一緒にあたふたしていることが。同じことを分かち合っていることが。

ぽろりと出た言葉はしぃちゃんに聞こえたらしい。俺を見上げてにっこりした。

「うん。ほんとにね」

――そうか。しぃちゃんも同じなんだ。

胸がきゅーんとした。彼女も俺と一緒で楽しいなんて!

「あたし、こうやってテーマを決めて本を探すのって大好きなんだ。連想するのも探すのも楽しいし、新しい本に出会えるのも嬉しい。景ちゃんも楽しいって思ってくれて嬉しいな」

――あれ……?

「あ……うん、うん、もちろん」

違ってる。勘違いだった。俺の早とちり。

しぃちゃんが楽しいのは本を探すこと。俺と一緒にいることではなくて。

胸の中でそっとため息をつく。だよな、と思う。けれど。

俺に笑いかけてくれるしぃちゃんが隣にいる。これは勘違いでも早とちりでもなく、事実だ。

それに、“俺と一緒にいても”楽しいってことは、俺が一緒にいてもいいってことに違いない。