「なにこの店は……? ホルモン焼き……? いかにも庶民が好きそうな下品な食べ物だこと」
「一人ですわ。とりあえず生ビールで」
扉を開けながら、入店と同時に注文を放つ。もはや軍人が銃を構えるような反射的動作に達している。厚い生地のドレスを纏うマリーの額には、滝のような汗があった。クーラーの冷気が濡れた肌を打つ。気持ちがいい。
「はいこちらどうぞー」
笑顔で対応する店員。招かれた席に優雅に腰掛けて、メニューを開く。
「ふぅー、最近食べてないと思ったらつい入ってしまいましたわ……でも暑くて最近食欲が減退気味なのですわ」
ここはホルモンが中心の焼き肉屋だ。生のホルモンしか仕入れず、そして今日は市場が休みの日の次の日。タイミングは良い。
暑さに食欲減退気味な自分にどこまで戦えるのか。貴族令嬢であるマリー、当然その胃腸もエレガントかつ繊細な代物である。
だがやるしかあるまい。戦う前に負けることを考えるのはバカのやることだ。
「はいおしぼり、それとビールでーす」
「ふぅー」
手渡された冷たいおしぼり。汗だくの顔を拭き、続いて首元を拭う。はしたないがこれはやめられない。
「とりあえずさっぱりとしたところからいきましょうか」
さっぱりと、この落ちた食欲をフォローしてくれるものを頼みたい。
「店員さん。豚バラ、シマチョウ、レバー、それとオイキムチお願いしますわ」
「はいーただいまー」
マリーの胃腸は繊細だ。しかし酷暑のせいで落ちた食欲でも、豚バラ程度ならマリーは勝てる。
「ホルモン焼き屋といっても基本は二種に分かれますわ」
ホルモン。焼き肉屋におけるいわゆる内臓料理の総称だが、その内容はディープにして複雑である。
「串焼きで出すスタイルと、網焼きで出すスタイル。ほぼ別のジャンルの料理といっても過言ではありませんわ」
グビリと生ビールを一口すする。渇きに染み込むアルコール。思わず唸る。
「う゛ぅ……」
流れる手つきでロースターに火を付けた。タイミングよく肉とキムチが運ばれてくる。
「ここはガスロースターで出す後者。ゆえに焼き加減を好みで調節しやすいところが利点」
かつて、焼き肉の達人と呼ばれた寺門ジモンも語っていた。慣れが必要な炭火に比べガスロースターは初心者でも簡単に火力を調節できる優しさがあるのだと。
鉄板の隅や真ん中にお冷やの水をすこし垂らす。じゅわりと音を立てて水滴が沸騰しながらしばらく残る。ライデンフロスト現象というやつだ。十分に鉄板が暖まっている証拠である。
焦ってならない。常にベストの状況で肉を焼くのだ。そうしなければジモンに追いつくことはできない。
「さあ網が温まってきたら初手、豚バラから……!」
じゅう、と肉が音を立てる。分厚い脂つきの三枚肉が、鉄板の上に並んだ。その数、3。
鉄板の大きさから一度に並べる枚数は余裕を持たせ三枚がベスト。バラ肉の枚数は九枚。つまり都合3ターンでブタバラにキルする。
焼き肉を焼くとき、マリーは一皿を何枚にわけて焼き、何回で終わらせるかがベストなのかを習慣的かつ自然に考えている。焼き肉に必要なものは鋼鉄の秩序だ。なにも考えずに一度に乗せて焼き、火力を不安定にすることは肉をまずくする愚の骨頂である。
戦術と忍耐。焼き肉に求められるものは、貴族の生き様と同じだ。
「火をやや落としじっくり焼きで脂を落とす……!」
焦げを最小限に、脂身から脂が落ちてカリカリ気味になった当たりを狙う。
「間をオイキムチで繋ぐ……! 夏はやはりキュウリのさっぱり感を有効活用したいですわね」
きゅうりの爽やかさ、そしてキムチの辛味とうまみ。肉を眺めながらグビリとビールを飲む。
「当然ビールとの相性も約束済み!」
いくらでも呑める。だがここはセーブだ。
「さあ焼けた豚バラ……最初の一枚は塩コショウで……そこにビール!」
脂の旨味、赤みの歯ごたえ。シンプルに塩とコショウがそれを引き立て、そしてビールが全てをぶちかます。
「夏を生き抜く快感……!」
二枚、三枚。肉が消える。即座にトングで肉を並べる。肉を焼くことはリズムだ。崩してはいけない。
「すいませんレモンハイお願いしますわ。あとナムルと韓国海苔」
ビールをやや残しながらつぎの酒を注文する。なおかつ援軍も呼び寄せていよいよ万全に。
「はーいただいまー」
「焼けた豚バラを今度はタレとコチュジャンで…いただく!」
脂、肉、そして辛味とコク。旨いに決まってる。
「豚は人類の友よ……! 次手、豚の脂がしっかりと染みた鉄板へレバーを投下!」
ブタバラの脂が染みた鉄板にレバーがならぶ。都合6枚なので一度に3枚焼きで2ターンで決着だ。
「夏を乗り切るにはやはりレバーが必要……! 豊富な栄養を食わずにすごす道理無し!」
新鮮なレバーは甘い。切り口のたったこのレバー、かなりの鮮度と見た。
「ほどよく焼けた辺りをタレで……やっつける!」
レバー、ビール。エンドレスフォードリームである。
「レバーが食えないとかダメとか抜かす輩は所詮子供ですわね……酒の味を覚えたら人はもうレバーから抜け出せないのですわ!」
「そしてシマチョウ……脂肪の多いここの焼き方で焼き慣れした玄人か素人か、わかりますわ!」
シマチョウ。牛の大腸である。店によっては茹でたものを使うなど扱いやすくするが、この店ではもちろんこれも生だ。
「まずは皮目から…!」
じゅわりと脂を鳴る。この皮目から焼くことが大切なのだ。
「皮を長めにやいてじっくりと脂を落とす……火の加減を調節しながらかりっとした食感を目指すのですわ。焦らないで、私!」
やがてもうもうと煙が出始める。生のホルモンは焼く時には大量の煙が出るものだ。店によってはこの煙を抑えるために茹でるなど工程を加える。
だが、この店はそれでも生ホルモンにこだわっている。そしてマリーは煙程度に臆する貴族令嬢ではない。
「レモンハイお待ちーあとナムルと海苔ですー」
「焦りは援軍のナムルと海苔で吹き飛ばす! 煙りが出ますわねぇ…!!」
やがて、待ちかねたものが出来上がった。
「皮七分、脂肪三分で焼いてコチュジャンを溶かしたタレで食えば……!」
そしてチューハイ。
「キングオブジャンキー味っ!!」
落として焼くことにより適度になったシマチョウの脂の旨味、そこにタレの味が加算されたまらない。そしてそれをチューハイで洗い流す。
「ホルモン! チューハイ! ホルモン! チューハイ! 無限ループの完成ですわ!」
グビグビと飲み、食い、そして焼く。縦横無尽にみえてマリーの動きは一定のパターンとリズムを刻んでいた。どれほどの喜びに憑かれようと、マリーは焼き肉をしくじらないのだ。貴族たるものあらゆる作法を完璧にこなせて当然であるのだから。
「……しかし、この社会の停滞感がハンパないですわねぇ」
ふと、マリーは酒をテーブルに置いた。
「人が集まるところは全部ダメで、なにかあればすぐ注意される……」
停滞し、そして窮屈な世の中になっていくような気がする。
「やることは職場と家の往復だけ……たまの休日は録り溜めしたアニメやタモリ倶楽部をみるだけで終わる……私、このまま年をとっていくのかしら」
いつまでも若い人間はいない。やがてマリーも衰える。今この時でさえも。
「……ああ、だめねなにを考えてるのかしら私は。店員さん、豚タンとハラミ! あと冷麺!」
△ △ △
「はいお待ちー」
「豚タンとハラミはさっと焼いて…コチュジャンと韓国ノリで巻く!」
歯ごたえある豚タン。かみしめると旨味が強い。一方ハラミは柔らかく、それでいて脂が少ないので食べやすい。
「追ってチューハイ!」
グビグビと飲み干す。
「エレガントッッ!!」
焼き肉屋の中心で愛を叫んだ令嬢。
「そして締めにはやはり麺類、冷麺の歯ごたえはやはりやみつきになりますわねぇ」
△ △ △
「ありがとうございましたぁー」
「ふぅー、外に出れば当然のごとく快晴…長かった梅雨が懐かしいですわねぇ……」
まだ気温は高い。高すぎる。
「一着しかないドレスにカビが生えてしばらくジャージで過ごした最悪の六月でしたけれど……」
とぼとぼと、路地裏を歩くハイヒールに
ムニュ
とした感触があった。
「……あ」
もはや踏んだ感触でなにかわかってしまった。だって三度目だから。
「うぅ……」
倒れる貴族服の老人がいた。手には発泡酒の缶。
「オーギュスト大公殿下……またですの?」
見下ろす老人は、また始末が悪そうに笑う。
「大公殿下、こんなところでなにを? さすがにこの時期この時間帯下の野宿は死にますわよ?」
「君は……伯爵家の……」
またこのやりとりか。
「マリーですわ。しっかりしてくださいませ殿下! なにがあったのですか!?」
「……白鯨攻略戦に三回連続で負けて」
「あれほど今はまだまだ店が回収モードを続けているは言ったではないですか!」
「いけると思ったんだ……今日の私なら」
「養分はみなそう思って散っていくのですわ!」
悲しい現実だった。
「肩に捕まってくださいませ殿下。家までお送りしますわ」
老人を引っ張り上げて肩を貸す。なんだか前よりも軽くなっているような気がした。
「すまんな……しかしなんだか昔よりずっとたくましくなったな君は。背中が広くなったよ」
「肉体労働には慣れておりますもの」
力強くマリーが笑う。強くなければ貴族は生き残れないのだ。
「足立区の原付で駆けてくシンデレラと呼ばれていた君とはもう違うんだね」
「イヤですわ大公殿下。それはもう昔の話ですわ」
懐かしさに、マリーが笑う。
陽炎の街の中を、二人が行く。
「街中華……? こんなすす汚れた店に私のような貴族が入ると思っているのかしら……」
「はいいらっしゃぃぃ」
のれんをくぐると、プルプルと震える老婆が出迎えた。割烹着を身につけた彼女は座席を示す。
「好きなところどうぞぉ」
手が震えてるので具体的どこなのかよくわからない。
貴族令嬢は、無言のまま適当にあたりをつけて席についた。マリーの表情には緊張が漂っている。慎重、かつ無言に手書きのメニューを見つめた。
「なんにぃしましょうかぁ」
老婆の言葉にしばしの無言。やがてマリーはゆっくりと口を開く。
「ビール、瓶でお願いしますわ」
「うちアサヒしかないんですけどいいですかぁ」
「じゃあそれで」
とんと、ビールの瓶とコップが置かれた。マリーは呑む、前にまず瓶の持ち上げて凝視する。
「……ビールの賞味期限は新しめですわね。客の回転がしっかりしてる証拠ですわ」
客が来ない店は、仕入れた酒が古い場合が多い。サーバー洗浄をきちんとしているかわからない店に入ったならば、生ではなく安定した瓶ビールを選ぶという酒飲みの基本的なテクニックがある。
だがそれはあくまで瓶ビールの鮮度まで落ちていないことが前提のものだ。いい加減な個人店では古い瓶ビールが来ることも念頭にいれねばならない。
この店はちがうようだが。
「この適度な床とテーブルのヌルヌル具合……」
ハイヒールを床に滑らす。ここまでのヌルヌル加減は一朝一夕で作れるものでない。振られた鍋と蒸発したラードが形作る実績である。
「ここまでのこの店の『当たり店』の確率は四割といったところですわね…」
コップにビールを注ぐ。コップはきちんと凍ったものだった。
少なめに注いだビールをくっと一息に飲み干した。
ほう、と優雅に一息つく。
「新規開拓……ギャンブルですわ」
マリーは今、はじめての店にいる。
「うちの近くで少し気になっていたんですけれどとうとう入ってしまいましたわ」
駅から少し離れた立地である。なかなか昔からやってる店のようだったが、入る機会がついぞなかった。
「外の食品サンプルの埃のかぶり具合になかなかのヴィンテージを感じましたけれど、こういうともすれば小汚……じゃなかったヴィンテージ感のある街中華に旨いところがあるのも事実」
個人店の街中華。たいていは値段もそこそこでまず外れがないジャンルである。
マリーは街中華を愛していた。煤けた店の雰囲気や、ぬるむ床と、なぜか似た傾向になりやすい漫画の品揃えと、店内のテレビで見る甲子園中継と、そしてタンメン。
だが愛しているからこそ視点は厳しくなるものだ。外れないジャンルといえど、煮え湯を飲まされることもある。マリーは油断はしない。常に残心を持つことが貴族のふるまいである。
「積んである漫画本が結構充実していてゴルゴ13に刃牙が多めにそろってるのもプラスポイントといったところでしょうか……」
マリーの評価方法は加算方式である。
グビリとビールを飲み、思考を冷やす。
「あー、ビール旨い……」
「床のヌルヌルは油を多く使う中華を料理し続ければ、油の蒸発で自然とそうなってしまうもの…つまり繁盛の証、客の回転の証拠ですわ」
グラスを持ったまま、ゆっくりと店を見渡す。
「見渡すと客と撮った写真も多い。しかも古めだわ。ポラロイド写真なんてひさしぶりにみましたわよ……それだけ長く親しまれているということ。プラスポイントにボーナスもつけていいですわね」
傍らの壁に貼られた写真を少しめくって裏の壁を見る。茶色の壁の色がその下だけ真っ白だった。壁の色は年季の色だった。
「しかし貴族たるもの慎重さを忘れてはならない。まずは小手調べですわ。おばちゃん、餃子一枚」
「はぁい」
愛嬌よく、老婆の店員が答えた。
△ △ △
「はい餃子ねぇ、あとこれサービスでメンマあげるからぁ」
「あ、ありがとうございます……」
運ばれる餃子をつまみ、酢醤油で食う。はじける旨味そしてにんにくの香味。
なかなかの味だ。
「旨い……ニンニク入り肉野菜半々のクラシカルな餃子ですわね…なにより焼き加減が絶妙ですわ。メンマのも味付けも既製品ではなく手作り……」
しゃくしゃくとメンマをかじる。心地よい歯ごたえにビールも進む。
「あの造っている料理人はお爺ちゃんだけ……夫婦だけで営んでる中華料理屋ですのね」
厨房の奥、まるで店そのものと一体化するように鍋を振る古老がいた。
「当たり、ですわね、この店は……」
マリーは確信する。ならば攻めの一手あるのみ。
「おばちゃん、生姜焼きと焼売」
「はぁい」
「当たりとわかれば様子見は不要、推されてるメニューからちょいちょいつまみましょうか」
壁のメニューを見る。炒め系がオススメのようだ。
「こういう定食屋がメインの店で呑むのもいいものですわ……特に日が高いうちからは……」
今日もマリーは夕方前上がりだ。
やはり酒は昼に限る。夜に呑むのは不健全、不健康だ。太陽を拝みながら呑むのが人間らしい生き方というやつである。
「はい生姜焼きと焼売ねぇ」
キャベツ千切りと共に盛られた薄切りバラ肉の生姜焼き、醤油ダレの照りの良さがすでにただ者ではない雰囲気である。
三個入りの焼売。でかい。つまり強い。
「一口に生姜焼きと言っても薄いバラ肉か厚めの一枚肉かなどで店により方向性が全く変わる料理ですわ。ここは薄いバラ肉を玉ねぎと炒めるご飯との相性重視派ですのね」
口に運ぶ。甘めの味付けに生姜の風味がしっかりと利いている。炒められた玉ねぎの甘味と豚バラの脂の甘味の三重奏が旨味をさらに引き上げる。
「だが飯に合うものは酒にも合って当然……! 追ってビール!」
キャベツ千切りでさっぱりとさせ、ビールで流す。そしてまた肉。ループ発動である。
「おばちゃん、ビールもう一本!」
やはり一本では足りない。
「あいよー今出しますねー」
運ばれるもう一瓶。即座にグラスに注ぐ。
「そして焼売。この大きめながらも不揃いなところはまさしく手作り……! からしと醤油をを多めにつけて」
大ぶりをガブリと食いちぎる。炸裂する肉汁にのけぞる。
「ミートオブジャスティスッッ!」
正義はここにあり。
「餃子は野菜多めが飽きが来ずに楽しめるものですが、やはり焼売は肉多めでダイレクトに肉の旨さを楽しむのが本道……!!」
餃子は本来野菜料理である、とは某格闘漫画で言われていたことだが、焼売は違う。蒸したことによる肉と脂の旨味を上品かつダイレクトに味わう肉料理だ。
「さらに追ってビール!」
ぐいと、またグラスを明かした。
「チャイナとゲルマンの融和……!!」
もはや自分がなにを言っているのか自分でもよくわからない。
「炒めも蒸しもなかなかもレベル。ここの店主なかなかの古老とみるべき……」
しみじみと冷静にふり帰る。焼き良し、煮込み良し、炒め良し、蒸し良し。隙がない、まさに野武士のような隙の無さ。
「競争激しい飲食で、老齢となるまでこの仕事を続けられるのはまさに腕があるから……リスペクト、その年季と腕前マジリスペクトですわ」
「この尊敬をいかにして店主
に伝えるか……」
マリーは悩む。この気持ち、いかにして店主に届けるか?
「すみません、五目あんかけ焼きそば、大盛りで」
△ △ △
「あいよー、おまちどうさんねぇ」
「片面をバリッと焼き上げた麺に醤油味のあんが染み込んでますわねぇ!! 期待通りですわ!」
ずるりのあんかけの絡んだ麺をすすり込む。白菜、豚肉、人参玉ねぎ、キクラゲ、そして思ったより大ぶりの海老だ。登頂部にうずらの玉子がある。
濃いめのあんかけに焼いた麺がしっかりも絡み、すする度に幸福が訪れる。
そして卓上の酢の小瓶を取り豪快に回しかけた。
「そこに酢を大量に! そしてからし! 一気にすすり込む! 欲望へダイレクトアタックですわ!!」
「追ってビール!!」
豪快に最後の一杯を飲み干す。喜びである。純粋な歓喜だけがそこにあった。
「ふぅー……」
△ △ △
「ありがとうございましたぁー」
見送りを背に受けてマリーは街を歩く。
見知らぬ戦場であった。だが今日もマリーは勝ったのだ。
「ふぅー、新規開拓は成功ですわね。やはり貴族令嬢たるもの慎重さは重要ですわ」
額の汗を拭う。知らぬ店とは常に真剣勝負である。もう夏も終わり、いくらか涼しい風が吹いていた。
「……それにしてもああいう老夫婦だと跡継ぎはいるのかしら。息子や娘さんは見かけなかったけど」
後継者問題は街中華業界だけではない。日本という国全体の問題である。貴族たるもの、先を見据えなければならない。
「跡継ぎがいなければ店は……今も色々なところがコロナで閉まってますものね。あの店もいつまで行けるものか」
いつでも行ける、いつでも食べれる。そう客が油断していくつもの店が閉まっていった。店は生きている そしていずれ消える。いつかはない。今この時にいくべきなのだ。
「というか、そもそも今の私の仕事のほうが不安定というかそういえば来週の仕事の予定まだ入ってなかったような……正社員の就活もストップしたままだし……」
とりあえず他人より自分の足元を見ておけ貴族令嬢よ。
「……今は帰って呑みましょう。呑んで忘れましょう」
「新宿……? 騒がしくて下品な街だこと……」
ベルク
「レバーハーブパテ、ソーセージ&クラウト、ギネス樽生をお願いしますわ」
注文を出し会計を済ませるマリー。慌ただしい雰囲気あふれる店内で、店員が答えた。
「はーいこちらでお待ちくださーい」
受け取り口で待つ貴族令嬢。騒乱の新宿駅の中、ビール&コーヒーが売りの店ベルクにて立つ彼女の姿は嵐の中に咲く白薔薇の如く。
「……現場が近かったし早めに上がれたので久しぶりに来てしまいましたわね、新宿」
新宿、いわずと知れた日本最大の利用客数を誇る新宿駅と、日本最大の繁華街歌舞伎町を持つ眠らない都市である。
圧倒的な人間の種類と圧倒的なエネルギーが渦巻くこの街はその魅力に引きつけられて様々な作品の題材となった。具体的にいうとガメラやオーラバトラーが来たり魔界になったりする。
だがこのコロナ禍で、新宿は少し違っていた。
「相変わらず移り変わりが忙しい街だわ……でも、こんな新宿になるものなのね」
移り変わりは激しい。だがいままではなにかが無くなれば何かが入ってくるはずだった。入ってこないのだ。日本最大の喧騒都市の場所の空きが目立ってきている。
まあそれでも変わらないところもあるのだが。
「しかしベルクは相変わらず凄まじい店内ですわね……これ店のファンがつくったのかしら?」
新宿駅にあるベルクはさほど広い店舗ではない。それでも新宿内の店としては広めなのだが。
ベルクは新宿駅東改札駅から徒歩5分ほどにある駅内のビール&コーヒーハウスである。
特色は様々なメニューを手作りすることにより高品質を低価格でだしてくること。その実直な営業姿勢に根深いファンが多い。
店先にはメニューの紹介の他に店オリジナルのTシャツまで売っている。
さらに店内にはなんと店員ではなく客の描いたポップや店の紹介文がところ狭しと並んでいるのだ。なかなかの圧巻である。
「ベルクの立ち退き問題は有名な話ですわねー…大企業相手に小さなビアショップが一歩も引かず、多数のファンからの署名を集め対抗し店の営業を守ったという逸話、このわたくしも思わず敬意を表しますわ」
勇気あるものには敬意を。それが貴族の矜持である。
「ハムもソーセージもパンもみな手作りなのね……こういう徹底したところがファンをつくるのかしら」
「はいお待たせしましたお客様ぁー」
「あ、はいはい私です私です」
△ △ △
「ふぅ、客が多いから席を取るのに苦労しますわねぇ……」
客が少なめの時間帯を狙ってもこの有様である。コロナ禍など関係ないのだ。
席につき、マリーは自らセレクトした品々を見つめる。
「この店は手作りのものが数多いですがとりわりその第一の顔といって良いこのソーセージ、粒マスタードを山盛りにしてまず一口……」
丁寧かつ優雅にマスタードを塗って、野性的にかぶりつく。パリっとした音が脳内を直撃。やはりこの食べ方がいい。
「溢れ出す肉汁と肉の旨味のスプラッシュに、このギネスビールを合わせれば……」
グビリと、ギネスビールを煽った。濃厚と泡と、軽やかな味わいが肉の旨味を引き立てる。
「ダンケ……ダンケシェーン…!!」
感謝……! ただただ圧倒的感謝……!
「そしてザウアークラウト、キャベツの発酵漬けの酸味と食感で口の中をリフレッシュ……これは無限に食べれますわ!」
本場ドイツ人オススメの食べ方である。止まらなくて当たり前だ。
「次にこのレバーパテ。こちらもベルグ手作りの逸品。香り高いライ麦パンと合わせれば……」
口の中にはじける旨味とライ麦の香り。
「噛み締めれば、臭みなくハーブの爽やかな香りとレバーの旨味が広がる……そしてギネス…!」
止まらないビール、新宿駅にドイツが出現した。
「旨さのXYZですわ……! 新宿だけに!」
貴族令嬢はシティでハンターしてたりする作品のファンである。
ムシャムシャと食いグビグビと呑む。しっかりと食べ飲むことが明日のためのパワーを生む。力、力こそパワー。それが貴族だ。
「ふぅ……思わず堪能してしまいましたが、まだ行きたい店がありますからセーブしておきましょうか…あ、、そうだアレ頼んどかないと」
新宿は広い。まだまだ貴族令嬢には行きたい場所があるのだ。コロナなど知ったことか。
貴族の自由は誰にも止められない。
「ブレンドコーヒーひとつお願いしますわ」
コーヒー、これもベルクの名物である。眠らない都市、新宿の住民の目を覚まし続けた逸品だ。
「これもベルグ手作りのコーヒー。これを堪能しないと出ていけませんわね」
△ △ △
「しかし新宿もしばらくいってないとすぐに様変わりしますわねぇ……」
白のドレス姿がトボトボと新宿の街を行く。たしかにここは新宿である。人通りは多い。だが、それは他の街と比べてみた場合にすぎない。例年と比べて明らかに活気が減っている。
マリーが今歩く南口付近の都庁近くは歌舞伎町と比べ元からそれほど人は多くないのだが、それでも去年と比べ減ったように見える。なにより、少し裏側にいくと空き店舗が目立つ。
「歌舞伎町側はともかく、南口側も結構店が変わってますわ。コロナの影響かしら……」
南口付近は歌舞伎町ほどの入れ替わりの激しさはない。ないはずなのだが。
「でもあの店はまだ営業していると信じていますわ……」
これからマリーが目指す店は、マリーの新宿の魂の故郷と呼べるかもしれない場所だ。
「わたくしが新宿でトンカツを食べるなら、あの店しかないのだから……」
南口からしばらく歩き、都庁前の裏路地に入る。そこにはマリーの求めていた場所がある。
豚珍館
「ほらやってた」
△ △ △
「お一人ですわ」
「はいいらっしゃいませ! こちらへどうぞ」
二階への階段を上がる。店員が愛想良く出迎えた。
席に着きながら、一息つく。
「お昼休みの少しあとだから空いていて良かったわ。昼はほんと込み合ってて落ち着かない店だから……」
豚珍館は都庁前の有名トンカツ屋である。昼頃は客でごった返しまさに地獄の戦場と化すのだ。
「それだけ人気がある店だから仕方ないのですけれど。ライス豚汁お代わり自由ですものね」
もちろん味もいい、だがコスパも最強なのだ。
「ロースカツ定食、それと瓶ビール。ごはん後で」
「はいわかりましたー」
△ △ △
「はいロースカツ定、あと瓶ビールっすね」
「来ましたわぁ。まずは……瓶ビールを飲んで一息」
興奮を鎮めるために、ビールに頼る。ギネスの後のスーパードライもまた乙なものだ。
「ひさしぶりに拝みましたわね…いつ見ても……分厚くデカいカツですわ。新宿のパワーを感じますわねえ」
それは分厚く、大きく、あまりにこんがりと揚がっていた。カツと呼ぶにはあまりに大きすぎる。
「……世間ではやれトンカツを塩で食えデミソースで食えというのがブームらしいですが、わたくしそのような浮き足立ったものに興味はございませんの」
貴族令嬢は不器用な生き物である。浮ついた時代の流行に合わせることなどできない悲しい生き物なのだ。
「トンカツには昔からこの備え付けのドロドロのソースをザブザブかける一択しかありませんわ!!! ここは辛口と甘口があるからブレンドしてかけるのがわたくし流!!」
ザブザブと、本能のままにソースをぶっかける。そして辛子を添える。
「キャベツには豚珍館特製のドレッシング!!」
ここの隠れた名物である甘辛いチリソースドレッシングは、キャベツ千切りとの相性は抜群である。
「そのまま突撃!!」
ガブリと肉片食いちぎる。
「この分厚いトンカツが、驚くほどに柔らかい…! 昔から通っていますが、この値段でこのレベルのトンカツはそうそうお目にかかれませんわよ!!」
貴族令嬢はトンカツにうるさい。高貴なる貴族ならばトンカツについて深く語ることができる程度は当然の教養である。
寿司や焼き肉のように、トンカツもまたディープな世界観がその衣の中に無限に広がっている。
肉はロースかヒレか牛か豚かという初級者向けから始まり、揚げ油に植物油やラードを使うか、二度揚げか、衣は生パン粉か乾燥パン粉か。無限の選択肢から最適なカツをビルドするためのルートを探すのだ。揚げたカツをカツ丼に使うのかカツカレーに使うかでもやり方はまた変わってくる。
トンカツを舐めてはいけない。
「そこにビールで追う!」
カツにビール。誰が止められるのかこのタッグを。
「エレガンツッッ!!」
カツ、ソース、ビール。答えられない快感。
「これが豚が食えて酒が飲める国に生まれた者のみが噛み締められる幸せですわ……!!」
特定のものが食べられない宗教、酒が飲めないという教え。これらはマリーにはどうにも理解できないものであった。
「さらにトンカツの端、脂身のところと白飯でフィニッシュを目指す……!」
トンカツの一番うまいところである。脂こそ旨味。脂こそ強さ。
「トンカツは国の宝ですわ…!!」
△ △ △
「ありがとうございましたー」
店員に見送られ、裏路地を歩く。まだ日は高い。
「ふぅ……新宿のトンカツ。ひさびさに堪能しましたわね。やはり私には雑居ビルの狭間にある豚珍館のカツが合っていますのよ……」
マリーは新宿の空気が好きだった。ドライなようで、様々な人間を受け入れる大らかさがある。大宮のような雑さとはまた違った魅力。
「それにしても十年前からほとんど値上げしてない…すごいトンカツ屋ね……」
「さて、腹もほどほどにくちてきたしどこか立ち飲みやかそれとも……」
それとも、なにをしたいのか。どうせなら新宿にしかない店に行きたい。
「うーんと、……なにか麺が食べたいわねぇ」
新高揚
「地下一階というなんだか秘密基地みたいな立地のラーメン屋なのよねぇ」
トントンと階段を下りると、店があった。
「はいいらっしゃいませ」
「一人ですわ」
マリーはカウンターにゆっくりと腰を下ろした。
「この新高揚はパイクーメンなどの豚や鳥の揚げ物を載せたラーメンがウリの店……なにげに創業昭和57年からの新宿では老舗な部類の店なのよねぇ」
ラーメン屋の流行り廃り、移り変わりは速い。長く続けられるということかそれはすごいことである。
「……でも先ほどはトンカツを入れてしまったので」
今胃の中にはソーセージとトンカツが入っている。これは冷静に状況を考えねば。
「あっさりとこのぱいくーめんの麺少なめにしましょうか」
貴族令嬢の胃腸はエレガントであった。
△ △ △
「はいぱいくーめん、麺少なめおまちどうさまです!」
「きたきた」
間髪入れず箸を割り、麺をすすり込む。そして揚げ豚をかじった。
「うっめ! やっぱ豚の揚げ物にあっさり醤油ラーメンの組み合わせ最高ですわぁ!」
ハフハフと、ズルズルと、貴族令嬢の箸は止まらない。
△ △ △
「まいどありがとうございましたー」
「……ちょっとさすがに食べ過ぎたようね、若い頃はこれくらいはいけたんですけれど」
ウップとなるのを抑える。マリーは高貴なる身分、人前でそのような下品を晒すわけにはいかない。
「しかし、歌舞伎町側と比べると南口側はまたゆっくりしてるほうなんですけれど、かなり昔と変わってますわねぇ……」
マリーが昔歩いていた新宿都庁前は、まだもう少しのんびりしていたような気がする。
「あっちには昔は鬼太郎の妖怪ハウスみたいなタヒチコーヒーとカレーの店があったんですけどもう跡形もないですわ……タヒチコーヒーにラム酒入れ放題だった面白い店だったのに」
なんでも中野に移転したらしい。
「昔は変わることにわくわくしたのに、今は少し寂しいと思ってしまいますわ。これが大人になるということかしら……」
生きることは変わるということ。ならばなにかが変わるたびに覚えることの感傷は、生きているということの傷跡なのか。
マリーの胸中の問いに、答えるものはない。眠らない街は今日も変わり続ける。
「~♪ ~♪」
シティがハンターしたりする新宿が舞台の例のやつのエンディングを口ずさみながら、令嬢は新宿を歩いた。
「秋刀魚……? いかにも下々が好きそうな油臭い魚ですこと」
「いらっしゃい」
「お一人ですわ。キュウリの浅漬け。それと……涼しくなってきたからビールという気分ではないですわね。久保田の冷やで」
流れる金髪が、指を一本立てて入店する。足取りは軽く、だが背負ったリュックサックの重さで足音は重く。まるで彼女の生まれもった高貴なる家名の重量を象徴するように、ハイヒールは軋んでいた。
「へい」
流れる有線は90年代もの。大将の言葉は少なく、腕は信用できる。そういうところに酔客は長居したくなるものだ。
「ふぅ……」
リュックを下ろし隣の椅子に置く。ミシリと椅子が鳴った。
「えーと、オススメは……」
キョロキョロと周囲を巡る。黒板に書かれた品書きに目が止まる。オススメにはピンクのチョークで花丸が付いていた。大将の趣味か。
「アジ刺し、それと豆アジの南蛮漬け」
「あいよ」
同時に浅漬けと日本酒が来た。
「すっかり涼しくなってありがたいのですけれど、現場仕事も長めになってきましたわねぇ」
秋はいつの間にか深くなっていた。こんなときこそ、季節を偲ぶのが高貴な生き方というものである。
きゅうりをつまみ、ぽりぽりかじる。ぐいと冷や酒をあおった。
「日が落ちるのが早いと外仕事は面倒になって困りますわ……」
すぐ暗くなると、外仕事は難儀になる。
またも日本酒を呑み、マリーはほうとため息をつく。
「浅漬けと日本酒でしっとりと呑める……私も少しは大人になりましたわね」
「へいアジ刺しと小アジ南蛮」
醤油に生姜を溶いて、刺身を摘まむ。夏も終わりだが、まだまだアジに脂を感じる。
「いかように料理しようとも味がいいからアジ……なんて直球な名前の魚かしら」
アジ、生でも焼いてもうまい。干してもうまい。隙のない、そつのない魚だ。しかも値段も安い。
「そこに合わせて久保田……」
うまい。しみじみとした、それでいて奥行きがある。なによりこの少し寒さを感じる秋という情景に、マリーは浸っていた。
「盛りをとうに過ぎて名残のアジ……あえて粋を外すのも乙なものですわ」
江戸っ子は旬を大事にする。それも早めに出回る走りものを食べることを粋とする。だが味は盛りや名残の頃のほうが上だ。
粋にやろうと片意地を張るのもまた粋ではない。甲を目指して力むのではなく、どこかで力を抜いて乙に落とすのもまた粋である。
「その食材の美味しくなる手前を走りといい、一番美味しくなることを盛り、時期の終わりかけを名残という。昔の人々は季節の捉え方が繊細でしたのね……」
豆アジの南蛮を箸でつまむ。ザクザクと頭からかじった。ここの南蛮漬けは漬け込みが長めで頭から食べられるから好きだ。
「今日はゆるりと上品に池波正太郎的な世界でお送りしますわ……」
貴族令嬢はこういうこともできる。ビールと油物と炭水化物だけにうつつを抜かすだけでは高貴な身分の示しにならないのだ。
「豆アジの南蛮漬け、からりと揚げた小アジを野菜を千切りにして作ったピリ辛の南蛮酢に漬けたこの逸品。飯のおかずにもいいですが、やはり酒と合わせてなんぼのもんですわ」
チビリチビリと杯を空かす。
「当然久保田との相性は良くて当然……!」
「すいません、お銚子もう一本!」
「へい」
運ばれる酒、とくとくと注ぎまた呑む。
「今年はイワシが豊漁でサンマは不漁だそうですわね。自然の摂理には所詮人は叶わないもの……」
人は自然から恵みを受け、自然から奪われる。いかに科学が進もうとも人類が天然自然に翻弄される存在であることは変わらない。
「私も雨が続いて日雇いが途絶えたら、耐えるしかありませんものね」
マリーもまた自然に翻弄される存在である。できれば変わりたい。
「家で安酒あおりながら録画してたタモリ倶楽部みてるだけの毎日も乙なものですわ……タモ様、なぜ私は手ぬぐい止まりなのですか? その程度の女なのですかわたくしは……」
マリーはジャンパーが欲しかった。
「さて、秋も深しならばサンマも食べたくなるものですが、ないならないで我慢もすれば、あ、マツタケあるんだ…」
品書きの真ん中にマツタケがあった。値段が高めだったので、どうやら本能的に視覚から拒絶していたらしい。金銭感覚は認識に影響を与えるものだ。
「……マツタケの天ぷら? はー……まあ中国か北朝鮮産かカナダ産でしょ、値段は……」
土瓶蒸しの値段と、日本酒の値段を比べる。
マツタケ焼きの値段と、日本酒の値段を比べる。
「……マツタケよりも日本酒もう一本頼んだほうがいいですわね……あ、サンマある。でも焼きだけで刺身はないわねぇ」
「冷凍もんですけどねーどうしますか」
いつのまにやら来ていた店員の兄ちゃんが人懐っこい笑顔で聞いてきた。
去年の冷凍ものだから刺身は避けたのか。
どうするか、貴族令嬢は迷う。
「……一尾、焼いてもらおうかしら」
「うっす」
頷いて、青年は大将に注文を伝えた。
△ △ △
「はい焼きサンマ!」
じゅくじゅくと焦げた皮に脂が沸騰する。さんまの焼ける匂いは、この魚はなぜこんなにも人の魂をたやすく掴むのか。
「ここは焼き魚には大根おろし多めにしてくれるのが嬉しい店なのですわ……醤油とレモンで、いただく!」
熱く焼けた身をたっぷりの大根おろしで冷ます。そのまま口に運べば、力強い秋の味がした。
貴族令嬢マリーは焼き魚の大根おろしは多めでないと許せない女だ。大根おろしをケチる店は死罪にすべきだと思っている。
「やはり秋はサンマですわね……冷凍ものでも、サンマを秋に食べるというこの感動が大事なのですわ!」
秋に秋の物を食べ、酒を呑む。ただそれだけでいい。風流とは、本来は贅沢なことではない。富めるものにも貧しきものにも季節は平等に過ぎるもの、春夏秋冬を味わうことは誰にでも開かれた楽しみである。
「肝の苦味も私の好み! 久保田が、久保田が足りないわ……!」
マリーは凛々しく、空の徳利をかかげた。
△ △ △
「ありがとやっしたー」
「ふぅ……やはり秋にサンマを食べると食べないでは満足感が違いますわね。冷凍ものでも、おいしいものはおいしいものですわ。それに、もう少し待てば生サンマにも出回るはず……」
最初は水揚げがなくとも、後から復活することもある。今は焦らずにゆっくりと待とう。
秋風に吹かれながら、夜の街を歩き出す。深くなった夜は、そるでもまだどこか生ぬるかった。酔いを冷ますほどではなくて、それでもまだ喧騒は戻らなくて。
「『会えないことは、もう一度会ったときに嬉しさを倍にしてくれる』そう叔父様は仰っていましたわね……」
微笑えみながら、マリーはアラン男爵の言葉を反芻する。アスファルトを蹴るハイヒールは、酔いにどこか踊っていた。
「二度目の浮気がバレて奥さん子供に実家に帰られて、子供に二年間会わせてもらってない叔父様……」
「また日高屋……?何度も貴族をバカにして……いい加減にしてくださるかしら……?」
「すっかり涼しくなって秋ねぇ」
とぼとぼとジャージ姿が夜をさ迷う。長身に整ったプロポーション、闇のなかに輝くような金髪をひとつかみにまとめたマリーは肌寒くなった秋の空気を吸い込んだ。
ペタペタと、履き古したサンダルの音が道に響く。重なる鈴虫の鳴き声。
「秋なら秋らしいものが食べたくなるものだわ」
時刻は深夜1時ごろ。日中部屋の掃除や洗濯を済ませて気がつけばうとうとと寝てしまった。目が覚めればこの時間である。
無性になんだか空腹だった。
気がつけば、外に出ている。
「秋らしい深夜に、秋を強く感じられる場所といえば」
駅前の店舗にマリーの足が向く。深夜でも明るい店内。写真を多用したデザインよりわかりやすさ全開の店先。
それは彷徨うものが最後にいきつく場所だ。どんなものも優しく迎え入れてくれる場所だ。
「……イラッシャマセー」
アジア系の店員が、死んだ目で挨拶する。
「深夜営業の日高屋しかないわねぇ……あまり知られてはいませんが、日高屋は秋の終わりごろを意味する晩秋の季語なのですわ」
※嘘です。
「さりげない動作でレシート入れに捨てられていた大盛無料券を拾い……もといお救いし」
ゆっくりと、席につく。
「あんかけラーメン、大盛で。券ありますわ。それとメンマ」
「……アイヨー」
店員が返事をしキッチンに戻る。見慣れたいつもの光景。
「明日は休み、一日中寝てられるのでつい夜中に来てしまいましたわ」
夜中にやるこの好き勝手。社会人となっても夜更かしは楽しいものだ。
「晩酌はすでに昼間に済ましておりますので、今は呑みません」
貴族令嬢とていつも飲んでいるわけではない。状況と節度を守れることが一人前の貴族の証明である。
「人生の豊さに必要なものとはなにか…… 金、人、地位、無数にあるなかで、あえて一つ。ひとつだけをあげるとするなら」
人生に必要なものは多い。だがあえて、数々の選びがたいものから選ぶとするなら。それは。
「自宅から徒歩15分以内に24時間営業のラーメン屋があるか、という点ですわね」
食いにいきたいときに食いにいける。それは大事なことだった。
「深夜に食べるラーメン。そこに罪などあるわけがございませんわ……」
本能に、生きるという意思にしたがって食っているのだ。誰がそれを裁けるのか。貴族に罪なし。
「しかし時刻はさすが深夜1時ですわ」
「■■■■■■■ッッッ!!!」
言葉にならない大声。大声をからし笑いながら絶叫しあう泥酔したサラリーマンふたりがいる。
「■■■ッッッ!! ■■■ッッッ!!!」
すでにどこの国の言語かさえわからない言葉らしきもので会話なのかよくわからないことをいいながら酒を空ける。三次会か、それとも終電を逃したのか。
「10101111111000000010001110!!」
泥酔した大学生らしき二人組。こちらも言語形態が人間の枠から外れてきている。
「1010111111111100000111!!」
なにかしきりに泣いている男を、相手の男が肩を叩いて慰めているらしいのだが、なにを言っているのか理解できない。
「二次会三次会上がりか、それとも朝まで呑むつもりなのか。もはや生ゴミかヘドロになりかけた皆様がお集まりになってとてもぶっ壊れてますわね……これこれ、深夜の日高屋といったらこれですわ」
都会の中に突如現れた無法のジャングル。深夜1時を回り終電を諦めた人間が来るということは、こういうことなのだ。貴族令嬢はこのもはや野生の王国と化した日高屋の空気が、どこか好きだった。
「酔っ払いをおかずにほどほどの味のラーメンを食う。深夜のラーメンなんてそんなものでいいですのよ」
それでいいのか。
「ハイ、オマチヨー」
「あら、ありがとうございますわ」
置かれたどんぶりを眺め、箸を取る。
「この五目あんかけラーメン、普通のラーメンにようは中華丼のあんかけをかけただけの代物ですけれど」
「コショウと酢をもりもりかけて……」
酢は小瓶の半分いれるのがノルマだ。
「すすり込む!!」
熱いあんかけと麺を一気に喉にぶちこんだ。
「秋味ッッッ!!」
貴族令嬢の背後が光った、ような気がした。
「あんかけのラーメン、寒いときに食べたくなって当然のメニュー。そして想像通りの味ッ! てらいはなく外れもない。それが日高屋ですわ!!」
そうこれが日高屋だ。最初の期待値を高くもなく低くもなく越えていく。このわかりやすさ、安牌感が日高屋なのだ。
「しかし当然あんかけは熱い……水、水を……」
熱いラーメンは当然水分が欲しくなる。口中を冷ましたい。そんな衝動に駆られる。
「水……み……ウォッカのソーダ割りおひとつ!」
「アイヨー」
△ △ △
ゴキュゴキュとウォッカ割りを飲み干す。乾きが癒される。
「ふー」
だん、とテーブルに半ばまで減ったグラスを置いた。
「思わず頼んでしまいましたわ……呑む気はなかった、呑む気はなかったはずなのですが……ロシア語でウォッカは水の意味もありますので、まあこれは仕方ないケアレスミスというやつですわね」
良質な教育を受け豊富な教養を身に付きた貴族と言えどミスは起こる。大切なことはミスをいかにリカバリーできるかだ。
「呑んでしまったものは仕方ない。人生は風のふくまま、あるがままにですわ」
アクシデントを楽しむ。それが人生を楽しむこつだ。
「さて、一杯呑めば二杯呑んでも同じこと……店員さん、餃子、あとハイボール」
「アイヨー」
マリーは思う。果たして呑む気で呑む酒と、呑むまいと思い結局呑んでしまう酒の味に違いがあるというのか。
マリーは思う。後者の酒のほうがなんだか旨く感じるものだと。
「深夜のラーメンが一呑みに切り替わる…これも秋の風情ですわ。あーハイボール旨い……」
ぐびぐびと呑む。酒は旨い。だからそうなってしまうものは仕方ない。別にこれは貴族令嬢の意思が弱いわけではないのだ。多分。
「日高屋の餃子は……いつもほどほどの味ですわね」
モグモグと餃子を飲み込む。
「君は……伯爵家の……マリー君か?」
名前を呼ばれ振り向く。その先には日高屋店員のユニフォームがあった。そして、見慣れた老人の顔。
「た、大公殿下っ!? なぜ日高屋の店員の格好を!?」
なぜこのようなところに貴種の貴種たるオーギュスト大公殿下がいるというのか。マリーにはわからなかった。
「いわゆる貴族の嗜み……バイトというやつだよ。深夜は時給がよくてねぇ」
どこか恥ずかしそうに、はにかみながら大公は頬を掻いた。
「殿下、奥様は今はなんと……?」
あれから、関係の修復はできたのか。
「あれはまだ許してくれないようだ。まあ仕方あるまい」
「頑張っておられるのですね」
「ああ、老いぼれでもやれることはある。それにそろそろ我狼の新台も出るしな」
「軍資金集めですか……」
「バイトー! △○×※※※△!」
キッチンでアジア系の店員が叫ぶ。大公が振り返った。
「×※※※※※※!」
笑顔でサムズアップを返す店員。笑うオーギュスト大公殿下。パーフェクトコミュニケーション。
「……今のは?」
聞きなれぬ言語を流暢に返す大公殿下。こんな言葉を話せたのか。
「南ベトナム語だよ。バイトの子から教わったんだ」
「殿下は頑張ってらっしゃるのですねぇ……」
△ △ △
「ありがとうございました」
「それではさようなら大公殿下」
頭を下げる大公殿下に手を振り、深夜の街を貴族令嬢は歩く。
自由に呑めて、自由に食べて、自由にさ迷える。これがこの国のいいところだ。
「思わぬ時間に思わぬ人と出会ってしまいましたわねぇ……」
「しっとりとした深夜と、少しの驚き。それが秋というものなのでしょうか……」
コロナの緊急時事態宣言が解除されとりあえずは普段の様子となった街。まだおっかなびっくりとだが、それでも元にもどっていく。
「またコロナが流行ったらお上からの要請で店が閉まるのかしら……もしかしたら店で酒を呑むななんて禁酒法まがいの話しになるのかも……なんてそんなわけないですわよね。食べ物と酒に寛容なのがこの国の美徳なのに。ハハッ」
そんな状況など想像するだけでまっぴらごめんだ。
「それにしても知り合いが働いてるとなんだか行きにくいんですわよねぇ……」
「焼酎……? はぁ、こういう品のない安物を飲んでいるからあなた方はそういう風になっていくのですわね」
「うぅ、さぶかったぁ」
かじかむ白い手で戸を開ける。冷たい11月の空気を引き連れて、高貴なる姿が安居酒屋に飛び込んだ。
縄のれんをくぐり、ボリュームのあるドレスがカウンターの椅子にどっかりと腰をおろした。
「へいらっしゃい」
すかさずよってくる店員に、鼻をすすりながらも上品にマリーは注文を告げる。
「黒霧島、お湯割り。あと梅干し一つ」
「へい」
マリーは上に和柄のスカジャンを羽織、その下にドレスを着ていた。背中には刺繍の金で作られた竜と虎。奥ゆかしい高貴な柄である。上野アメ横で買ったお気に入りだ。
「寒すぎですわよ……人間が外に出ていい気温ではありませんわ」
だが現場仕事がある以上はでなければいけない。貴族に泣き言は許されないのだ。
「はいお湯割りと梅干し」
どんと置かれた湯気の立つ陶器のタンブラー。横には小皿に置かれた梅干し。
マリーは梅干しをお湯割りにぶちこんだ。
「お湯割りに梅干しを箸で崩していれて……」
グジグジと箸で焼酎の中の梅干しを崩す。
「すする……」
口をつけてズズッと一口だけすすり混む。熱により際立つ霧島の香り。梅干しの塩気と酸味。そして冷えた体を暖める熱量そのもの。
「……染み渡りますわねぇ」
ほう、と息を吐くマリーの姿はどこか色っぽくさえ見える。ような気がする。多分。
「最近警備員のバイトも増やしてみましたけれど、ちょうど気温も下がってくるとは……令和は相変わらずデスモードですわねぇ」
11月はまだそれほど寒くはならないと思っていたがこんなに冷え込むとは。
「若い頃は焼酎のお湯割りなんてジジイの寝酒と思っていましたけれど、冬の外仕事の後に呑むならそりゃハマりますわ」
ズズズとすする。鼻水がまた出そうになった。
「梅干しいれるとつまみもそれほどいらないのもいいですわズズズ」
この店の梅干しは今流行りの減塩やはちみつを使った食べやすい梅干しではない。塩気の強い昔の梅干しのだ。それがまた酒飲みの肴になる。
梅干し、塩、そんなそっけのないもので酒を呑む。体には悪いだろうが、そういうことをするとやっといっぱしの酒飲みになったようが気がする。
「といってもこれで乗り切るほどわたくしもまだ老いてはいないのも事実……」
労働後のマリーの腹は、減っていた。
「黒霧島のお湯割りと梅干しをもういっぱい。それとおでんを3品ほど見繕ってちょうだい。あとめざし」
「へい」
小さく返事をする店長。マリーはやや冷めたお湯割りを今度はぐびぐびと飲み始める。
「焼酎はやはり芋ですわぇ」
マリーは芋焼酎の荒々しい味わいを愛していた。臭いという人もいる。苦手という人もいるだろう。だがこれが個性だ。
美点や優れた点を愛でることは誰にでも出来る。嫌われるかもしれない欠点や眉をひそめられる癖を受け入れることが真にそれを愛するということ。
人の愚かさを慈愛を持って愛するように、マリーは焼酎の荒さを愛していた。
深く、深く胸の奥に受け入れるように杯を空かす。
「へい、薩摩揚げ、はんぺん、しらたきです。それとめざし、あとお湯割りと梅干し」
注文が来る。湯気を立てるおでん。梅干しを再びお湯割りの中で崩し、ウキウキとマリーはおでんに箸を向けた。
「チョイスはまずまずね。まずはからしべったりつけてはんぺんから」
口に入れば出汁の味とともにふわふわと崩れる。そしてからしの辛さが広がる。
「このふわふわ食感からお湯割りで追いかけて」
ズズッと、また熱々のお湯割りをすすりこむ。
「まさに淡雪……!」
「肌寒い春もいいですけれど、やはりおでんは冬場が花ですわねぇ。薩摩揚げも染み染みですわ」
染みてくったりとした練り物、出汁を吸ったしらたきもいい。お湯割りが進む。
「こうしてお湯割りをいれてほっこり温まってみると」
タンブラーを大きく傾ける。タンブラー奥にあった梅干しの果肉を噛みながら、焼酎の香りを堪能する。
「こんどは冷たいものでクールダウンしたくなるのが人の業……コンビニでアイスクリームが一番売れるのは冬といいますものね。店員さん、黒霧島、今度はロックで。それとカットレモンつけて下さる? それからもつ煮も」
頷く店員。即座にマリーの注文に応える。
「へい、まず焼酎ロックとレモン!」
運ばれたグラスに大きめの氷。それと焼酎。
「これにレモンを絞って……」
ギュウと、汁がこぼれる。
「絞って…」
ギュウと、汁がこぼれる。
「渾身の力をこめて…」
ギュウと、絞ってももうなにも出ない。
「死に腐れ年金保険料…!!」
もう絞ってもなにもでないぞ貴族令嬢。
「ふぅ……」
汗をぬぐい、こくりと一口呑む。
「このロックの芋の荒さに、レモンの清涼感が素敵なのですわ……」
怒りと共に貴族令嬢は焼酎を飲み込んだ。マリーは大人なのだ。理不尽も怒りも耐えられるはずだ。
「味噌味のもつ煮、定番を食べながら荒れ狂う芋焼酎ロックで押し流す。乗ってきましたわよ……!」
グビリ、ムシャムシャと消える酒と肴。こういうことは火がつくと抑えが効かないものだ。
「年末が近づいてくる雰囲気、このせわしなさも前年までは好きなものだったのですが、今年は違いますわねぇ」
マリーに陰りがあった。高貴なる美女に、憂いの表情。それはまるで朧月のように儚げで幻想的に。
「とくに年末に多くなる工事現場の警備員をしているとドライバーの気性の荒さが社会経済と密接に結びついているといやがおうでも察してしまいますわ」
グビリと呑む。不景気とドライバーマナーの関係性について思いを巡らせる。これは統計して発表したらなにか賞もらえそうな気がしてきた。
「ドライバーの横暴さに思わず伝統派空手を使ってしまいそうになる瞬間もある……しかし我慢、我慢こそが人生なのですわ」
怒りは振るってはならない。怒りは腹に納めてはいけない。怒りは足元にこめて己を支える礎にするのだ。それもまたノブレス・オブリージュ。
「ダメですわね。暗い酒はいけませんわ……そう、なにか〆、心が軽くなるような〆は……焼酎尽くしの流れ、このまま酒飲みらしい渋いものを一つ腹に入れて締めたいですわねぇ」
おにぎり、茶漬け、にゅうめん。そういったものが浮かぶ。
「さっぱりとしたのを入れてさっと出て行くのが粋な酒飲みというもの……しかしここは聞いてみるのも手ですわね」
「店員さん、なにか〆でオススメありますの?」
声をかけた店員は、最近店に入ったらしい金髪のバンドマンの青年だ。
「そうっすねー! うちは焼き肉乗せキムチチャーハンがよくでてますよ! うえに目玉焼き乗ってるやつ」
「……」
しばし、声が出なかった。マリーの中で「なにかが違うでしょう?」という葛藤があった。
この流れなら、もう少し別の選択肢があったはずだと思う。どうするか。
十秒の沈黙の末、マリーは決断した。
「じゃ、それで」
△ △ △
「うっめ! キムチチャーハンに焼き肉のマリアージュうっめ!!」
「半熟たまご潰して豚カルビ肉と合えるとうまさ爆発ですわ!」
△ △ △
「ありがとうございましたー」
店員に見送られ、マリーは夜の街を歩く。焼き肉のせキムチチャーハンというガソリンで暖まった体に冷たい夜風でさえ心地いい。
「ふぅ、なんだかんだでがっつり決めてしまいましたわ。仕方ないのよ、冬はカロリーが必要ですもの。南極越冬隊は体温維持にカロリーを消耗するからがっつり食べても痩せるのは有名な話ですし」
結局は、肉と脂が力となるのだ。
「こうして忙しく働く身になってみると、学生時代が懐かしいですわ。お姉様との思い出……東京モード学院へカチコ、交流にいったのはこんな寒い日でしたわね……」
そして懐かしさもまた明日への力となる。
「モード学院四天王、今なにしてるのかしら」
「てんや……わたくしこういう下品なところで天ぷらをいただいた覚えなんてございませんことよ……?」
「晩酌セット、それに穴子天にまいたけ天をつけて。それとタコの酢の物お願いしますわ」
「はいかしこまりました」
翻す白のドレス。注文を済ませ、どっかりとマリーは椅子に腰をおろした。
「ふぅぅ……」
いつもは余裕ある彼女の横顔に、あきらかな疲労があった。
「さすがに群馬の現場は遠かったですわねぇ……仕事は早めに終わっても帰りのバスが長いこと……」
駅が近くない現場仕事が増えた。移動手段が徒歩か電車か原付の三択しかない貴族令嬢には、アクセスが悪い現場はやはりきつい。
「マン喫で一泊というのも考えたのですが、それでは利益が薄いし明日も別の現場ですわ。なによりマン喫で一泊すると疲れが取れないのよね……いやだわ年かしら」
疲れが取れないのは、ついつい懐かしい漫画を読みふけり寝るのが遅くなるせいである。「ああ播磨灘」を全巻一気読みして睡眠時間が二時間になった。
「それにしても久々のてんやね……手頃に天ぷらが楽しめるこの店、このコロナ禍で関西方面のてんやは消滅したそうだわ。まさに選ばれし関東の民のみが味わえる店ということ……」
天ぷら屋。実は地方それぞれにチェーン店があるジャンルである。大衆店ではてんやを筆頭に九州では博多天ぷらのひらお等が有名だ。高級店ではつな八などがある。
「天ぷら、ご家庭ではなかなか本格的に揚げるのは難しいものですわね。それを手軽に食べられるとあってはそりゃ根強いものですわ」
家でも揚げることはできるが、油や道具までを本格的に揃えてつくるのはそうそうできるものではない。
「はいタコ酢とビールですお客様」
「これこれ……疲れた身には酸っぱいものが染みるのよ……」
ムグムグとタコの酢の物を噛み砕く。タコの弾力とワカメ、酸味の味わいはくたびれたこの身に無性にありがたい。
そして、追ってビール。
「ぷはぁ……これだわぁ」
仕事の後の一杯。明日への活力のために始めたことだが、気がつけばこのために生きている気がする。
「近頃は店が八時で閉まるので急いでいかないと間に合わなかったりして困りますわね……コンビニに寄ってつまみを買うものたまには楽しいものですが続くと飽きますわ」
あとレジ前のホットスナックや饅頭や和菓子をつい買ってしまう。やはり大手チェーンの売上をつくるノウハウはすごいとマリーは思った。
「はい天ぷら盛り合わせ」
「来ましたわぁ」
運ばれる皿に並ぶは、いんげん、れんこん、イカ、そしてエビのいつものメンツ。それに穴子とまいたけというマリーのチョイス。
「天ぷらは揚げたてを親の仇のように食うのが一番美味い食べ方ですわ……まずは塩でれんこん!」
ガブリとかじれば小気味良い歯ごたえとほっくり感。塩で引き立つ甘味。二口目を天つゆでさらにかじる。
「そこにビール……たまりませんわこれは!」
グビリと呑み、そしていんげん。またもグビリ。次にまいたけ。塩でかじれば豊潤な香り。
「おほぅ……! 私舞茸の食べ方はやはり天ぷらが一番好きですわ。追ってビール!」
飲み干す一杯。躊躇無くマリーは二杯目を頼む。天ぷら相手に一杯で済ませるなどという不作法、貴族がしていいはずがない。
合間に卓上のつけものを挟んで摘まむ。てんやのつけものは時期で変わる。今は大根の壺漬けだ。ポリポリと小気味良い歯ごたえ。
「疲労につけものの塩分が染みますわ……てんやのつけものってなんか美味しいんですわよね」
いざとなればつけものだけで呑めそうな気がする。
「生ビール! もう一つ!」
「はいただいまー」
即座にくる二杯目を、噛みつくように呑む。続いて穴子の塩、天つゆ。はぐはぐとあなごの身を噛み締めた。
「穴子の脂の旨味……この味わいプライスレスですわ!」
てんやではあなご天は300円(税込)です。
「この感動をそのままで、はいここで暖かいそば一つ!」
「はいおそばですねー」
△ △ △
「はい暖かいおそばです」
シンプルな、ただシンプルなかけそばがあった。
「てんやの蕎麦、わたくしは地味に好評価なのですわ……」
とっておいた半身のあなご。そしてエビ天をのせる。即席の天ぷら蕎麦だ。
「安めながら二八のしっかりめのそば……寒くなるとやはり汁物や麺類はほしくなりますものね」
一気にずずずっとそばをすすりこむ。衣に汁を吸ったあなご、そしてとっておいた最後のオオトリ、エビをかじる。
「旨ッ……! 天ぷらの醍醐味はやはりこの衣。汁を吸った衣の旨さは酒のつまみにもなる!」
汁を溶けた衣ごとすすりこみ、最後に残ったビールで熱くなった口内を冷ます。寒い冬にしか味わえない喜び。
「ぷはぁ……天そばの名残惜しさをビールで流す、これがいわゆる残心ですわ……!」
全然ちがいます。
△ △ △
「ありがとうございましたー」
「ふぅー、夜風が染みますわねぇ」
冬も一段と濃くなって、風は骨身に染みてきた。
人ごみがずいぶんと減った夜の街を歩きながら、貴族令嬢マリーはとぼとぼと歩く。
看板の明かりが消えた町並みは、寂しさを通り越してどこか非現実感さえある。
「まだ八時でこの有り様……みなさまはこの長くなりすぎた夜をどうすごしているのかしら?」
コロナ禍で商売は大きく変わりつつある。人がたくさん集まればそこに大きな商売があるという今までの鉄則は、もう通用しない。
それでも、このもてあます夜の長さが変わるわけでもない。時代は簡単に変わっても、人が簡単には変われない。
若い頃は、この楽しい夜がもっと長ければいいのにと思うことはいくつもあった。
今はもう、退屈な夜の長さにうんざりとしている。
「夜の短さに嘆く日はいつかまた、訪れるのでしょうか……?」
答えるものはない。ただ、明日の板橋区での仕事だけが確かな未来だった。
「シャブ……おシャブをキメたいですわぁ……」
「いらっしゃいませー」
昼過ぎのチェーン店、やはり平日の昼間だからだろう客層はまばらだった。
ママ会らしき数人連れ、昼飯タイムらしいサラリーマン。
その中を、悠然と歩く白い貴婦人の姿。
白い大きなつばの婦人帽。飾るは純白のバラの造花。ふわりと踊るドレスのスカート。そして、羽織るは輝くシルバーのスカジャン。背には紅い天狗の面。
今日のスカジャンは、マリーのお気に入りのやつだ。
「お一人で、ランチ三種肉食べ放題コースとアルコール飲み放題でお願いしますわ」
「はい検温しますねー」
指を一本立てて、検温。流れるように店員に案内された場所へ歩く。厳かに着席。
洗練された貴族の所作であった。
「お鍋の種類はすき焼きとしゃぶしゃぶどちらにしますかー?」
「おしゃぶで」
今日はしゃぶをキメに来たのだ。ガッツリと。
「はいしゃぶしゃぶですねー飲み放題のドリンクはいかがしますかー?」
「生ビール大で」
「はいおまちくださーい」
店員を見送りながら、ゆっくりと息を吐く。しゃぶしゃぶに対してマリーは精神を集中させる。意識を切り替えるのだ。しゃぶ脳になるのである。
「定期的に……シャブ、キメたくなりますわねぇ……」
なかなか家でやる機会がない。店では具材から鍋の準備までしてオマケに食べ放題ならば、これはもう店一択になるのは当然である。
「最近してなかったのよねえしゃぶしゃぶ……」
生活に追われ、マリーはしゃぶを嗜む機会を失っていた。これではいけない。貴族はいかなるときも優雅にたち振る舞うもの。
マリーよ、今日はシャブれ。力の限りシャブるのだ。
「ふと思い立ったら来てしまったわ……ランチ食べ放題で飲み放題付きで三千円少々、有能な店ですわ…」
カレーもアイスクリームも食べ放題だ。うどんもある。無限の選択肢は幸福の形。だが一本間違えばそれは容易に崩れ落ちることもマリーは知っている。
「はいお出汁火にかけますねぇ。あとスタートのお肉です」
運ばれる大皿。そして酒。この店のスタートは豚ロースと牛肩ロースから始まる。
「まずは一杯……!」
昨日の夜は抜いた。その空きっ腹にビールをぶちこむ。冬は深くなった。体が凍える現場も増えた。それでも、ビールはまだうまい。
喉を鳴らし飲む。飲み尽くす。飲み放題だ、遠慮はいらない。
「ズズズッ……ふぅー」
底をすすってしっかり空になったジョッキ。それをかかげ、おかわりを叫ぶ。
「ビール大もう1杯!」
同時に優美な所作で立ち上がる。
「さて、いまのうちに野菜も取っていかないと……」
キノコ類、野菜、もやし、うどん、マロニー。種類は多い。だがマリーのチョイスは常に的確かつスピーディである
「まず鍋底に沈めるごぼうのささがき、マロニーを先に鍋にいれておく」
ヒョイヒョイと取った具材。それらを席に戻り初めに鍋にいれておく。
味が染み込むもの、硬いものは最初に入れておくのがセオリー。
「そして今は冬だから青物の値段が高い。葉物野菜を狙い元を取るのが貴族の作法……! 水菜、ネギ、白菜」
少し天気が荒れるとすぐ野菜が値上がりする。
「そういえばキャベツが高くなってたですわねぇ……なにあの値段、葉の裏に大麻でも摘めてるの……? は、いけませんわね。貴族たる私ががそんなはしたない言葉を……」
マリーは常に自省する女である。
「ハッピーなおハーヴでも入れてなさるの、このキャベツ。というべきですわ」
自省するだけだが。
「あと豆腐。湯豆腐にしたい。席に戻れば、ちょうどよく煮立った出汁と到着したビール……ポン酢とゴマだれをセットして。なにこれ? へー香辛料を漬け込んだ花椒オイルやスパイスと合わせた岩塩もあるのね……後で試してみよ」
そして山盛りの大根おろし。これがなければ。
「ひさびさにおシャブを決めるためには入念なセッティングが大事……これができないと高貴な身分とはいえないわ……」
セッティングは大事だ。いろいろなものの。
「まずは豚ロースから……」
無造作に数枚を箸で掴み、しゃぶしゃぶと沸騰した出汁にくくらせれば、ピンク色の肉はさっと色が変わる。
「肉をしゃぶるこの感覚と喜び……これを味わえるのはしゃぶしゃぶという料理だけですわね…」
マリーの顔は、どこかうっとりと悩ましげに鍋を見つめている。
「始まりは一味を振ったゴマだれをたっぷりとドブ付けしてぇ」
赤が彩る薄茶色のゴマだれに、肉をつける。
「食らう…! そしてビールッッ!!」
豚肉の旨味、ゴマの味わい。そしてそれらを喉奥で流し込むビール。
「ギンギンにキマリますわこれはぁ!!」
グビグビと飲み。またしゃぶる。今度は牛肩ロースだ。硬い肩ロースも薄切りにすれば柔らかく食べれる。
「ゴマだれやはり旨すぎですわ……脂を落としたしゃぶ肉との相性は抜群……! 酒も進む!」
もう止まらない。シャブがガンギマリMAXである。
「生ビールおかわり!! 飲み放題だから何も気にせずやれますわ! 私は今自由!」
解き放たれた野獣のごとく、肉を食い酒を飲む。これだ。生きているとはこうでないと。
「牛ロース!!」
滾りを叫ぶ。もう止まらない。
「肉がくるまでを野菜でつなぐ……! 軽めに火を通した水菜や長ネギのシャキシャキをポン酢で、たまりませんわ……!」
ヴィーガンにも気を使い野菜も多少は取っておこう。
「そこに熱々の豆腐をポン酢おろしでやっつける! そしてビールで冷ます!」
応えられない。
「はいお肉とお酒おかわりですー」
さらに並ぶ酒と肉。行き着くところまでいくしかない。
「時間は90分制……限られた自由を全力で謳歌する…!牛ロースをもみじおろしにゆず胡椒のポン酢で…! そしてやはりビール!!」
瞬く間に消える肉。流し込むビール。いつしかマリーの綺麗な額に、汗が浮かんでいた。
暑さに思わずスカジャンを脱ぐ。
「脳内快楽物質が……ダダ漏れですわ!!そして肉をしゃぶる合間に……鍋底に待機させておいたゴボウとマロニーちゃんを頂く!」
これが戦略。獣のように肉を流し込んでも、マリーは常に先を捉えている。
「シャブる快楽の狭間の、チルアウトですわ…!!」
※けして犯罪的なニュアンスはありません。
「あ、アクとりしないと……」
「……それにしても家族連れでシャブってる方、結構いますわね。緊急事態宣言で時間のできたご家庭が多いのかしら」
いろいろ面倒な世の中になったが、家族の時間が増えたことを喜ぶ人もいるという。やはり家に愛する家族がいてくれることは生き方を変えてくれるものなのだろう。
「その中で私はひとり……五年後十年後もこのままひとりでしゃぶったりすき焼きったりしてるのかしら……」
箸が止まる。鍋は沸騰していた。
「だ、だめよ弱気は……まだよ、まだ慌てる時間じゃない……!」
弱火にし、焦りをビールで流し込む。
「ビール、と牛肉おかわり!!」
弱気は酒で押し流す。それが貴族の生き方だ。
「ひ、ひとりの客なんて別に珍しくもないですわあっちにもひとりすき焼き中のサラリーマンが……あ、すき焼きも美味しそうに見えてきましたわね」
シャブシャブと肉を泳がせながら、ポン酢で冷まし一口ですする。他人の食べているすき焼きはなぜうまそうに見えるのだろうか。
「……それにしても仕事は一応ありますが、また途切れ始めてきましたわね。不安を消すために思わずシャブに手を出しに来てしまいましたわ」
※べつに犯罪的なニュアンスはありません。
「どんな人も不自由の元に生きている。人を真に自由にするのは酒を飲んでいる間、食べ放題の間だけですわ。そうですわよね、吉田類様……」
吉田類はべつにそういうこと言ってないと思う。
「牛ロース、おかわり!」
△ △ △
「ありがとうございましたー」
「ふぅ、あれからさらに牛ロース二皿にカレーと締めにうどんやってアイスクリームまで堪能してしまいたわ……サービス良かったけどあの店本当にやっていけるのかしら」
とぼとぼと帰り道を歩く。腹がくちれば他人を心配する余裕が出てくるものだ。
「それにしても良い気持ちだわ。満腹と適度な酔い、これだからシャブをキメるのは止められませんのよ…さあこれで明日も頑張る活力が……」
※べつに犯罪的なニュアンスはありません
「あら?」
鳴る電話。あわてて出る。
ピッ
「はい、はい、明日の現場っすか? たしか綾瀬に9時からで…え、無くなった? まったく? あーそうですか。明日も明後日もない? ゆっくり休んで? はいはいそれじゃ」
携帯を切り、ゆっくりと令嬢は冬の空を見つめた。遠くで、鳥が、飛んでいた。
「……じゃ、帰って家で呑みますか」
「吉野家……? わたくし、こんな牛丼なんて下品なものの食べ方なんて存じ上げませんわよ……?」
「はいいらっしゃいませ」
白い──というにはすこし煤けたドレスをなびかせて、マリーはオレンジの看板をくぐり丸椅子に腰かける。
ドレスの上には、一月の寒風に耐えるためにダウンジャケットを羽織っていた。
マリーの歩みはこころなしか重い。
「はぁ……」
深いため息。明かな疲労困憊。
普段は完璧にブラッシングされているはずのマリーの金髪は荒れていた。こきりと首を鳴らしお茶をすする。
「ああ……正月からの8連勤はきつかったですわね……」
仕事が五日間途絶え、慌ててほかになにか無いか探した。Uber Eatsや警備員はもちろんパン工場の短期バイトやフォークリフトの倉庫作業もやった。
今日は道路工事の警備員を終え、明日は久々の休日である。
世間の風はいつも辛い。だがそこに生き抜く喜びもある。そのために強くあらねば。
明日は一日寝ておこう。あと洗濯もしよう。布団も干そう。
その前に腹を満たしたい。肉で。
だが正月の夜にやっている店といえばまず目についたのは吉野家しかなかった。
「人は置かれた場所で咲くことが大切……いいのよ。それが大切なこと。すいません、このダブル定食の牛皿と牛カルビのセットで。牛皿はねぎだくで。味噌汁は豚汁に変更。あとゴボウサラダと温玉。それとビール。ご飯後にしてください」
「はいわかりましたー」
「ふぅ……疲労と消耗を癒すには……肉、酒。つまり豪遊しかありませんわ」
夜の吉野家で豪遊。まさに貴族だけが嗜める遊び。
「ああ……熱いお茶が美味しいですわ」
ズズッと茶をすするとビールが来る。見回すと客はまばらだ。マリーは静かにコップに注いだ。若干、手が震えている。無理もない。ここ数日は忙しさから酒を飲んでいないのだ。
「古代メソポタミアでは労働者の間ではビールが『飲むパン』と言われ栄養ドリンクのように愛飲されていたという……肉体疲労時にビールを飲むことは数千年前からの常識!!」
少なめに注いだビールを、くっと一息に飲み干す。苦味、そしてキレあるのど越しが駆け抜ける。ぐったりした体に、突き刺さる活力。
「くぅあああ!! きたわこれぇ……!」
もう一度注ぐ。少なめに一息で飲み干せるように、一口ごとに注ぐほうがよりビールを最適にうまく飲めるやり方なのだ。
そして、またも飲む。
「労働が報われるこの瞬間……!!」
マリーの目尻にすこしだけ涙があった。人は悲しみに涙するのではない。苦しみに涙するのではない。それらを受け止めて今を生きているからこそ、涙を流すのだ。泣くことは、生きる者だけができることだから。
「はい牛皿と牛カルビ定食。豚汁、ゴボウサラダと温玉です」
夜の吉野家に、無敵要塞が出現した。
「来ましたわね……!まずは汁物から」
ズズリと豚汁を啜る。熱々の汁で体が生き返る。根菜と豚の旨味。それらをまとめあげる味噌の味わい。
「ゴボウサラダ……ときどき無性に食べたくなりますわ」
箸で持ち上げ、食い付く。ジャッキリとしたゴボウの食感と土の味わい。マヨネーズドレッシングにより引き立てられる。うまい。追ってビールをグビリ。
「顎にがっしりくる食感。久しく味わってませんでしたわね……」
温玉を崩す。そこにコチュジャンを混ぜ込んだ牛カルビをどっぷりとつけて食う。ようはすき焼きの要領である。
とろりとした黄身とコチュジャンの辛み。そしてよくわからない部位で歯ごたえのある牛の旨味を噛み締めて、そしてビール。
「労働後の肉……そして酒……私、今生きてる……! あ、ビールもう1本ください」
「はーいただいま」
運ばれるもう1本をまた注ぐ。くっと飲み干す。
「そして牛皿に紅しょうがを多めにのせて……温玉につけて食らう!」
カルビとはまた違う煮られた肉の味わい。マリーは牛丼には紅しょうが山盛り派である。
「そしてねぎだく……牛丼はこの柔らかく煮られた玉ねぎが主役とも言えるわね。そしてゴボウサラダ! 追ってビール!」
存分に肉を食い酒を飲み豚汁をすする。疲労した体が、すり減った魂が、癒されていく。
「それにしても今は夜中に吉牛を店でキメることさえ贅沢なのですわね」
自粛により夜八時以降の飲食店は利用できない。せいぜい持ち帰りくらいだ。
「借りたビデオを徹夜で見て、TSUTAYAに返してきた夜明けの帰り道に吉牛で牛丼キメてあとは泥のように眠る……そんなささやかな楽しみも贅沢になってしまった……難儀な時代ですわ」
マリーのささやかな楽しみはアレな方向だった。
「時代は変わるもの……TSUTAYAももうずいぶんと減ったものですわ。あきらかなクソ映画をジャケ借りして深夜テンションでゲラゲラ笑いながら観賞することも遠い過去になっていく……さよならメタルマン、トランスモーファー……」
別にそれは無くなってもいいかもしれない。
「すぎゆく過去よりも、今は現実と戦わないと……そのためには力……力とはすなわち米! 店員さん、ご飯大盛りでください」
「はーい」
「そして残った戦力をここに結集させて」
運ばれるどんぶり飯に、マリーは残った牛皿とカルビ、温玉をぶちこんでいく。
「名付けてダブル牛丼……!ぶちこみますわよ!」
がつがつと丼ぶりをかっこむ。そして豚汁で流し込む。マリーの食いっぷりは力強くそして男らしい。生まれたときからどんぶり飯。そう背中が語る。
どんぶりを空にし、そして最後のビールをくっと飲み干した。
「ふぅー……満ち足りましたわ」
△ △ △
「ありがとうございましたー」
店員に見送られ夜の街を歩く。まだちらほらと歩く人影は、家を目指しているのか。それとも行き場所がないのか。
「コロナで外にでれなくなった分、家の中の娯楽は充実しましたわね。アマゾンプライムなどの動画サイト見てゴロゴロしてると昔TSUTAYAに行ってはビデオを借りて返しての無限ループしてた頃にはとても戻れませんわ」
時代は変わる。失われたものを振り返る暇もないほどに。
「家でいろいろなところから出前を頼めるUber Eatsなんてものもある……まあ私は配る側なのですけれど」
マリーの手にはビニール袋があった。中身は持ち帰りの牛皿である。
「さて……家でアマプラみながら牛皿と檸檬堂で第二ラウンドですわ!」
マリーの夜はこれからであった。