大鷹と電話で話したあと、俺の中に小さな期待が育ち始めた。彼女と俺がいい関係になれるのではないかという期待。
けれど、翌日もその次の日も、俺は彼女に話しかけることができなかった。育ち始めた期待が、逆にプレッシャーになってしまったのだ。自分で自分にがっかりする。
結局、何もできないままゴールデンウィークに突入した。
「ああ、面白かったー。やっぱSF映画はいいなあ」
映画館のロビーで伸びをすると、礼央の弟、太河がにこにこしながら振り向いた。
「テレビとはやっぱりスケールが違うよね! 映像も音も、映画館の方が何倍もドキドキする」
中学2年生になった太河は前に会ったときよりも背が伸びて、声も低くなってきた。でも、はしゃぐ姿はまだ子どもっぽい。ステップを踏むように歩く太河を、礼央が目を細めて見ている。
ゴールデンウィークの初日、礼央兄弟と俺の三人で臨海部の観光スポットに遊びに来た。映画館にショッピングモール、ホテル、芝生広場に遊歩道、観覧車などが並ぶ、一日中遊べる場所だ。俺たちは映画を見て、昼メシのあとは辺りをぶらぶらする予定。
少し離れた親戚の家で暮らしている礼央と太河は、それほどしょっちゅう会えるわけじゃない。でも、こんなふうに一緒にいるときはお互いに思い合っているのがよく分かる。だから、礼央が太河と暮らすために高卒で就職すると決めている気持ちも理解できる。ただ、俺は礼央と違う立場になってしまうことに淋しさを感じているのだけれど。
「昼メシ、どこにする?」
「あ、その前にトイレ!」
「そうか。ええと……」
トイレは通路の先、エスカレーターの奥だ。周囲の客はエスカレーターを過ぎるとぐっと減り、トイレ前には連れを待っているらしい数人の男女がいるだけ。女子トイレから出てきた一人が「お待たせ」と黒いキャップをかぶった男に声をかけた。見るともなしに見た俺の目に映った姿に思わず足が止まった。
「あれ?」
立ち止まった俺に気付いたカップルが視線を向けてくる。すぐに「あ」と声を出したのはデニムのワンピース姿の――。
「鵜之崎くん! わあ、偶然」
やっぱり大鷹だ。
ゴールデンウィーク中に会えたらいいな、と思っていた。でも、何もできなくてあきらめていた。なのに会えた。嬉しい……けど、彼女は男と一緒?
たしか、男とうわさになったことがないって言ってなかったっけ? 男のきょうだいがいるなんて聞いた覚えはないし、だとすると、相手の年齢的にデートの確率は90%以上か。しかも、相手は俺がどんなに頑張ってもなれないであろうイケメンだ。
「あれ? 大鷹ちゃん?」
礼央が俺の隣に立った。その笑顔はいつもと変わらず柔らかい。俺の複雑な気持ちを察してくれているのだろうか……と、なんとなくハラハラする。
「デート?」
突然尋ねた礼央の声に心臓が跳ね上がった。
――それを訊いちゃうか、今!?
驚きつつも、確認するために大鷹に視線を移す。
彼女はキャップ男と顔を見合わせて、視線で何かを確認している様子。それはかなりの親密さを表わすしぐさだ。答える前に確認しているということは、初デートか秘密の関係か。
太河もふたりをじっと見つめていることに気付いた。中学生には高校生のカップルをじっくり見るチャンスなどなかなかないだろうけれど、目をまん丸にしてなんて、ちょっと見過ぎじゃないだろうか?
「あ、あの、あの」
太河があわあわした様子で口を開いた。
「あの、あの、おれ、見ました。雑誌で。髪を――」
え?――と思う暇もなく、大鷹たちがいきなり真剣な顔になって近付いてくると、太河の肩に両側から手をかけた。
「え? え? え?」
「こっち来て。早く」
「ダメなんだ、ここじゃ」
太河の背中を通路の奥へと押しながら、大鷹が「一緒に来て」と振り返る。訝しげな視線を向ける周囲の客から逃れ、礼央と顔を見合わせてからあとを追った。
トイレ横の階段を上って到着したのは屋上庭園。海が見える広いデッキには散策路の間にベンチや花壇が設置されている。あまり存在が知られていないらしく――俺も知らなかったし――俺たちのほかには二組の姿だけ。
「すぐに分かった? ボクのこと」
太河から手を離し、キャップ男が尋ねた。襟足長めの髪と、ゆったりした白シャツに細身のジーンズがさり気ないのに決まっている。苦笑を浮かべた顔は肌が驚くほど綺麗だ。腰に手を当てている立ち姿は男の俺でも見惚れてしまうほどカッコいい。
さっき太河は「雑誌で」と言った。もしかしたら芸能界関係者かも知れない。大鷹の双子の知り合いか何かで――。
「は、はい、分かりました。くらんさんですよね? モデルの」
「え?」
太河は大真面目だ。真面目というか、頬を上気させて目を輝かせている。ふざけているわけではない。でも、くらん――「Kuran」っていったら……。
「え? 大鷹の双子って、男だったの?」
「景くん、違うよ!」
太河が俺に非難の目を向ける。同時に目の前のふたりが噴き出した!
「かなり成功」
「だね」
――意味が分からない。
助けを求めて礼央を見ると、肩をぽん、と叩いてくれただけ。礼央は理解したらしい。混乱している俺の髪を潮風がやさしく撫でていく。
「ごめんね、鵜之崎くん。この子、女の子なの。前に話したあたしの双子。紅色の蘭って書いて紅蘭っていうの」
「大鷹紅蘭です」
キャップ男、いや、紅蘭さんに頭を下げられて、思わず「ぅえええええ」とうなってしまった。自分が男と女の区別がつかないなんて思わなかった!
「Kuranちゃん、俺、ファンなんです。いつもいとこが買ってる雑誌で見かけてて。今月は表紙でしたよね? すごくよかったです」
太河に「ありがとう」と微笑む様子は、女子だと思って見れば女子にも見える。そして、やっぱりカッコいい。
「俺、ファッション誌のモデルって聞いてたから、もっと……髪が長いイメージを持ってた」
まだ驚きから抜けきれないままつぶやくと、大鷹がにっこりした。それを見たら頭がはっきりしてきて、体と心が現実の世界に着地した。
「髪を切ったのは最近なの。ずっと伸ばしていたんだけど、お仕事の関係でね」
大鷹が教えてくれた。嬉しそうな太河と話している紅蘭さんを見ながらほっとしているようにも見えるのは気のせいだろうか。大鷹の落ち着いた態度のお陰で俺の驚きも徐々に去り、今度は彼女に会えた幸運が俺の中に広がっていく。
デニムのワンピースにポニーテールの彼女はいつものセーラー服よりもずっと軽やかで明るい雰囲気。でも、着飾らない感じがいかにも彼女らしくて、俺にとっては新鮮でありつつ気後れせずに済むちょうどよさ。
「あたしたち、ほんとうに似てないでしょう?」
紅蘭さんを振り返って彼女が言う。
「背の高さも15センチも違うの。くぅちゃん……紅蘭のことね?」
そう言って俺を見上げる瞳はいつもと変わらない。
「くぅちゃんは女の子の服装だとけっこう目立つの。顔とか身体つきだけじゃなくて、身のこなしとか、やっぱり訓練してるから。最近は顔が売れてきちゃったりもして、街を歩いていると、声かけられたり写真撮られたりすることも多くなってきて」
「そうか。プライベートでも気を抜けなくなっちゃうね」
「それで男装して世間を騙して楽しんでるってわけか」
不意に聞こえた尖った声。びっくりして隣を見ると、礼央が冷たい視線を紅蘭さんに向けていた。
紅蘭さんにも礼央の声が聞こえたらしい。太河と一緒にぱっとこちらに顔を向けた。
「騙して楽しむなんて、礼央、それは」
違うと思う――と続ける前に礼央がこちらを向いた。その体から発せられる冷たい反感に、舌の上で言葉が消えた。いつもふわふわと明るい礼央が、こんなふうに攻撃的な態度を表に出すなんて――。
「モデルなんて人を騙すのが仕事だと思ってたけど、プライベートでも同じなんだ?」
「れ、礼央?」
おろおろするだけの俺の前で、紅蘭さんが口を引き結んだ。そして。
「じゃあ、あんたは」
太河の前から紅蘭さんが一歩踏み出した。たぶん本気で怒っている。
「誰のことも騙してないって言えんの? 親にも友だちにも、ありのままの自分だって言えるわけ?」
「ちょっと待って!」
慌てて彼女と礼央の間に割って入った。でも……遅かった。
「太河」
駆け寄って肩に手をかけ、うつむいた顔をのぞき込む。さっきまであんなに上気していた頬が今は真っ白だ。やっぱりキツいひと言だったのだ。
「礼央」
振り向くと、礼央もうつむいていた。握り締めた手は怒りのためか後悔か。ゆっくりと上げた視線が俺で止まった。
「ちょっと……時間もらうね。太河と一緒にいてくれるかな」
「もちろん」
黙ってうつむく太河とその肩を抱く俺、何が起きたか分からずに戸惑いの表情を浮かべている大鷹姉妹。俺たちを残し、礼央が足早に建物の中へと消えていく……。
「太河、ちょっとトイレ行こうか」
そう声をかけると太河がうなずいた。
大鷹たちはこのまま待っていると言った。俺は、今日はもう別れてしまっても仕方ないと思ったのだけど。
「傷付けてしまったなら謝りたいから。もう会う機会がないかも知れないし」
まっすぐな瞳で紅蘭さんが言った。覚悟したような表情は思いのほか大鷹に似ていた。
まだ硬い表情の太河と一緒に建物内のトイレに行った。礼央の姿は――誰の姿もそこにはなく、手を洗い終わったところで太河に「大丈夫か?」と尋ねた。
「うん」
しっかりとうなずいた太河。でも、すぐに視線が揺れ、力なく下を向いてしまった。
「兄ちゃんがあんなこと言うなんて……」
「うん。俺もびっくりした」
思ったとおり、太河がショックだったのは紅蘭さんの言葉よりも礼央の態度の方だった。俺も同じだったし、同時に、伝わってきた。礼央の悲しみが。
親を亡くしたことだけじゃない。高校卒業後に就職することも、ほんとうは悲しいのだ。
大学の勉強は通信制や夜間など、仕事をしながらでも可能だ。礼央はその道を歩むつもりだ。けれど、道はあっても自分ができるかどうか不安になることもあるだろう。それに、俺が淋しいように、いや、今の仲間たちと同じ道を進まない礼央は俺よりももっと、淋しいはずだ。
礼央には就職せずに進学する道もある。ご両親の残したお金にアルバイトをすれば、親戚の家を出るのも可能だと言っていた。でも太河と一緒に、太河の保護者として暮らすために、親戚を説得するためにも就職が必要だと礼央は結論を出したのだ。
目指すのは不景気にも強いと言われている公務員。中でも、転勤がほぼ市内に限られる地元の市役所だ。自分が興味のある仕事を選ぶのではない。それほど礼央には太河が大切なのだ。
けれど、気持ちは簡単に整理できるものではないと思う。
“好きなこと” で仕事を選ばない決意をした礼央が、モデルという仕事のマイナス面さえも楽しんでいる紅蘭さんに対して反感を、そして羨望を抱いたとしても無理はない。それを太河も感じ取ったのだろう。
「俺、兄ちゃんに甘えてるのかな? 兄ちゃん、ほんとうは無理してるんじゃないかな? 景くんが感じてること、正直に話して」
すがるような瞳で尋ねる太河に胸が痛くなる。俺にできるのは、俺が信じていることを伝えることだ。
「礼央はたぶん……いろいろ我慢をしてると思う」
太河がぐっと息を詰めた。苦しさを隠そうとする太河にそっと問う。
「だけど、じゃあ、太河は? 何も我慢してないのか?」
「あ……」
「俺も……まあ、こんな感じに生きてるけど、あるよ。そういうのって、たぶん何かを……自分のプライドとか家族とか、大切なものを守るために必要なんじゃないかな。そりゃあ、我慢し過ぎて無理になったらダメだけど」
太河がゆっくりうなずいた。それを確認して続ける。
「我慢は無理とは違う。我慢は……その先に何かが、希望が、あるからできるんじゃないかな」
太河がもう一度、今度はしっかりとうなずいた。きっと、太河にも思い当たることがあるのだ。
「礼央にはたぶん、紅蘭さんがすごく気楽に生きているように見えたんだと思う。それで……自分と比べてみて、ちょっと取り乱しちゃったんだよ、きっと」
礼央が紅蘭さんと自分を比べた――。
自分の言葉にはっとする。比べることが礼央の悲しみを増幅させたのだ。
「だけど、礼央は太河を重荷に思ったりはしないよ。逆。礼央が頑張れるのは太河がいるから。太河がとっても大事だってこと、礼央の顔見てれば分かるもん、俺。太河だって、礼央のこと大事だろ?」
「うん」
「それとおんなじだよ。きっと同じくらい」
「うん……、そっか」
太河の頬に血の気が戻って来た。弱々しいけれど微笑みも。
「礼央が無理しないように、俺がちゃんと見てるから。太河は礼央が余計な心配しなくて済むようにするんだぞ?」
「うん、分かった」
「紅蘭さんのことも、礼央は絶対大丈夫。ちゃんと自分の気持ちを修正できるから。たぶん今ごろ、言い過ぎたって反省してるよ」
「そうかな……?」
「もちろん!」
少し強く肩を叩くと、太河はほっとした様子で「そうだよね」と言った。
「よし。じゃあ、戻ろうか」
「うん」
すっきりした顔でうなずいた太河が、歩きながら、一緒に住んでいる従妹が買ってくる雑誌に紅蘭さんが載っているのだと教えてくれた。ほかの同じようなモデルとはどこか違っていて、一番輝いて見えるのだと。
もしかしたら……いや、きっと、紅蘭さんにも俺たちからは見えない我慢があるのだろう。でも、それを見せないのが――見せないだけじゃなく、我慢しながらでもより幸せに見せるのがモデルという仕事なのかも知れない。
屋上に戻ると、大鷹たちは柵にもたれて無言で海をながめていた。初夏の光が降り注ぐ海を前になにやら深刻そうなカップルに見えるふたりに、少し増えてきた客は遠慮して距離を置いているようだ。プライバシーを保つための男装はきちんと効果を発揮している。
「お待たせ」という声に振り向いたふたりは、俺が微笑んでうなずくとほっとした様子で緊張を解いた。と思ったら、紅蘭さんが太河に頭を下げた。
「あの、ごめんねっ。ボク、いけないこと言っちゃったみたいで。ほんとうにゴメンなさい!」
「あ、い、いいえ。そんな」
照れて慌てる太河を見ながら、俺は紅蘭さんの「ボク」はデフォルトなんだなあ、などと思った。
「あたしからもごめんなさい」
謝り合う太河と紅蘭さんを見ていた俺に大鷹がそっと言った。
「せっかくの休日に、あたしたちのせいで変なことになっちゃって」
「いや。大丈夫だよ」
そう。礼央も太河も大丈夫だ。俺には分かる。
「礼央も失礼なこと言ったよね。反省して戻って来ると思うよ」
建物の方を見たけれど、礼央はまだ現れない。そこに「えぇっ?!」という紅蘭さんの声が聞こえた。
「ご、ごめん。ほんとうにごめん。どうしよう? ボク、ほんとうに酷いこと――」
取り乱した様子に太河と俺が驚いているうちに、紅蘭さんの目から涙が落ちた。女子に目の前で泣かれた経験のない俺――たぶん太河も――は何もできずに立ち尽くすだけ。
大鷹も驚きつつも、そこは姉妹だけあって、「ちょっとごめんね」と俺たちにことわって紅蘭さんをベンチへと導いて行った。それからひとりで戻って来ると、また「ごめんね、びっくりさせて」と謝った。
「びっくりさせたのは僕の方なんです」
太河が言った。
「僕たちには親がいないって話したので、それで――」
「え?! そうなの?!」
大鷹が確認するように俺を見た。それに応えてうなずくと、彼女は「そうだったんだね」と労わる表情を太河に向けた。
「ごめんなさい。そういうひとがいるということは頭では分かっていたけれど、自分の身近にあることだとは気付いていなかった。もしかしたら、あたしもどこかで礼央くんを悲しませたり傷付けたりしていたかも知れない」
「俺も、礼央から事情を聞くまでは同じだったから」
「あ、べつに気を使ってもらわなくてもいいんです」
太河が明るい表情を向ける。
「ただ知っててもらえれば。僕には兄がいるし、世話してくれてる親戚も優しいし、それに、あと2年すれば兄と一緒に暮らせるから」
カッコいいぞ、太河! と、心の中で言った。
「え? あと2年すればって、じゃあ今は? 別々に暮らしてるの?」
大鷹がまた目を丸くした。
「そうなんです。施設に入れるのは可哀想だって親戚が。でも、みんな子どもがいるから一人ずつ別々に」
「そうだったんだ……」
ため息をつくように彼女が言った。
「じゃあ今日は大事なお出かけの日だったのね。それなのに、お兄さんと一緒の時間を減らすようなことをして、ほんとうにごめんなさい。あたしたちと会ったばっかりに……」
「まあ、お互いさまじゃないかな。礼央だって紅蘭さんに失礼なこと言ったし」
元はと言えば、そっちが先だった。太河も隣でうなずいた。
ちょうどそこで礼央が建物から出てきた。
花壇の間を歩いてくる姿からはどんな気分なのか分からない。近付くにつれて見えてきた表情は硬い。まだ気持ちが収まっていないのだろうか。
紅蘭さんも気付いてベンチから戻って来た。きっと礼央に謝るつもりなのだろう。赤くなった鼻の頭に泣いていた気配が残っている。
「景、ありがとう」
礼央の最初のひと言は俺に向けてだった。太河を頼んだからなのだろうけれど、俺のことなんか後回しでいいのに。
俺がうなずくと、ようやく礼央は紅蘭さんに視線を向けた。その表情は挑むようにもにらむようにも見えて、俺は息をひそめて太河の肩にそっと手を掛けた。
「これ」
礼央は紅蘭さんに向かって無造作に拳を差し出した。何かを渡そうとしているらしい。
ためらいがちに差し出される紅蘭さんの手を見ながら、どうか嫌がらせではありませんように、と祈る。礼央を信じてはいるけれど。
手のひらにぽとん、と落とされたものを見て、紅蘭さんが小さく首を傾げた。と、その表情がみるみる変わった。まるで雲が晴れて太陽が顔を出したように明るく。言葉が少なくても、行為がそれを補った例を目の当たりにした、と思った。
「ケンカを売ってごめん。すごく失礼なことを言いました」
ほっとする俺たちの前で礼央が頭を下げた。紅蘭さんが首を横に振る。綺麗な爪の指先でつまみあげたのは黒猫の形をした……アクセサリーだろうか。
「こちらこそ、酷いことを言いました。ごめんなさい」
紅蘭さんも頭を下げた。同時に全員がほっと息をついたように感じた。
お詫びにプレゼントだなんて気取ったことをする礼央を軽くつつくと、ニヤッと笑った。それから。
「落ち着こうと思ってガチャガチャやったら出てきた。これ、みんなの分」
そう言って広げたバッグの中には丸い玉がいくつも……。
「礼央! 何回やったんだよ?!」
礼央が後ろめたそうな顔をして、俺の耳に。
「実はお金、あと500円しか残ってないんだ」
なんてこった! これから昼メシなのに。
「分かった。俺がそのカバンから、必要な分のガチャガチャをやってやるから」
少しお金がかかったけれど、礼央はちゃんと苦しさを乗り越えてくれた。仲直りの方法も礼央らしくて、こういうところが好きだし、尊敬もしている。
仲直りの結果、大鷹たちも一緒に昼メシを食べることになり、紅蘭さんのファンだった太河は喜んだ。俺も……かな。
昼はテイクアウトのホットドッグを買って、海に面した広場で食べた。海風で紙や袋が飛ばされるので、みんなで追いかけたり拾ったりしては笑い合った。
紅蘭さんは自分を「くぅちゃん」と呼んでほしいと言った。彼女たち自身が紅蘭=「くぅちゃん」、紫蘭=「しぃちゃん」と呼び合っているそうだ。今日、紅蘭さんが男みたいな服装をしているのはKuranであることを隠すためだから、その頼みは当然だろう。
太河は年上の――しかも憧れの――相手をちゃん付けで呼ぶことに戸惑いはあったようだったけれど、「いとこ同士だと思えば」と言われて納得するとたちまち慣れてしまった。しかも大鷹のことも「しぃちゃん」と呼んでいる。気付いたら礼央も「しぃちゃん」を使っていた。「大鷹」がふたりいるのだから、流れとしておかしくはない。けれど。
そこで迷ってしまうのが俺だ。俺は大鷹を何て呼ぶ?
くぅちゃんは俺たちを「礼央」「太河」「景くん」と呼ぶことにしたらしい。礼央と俺に差が出たところに彼女の心の距離が見える。最初の言い合いと仲直りが礼央との友情につながったのかと思うと感心してしまう。
それは礼央も同じらしい。礼央はくぅちゃんに対して、もう意地の悪いことは言わない。でも、優しいわけでもなくて、少し挑戦的なからかいや揚げ足取りをする。
対するくぅちゃんはそれを楽しんでいるようで、遠慮のない言葉を返している。最初に礼央に向かってまるで啖呵を切るように言い返したあの気性を思えば、少し厳しいやり取りもちょうどいいのかも知れない。
俺は礼央の様子を見ながらじんわりと「よかったなあ」と思っている。学校での礼央の明るさや人懐っこさには、漠然とだけれど、自分を隠して周囲を楽しませようという自己犠牲的なところがあるのではないかと心配していたから。もしかしたらそれは、「親戚の家に住んでいて、卒業後はそこを出るつもりだ」という事情を知っている俺の取り越し苦労かも知れない。でも、午前中にくぅちゃんの言葉に不意を衝かれた様子が俺の推測を裏付けているように思えるのだ。
二十四時間、他人の中で暮らしている礼央には、心を許せる相手を一人でも多く見つけてほしい。だからくぅちゃんとキツいことを言い合っている礼央を見るのが嬉しい。太河もそんなふたりの間で爆笑していたりするから、心配はなさそうだ。後ろから見ていると、まるで男の子が3人でふざけあっているみたい。
それはそれとして。
問題は、俺が大鷹をどう呼ぶか、だ。
大鷹はと言えば、「礼央くん」「太河くん」そして「鵜之崎くん」だ。俺だけ苗字。
慣れてしまったから、というのが最大の理由だと思う。そして、どんな呼び名で呼ばれようが、俺自身は何も変わらない。
でも、関係はいくらか変わる気がする。
俺は「しぃちゃん」と呼びたい。その呼び名を聞いた瞬間に彼女にぴったりだと思った。そして、呼び方を変えるなら今日のうちだと分かっている。けれど、その勇気が出ない。
彼女はどう思っているのだろう。どうでもいいのかな……。
頭の中で「しぃちゃん」と言ってみる。なかなかいい響きだ。しぃちゃん、しぃちゃん、しぃちゃん――。
「バレー部は、連休中は?」
隣からの声ではっとした。せっかく並んで歩いているのに、ぼんやりしていたなんてもったいない!
「練習があるのは後半だけ。……コーラス部は?」
「しぃちゃんは?」と口に出す決心がつかなくて、それを使わない方法を選択している俺。ああ、情けない。
「うちは無し。家で自主練」
「じゃあ、ゆっくりできるね。家族の予定とか?」
「ううん、うちは両親ともずっと仕事で。今日はくぅちゃんが久しぶりに何もない休日で、前から行きたかったお店に行こうってことになって」
「あれ? そうだったの? じゃあ、俺たち邪魔――」
「ああ、いいのいいの」
彼女が笑いながら言った。
「もう午前中に行ったの。そうしたら、どのお店もすごい行列で、今日はあきらめたんだ」
「午前中から行列って……何の店?」
「パンケーキとアップルパイとピザ!」
楽しいことを打ち明けるように彼女が言った。親しみのこもった笑顔に、やっぱり「しぃちゃん」と呼んでも大丈夫かな、と少し勇気が湧く。
「どの店もってことは、それ、もしかして別々の店? 1軒じゃなくて? それが全部行列?」
「そうなの。3軒ともまわるつもりだったの。でも、どこも開店前から大行列! くぅちゃんが雑誌の記者さんに教えてもらったところなの。さすが話題のお店だよね」
「へぇ……」
ファミレスとファーストフードにしか馴染みがない俺には、食べ物屋を目指して遊びに来るということも驚きだ。しかも3軒まわるつもりだったとは。
いや、それよりも。
今の会話、すごくいい流れだった。俺たち、やっぱり仲良しなんじゃないだろうか。だったらこの流れでどうだろう?
――よし。言っちゃおう。
やっと決心がついた。はっきり宣言してしまえば俺の中でもすっきりする。
「ええと、あのさぁ」
「ん? なあに?」
小鳥みたいに首を傾げる彼女。俺にとっては彼女らしさの一つであるその仕草を見たら、ほっとして笑いがこみ上げてきた。同時に肩の力が抜けて、のどから楽に声が出た。
「俺も『しぃちゃん』って呼ぼうかと思うんだけど」
「ああ! もちろん!」
即答と笑顔が返ってきた。よっしゃ!
「あたしも『景ちゃん』って呼んでいい?」
――ん?
俺の予定と違う言葉が聞こえた。
「景、『ちゃん』?」
「ふふっ、そう」
「もちろん構わないけど……」
まあ、考えてみれば、「しぃちゃん」と「景ちゃん」なら両方とも「ちゃん」付けでバランスが取れていると言えば言える……けど。礼央は「礼央くん」なのに、俺は「景ちゃん」?
「本当はね」
俺の腑に落ちない様子に気付いたのか、大鷹――しぃちゃんがにこにこ顔で説明してくれた。
「クラス替え初日にいちごが『景ちゃん』って呼んでるのを聞いて、あの時点であたしの頭の中には『景ちゃん』がインプットされちゃったんだよね」
なんと! 初日からすでに「景ちゃん」認定されていたなんて!
「でも、たいした知り合いじゃないのに名前で呼ぶなんて馴れ馴れしいかな、と思って。だからいつも、頭の中で『ええと、鵜之崎くんだよね』って確認してから話しかけてたの」
「なんだ。そうだったんだ」
思わず笑ってしまった。
礼央が彼女に自分の呼び方を指定したとき以来、俺はあれこれ気にしてきた。でも、彼女はきっかけがなくて遠慮していただけだったのだ。
彼女のことが、また少し分かった。
はきはきしていて潔いところがある一方で、心の中ではいろいろなことに迷ったり遠慮したりしている。委員会初日のようにフレンドリーな態度の裏側で、個人的な部分の距離は簡単には縮めてこない。その辺は俺と結構似ている気がする。
そんな彼女が今、俺を「景ちゃん」と呼んでくれると言っている。これは大進歩じゃないだろうか。――いや、そうじゃなくて、先に「しぃちゃん」と呼ぶと言えた俺が進歩したのかな?
「ねえ! アップルパイの店、もう一回見に行ってみない?」
くぅちゃんが笑顔で振り向いた。
「中に入れなくてもテイクアウトで2個くらい買って、みんなで味見しようよ。それならお金がない礼央も一緒に食べられるでしょ?」
そう言ってニヤリと礼央を見たくぅちゃんのキャップには黒猫のピンがついている。礼央の所持金が少ないことはくぅちゃんにバレてしまったらしい。
「景、聞いた? ふたりは今日、食べ物の店をはしごする予定だったって」
「うん、聞いたよ。3軒だってね」
笑って答えた俺の隣からしぃちゃんが「どこも美味しいんだって」と元気に付け足した。俺たちの前ではくぅちゃんと太河がデザートの話で盛り上がっている。
青空に薄く刷いたような雲がかかる春の終わりの穏やかな日。一緒にいる全員が楽しい気分でいられることがこんなに嬉しいなんて、俺はちょっと感激し過ぎだろうか……。
せっかく大鷹が俺を「景ちゃん」と呼んでくれることになったのに、俺は最後まで「しぃちゃん」と呼ぶことができなかった。すでに「大鷹」と呼び慣れてしまったことと――照れくささが原因で。
何度も呼ぼうとしたけれど、そのたびに逃げに入って終わってしまった。わざわざ「やっぱりやめる」とも言えないし、呼ばなくちゃと思うプレッシャーが次第につのり、困り果てた状態で一日が終わった。頭の中では呼べているから、一度口に出してしまえば勢いがついただろうに……。
彼女の方はスムーズに「景ちゃん」に移行した。まあ、会ったその日にインプットされたわけだから当然と言えば当然だ。
ただ、大鷹の「景ちゃん」は、いちごとは全然違う。彼女の呼び方はやさし気で、甘やかで、微笑みを含んでいて、それでいて歯切れよくさわやか。例えば……伊予柑みたいな。何度呼ばれても、その度にはっとする。学校で、みんなの前で呼ばれるのはやっぱり照れくさい。
……なんて思っていたら、連休狭間の登校日、教室前で体操服姿のいちごがまるで待ち構えていたように俺をつかまえた。
うちの学校はゴールデンウィークの登校日に二日間の球技大会が設定されている。力の入れ具合はクラスやメンバーによっていろいろだけど、ゴールデンウィーク中にはちょうどいい行事だと俺は思っている。今年は俺はソフトボールに出る予定。礼央はバスケだ。
「景ちゃん、聞いたよ。紫蘭も『景ちゃん』って呼ぶことになったんだって?」
「ああ……まあな」
思わせぶりな視線を向けるいちごのペースに乗らず、さり気ない態度で答える。でも、しぃちゃんがいちごにどんなテンションで話したのか気になってしまう。訊けないけど。
「よかったじゃん! 順調に仲良くなってるね」
いちごは今にも「おめでとう!」と言いそうな勢いだ。つられて口許が緩みそうになるのを我慢して「そうかな?」と答える。
「偶然会っただけだけど」
「知ってる。礼央くんと弟さんも一緒だったって。Kuranちゃんにも会ったんでしょ? どんな子?」
いちごは少し声を落とした。くぅちゃんに会ったことは学校では言わないでほしいと念を押されているけれど、大鷹がいちごに話したのなら、いちごは例外ということだ。
「さばさばして元気な子だったよ。すげぇ面白かった」
「ふうん……」
いちごが何か言いたげな顔で黙った。
「なに?」
「景ちゃん、見た目のこと言わないんだね」
「ん? ああ……肌がきれいだったな」
「肌? 肌!」
突然大声でツッコミを入れ、あはははは……といちごが笑い出した。
「景ちゃんのそういうところ、すごくいいよね! ほんと、全女子におすすめだわ! あはははは」
どうも褒められているらしいが、まったく褒められている気がしない。むしろ馬鹿にされているような。訊かれたから答えたのに。
「紫蘭がね、」
笑いを止めたいちごから出てきたしぃちゃんの名前に我に返る。
「学校で『景ちゃん』って呼んでもいいかなぁって迷ってたから、大丈夫だよって言っておいた」
「お、おう」
それは重要な情報じゃないか! 最初の話からここに直接つなげてくれればよかったのに!
そうか、やっぱり彼女も迷ったのだ。つまり、みんなの前で呼ぶということは、何がしかの意味があるということで――。
「でね、あたしも協力するからね」
「協力? いちごが?」
「そう。紫蘭が『景ちゃん』って呼びやすくなるように」
「それは……どうも」
何をされるか分からないまま礼を――しかも、いちごに――言うのは抵抗があるけれど、「協力」と言われればやむを得ない。
「球技大会でちょうどよかったよね!」
なにやら嬉しそうに鼻歌を歌いながら、いちごは教室に戻って行った。その作戦が明らかになったのは、俺が出ているソフトボールの試合だった。
「景ちゃーん! がんばれー!」
打席に向かう俺に、後ろからいちごの大きな声が。
思わず振り向くと、いちごの隣にしぃちゃんがいる。にっこり微笑んでくれたけど、何か言ってくれた様子はない。もちろん、俺の名前など叫んでもいない。
でも、大声のいちごが俺を応援するというのは悪くない思い付きだ。これなら試合が終わるまでには――。
「景ちゃーん!」
「打ってー! 景ちゃーん!」
「景ちゃん、頑張ってー!」
――ん?
バットを構えると同時に聞こえてきた女子の声。でもこれは。
何か違う。これはしぃちゃんの声じゃない。それに、いちごの声でもない。しかも、こんなにたくさん――。
「ストライク!」
背後から「あ~」とも「きゃ~」ともつかない声が上がった。
――え? まさか……。
バットを構え直しながらそっと振り返る、と。
「……うわ」
思わず後ずさってしまった。
いちごを中心に並んだ女子が「景ちゃ~ん」と口々に叫び、飛び跳ねながら手を振った。まさに俺の名前の大安売り。妙に盛り上がる黄色い声に、手前に座っているチームメイトが苦笑いしている。
なんだあれは――とうろたえつつ構えた次の球はバットにかすってファウル。また女子たちのがっかり声。
――やばい、これ。
俺は注目されるのが苦手だ。良いことでも悪いことでも。
目立たないことを残念だとか、もったいないとか言うひともいるが、俺は目立たなくていい。できればクラス替え初日の自己紹介だって避けたいくらいだ。なのに、俺が一番恐れている女子の集団に注目されているなんて!
――……打たなきゃ。
三振して戻ったときの反応が怖い。慰められても、ののしられても怖い。
出塁すれば戻るまでの時間を稼げるし、女子たちの注意は次のバッターに移る。だから、何がなんでもヒットを打たなきゃ。
次の球は俺の頭を越えるほどのボール。キャッチャーが拾いに行っている間にこわごわ振り返ってみると、いちごがぴょんぴょん跳ねながら「景ちゃーん」と叫んだ。続いてほかの数人が声を合わせて「景ちゃーん!」と。
「…………」
どうしようもなくてちょっとうなずいた、そのとき。
――あれは。
いちごの隣のしぃちゃんが、手をメガホン代わりにして何か言っている。声はまったく聞こえないけれど――。
「が ん ば っ て」……かな。
もしかしたら……たぶん、声を出していない。俺にだけ分かるように、口の動きで伝えてくれたんだ。小さく手を振ったのは、俺が彼女を見ていることに気付いたからだ。
かちり、とスイッチが入った気がした。
さっきよりも体が軽い。バットを構えたら、自分の体がピッチャーの動きにリンクしているような気がする。
――来た。
ジャストミートしたのが分かった。スピードのある打球がピッチャーの横を抜けて行く。手はバットを放し、足が地面を蹴る。ファーストへ。
「セーフ」
ファーストベースに乗ると、審判の声が聞こえた。応援席で、今度は男の声も一緒に歓声が上がる。手を上げて応えると、みんなも手を振り返してくれた。しぃちゃんも笑顔で両手を上げている。
――やっぱり違う。
今、はっきり分かった。
しぃちゃんはほかの子とは違う。やっぱり特別だ。
彼女は俺に勇気をくれる。いや、勇気だけじゃない。前向きな気持ちや自己肯定感、それから……もっと根本的な、強くて、温かくて、良いもの。彼女の言葉や存在が、コンプレックスに埋もれた俺を少しずつ引き上げてくれる。
俺も特別になりたい。もらうばかりではなく、彼女に何かをあげられるような存在に。
なれるだろうか。いや、なれるかどうかを考えるんじゃない。なれるように努力するんだ。
試合が終わるまでに、俺のほかにも何人かの男子が女子から名前で呼ばれることが決まっていた。中には呼び捨てもいる。そんな状況を笑いながらいちごがそっとやって来て、小声で、でも偉そうに「あたしに感謝しなさいよ」と言った。
「これからはクラスのみんなが『景ちゃん』って呼ぶから、紫蘭も堂々と呼べるでしょ?」
と。
たぶんそういうことだと思っていた。いかにもいちごらしい。
「そうだな。ありがとう」
考えて実行してくれたことに感謝する気持ちはある。でも……。
大勢の女子に「景ちゃん」と呼ばれるのはどうにもバツが悪い、という俺の気持ちは、いちごには分からないようだ。
俺の試合を応援してもらったので、お返しにいちごとしぃちゃんが出るバレーボールを応援に行くことにした。……まあ、お返しじゃなくても俺は行きたかったのだけれど、ついつい言い訳してしまうのが俺の弱気なところだ。
女子のバレーボールチームは中学時代にバレー部だったという湯原早智が中心になっているらしい。湯原と親しい2人も見た感じスポーツは得意そうだ。爪を気にしてブツブツ言っていた元山泉美と道中このみは、試合前の軽い乱打で意外といい動きを見せた。いちごとしぃちゃんはどちらも体が小さいが、性格的に積極的ないちごの一方、しぃちゃんはおろおろしていて自信のなさがはっきり分かった。彼女が自分を運動音痴だと言っていたことを思い出した。
総勢7人のチームで、しぃちゃんは控えの選手。開始の礼のあと、ほっとした顔でコートから出てきた彼女を見て思わずにやにやしてしまった。
試合は比較的楽な展開で、うちのクラスが順調に点を重ねた。しぃちゃんを含めた応援団も盛り上がる。すると、あと数点で第一セットを取れるタイミングで、湯原が道中としぃちゃんの交代を指示した。点差が開いているので、上手くないメンバーを入れるのにちょうどいいと考えたのだろう。
声が掛かったしぃちゃんが肩をこわばらせたのが、後ろから見ていてもはっきり分かった。道中とすれ違ってコートに入るときも腰が引けている感じ。サーブのためにボールを受け取った顔は緊張で引きつっていた。かわいそうに……。
アンダーハンドのサーブはネットに引っかかってしまい、それで彼女がますます委縮してしまったのが分かった。さらに、落ち着かない視線は上がったボールにどう反応すべきか、コートの中でどこにいるべきか、一つひとつに彼女が迷っている証拠。体育の授業でやっているとはいえ、バレーボールの基本的な知識が足りないのだ。
「しぃちゃん! 落ち着いて!」
隣で礼央が叫んだ。彼女はうなずいて深呼吸をしたけれど、落ち着くのはたぶん無理だろう。
とは言え、少し点差が縮んだだけで無事に第一セットを取れた。笑顔で戻って来るメンバーの最後で、しぃちゃんはもう二度と出たくないという顔をしていた。
「……大鷹!」
盛り上がるクラスメイトから離れて小声で彼女を呼ぶ。第二セットがすぐ始まってしまうから、急いで伝えられることだけを選別する。
「あのね、バレーボールはね」
俺がアドバイスをするつもりだと気付いた彼女の表情が引き締まった。
「ボールが当たっても腕なら骨折することはないから大丈夫。あざは少しできることもあるけど」
「当たっても……? あ」
彼女が何かに気付いた。
「あたし、ボールを怖がってる?」
「うん。でも、ちゃんと構えてれば平気だから」
「構えるって、これでいいのかな」
アンダーハンドパスの構えをしてみせる彼女。
「そう。で、ここに三角形の板があるつもりで、ボールに対する角度を調整する」
「ボールに対する角度」
「うん。入射角と反射角みたいな。強いボールは当てるだけで跳ね返るから、球の威力に負けないように固定すればいい。腕が動くとずれちゃうから、とにかくしっかり固定」
「固定。はい」
彼女は「角度と固定」と言いながら腕を動かしてみている。ほんとうは体や脚の使い方も必要なのだけれど、練習する時間もないのでそこは省略だ。
「あと、想像力」
俺の言葉に彼女は不思議そうな顔をした。
「ボールが相手からこっちに来るときは、まっすぐか、斜め、どっちかしかない」
指で孤を描いて示すと彼女がうなずいた。
「だから、ネットを越えてくるときのコースを想像して、ここかなって場所に移動する。周りのメンバーと重ならないように考えて」
「ああ、そうか!」
納得した様子で彼女がぱちん、と手を合わせた。最低限の説明だけど、しぃちゃんには納得できる部分があったようだ。
彼女がコートに向き直る。
「ボールで骨折はしない。固定する。想像する」
一つひとつうなずきながら唱えると、振り返ってにっこりした。
「ありがとう」
同時に第二セット開始の合図。湯原がしぃちゃんを呼んでいる。後衛のスタメンで出すつもりらしい。しぃちゃんは「やってみるね」としっかりうなずいて駆けて行った。
相手チームのサーブで試合が始まってみると、しぃちゃんの表情がさっきとは違っている。足の動きは覚束ないながらも、ほかのメンバーとの間合いを調整しているのが分かる。実際にはほかのメンバーが彼女の守備範囲をカバーしているのだけれど。
「しぃちゃん、今度はちゃんとボールに集中してる」
隣に来ていた礼央が言った。
「景のアドバイスが良かったのかな」
見ていたなら、一緒にアドバイスしてくれてもよかったのに。……いや、気を利かせてくれたのかな。
「第一セット、かわいそうなくらいおろおろしてたから」
「そうだったね」
話している間もコートの中ではボールが行き来し、湯原のアタックで点が入った。選手と一緒に応援団も盛り上がる。
ローテーションでしぃちゃんは後衛の真ん中に移動。見回しているのは立ち位置を考えているのだろう。コートの外に出た湯原がサーブのボールを受け取ろうと手を上げている。
「よし。じゃあ、今度は俺が景に協力するよ」
「俺に?」
礼央はニヤリと笑ってコートに向き直る。そして。
「しぃちゃん! ファイト!」
隣のコートにも聞こえるくらい大きな声が響いた。周囲の視線が集まる中、しぃちゃんに笑顔で手を振る。しぃちゃんが真剣な表情でうなずいた。
「へへ、いちごちゃんの真似。景が『しぃちゃん』って呼べるように。さっき、呼べなかったよね?」
「礼央……」
ちゃんと気付かれていたのだ。
「この前から何度も迷った顔してたよ。俺と一緒なら大丈夫。すぐに普通のことになっちゃうよ」
「ん……、そうだよな」
とは言うものの、いよいよとなると頬が熱くなってきた。最初の最初が簡単じゃないのだ――と思った瞬間、相手の強めのアタックがしぃちゃんを直撃。正面から彼女の腕に当たったボールが高く上がった。
「やった! しぃちゃん!」
本人は尻餅をついているものの、ボールが上に揚がればラリーは続けられる。
フォローに入ったいちごが前衛に向かって高くボールを送る。タイミングを合わせて跳んだ芦野が軽くタッチして相手コートに落とした。
「やったよ! 取ったよ!」
礼央に向かって叫ぶ。偶然かも知れないけれど、しぃちゃんがアタックを受けたのだ。
礼央が笑顔で「しぃちゃーん!」と手を振った。振り向いたしぃちゃんに俺がガッツポーズをしてみせると、彼女は試合が始まって以来初めて嬉しそうな顔をした。
それから彼女の動きが変わった。硬さが取れて、上手ではないなりに、初めよりも少し積極的にボールに反応している。間もなく交代でコートから戻って来たとき、彼女は満足そうににこにこしていた。
試合は2セット連取で勝ち、メンバーも応援団もみんな笑顔だった。
「景ちゃん、ありがとう」
しぃちゃんはわざわざ俺のところに来てくれた。
「最初に受けたボールね、予想して立ってたところに飛んできたの。びっくりしちゃった」
いつもよりも少し早口なのは、きっとそのときの余韻が残っているからだろう。そんな彼女が不意にとても愛しく思えてきた。
「ちゃんと構える暇がなくて、ただボールが当たったって感じだったけど、予想が当たったって思ったらね、急に気持ちが変わったの。『来い!』って。『次は絶対取る』って。スポーツでそんなふうに思ったの初めてなの!」
「うん。1セット目とは動きが全然違ったよ」
「ほんと? 良かった。景ちゃんのお陰だよ。もらったアドバイス、こんなに効くなんて。まるで魔法の呪文みたい。すごく嬉しい」
はしゃいだ笑顔が胸の中を揺さぶる。アドバイスなんてほんの少しだったのに、こんなに喜んでくれている。これって、俺がしぃちゃんを喜ばせることができたってことなのか?
俺にそんなことができるなんて驚きだ。そして、どこか深いところから湧いてくる……何か、力強いもの。彼女は俺が魔法を使ったみたいだと言うけれど、俺にとっては彼女が喜んでくれることが、俺を強くしてくれる魔法だ。
「男子バスケ、そろそろだって! あたしたちも応援行こう!」
いちごが呼んでいる。出場する礼央がストレッチをしながら歩き出した。
しぃちゃんに視線を戻すのと、彼女が俺を見上げたのは同時だった。微笑んだ彼女の瞳に何かがひらめいたように思ったけれど、確かめる前に彼女はいちごのところに駆けて行ってしまった。あれは――。
「せーんぱい!」
「鵜之崎せんぱーい」
後ろから、聞こえた女子の声。俺を先輩と呼ぶ女子って誰だ?
「あ、図書委員の」
「絵島でーす」
「見浦でーす」
そうだった。名前がどっちがどっちかよく分からないけれど、あの日、俺としぃちゃんのことを勘違いしていたふたりだ。
「先輩、バレー部なんですよね? あたしたちにも教えてください」
「え?」
「さっき委員長に教えてたじゃないですかぁ。お願いしますー」
「あたしたちも上手になりたいんですぅ」
「え、ちょっと……」
並んで近寄られ、思わず後ずさりしてしまう。このふたりって、こういうキャラだっけ? そんなに親しくなったわけじゃなかったと思うのに……。
「鵜之崎せんぱい?」
「せんぱーい」
どうしてこんなに押しが強いんだろう? こういう甘ったるい話し方をされると怖い。しかもよく見たら……ってじろじろ見るものじゃないけど、体操服姿だと胸が目立つ。これも苦手だ。
「お、俺、友だちの応援に行かなくちゃならないから、ほかのバレー部員に頼んでみて。じゃ」
「あ! 先輩!」
「え~、待ってくださーい」
まだ声が聞こえるけれど、振り返るのはやめよう。礼央がいれば適当にあしらってくれるのに……。
どうして女子ってときどき意味不明なんだろう。だから俺は女子が苦手なんだ。
球技大会二日目、ソフトボールの打順を待っているときに、後ろで「Kuranちゃんも一緒に」という声が聞こえた。
「ネットで話題になってるパフェ、すっごく可愛いの!」
「あ、あたしも知ってる!」
「こだわりのフルーツソースなんだって! マンゴーとかヤバいよ」
応援に来ている女子たちが連休後半に遊びに行く話をしているらしい。くぅちゃんに会ったことは口止めされているよなあ、と思いながら、しぃちゃんがどう答えるのかこっそり聞き耳を立てる。
「Kuranちゃんもどこか空いてない?」
「一日くらいどうにかなるでしょ?」
熱心に誘っているのは元山と道中のようだ。以前からくぅちゃんのことをよく話題にしていた。
それにしても、この前もしぃちゃんたちは食べ物屋3軒をはしごする予定だったし、今回もまた食べ物屋に行く話だ。女子の食べ物に向ける情熱には恐れ入る。
「ごめんね、空いてる日は家族で出かけることになってて」
しぃちゃんのすまなそうな声がした。
「えー、そうなんだー?」
「残念~」
「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね。紅蘭もなかなか休みの日がないから……。久しぶりの家族の予定なの」
「それじゃあ、しょうがないねー」
――ふうん。
成り行きが分かったところで立ち上がってバットを取った。いちごの威勢の良い「景ちゃん、頼んだよ!」という声に応えて振り向き、さり気なくしぃちゃんも確認すると、俺の視線に気付いて微笑んでくれた。
――気を使うよなあ。
しぃちゃんの家族の予定というのはウソだ。ご両親はずっと仕事だから、彼女はのんびり過ごすと言っていた。くぅちゃんの予定は分からないけれど。
いや、もしかしたら、俺に言ったことがウソだったのかな? でも、俺にウソをつく意味がない。やっぱりさっきの方がウソだろう。
断ったのは、自分が行きたくないからか、くぅちゃんが嫌がるからか。自分だけが行くと言わなかったということは、彼女も気が進まないのかな。
しぃちゃんと元山たちは教室ではよく話しているけれど、それほど仲が良いわけではないのかも。いちごもしぃちゃんも、元山たちとは少し雰囲気が違う。まあ、俺が苦手なタイプかどうかという尺度での話だけど……。
バッターボックスに立つと、今日も女子たちの「景ちゃーん」という声が聞こえてくる。あの中にしぃちゃんも混じっていると思ったら、むくむくとやる気が湧いてきた。
振ったバットにぼこん! と、手ごたえを感じた。ほぼ同時に聞こえた「ぎゃー!」という声はいちごだ。打球がサードの頭を越えていき、走る俺にクラスメイトが叫んでいる。しぃちゃんの声は――聞き分けられない。
一塁ベースに乗って、息を整えながらしぃちゃんを探してみると、いつの間にか彼女は礼央と一緒にいた。バスケの試合が終わったのだ。集団から少し離れて、なにやら親密そうに話している。と思ったら、俺に気付いたふたりが笑顔で手を振った。
――なんだよ。
思わず湧き上がる拗ねたような気分。
どうして礼央は彼女とふたりでいるんだろう。何を話していたんだろう。いつだったか、礼央は俺のためにしぃちゃんと仲良くするようなことを言っていたけれど、あんなふうに、ふたりだけで話してるじゃないか……。
俺の試合が終わる前に女子たちは昼メシを食べに行ってしまったらしい。待ってくれていた礼央が「俺たちもお昼にしようよ」と笑顔で言った。そんな礼央を見たら、礼央としぃちゃんとの仲を気にしている自分にちょっと嫌気がさした。
「景、靴紐ほどけてるよ。踏むと危ない」
校舎の手前で礼央が教えてくれた。その場でしゃがんで靴ひもに手をかける――と。
「……ったく、頭にくるよ」
不意に女子の不機嫌な声が耳に飛び込んできた。はっとして手が止まる。
俺はひとが怒っている気配をかなり敏感にキャッチしてしまう。対人関係に自信がないから警戒心が働いているのか、他人の不機嫌さをキャッチしやすいせいで対人関係が苦手になったのか分からないけれど、とにかく不機嫌な雰囲気や声に素早く反応してしまうのだ。
そっと見回すと、声の出どころは部室棟への通路らしい。
「紫蘭ってさあ、あたしたちのこと馬鹿にしてる気がするんだよね」
「分かる~! 去年もときどき思ったよ~」
紫蘭、という名前にドキッとする。聞き違いかも、と思いながら顔を上げると礼央と目が合った。戸惑いの表情が俺の聞き違いではないことを示している。
「あたしたちに話を合わせてるけど、興味ないの丸わかりだし」
「そうそう! メイクとかブランドとか、全然知らないよねぇ? いつもすっぴんだしさぁ、ホントにKuranちゃんの姉妹? って感じ」
「さっきだって、誘ってあげたのに、家族で用事とか言っちゃって。はっきり『行きたくない』って言えばいいのに」
「だよねー! あたしたちに気を遣ってる風だけど、心の中では適当にあしらっちゃえって思ってるの見え見え」
数人の女子がいるようだ。自分たちが見えないことに安心しているらしく、声に遠慮がなくなっている。話の内容からして元山と道中もいるらしい。悪意のある断定調の言葉を聞いているうちに、なんだか息苦しくなってきた。
「あたしたちはさぁ、Kuranちゃんに会いたいから誘ってるのに、Kuranちゃんに話を通してもくれないで、即拒否だからね」
「でしょ?! 『訊いてみるね』くらい言ってくれてもいいじゃん? いつもそうなんだよ。腹立つよね~? 何様?」
なるほど。さっき、パフェの店にしぃちゃんを誘ったのは、くぅちゃんが目的だったのだ。どうやら、今までも同じような誘いをして、その度にしぃちゃんが断っていたらしい。
それにしても、しぃちゃんのことはどうでもいいってことなのか? 彼女たちにとってしぃちゃんはただの道具なのか?
「それよりさ、気付いた? 礼央くんがさ、紫蘭のこと『しぃちゃん』って呼んでるの」
俺も呼んでるけど……と思いながら礼央を見ると、俺を見返して軽く肩をすくめた。
「何それ? いつから?」
「きのう気付いた。しかも内緒話とかしてて」
ショックを受けたらしい「え~~~」という声にざまあみろ、と思う。内緒話には少しばかり複雑な思いもあるけれど。
「礼央くんは女子をだいたいファーストネームで呼ぶでしょ?」
「でも、紫蘭を『しぃちゃん』なんて呼んでる子、ほかにいないよ?」
「何かあったのかな?」
「紫蘭なんて何の面白味もないじゃん。礼央くんとは上手く行きっこないよ」
「ていうか、男子が興味持たないでしょ、あれじゃ」
「言えてる! あははは」
――面白味もないって。
俺にはお前たちの方が何の面白味もないぞ。不愉快なだけだ。
立ち上がると、礼央もうなずいた。こんな話、気分が悪い。さっさと移動しよう。
「女子ってよく見てるんだなあ」
離れて声が聞こえなくなると、礼央が苦笑した。呆れてはいるものの、礼央は自分が女子に見られていることをちゃんと知っている。それを踏まえての人懐っこさでもあるのだと俺は思っている。
「だけど、しぃちゃんのことは全然分かってないんだね。ね、景?」
「ああ」
俺はまだ腹の虫がおさまらなくて、苦笑いさえすることができない。でも彼女の笑顔を思い出したら――。
「うん。しぃちゃんはいい子だよ」
断固として言い切ると、礼央は「そうそう」と笑顔でうなずいた。
「景も、もっと大きい声で『しぃちゃん』って呼ばないと。みんなに聞こえないから俺だけみたいに思われちゃってるんだから」
「俺だってちゃんと声出してるけど? 女子の注目度が違うんだよ、礼央とは」
「そんなことないと思うよ。それに、俺がしぃちゃんと話したのって、ほんの1、2分なのに」
「そうなのか?」
じゃあ、俺が見たのもその短い時間だったのか? さっきの女子たちには嫉妬心で長く――いや、俺も同じか。でも内緒の話って、いったい何? 礼央としぃちゃんの間で?
「実は」
校舎に入るとき、礼央が少しあらたまった顔をした。
「しぃちゃんにちょっと……頼みごとをしてるんだ」
「頼みごと?」
問い返した俺の視線を避けるように、礼央は目を伏せた。
「うん。連休明けには結果が分かると思うから、上手くいったら景には話すね。ダメだったら……」
言葉を切り、少し考えてから上げた顔は笑顔だった。
「分かんないや。話したくなるかも知れないし、時間が必要かも知れない。そのときになってみないと……」
言い淀む礼央をみていたら、突然、自分が恥ずかしくなった。俺はまた礼央を疑っていたと気付いたから。それに気付いて、礼央はこんなふうに言うのだと。
「話さなくてもいいよ。そんなこと、気にしない」
「うん……。じゃあ、俺が何も言わなかったら、ダメだったって察して」
「分かった。もしかしたら、連休明けには俺が忘れちゃってるかもよ?」
「え~? それはそれで薄情な気がする」
礼央はこんなふうに笑っているけれど、その話は礼央にとって大きなことに違いない。いつもよりも気弱そうな笑顔や歯切れの悪い話し方でそれが分かる。
「頼みごと、上手くいくといいな。俺も祈ってる」
「はは、ありがと、景。俺も今は神頼みしかないからなぁ」
礼央がしぃちゃんに頼むようなことなんて、俺にはまったく思い付かない。……いや、思い付くのは礼央が……やめよう。もしそうだったら、俺がどう思おうと、礼央ははっきりと言うはずだ。
考えてみると、俺は礼央に何かを頼まれた記憶はない。ふわふわしているようで、他人を当てにしないのだ。俺よりもずっとしっかりしている。
「あ、礼央くんと景ちゃん。バレーの応援、ありがとね!」
後ろから「景ちゃん」とはっきり呼ばれ、一瞬怯んでしまった。追いついてきたのは女子バレーに出ていた湯原だ。並んでみると、いちごやしぃちゃんよりもかなり背が高い。
「ねぇ、景ちゃんでしょう、紫蘭にアドバイスしたの。すごいね。紫蘭の動き、前と全然違う。積極的で」
「そう? ほんの少し話しただけなんだけど、よかった、役に立てて」
チームメイトに認めてもらえたならしぃちゃんの進歩は本物だ。よかったね、しぃちゃん!
「それよりさっちゃん、すごかったね」
礼央が隣から声をかけた。
礼央は俺には信じられないくらいさらっと、女子をファーストネームやニックネームで呼んでしまう。そして女子たちはそれを違和感なく受け入れる。礼央と仲良くなって1年以上経つけれど、未だにその都度、驚きを禁じ得ない。
「バレーは今は体育だけしかやってないんだよね? なのに、アタックもサーブもばんばん決めて。現役と変わらないじゃん」
「うわー、ありがとう、礼央くん! いっぱい練習したんだ」
湯原は嬉しそうな顔をした。
「真剣勝負でバレーするの久しぶりで楽しかったよ~。今度さあ、昼休みに一緒にやらない? 景ちゃんも」
どうやら俺の「景ちゃん」はほんとうに定着したらしい。湯原の口調に面白半分の響きはないことに、心からほっとした。
いちごのお陰で、クラスでの俺の認知度が上がったようだ。また感謝しろと言われてしまうかも知れない。
「礼央くん! 景ちゃん! 部活ないんでしょ? 一緒に行かない?」
帰ろうとした俺たちに声が掛かった。振り向くと、十人ほどのクラスメイトがこちらを見ている。球技大会の打ち上げと称して遊びに行こうと話していたグループだ。
「んー、今日はやめとく。また今度ね」
礼央が慣れた様子でにこやかに手を振る。俺も真似して軽く手を上げ、「ありがとう、申し訳ない」という顔をしてみせた。でも、内心非常に面食らっている。
「どしたの、景? なんか妙な顔してる」
教室を出ると、礼央が俺の顔をのぞき込んで尋ねた。
一瞬迷ったけれど、礼央には素直に話すことにした。礼央に向かって格好つける必要などない。
「ちょっとびっくりして。俺、女子から遊びに誘われたの初めて」
「え? そうだっけ?」
礼央が首を傾げる。
「そうだよ。一緒にいても、声が掛かるのはいつも礼央だけだったから」
「あれは景も一緒にって意味だよ?」
「違うよ。まあ、おまけ的に、俺が『行く』って言えば断らないかも知れないけど」
そこで気付いて付け足す。誤解されないように。
「べつに俺、女子と遊びに行きたいわけじゃないよ? そういうの苦手だし。ただ、俺は見えないんだなあって思ってただけで」
「何が見えないの?」
「わ?!」
いきなり聞こえた女子の声。女子に関する話をしていたのに、なんて間が悪い! 恐る恐る振り向くと、いちごがにこにこしていた。その後ろには――。
「あ、しぃちゃん」
名前を呼ばれた彼女が「球技大会お疲れさま」とにっこりする。凛とした声がその場の空気を浄化したような気がした。
礼央が「もう帰るの?」と尋ねた。このふたりもクラスの打ち上げには行かないらしい。
「たい焼き屋さんに行くの」
しぃちゃんが嬉しそうに答えた。その笑顔につられて俺まで嬉しくなる。
うちの学校で「たい焼き屋」と言えば、駅との間にある住宅街の片隅でひっそりと営業している店だ。通学路からは少しそれていて、部活帰りにはもう閉まっているという商売っ気のない店だけど、だからこそなのか九重生に人気がある。
「いいねぇ。俺たちも寄ってく? 景?」
「行く! 俺、つぶあん」
いちごが「景ちゃん、変わんないね」と顔をしかめたものの、来るなと言わないということは一緒に行ってもいいらしい。さらにしぃちゃんも階段を下りながら笑いかけてくれて、帰り道が数倍楽しくなる予感に胸が膨らむ。
階段を吹き抜ける風に、しぃちゃんたちのセーラー服の白いスカーフが揺れる。入学当初は窮屈に感じた俺たちの昔ながらの学生服は、今ではすっかり体にも心にも馴染み、安心感さえ漂う。
校舎と自分たちの声と制服。そして仲間。ときどきふと、その中にいることの幸運を思う。するとすぐに、それが期間限定であることの一抹の淋しさや惜別、焦りのような感情が湧いてくる。俺たちはこれからどこに向かうのだろう……と。
「ねぇ、さっき、何が見えないって言ってたの?」
玄関で靴を履き替えながらいちごが尋ねた。
礼央が何も言わずに俺を見る。いくら俺といちごが幼馴染みでも、俺のプライドを尊重しようとしてくれる、こういう心遣いも礼央のいいところだ。
「ああ……、女子には俺が見えないって話」
まあ、いちごに隠すほどの話ではない。小学校からずっと同じ学校なのだから、俺がモテないことは承知しているはずだ。いちごと親しいしぃちゃんにも、隠してもしょうがない。
「何それ? なんで? 景ちゃん、でっかくて目立つんだから、見えないわけないじゃん。あ、でっかすぎて見えないってこと?」
「はは、そういう意味じゃなくて……、そうだな、眼中にないってやつ?」
「眼中にない? 誰にそんなこと言われたの?」
いちごが眉をひそめた。笑ってからかわれると思っていたのに、そんな反応をされると戸惑いが生じてしまう。
「べつに言われてないけど……、なんか、俺、邪魔みたいだから」
「邪魔って――」
「まあ、仕方ないじゃん? 特にいいところがあるわけじゃないし、話しても面白くないしね。あ、俺、べつに悔しいとか、恨んでるとか、ないから。負け惜しみじゃなく本気で」
「景ちゃん……」
いちごの顔に浮かんでいるのは驚き……だろうか。俺が予想していた“憐れむような顔”とは違う……と思う。何故?
「面白い話なんか、誰も景ちゃんに求めてないよ」
「だよな? だから――」
「景ちゃんに求めてるのはやさしさだよ」
「……え?」
よく分からない。誰が俺に求めるのだ。
「景ちゃんは女子に人気あったよ、やさしいって。中学のとき、あたし、しょっちゅう訊かれたもん、『付き合ってるの?』って」
「ただ確認しただけだろ、ウワサにしたいから」
「違うって! 景ちゃんのこと好きな子、けっこういたんだよ。どうして邪魔にされてるなんて思ってるのか分かんないよ」
「えーーーー?」
どんなに力説されても信じられない。
「勘違いじゃないって。俺、話しかけたらにらまれたんだから。それに、いちごだって俺にいいところなんてないって知ってるだろ?」
「それは……いつもけなして悪かったけど、それは幼馴染みだからでしょ? 景ちゃんだって、あたしのこと褒めないでしょ?」
「ああ、それはそうだな」
言われてみれば、そこは仕方ないか。
「ねえ、景ちゃんをにらんだって、誰?」
「誰って……女子の集団」
「集団?」
「その中のひとりに用事があって話しかけようとしたら、周りの女子が振り向いて、こう“キッ”と……。それ以来、女子には話しかけないようにした。特に集団には絶対に近付かない」
「あはは、トラウマになっちゃったんだね、景」
礼央が隣で笑った。でも、男ならこの恐怖は分かるはずだ。どんなに人気者でも。
「それ、いつの話?」
いちごはまだあきらめないようだ。
「めっちゃ覚えてるよ! 中2の夏休みのあと。あのときの景色、今でも忘れない。ほんと怖かった」
「中2ね。あたし、隣のクラスだったけど……、それ、アイカたちじゃない? 砂熊アイカ。あと鮭川アリスとか鶴野アミ……」
「お~! そうそう、そこ!」
「ああ……、それさあ、ヤキモチだよ」
「はあ?」
なんで俺がヤキモチでにらまれなきゃならないのだ。
「景ちゃんが話しかけたのはアイカたちじゃない誰かでしょう?」
「そう。同じ班の――」
「だから悔しかったんだよ。どうして自分たちに話しかけてくれないのかって」
「だって用事無いもん」
「アイカたちは景ちゃんのことがずっと気になってたんだよ。あたし知ってるもん。仲良くなりたいのに、景ちゃんが気付かないって相談されたんだから」
そんなこと言われても、俺はもともと女子と気軽にふざけ合ったりする性格ではない。しかもにらまれた相手となんか、仲良くなれないに決まってるじゃないか。
まだ信じられない俺にいちごがため息をついた。
「景ちゃんはやさしいってみんな言ってたよ。それに背が高い、運動神経がいい、成績がいい。これだけあれば人気出ると思うよ?」
「背が高いのはたまたまだろ? スポーツは運動部なら普通だし、成績だって諒に比べたら――」
「そこは間違ってる! 諒ちゃんと比べてどうする! 諒ちゃんは特別なんだから!」
そりゃそうだけど。
「景ちゃんは受験のとき、九重高校で反対されなかったでしょ? あたしなんか、先生にも親にもどれほど『考え直せ』って言われたか」
「そうなのか? でも、頭いいヤツなんか一定数いるし、顔も平凡だしなあ……」
礼央が隣でくすくす笑ってる。
いちごに何を言われても、俺が女子に人気があるなんて信じられない。そんな実感も一度もなかった。
「景にはね、女子が近寄り難い雰囲気があると思うな」
礼央が明るく言った。
「俺みたいにへらへらしてなくて、一本芯が通った感じで。この前、しぃちゃんが言ってたように、真面目。だから軽々しく声をかけられない」
もしかすると、俺は普段、仏頂面をしているのだろうか。
「だけど、俺を遊びに誘う女の子たちのうち何人かは景がお目当てだったと思うよ」
「そんなわけないだろ? 礼央まで何言ってんだよ」
「あはは、でも、いちごちゃんのお陰で、景にも話しかけて大丈夫って思ったんじゃないかな。みんな『景ちゃん』って呼ぶとき楽しそうだよ」
女子からの圧が強くなったような気がするのは確かだ。
「俺自身は何も変わらないのに」
「景の良さに女子が気付いたんだよ。でも」
「ぐぇっ」
礼央のハグが来た! 予想していなかったところに!
「一番に気付いたのは俺だもんねー」
「わ…かった、礼央、感謝してる、でも苦しい……」
いちごと一緒にしぃちゃんが笑ってる。それを見たら、彼女に訊いてみたいことが――。
「ねえ? 紫蘭が彼氏になるひとに求めるのは何?」
――それだ!
しぃちゃんに尋ねたいちごが、ちらりと俺を見た。面白がっているのがありありと分かる。けど、俺が知りたかったのはまさにそれなのだ!
「え? 求めるもの? そうだなあ……」
何て答えるのだろう? 俺でも大丈夫なものだといいけれど。今、「やさしさ」って言ってくれたら……。
「清潔感かな」
「清潔感って、紫蘭!」
いちごが笑い出した。俺はなんだか力が抜けた。
「それ、基本中の基本でしょ? 当てはまらないひとって、相当ヤバいひとだけじゃん」
俺もそう思う。でも、しぃちゃんは「そんなことないと思うけどなあ」と真面目な顔。
「じゃあさ、紫蘭の“当てはまらないひと”ってどんな?」
そこだ! 今日のいちごは冴えてるぞ!
「うーん、例えば……『俺ってモテるんだぜ』的なひととか、妙にセクシーな雰囲気出してるひととか、やたらと女の子扱いしてくるひととか? なんか気持ち悪い」
「ああ、そういう感じね。あたしもヤだなあ」
「でしょ?」
うん、それなら俺にも分かる。俺から見ても“やりすぎ”だと思うヤツは確かにいる。
「そうか……」
いちごがうなずいた。
「つまり、紫蘭が言う清潔感って、さわやかさって感じだね」
「ああ、確かにそうね。うん、さわやかなひと。いいね」
「だよねー」
いちごが俺を見てにやにやした。でも……。
俺は“さわやか”に該当しているのか?
いちごのにやにや顔を見てもまったく分からない。俺としては“やりすぎ”には入っていないとは思うけれど……。
考えれば考えるほど、すべてが不確かになっていく。こんなことなら、何も聞かない方がよかったかも知れない。
「明日からは部活だねぇ」
鯛焼き屋に寄ったあと、礼央がのんびりと言った。連休後半は、毎日午後に練習が入っている。
「朝寝坊できるから、午後の部活はいいよな」
「景ちゃん、今でもたくさん寝るんだってね。まだ背が伸びるのかな」
その情報の出どころは諒か。俺の背が一気に伸びたころ、いちごにはさんざん「寝る子は育つってやつだ!」とからかわれた。
「あたしは最終日に諒ちゃんと出かけるんだ」
いちごが楽しげに言ってから、礼央に「景ちゃんのお兄さん、あたしの彼氏なの」と説明した。俺と幼馴染みだということは知っていた礼央もこの情報は――。
「そうじゃないかと思ってたんだ」
予想していたらしい。
「幼馴染みの彼氏がいるって聞いてたから、景の状況と併せて考えると……ね?」
そりゃそうか。
礼央にデートの行き先を尋ねられ、いちごはスマホを取り出した。
「美味しそうなパフェの店を教えてもらったから行きたいなー、と思ってるんだけど。ええと……ほら、これ。今、人気なんだって」
スマホの画面にはたくさんのパフェの写真。イチゴやメロン、マンゴーなど、つややかな果物が載っている。普通のパフェと違い、まっすぐな円柱形のグラスに入っているのが特徴的だ。
「一番上が生クリームとバニラアイス、その次がシャーベット、その下にブラウニー、で、フルーツソース、ミルクプリン、だって」
「すごいな」
礼央と同時につぶやいた。こんなパフェ、諒が食べられるのだろうか。いや、その前に、おそらく客は女子ばかりの店に諒は入れるのか?
「しぃちゃんは? くぅちゃんと行かないの?」
礼央が尋ねると、しぃちゃんは一瞬微妙な顔をしてから小さく笑って。
「いつかね。連休中は家から出られないし」
「家から……? あ、もしかして」
視線が俺に集まる。
「元山たちの誘いを断ったことを気にしてるの?」
くぅちゃんの名前が聞こえたとき、たしか、パフェの話で盛り上がっていた。いちごが行くのはその店なのだ。
「ああ……、まあ、そうね。知ってたんだ?」
「聞こえたから」
「そっか。家族で出かけるって言っちゃったからね。誰かとばったり会うと困るでしょ?」
苦笑いするしぃちゃんの横で、いちごが「あの子たちねぇ……」と顔をしかめる。礼央は俺を見て小さくうなずいた。体育館の陰から聞こえた会話を思い出したのだろう。
「誘ってくれるのはありがたいんだけど、初対面のひとばっかりの中に入るのは、くぅちゃんは好きじゃないんだ」
その気持ち、俺にも分かる。知らない相手と遊んでも、緊張が続いて疲れてしまう。想像するだけで気が滅入ってくる。
「『誘ってくれる』なんて言う必要ないよ」
いちごがぷりぷりしながら言った。
「自分の都合で紫蘭に近付いてるだけなんだから。ただ有名人に会いたいだけじゃん。で、自慢するとか、自分が注目されたいだけ」
当事者であるしぃちゃんが腹を立てない分、いちごが憤慨している。ふたりとも、元山たちがくぅちゃん目当てだととっくに分かっていたのだ。
「ときどきいるんだよねー。くぅちゃんに会いたいとか、内輪の情報を聞きたいっていう理由であたしと仲良くしてくれるひと」
しぃちゃんが遠くに視線を向けて、ゆっくりと言った。
「中学までは同じ学校に通ってたから、そういうことはなかったんだけどなあ……」
「去年は露骨だったよ」
いちごが鼻息を荒くした。
「最初は何するにも『一緒にやろう』って声かけてきてたグループが、紫蘭がKuranちゃんへの橋渡しは絶対にしないって分かったら、即、離れて行ったもん」
「ふふ。でも、いちごがいるから、あたしは安心していられたよ」
しぃちゃんに感謝の微笑みを向けられたいちごが、「だって、紫蘭はいい子だもーん」と頭を撫でた。その役は俺がやりたい……。
「残りの連休、ずっと閉じこもってなきゃならないんじゃ、つまんないね」
いちごが礼央と話し始めたので、自然としぃちゃんと並ぶ形になった。ふと、彼女の肩と自分の腕との隙間が気になってしまう。この幅は適切なのだろうか?
「ううん、そんなことないの。あたし、もともとインドア派だもん」
俺に向けられた自然な微笑み。ということは、今の距離でOKのようだ――と、ほっとした。
そう言えば、しぃちゃんは本を読むんだった。息をするのと同じ、と言っていたから、何時間でも読んでいられるのかも知れない。
「じゃあ、家にいるのも楽しいんだね」
「そう。でも、運動不足になっちゃうね。食べ過ぎないように気をつけなくちゃ」
にこにこしているしぃちゃんに心から感心してしまった。
だって、自分を利用しようとする友だちがいても動じないのだ。しかも、いつも笑顔で対応している。体は小さいけれど、元山たちよりも中身はずっと大人なのではないだろうか。
「あのね、」
不意にしぃちゃんが声を低めた。前を行く礼央といちごに聞こえないように?
「あたし、景ちゃんはやさしいって当たってると思うよ」
「え……?」
「さっきの、中学時代の話。あたしもそう思うもん」
澄んだ瞳で俺を見上げて、口許には親しげな微笑みを浮かべて。俺がやさしいって? そう思うって?
「え? え? 俺が? そうかな?」
なんだか妙に慌ててしまう。せっかくしぃちゃんが褒めてくれてるのに、こんな反応しかできないなんて!
「ええと、その、ありがとう」
もっと格好良く振る舞いたかった。でも、そんなふうに面と向かって言われたら、照れくさいに決まってるよ。だけど……。
しぃちゃんはさっき、やさしい男がタイプだとは言わなかった。
つまり、やさしいと認定されたことと、しぃちゃんが俺を好きになってくれるかどうかは関係ないってことなのかな……。
駅で、上り電車に乗る礼央としぃちゃんと別れた。いちごとしゃべりながら反対のホームにいるふたりの姿をこっそり探すと、九重生の集団の向こうにいるのが見えた。
ふと、礼央のさわやかさにあらためて気付いた。笑顔も立ち姿も垢抜けていて、姿勢の良いしぃちゃんと並んだ様子は青春ドラマの一場面のようだ。
そう言えば、礼央がしぃちゃんに何か頼みごとをしたと言っていた。あれはいったい何なのだろう……。
いちごとくだらない話をしながら電車に乗り、家の近くでひとりになると、一気にこの二日間の記憶が浮かんできた。自分が出場したソフトボールのプレーや他のクラスの女子にも応援されていた礼央のこと、女子たちに広まった俺の呼び名のこと、そして……しぃちゃんのこと。
――嬉しそうだったなあ。
バレーボールの試合のあと、初めて試合を楽しめたと言ってくれたしぃちゃん。俺のほんの少しのアドバイスを喜んでくれたことがとても嬉しかった。そして今は、その喜びを全身で表現していた彼女が……なんだかとても愛おしく思える。
ほんとうは球技大会中にもっと彼女と話せるんじゃないかと思っていた。でも、チームが違うとタイムスケジュールが違うから、そう上手くはいかなくて残念だった。だけど、今日は一緒に帰れたし……もしかしたら、いちごのお陰なのかな? でも、感謝しろとは言われなかったから、やっぱり偶然かな。
駅で並んでいたしぃちゃんと礼央。離れていても、和やかで楽しげな雰囲気が伝わって来た。俺よりも礼央の方がしぃちゃんとは……?
――いやいや、だめだ!
他人と比較しない約束だった。……でも、これは俺が比較してるんじゃなくて、しぃちゃんが礼央と俺を比較するってことか?
いや、それはきっと、ない。
だって……例えば、俺はしぃちゃんとくぅちゃんの優劣を比べたりしない。それぞれに個性があって、それぞれにいいところがあると思うから。いちごや礼央のことだって、誰かと較べて信用するかどうか決めたわけじゃない。
友だちは比較して選ぶんじゃない。条件がいいから仲良くするとか好きだとか、そういうものではないはずだ。しぃちゃんもきっとそう思ってる。
いずれ社会に出たら、条件で誰かを判断する場合もあるのかも知れない。でも、今の俺たちにはそんな判断は必要ないはずだ。もしかしたら、学校というところは、“誰をどう信じるのか”を勉強する場でもあるのかも知れない。
誰をどう信じるのか……。
考えてみると、しぃちゃんはその判断を俺よりもたくさんしなくてはならないのだ。くぅちゃん目当てに近付いてくる友だちがいるから。
そして、相手に下心があると分かっても、無視したり頑なな態度で接したりすることはきっとできない。これは俺の印象に過ぎないけれど、しぃちゃんはそういうことは苦手そうな気がする。
俺は今までのところ、諒目当てで近付かれたという経験はない。自分の劣等感で、勝手に悪いことを想像してびくびくしていただけだ。
――しぃちゃんとゆっくり話したいな……。
こま切れの時間では物足りない。話したいという気持ちがどんどん膨らんでいくばかりだ。
彼女と話すと楽しいというだけじゃない。彼女のいいところが俺に流れ込んできて、新しい世界が広がるような気がする。
しぃちゃんの魔法だ。俺を導いてくれる魔法。
……なんて理由は関係なく、ただ、たくさん、ふたりきりで話したい、かな。
ゴールデンウィークもとうとう最終日。
休み中にしぃちゃんに電話してみようかと何度も思った。でも、できていない。頭の中では何度も電話をかけて、何種類もの想定問答を繰り返しているのに。
いざとなると、どうしても決心がつかない。
すぐに学校が始まるし……とか、もしかしたら向こうから連絡してくれるかも、とか、彼女は忙しいかも、とか、電話をしない理由を考え出して引き延ばしている。でもほんとうは、その後ろに、自分は彼女と親しくすることを許されているのか、という疑問が常にあるのだ。
しぃちゃんと親しいという認識は、俺の思い上がりではないか。彼女の笑顔を都合の良いように解釈しているのではないか。
そして、彼女を思うたびに思い出すのが礼央のこと。並んだふたりの姿と、礼央の頼みごとの話だ。
部活で礼央と顔を合わせても、本人は飄々としていて、憂いがあるようには見えない。たいした頼みごとではないのかも知れないと考えるのだけれど、俺に話せないという部分が、その考えを揺るがせてしまう。気になるのはどうしようもない。
早くゴールデンウィークが明けて、結果が出ればいい。礼央に――俺にも――嬉しい結果が。
部活が午後からなのでゆっくり起きて、居間に下りると台所に諒がいた。
「おはよう、景。目玉焼き食べる?」
「あ、食べる!」
俺と諒の朝食は主食のパンに、卵と果物と牛乳と決まっている。放っておくとパンしか食べない俺たちに栄養を取らせるため、常に忙しい母親が決めたメニューだ。卵はその日によって目玉焼きかスクランブルエッグ、果物はその季節のものが買ってある。秋の終わりから春まで続くリンゴが一番長く、春はイチゴやメロン、グレープフルーツ、夏は梨、秋には柿……という具合で、俺たちは朝食で季節を感じることができる。ちなみに俺は、果物の中では梨が一番好きだ。
諒が卵を焼いているあいだに俺はメロン――白っぽくて楕円形のやつ――を一口大に切って器に入れる。うちではメロンはスプーンですくって食べるのではなく、切って盛る。
「母さんたちは?」
「母さんはまだ寝てる。父さんはサッカー」
「ふうん」
父親は草サッカーチームに入っていて、休日には練習やら試合やらで出かけることが多い。俺たちが小さいころは一緒に行ったりもしたけれど、今は父親ひとりの楽しみになっている。
「ゴールデンウィークも終わりだなあ」
朝食の席に着いたとき、諒がぼんやりと言った。
「景は遊びに行った?」
「行ったよ、礼央と映画見に。礼央の弟も一緒に」
諒は「ああ、そう言ってたね」と微笑んだ。連休中も研究室に通っていたから、休みの実感があまりないのかも知れない。
「礼央くんって、親戚の家で暮らしてる子だったよね? 弟さんとは別々に」
「うん。一緒に住めないけど、仲はめっちゃいいよ。俺、あのふたりを見てると、一緒に幸せな気分になる」
諒が俺を見てにっこりする。その笑顔は礼央が太河に向ける笑顔と似ていて、こういうとき、諒が俺の兄貴でよかったと思うのだ。
今日はいちごと出かけるという諒の言葉でいちごの話を思い出した。中学のときに、俺が女子の気持ちに気付かなかったという話を。
「諒はさあ、中学とか高校とかでモテたよね?」
思いがけない質問だったらしく、諒は一瞬、動きを止めた。それから「どうだったかな」と首を傾げた。勉強以外はぼんやりしたところのある諒だから、ほんとうに分からないのかも知れない。
4歳差の俺は、中学・高校での諒の姿は実際には見ていない。でも、やさしくて優秀で顔もまあまあの諒が、女子に人気がなかったわけがない。
「チョコレートをもらったりはしたけど……」
「やっぱり」
「いちごよりいい子だと思えた子はいなかったんだよなあ。あの頃はあんまり恋とか考えてなかったけど……」
「そ、そうなんだ?」
さらっといちごがいいなんて言うなよ。俺の方が照れくさくなるじゃないか。
まあ、いちごの名前も出たことだし、気になっていることを話すのにちょうどいい。
「いちごがさあ、中学のとき、俺と……仲良くなりたがってた女子が何人かいたって言ってたんだ。でも俺はそんなのまったく覚えがないんだよね。ちゃんと話したこともないのに、俺の何を気に入ったんだろうって」
「そうだね……」
テーブルに肘をついた諒がフォークで刺したメロンをぼんやりと揺らす。と、俺を見て微笑んだ。
「景には感情を感じ取る力があるよ」
感情を感じ取る力――。
そんなこと、初めて言われた。
「ほかのひとの感じていることを、景は一緒に感じ取ってる。感じ取って同調しちゃう。共感っていう言い方もあるけど、景の場合は同調、だと思う。さっきも言ってたね、礼央くんと弟さんを見てると幸せな気分になるって」
確かに言った。でも。
「そういうのって、誰にでもあるんじゃないの? 映画見て泣くとか……、空気読むっていうじゃん?」
「そうだけど、景の場合は少し違うんだよ。感じ取ったことをそのまま取り込んじゃうっていうか……、そう、本人と同じくらい大きく、重く、感じてる。空気を読んで利用するんじゃなくてね」
「うーん……」
諒の言ってることは分かる。分かるけど、そんなに特別なことなのか?
「小さいころから、景は俺の感情にも敏感だったよ。俺はそれに何度も助けられた」
「助けた? 俺が?」
「うん。学校でうまくいかなくても、景といると癒された」
「一緒にいるだけで?」
「そうだよ。俺が何も言わなくても景は感じ取ってた。気持ちを分かってくれる誰かがいるってとても心強いよ。それだけで十分なんだ」
気持ちを分かってくれる誰か。俺がそういう存在だってこと?
でも、他人の感情に同調しやすいというのはほんとうだ。俺が悲しいドラマや悲惨なドキュメンタリーを見ないのはそのせいなのだ。見るととても苦しくて、何日もそれを引きずってしまうから。その“尾を引く”という部分で友人たちと違うらしいと気付いたときは驚いたっけ。それに、同調はしないけれど、誰かの不機嫌や怒りの感情をキャッチしやすいのも俺の特質の一つだ。
「いちごが言うように、景のこと好きだった子、少なくなかったと思うな」
諒がつぶやいた。
「うーん……、俺が癒しになるから?」
「やさしいからだよ」
まっすぐに俺を見つめる諒。いちごも「やさしい」という言葉を使っていたけれど……。
「やさしいっていうのは直接何かをしてあげることだけを言うわけじゃないよ。相手の気持ちを理解したり、尊重したり……、思いやること。中学生の男子でそれができる子はなかなかいないと思うよ」
「でも、女子とはほとんど接点がなかったんだけどなあ」
「直接話さなくても、教室で一緒に過ごしてたら分かるよ」
「コクられたこともないし」
「あはは、それはどうしてだろうね。近寄り難いのかな。……ああ、景は恋愛感情に関しては鈍感なんだね」
「ん、確かに」
いちごが諒を好きだということにも気付かなかった。
「でも、それは分からない方がすっきりしていいなあ」
分かったら、俺みたいな性格だと気を張り続けなくちゃならなくなりそうだ。
諒が「そうだね」と笑った。その笑顔を見ながらもう一度、諒が俺の兄貴でよかったなあ、と思う。
「諒が学校で上手くいかなかったことなんてあるの?」
話の途中で気になったことを訊いてみる。一緒に住んでいても、こんなふうにゆっくり話せるのは久しぶりだ。
「あるよ、もちろん」
諒が静かに笑った。
「学校って……特に小学校や中学校って、勉強ができるとほかの部分も優秀に見えるみたいで、期待されることが多かったから」
「ああ。で、諒は性格もいいから……あ、いや、お人好しなんだ」
「ははは、そうだよね、お人好し。断れなくて……いろいろあったなあ……」
諒の言う意味がなんとなく分かった。
先生の信頼が同級生の羨望や妬みの原因になることもある。失敗できないプレッシャーを背負うこともある。諒は真実、優秀で、期待されたことを完璧にやってのけたのだろう。だから先生たちの記憶にも残っている。けれど、それが更なるプレッシャーにつながった可能性もあるのだ。
そんな諒に俺が――ただいるだけで――助けになったというのが嬉しい。そう思ってくれることがとても有り難いし、勇気が湧いてくる。まるで自分が特別な存在みたいだ。
特別な存在――。
そうだ。しぃちゃんは俺にとって特別だ。彼女の笑顔と言葉は俺をよい方向へと向かわせてくれる。
そして、礼央も特別だ。弟を思い、自分の人生を真剣に考えている礼央の姿は、俺にとってひとつのお手本となっている。
家族以外で、俺を特別な存在だと思ってくれるひとはいるだろうか。俺が他人の助けとなれることはあるのだろうか……。
「景がいたから頑張れたんだよなあ。景をがっかりさせたくなかったし、失敗したら、後で景が何か言われるかも、とか思ったりして」
「え? 俺のために?」
「うん。まあ、もちろんそれだけじゃないけど、そんなことも思ってたよ」
穏やかに笑う諒。
諒がそんなふうに考えていたなんてまったく知らなかった。俺はなんて間抜けだったのだろう。何も知らずに、勝手にコンプレックスを抱えて。
「そっか……、ありがとう。俺、全然気がつかなかった」
「あはは、小学生や中学生で他人の行動の裏側を読み取れたら、ゆくゆくは名探偵か大犯罪者になれるよ。それに、景には景の頑張らなくちゃならないことがあっただろ?」
笑顔の諒と礼央が重なる。同時に、この前、自分が太河に言った言葉がよみがえった。礼央が頑張れるのは太河がいるから――。
「ねえ、諒? 俺に何かしてほしいことある?」
「んー?」
新聞に手を伸ばしながら諒が考える。そして、すぐににっこりした。
「じゃあ、今朝の食器洗い当番」
「え?! それは」
そういう「してほしいこと」じゃなかったんだけど……。
まあ、いいや。諒が俺を大切に思ってくれていた時間を考えたら、朝食の食器洗いくらいでは全然足りないもんな。