クリスマスの季節。 Xmas Xmas と街がペケペケマークでいっぱいになる赤と緑とゴールドの季節。
クリスマスになると、ケントを思い出す。サンタでもルドルフでも、何かしら膨れ上がるショッピングリストでもなく、ケントだ。
フェアに言えば、クリスマスになると思い出す、ではなく、クリスマスになるとより思い出す、だ。その気持ちは胸の奥で密になり苦しいほどになる。
ケント背はあまり高くなかった。ガッチリはしていた。男らしい体型、というのがあるなら、これだ、初めて見た時そう思った。なぜかひどく押しが強そうに見えた。
その頃、私の髪はもう真っ白だった。そこにヘアダイのアッシュ系をふりかけていた。いろんな人種、髪色がある国とはいえ、東洋人にしては当時珍しい風貌だった。
ある日、ドアを開けるとケントがいて、そこそこ愛想のいい顔で立っていた時、何だか嫌な予感がした。頼みもしないのに着払いの小包が送られてきた、そんな気がした。東洋人の顔だった。クォーターくらいでもありえるか? 少し浅黒い気もした。
ヘェロー!ヨージはいるかい? ケントはかなりの素早さで入ってきた。ちょっとぉ!と私が眉をしかめると、ヨージに会いに来たんだ、いるかい?とその陽気さを崩さない。しぶしぶヨージを呼んでくる。しかし、ヨージは訪問者に首を傾げた。
「ケント・カシワギだよ、覚えてるかい?」
ヨージは、ケント・カシワギ、ケント・カシワギと二回ぼそぼそつぶやき、驚異の目で男を見たが、やっとのことで笑顔を作り、「もちろんだよ!」と近寄った。
二人はがっちり抱き合った。それは長い抱擁だった。ひどく中性的な抱擁だった。私はヨージが男とこんなにも長く中性的な抱擁をするのを見たことがなかった。
そのケント・カシワギは急に流暢な日本語に切り替えた。日本で育った日本人の日本語というには微妙に違う気もしたが、標準語系の日本語だった。
「何年になるかな」
「18年、いやに19年かな」
「変わったからわかんなかっただろ」
「もちろん、わかったさ。もちろん、もちろんわかったさ」
ヨージはやたらに「もちろん」を連発したが、嘘をついてるのはどう見ても明らかだった。
しかし最初の驚きとぎこちなさが薄れると、今度はすっかり古きよき友として振る舞い始めた。「もちろん」をむやみに発しなくなったヨージは、ケントの昔話に普段より1オクターブ高い声で笑い、それにケントの笑い声が重なった。名物ティーチャーに、鼻のつぶれたジョージ(どうやら犬のことらしい)、大ガマ池に、スパイスききすぎのポンチョのレストラン、猫のキャロルに、大馬鹿フレッチャー……彼らの話はつきなかった。
けれど、それも二日ほどのこと。三日目からは言葉数はぐっと減った。彼らには現在においてシェアすべき経験がなかったのだ。会話は同じあたりをくるくる回り、次第に速度が鈍くなって、ストン、と落ちた。しかし、そうなってもケントは一向に出ていく気配を見せなかった。
「一体、いつまで彼を置いとくつもり?いくら幼なじみだからって限度ってもんがあるんじやない」
「だけどさ、言いにくいんだよ」
「どうして?」
「…どうしてもさ」
何度聞いてもヨージの答えは同じだった。
ケントはと言えば、四日目あたりにツナ缶にフォークを刺しながら、こう言った。
「僕は今、行くところがなくてね。いや、正直なところしばらく静かにいれる場所が必要なんだ。ここは安全だ」
何をしたのよ?と聞きたかったが、聞かなかった。ひどい悪人には見えなかった。けれどひどい悪人に見えない悪人は世の中にたくさんいる。
その頃、私のニックネームはシルバだった。ケントもすぐにその名で呼んだ。
「シルバ、もう少しだけ居させてくれるとありがたい、この傷が治るまで」
彼はそう言って、長袖のシャツをめくり綿のような布で巻いてあった両腕の傷を見せ、Xに腕を交差して見せた。すると傷は一直線になった。
生々しい傷だった。両腕でXの形を作り、何か刃物のようなものから身を守ったのだろう。
私は眉をひそめた。この傷にどういう意味があるのだろう。ヨージと私がシェアしているこの家に泊め続ける意味のある傷なのだろうか。けれど彼はヨージの友人だ。ヨージの意志に任せるしかない。
「病院は?」
「行ってない」
行けないのだろう、私は思った。
「少年のころは痩せてたよ、ガリガリというくらいにさ。あの頃なら、すぐ骨に刺さっただろうな」 ふざけた風でもなくケントは言った。
その痩せた時代は青年初期まで続いたらしい。当時「絶望的」という言葉がお気に入りで、背中に「desperate!」と書かれたジャケットを着ていたという。
「けどさ、ある時、急にガッチリし出してさ。それまで俺のことをバカにしてた奴が後退りするようになってさ、まったくもって晴天の霹靂さ」
ガッチリ系ケントに、「絶望」は似合わなくなった。似合わなくなったジャケットはチャリティショップに寄付したと言う。売れたかどうかも知らないが、彼なりの持ち主像というのがあったらしい。それでその持ち主のストーリーを書こうとしたと言う。
「けど、駄目だったんだ。desperate! の字以外、何も頭に浮かんでこないんだ」
ケントは一時期小説家志望だった。けれど、ある時、現実があまりに小説より奇なり、と感じ、それらへの対処と葛藤で、小説どころではなくなった。
あの時ケントはひどく疲れていた。空間軸、時間軸、全てを止めたいくらい疲れていた。けれど時は非情に過ぎていった。少しずつ傷が治っていったことだけは時のおかげにしても。
居候の三週間の間にケントは山ほどパンとオムレツとローストビーフとツナ缶を食べた。蟹料理も三回した。腕はひどく痛そうだったが。
「小説家志望だったなら、何かに載ったことあんの?」
「ローカルなものに、ちょこ 'とね」
どんなストーリーよ、としつこく聞き続ける私に、しぶしぶながら彼は言った。
「猫と男の話…や…凧と女の話、それに、ロブスター料理をする男の話…まあこんなところかな。僕はとにかく平和な小市民的話を書きたかったんだろうな」
私は小説家というのにちょっとした興味があった。小説が書ける人間は少なくとも自分の中の混沌を文字に出来る人間だ。何語であれ、小説を書ける人間には深みがあるはずだと思った。
ツリーライティングセレモニー。私の歩く道を大きく変える出来事があったとすれば、それはあの週末のツリーライティングセレモニーだ。
土曜日。その週末はジェイクからの電話で始まった。三時ごろ行くと伝えてくれよ、彼は言った。
ジェイクはヨージのボーイフレンドで、希に見るハンサムだった。後ろに梳かしつけたストレートの赤毛と深いグリーンがかった灰色の瞳がご自慢で、冬だというのに肌は見事に日焼けしていた。
ヨージはジェイクに心底夢中で、ジェイクさえ一緒に住もうと言ったなら、すぐにでもスキップしてアパートを出ていっただろう。そうなったら、一人では家賃が払えない、私は密かに二人が別れることを望んでいた。
そんなヨージの悩みはジェニーとスーだった。ヨージとジェニーとはワンナイトスタンド、いわゆる一夜の関係だった。しかし一夜の関係でも子供はできる。それがスーだった。
生まれた時点で父親の可能性は二人だった。ヨージとサミール。子供ができたなら一緒に住もう、誰が父親だっていいじゃないか、そうサミールは言い、二人は住みだしたが、結局数え切れぬ口論の果て、「人の子なんか育てられるか!」と吐きすてサミールは出ていった。そうなると、父親はヨージとなる。ジェニーは養育費を請求し、時折休日をスーと過ごすことを強要した。
ヨージがジェニーの要求を断れなかったのは、単に気弱だったからじゃない。誰が見ても、スーはおかしいほどヨージにそっくりだったのだ。
日曜日には、スーをツリーライティングセレモニーに連れていくことになっていた。ショッピングセンターの中庭の巨大なクリスマスツリーにいっせいに明かりを灯すセレモニーだ。スーにどう接していいのかわからないヨージは、スーとのお出かけの時は、必ず私に泣きついてくる。「何でもするから、一緒に来てくれよ。お願いだからさあ」
午後三時、ジェイクがやってきた。大きな花束を抱えている。バラだ。バラの花束だ。ペールパープル。薄紫色。少し銀色がかっている。淋しい色だった。
「ハッピーバースディ、ヨージ!」
そうか、ヨージの誕生日だ…。
恋人達が出てゆき、残されたのはケントと私だった。散歩に行かないか、ケントは言った。居候いつまでよ、とはっきり聞くにはいい機会だと思った。私は一番分厚いコートを羽織り、意気込んだ。
薄グレイのフィルターがかかった街。知り合いのいるカフェに行こう、ケントは言った。歩き出すと、私はさっそく切り出した。話は早い方がいい。
「ねえ、傷の治療には街より田舎がいいんじゃない。考えてみて。平和な光景。セピアにところどころグリーンとオレンジを混ぜたような穏やかな光景…。田舎っていいわよ」
「そうかもな」
「少なくとも生活費は安いわよ」
「出てけって言うんだろ」
「まあね。あなたがいるとなんだか私落ち着かないの。よく訳はわからないんだけど」
私は正直な気持ちが口から出たことに驚いた。
地下鉄の駅の近くで、鳩とカモメが入り混ざってパンのかけらをつついていた。ベンチに腰掛けていたホームレスの女が立ち上がり、パアーッとポップコーンを撒くと、クワァ!バサバサバサッ、カモメが鳩の頭をつついたり、ククッククックックッ、鳩がカモメにクチバシ攻撃をしかけたり、餌に突進したりで、なんとも騒々しい。
「鳩にカモメかあ」
都市ずれ、人ずれしたカモメを見ながら、彼はどこか放心状態だ。
「ケントっていつも人のところ転々としてんの?」
「いや、家はある。と言っても親の家だけれど、僕としては居場所だった。もちろんアメリカンスタンダートならこんな歳になって親と同居なんてとんでもないってとこなんだろうけど、父が日本人だしさ、母は常識にとらわれない人だし、それに母と僕はある意味こころざしが一緒だからね」
「こころざし?」
「母は信念が強く、というか正義感が強いというか、融通が効かなくて見ていて危なかしい。僕は小さい頃から母を守ってきたよ」
「お父さんは?」
「父は大学で母に会ったんだけど、ブロンドに染めて小柄だった母をホワイトだと思ったらしい。フランスあたりがルーツな小柄なコケージャンってね。でも母は、コロンビア系のラティノでね、目も黒かったんだ。髪も染めなきゃ、真っ黒だ。アメリカに来たばかりの父には分からなかったんだろうね。母は陽気で楽しくおおらかな人だからね。おどおどしてた父を助けるつもりで付き合ったのかもしれないな。父は真面目人間でアメリカに来て遊びまくろう、なんて気はこれっぽっちもなくてさ、企業派遣だったし、その後、母は日本に行く気はなかったから、父がずっとこっちの関連会社で働くことになったんだ。僕はどっちの言葉も話せるようになった。父は日本語で話しかけ、母は英語でだったからね」
ちなみにさ、ケントってこう書くんだよ。そう言い、ケントは空中に「賢人」と書いてみせた。
古ぼけた看板のかかったコーヒーショップの前でケントは足を止めた。つぶれてないという保証もないような店だった。
「ここだ。ここだよ。トニーが働いてた店は」
「トニー?」
「トニーさ」
注文を取りにきたポニーテールの子にデイヴは聞いた。
「ちょっと、君、トニーって知ってるかい?」
「えっ?」
「トニーバルディリスさ」
「知んないわね。トニー何ですって?」
ポニーテールは肩をすくめる。
「バルディリスさ。ここで働いてたんだ」
「知らないわ」
「君、いつから働いてんの?」
「三週間前よ」
「それじゃ、知らないよな。一年は前だからね」
「あら、それ早く言ってちょうだい」
ポニーテールは考えて損をしたという風に言い、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さいと馬鹿丁寧に頭を下げて行ってしまった。
「バルディリスって友達?」
「まあな。作家なんだ。ちょっとサイケな作風でさ。活字になった作品があってね」
「どんな話?」
「砂漠に男がいてね。そこで男は蝿を探してるんだ]
「蝿?」
「うん、蝿さ。蝿さえ見つけたらいいことあると信じて砂漠を彷徨ってんのさ」
「別に読みたいとも思わないわね」
「奇妙な話だろ。で、あるときさ、男は銀色の蝶がいっばい舞う砂漠のオアシスを見つけるんだよ。蝿じゃなくて蝶なんだ。男は力の限り、駆け寄るんだ。蝶が蝿に見えたのさ。でも駆け寄ってみると蝶だろ。がっかりするんだ。まったくもってね。そうするとオアシスも消えてしまう」
「何か言いたいの」
「なんだろうな。人によって価値あるものは違うってことかな」
「う〜ん。その男にとって蝿が夢で希望なら、それでいいじゃないの。そりゃ、蝿に固執してオアシス無くしちゃうのって、蝶の美しさに気づかない男ってミゼラブルだけど、少なくとも思い込みってのはあるじゃない」
ふむ…ケントは私に微笑んだ。あまり魅力的な顔だと思っていなかったが、その時の彼の目の穏やかさが私をとらえた。
「シルバは満足してる?今の生活に」
なんであんたに、そうは思うが、彼のひどく真摯な瞳を無視できなかった。思えば私のことを聞いてくれた人間がどれだけいただろう。形だけの、よお元気かい?元気にしてる?は聞き飽きたが、今の生活に満足してる?なんて真剣に聞いてくれたものなどいなかった。一緒に暮らした男も最後まで聞きはしなかった。
「満足?そうね、満足よ、うん、満足してるわ。でも…満足なんて絶対的なもんじゃないわよね。相対的なものでしよ。うん、だからね、そういう意味では満足してるわ」
何回か男と暮して何回か別れた。今は男に興味がなくなった。フィジカルな要求もほとんどない。仙人のように森閑としている。淋しさはあっても自由でハッピーだ。相対的に。ヨージとは家賃を半分ずつ払いアパートをシェアするだけの関係だ。一人で借りるだけの金がないからいい手に違いない。それにヨージは悪い人間じゃない。ただ、毎日が……バルディリスの砂漠じゃないが、もどかしさはある。さらさら乾いた砂で何か作ろうとしている感覚だ。水で濡らすってのを思いつけばいいんだろうが、近くに水などない。動くのも面倒になる。だから、いつまでも座りこんで乾いた砂でなんとか形のあるもの作ろうとする。何を作りたいのかわからないまま…。
「シルバのこと書きたいな。シルバみたいな女や男のこと]
「私みたいな…」
「うん、そう。ミドルーオブーノーウェアのさ」
えっ?
「middle of nowhere さ。ここでもなくてあそこでもなくて、どこにいるのかわからない。ミドルーオブーノーウェアにいる人間…そんな話を書いてみたいんだ。そんな風に思ってる男や女の話をね。月並みかな」
「わからないわ。…ねえ、…それって砂漠の真ん中にぽつんといるって、そんな感じ?」
「そうとは限らないな。ごちゃごちゃ巨大ビルが立ち並ぶとこだって、どうにも騒がしいワイルドなパーティにいたっていいんだ。要はさ、つながりさ」
「つながり?」
「数え切れない物体や人間に囲まれてたって、それらと自分とのつながりがない限り、何らかのつながりを感じない限り、ミドルーオブーノーウェアなんだよ。けど、何とか手をのばせるものも探そうとするだろ。そうしてる限り自分って実体があるんだ。無じゃないんだ。けど、無になる恐怖は常にあってさ。人によっては焦りを感じ、人によっては恐怖を感じる」
「でも探してるのがゴンザレスさんみたいに蝿じゃ、探さないほうがましね」
「バルディリスさ」
「そうだったわね」
ミドルーオブーノーウェア…そんな話、ケントが書けるなら読んでみたい。
「ねえ、どうしてヨージを頼ってきたの?ケントってヨージの幼馴染み?」
「まあ、そうかな。かつての友達。シルバとヨージはただのハウスメート? 友達って言える?」
「どうなんだろ」
ヨージとはルームメート募集の広告が縁だ。ヨージは男と別れたばかりで、ひどく冴えない様子だった。私も男との同居に失敗したあとで、冴えない状態にはかわりはなかった。だから、会話が生れた。ぽつりぽつりと。日系のヨージは、小さい頃からオールアメリカンの平和な家庭ってのに憧れていた。
普通の人以外、とりたててなる気はなかったよ。オールアメリカンの平和な家庭を持つ…漠然とそんな夢を持ってた。ある日、恋をするまでね。…僕の初恋だった。焦がれて焦がれていつも見つめてた。ちょっと浅黒かったけど東洋系さ。でもしばらくは恋だと気づかなかった。ある日、夢を見るまでね。…彼と抱き合う夢さ。起きると…わかるだろ。
ヨージの言葉を思い出して、私ははっとした。ちょっと浅黒い東洋系?
「ケントってお母さんラテン系だよね。それ日焼けじゃなくて元々の色?」
「母がコロンビアからだろ。母は色は白いけど、親戚は結構浅黒い人多いな」
「ヨージとはいつ知り合ったの」
「小学校だよ。十二才くらいかな」
ケントによると、その頃痩せてて格好よかったはず。私は一瞬言葉を失った。ケントがヨージの初恋の相手?彼を見たときのヨージの驚愕の表情、その意味を私はやっと理解した。ヨージがケンジを追い出せない理由もだ。
その時、ケントは言ったのだ。
「シルバはフィーラーだね」
フィーラー。そうだ、私は2度ほどその言葉を聞いていた。
「わかる?」
ケントはうなづいた。
「ケントもなの?」
「いや、僕はフェルルだ」
「その言葉聞いたことがあるわ。私みたいにある瞬間だけじゃなくて、みんな見えるのよね」
「うん。母がレイヤー族だからね」
「どんな容貌なの? その…層内では」
「一番近いのはブルーフォックスかな」
ブルーフォックス…。
「僕は生まれた時から、レイヤー族、コモン族どちらのレイヤーでも過ごすことができる」
「どっちが落ち着く?」
「落ち着くってより好きなのはレイヤー族の層だな。全てがカラフルで深く感じるんだ」
「けれど、今、レイヤーを越えて問題が起こりつつあってね…」
「問題?」
「メタモルフォーシスさ」
「メタモルフォーシス?」
「うん、メタ族が出てきたことさ」
メタ族…。
クリスマスになると、ケントを思い出す。サンタでもルドルフでも、何かしら膨れ上がるショッピングリストでもなく、ケントだ。
フェアに言えば、クリスマスになると思い出す、ではなく、クリスマスになるとより思い出す、だ。その気持ちは胸の奥で密になり苦しいほどになる。
ケント背はあまり高くなかった。ガッチリはしていた。男らしい体型、というのがあるなら、これだ、初めて見た時そう思った。なぜかひどく押しが強そうに見えた。
その頃、私の髪はもう真っ白だった。そこにヘアダイのアッシュ系をふりかけていた。いろんな人種、髪色がある国とはいえ、東洋人にしては当時珍しい風貌だった。
ある日、ドアを開けるとケントがいて、そこそこ愛想のいい顔で立っていた時、何だか嫌な予感がした。頼みもしないのに着払いの小包が送られてきた、そんな気がした。東洋人の顔だった。クォーターくらいでもありえるか? 少し浅黒い気もした。
ヘェロー!ヨージはいるかい? ケントはかなりの素早さで入ってきた。ちょっとぉ!と私が眉をしかめると、ヨージに会いに来たんだ、いるかい?とその陽気さを崩さない。しぶしぶヨージを呼んでくる。しかし、ヨージは訪問者に首を傾げた。
「ケント・カシワギだよ、覚えてるかい?」
ヨージは、ケント・カシワギ、ケント・カシワギと二回ぼそぼそつぶやき、驚異の目で男を見たが、やっとのことで笑顔を作り、「もちろんだよ!」と近寄った。
二人はがっちり抱き合った。それは長い抱擁だった。ひどく中性的な抱擁だった。私はヨージが男とこんなにも長く中性的な抱擁をするのを見たことがなかった。
そのケント・カシワギは急に流暢な日本語に切り替えた。日本で育った日本人の日本語というには微妙に違う気もしたが、標準語系の日本語だった。
「何年になるかな」
「18年、いやに19年かな」
「変わったからわかんなかっただろ」
「もちろん、わかったさ。もちろん、もちろんわかったさ」
ヨージはやたらに「もちろん」を連発したが、嘘をついてるのはどう見ても明らかだった。
しかし最初の驚きとぎこちなさが薄れると、今度はすっかり古きよき友として振る舞い始めた。「もちろん」をむやみに発しなくなったヨージは、ケントの昔話に普段より1オクターブ高い声で笑い、それにケントの笑い声が重なった。名物ティーチャーに、鼻のつぶれたジョージ(どうやら犬のことらしい)、大ガマ池に、スパイスききすぎのポンチョのレストラン、猫のキャロルに、大馬鹿フレッチャー……彼らの話はつきなかった。
けれど、それも二日ほどのこと。三日目からは言葉数はぐっと減った。彼らには現在においてシェアすべき経験がなかったのだ。会話は同じあたりをくるくる回り、次第に速度が鈍くなって、ストン、と落ちた。しかし、そうなってもケントは一向に出ていく気配を見せなかった。
「一体、いつまで彼を置いとくつもり?いくら幼なじみだからって限度ってもんがあるんじやない」
「だけどさ、言いにくいんだよ」
「どうして?」
「…どうしてもさ」
何度聞いてもヨージの答えは同じだった。
ケントはと言えば、四日目あたりにツナ缶にフォークを刺しながら、こう言った。
「僕は今、行くところがなくてね。いや、正直なところしばらく静かにいれる場所が必要なんだ。ここは安全だ」
何をしたのよ?と聞きたかったが、聞かなかった。ひどい悪人には見えなかった。けれどひどい悪人に見えない悪人は世の中にたくさんいる。
その頃、私のニックネームはシルバだった。ケントもすぐにその名で呼んだ。
「シルバ、もう少しだけ居させてくれるとありがたい、この傷が治るまで」
彼はそう言って、長袖のシャツをめくり綿のような布で巻いてあった両腕の傷を見せ、Xに腕を交差して見せた。すると傷は一直線になった。
生々しい傷だった。両腕でXの形を作り、何か刃物のようなものから身を守ったのだろう。
私は眉をひそめた。この傷にどういう意味があるのだろう。ヨージと私がシェアしているこの家に泊め続ける意味のある傷なのだろうか。けれど彼はヨージの友人だ。ヨージの意志に任せるしかない。
「病院は?」
「行ってない」
行けないのだろう、私は思った。
「少年のころは痩せてたよ、ガリガリというくらいにさ。あの頃なら、すぐ骨に刺さっただろうな」 ふざけた風でもなくケントは言った。
その痩せた時代は青年初期まで続いたらしい。当時「絶望的」という言葉がお気に入りで、背中に「desperate!」と書かれたジャケットを着ていたという。
「けどさ、ある時、急にガッチリし出してさ。それまで俺のことをバカにしてた奴が後退りするようになってさ、まったくもって晴天の霹靂さ」
ガッチリ系ケントに、「絶望」は似合わなくなった。似合わなくなったジャケットはチャリティショップに寄付したと言う。売れたかどうかも知らないが、彼なりの持ち主像というのがあったらしい。それでその持ち主のストーリーを書こうとしたと言う。
「けど、駄目だったんだ。desperate! の字以外、何も頭に浮かんでこないんだ」
ケントは一時期小説家志望だった。けれど、ある時、現実があまりに小説より奇なり、と感じ、それらへの対処と葛藤で、小説どころではなくなった。
あの時ケントはひどく疲れていた。空間軸、時間軸、全てを止めたいくらい疲れていた。けれど時は非情に過ぎていった。少しずつ傷が治っていったことだけは時のおかげにしても。
居候の三週間の間にケントは山ほどパンとオムレツとローストビーフとツナ缶を食べた。蟹料理も三回した。腕はひどく痛そうだったが。
「小説家志望だったなら、何かに載ったことあんの?」
「ローカルなものに、ちょこ 'とね」
どんなストーリーよ、としつこく聞き続ける私に、しぶしぶながら彼は言った。
「猫と男の話…や…凧と女の話、それに、ロブスター料理をする男の話…まあこんなところかな。僕はとにかく平和な小市民的話を書きたかったんだろうな」
私は小説家というのにちょっとした興味があった。小説が書ける人間は少なくとも自分の中の混沌を文字に出来る人間だ。何語であれ、小説を書ける人間には深みがあるはずだと思った。
ツリーライティングセレモニー。私の歩く道を大きく変える出来事があったとすれば、それはあの週末のツリーライティングセレモニーだ。
土曜日。その週末はジェイクからの電話で始まった。三時ごろ行くと伝えてくれよ、彼は言った。
ジェイクはヨージのボーイフレンドで、希に見るハンサムだった。後ろに梳かしつけたストレートの赤毛と深いグリーンがかった灰色の瞳がご自慢で、冬だというのに肌は見事に日焼けしていた。
ヨージはジェイクに心底夢中で、ジェイクさえ一緒に住もうと言ったなら、すぐにでもスキップしてアパートを出ていっただろう。そうなったら、一人では家賃が払えない、私は密かに二人が別れることを望んでいた。
そんなヨージの悩みはジェニーとスーだった。ヨージとジェニーとはワンナイトスタンド、いわゆる一夜の関係だった。しかし一夜の関係でも子供はできる。それがスーだった。
生まれた時点で父親の可能性は二人だった。ヨージとサミール。子供ができたなら一緒に住もう、誰が父親だっていいじゃないか、そうサミールは言い、二人は住みだしたが、結局数え切れぬ口論の果て、「人の子なんか育てられるか!」と吐きすてサミールは出ていった。そうなると、父親はヨージとなる。ジェニーは養育費を請求し、時折休日をスーと過ごすことを強要した。
ヨージがジェニーの要求を断れなかったのは、単に気弱だったからじゃない。誰が見ても、スーはおかしいほどヨージにそっくりだったのだ。
日曜日には、スーをツリーライティングセレモニーに連れていくことになっていた。ショッピングセンターの中庭の巨大なクリスマスツリーにいっせいに明かりを灯すセレモニーだ。スーにどう接していいのかわからないヨージは、スーとのお出かけの時は、必ず私に泣きついてくる。「何でもするから、一緒に来てくれよ。お願いだからさあ」
午後三時、ジェイクがやってきた。大きな花束を抱えている。バラだ。バラの花束だ。ペールパープル。薄紫色。少し銀色がかっている。淋しい色だった。
「ハッピーバースディ、ヨージ!」
そうか、ヨージの誕生日だ…。
恋人達が出てゆき、残されたのはケントと私だった。散歩に行かないか、ケントは言った。居候いつまでよ、とはっきり聞くにはいい機会だと思った。私は一番分厚いコートを羽織り、意気込んだ。
薄グレイのフィルターがかかった街。知り合いのいるカフェに行こう、ケントは言った。歩き出すと、私はさっそく切り出した。話は早い方がいい。
「ねえ、傷の治療には街より田舎がいいんじゃない。考えてみて。平和な光景。セピアにところどころグリーンとオレンジを混ぜたような穏やかな光景…。田舎っていいわよ」
「そうかもな」
「少なくとも生活費は安いわよ」
「出てけって言うんだろ」
「まあね。あなたがいるとなんだか私落ち着かないの。よく訳はわからないんだけど」
私は正直な気持ちが口から出たことに驚いた。
地下鉄の駅の近くで、鳩とカモメが入り混ざってパンのかけらをつついていた。ベンチに腰掛けていたホームレスの女が立ち上がり、パアーッとポップコーンを撒くと、クワァ!バサバサバサッ、カモメが鳩の頭をつついたり、ククッククックックッ、鳩がカモメにクチバシ攻撃をしかけたり、餌に突進したりで、なんとも騒々しい。
「鳩にカモメかあ」
都市ずれ、人ずれしたカモメを見ながら、彼はどこか放心状態だ。
「ケントっていつも人のところ転々としてんの?」
「いや、家はある。と言っても親の家だけれど、僕としては居場所だった。もちろんアメリカンスタンダートならこんな歳になって親と同居なんてとんでもないってとこなんだろうけど、父が日本人だしさ、母は常識にとらわれない人だし、それに母と僕はある意味こころざしが一緒だからね」
「こころざし?」
「母は信念が強く、というか正義感が強いというか、融通が効かなくて見ていて危なかしい。僕は小さい頃から母を守ってきたよ」
「お父さんは?」
「父は大学で母に会ったんだけど、ブロンドに染めて小柄だった母をホワイトだと思ったらしい。フランスあたりがルーツな小柄なコケージャンってね。でも母は、コロンビア系のラティノでね、目も黒かったんだ。髪も染めなきゃ、真っ黒だ。アメリカに来たばかりの父には分からなかったんだろうね。母は陽気で楽しくおおらかな人だからね。おどおどしてた父を助けるつもりで付き合ったのかもしれないな。父は真面目人間でアメリカに来て遊びまくろう、なんて気はこれっぽっちもなくてさ、企業派遣だったし、その後、母は日本に行く気はなかったから、父がずっとこっちの関連会社で働くことになったんだ。僕はどっちの言葉も話せるようになった。父は日本語で話しかけ、母は英語でだったからね」
ちなみにさ、ケントってこう書くんだよ。そう言い、ケントは空中に「賢人」と書いてみせた。
古ぼけた看板のかかったコーヒーショップの前でケントは足を止めた。つぶれてないという保証もないような店だった。
「ここだ。ここだよ。トニーが働いてた店は」
「トニー?」
「トニーさ」
注文を取りにきたポニーテールの子にデイヴは聞いた。
「ちょっと、君、トニーって知ってるかい?」
「えっ?」
「トニーバルディリスさ」
「知んないわね。トニー何ですって?」
ポニーテールは肩をすくめる。
「バルディリスさ。ここで働いてたんだ」
「知らないわ」
「君、いつから働いてんの?」
「三週間前よ」
「それじゃ、知らないよな。一年は前だからね」
「あら、それ早く言ってちょうだい」
ポニーテールは考えて損をしたという風に言い、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さいと馬鹿丁寧に頭を下げて行ってしまった。
「バルディリスって友達?」
「まあな。作家なんだ。ちょっとサイケな作風でさ。活字になった作品があってね」
「どんな話?」
「砂漠に男がいてね。そこで男は蝿を探してるんだ]
「蝿?」
「うん、蝿さ。蝿さえ見つけたらいいことあると信じて砂漠を彷徨ってんのさ」
「別に読みたいとも思わないわね」
「奇妙な話だろ。で、あるときさ、男は銀色の蝶がいっばい舞う砂漠のオアシスを見つけるんだよ。蝿じゃなくて蝶なんだ。男は力の限り、駆け寄るんだ。蝶が蝿に見えたのさ。でも駆け寄ってみると蝶だろ。がっかりするんだ。まったくもってね。そうするとオアシスも消えてしまう」
「何か言いたいの」
「なんだろうな。人によって価値あるものは違うってことかな」
「う〜ん。その男にとって蝿が夢で希望なら、それでいいじゃないの。そりゃ、蝿に固執してオアシス無くしちゃうのって、蝶の美しさに気づかない男ってミゼラブルだけど、少なくとも思い込みってのはあるじゃない」
ふむ…ケントは私に微笑んだ。あまり魅力的な顔だと思っていなかったが、その時の彼の目の穏やかさが私をとらえた。
「シルバは満足してる?今の生活に」
なんであんたに、そうは思うが、彼のひどく真摯な瞳を無視できなかった。思えば私のことを聞いてくれた人間がどれだけいただろう。形だけの、よお元気かい?元気にしてる?は聞き飽きたが、今の生活に満足してる?なんて真剣に聞いてくれたものなどいなかった。一緒に暮らした男も最後まで聞きはしなかった。
「満足?そうね、満足よ、うん、満足してるわ。でも…満足なんて絶対的なもんじゃないわよね。相対的なものでしよ。うん、だからね、そういう意味では満足してるわ」
何回か男と暮して何回か別れた。今は男に興味がなくなった。フィジカルな要求もほとんどない。仙人のように森閑としている。淋しさはあっても自由でハッピーだ。相対的に。ヨージとは家賃を半分ずつ払いアパートをシェアするだけの関係だ。一人で借りるだけの金がないからいい手に違いない。それにヨージは悪い人間じゃない。ただ、毎日が……バルディリスの砂漠じゃないが、もどかしさはある。さらさら乾いた砂で何か作ろうとしている感覚だ。水で濡らすってのを思いつけばいいんだろうが、近くに水などない。動くのも面倒になる。だから、いつまでも座りこんで乾いた砂でなんとか形のあるもの作ろうとする。何を作りたいのかわからないまま…。
「シルバのこと書きたいな。シルバみたいな女や男のこと]
「私みたいな…」
「うん、そう。ミドルーオブーノーウェアのさ」
えっ?
「middle of nowhere さ。ここでもなくてあそこでもなくて、どこにいるのかわからない。ミドルーオブーノーウェアにいる人間…そんな話を書いてみたいんだ。そんな風に思ってる男や女の話をね。月並みかな」
「わからないわ。…ねえ、…それって砂漠の真ん中にぽつんといるって、そんな感じ?」
「そうとは限らないな。ごちゃごちゃ巨大ビルが立ち並ぶとこだって、どうにも騒がしいワイルドなパーティにいたっていいんだ。要はさ、つながりさ」
「つながり?」
「数え切れない物体や人間に囲まれてたって、それらと自分とのつながりがない限り、何らかのつながりを感じない限り、ミドルーオブーノーウェアなんだよ。けど、何とか手をのばせるものも探そうとするだろ。そうしてる限り自分って実体があるんだ。無じゃないんだ。けど、無になる恐怖は常にあってさ。人によっては焦りを感じ、人によっては恐怖を感じる」
「でも探してるのがゴンザレスさんみたいに蝿じゃ、探さないほうがましね」
「バルディリスさ」
「そうだったわね」
ミドルーオブーノーウェア…そんな話、ケントが書けるなら読んでみたい。
「ねえ、どうしてヨージを頼ってきたの?ケントってヨージの幼馴染み?」
「まあ、そうかな。かつての友達。シルバとヨージはただのハウスメート? 友達って言える?」
「どうなんだろ」
ヨージとはルームメート募集の広告が縁だ。ヨージは男と別れたばかりで、ひどく冴えない様子だった。私も男との同居に失敗したあとで、冴えない状態にはかわりはなかった。だから、会話が生れた。ぽつりぽつりと。日系のヨージは、小さい頃からオールアメリカンの平和な家庭ってのに憧れていた。
普通の人以外、とりたててなる気はなかったよ。オールアメリカンの平和な家庭を持つ…漠然とそんな夢を持ってた。ある日、恋をするまでね。…僕の初恋だった。焦がれて焦がれていつも見つめてた。ちょっと浅黒かったけど東洋系さ。でもしばらくは恋だと気づかなかった。ある日、夢を見るまでね。…彼と抱き合う夢さ。起きると…わかるだろ。
ヨージの言葉を思い出して、私ははっとした。ちょっと浅黒い東洋系?
「ケントってお母さんラテン系だよね。それ日焼けじゃなくて元々の色?」
「母がコロンビアからだろ。母は色は白いけど、親戚は結構浅黒い人多いな」
「ヨージとはいつ知り合ったの」
「小学校だよ。十二才くらいかな」
ケントによると、その頃痩せてて格好よかったはず。私は一瞬言葉を失った。ケントがヨージの初恋の相手?彼を見たときのヨージの驚愕の表情、その意味を私はやっと理解した。ヨージがケンジを追い出せない理由もだ。
その時、ケントは言ったのだ。
「シルバはフィーラーだね」
フィーラー。そうだ、私は2度ほどその言葉を聞いていた。
「わかる?」
ケントはうなづいた。
「ケントもなの?」
「いや、僕はフェルルだ」
「その言葉聞いたことがあるわ。私みたいにある瞬間だけじゃなくて、みんな見えるのよね」
「うん。母がレイヤー族だからね」
「どんな容貌なの? その…層内では」
「一番近いのはブルーフォックスかな」
ブルーフォックス…。
「僕は生まれた時から、レイヤー族、コモン族どちらのレイヤーでも過ごすことができる」
「どっちが落ち着く?」
「落ち着くってより好きなのはレイヤー族の層だな。全てがカラフルで深く感じるんだ」
「けれど、今、レイヤーを越えて問題が起こりつつあってね…」
「問題?」
「メタモルフォーシスさ」
「メタモルフォーシス?」
「うん、メタ族が出てきたことさ」
メタ族…。