せっかく大鷹が俺を「景ちゃん」と呼んでくれることになったのに、俺は最後まで「しぃちゃん」と呼ぶことができなかった。すでに「大鷹」と呼び慣れてしまったことと――照れくささが原因で。
何度も呼ぼうとしたけれど、そのたびに逃げに入って終わってしまった。わざわざ「やっぱりやめる」とも言えないし、呼ばなくちゃと思うプレッシャーが次第につのり、困り果てた状態で一日が終わった。頭の中では呼べているから、一度口に出してしまえば勢いがついただろうに……。
彼女の方はスムーズに「景ちゃん」に移行した。まあ、会ったその日にインプットされたわけだから当然と言えば当然だ。
ただ、大鷹の「景ちゃん」は、いちごとは全然違う。彼女の呼び方はやさし気で、甘やかで、微笑みを含んでいて、それでいて歯切れよくさわやか。例えば……伊予柑みたいな。何度呼ばれても、その度にはっとする。学校で、みんなの前で呼ばれるのはやっぱり照れくさい。
……なんて思っていたら、連休狭間の登校日、教室前で体操服姿のいちごがまるで待ち構えていたように俺をつかまえた。
うちの学校はゴールデンウィークの登校日に二日間の球技大会が設定されている。力の入れ具合はクラスやメンバーによっていろいろだけど、ゴールデンウィーク中にはちょうどいい行事だと俺は思っている。今年は俺はソフトボールに出る予定。礼央はバスケだ。
「景ちゃん、聞いたよ。紫蘭も『景ちゃん』って呼ぶことになったんだって?」
「ああ……まあな」
思わせぶりな視線を向けるいちごのペースに乗らず、さり気ない態度で答える。でも、しぃちゃんがいちごにどんなテンションで話したのか気になってしまう。訊けないけど。
「よかったじゃん! 順調に仲良くなってるね」
いちごは今にも「おめでとう!」と言いそうな勢いだ。つられて口許が緩みそうになるのを我慢して「そうかな?」と答える。
「偶然会っただけだけど」
「知ってる。礼央くんと弟さんも一緒だったって。Kuranちゃんにも会ったんでしょ? どんな子?」
いちごは少し声を落とした。くぅちゃんに会ったことは学校では言わないでほしいと念を押されているけれど、大鷹がいちごに話したのなら、いちごは例外ということだ。
「さばさばして元気な子だったよ。すげぇ面白かった」
「ふうん……」
いちごが何か言いたげな顔で黙った。
「なに?」
「景ちゃん、見た目のこと言わないんだね」
「ん? ああ……肌がきれいだったな」
「肌? 肌!」
突然大声でツッコミを入れ、あはははは……といちごが笑い出した。
「景ちゃんのそういうところ、すごくいいよね! ほんと、全女子におすすめだわ! あはははは」
どうも褒められているらしいが、まったく褒められている気がしない。むしろ馬鹿にされているような。訊かれたから答えたのに。
「紫蘭がね、」
笑いを止めたいちごから出てきたしぃちゃんの名前に我に返る。
「学校で『景ちゃん』って呼んでもいいかなぁって迷ってたから、大丈夫だよって言っておいた」
「お、おう」
それは重要な情報じゃないか! 最初の話からここに直接つなげてくれればよかったのに!
そうか、やっぱり彼女も迷ったのだ。つまり、みんなの前で呼ぶということは、何がしかの意味があるということで――。
「でね、あたしも協力するからね」
「協力? いちごが?」
「そう。紫蘭が『景ちゃん』って呼びやすくなるように」
「それは……どうも」
何をされるか分からないまま礼を――しかも、いちごに――言うのは抵抗があるけれど、「協力」と言われればやむを得ない。
「球技大会でちょうどよかったよね!」
なにやら嬉しそうに鼻歌を歌いながら、いちごは教室に戻って行った。その作戦が明らかになったのは、俺が出ているソフトボールの試合だった。
「景ちゃーん! がんばれー!」
打席に向かう俺に、後ろからいちごの大きな声が。
思わず振り向くと、いちごの隣にしぃちゃんがいる。にっこり微笑んでくれたけど、何か言ってくれた様子はない。もちろん、俺の名前など叫んでもいない。
でも、大声のいちごが俺を応援するというのは悪くない思い付きだ。これなら試合が終わるまでには――。
「景ちゃーん!」
「打ってー! 景ちゃーん!」
「景ちゃん、頑張ってー!」
――ん?
バットを構えると同時に聞こえてきた女子の声。でもこれは。
何か違う。これはしぃちゃんの声じゃない。それに、いちごの声でもない。しかも、こんなにたくさん――。
「ストライク!」
背後から「あ~」とも「きゃ~」ともつかない声が上がった。
――え? まさか……。
バットを構え直しながらそっと振り返る、と。
「……うわ」
思わず後ずさってしまった。
いちごを中心に並んだ女子が「景ちゃ~ん」と口々に叫び、飛び跳ねながら手を振った。まさに俺の名前の大安売り。妙に盛り上がる黄色い声に、手前に座っているチームメイトが苦笑いしている。
なんだあれは――とうろたえつつ構えた次の球はバットにかすってファウル。また女子たちのがっかり声。
――やばい、これ。
俺は注目されるのが苦手だ。良いことでも悪いことでも。
目立たないことを残念だとか、もったいないとか言うひともいるが、俺は目立たなくていい。できればクラス替え初日の自己紹介だって避けたいくらいだ。なのに、俺が一番恐れている女子の集団に注目されているなんて!
――……打たなきゃ。
三振して戻ったときの反応が怖い。慰められても、ののしられても怖い。
出塁すれば戻るまでの時間を稼げるし、女子たちの注意は次のバッターに移る。だから、何がなんでもヒットを打たなきゃ。
次の球は俺の頭を越えるほどのボール。キャッチャーが拾いに行っている間にこわごわ振り返ってみると、いちごがぴょんぴょん跳ねながら「景ちゃーん」と叫んだ。続いてほかの数人が声を合わせて「景ちゃーん!」と。
「…………」
どうしようもなくてちょっとうなずいた、そのとき。
――あれは。
いちごの隣のしぃちゃんが、手をメガホン代わりにして何か言っている。声はまったく聞こえないけれど――。
「が ん ば っ て」……かな。
もしかしたら……たぶん、声を出していない。俺にだけ分かるように、口の動きで伝えてくれたんだ。小さく手を振ったのは、俺が彼女を見ていることに気付いたからだ。
かちり、とスイッチが入った気がした。
さっきよりも体が軽い。バットを構えたら、自分の体がピッチャーの動きにリンクしているような気がする。
――来た。
ジャストミートしたのが分かった。スピードのある打球がピッチャーの横を抜けて行く。手はバットを放し、足が地面を蹴る。ファーストへ。
「セーフ」
ファーストベースに乗ると、審判の声が聞こえた。応援席で、今度は男の声も一緒に歓声が上がる。手を上げて応えると、みんなも手を振り返してくれた。しぃちゃんも笑顔で両手を上げている。
――やっぱり違う。
今、はっきり分かった。
しぃちゃんはほかの子とは違う。やっぱり特別だ。
彼女は俺に勇気をくれる。いや、勇気だけじゃない。前向きな気持ちや自己肯定感、それから……もっと根本的な、強くて、温かくて、良いもの。彼女の言葉や存在が、コンプレックスに埋もれた俺を少しずつ引き上げてくれる。
俺も特別になりたい。もらうばかりではなく、彼女に何かをあげられるような存在に。
なれるだろうか。いや、なれるかどうかを考えるんじゃない。なれるように努力するんだ。
試合が終わるまでに、俺のほかにも何人かの男子が女子から名前で呼ばれることが決まっていた。中には呼び捨てもいる。そんな状況を笑いながらいちごがそっとやって来て、小声で、でも偉そうに「あたしに感謝しなさいよ」と言った。
「これからはクラスのみんなが『景ちゃん』って呼ぶから、紫蘭も堂々と呼べるでしょ?」
と。
たぶんそういうことだと思っていた。いかにもいちごらしい。
「そうだな。ありがとう」
考えて実行してくれたことに感謝する気持ちはある。でも……。
大勢の女子に「景ちゃん」と呼ばれるのはどうにもバツが悪い、という俺の気持ちは、いちごには分からないようだ。