部室は朱色をおびている。

 この部屋に夕日は直接さしこまない。元は美術準備室だったこの部屋は、画集に図鑑、展覧会のカタログなんかで埋もれている。日光は本の天敵だ。窓は当然北を向いている。

 それでも外に広がる夕方の余波は、どこからか部室に忍びこむ。

 ページのめくれる音がする。

 机の反対側では、一年生の猫間(ねこま)くんがペーパーバックの画集を開いている。御簾のような長いまつげが大きな目をうっすらと隠している。

 えろい。全裸より半裸のほうがえろいのと同じ理屈である。

 猫間くんは、ぼんやりページをめくっているかと思うと、いきなり目を見開いて「わー」と小さく歓声をあげたりする。見ていて飽きない子だ。首輪とかつけたらいいと思う。

「ん?」

 と、不意に猫間くんが首をひねった。

 それからシャープペンシルを手にとり、ルーズリーフに何かを描きはじめた。

「やよひ先輩、この絵知ってます?」

 そう言って、猫間くんはルーズリーフをわたしにさしだした。

「どれ……。ああ、はいはい。その絵、文字は書かれてた?」

「なかったと思います」

「なるほどね。ちょっと待ってて」

 席を立ち、でこぼこに積み上げられた美術書の山に向かう。

 猫間くんがどの作品のことをいっているのかはすぐわかった。走りがきであっても、彼の絵は特徴をよく捉えている。

「これでしょう」

 わたしが広げたページを見て、猫間くんは「そうですこれです」と何度もうなずいた。

 そのページには、白黒のおどろおどろしい絵が載っている。宙に浮いた女性が、男性の生首を両手にかかげて口づけをしようとしている。生首からしたたる鮮血は足下の池に注ぎ落ち、水面から花を咲かせている。そして花からは女性の足許へ向けて根が伸びている。

「オーブリー・ビアズリーの『クライマックス』ね」

「『クライマックス』っていう題名なんですか?」

「便宜上のね。この絵は単体の作品じゃなくて、小説の挿絵なの。オスカー・ワイルドの書いた戯曲『サロメ』の英訳版に付された挿絵のうち、クライマックス・シーンに挿しこまれたのがこれ、というわけ。ビアズリーはもう一枚同じ構図の絵を発表しているけど、文字がないならこっちで決まり」

「『サロメ』か。聞いたことあるような、ないような。どんな話なんですか?」

「ユダヤの洗礼者ヨカナーンが、イスラエル領主ヘロデの城に捕まり、そこで殺されるというお話よ。元は新約聖書のエピソードで、それをワイルドが翻案して戯曲にしたの」

「じゃあ右側の生首がヨカナーンですか。この人、何で殺されちゃったんですか?」

「その解釈には諸説あるわ」

 立ち上がり、咳ばらいをひとつ。今日の部活の始まりだ。

「まずは、ヘロデとその妻ヘロディアの怒りを買ったという説ね。へロディアは元々ヘロデの兄嫁だったんだけど、ヘロデは彼女を兄から奪いとったの。ヨカナーンはそれを姦淫の罪だと非難したわけ」

「それで殺されちゃったと。領主にケンカ売ったから」

「そう。聖書を素直に読むとね、そういう解釈になるわ」

「素直じゃない読み方もあるんですか?」

「ヨカナーンはキリスト教誕生に寄与した聖人なの。イスラエルにおける彼の影響力はとても大きかった。投獄は、領内での権威を守ろうとするヘロデの政治的な判断だったという解釈もあるわ。もちろんそんなこと聖書には書いてないけどね」

「なるほど。どっちにしてもひどい話ですね。えっと、じゃあこの人が奥さんのへロディアですか?」

 猫間くんは画面左側の女性を指さしてそう質問してきた。

「いいえ。これはへロディアの娘。彼女こそがサロメよ」

「サロメって何したんですか? 今の話に出てきませんでしたけど」

「彼女はね、義理の父ヘロデにおねだりしたの。ヨカナーンの首がほしいって」

「生首をおねだりですか」

 猫間くんは「うへー」と顔をしかめた。

「さっきも言ったけど、ヨカナーンの影響力はとても大きかった。領主ヘロデは、ヨカナーンの宗教活動を止めるために投獄はしたものの、殺すことはできなかったの。民衆を刺激することになるからね。だからサロメは、ヨカナーンを持て余していた父の背中を押すため、そして母の名誉のために彼の首をねだった。聖書から読みとれるサロメの動機はこんなところね」

「両親のためですか」

 猫間くんはそう言って「うーん」と唸った。

「何か気になる?」

「はい。この絵のサロメ、邪悪というかなんというか、親孝行するようには見えないんですけど」

「いい指摘ね」

 やっぱり猫間くんはセンスがいい。わたしが説明した聖書の解釈に引っぱられることなく、目の前の絵をまっすぐに見ている。

「ここに描かれているのはワイルドが翻案して生み出したサロメだから、聖書のサロメとは別物よ。そもそも聖書だと扱いも軽いし。ヘロデの娘と呼ばれるだけで、名前も出てこないくらい」

「それなのに戯曲では主役なんですよね? タイトルが『サロメ』だし」

「そう。彼女はオスカー・ワイルドの解釈によって新たな命を与えられたの。我がままで欲深な悪女。かなわぬ恋に心焦がした悲劇のヒロイン。そしてヨカナーンにとっての運命の女性。それがワイルドのサロメであり、ビアズリーのサロメよ」

 さてこれからがいよいよ本題、といったところで校内放送が聞こえてきた。もう下校時刻だ。

「残念。続きはまた明日」

 わたしは胸の前で両手を打ち合わせ、本日の部活動終了を宣告した。

 今のはただの雑談ではない。立派な部活動である。

 美術解釈部。それがわたしたちの部の名前。

 そしてわたし、安達《あだち》やよひが美解部の部長である。

「やよひ先輩、アイス食べていきません?」

 かばんを手にとった猫間くんが声をかけてくる。

「いいわよ。いきましょう」

 猫間くんは「やった」と笑顔を浮かべた。

 猫間くんは秋でも冬でも毎日欠かさずアイスを食べる。らしい。猫間くんが入部してからまだ半年。彼の冬をわたしはまだ知らない。

 部室に施錠し、廊下を並んで歩く。

「あの、猫間くん!」

 不意に声をかけられた。

 廊下の向こうに女子が立っている。

 上靴の色からして一年生。華やかな子だ。目が大きく、高いところで括られた髪にはピンクのシュシュが巻かれている。

 その子は猫間くんの隣に立つわたしをにらみつけ、「あの」と低い声を出した。

「あ、えっと、ね、猫間くん。わたし、さ、先帰るから。じゃあ!」

 猫間くんの返事も聞かず、わたしは逃げ出した。

 いやだってあの子すごいにらむし。

 しかし、ただではすまさない。

 階段の陰にかくれ、耳をそばだてる。

 二人の会話は、ぼそぼそとしか聞こえない。

 しかし一際強く発せられた一言だけは、聞き逃しようがなかった。

「ひとめ惚れでした!」

桧原(ひばら)夕雨(ゆう)。一年二組。美術部所属。この子で間違いないかな」

「それが罪人の名ね」

 昨日、わたしは階段の陰からこっそり罪人の写真を撮った。罪人とはもちろん部室の前で猫間くんに対し不届千万な行為におよんだあやつのことだ。

 撮影したその場ですぐ、わたしは友人あてに写真データを送り、身許のわりだしを依頼した。

 今は一時間目が終わったあとの休み時間。その友人、苗代(なわしろ)千湖(ちこ)からこうして調査結果の報告をうけている。

「クラスでは男女問わずみんな仲よし。部活でも先輩から可愛がられてるし、ご近所さんの評判も上々。できた子だねえ」

「つまり、誰彼かまわず愛想を振りまくビッチね」

「悪意ある解釈だなあ」

 千湖はスマホを見下ろしたまま、にやりと笑った。

 千湖は顔が広い。昨日の今日で早速これだけの情報を集めてきた。ご近所さんの評判なんてどこで聞いてきたんだろう。

 肩までの髪をおさげにして、長い前髪は真ん中でわけている。千湖は顔も広ければおでこも広い。よく中学生に間違われる。

「てか、この子美術部なんだからやよひも知ってるんじゃないの?」

「わたしは昨年さっさと退部しちゃったから、今年の一年生なんて知らないわよ」

「そういやそっか。今更だけど、やよひって何で辞めちゃったの?」

 千湖が訊いてくる。軽い口調。雑談の延長といったくらいの温度感だ。

 だから答えは、はぐらかしたっていい。適当な冗談で受け流していい。

 でも、わたしはちゃんと答えようと思った。千湖は文句ひとつ言わずにわたしの頼みを聞いてくれた。その恩返しというわけではないけれど、ちょっと勇気を出してみよう。

 ということで、わたしは取りだしたルーズリーフに絵を三つ並べて描き、それを千湖にさしだした。

「んー?」

 その絵を見て、千湖は眉間にしわを寄せた。

「この左のは、馬?」

「ちがう。それは四つんばいでお散歩しているおじさん」

「……じゃあ、真ん中のはおばさん?」

「まさか。それは犬よ」

「……なら、右のは豚?」

「惜しい。そっちは四つんばいでお散歩させられている、えっと、美少年」

 危ない。今、思わず『猫間くん』と言いそうになった。

「わかった? わたし、絵があんまり上手じゃないの」

「え。あー。うん」

「何が足りないのかしら。デッサン力?」

「良識かなあ」

 首をひねるわたしに、千湖はそうつぶやいた。

「ねー、千湖! 英語の訳、やってきたー?」

 教室の反対側から、金属みたいに明るい声がとんできた。

 四、五人の女子がこちらに手を振っている。遠目でも目立つ連中だ。多分、近づくと香水のにおいがする。

「やってなーい!」

 と、千湖も負けないくらいの声で叫びかえした。さっきまでとはテンションが違う。表情も別人のように朗らかだ。

「まじでー? 千湖、今日あたるよー? 三組聞きいこうよー」

「おっけー。いくいくー」

 と、千湖は席を立った。

 そして光るような笑みを浮かべながら、暗い小声でわたしにささやいた。

「……とにかく、やられっぱなしじゃいられないでしょ。びしっと一発言ってやりなよ」

「そうね。部長としてやってやるわ」

「良識のなさを見せつけてやれ」

「千湖ー?」

 教室の入口から、化粧の濃い女子が声をかけてくる。

「うーん。今いくー。……じゃね」

 そうして千湖は去っていった。

 わたしの周りから光が消える。

 彼女はあちら側の人間だ。それなのに、ときどきわたしのところに堕ちてくる。何を思ってのことか、わたしは知らない。

「……英語の予習なら、わたしもしてあるんだけどね」

 そういうことではないのだ。多分。

 スマホに保存した写真を見る。

 桧原夕雨。彼女もあちら側だ。

 隠し撮りの荒い画像でもわかる。

 猫間くんに向けている、その笑顔のまぶしさが。

 彼女もきっと描く側の人間だ。

 白いカンヴァスに、絵の具を散りばめる側の。

 だからといって黙っているわけにはいかない。解釈する側にだって意地がある。

 昨日、桧原夕雨と猫間くんとの会話で聞きとれた言葉は二つ。

 桧原夕雨の『ひとめ惚れでした!』。

 そして、猫間くんの『ちょっと考えさせて』。

 猶予はそんなにない。

 待ってろ、猫間くん。美解部部長の本領を見せてあげる。

「来たわね、猫間くん」

 その日の放課後。美解部部室で待ちかまえるわたしのところに、まんまと猫間くんが現れた。

「そりゃ来ますよ。部活ですし」

 猫間くんはとぼけた表情でかばんを置いた。

「やよひ先輩。昨日の『サロメ』なんですけど、」

「それなんだけどね」

 わたしは猫間くんのことばをさえぎった。

「解釈の余地はないわ。サロメはただのビッチよ」

「……えー」

「オスカー・ワイルドの作中で、預言者ヨカナーンは白皙の美青年であったとくりかえし記述されているわ。サロメはきれいな顔にひとめ惚れしたのね。それで首を欲しがった。とんだビッチだわ」

「先輩、今日の解釈雑すぎやしません?」

「猫間くんも夜道に気をつけてね」

「なんで僕!」

「サロメは巷間にたくさんひそんでいるのよ。ほら、あなたの背後にも……」

「いませんて! もう、せっかく僕も調べてきたのに」

 と、猫間くんは口をとがらせ、かばんから薄い文庫本を取りだした。その表紙には見覚えがる。岩波文庫版の『サロメ』だ。

「う。ちゃんと読んできたのね」

 胸が少し痛む。後輩はきちんと部活の準備をしてきたというのに、部長のわたしときたら……。

「えっと、じゃあ猫間くん、読んでみてどう思った? 解釈を教えてくれる?」

「……そうですね」

 猫間くんが文庫本のページを繰る。

「物語を読んでるときは、たしかに先輩の言うとおり、サロメはヨカナーンにひとめ惚れしたんだろうなって思いました。でも後ろについてた解説を読んでると、」

「別の解釈を思いついた?」

「はい。もしかしたら、ワイルドはサロメに自分を重ねてたのかな、なんて。うーん、うまく言えないんですけど……」

 猫間くんは口ごもり、それからわたしを見た。

 そんなふうに助けを求められたらしかたがない。かわいいなあ。後輩をフォローするのは部長の役目である。雨の日に段ボール箱からこっちを見て「くーん」とか鳴いてたら拾っちゃうなあ。猫間くんって名前の割に犬っぽいところも……やばい。妄想が思考に侵食している。

「……こほん。いい視点ね。その解釈は的を射ていると思う」

 咳ばらいをして、湧きあがる煩悩をなんとか抑える。

「サロメはずっとヨカナーンを、もっといえば、美を求めている。その姿勢は確かにワイルドに重なるわ。ワイルドも小説や戯曲で美を追求した人だから」

 ワイルドの作風は、唯美主義とも耽美主義とも称される。

「あともう一点。手の届かないものを欲したという点でも重なるわ。猫間くん、解説にはダグラス卿についても書かれていたわよね?」

 猫間くんはうなずき、「ワイルドの恋人ですよね」と答えた。

「そう。ダグラス卿はね、目にもまぶしい美青年だったの。それこそヨカナーンのように。でも、十九世紀末のイギリスでは、同性愛は法律で禁じられていた。ワイルドは起訴され、投獄された。『サロメ』の発表より後の話だけどね」

「なんというか、救いがないですよね」

 と、猫間くんは沈んだ声でそう言った。

 そのとき、わたしの脳裏にある可能性がひらめいた。

「もしかしたら……」

 昨日見たビアズリーの画集をもう一度開く。ページはもちろん『クライマックス』。

「昨日も言ったけど、ビアズリーは『サロメ』の英訳版に挿絵を提供したの。その英訳を手がけたのは、誰あろうダグラス卿よ。評判はいまいちだったそうだけどね。ダグラス卿は翻訳に関しては素人だったみたいだし」

「それでもワイルドはダグラス卿に英訳させたんですね。でも、それがどうかしました?」

「タイミングの問題よ。ワイルドはまずフランス語で『サロメ』を書いた。その原本を読んで、ダグラス卿は英訳をしたし、ビアズリーは挿絵を描いた。つまり、挿絵を描くにあたって、ビアズリーはワイルドとダグラス卿との関係をすでに知っていて、そのうえで『サロメ』の原本を読んでいた。サロメがワイルドの、ヨカナーンがダグラス卿の投影であると、ビアズリーはそう解釈してこの『クライマックス』を描いた。……だとしたらこの絵は、ビアズリーからワイルドへのメッセージかもしれない」

 わたしは生首からしたたり落ちる鮮血から、水面に咲く花までを指でなぞった。

「極限にまで追い求めれば、たとえすべてが破綻したとしても、そこから花の咲くこともある」

 そして宙に浮くサロメの足許へ伸びる根を指さす。

「そして花は求めた者のところにも返ってくる」

 猫間くんが「わあ」と小さく声をもらす。

「『いつかあなたも報われる』と、ビアズリーはワイルドにそう伝えたかったんですね」

「どうかしら。現実での破綻は目に見えていた。むしろビアズリーはこう言いたかったのかも。『せめて戯曲の中でくらい、サロメが報われてもよかったじゃないか』とね」

「『ヨカナーンがサロメの思いに応えるラストにすればよかったのに』ということですか」

 猫間くんは、うんうんと何度もうなずいた。

 ……ん?

 それ、まずくない?

 あらためて考えてみると、『思いに応える』という解釈は非常によろしくない。

「ごめんやっぱり今の解釈は間違い。サロメはただのビッチでね、」

「あ、しまった」

 猫間くんは壁の時計を見て立ち上がった。

「すみません。僕、用事があるので帰ります」

 今日の用事といえば、それはもしかしなくても、昨日の……。

「猫間くん!」

 彼にかけ寄る。そして左手の袖を、そっと指でつかむ。

「用事って、桧原夕雨?」

「……わかります?」

 猫間くんはそう言って頬をかいた。

 行かないで。

 その言葉を口にはできなかった。

 昨日、桧原夕雨がどれほどの覚悟を決めて思いを告げたのか。

 そう考えたらもうだめだった。

 自分の全てを否定されるかもしれない。

 わたしはその怖さを知っている。

 わたしは人とちょっとずれている。美術部は、わたしの居場所にならなかった。

 人に自分を見せるのは怖い。

 千湖に絵を見せるのだって、どれだけ勇気をふりしぼったか。

 地に身をなげうつような桧原夕雨の覚悟を、なかったことにはさせられない。

 だからわたしは、猫間くんの袖から手を離した。

「……行ってらっしゃい」

 猫間くんは真顔でわたしを見返した。

「行ってきます」

 そして部室を後にした。

 翌日の放課後。

 わたしは美解部の部室でひとり画集をめくっていた。

 ビアズリーの絵は、他の誰にも似ていない。

 百年以上前にもひとりぼっちがいたと思うと、少し心がやわらいだ。

 今ごろ猫間くんはどうしているだろう。手でもつないで帰っているだろうか。アイスをいっしょに食べているかもしれない。いや、桧原夕雨はビッチだから早くも二人は昨日の今日で……。

「あああああ」

 本につっぷし頭をかかえる。

 さっきから何度もこうした煩悶を繰り返している。わたしには、自分で自分を傷つけるような倒錯した趣味はないはずなのに。

「こんにちはー」

 と、いきなり部室のドアが開いた。

「猫間くん!」

 勢いよく立ちあがったら椅子を倒してしまった。猫間くんがびくりと身を震わせる。

「え、な、なんで来たの?」

 椅子を引き起こしながら尋ねる。

「そりゃ来ますよ。部活ですし」

 猫間くんはそう答えながら、いつものようにかばんを置いた。

「でも、だって、桧原夕雨が……」

「そのことなんですが」

 猫間くんは真っ正面からわたしを見すえた。

「やっぱり美術部には入りません」

「……はい?」

「あ、『今は』です。今はまだ早いかなって。もう少しここで勉強させてください」

 そう言って猫間くんは頭を下げた。

「えーと」

 猫間くんのつむじを見ているうちに、ようやく頭が回ってきた。

「……ねえ、桧原夕雨はどうしてきみを美術部に誘ったの?」

 猫間くんは頭を少し上げ、上目づかいでわたしの顔を見た。

「僕、中学のときには美術部だったって、前に言いましたよね。その頃描いた絵が、市内のコンクールで入選したことがあったんです。桧原さんはその絵を見たことがあって、覚えていてくれたんです。やたらと褒められましたよ。『真の芸術だった』とか『ひとめ惚れした』とか」

 と、猫間くんは困ったように笑った。

「ふーん。それで猫間くんを誘ったと」

「そうなんです。『美術部で絵を描きつづけるべきだ』って」

「なんで断っちゃったの?」

 わたしはなるべく平板な声でそう訊いた。喜んでいるとか、嬉しがっているとか、変な誤解を与えないように。

「僕にはまだ早いと思ったんです」

 猫間くんは微笑んだまま、遠い目をして語りだした。

「自分でいうのもなんですが、僕、絵はけっこう描けるほうだと思います。でも、ある程度以上にはどうしてもなれなくて。とある人に言われました。『あなたの絵には思いがない。上っ面だけの真似っこです』って。今思うと、桧原さんが見たという僕の絵は、たしかに似てました。この絵に、とても……」

 そう言って、猫間くんは開いたままにしてあった画集に手を置いた。

「どこかで見たことがあったんだと思います。でも、描いた人の名前も、題名すらも知りませんでした。先輩に教わるまでは」

「……」

「僕、知りたいんです。人は何を思って絵を描くのか。それに……」

 そして猫間くんは自分の左腕を見た。

「他にも、解釈したいことができまして」

「そうなの?」

「そうなんです」

「解釈したいのって、どんな作品?」

「作品というか、その、秘密です」

 そう言って猫間くんは人さし指を立てた。

「じゃあ、それは猫間くんの宿題ね」

 わたしが笑いかけると、猫間くんは「はい」と応えた。

次の日の放課後、部室に向かうわたしは浮き足立っていた。

 今日も部活だ。猫間くんはきっと『そりゃ来ますよ。部活ですし』なんて言いながらやって来る。今日はどんなお話をしよう。

 と、わくわくしながら歩いていたら。

「あ」

 目が合った彼女はそんな声を出した。

「げ」

 わたしの喉からはそんな声が出た。

 今会いたくないビッチランキング栄えある一位の桧原夕雨が、廊下の先に立っていた。

「……」

 目をそらし、黙ってやり過ごす。

 無用な争いは避ける。それがお互いのためなのだ。

 なのに桧原夕雨はわたしの行く手に立った。

「あの、安達やよひ先輩ですよね。美術解釈部部長の。ちょうどよかった。話したいことがあったんです」

「な、何でしょう?」

「なんで敬語ですか。先輩なのに」

「そ、そうですだ、よね!」

 桧原夕雨が顔をしかめる。やめてよしてそんな目で見ないで。

「……安達先輩。猫間くんを解放してあげてください。お願いします」

 そう言って桧原夕雨は頭を下げた。深く、ていねいに。

 その瞬間わたしは天啓にうたれた。

 この子は、部活だとか、美術だとか、猫間くんの才能だとかのためにこうしているんじゃない。

 この解釈は、間違いない。

「……桧原さん。顔を上げて」

 だからわたしは、正面切って彼女に応えなくてはならなかった。

 桧原夕雨がゆっくりと顔を上げる。唇をかみ、頬をしかめながら、それでも彼女はまっすぐにわたしの目を見た。

 だからわたしもその目を見すえた。そして。

「猫間くんは、あげません」

 あっかんべー、と舌を出した。

 すぐに背を向け走りだす。

「ちょっと、こら!」

 桧原夕雨の怒声を背に、階段を駆けおりる。

「わ!」

 と、三つ下の踊り場で人とぶつかりそうになった。

「危ないですよ、やよひ先輩」

 誰かと思ったら猫間くんだった。

 なんというタイミングの悪さ。今部室に向かうのはまずい。階段の上には、会いたくないランキング一位さんがいる。

「ね、猫間くん、今日は中庭で部活をしましょう!」

 わたしが肩を押すと、猫間くんは「どうしたんですか、突然?」と首を傾げながらも素直に階段を下りだした。

「昨日言ってたでしょう、解釈したいことができたって。気になったことは後回しにしちゃだめよ!」

「でも、それは僕の宿題だって、先輩が」

「答え合わせしましょう! 今すぐ!」

 一階に着き、廊下から中庭に出る。

 中庭には光があふれ、清涼な風が吹いている。いつも陰気で埃の積もった美解部の部室とは大違いだ。わたしにはあの部屋のほうが合っていると、つくづくそう思う。

「それでは猫間くん、回答をどうぞ!」

 この場に似つかわしい、無理につくった明るい声でわたしが促すと、猫間くんは「あー」とか「うー」とか変な声を出し、それから怒ったような顔をしたり、困ったような顔をした末に、ひとつ咳ばらいをしてこう言った。

「……その解釈には、諸説あってですね」

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