重い気持ちを抱えたままでアパートに戻った俺は、石油ファンヒーターを点けると、コートだけ脱いで、そのまま座布団の上に胡座を掻いた。

 砂夜の精いっぱいの気持ちが入っているという白い小箱。
 いったい、中には何があるのか。

 俺は、期待と不安、ふたつの対照的な想いを抱えながら、ゆっくりと蓋を開けた。

 中から現れたのは、シルバーメッキのジッポーだった。
 よく見ると、〈Love forever〉という英語が控えめに刻印されている。

 俺はヘビースモーカーではないけれど、ストレスが溜まったり、酒を口にすると、無性に煙草を吸いたくなる衝動に駆られることがある。

 砂夜も当然、その癖を知っていた。
 けれども、煙草を嫌悪している砂夜は、俺が吸おうとすると、「身体に悪いよ!」と顔をしかめながら説教する。
 説教されても、結局は、右から左に聞き流し、吸ってしまっていたのだけど。

 だから、煙草嫌いの砂夜がジッポーをプレゼントしてきたことに俺は驚いていた。
 しかも、決して安いとは言い難い代物だ。

「これじゃあ俺に、『どんどん煙草を吸ってね』って言ってるようなもんじゃねえか……」

 俺はひとりごちながら苦笑いし、箱からジッポーを取り出した。
 金属特有の重みと同時に、ひんやりとした感触が手を通して伝わる。

 ふと、箱の底に、ふたつ折りにされた紙切れが入っているのが目に飛び込んだ。

「なんだこれ……?」

 俺は首を捻りながら、ジッポーを握り締めた反対側の手でそれを摘まみ、ゆっくりと開いた。


 お誕生日おめでとうございます。
 あなたがこの世に生まれた素敵な記念日、これからも一緒にお祝いさせてくれませんか……?


 短い、けれども、俺を心を揺さぶるのに充分過ぎるほど、砂夜の切々とした想いがそのメッセージには籠められていた。

 それなのに、「ごめん」という残酷で簡単な一言で済ませてしまった俺。
 どれほど砂夜を傷付けてしまっただろう。

「また明日、ちゃんと顔を合わせて話そうか……」

 俺は自らに言い聞かせ、メッセージと共にジッポーを箱に戻した。
 突然、スーツのジャケットの内ポケットに入れたままにしていた携帯電話が、ブルブルと震え出した。

 俺はハッとして顔を上げ、目に飛び込んだ壁時計を仰ぎ見る。
 どうやら、二時間ほどローテーブルの上でうつ伏せになって眠ってしまっていたらしい。

 携帯は、相変わらず震え続けていた。

 俺は内ポケットを弄って携帯を出すと、出る前に着信相手を確認する。
 けれども、未登録の相手だったらしく、名前ではなく、携帯番号が表示されていた。

「もしもし?」

 いつも以上にトーンを落として電話に出た。
 もしかしたら、間違い電話なのでは、と思い込んでいたのだ。でも、すぐに間違い電話ではなかったことに気付いた。

『あ、もしもし宮崎君? 倉田(くらた)です』

 俺とは対照的なソプラノボイスで、相手は最初に名乗った。

 倉田という名前は、よく知っている。
 同じ職場の三歳年上の女性社員だ。

「はい、宮崎ですけど……。どうしましたか?」

 携帯番号を知っていることにも少なからず驚いたが、それよりも、急に電話をかけてきたことの方がより気になった。

『――宮崎君……』

 そこまで言いかけて、倉田さんは押し黙ってしまった。

「あの、倉田さん……?」

 このままだと、延々と沈黙を守ったままになりそうだ。
 俺はそう思い、電話の向こうの倉田さんに呼びかけてみる。

『――宮崎君……』

 また、先ほどと同様、俺の苗字を口にするのみだった。

 じれったい。
 けれど、急かす気にもなれず、倉田さんから話を切り出すまで、こちらもジッと携帯を耳に押し当てていた。
『――宮崎君、落ち着いて聴いてね?』

 ようやく意を決したのか、倉田さんが口を開いた。

『――砂夜……、死んじゃった……』

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。

 俺は呼吸を整えると、「もう一度言ってくれませんか?」と訊いた。

『――だから……、砂夜が死んだ、って……』

 何度も言わせないで、というニュアンスを籠めて、倉田さんは繰り返す。

 俺の中で、何かが崩壊した。

 倉田さんは冗談を言っている。そう思いたかった。
 しかし、彼女はつまらない嘘は吐かない人だ。
 ましてや、人の死を軽々しく口にするなんてことは絶対にあり得ない。

『――宮崎君……?』

 俺からの反応がなくなったことに、今度は倉田さんの方が気になったらしい。
 電話の向こうから、恐る恐るといった感じで俺に呼びかけてきた。

「――聴こえてます……」

 辛うじて口にしたが、自分でも、声が掠れ、震えているのが分かった。

 恐らく、倉田さんにも俺の動揺は伝わったはずだ。
 倉田さんは心配そうに、けれども、気丈に続けた。

『明日、ごく近しい身内だけで仮通夜をやって、明後日に本通夜、明々後日に葬儀と火葬をするそうよ。宮崎君、砂夜とは凄く仲が良かったし、顔を見せてあげて。砂夜もきっと喜ぶから……』

「――分かりました……」

 倉田さんの言葉に、俺はやはり、上の空で答える。

 最後に、『それじゃあね』と別れの挨拶をされて通話が途切れてからも、携帯を耳から放せなかった。

 右手には、変わらずにジッポーが握られている。
 ずしりとした重みが、俺の心に突き刺さった。
 翌日は、いつも通りに出社した。
 一見、いつもと変わらぬ光景だが、そこには、いるはずの人間がひとり欠けていた。

 砂夜がいない。
 けれども、この時の俺はまだ、単純に風邪でも引いて欠勤したのだと思い込んでいた。
 いや、思いたかった。

 砂夜の仮通夜には、定時で上がってから、昨晩に電話をしてきた倉田さんと共に行った。
 本通夜ではないから、実家で密やかに行うらしい。

 砂夜とはよく飲みに出かけていても、実家に行くのは初めてだった。
 しかも、亡くなってからお邪魔することになろうとは、ずいぶんと皮肉な話だ。

 家を訪れた俺達を迎えてくれたのは、砂夜の母親だった。
 砂夜よりは大人しそうな印象があるが、目元はやはりよく似ている。

 多分、自分が腹を痛めて産んだ娘だけに、母親の方が断腸の思いでいることだろう。
 しかし、俺達には哀しい顔を見せることはなく、むしろ、口元に笑みさえ浮かべていた。
 それがまた、相当の無理をしているのではないかと、見ているこっちが痛々しい。

 砂夜は案内された一階の一番奥の八畳間の座敷で、静かに横たわっていた。
 そのすぐ後ろには祭壇があり、信じたくなかった現実を突き付けられる。
「綺麗な顔してるね……」

 砂夜の前に正座するなり、倉田さんが、囁くように言った。

 母親の話だと、家に帰る途中で酒気帯び運転をしていた車に撥ねられたとのことだったから、事故後は目を逸らしたくなるほどの凄惨な姿だったに違いない。
 けれども、今は傷痕を消してしまうほどに化粧を施され、倉田さんの言う通り、息を飲むほど綺麗だと思った。

 本当に、〈物言わぬ人形〉そのものだ。

 俺は、砂夜の頬に手を伸ばした。
 躊躇いつつ、けれども、ゆっくりと触れる。

 昨晩とは違う、柔らかさも、温もりも持ち合わせていない。

 今すぐ抱き締めて温めてやりたい。
 俺は思ったが、出来なかった。

 倉田さんや、砂夜の家族がいるから、というより、砂夜をこの腕に抱いてしまったら、二度と離したくなくなりそうだったから。

 俺は砂夜の頬から手を放すと、正座した膝の上で強く拳を握り締めた。


 あの時、どうして砂夜の想いに応えてやれなかったのだろう。
 何故、砂夜を引き留められなかったのだろう。
 もし、無理にでも砂夜を留めていれば、今日もいつもと変わらず、あの屈託ない笑顔を俺に向けていてくれたはずなのに――


 今はもう、砂夜に対する罪悪感しかない。

 非があるのは、砂夜を轢き殺した相手だ。
 しかし、俺はその相手よりも、俺自身を深く恨んだ。


 俺が砂夜を殺した――


 その想いに囚われたまま、俺は一年間を過ごし続けた。
「――永瀬はきっと、俺を今でも恨んでる……」

 俺は相変わらず、公園のベンチに座ったまま、砂夜から贈られたジッポーを見つめ続けた。

 自称〈天使〉も、先ほどまでの剣幕からは想像出来ないほど、神妙な顔付きで俺を見下ろしている。

「けど、俺はいい加減な気持ちを永瀬に伝えることも出来なかった……。永瀬が、あまりにも真っ直ぐに俺を見つめていたから、なおさら……。
 最期に見た永瀬の涙も、未だに忘れられない……。俺の心に突き刺さって、ずっと離れな……」

 全てを言い終える間もなく、俺は嗚咽を漏らした。

 仮通夜の時だけではなく、本通夜の時も、葬儀の時も、火葬の時も全く泣けなかったのに、今になって、涙が止めどなく零れ落ちてゆく。

 砂夜がこの世から消えてしまってから気付いた想い。
 俺にとって、砂夜がこれほどまでに大きな存在だったとは、考えもしなかった。

 と、その時、俯きながら涙を流す俺を、仄かな温もりが包み込んできた。

 自称〈天使〉に、抱き締められていた。まるで、我が子を慈しむように。

「――恨むわけ、ないじゃない……」

 自称〈天使〉の声が、穏やかな川のせせらぎのように、ゆっくりと流れ込んでくる。

「私は、ずっとあなたを見てた。私のために、苦しみ続けてきた姿を……」

 俺はハッとして、涙で濡れた顔を上げた。

 そこには、金髪と蒼い瞳を持つ天使の姿はなく、代わりに、肩より長めの黒髪に、茶味を帯びた双眸の女が、穏やかな笑みを湛えながら立っていた。

 俺は声を発するのも忘れ、瞠目したまま女を見つめる。

「ビックリした?」

 女は肩を竦めながら、俺に訊ねてきた。
 俺はやはり、呆然としたまま、ゆっくりと首を縦に振る。
 まさか、こんな所で砂夜と再会するとは夢にも思わなかった。

「〈天使〉なんてガラじゃないでしょ?」

 つい先ほどまで、『こーんな麗しい容貌を持った魔物がどこにいるってんだいっ?』などと踏ん反り返っていたのが嘘のように、砂夜は照れ臭そうに頬を指先でポリポリと掻いている。

「ほんとは、この姿のままで宮崎の前に出るつもりだったんだけど……、いきなり出たら、宮崎が怯えて逃げちゃうんじゃないかって思って、全く違う姿に化けてみた。でも、どっちにしても脅かしちゃったのには変わりなかったみたいだね」

 悪戯っぽく笑う砂夜に、俺もようやく、「卑怯じゃねえか」と苦笑いを浮かべるだけの余裕が生まれた。

「けど、どうして天使なんだ? 幽霊として出てくるってんならまだしも……」

「なにそれ? だったら私に化けて出てきてほしかったわけ?」

「いや、そうじゃなくて……」

 口調は俺の前に出てきた時よりはソフトになっていたが、どちらにしても、俺を黙らせてしまうほどの気の強さは、生前と全く変わっていない。

 どうしたものかと頭を抱えていると、砂夜からクスクスと忍び笑いが漏れてきた。

「ほんと、宮崎って相変わらずからかい甲斐があるわ」

 砂夜は笑みはそのままで、俺の隣に腰を下ろした。

「宮崎と別れてから、私は、ただひたすら歩いてた。どんなに力んでも、涙は止まるどころか、どんどんと溢れてくるんだもん。凄く困っちゃった。
 泣いて、ずっと泣いて、だんだんと体力も消耗されてきちゃったんだね。すっかり注意力がなくなってて、気付いたら……、自分のすぐ目の前に、眩しい光が猛スピードで迫ってた……」

 ここまで言うと、砂夜の表情がわずかに曇った。

 考えるまでもない。
 それからすぐ、砂夜の生命の灯は消えてしまったのだ。
 ほんの数秒という、一瞬の時間で。
 砂夜もきっと、その時のことを想い出すのは辛いに違いない。
 俺はそう思っていたのだが、全てを伝えなくてはならないという強い意志が働いたのか、砂夜は一呼吸置いたあと、再び口を開いた。

「車に撥ねられたほんのわずかな間に、赤ちゃんの頃から今までの記憶が一気に駆け巡った。いわゆる、〈走馬灯〉ってやつね。その瞬間に、ああ、私はこのまま死んじゃうんだな、って改めて実感した……。
 ほんとは、まだまだやりたいことがあったし、生きていたかった。けど、これも私の運命なんだって思ったら、自分でも驚くほど、すんなりと受け入れてた」

 砂夜は手を伸ばし、俺の頬にそっと触れてきた。

「生きてるうちに、宮崎に私の想いを伝えられた。それだけでも最高に幸せだった。もし、何も出来ずに死んじゃってたら、今でもずっと、魂だけの存在になって、この世をさ迷い続けてたと思うから……」

 にこやかに語る砂夜に、俺は眉をひそめた。


 何故、幸せなんて言える?
 俺は、砂夜を傷付けてしまったのに。
 それなのに、どうして笑えるんだ……?


「――どこまでお人好しなんだよ……!」

 気付くと、俺は砂夜の華奢な両肩を力を籠めて掴んでいた。
 その拍子に、手に持っていたジッポーと手紙が箱ごと地面に落ちた。

「俺は、お前に酷いことをしたんだぞ? 俺があの時、自分の気持ちにちゃんと気付いていたら、お前は……、今でもここにいたかもしれないのに……!」

 肩を揺さぶられた砂夜は、俺の手を振り払うこともなく、ただ、哀しげに笑みながら首を横に振るだけだった。

「宮崎の気持ち、凄く嬉しいよ。けどね、決められた〈運命(さだめ)〉を覆すことは、例え神様であっても出来ないのよ。もちろん、時間を戻すことだって……。
 私が宮崎の前に現れたほんとの目的は、私のために、ずっと苦しみを抱えたまま生きてほしくない、って伝えたかったから……。
 宮崎が宮崎自身を恨み続けている姿は、見ているこっちが一番辛いもの……。ボケているようで、実は結構思い込みが激しいのも知ってるから……、ちょっとしたきっかけで、間違いを犯すんじゃないか、って、凄く心配だった……」

 砂夜の指摘に、俺の鼓動が強く波打った。
 確かに、ほんの一瞬でも、砂夜を轢き殺した相手に報復してやりたいとか、自分の存在もこの世から消してしまおうとか考えた事はあった。
 けれども、実行には移さなかった。
 やはり、心のどこかで、そんなことをしても砂夜は決して喜んでくれないと分かっていたから。

「――俺は、どうしたらいい……?」

 絞り出すように、砂夜に訊ねる。

 砂夜は、俺を真っ直ぐに見据えたまま、「幸せになればいい」と答えた。

「私の分も生きて、私の分までうんと幸せになってくれれば、私はそれだけで充分。
 宮崎はまだ若いんだし、これから、私よりももっと素敵な人を見付けて、その人と温かい家庭を築いて、悔いのない一生を過ごしてくれれば……」

 砂夜の指先が、俺の輪郭をゆっくりとなぞる。

 俺は愛おしさが込み上げ、その手を握り締めた。

 砂夜は瞠目した。
 今の彼女は、俺の心が読める。
 ならば、この先に何をしようとしているか察しが付いているはずだ。

 俺はもう片方の腕で、砂夜の肩を抱き締める。
 先ほどとは違い、壊れ物を扱うように優しく抱き寄せた。

 砂夜の瞳が閉じられた。
 微かに、唇が震えている。

 俺も躊躇いつつ、砂夜に口付けた。

 初めてで、これから、二度と触れ合うことのない唇と唇。
 この柔らかくて温かな感触を忘れたくない。
 俺は、祈るように強く想った。