ここが空いてるわよ、いらっしゃいよ。
彼女の声は低かったが、その声にはスィートテンダネスがあった。心地よい優しさ。
彼女の声にバレンタインデー後まで売れ残っていた花束についていたカードを思い出した。スィートテンダネスをあなたに。
sweet tendernessをあなたに。
今年も終わりに近づいている。再びバレンタインの日がやってくる。
いらっしゃいよ。
彼女はしっかり私を見ているように見えたけれど、はっきりしなくて、えっ? あたし? と後ろを見た。
そう、あなたよ。空いてるわよ、いらっしゃいよ、ここに。彼女は手招きした。
混んだカフェだった。テーブルとテーブルの距離も近かった。
彼女が空いているわよ、と言ってくれた席は、要するに彼女と相席だった。
彼女が指差しているのは彼女と向かい合う席であり、テーブル自体がとても小さかったので、かなり顔を近づけてすわることになりそうだった。
さあ、どうぞ。
彼女の声には優しさがあふれていたので私は座った。甘さではなく優しさだった。
スゥィートテンダネス…sweet tenderness と名づけられたブーケは、華やかさがないわけではないが何より穏やかで優しくて柔らかくて心地よい、そんな小ぶりのブーケだった。
彼女は薄茶色の髪にスカーフをヘアバンドのようにして耳の横でリボンにして結んでいた。
あ、ありがとうございます。すみません、相席で。
構わないわよ。彼女は微笑むと広げていた大きめのファッション雑誌を見始めた。
助かった。別に話し相手がほしくて手招きしたわけじゃないんだ。疲れて茫然としている私に声をかけてくれただけなんだ。
メニューを広げてみた。テーブルの隅にあった小さいメニュー。
それはカクテルメニューだった。
あ、ここって普通のカフェじゃなくてアルコール専門? それにしては店内は明るい。
何か食べるものがほしいのね。
彼女が言った。その声にはやはりスィートテンダネスがあふれていて私はほっとした。本当に月並みな表現だけれど、砂漠で小さな水溜りを見つけた感じで、この騒がしさや、さきほどまで味わっていた負け犬感や喪失感が少し和らぐようなスゥィートテンダネスだった。
彼女のスカーフの模様は小さな動物だった。耳が短いからうさぎではない。クマか、ハムスターか…。カピパラ?
ここって食べるものもあるんでしょうか?
あるわよ。
彼女はそう言って、読んでいた雑誌の下に隠れていたメニューを差し出した。
えっ…。そこにあったんだ…。
ありがとう、私は少し微笑んだ。
それなんか悪くないわね、彼女は上から三番目を指した。
オージー牛のメキシカンサンド。
オージーであってメキシコ風か。
胃は受け付けそうになかった。でもおなかは空いていた。
結局タコスを頼んだ。メキシカンというところだけが同じだ。入っているひき肉はオージービーフなのかもしれない。ソフトタコスではなくパリパリのやつだ。タコスを齧りながら、私はしばし自分の世界に入りこんだ。パリパリという音がさきほどまでの喪失感を少し砕いてくれるような気がした。レタスが手の甲に落ちた。
前にいる彼女の存在やスカーフの小さな動物柄も忘れて食べた。食べ終わるころには喧騒の中に一人っきりだと感じていた。
自分の世界から引き戻されたのは、二杯目のコーヒーを半分飲んだころだった。
きっもちわれぇな、あいつ。ちっ、どうにかなんないのかよ。
嫌悪感でかさかさする言葉が横から聞こえた。
またか…と思った。私は、時々、いや小さい頃はしょっちゅう気持ち悪いと言われてきた。
顔が気持ちわるいのだそうだ。自分では毎日見ている顔なので特に気持ち悪いとは思わない。自分の顔だ。ただ、美のラインの滑り台があるとしたら、見事に下まで滑り切った顔をしているらしい。平べったさや、顔の大きさや、パーツのバランスや、いろいろの要因でだ。ただ、思春期を過ぎるころから、少しずつにしても滑り台を僅かによじ上った。背が伸び、首ができてきて少しましになった。周りにいるのも残酷なほど正直な子供たちから、高校生、大学生、社会人、と成長につれて変わっていった。
だから、きっもちわれぇな、と声を聞いたときは久しぶりだ、と思った。
そして、それが自分のことでないと気がつき、少し驚いた。
彼らが言っているのは、私の前にすわる動物柄のスカーフの彼女のことだった。
彼女は静かな視線で彼らを見ていた。その視線はやはり スゥィートテンダネスの名にふさわしいものだった。静かで優しくて穏やかだった。怒っているふうもなかった。
私はちょっと困ったように微笑んだ。
彼女も私にちょっと微笑んだ。
やっぱりオージー牛のメキシカンサンドにしておけばよかったです。パリパリタコス食べにくいし…。
でしょ。ここのメキシカンサンドはおいしいのよ。
そう言って親指でグーの形をした。
大きな親指だった。手全体も大きかった。肩幅もあり、胸幅もあった。もっともそれは平均的女性と比べたらで、男にしては普通のほうだろう。
彼女は生まれつきの性は男だったにしても、スゥィートテンダネスを纏っていた。それはとてもシンプルな事実だった。この込み合った店で相席するなら、彼女のsweet tenderness は貴重だった。
隣の声の主…声からは高校生か大学生くらいかと思ったら、一人は中年で、一人は年齢不詳だった。二人とも顔立ちは悪くないのだろうが、どこかくずれた感じがした。存在そのものがかもしれない。
もう二人とも何も言わないでくれ、と祈った。
幸いなことに二人は出て行き、すぐに買い物袋を三つずつ下げたご婦人二人が、よっこらしょという感じで、体をよじるように椅子の間に押し込んできた。
二杯目のコーヒーが空になったので、コーヒーのお代りお願いします、と近くのウエイターに言った。
ウエイターは私のカップに入れ、彼女にも聞いた。
おつぎしますか?
お願いね。
彼女はハスキーで低く、それでいてやはりスィートテンダネスにあふれた声で言い、私を見つめたが、少しだけ悲しそうだった。
そのスカーフってクマですか?
ムーミンよ。
ムーミン…だったんですね。輪郭だけだからわからなかったけれど、そういえばそうも見えますね。
少なくとも私はムーミンだと思ってるの。
しっぽがないしカピバラに似ている、とは言えなかった。
そのあと静かに彼女は二杯目のコーヒー、私は三杯目のコーヒーを飲んだ。
お先に失礼するわね。彼女が立ち上がったときあまりに長身なのに驚いた。180センチ以上優にある。でもそこまで不思議じゃないか。生来の性は男なのだから。足が長いのだろう。グリーンのワンピースのフレアが美しい。彼女は優雅にレジに向かった。相席嫌いで人見知りの私がすでに彼女を懐かしがっている。珍しいことだった。
あ、これ、と言い、彼女はカードを一枚渡した。時間があったら来てくれたら嬉しいわ。自分のために来てね。誰のためでもなく。金曜日は必ずいるわ。
ネイル May
ネールサロンのカードだった。
行きます。私はすぐに答えた。ネイルなど全く興味がなかったのにだ。
スィートテンダネスで接してくれた彼女の店に行き、彼女にネイルをしてもらいたい、心からそう思った。
何事にしてもこんなふうにはっきり思ったのは久しぶりだった。
こんなシュアなことはない。私は胸をはった。
父はプロファイラーだった。
今のようにテレビや小説でもてはやされる前からプロファイラーだった。
プロファイラー、ではなく分析屋、と自分のことを呼んでいた。
分析屋ってのは曖昧な名前だ。分析って言葉には宇宙ほどの広がりがある。物がある限り、人がある限り分析は存在する。何を分析するかが問題だ。
父は知る人ぞ知る有名な分析屋だった。一時期犯人像の分析屋といえば父のことだった。
犯罪者かそうでないかは紙一重だ、が父の言葉だ。
紙一重…分析屋としては詩的な表現だ。一重というところが詩的だ。
「紙」からの連想なのか「それってリトマス紙で判別できる?」私は聞いた。
すると 父にしては珍しく、興味深く私を見た。面白そうでもあった。父は、私が、というより、子供、が苦手だったので、私を珍しそうに見ることはあっても、面白そうに見ることはなかった。
「リトマス紙では判別できないな。けど、そんなのでわかったら面白いだろうな」
父はくっくっと笑った。父にしては高めの声で笑った。低い声で笑う父は笑っていても暗かったので、高めの声で父が笑ったことが嬉しかった。笑わせた自分が少しだけ誇らしかった。けれど高めの声で笑う父はいつもほど暗くはないにしても、陽気、というのにはほど遠かった。
「ここからが犯罪でここからが犯罪じゃないって区切りがあるわけじゃないんだ」
「でもどこかに境があるわけでしょ」
「それは見る側との相互作用なんだ」
「相互作用?」
「相互作用っていうより、実際にはもっといくつもの数え切れない要因がある」
「…うん…」
「難しいか…。じゃ、こういうことならわかるかな。太陽の色は国によっては黄色だったり、橙色だったり、赤だったりする。とらえ方の違いなんだ。同じ太陽という存在なのに、ある時は暖かくてありがたがられ、ある時は迷惑がられたりする。あとは時間との関わりも大きい」
「うん…」
「やっぱり難しいか…。じゃ、砂浜に真っ直ぐに線を引くことを考えてごらん。どんなに真っ直ぐに引いたつもりでも、砂粒がわずかに動いたり、風が吹いたりすればすぐ崩れる。絶対に永遠の真っ直ぐなんてない。だから、場合によっては昨日は真っ直ぐに見えたものが今日はちっとも真っ直ぐじゃないってことなんてしょっちゅうだ」
わかりそうな気もしたけれど、すっかり理解するには自分は経験も頭も足りないんだろうな、って思った。知りたくもないのかもしれない、とも思った。
「犯罪は刻々と変化するってことなの?」
父はうなづきながらも、もう私のことなど視界に入っていなかった。
父の思考はよくとんだ。実際は私にはそう思えただけで、父なりの規則性で動いていたのだろうが、私にはとても唐突に思えた。
母は父に一目惚れした。父は若い頃から、髪を切るのを面倒がるほど見なりに構わない人だった。切らなければ髪は伸びるわけだから、朝起きると目の荒い櫛で梳かし、きっちり結んでいたという。いつも何かに悩んでいるように憂いがあり…少なくとも母にはそう見えた。そして物事の光を浴びた部分だけを見る、という特性の母は、父の歩く姿もルックスもいいのに身なりにかまわないところが潔い、と感じた。
母は自分が美しくないと思っていた。けれど私はずっと母は 心をうつ美しさだと思っていた。12の時に亡くなった母。優しかった母。その存在が美しかった。
母は幸せではなかったと思う。父は利己的とか自己中心という言葉が本質を表している、というタイプの人間ではなかったとしても、結果としてその言葉がまとわりつく人だった。
器用な人ではなかっただけなのかもしれない。実際、家庭を持つべきではないほど不器用な人だった。分析屋としては一流だったにしても、仕事に関する以外のことにはほとんど興味を持たなかった。父の興味は全て仕事の周りを衛星のように回っていた。
母が亡くなったあと、父の親としての適性が問題になった。父方にも母方にも私を引き取ってくれそうな人はいなかったので、父に適性がないと判断されれば、残る選択は里親に引き取られるか施設に行くかだった。
それほど父といたかったわけではなかった。けれど、父に責任を感じた。父のことを見てあげなければと思った。母がそうしてきたように。さほど父に愛着を持っていたわけでもない。自分に興味を示さない人には愛着は持ちにくい。
考えてみれば、そのときの私には優しい共感型の母の素朴な愛情深さと父の分析屋としての頭脳の芽、両方が育ち始めていたのかもしれない。若葉に急速に光と養分を与えるがごとく、私は自分の心と頭を急速回転させ成長しようと必死だった。
私の家庭環境に懸念があるとの連絡を受けて調査に来た女性を前に、いかに父が口べたにしても愛情深く私のことを思ってくれているかを力の限り語った。そして、いかに歳の割りに常識と知能を持ち合わせていて、大人顔負けの分別と家事能力があるかを示そうとした。
調査員は迷っていた。私をこのまま実の父親のところに残して置くかどうか。
私は父の愛情溢れる行動を話す度、彼女の目が揺れるのを感じた。私は嘘がばれない範囲で作り話を続けた。感情にうったえたほうがいい、と感じた。取り乱すのではなく、適度に子供らしさを残しながらも知的にいかに父親と一緒にいたいか、引き離されたら自分の存在そのものが危うくなり、精神的につらくなるかを語った。
その結果、私は父と二人きりで暮らすことになった。
何年もの間。
父と二人で暮らすこと。結果から見ると決してよかったとはいえない。けれど、暮らさなかったら、それ以上の良い人生が待っていたかもわからない。
父と暮らして父をより理解したが、愛情は12歳の時より深くなったのか…。
父は愛情の吸収下手だった。そして与えることも下手だった。私に親としての責任以上の気持ちを持ったことがあるのかもわからない。
父は私に無関心だった。無関心、は言い過ぎか。ある程度の関心、というか存在に対する認識はあったと思う。コーヒーメーカーやトースターのように。そして生身であるから、パソコンのように思い通りの結果を出したり計算ができるわけでもなかっただろうが、それにたいする忍耐力もあった。だから、怒鳴られたり、怒りをぶつられたこともない。苛々を肩のあたりに漂わせることはあったにしても…。
父は分析屋としての仕事に夢中になると私のことを忘れた。もちろん、私のことだけでなく全てのことを忘れた。そういう意味では平等だった。けれど、友達が溢れんばかりの愛情や愛情表現を受けているのを見て、ひどく不公平だと思った。ちっとも平等じゃないじゃん。父なら言ったかもしれない。それも見方によって見解は異なるだろう、砂に描いた直線のごとく、と。
母はよく言った。自分がいなくなったら、あなたは孤児になってしまう、と。優しい母がいなくなったら自分は孤児になってしまう、そのとおりだった。父がいるじゃない、もう一人親が、とは思わなかった。母はいつも私に言った。あなたは、あなたらしくていいのよ。あなたらしさを見つけなさいね。否定してはだめよ。
12歳にして父と残されたとき、父に面倒みてもらおうとは思わなかった。ただただ母の代わりに父のことをみてあげなければ、と思った。
「あなたのパパには一目惚れだったわ。今から思うと何がそんなによかったのかしらね。その頃のパパは今のように骸骨のようでもなく、髪もふさふさしていて、変人ぶりも今ほどじゃなかったわね」
母は遠くを見る目で言った。父は数年にして青年から老年に入ったように容姿が変わった。
「どこかが悪いんじゃないかって思ったわ。検査もさせたけど、健康状態は悪くなかったのよ。分析しすぎる人は脳の皺も深いっていうけど外見もそうなるのかしらね」
母は絶望的にではなく、微笑みながら言った。母は楽天的で一度決めたものの面倒は見るタイプだった。母の心の中にはどんな小さなものでも一旦愛着を持ったものには居場所があった。飼っていたペットにはそれなりの思い出の場所があり、ことあるたびに思い出して話をしてくれた。ペキペキという名のコオロギのヒゲの様子も私が絵に描けるくらい、母は生き生きと語った。母は弱いもの、劣っているもの、保護が必要なものに対して手を差し伸べる情の深さがあった。優越感からではなく、憐れみからでもなく、ほんとうに自分ができることで相手の役に立つなら、という気持ちからだった。
父のルックスがの良さに惹かれたのよ、っとおどけたように母は言ったけれど、父の人間として欠けているところをなんとか満たしてあげたかったのかもしれない。無意識のうちに。
私と父との食事の会話はもっぱら分析屋の仕事に関してだった。私の口の固さを父は信頼していたからか、固有名詞は避けたにしても、自分が扱っている事件、犯人像を話してくれた。
強盗、殺人、詐欺、ありとあらゆる事件があった。私は残酷な写真、傷や血が写っているものや、刃物の写真は苦手だったので、それは見せないで、とお願いした。そうでもなかったら、食事のテーブルの上一面事件の写真で埋め尽くされていたに違いない。
私は父の話に沿って頭の中でヴィジュアルに事件を組み立てた。言葉で聞く限り、それほどの衝撃はなかった。苦手な血は青や虹色に。刃物は鉛筆に置き換えて頭の中で想像した。少しぼやかしたり、影絵を見るように想像したこともある。
父は事件や犯罪に関しては雄弁だった。私でなく「そう、そうなの」と繰り返すオウムがいたとしても、話し続けたのかもしれない。
15歳になる頃には、時折父の気づいていない疑問点を投げかけたりして、父を驚かせた。父の驚く顔を見て私も驚いた。父はそんな顔を私に見せたことはなかったし、そんな顔をさせたのが自分自身であるというのも驚きだった。
天才か、透視者かメンタリストかもしれないな。父は言った。
自分ではちっともそんなことは思わなかった。学校ではどの科目にしても特に優れていたものはなかった。けれど授業中ほとんどデイドリームしていた割にそこそこ点が取れていたので、頭は悪い方ではなかったかもしれない。が、天才とはほど遠いと自分で思っていた。
メンタリスト、を調べてみたがどうも自分とは違ってみえた。人が何を考えているかを推測するのに優れているとは思わなかった。人の心を操る能力なんてのもあるわけない。
けれど、一つだけひょっとして、と思うことがあった。非常に困った局面にぶちあたったときや、必死で物事を解決しなければ、と思って頭と心を集中させたとき、自分でもそれまでその存在に気づかなかったエンジンが回り出すのを感じた。自分の未知の力が出番を待っている、そんな予感がした。
父と一緒に住めるかがかかっている調査員との面接もそうだった。私はまるで母が乗り移ったかのように、落ち着いて優しく、感情豊かな、それでいて12歳のくせに気持ち悪いと思われないように振る舞うことに集中し、成功した。自分でない偉大な役者になって役を演じ切った達成感があった。
父が放火事件を扱っていたとき、父の与えた情報から一つの情景が浮かんできた。仮説をたて、父に話した。その数日後、真犯人が逮捕された。
私が真の力を出すためには、心を追い立てる何か切迫つまったものが必要だった。動機が必要だった。数学の問題を解くのに喜びを見出す天才少年のような常習性は私には皆無だった。いつもはスイッチオフ。それが普通の状態だった。切羽詰まった状況でスイッチオンされると、何かが頭で心で起こり始めた。
ただ、それによって問題が解決されたとしても、ひどくひどく疲れた。全身全霊をつかって寿命を削っている、磨耗される、体も、心も、頭も。
だから、父が相談相手として事件を真剣に話すようになっても、私はスイッチオンにはならなかった。ハーフスイッチにもならなかった。スイッチオフの状態でもときどき閃いた。それを父に言うと父は驚いた。父に認められて嬉しいのかは、自分でもわからなかった。
父と暮らしながら、違った暮らしをディドリーミングした。
光に満ち、木洩れ陽のように輝いていて、自分で作らなくてもキッチンは作りかけのクッキーやシチューの匂いで満ちていて、思いっきり子供らしく遊んでくたくたになって帰っても、優しい笑顔と洗濯されたシーツのベッドが待っている…。
家庭…。家族…。
犯罪現場の話も写真もなく、犯罪にとりつかれた父とテーブルで向かい合うこともなく…。
じゃあ、あの調査員に真実を言えばよかったじゃない、父は親として何もできない、と。それどころか、自分が面倒を見てあげなければならないと。
やはりそれはできなかった…。父は自分の血であり、歴史。私にはペキペキでさえ可愛がった母の血も流れている。父を突き放すことはできなかった。母の後を継いで分析屋の父の面倒を見る、それが 自分の宿命だと思った。
恋もした。好きになる相手は決まったように皆、陰のない笑顔と笑い声に満ちていた。彼らといると自分も 陰でなく、陽になれる気がした。もちろん、私は自分の気持ちを隠し、単なる友達として接した。
私はそれふうなことがしたかった。映画館でポップコーンを食べながら手を握ったり、野草の花が揺れる草原で追いかけっこをしたり…。たわいない恋がしたかった。
けれどそんなのは夢物語だった。
友達は家には連れてこないようにした。家にはなにかしら不気味なものがあり…写真にしても普通の人が見たらひくだろうものがそこらじゅうにあった。
そして家は暗かった。できるだけ、明るい色彩で明るい雰囲気のものを置こうとしたが、住人の思考からでる得体の知れないもの…が冷気のように家を浸していた。
その得体の知れないものは私にも影響を与えていた。 少しでも親しくなった者たちは、私に何か普通じゃない雰囲気を感じたのか、はっきりした理由も告げず去っていった。
彼らを責めれなかった。確かに私の育ちは普通じゃない。そして私自身が普通じゃない。気づかぬうちに私は不穏な空気を纏っている…。
私が恋愛感情を抱いた男たちは決まったように、私がカルト宗教の信者でもあるかのように敬遠しはじめた。
私は寂しかった。死にたいほど寂しかった。なのに涙は出ない。父は私のそんな感情の起伏など全く気づかず、来る日も来る日もプロファイリングをし続けた。いい歳をして就職もしない私を人はどう見ていただろう。私はその頃、頑健で無表情だったと思う。
長いようで短い、短いようで長い20代が過ぎていく。私は人生を諦めかけた。父の世話と仕事の手助けのみをしてこれからも暮らすのだろうか。
父に恨みをもつわけではなかった。特に愛してもいなかったと思うが、憎んでもいなかった。自分がした決断なのだ。12歳のときの決断。
今12歳に戻れたら、どうしただろう、時々思った。犯罪とはまったく関係のない明るい笑い声に満ちた家庭の養子になっていたら。そうしたら、父はどうなったのだろう。一人でも暮らしていけただろう。ただ食べるものにも無頓着だし、長く健康でいられる可能性は低い。父は多くの点であまりに偏りすぎていた。
どうして父がこれほど犯罪に没頭するのかわからなかった。正義感からか、と思ったがそうではなかったと思う。つまり…父は犯罪が好きだったのだ。数学を解くのが大好きな少年が問題が難しければ難しいほどやりがいを感じるように、父は犯罪者をプロファイルするのが大好きだったのだ。
しかしそれも私が二十歳を過ぎる頃までだった。父の脳はとみにバランスを欠き始め…医者にも行ったしMRIも撮ったが、原因はわからないまま、行動に異常も出始めた。意味のないことをつぶやくようにもなった。転びやすくもなった。
それまでも聞き役として、否応無しに父のプロファイルの仕事に関わってきていたが、その頃になると、 父はほとんど機能しなくなっていた。プロファイラーとしては。
父は身を削って、自分の生きる時間と引き換えにプロファイルをしてきた。父は50代にして80代の外見になっていた。
そして老衰に似た症状で56の時、亡くなった。
父の亡骸を見ながら、心で問った。
どうしてそんなに犯罪に魅了されたの? 自分が極端な人格なのに、周りの人の心も読めなかったのに、どうして犯罪者のプロファイリングをしようと思ったの。お父さんって誰だったの。どんな人だったの。親子なのに犯罪の話しかしたことないよね。
けれどふと思った。案外…案外…父は人の心も十分に読んでいたのかもしれないと。人の心が読めないものにプロファイリングはできない。父は読めても、自分の表情、行動が変えられなかっただけなのかもしれない。心の動きと脳の活動、それに対応して行動に表せるか、それはまた別ものなのだ。
父に鍛えられたからだろうか、私は父の亡骸を見ながら、父のプロファイリングをしていた。
ジョウくんと会ったのは父の葬式だった。
「お悔やみを申し上げます。お父様には随分お世話になりました。お父様のお陰で、この世は確実により平和になっています」
ジョウくんは誠実な目をしていた。
その目を見ていると泣きそうになり、私は下を向いた。
父が亡くなったということでは泣けなかったが、ジョウくんの目を見て泣きそうになった。
思えばいつから私は泣いたことがなかったんだろう。
「今は何をしていらっしゃるんですか?」
ジョウくんは聞いた。
「特に何も…。これまでは父の身の回りの世話をしたり、家で翻訳の仕事をしたりしていました」
父の代わりにプロファイルしていました、が正しいところだが、そう言うわけにもいかなかった。
ジョウくんは優しかった。そして何より明るかった。ジョウくんの世界は混みいってない、陽だまりのように温かい。ジョウくんを見ると純粋に嬉しかった。
けれど思った。これまでの人たちがそうであったように、ジョウくんもいずれ私の異様さに気づき去って行くだろうだろうと。私がまとっているどこか暗い影に気づいて。
先のことは考えず別れの日までは楽しんだらいいじゃない。親しい友人になれたらそれだけで嬉しいじゃないの。ともすれば悲観的になる自分に言い聞かせた。
不思議なことに6ヶ月経ってもジョウくんは去っていかなかった。それどころか、私と一緒に住みたいと言い出した。
「何を言うの?」私は不思議な目をしていたと思う。
「そんなに不思議なこと?」 ジョウくんはふざけたように私の頬をつまんだ。
「私…と一緒にいたい人がいるの?」
「いるよ。ここに」
ジョウくんは微笑んだ。僕はね、ノンバイナリーなんだ。自分のことを男でも女でもないと思ってる。好きになるのも男性のこともあれば、女性のこともある。
そうなんだ…。
私は身長182センチ。体重74キロ。明…アキラという名前だ。けれど、自分では心の中で、メイと呼んていた。生まれたのか五月だったので、メイだ。明もメイと読める。私の心は女性だった。
私は小さな声でアキラではなく、メイと呼んでほしいと言った。
「レジェンドさん、あ…メイさんのお父さん、伝説の人だから、レジェンドさんって呼ばれてたんだけど、しょっちゅうメイさんの自慢をしていたよ」
「 私の自慢を?」
わけがわからなかった。父が私のことを人に話す? 父が私にそんなに関心を持っていたはずはない。
「あの子には自分のせいで辛い思いをさせてる、って。あの子から子供時代を奪ってしまったって」
えっ…
めまいがした。父がそんなことを言うはずはない。そんなはずは…。
ジョウくんの愛嬌のある丸い目が優しく揺れていた。
その目に私は父のことは全て忘れて幸せになりたかった。心から、影のない女になりたかった。
ジョウくんは離れていかなかった。私は幸せだった。幸せになれるかも、初めてそんな予感がした。陰のないジョウくんと幸せになって、まとわりつく陰を薄くする…。そんなことさえできる気さえした。
私たちは南に面したベージュの壁の小さな家を借りた。ソファ、テーブル、カップボード、ドレッサー、ベッド…買い揃えていくのが楽しかった。小さな庭には野草が咲いていた。黄色とオレンジとピンクと紫。小さいけれど、勢いのある素直な花々。
私は人生のシンプルさを欲していた。シンプリシティはそれだけで美しい。
小さな幸せ。小さくて大きな幸せ。自分には起こりうるはずがないと思っていた幸せ。窓から入り込む陽射しを感じ、今までで天国に一番近い場所だと思った。海辺のリゾートでなくても湖に面したログハウスでなくても私にとって天国に一番近い場所。
ジョウくんは優しくて、存在が柔らかかった。
そしてジョウくんのママ。笑い声が大きく冗談好きで、寛大だった。初対面のときほとんどピリピリ震えている私を両手を広げて抱きしめてくれた。あなたはジョウが今まで付き合った人の中で一番素敵よ。あの子が一緒に住みたいって言ったのはあなたが最初なの。
ジョウくんのパパは郵便局に勤めていた。寡黙だがその目には茶目っ気があり、時々肩をすくめて私に微笑んでくれた。
たわいない小さな置物がいっぱいのジョウくんの実家。ジョウくんのママと肩を並べて作る夕食。味見をしにくるジョウくんのパパ。
犯罪現場や被害者の写真に溢れたテーブルでプロファイリングに取り憑かれた父と食べる夕食。私が作る誰もおいしいと言ってくれない食事。その日々の方が現実で、今が夢。過去は後退しそうになかったが、少しずつ自分自身が過去に向き合いながら後退していけたらと思った。そうすれば夢が現実になっていく。
ジョウくんといて、一緒に笑い、雄弁にすらなれた。気分が高揚することすらあった。
思えば今まで高揚したことなどなかった。プロファイリングで犯人がわかった時も父のように高揚できなかった。犯人が見つかる…それ自体はよかったと思った。けれど、高揚はしなかった。安堵もしなかった。論理的には犯人逮捕に貢献できるのだから、とてもよいことに違いなかった。けれど、闇に接すると自分も闇に包まれる…。笑顔が遠のいていく…。
そんな私にこんな幸せが訪れるなんて。私の心は心は落ち着い た。
けれどどことなく実体のない幸せだと感じることもあった。映画の中の自分を見ているような。ただ少しずつ現実味を帯びてきたのは、日常のルーティンをこなしているときだった。朝ごはんのあと、コーヒーカップを洗う。洗濯物を干す。それらが着実な幸せを与えた。ジョウくんと一緒の生活に笑顔も多くなり、自分でも動作が弾むように楽しげになってきた。
これは演技なのだろうか。
家の中に父の写真は飾らなかった。思い出さないようにした。父の話もしなかった。ジョウくんは時々父の名を出したが、私は最小限の言葉でしか父を語らなかった。ジョウくんはそんな私を怪訝そうに見ることもなく、それ以上聞いてこなかった。聞かないことがジョウくんの優しさだと思った。
ジョウくんは特に社交好きでもなかったので、楽だった。パーティや付き合いは正直苦手だ。もっとも得意だったら、父と二人の生活のときにも逃げ場があっただろう。
時々ジョウくんの子供時代からの親友だというケイくんが立ち寄った。ケイくんはジョウくんよりもシャイで、視線にどこか陰があった。ケイくんが口ごもると私は構えた。そんなとき、もう戻りたくはない細い道や見たくもない壁を背景にケイくんが立っている、そんな気がした。
苦手だな、ケイくんは…。私は思った。けれどジョウくんはケイくんに絶対的な信頼を置いていた。とにかく凄くいいやつなんだ、ジョウくんは何度も言った。幼いころから腕白でいたずら好きだったジョウくんは何度もケイくんに助けられたと言う。ケイがいたから先生に見つからずに済んだことも多いとジョウくんはウインクした。
幼なじみのただの友達なんだから大丈夫。二人は恋人同士ではない、それだけは確信できた。感覚的に。
望まずしてケイくんと二人でコーヒーを飲むことがあった。ジョウくんが約束の時間より遅れて帰ったときなど。ケイくんといるときもジョウくんのときと同じように陽気に振舞おうとしたがどうしてもできなかった。古いダメな暗い自分が顔を出す。恐かった。いつもはたやすくかぶれるようになっていた擬似陽気ベールがケイくんとのときはかぶれなかった。
ケイくんには本当の自分を身抜かされている…そんな気がした。ケイくんには何をやっても真の自分…それがなんなのかはわからないまま…を見透かされる気がした。
けれど、ケイくんが私を嫌っているようには見えなかった。どちらかというと悪い意味ではなく興味をもたれているのではないか、と感じた。
小説の話などで気の合うところもあった。私がカーバーのカテドラルを好きだと言うと、ケイくんも好きだと言った。二人の男が一緒にカテドラル の絵を描いているところがどうしてかわからないけれどひどく感動した、とケイくんは言った。
私はケイくんを見た。初めて興味を持って見た。何かわからないけれど、心が揺れた。シンプリシティしか受け付けないと決めた私のラインを越えて、ケイくんは私の心を揺らした。ケイくんが好きなのはどんな人なのだろう。
恋心などではない。どこかに忘れてきた忘れ物。いつ、どこに、何なのかもわからない忘れ物の影がチラッと頭をよぎったような…そんな気がした。
その時を境にケイくんに対する恐れは減った。口数が少なく、表情が少なめだからといって性格が悪いわけじゃない、陰があるわけじゃない、そんなシンプルなことに気づいてなかった自分がおかしいと思った。とんだプロファイラーだわね、自分を笑った。かつてスイッチオンできた自分は遠くになっていた。スイッチオフになって長い。もうしばらくすればスイッチオンにはしたくてもできなくなるだろう。そのときが待ち遠しかった。
ある時、ジョウくんが帰ってくるのを待ちながらコーヒーを飲んでいると、ケイくんが言った。
「メイさんは随分辛い思いをしてきたんだね」
心の陰に直球を投げ込むような言葉に私は動揺した。動揺はしたが不思議と嫌な気はしなかった。
「よくわからないし、認めたくない自分がいるけど、きっと、きっと…ひどく寂しい思いをしてきたんだと思う」
ケイくんは私の指先に触れた。指先が私の心を覆っている繊細な糸で織られた布でもあるかのように。
目をつぶった。
まぶた、肩、首筋、そして心が震えた。
ケイくんは私の影を写しとった、そう思った。
ケイくんが感じたこと、確信してること、ジョウくんには言わないでほしい、と願った。ケイくんが感じ取った私の本質…ジョウくんに悟られたら愛される資格がなくなる…そんな気がして怖かった。
ジョウくんには、私が父との暮らしでねじれていることを言わないで欲しい、ともごもごと言った。
「メイさんはねじれてなんかいないと思う。ただ、苦労しただけだよ。苦労だけで人はねじれない」
「父のことをよく知ってるの?」
すると、ケイくんは驚くことを言った。ケイくんの知り合いが殺されたとき、プロファイルをして犯人を捕まえたのが父だと。それから父にもプロファイリングにも興味を持っていた、と。
近すぎる。私は思った。何かがひどく近すぎる。近くにあって欲しくないものが近すぎる。小さいころ父に連れられていった親戚の庭の井戸、覗き込むと奥深く知らない淀んだ世界があった。声をかけると響いてくる。夜寝るときに思った。なければいいのにあの井戸。あの井戸にどんどん生き物がのみこまれるところを想像した。最初は蟻だった。それはカナブンになり、ネズミになり、子犬になり、影のみ見える人になった。
なければいいのに。
そのとき井戸に対して感じたものをケイくんといて感じていた。
私はケイくんを見つめた。
すると…
目に涙が浮かんできた。目尻を伝って流れた。
自分の中にある暗い井戸のような存在に目をつぶって否定してもそれはなくならないのだ。それを悟ったとき、悲しいとか絶望感とかより、安堵した。見たくないのに見てしまい、無視したいのに存在を無視できないものから逃れるのでなく対面したときに感じるだろう安堵感なのかもしれない。
ケイくんが井戸のわけではない。けれど井戸の存在を無視しても無駄なんだ。それに気づいたとき張り詰めていたものがとけ、涙が出てきた。
私は涙を拭こうとはしなかった。ケイくんは指先で流れる涙に触れた。
それ以来、私たちはできるだけ二人にならないようにした。ケイくんはジョウくんがいるときにしか家に寄らなくなった。秘密を分け合った子供達のように、二人きりになるのを避けた。
私は近くのカフェを手伝ったり、近所の犬の散歩がかりになったり、ジョウくんの姪や甥の勉強をみてやったり…ゆったりと暮らした。
ジョウくんは刑事だったが、最近は部署が変わって収賄関係が多く、死にからむような事件を扱うこともなかった。
ジョウくんの安全を心配する必要がなくなり安堵した。ジョウくんと付き合い始めた頃は、ジョウくんが全く犯罪と関係ない仕事だったらいいと思ったが、父のプロファイラーとしての仕事が人の死に直面する仕事だったのに対して、ジョウくんの取り扱うのは知的犯罪に関するものがほとんどと聞き、安心した。
そんな時に夢を見始めた。
最初は単なる悪夢だった。
時々見る悪夢の一つ。
私は首を絞められている。絞められていてもなぜか冷静だ。ただ、首を絞められる感覚だけが徐々に強くなっていく。
最初、霧の中でぼんやり絞められているようだった。しだいに痛みがシャープになっていく。イメージもシャープになっていく。
一瞬スローモーションになった。ドラマのように。周りは人気のないどこか寂れたショッピングストリートのようだった。
瞬間にして視点が変わる。映画撮影で使う自動で瞬時に上下するカメラのように、一瞬にして私は上から自分自身と私の首を絞めている人物とを真上から見ている。苦しそうな顔。自分であって自分でない顔。絞めている人物は頭のてっぺんしか見えない。顔は見えない。襟足に髪が跳ねている。
突然視点が私に戻り、目の前の顔が少しずつクリアになっていく。女だ。どこか中性的な女だ。薄い目の色をした女だ。何も言わず私の首を絞め続けている。唇を噛み締めている。大きいけれど薄い唇。
一瞬息が楽になる。不思議だ。締められているのに。女の顔をしばし客観的に見ている自分がいる。女はなにやらぶつぶつつぶやき続ける。
なぜ私はこの女に首を絞められなければならないのだ。女は強盗には見えない。緑色の石のついたペンダントをしている。翡翠のペンダント。丸い翡翠のペンダント。
首を絞めている女は唇でも噛んだのか、唇からうっすらと血が流れている。
その瞬間、私は手が使えるのだと、気がつく。女の体に爪をたてる。けれど、革ジャケットのような感触で爪がたたない。女の腰を両手でつかんで揺さぶる。
メイ!メイ!
ジョウくんの声で目が覚めた。私は両手を上げて振りまわしていた。
あ…。夢を見てた…。
そうみたいだね。嫌な夢だったんだね。
うん、とってもやな夢だった。
父と暮らしていたころ、現実は鬱々として、たまにみる夢に救われることがあった。夢の中で私は自由だった。乙女チックといえばそれまでの夢。雲の上をジャンプしていたり、一面の草原を両手を広げて走っていたり、翼の大きな鳥になって海面すれすれに飛んでいたりした。すれすれに飛べば、澄み切った海の中まで見えた。
もちろん恐い夢も見ただろう。けれど今覚えているのは、夢の中では自由だったその感覚だ。心も体も自由で現実の自分より際立って解き放されている。
けれど、今は現実が明るかった。ジョウ君がいて、キッチンはクッキーやパンケーキやスープの匂いで満ちている。アロマの香も欠かさない。南に面したリビングは明るく、芝では小さな花をつけた草が揺れている。
現実ではこんなに自由で明るさに満ちているのに、暗い夢を見始める。しかも「死」の夢。「死」のなかでも「殺人」の夢。
幸せ、不幸せの濃度、明るさ、暗さの濃度というのがあるのなら、育っていく過程で、ある濃度に浸っていたものは、簡単にその濃度を抜け出せないのかもしれない。夢と現実でバランスをとり、一定の濃度を保つ。
澱んだ沼を思った。沼のねっとりした濃度の中、歩き続け、動き続けた私は、澄んだ水では軽すぎる。無意識に水を濁らせ、バランスをとろうとする。それが夢となってあらわれたのだろうか。
コーヒーのおかわりは?
ジョウくんがポットを片手に微笑んでいる。
ジョウくん…。
幸せすぎてバランスを欠くなんて、そんな馬鹿らしいことに振り回されてはいけない。自分の愚かさに崩れていってはいけない。
ジョウ君が注ぐコーヒーポットの先から落ちるコーヒー。
また夢を見た。
私は池に浮かんでいる。顔を水につけ、うつ伏せになって浮かんでいる。小さな水生植物に囲まれている。きっと私は死んでいる。死んでいるのに冷静に考えている。
どうして私は死んでいるのだろう。誰に殺されたのだ。
それからも私は夢を見続けた。全て、殺される夢。苦しかったのは最初首を絞められた夢だけで、他の夢では既に私は死んでいる。いろいろな場所で。同じなのはどうして自分が死んでいるのか、誰に殺されたのかを考えていること。
そして死んでいる私を、上から見下ろし観察している私がいること。
そうか…。写真か…。写真なんだ。
父に見せられた事件の写真。キッチンテーブルの上にも、下駄箱の上にも、写真はあらゆるところに存在した。家全体が父の仕事場だった。
私は見てないようで見ていた。私には奇妙な記憶力があり、見た写真をハイライトして覚えた。全ての細かいところを覚えるわけではない。ある一点。あるいは2、3か所。死体の髪のもつれだったり、指の形だったり、現場のテーブルに置かれていたハサミだったり。何か奇妙に感じるもの、特に心がひっかかるものが一瞬にしてわかった。それを父に言うと父は決まって一瞬顎を引き、目を見開き、私を見つめた。たいていはそれが事件の解決の糸口へと父を導いた。
この家には、このジョウくんと私の明るい家には写真がない。私は夢の中で、自分を使って写真をクリエイトしているのだ。明るさとは程遠い写真を。
長らく来なかったケイくんが家に来た。ケイくんはちょっと近くまで来たから、なんて嘘も言わず、私が入れたコーヒーを飲みながら、静かに言った。
「何となくメイさんの顔が見たくなって。最近、調子はどう?」
正直ケイくんに会って嬉しかった。なぜかほっとした。ケイくんにはかっこつけなくてもよかった。素のままでいいと思った。ジョウくんの前ではいつも少しだけ頑張っている自分がいたが、ケイくんには少し猫背気味にぶつぶつ言いながらいてもいいような、そんな気楽さがあった。なぜだろう。
「レジェンドさんの仕事をメイさんが手伝っていたのを僕は知っていました」
えっ?
ケイくんは一時期、父をコンサルタントとして雇う部署にいたことがある。
「他の人も知っていたの?」
「いえ、多分僕くらいだと思います。僕はちょっと観察眼が鋭いものですから」
そういい、ケイくんはちょっと困ったように微笑んだ。
「この仕事には役に立ちますよね」
「ええ、立ちます」
ケイくんは私のことを父からしばしば聞いたという。個人的なことはほとんど話さない父だったが、なぜかケイくんにだけは話したという。いかに私が手掛かりを見つけたかを。一度など、写真を見つめる私の真似もしてみせたという。
「写真を見る私の真似ですか? どんなふうに」
「それがほとんど表情が変わっていないのです。ちょっとだけ目を見開いて見えたのですが…」
自分に特殊な才能があるなんて思ったこともなかったけど、父が認めてくれていたなら、それはそれで嬉しい…のかもしれない。
「いわゆる優秀といわれる人も多い、けど彼らになくてメイさんにあるものがあると思う」
それは何?
「直感かな。そう言ってしまえば月並みだけど。もちろん、メイさんが見て、感じ、なんらかのロジカルな頭脳活動の結果、気になると感じるもの、それは他のものには直感と感じられるんじゃないかな。レジェンドさんは緻密なプロファイラーでしたが、直感的なところはなかった。それが亡くなられる7、8年前から直感、勘としかいいようのない不思議な力で事件を解いていかれるようになった。僕はある日、レジェンドさんに資料を渡しに初めて家を訪れたとき、メイさんが受け取って、ファイルの写真をすいっと、そうじっとではなく首を振るようにすいっと見て、残虐過ぎて見れないものを斜めに見るように見て、大きく息を吸ってそれから幾つもの小さなため息をつくのを見たんです。そのとき、メイさんがレジェンドさんのブレイン、というか事件を解くマインドなのだと理解しました」
「ああ、連続殺人事件でしたね」
もう、事件はまっぴらだ。普通に生活していたら、見なくてもいいもの。それを私は一生分…いやその何倍も見た。もう、あの世界に戻りたくはない。
なのに…
「ケイくんが担当だって聞いたけど、手がかりは見つかっているの?」
その時私は自分でも思ってないことを口にしていた。最近世間を騒がせている連続殺人。同一人物によるものと思われる連続殺人事件。ケイくんが担当の一人だった。
もう血なまぐさい事件はまっぴらのはずなのに、そんなことを口にした自分に驚いていた。私の中の別人物が私の口を借りて話しているようだった。
事件は私が夢にみたような場所で起こっていた。違うのは殺されているのが私ではなく、違う人間であること。そして私はそれらの事件を新聞で読み、事実として何気なくとらえていたが、夢の中でヴィヴィッドに再生していた。
「おそらく犯人は無自覚型殺人者です。緻密な計画、捕まらずに犯罪を犯す知能を持っていますが、実際殺人を犯した記憶は殺害後意識下にあり浮上していません。多重人格か、といえば、そうではないでしょう。二重人格という表現もちがうと思います。一つの人格が一つの人格を内包しているのです。子供と母親の血液型が違ってもおかしくないように、血液は決して混ざらないように、この二つの人格は一つの人格の中にもう一つが埋まっていてもお互い独立しています。連動した二つのボタンのように、一つを押すと一つが上がる。上がった方を押すともう一方が下がる。けれど、互いに相手が上がっている、とか下がっている、という自覚がないのです」
「どうしてそんな性格が出来あがったんでしょう」
「それは多分、生まれつきの器質に育った環境、複雑な要素がからんでいるでしょう。幼い頃から、死、というのが身近に存在してたのかもしれません。サイコパスや快楽殺人ではなく、何か自分の存在の危機的なものに由来するのかも。一見なんの関連もないこれらの殺人はきっと犯人にとってはひどく意味あるものなのでしょう」
性別は?
「どちらでもあり得ます。頭のいい、科学的知識、その他、広範な知識を持つ者。ビデオカメラをうまく避けて映っていなかったり、DNAなどを残していなかったり、警察捜査のやり方の知識も豊富でしょう」
無意識にプロファイリングしようとして、私は気づいた。自分自身がそのプロファイリングに合っていると…。
その恐ろしい考えがゆっくりと私を浸した…。
「私もそのプロファイリングに合うわ」
ケイくんが大声で笑いだした。
「メイさん、メイさん、メイさん」
ケイくんは三度言った。一度目はおかしげに。二度目は少し真面目に。そして三度目は少し愛しげですらあった。
「大丈夫だよ。もう、犯人は絞られてる。メイさんは違うよ。全く違う。メイさんは自分で思ってるより、優しく、強く、でも少し…脆い…」
その目は少し切なそうだった。
ケイくんを見ながら思った。しばらくは悪夢に苦しめられても、自分の濃度調整にもたもたしても、自分で沼を這い上がらなければ、と。
ケイくんは黙ってコーヒーをリフィルした。まるで自分の家のように。私はコーヒーを飲むケイくんを静かに見ていた。
私が翡翠のペンダントを見つけたのは、クロゼットを掃除していたときだった。
それは空の靴箱に入っていた。何かの整理に使おうと空の靴箱をクロゼットの隅に重ねて置いてあったのだが、少し動かし掃除機をかけた時、一番上の箱が落ちて、何かが床に落ちた。それが丸い翡翠のペンダントだった。
私はしばらく見つめた。
丸い翡翠のペンダント。手の中で細かく振動しているように思えた。
連続事件の一人目の被害者がつけていたのも翡翠のペンダントだ。現場からなくなっていたという。双子の妹が同じものを持っていて写真を提供しており、その写真を見たのは数週間前だった。
私は目を閉じ、新聞で見たペンダントを思い出そうとした。頭の中でペンダントはクリアになった。スイッチオンした頭がチチチチと音を立て始めた。
目を開けてみると、ペンダントは写真のもとよく似てはいたが違っていた。当たり前だ。そんなのがここにあるはずない…。
ジョウくんが帰ってきたのは夜8時前だった。
わたしはそっと手を開き、翡翠のペンダントを見せた。
「あ、どこにあったの? 」
ジョウくんは少し戸惑ったように言った。瞳が揺れていた。少しだけ。
「母さんが探してたんだ。僕が前、プレゼントしたやつでさ。うちで無くしたんじゃないかって言ってたんだ」
「この箱の中にあったんだけど…」
「箱の中? なんで箱の中に入ってたんだろう。ああ…多分、見つけたとき、無くしたらいけないと、一番上の箱に入れたのかもしれない。うん、そうだ…」
ジョウくんは笑った。
私はその瞬間、ジョウくんを見失った。幸せにバックグラウンドカラーがあるとしたら、その色が少しだけ明度を失った。
ジョウくんのお母さんにペンダントを返すと、「あら、探してたのよ」と満面笑みを見せた。偽りには見えなかったが、そのあとお母さんは少し困ったように言った。
「ジョウはとってもいい子なのよ。あなたがそばにいてくれて嬉しいわ」
私の中でくっきりしていたジョウくんの輪郭が、また少しだけぼやけた。
ジョウくんママは優しく言った。
「ねえ、メイさん。ジョウがどうしてメイさんを選んだか知ってる?」
えっ? 私は恐れた。何か特別な理由があるのだろうか?
ジョウくんママは微笑んだ。
「単にメイさんが好きだったからよ。ちょっと影のある不思議なメイさんがね。ほんとに好きになったのよ。ジョウも欠点がないとは言えないけど、メイさんを選んでくれてよかったわ」
私は黙ってジョウくんママを見た。何かが間違っている…確かな感覚だった。
箱に入っていた翡翠のペンダント。誰のものかははっきりしないが、ジョウくんが入れたことは間違いない。なのに、自分の心のどこかで息づいていた邪悪…な何かが箱に閉じ込められていて…そんな気がして身をぶるっとふるわせた。
家中の引き出しを探った。スイッチオンした私には驚くほど簡単に手がかりが現れた。あまりに証明簡単な事件だった。ジョウくんの人間関係が事件だとしたらだが。
ジョウくんを疑って行動したのは初めてだった。
私は、ひどく冷静だった。自分の存在にいびつなチャレンジを受けたがごとく、心はひどく冷静だった。
砂浜に真っ直ぐに線を引くことを考えてごらん。どんなに真っ直ぐに引いたつもりでも、砂粒がわずかに動いたり、風が吹いたりすればすぐ崩れる。絶対に永遠の真っ直ぐなんてない。だから、場合によっては昨日は真っ直ぐに見えたものが今日はちっとも真っ直ぐじゃないってことなんてしょっちゅうだ。
父の言葉。
物事は時間によって変わる。見方によって変わる。見る人間によって変わる。ズームしたり、角度をつけたり…。ある時は虫レンズで、ある時は俯瞰的に。
私は得意だったはずだ。本当にそうだろうか…。私が得意だったのは、写真に撮られた平面上のものの中から特異なものを引き上げ立体化すること。情報の羅列の中で、関連性を見つけるとこと。
そうだ、私は得意だった。頭でシナプスが弾け飛び…。分析屋の子という環境だけでなく、生来何か私に刻まれていたもの。
それを私は封印した。
父の死と共に封印した。
幸せになるために。
幸せになるために。
砂浜はいつも明るい陽射しに満ちていてほしかった。水彩画のごとく。パステル調で。
恋愛初期。何度も失敗していた私は、心底時間を止めたかった。結果、ジョウくんとの関係は深みを増すことも、変化を受け入れる強さも、客観的思考も失った。
封印しようとした、父との暮らしで出来上がってしまった私という人間。それを無視しては存在も危うい。そんな当たり前のことを認めたくなかった。
砂浜に描かれた変わりゆく直線…意識上では無視続けた直線が今私にせまっていた。
夢で殺されていたのは、分析屋としての私。殺していたのは分析屋を嫌う私。そしてその顔はジョウくんの女友達の顔を借りていた。
キッチンのテーブルに座り、目をつぶった。
静かに。静かに。
父のことを思い出した。
母のことを思い出した。
私のことを思った。過去に戻り。何を自分が渇望したか…。
そして
初めて
ジョウくんを
分析した。
思うのではなく、分析した。一度も分析しなかったジョウくんを分析した。
私は静かに手を組み、祈りに似た気持ちで自分を池の底に沈め、そして自分の力で池の表面にゆっくり戻る姿をイメージした。
沼の泥水に沈んだ翡翠のペンダントを救いだす。砂浜で埋もれようとするペンダントから目を離さない。手にしたペンダントを湧き水で綺麗に洗う。そしてその意味を考える。解決は無視からではなく、思考から生まれる。
私はケイくんに電話した。ケイくんは夕方やってきた。
いつものように穏やかな顔をしていた。
「メイさん、犯人が見つかったよ。まだ事情徴収の段階だけど、ほぼ間違いない。精神科医からの情報なんだ」
「それはよかった…」
ねえ、ケイくん。ちょっと分析屋に戻ってみたの。私は言った。
「でも分析するのは事件じゃないわ」
ケイくんは 何?って顔をした。
「ジョウくんよ」
一旦、分析屋に戻れば、いろんな辻褄を合わせるのに、それほど時間はかからなかった。
「ジョウくんには恋人がいるのね。女性だったこともあるし、男性だったこともある。今までもいっぱいいたし、今もいるし、これからもきっといるわね。その一人は目の色が薄く、翡翠のペンダントを持っていると思う。きっと私、気づかずにどこかで彼女が写っている写真か、彼女そのものを見たことがあるんじゃないかと思う。ほんの一瞬のバックグラウンドとして。記憶に残るほどじゃないけれど、意識下には残っていて、夢には出てくる。夢の中では私、スイッチオンするみたい。夢の中では情報は混沌としていて一貫性はないけれど、所々に真実が潜んでる。そしてジョウくんはケイくんのこと友達として凄く好きなんでしょうけど、ライバル意識も強かっとと思う。周りには少しも出さないけど。でも重大事件を受け持つケイくんにコンプレックスも持っていたんだと思うの」
ケイくんはやはり静かに私を見ていた。
「だから私に惹かれたの。私は最大の事件グッズね。なにしろ幾つもの事件を解いたレジェンドプロファイラーの子なのだから。それに…」
それに? ケイくんが目で問う。
「それにね、ケイくんが私を理解していたから。ジョウくんは違った土俵でケイくんに勝ちたかったのね。だから、付き合ってる人はたくさんいたけど、私との同居を決めた」
一旦、目を開けると驚くほどシンプルな事実。
そうでしょ?
父が描いた砂の上の一直線、刻々と変わる一直線。それを無視せず見つめる強さが今必要だった。
ぼこぼことした砂浜を一本の木の枝でスーッと滑らかにする自分が見えた。
私に必要なのはその動作なのかもしれない。自分を偽らず、変化する砂浜を見つめ、平らにする。観察だけでなく手を加える。目をそらさらず。恐れず。罪の意識も持たず。背中から陽を浴び、風を頬に受け……。
自分の人生はプロファイリングするだけじゃなくって、自分で変えていいんだ。そんな簡単なことに気づかなかった。
「ジョウくんと話してみるわ。父の子として」
「レジェンドさんの子として?」
「ええ、父の子として」
それもいいかもしれない、ケイくんはそんな風にうなづいた後、少し微笑んだ。
砂浜にしゃがむ親子がいる。父と私だ。私は6つくらいだろうか。
父が砂浜に木の枝で線を引く。そしてじっと見つめる。
その横を一人の青年が通り過ぎる。髪をポニーテールにして考え込むように歩いている。そこに一人の女性がよってくる。柔らかな髪。柔らかな視線。
母だ。父は母を見て少し微笑む。交差した時が私の脳裏をよぎる。
私の中で動きを止めていた何かが動き出した。分析屋の視点。父風分析屋ではなく私風分析屋。
俯瞰的。
時軸を混ぜて。
そうやって人は存在している。
不思議だ。ジョウくんとの小さな家。昨日まで全てだった場所。私が存在していた場所。もうそこに私の居場所はない。もともとないところに私は張り付いていたのかもしれない。
けれどそれはそれでいい。仕方ない。大切なのは今それを悟ったこと。
「ジョウのこと、どうして気づいたの?」
「ペンダントを見つけたの。翡翠の。きっと恋人の一人のね」
ああ…というようにケイくんはうなづいた。
「人の脳って驚く働きをするものよね。知らないうちに辻褄を合わせようと、チッチっと働いてる。自分の意識下の思考の流れを考えてみたんだけど…おそらく…」
連続殺人事件で翡翠のペンダントのことを知る。
翡翠つながりで、何かの記憶でジョウくんの彼女がぼんやりと浮かび上がり、彼女が忘れたペンダントが家にあること、それを隠すジョウくんなどが、意識下に現れる…。
掃除のとき、箱を落としたのは、無意識的故意であり、見つけるべくして見つけたのかもしれない。
「翡翠って幸福をもたらすものよね。でもなんだか翡翠に対してイメージが暗くなりそう」
「僕の母はいつも翡翠の指輪をしてるんだ」
翡翠か…。そう言えば、何の石か知らないが母も緑の石のペンダントをしていた。母が自分で買ったのだろうか。父がプレゼントしたことなんてあるだろうか…。母が亡くなったあと、あのペンダントは出てこなかった。どこにいったんだろう。
「メイさんには緑が似合うと思うよ」
「私、5月に生まれたの。だから、自分のことをメイって呼ぶことにしたの。自分のセクシャリティに気づいてないほど小さな頃だったと思うけど、アキラっていう名は自分に似合わないって思ったの」
「良い名だね。メイさんは、もっと自分らしくしていいと思うよ」
そうだ、ほんとにそうだ、私は思う。もう中性的な格好をするのもやめよう。私はスカートにヒールが履きたいのだ。そして、髪を伸ばそう。
そうだ、いつか手に取ってしばらく見つめていたが、結局買わなかった、あのスカーフを買おう。ムーミンに似た小さな動物がいっぱいプリントされた、あのちょっと風変わりなスカーフを。なぜか心惹いたあのスカーフを。
人生に色付けをするのは自分自身なのだ。嫌なことが起こるたび、忌み嫌うものが増えたら、もったいない。世界はもっと明るさに満ちていていいはずだ。
私はじっとケイくんを見つめる。ケイくんも静かに見つめる。
立ち上がり、ゆっくりコーヒーを挽く。部屋は次第にコーヒーの香りで満たされていく。
クリスマスの季節。 Xmas Xmas と街がペケペケマークでいっぱいになる赤と緑とゴールドの季節。
クリスマスになると、ケントを思い出す。サンタでもルドルフでも、何かしら膨れ上がるショッピングリストでもなく、ケントだ。
フェアに言えば、クリスマスになると思い出す、ではなく、クリスマスになるとより思い出す、だ。その気持ちは胸の奥で密になり苦しいほどになる。
ケント背はあまり高くなかった。ガッチリはしていた。男らしい体型、というのがあるなら、これだ、初めて見た時そう思った。なぜかひどく押しが強そうに見えた。
その頃、私の髪はもう真っ白だった。そこにヘアダイのアッシュ系をふりかけていた。いろんな人種、髪色がある国とはいえ、東洋人にしては当時珍しい風貌だった。
ある日、ドアを開けるとケントがいて、そこそこ愛想のいい顔で立っていた時、何だか嫌な予感がした。頼みもしないのに着払いの小包が送られてきた、そんな気がした。東洋人の顔だった。クォーターくらいでもありえるか? 少し浅黒い気もした。
ヘェロー!ヨージはいるかい? ケントはかなりの素早さで入ってきた。ちょっとぉ!と私が眉をしかめると、ヨージに会いに来たんだ、いるかい?とその陽気さを崩さない。しぶしぶヨージを呼んでくる。しかし、ヨージは訪問者に首を傾げた。
「ケント・カシワギだよ、覚えてるかい?」
ヨージは、ケント・カシワギ、ケント・カシワギと二回ぼそぼそつぶやき、驚異の目で男を見たが、やっとのことで笑顔を作り、「もちろんだよ!」と近寄った。
二人はがっちり抱き合った。それは長い抱擁だった。ひどく中性的な抱擁だった。私はヨージが男とこんなにも長く中性的な抱擁をするのを見たことがなかった。
そのケント・カシワギは急に流暢な日本語に切り替えた。日本で育った日本人の日本語というには微妙に違う気もしたが、標準語系の日本語だった。
「何年になるかな」
「18年、いやに19年かな」
「変わったからわかんなかっただろ」
「もちろん、わかったさ。もちろん、もちろんわかったさ」
ヨージはやたらに「もちろん」を連発したが、嘘をついてるのはどう見ても明らかだった。
しかし最初の驚きとぎこちなさが薄れると、今度はすっかり古きよき友として振る舞い始めた。「もちろん」をむやみに発しなくなったヨージは、ケントの昔話に普段より1オクターブ高い声で笑い、それにケントの笑い声が重なった。名物ティーチャーに、鼻のつぶれたジョージ(どうやら犬のことらしい)、大ガマ池に、スパイスききすぎのポンチョのレストラン、猫のキャロルに、大馬鹿フレッチャー……彼らの話はつきなかった。
けれど、それも二日ほどのこと。三日目からは言葉数はぐっと減った。彼らには現在においてシェアすべき経験がなかったのだ。会話は同じあたりをくるくる回り、次第に速度が鈍くなって、ストン、と落ちた。しかし、そうなってもケントは一向に出ていく気配を見せなかった。
「一体、いつまで彼を置いとくつもり?いくら幼なじみだからって限度ってもんがあるんじやない」
「だけどさ、言いにくいんだよ」
「どうして?」
「…どうしてもさ」
何度聞いてもヨージの答えは同じだった。
ケントはと言えば、四日目あたりにツナ缶にフォークを刺しながら、こう言った。
「僕は今、行くところがなくてね。いや、正直なところしばらく静かにいれる場所が必要なんだ。ここは安全だ」
何をしたのよ?と聞きたかったが、聞かなかった。ひどい悪人には見えなかった。けれどひどい悪人に見えない悪人は世の中にたくさんいる。
その頃、私のニックネームはシルバだった。ケントもすぐにその名で呼んだ。
「シルバ、もう少しだけ居させてくれるとありがたい、この傷が治るまで」
彼はそう言って、長袖のシャツをめくり綿のような布で巻いてあった両腕の傷を見せ、Xに腕を交差して見せた。すると傷は一直線になった。
生々しい傷だった。両腕でXの形を作り、何か刃物のようなものから身を守ったのだろう。
私は眉をひそめた。この傷にどういう意味があるのだろう。ヨージと私がシェアしているこの家に泊め続ける意味のある傷なのだろうか。けれど彼はヨージの友人だ。ヨージの意志に任せるしかない。
「病院は?」
「行ってない」
行けないのだろう、私は思った。
「少年のころは痩せてたよ、ガリガリというくらいにさ。あの頃なら、すぐ骨に刺さっただろうな」 ふざけた風でもなくケントは言った。
その痩せた時代は青年初期まで続いたらしい。当時「絶望的」という言葉がお気に入りで、背中に「desperate!」と書かれたジャケットを着ていたという。
「けどさ、ある時、急にガッチリし出してさ。それまで俺のことをバカにしてた奴が後退りするようになってさ、まったくもって晴天の霹靂さ」
ガッチリ系ケントに、「絶望」は似合わなくなった。似合わなくなったジャケットはチャリティショップに寄付したと言う。売れたかどうかも知らないが、彼なりの持ち主像というのがあったらしい。それでその持ち主のストーリーを書こうとしたと言う。
「けど、駄目だったんだ。desperate! の字以外、何も頭に浮かんでこないんだ」
ケントは一時期小説家志望だった。けれど、ある時、現実があまりに小説より奇なり、と感じ、それらへの対処と葛藤で、小説どころではなくなった。
あの時ケントはひどく疲れていた。空間軸、時間軸、全てを止めたいくらい疲れていた。けれど時は非情に過ぎていった。少しずつ傷が治っていったことだけは時のおかげにしても。
居候の三週間の間にケントは山ほどパンとオムレツとローストビーフとツナ缶を食べた。蟹料理も三回した。腕はひどく痛そうだったが。
「小説家志望だったなら、何かに載ったことあんの?」
「ローカルなものに、ちょこ 'とね」
どんなストーリーよ、としつこく聞き続ける私に、しぶしぶながら彼は言った。
「猫と男の話…や…凧と女の話、それに、ロブスター料理をする男の話…まあこんなところかな。僕はとにかく平和な小市民的話を書きたかったんだろうな」
私は小説家というのにちょっとした興味があった。小説が書ける人間は少なくとも自分の中の混沌を文字に出来る人間だ。何語であれ、小説を書ける人間には深みがあるはずだと思った。
ツリーライティングセレモニー。私の歩く道を大きく変える出来事があったとすれば、それはあの週末のツリーライティングセレモニーだ。
土曜日。その週末はジェイクからの電話で始まった。三時ごろ行くと伝えてくれよ、彼は言った。
ジェイクはヨージのボーイフレンドで、希に見るハンサムだった。後ろに梳かしつけたストレートの赤毛と深いグリーンがかった灰色の瞳がご自慢で、冬だというのに肌は見事に日焼けしていた。
ヨージはジェイクに心底夢中で、ジェイクさえ一緒に住もうと言ったなら、すぐにでもスキップしてアパートを出ていっただろう。そうなったら、一人では家賃が払えない、私は密かに二人が別れることを望んでいた。
そんなヨージの悩みはジェニーとスーだった。ヨージとジェニーとはワンナイトスタンド、いわゆる一夜の関係だった。しかし一夜の関係でも子供はできる。それがスーだった。
生まれた時点で父親の可能性は二人だった。ヨージとサミール。子供ができたなら一緒に住もう、誰が父親だっていいじゃないか、そうサミールは言い、二人は住みだしたが、結局数え切れぬ口論の果て、「人の子なんか育てられるか!」と吐きすてサミールは出ていった。そうなると、父親はヨージとなる。ジェニーは養育費を請求し、時折休日をスーと過ごすことを強要した。
ヨージがジェニーの要求を断れなかったのは、単に気弱だったからじゃない。誰が見ても、スーはおかしいほどヨージにそっくりだったのだ。
日曜日には、スーをツリーライティングセレモニーに連れていくことになっていた。ショッピングセンターの中庭の巨大なクリスマスツリーにいっせいに明かりを灯すセレモニーだ。スーにどう接していいのかわからないヨージは、スーとのお出かけの時は、必ず私に泣きついてくる。「何でもするから、一緒に来てくれよ。お願いだからさあ」
午後三時、ジェイクがやってきた。大きな花束を抱えている。バラだ。バラの花束だ。ペールパープル。薄紫色。少し銀色がかっている。淋しい色だった。
「ハッピーバースディ、ヨージ!」
そうか、ヨージの誕生日だ…。
恋人達が出てゆき、残されたのはケントと私だった。散歩に行かないか、ケントは言った。居候いつまでよ、とはっきり聞くにはいい機会だと思った。私は一番分厚いコートを羽織り、意気込んだ。
薄グレイのフィルターがかかった街。知り合いのいるカフェに行こう、ケントは言った。歩き出すと、私はさっそく切り出した。話は早い方がいい。
「ねえ、傷の治療には街より田舎がいいんじゃない。考えてみて。平和な光景。セピアにところどころグリーンとオレンジを混ぜたような穏やかな光景…。田舎っていいわよ」
「そうかもな」
「少なくとも生活費は安いわよ」
「出てけって言うんだろ」
「まあね。あなたがいるとなんだか私落ち着かないの。よく訳はわからないんだけど」
私は正直な気持ちが口から出たことに驚いた。
地下鉄の駅の近くで、鳩とカモメが入り混ざってパンのかけらをつついていた。ベンチに腰掛けていたホームレスの女が立ち上がり、パアーッとポップコーンを撒くと、クワァ!バサバサバサッ、カモメが鳩の頭をつついたり、ククッククックックッ、鳩がカモメにクチバシ攻撃をしかけたり、餌に突進したりで、なんとも騒々しい。
「鳩にカモメかあ」
都市ずれ、人ずれしたカモメを見ながら、彼はどこか放心状態だ。
「ケントっていつも人のところ転々としてんの?」
「いや、家はある。と言っても親の家だけれど、僕としては居場所だった。もちろんアメリカンスタンダートならこんな歳になって親と同居なんてとんでもないってとこなんだろうけど、父が日本人だしさ、母は常識にとらわれない人だし、それに母と僕はある意味こころざしが一緒だからね」
「こころざし?」
「母は信念が強く、というか正義感が強いというか、融通が効かなくて見ていて危なかしい。僕は小さい頃から母を守ってきたよ」
「お父さんは?」
「父は大学で母に会ったんだけど、ブロンドに染めて小柄だった母をホワイトだと思ったらしい。フランスあたりがルーツな小柄なコケージャンってね。でも母は、コロンビア系のラティノでね、目も黒かったんだ。髪も染めなきゃ、真っ黒だ。アメリカに来たばかりの父には分からなかったんだろうね。母は陽気で楽しくおおらかな人だからね。おどおどしてた父を助けるつもりで付き合ったのかもしれないな。父は真面目人間でアメリカに来て遊びまくろう、なんて気はこれっぽっちもなくてさ、企業派遣だったし、その後、母は日本に行く気はなかったから、父がずっとこっちの関連会社で働くことになったんだ。僕はどっちの言葉も話せるようになった。父は日本語で話しかけ、母は英語でだったからね」
ちなみにさ、ケントってこう書くんだよ。そう言い、ケントは空中に「賢人」と書いてみせた。
古ぼけた看板のかかったコーヒーショップの前でケントは足を止めた。つぶれてないという保証もないような店だった。
「ここだ。ここだよ。トニーが働いてた店は」
「トニー?」
「トニーさ」
注文を取りにきたポニーテールの子にデイヴは聞いた。
「ちょっと、君、トニーって知ってるかい?」
「えっ?」
「トニーバルディリスさ」
「知んないわね。トニー何ですって?」
ポニーテールは肩をすくめる。
「バルディリスさ。ここで働いてたんだ」
「知らないわ」
「君、いつから働いてんの?」
「三週間前よ」
「それじゃ、知らないよな。一年は前だからね」
「あら、それ早く言ってちょうだい」
ポニーテールは考えて損をしたという風に言い、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さいと馬鹿丁寧に頭を下げて行ってしまった。
「バルディリスって友達?」
「まあな。作家なんだ。ちょっとサイケな作風でさ。活字になった作品があってね」
「どんな話?」
「砂漠に男がいてね。そこで男は蝿を探してるんだ]
「蝿?」
「うん、蝿さ。蝿さえ見つけたらいいことあると信じて砂漠を彷徨ってんのさ」
「別に読みたいとも思わないわね」
「奇妙な話だろ。で、あるときさ、男は銀色の蝶がいっばい舞う砂漠のオアシスを見つけるんだよ。蝿じゃなくて蝶なんだ。男は力の限り、駆け寄るんだ。蝶が蝿に見えたのさ。でも駆け寄ってみると蝶だろ。がっかりするんだ。まったくもってね。そうするとオアシスも消えてしまう」
「何か言いたいの」
「なんだろうな。人によって価値あるものは違うってことかな」
「う〜ん。その男にとって蝿が夢で希望なら、それでいいじゃないの。そりゃ、蝿に固執してオアシス無くしちゃうのって、蝶の美しさに気づかない男ってミゼラブルだけど、少なくとも思い込みってのはあるじゃない」
ふむ…ケントは私に微笑んだ。あまり魅力的な顔だと思っていなかったが、その時の彼の目の穏やかさが私をとらえた。
「シルバは満足してる?今の生活に」
なんであんたに、そうは思うが、彼のひどく真摯な瞳を無視できなかった。思えば私のことを聞いてくれた人間がどれだけいただろう。形だけの、よお元気かい?元気にしてる?は聞き飽きたが、今の生活に満足してる?なんて真剣に聞いてくれたものなどいなかった。一緒に暮らした男も最後まで聞きはしなかった。
「満足?そうね、満足よ、うん、満足してるわ。でも…満足なんて絶対的なもんじゃないわよね。相対的なものでしよ。うん、だからね、そういう意味では満足してるわ」
何回か男と暮して何回か別れた。今は男に興味がなくなった。フィジカルな要求もほとんどない。仙人のように森閑としている。淋しさはあっても自由でハッピーだ。相対的に。ヨージとは家賃を半分ずつ払いアパートをシェアするだけの関係だ。一人で借りるだけの金がないからいい手に違いない。それにヨージは悪い人間じゃない。ただ、毎日が……バルディリスの砂漠じゃないが、もどかしさはある。さらさら乾いた砂で何か作ろうとしている感覚だ。水で濡らすってのを思いつけばいいんだろうが、近くに水などない。動くのも面倒になる。だから、いつまでも座りこんで乾いた砂でなんとか形のあるもの作ろうとする。何を作りたいのかわからないまま…。
「シルバのこと書きたいな。シルバみたいな女や男のこと]
「私みたいな…」
「うん、そう。ミドルーオブーノーウェアのさ」
えっ?
「middle of nowhere さ。ここでもなくてあそこでもなくて、どこにいるのかわからない。ミドルーオブーノーウェアにいる人間…そんな話を書いてみたいんだ。そんな風に思ってる男や女の話をね。月並みかな」
「わからないわ。…ねえ、…それって砂漠の真ん中にぽつんといるって、そんな感じ?」
「そうとは限らないな。ごちゃごちゃ巨大ビルが立ち並ぶとこだって、どうにも騒がしいワイルドなパーティにいたっていいんだ。要はさ、つながりさ」
「つながり?」
「数え切れない物体や人間に囲まれてたって、それらと自分とのつながりがない限り、何らかのつながりを感じない限り、ミドルーオブーノーウェアなんだよ。けど、何とか手をのばせるものも探そうとするだろ。そうしてる限り自分って実体があるんだ。無じゃないんだ。けど、無になる恐怖は常にあってさ。人によっては焦りを感じ、人によっては恐怖を感じる」
「でも探してるのがゴンザレスさんみたいに蝿じゃ、探さないほうがましね」
「バルディリスさ」
「そうだったわね」
ミドルーオブーノーウェア…そんな話、ケントが書けるなら読んでみたい。
「ねえ、どうしてヨージを頼ってきたの?ケントってヨージの幼馴染み?」
「まあ、そうかな。かつての友達。シルバとヨージはただのハウスメート? 友達って言える?」
「どうなんだろ」
ヨージとはルームメート募集の広告が縁だ。ヨージは男と別れたばかりで、ひどく冴えない様子だった。私も男との同居に失敗したあとで、冴えない状態にはかわりはなかった。だから、会話が生れた。ぽつりぽつりと。日系のヨージは、小さい頃からオールアメリカンの平和な家庭ってのに憧れていた。
普通の人以外、とりたててなる気はなかったよ。オールアメリカンの平和な家庭を持つ…漠然とそんな夢を持ってた。ある日、恋をするまでね。…僕の初恋だった。焦がれて焦がれていつも見つめてた。ちょっと浅黒かったけど東洋系さ。でもしばらくは恋だと気づかなかった。ある日、夢を見るまでね。…彼と抱き合う夢さ。起きると…わかるだろ。
ヨージの言葉を思い出して、私ははっとした。ちょっと浅黒い東洋系?
「ケントってお母さんラテン系だよね。それ日焼けじゃなくて元々の色?」
「母がコロンビアからだろ。母は色は白いけど、親戚は結構浅黒い人多いな」
「ヨージとはいつ知り合ったの」
「小学校だよ。十二才くらいかな」
ケントによると、その頃痩せてて格好よかったはず。私は一瞬言葉を失った。ケントがヨージの初恋の相手?彼を見たときのヨージの驚愕の表情、その意味を私はやっと理解した。ヨージがケンジを追い出せない理由もだ。
その時、ケントは言ったのだ。
「シルバはフィーラーだね」
フィーラー。そうだ、私は2度ほどその言葉を聞いていた。
「わかる?」
ケントはうなづいた。
「ケントもなの?」
「いや、僕はフェルルだ」
「その言葉聞いたことがあるわ。私みたいにある瞬間だけじゃなくて、みんな見えるのよね」
「うん。母がレイヤー族だからね」
「どんな容貌なの? その…層内では」
「一番近いのはブルーフォックスかな」
ブルーフォックス…。
「僕は生まれた時から、レイヤー族、コモン族どちらのレイヤーでも過ごすことができる」
「どっちが落ち着く?」
「落ち着くってより好きなのはレイヤー族の層だな。全てがカラフルで深く感じるんだ」
「けれど、今、レイヤーを越えて問題が起こりつつあってね…」
「問題?」
「メタモルフォーシスさ」
「メタモルフォーシス?」
「うん、メタ族が出てきたことさ」
メタ族…。
翌日の日曜日は快晴だったが、生半可な寒さじゃなかった。ヨージは二日酔いで顔が腫れていた。その顔でもたれるように私に近寄り、一緒に行ってくれるよな、と手を握る。恋人のジェイクに一緒に行ってもらえばいいじゃん、頭に浮かんだ言葉を飲み込み、仕方ないわね、と微笑んでみせる。
ケントもついてきた。
ジェニーのアパートに行くと、スーが抱きついてきた。私は結構スーに好かれていた。こっちはケントよと紹介すると悪意のない目でケントを見上げたが、ヨージにはちらりと目を向け、ハイ、ヨージィと言っただけだった。ジェニーはヨージのことを決してパパとは呼ばない。六才の子がどれだけ状況を理解しているのかわからないが、スーの目は明るい。口数は少ないが、強い子になる、と私は感じていた。
ヨージはといえば口元は微笑んでいるが、いつもと同じで当惑は隠せていなかった。
「ねえ、シルバァ、サンタクロース来るかな?」
「来るよ」
「悪い子にでも?」
「六才の子に悪い子はいないわよ」
「じゃ、仔犬くれるかな?」
「仔犬ねえ。ママはどう言ってるの?」
「ママは関係ない。サンタさんがくれるんだから]
「そうね...」
地下鉄を下り、ショッピングセンターに向かうころには、夕暮れのダークグレイの空を背にスーは一段と調子づいていた。ケントの横で、おもちゃの兵隊みたいに青いミトンをはめた手を勢いよく振りながら行進する。私は誰かが足を踏んだわ、とぶつぶつ言い、ヨージは頭痛がするとこめかみを押える。
ショッピングセンターの中庭は、巨大なクリスマスツリーを囲んだ人で埋まっていた。オーバー、ダウンジャケット、ファーコート…皆それなりに重装備で、冷風の中ジャンボツリーを囲んで立っている。突風にサアーッと熱を奪われ、私は歯をガチガチ鳴らす。まったくなんて寒さなんだ。スーに大きなストールを巻き、帽子を深く被らせる。
「17000のライトバルブだってさ」
「17000ねえ…」
「いつ明かりつくの?」
「もうすぐよ」
小さな手を頬にあて、スーは賛美の視線をツリーに向ける。
楽隊はさっきから同じ曲を繰り返し演奏している。
「いつまで続ける気なのかしら。これ何て曲?」
「知らないな」
「それにしても凄い人ね」
「うん」
「馬鹿馬鹿しいほど寒いってのにね」
「ったくだ」
周りもかなりじれている。手を擦り合わせたり、木のてっぺんについてる大きな星を恨めしそうに見上げたり、小刻みに足踏みを始めたり…。
すぐ前は若いカップルだった。寒いわという女の子に、男の子がもうすぐさと頬をよせキスをする。このセレモニーに関しては明らかに男の子の方が乗り気のようだった。皆で集まってツリーに明かりがつくのをクリスマスキャロルを歌いながら待つ、そのアイデアはロマンチックなはずだった。
「凄い電球数だよなあ。幾つあるんだろう」
後ろで髭の大男が言う。連れはラクーン毛皮の女だ。右隣は上品な中年カップルで、寒いわね、ほんとだ、以外ほとんど話さないが、たまに女の方がベティんとこのトミー坊やは幾つになったかしら、などとつぶやいている。
「いつまで待たせんだよ」
「もう明かりつけちまいなよ」
前の方で男の子たちが騒ぎ出す。
「見えねえよ。肩に乗せてくれよ」
「何、馬鹿なことしてんのさ。見えないのはあたしたちも一緒なんだからさ、ちょっと静かにしなよ」
「ヘイ、明かりをつけろ!」
少年が叫ぶ。ラクーン毛皮の女もダイナミックな笑い声のあと、ハスキーボイスで「明かりをつけろ!明かりをつけろ!」
ケントも「明かりをつけろ!」
ヨージはどうしたものかと、ためらい顔だ。
「レイディーズアレドジェントルマンー」
マイクを通した男のもったいぶった声が響く。
ワーッと歓声があがった。
「それでは次はエマーソンカレッジの楽隊による演奏です」
「またぁ!」
みな一挙に落胆の底だ。
「冗談じゃねえよぉ!」
「音楽はもういいわよぉ!」
「そうさ、もういいよお!」
三曲やっと終わったと思ったら、「それではこれからキャロルを歌って下さる皆さんをご紹介しましょう」
オー!ノー!皆の顔に絶望が走る。
笑い事じゃないぜ、と髭の大男。ラクーンの女は、再び「明かりをつけろ!」と叫んだが、心なしか力がない。
「ひっどい!まだつけないの?」
信じられないというように首を振りながら、女の子が声をあげ、男の子はおろおろし始める。
「もう中に入ろうか」
「今さら入れりゃしないわよ」
スーも手袋をはめた手をパタパタ小鳥のように動かしながら「いいかげんにしろよぉ」
「ブランダイス大学のコーラス部の皆さん、シモンズ大学の皆さん」
マイクを通じて学校名があがる度、ところどころからパラパラと関係者の拍手がおこる。
ヴォーカル入りの曲の一曲目は「サンタが街へやってくる」だった。
You better watch out. You better not cry.
Better not pout. I'm telling you why.
Santa Claus is comin' to town.
皆少しずつ歌い出す。右隣のカップルは無理矢理誓いの言葉でも言わされるようにぼそぼそ口を開き始め…前のカップルも肩を抱き合い歌いだし…調子のいいメロディに、ぶーぶー言っていた少年たちも声を張り上げ歌いだした。
You better watch out. You better not cry!
Better not pout. I'm telling you why!
Santa Claus is comin' to town!
次第に大声になっていく。スーは両手を叩きながら歌い、スーを抱えたヨージは体を揺らし歌っている。
耳慣れた曲が三曲終わり、「レディーズアンドジェントルマン!」
「何回目のレデイースアンドジェントルマンかしら」
「またスペシャルスピーチかしら」
と…ざわめきの中、突然ライトが消えた。周りを照らしていたライトが消えた。一瞬、闇の中に沈黙が広がった。
「それでは明かりを灯します!」
一斉に明かりがついた。
うわぁ!
うわぁ!
うわぁ!
拍手が起こった。長く、力強い拍手だった。
「それではてっぺんに明かりが灯ります」
チリリンと楽団が鳴らす透明な音色。ツリーのてっぺんに金色の光が灯ると、歓声というより、賞賛のどよめきが広がった。
スーはぽかんと口を開けて目を大きく見開き、ツリーを見つめていた。私はなんだか嬉しくなって、その手を握り頬につけた。青いミトンの手袋をはめたその小さな手をしっかり握り頬につけた。
こうしてツリーライティングセレモニーは終わった。私たちは人の波に押されるように、暖かいショッピングセンターの中へ流れこんだあと、小さなカフェに入った。セルフサービスでカプチーノ三つ、ホットミルク一つ、ケントが運んでくる。丸テーブルで四つの頭を寄せ、カップの中に息をフーフーかけていると、さんざんだった寒さも忘れ、いい一日だったと言い切れそうな気がした。
「寒かったな。大丈夫か」
棒読みの言い方だったにしても、ヨージがスーの顔をのぞきこんで言った。そして、眠たそうなスーの頭を小鳥の羽をそろえてやるように指先でそっと不器用に撫でた。スーは目をパチパチさせた。
そのあと、誰も口を開かなかった。ヨージは欠伸をし、私はカプチーノをフーフーして飲み、ケントは目をつぶり、スーもほとんど寝ていた。
あの時、私たちは少しだけ幸せだったと思う。まるで、目に見えぬ小さなクリスマスツリーを囲んでいるようで、私たちはいつもより、少しだけ、いや、案外格段と幸せだったのかもしれない。
スーを送り届けたあと、ケントと私は、ジェイクのアパートに寄ると言うヨージと別れた。まだ夜は浅かった。
私たちはトニー・バルディリスが働いていた店よりは少しましなカフェに入った。ケントはローストビーフサンドで、私はフレンチディップを注文した。
「悪くはなかったな」
「うん」
「ツリーライティングセレモニーなんて久しぶりだ」
「うん」
「シルバに会えて良かったよ。まさか日本人のフィーラーに会えるとは思わなかった」
「そう?」
「メタ族が出てきてから、まだ数年だ。メタ族はさ、外見は変わっても心は元のままなんだ。ただどの層でもその変身した体を晒す。コモン族の層で見つかったら、まさに化け物扱いだ。家族ですらその変わり果てた姿に徐々に気持ちが離れていく。まさにカフカの世界だ。そして…」
そこでケントは私を見つめ、言った。
「そのメタ族はなぜか日本で多く現れてる」
「日本で?」
お店を出ると私たちはゆっくり歩いた。
「スーを見てると希望がもてるな」
「そうね」
ケントの傷はメタ族を捕らえようとした男から守ろうとしたとき斬りつけられたのだという。その際に相手にも怪我を負わせたのでしばらく身を隠したかったらしい。そのメタは女性で今はケントの母親のグループが安全なところに匿っている。
そういった場所は日本にもあるのだろうか。日本のメタ族はどういう扱いを受けているのだろう。受けるのだろう。
私に何かできるだろうか。いまだにミドルーオブーノーウェアって感じの自分が。自分の居場所も行き場所もわからない自分が。
その夜、夢を見た。一面の砂漠が広がっている。銀色の砂…。風紋が美しい砂漠……。何が見える?
ツウィンクルツウィンクル…スーの歌声が聞こえてくる。
ツリーだ。砂漠にクリスマスツリー。
砂の中に一本のツリー。そのらしからぬ光景に私は微笑む。
そう、砂漠にクリスマスツリー…。
砂上のツリー。
いい。凄くいい。突拍子もなくて凄くいい。
灯りは? 灯りはついてんのかい? 誰かの声がする。
ううん、まだついてないのよ。それに砂ぼこりで、近づいてみるまでツリーだってのもはっきりわかんないくらいなの。でもね、近づいてみると確かにツリーなのよ。そのてっぺんにはあの星がついてんの。ほら、スーが目を丸くして見てたあの大きな星。
灯りはそのうちつくんだね? また声がする。
そうねえ。つかないとは言えないわ。
でもそれにはエネルギーが必要だ。エネルギーって何だろう。わかってるのはバルディリスの蝿みたいな「妄想」なんかじゃないってこと…。大人になったら素敵なことをいっぱいするの、スーは言った。素敵なこと…か。素敵なこと…。ソファに寝転んで歌を歌う…そんなことより素敵なこと…。
スーを囲んでのツリーライティングセレモニー。これを小さな素敵と呼んでも構わない気がした。そんな素敵の一つ一つが砂上のツリーに灯りを灯す。
目が覚めた。隣にケントがいた。私はケントの額を撫ぜた。ケントが愛おしく思えた。こんな気持ちは久しぶりだった。
ケントが私を見た。ケントを見つめる…と、見えてきた。不思議なことに見えてきた。desperate!のジャケットが似合ったころの眼光鋭き若きケントが。
実際はそんな気がしただけかもしれない。見えたらいいな、そんな気がしただけかもしれない。
何かがとても静かだった。静かで、とても穏やかだった。
翌日、ケントは出ていった。
それからしばらくして私は自分の体に命が宿ったことを知った。日本に帰ろう。決心した。
それからいろんなことがあった。話し出したらきりがない。ケントとは連絡は取り続けた。ロコの写真も送った。一度だけ、日本に会いに来て、私たちは数ヶ月一緒に過ごした。そして、私はインテグリティの一人となり、小さな三階建てのビルを借りた。ルネビルだ。
ヨージはジェイクと別れ、スーは念願の仔犬を飼った。
ケントのことを思うとき、ほんの時々だけど、あの時感じた静かで楽観的な気持ちを思い出す。ツリーライティングセレモニーの魔法の余韻だったのかもしれないあの穏やかな気持ち。でもそれは長くは続かない。砂漠を舞う砂塵のように不安が心の底から湧き上がってくる。
今が妄想と偏見生み出す乾期だったとしても悲観することはないのかも…。ミドルーオブーノーウェアでも小さな素敵は探せるはず。静の中にエネルギーをため…静かな暖かさを感じたら、小さな素敵が生れるだろう。小さな素敵が生れたら、小さなエネルギーにつながるはず…。
そしたら、ツリーに明かりか灯る。砂上のツリーに明かりが灯る。
砂上のクリスマスツリー…。そこへカモメが飛んでくる。ホームレスから餌を漁ってたあのアグリーなカモメかもしれないけど、飛んでくる様は潔く美しい。
飛んできて、休息にツリーにとまるのだ。
すると小さな明かりがつく。
一つだけポッと明かりがつく。自家発電の小さな光。
ツリーライテイングセレモニー。
海が近いに違いない。
意外なことが意外な時に起きる…。
こんなことが起ろうとは思ってもみなかった。
うっすら目を開けると、梅雨明けの陽射しがまぶしかった。レースのカーテン越しに薄緑色のモミジの葉が揺れている。
目が覚めた時はほんのきしみ程度の変化だった。
体の中のどこかがジジ、ジジと音をたてている。
微かではあったが毅然としたきしみだった。目を開けると、部屋の隅に自分で脱いだのか、着ていたはずの下着とパジャマがくしゃっと固まっているのが見えた。
次の瞬間仰天した。タオルケットのかけられていない自分の膝から上が目に入って仰天した。
まさに…仰天した。
自分の慣れ親しんだ体ではない。それどころか、理解不能な物体になっている。頭がぐるぐる回りだしたとき、「マモル。そろそろ起きたほうがいいわよ」
カサカサした妻の声がした。冷たい、というよりカサカサした声。
マスター・オブ・ザ・ユニバース。トム・ウルフの小説の主人公が言う。マスター・オブ・ザ・ユニーバース…。世界、いや宇宙をも支配しているかのごとくの達成感。そして支配感。高揚した気持ち…。
昨日まではそんな気持ちを抱えていたはずだ。
思い切って転職してから、収入はうなぎのぼりだった。5、6年前の機械メーカー勤めだったころが嘘のようだった。毎日、妻のお弁当を持って通っていたころ、妻は今より15キロは細く、皮肉と冷たい視線とも無縁で、僕は平凡さにそこそこ満足していた。
「もう起きないとだめなんじゃない? お客さんが来るんでしょ」
妻の声が響く。
な、なんなのだ。このきしみと、この不思議な体は。
目を閉じてみる。夢から覚めることを願う。体のきしみは続いている。特に首と背中と脚の関節と…。体の遠くで感じた小さなきしみは、今、体の表面全体に広がっていた。確実にきしみが広く深く進行している。
夢の中で夢だったらどんなにいいだろうと思い、手をつねってみるがやはり現実で…ひどく落ち込んでいると目が覚める。そんなことが何度もあった。これだってそうに違いない。現実だとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しい。
妻が階段を上がってくる足音がする。妻が物置にしていた小さな部屋を自分の書斎と称して寝室を分けてから四年になる。
触れる回数で親愛の度合いが決まるなら、冷蔵庫は極めて親愛なものとなる。電子レンジもかなりのものだ。コーヒーメーカー、トースター、テーブル、椅子。便器のカバー。しかし触れないにしては妻の存在感は圧倒的だった。最近の彼女は無関心を装った批判と諦めに満ちた視線で空気をぐいぐい押してきた。
妻とは入社五年目に出会った。麻子は総務課の雑用をしていたが、3人官女の一人のようなこじんまりした顔に何気ない愛らしさがあった。エリート大卒の社員に人気が集中する中、どこといって取り柄のない僕を少し気に入ったようだった。あとで聞くとゴキブリ事件のとき毅然としていたからだという。
ゴキブリ事件…それは社内の飲み会の後のことだった。翌日に控えたプレゼンの資料を忘れたという同僚に付き合って、皆でぞろぞろと会社の大部屋に入っていった。電気をつけると、10数匹のゴキブリが一斉に飛んできた。ゴキブリの奇襲。暗闇に隠れて時が熟するのを待っていたかのごとく入ってきた人間を一斉に襲う…。実際は明かりと人間が発する臭いなのか熱なのかに刺激を受け、一斉に飛んできというのが正解なのだろう。
皆、ゴキブリが一匹たりとも飛んだところを見たことないものだから、その時の混沌といったらなかった。
あ~~~~~!
お~~~~~~!
確か男六人と女四人だったが、点数主義のカズキも、爽やか好青年系のジュンヤも血相を変えて逃げまどった。シュンヤは鼻を机の角にぶつけ、大げさなほどの鼻血をポタポタまき散らした。
その中で僕だけが落ち着いていたらしい。1、2匹、僕のところへ来たゴキブリを軽く手で振り払い、麻子の方を見て、大丈夫だよ、と仏のごとく微笑んだという。よだれを垂らさんばかりに大声で叫び続ける他の男どもに比べ、凛々しい僕からは後光が差して見えたのだそうだ。
それから1年ばかりあとの結婚式では、ゴキブリの取り持つ縁という有難くもないスピーチで盛り上がった。
麻子の階段を上がる足音が近づいてきた。ラスト三段くらいか…。今にもドアが、と思ったとき、「あら!」とパタパタ階段を下りていく。ケトルがピーピー鳴り始めた。
とりあえず僕は起き上がってみることにした。この体ではとても無理なのでは、と思ったが、勢いをつけるとコロッという感じで起き上がることができた。
見れば見るほどグロテスクだった。硬くてひだのようになった腹。体全体が茶色だ。中古車の車体のような色褪せた茶色。
手のひらを上にして腕をあげてみた。体の割に細い腕、小さな手、細い指。ウゥッと声にならない声をあげそうになったが、その割に妙に落ち着いている。何なのだ?この妙に落ち着いて観察している自分は…。虫のようにぎざぎざではなく、5本の指、細くて節々っぽく体と同じ色ではあるが、5本の指がある手。指を曲げようとすると、普段とさほど変わらず一本一本曲げることができた。
そしてガニ股気味な茶色の奇妙な脚。質感、細さ、色は虫であるが、形は人間らしさを残している。昆虫の足に人間の足のエッセンスをふりかけたような脚だ。足の先はあの昆虫独特のぎざぎざではなく、何かの動物、爬虫類か?のようで指すらきちんと5本ある。普段は27センチの靴を履くのだが、今では20センチあるかないかに見える。脚全体の長さは60センチくらいか。小さな脚でころりとしたかなり重たげな体を支えている。
そのとき、脇腹からなにかがぶらぶらしているのに気がついた。な、なんだ、これは…。
そうか、昆虫なら足は6本か。左右の脇腹についているその二本の物体は、動かそうとするが感覚がなく、仮装大会の衣装のように形だけつけたようだった。足のような、手のような…その奇妙な物体はぶらぶらしているだけで、動こうとはしない。不思議なもので、自分の意思で動く手と足に関しては、見かけにかかわらず僅かながら親しみに似た感情でその存在を認めつつあるのに、脇腹から出ているそのぶらんとしたやつだけは不気味だった。ひっこぬきたい衝動にすらかられた。
なんとか状況を把握しようと、しばらく立っていた。細い脚が丸い大きな体を支えていることが不思議だったが、立っていて違和感はない。一歩二歩と前後に脚を動かしてみる。
やはりこれは夢だ。この状況にもかかわらずこんなに冷静でいられるのは夢だからだ。自分は裸なのか。すっぽんぽんってことか。何かを腰に巻くべきか…など思ったりできるのも、やはりいつかは覚める夢だからだろう。
けれどピーピーケトルをとめた妻は現実味を帯びた足音で再び階段を上がってきている。
麻子が僕を見たら、どうなるんだ。顔を見て僕だとわかるのか。顔… そうだ顔は? 体は確認できたが顔は? くるっと見回すが、この部屋には鏡がない。前足、いや手で顔を触ってみる。硬質…。顔があるべきところを触っているのに全く未知なものに触っている。自分の顔であって顔でない。妻が見たら、妻が見たら…なんというだろう。
ああ~~~~~!
きゃ~~~~!
皆が飛んできたゴキブリに大パニックの中、一人微笑みを浮かべ立っていた妻。田舎育ちで、蝉、てんとう虫、バッタ、イナゴ、バナナ虫、ナナフシ、すべての虫が好きだと言っていた妻。ゴキブリってカブトムシのメスと大して見かけかわらないのに、行動パターンが違って不潔だからって人間に嫌われてかわいそうね、とすら言っていた妻。ゴキブリにさえ優しいコメントをしていたくらいだから、巨大だとしても僕はゴキブリよりましなはずだ。何かの虫には違いないが、頭を触ってみるが触覚もないし、ギザギザの足もない。ぶらんとした脇腹から出た足以外は大丈夫だ。大した根拠もないのに、大丈夫だ!と自分に言い聞かせた。
あの微笑みを浮かべ立っていた妻は二十年を経て変わっただろうか。
麻子も自分も確かに変わった。二人の関係も変わった。
香澄の顔が浮かんだ。可憐で人懐っい香澄。女性に格付けなどしたくないが、もしするとしたらトップシェルフにおかれるだろう香澄。
では麻子はどこに置くべきか。
麻子は階段の最後の数段をひどく重い足取りで上がってきた。小鹿のように駆け上がっていた時もあったが、今はポテポテとしている。
「起きてるの?」
「あ…うん」
声が…出た。少し金属音がかっているが声が出せた。そもそも虫は羽をこすり合わせて鳴くのだ。虫は口から音を発することがあるのか。食べ物を噛み砕く以外に口を使うことはあるのか。
戸が開く。その瞬間、僕はころんと後ろ向きに倒れた。大きな虫が立っているより横になっていた方が威圧感が少ないと思ったのだ。
倒れた瞬間、目をつぶった。夢であるように祈った。目を開けると目が覚めていますように。
目を開ける。…パジャマの上にエプロンをつけた麻子が立っている。ファッション度外視のメガネをかけ、髪をひっつめた麻子はいつもより大きく見えた。夜ひとりでスィーツを食べるのがここ数年のくせになっている麻子は一段と丸々してむくんで見えた。
目が合った。
うっとしたように妻はひるんだ。顎をひいて僕を凝視する。僕は怖がらせないようにできるだけじっとする。1ミリたりとも動かぬように。しかしどうしても目だけがぐりぐり動くのをとめられない。
「どしたの?」
驚いたことに麻子は意外に静かな、それでいてすぱんとした声で言った。
「どしちゃったの?」
近くにきてすとんと膝をついた。夢だ。夢でしかない。僕は安堵した。現実だったら虫になった夫を見て「どしちゃったの」で済ます妻はいない。
「ねえ、どしちゃったの?」
麻子は僕が登校拒否ならぬ登社拒否をしてぐずっているかのように言った。
「わからないんだ」
やはりちょっと金属音だった。
「あら、しゃべれるのね」
「僕だってわかる?」
「わかるわよ」
「なぜ?」
麻子はナイトテーブルの引き出しを開けた。まだ寝室が一緒だったころ、妻が使っていたナイトテーブル。そこから小さな手鏡を取り出し、僕に差し出した。
僕はそれを手にとり、覗き込んだ。恐る恐る…。
昆虫をアニメにしたときのような顔だった。擬人化。バグズライフにしてもアンツにしても、出てくる虫たちは決してぎざぎざした口を持っていない。僕の顔は人間と昆虫の中間だった。いや、中間より…人間よりだ。ハエの遺伝子が入った男がどんどんハエになっていくという映画があったが、その主人公よりはずっと愛嬌がある顔だ。目だけはそっくり僕のものだし。僕の目が硬質の顔の中に埋め込まれ、ぱちぱちしている。
「ね、マモルでしょ」
僕はうなづいた。
「で、大丈夫なの? 具合は悪くないの? 息が苦しいとか」
「いや、気分は悪くない」
もちろん気分は最悪だったが、体調は悪くはないと思った。
「それはよかった」
夢以外の何物でもない。虫になった僕の体調を心配しているのだ。僕たちはしばし見つめ合った。じっと見つめ合うなんて何年ぶりだろう。毎日会っているはずの麻子は記憶の中より優しく見えた。すっぴんの肌にそばかすが浮き上がっていた。香澄と違い、生活臭に満ちた妻の顔をまじまじ見て変わったなと思い、おかしくなった。今まさに大きく変わったのは僕の方なのだ。
数日前、荘太が「変身」の本を読んでいた。
「へーえ、カフカ読んでんのか」
「指定図書なんだよ。仕方ねえよ」
荘太ちゃんはなんて品よくって可愛いんでしょ、それに比べたらうちのは野生のアライグマよっなんて二軒隣の米沢さんが言うのよ、と妻から聞かされたのはいつのことだったか。
荘太は自分によく似ている。そう思わないでもなかった。僕の顔は意外に整っているのだ。高1になった荘太は前髪を伸ばし妙に身なりに気を使うようになっていた。不良とは程遠く歳の割には扱いやすいのだろうが、父と子としての関係は以前より遠くなったように感じていた。
「ヘンシン、ヘンシン」
本のタイトルを翔太が繰り返した。
「ヘンシン、ヘンシン」
意味というより音を楽しんでいるようだった。
翔太は、声変わりする前は、男の子にしても甲高い声だったが、声変わりをした今は僕より低く、声を聞いたらその幼い話し方が意味することは明らかだった。
ヘンシン、ヘンシン。そう言いながらテーブルの周りを翔太は回りだした。独り言のようでもあり、周りからの働きかけを待っているようでもあった。
翔太にどう接していいのか、ひどく悩んだ。翔太の話しかけに一生懸命答えたつもりでも「あー、それ、ただの独り言なの」と麻子に言われることもあれば、独り言だとほっておいたとき、「どうして答えてやらないの」となじられたこともあった。
翔太は体は随分大きくなったが、顔は麻子に似て丸く幼い感じだった。時折、彼の世界に僕が存在しているとわかるときがあった。笑いかけるとにっこり笑い返してくれた。手を差し出すと指先にちょんちょんと触れてくれることもあった。
「ねえ、お母さんがいきなり虫になっちゃったらどうする?」
麻子が翔太に聞いた。
「虫って大きいやつ? 小さいやつ?」
「うん、小さめ」
「蚊くらい? 昨日そこの壁にいた蜘蛛くらい?それともカナワ君が飼っていたカブトムシくらい?」
「う~~ん」
「2センチくらい?」
「それよりさ、この本みたいに、そのままの大きさで虫になるってのがいいんじゃないかな」 荘太が言う。
「そのままって幅が? それとも長さ?」
「そうだよな、翔太、いいとこに気がついたよな。長さ、身長がそのままで虫になるってことはさ、しかも甲虫系だったらさ、すごーくヒュージだよな」
「ヒュージ、ヒュージ、ヒュージ!」
「それじゃ、ドラえもんも顔負けの迫力だわね」
麻子が笑った。これだけは若い頃と変わらない。ころころとした笑い声。
「でも家族が虫になるってやっかいだよな。だんだん面倒になるのわかるよ。なんたって虫だからさ」
荘太が言う。
「虫になったのママだ。ママと同じ。ママと変わりない」
翔太が少し怒ったように言った。
虫か、虫になってこの家から逃げてしまいたい。そのときふとそんなことを思った。逃げて香澄のところへ飛んでいく。香澄の住むマンションへ。
妻は虫人間の僕の目を覗き込んでいる。
「今日は松川さんって方が来る日よね」
麻子の言葉に心臓がコトンとなった。焦るといつもコトンとなる。虫人間になってもコトンとなった。
奥様に会ってみたいの、初めて香澄にそう言われたのは何カ月も前だ。一年以上前か? これ以上断ると香澄が離れていってしまう。香澄を失ってしまう。追いつめられて、うん、とうなづいた。どれほどの数の男が同じような状況に同じようにうなづいたのだろう。
「でも僕からまず話すからさ。実質夫婦であってないようなものだから、妻は逆上したりしないと思うよ。ただ子供がいるしさ」
「いいの、取りあえず会って存在を知っていただくの。奥様に会ってみたいだけなの」
「ちょっとだけ待ってくれるかな」
「どうしようかなあ」
香澄はくすっと笑った。
マモルの部下の松川さんが会いたいんですって、と麻子に告げられたのは、それから数日後だった。
「ああ、仲人を頼まれたからね。君にも会っておきたいいんだろう」
なんて下手な言い訳だろう。
そして今日がその日だった。
「何時だったっけ? 松川君が来るのは?」
口は動かしにくかったが、何とか人間らしい声が出せている。それにしても薄い金属の膜を何枚も通ったかのごとくどこか不自然な声だ。
「11時よ」
11時? 時計を見ると10時45分を指している。
どうする? どうする? どうするんだ。
僕の頭の中では、妻と愛人が出会うという月並みにドラマチックな事態より、いったいこのままでいいのか服を着るべきなのか、今のこの状態は裸なのか、というひどく基本的な問題がきしきし音をたてていた。裸だとするとひどく恥かしいわけだ。
ディール、商談をまとめる。自分にそんな才能があるとは思わなかった。
機械メーカーに勤務して10年を過ぎたころ、頭に fed up with という文字がフラッシュし始めた。
特に英語が得意だったわけでもない。しかしその時、クリアに驚くほどの確かさで fed up with の文字がフラッシュしたのだ。フラッシュした文字は頭の中の広い空間にアクロバット飛行機で描いた文字のようにしばらく浮かび漂ったあとぼやけてていった。
その時、僕は確信した。自分は fed up 飽き飽きしていると。はっきりしないのはそのあとのwith につながるものだった。何に飽き飽きし、うんざりしたのか。仕事になのか。妻なのか。家族になのか。今の状況全てになのか。
そして転職のチャンスが訪れた。自分でも思わぬ隠された才能だった。収入は増え、周りの人間も流れるがごとく一掃され、新しい顔ぶれの中、自己イメージも変化した。新しい自己イメージの構築だった。
「いつもアールグレイですね」
松川という入社数年目の子が言った。クライエントの会社からの帰り、チームで寄ったレストランでのことだった。天井をアンティークのファンが回っていた。壁は天然石なのか人工石なのかと考えていた。そろそろ家も建てたかった。今の中古マンションはメゾネットタイプにしてはお買い得だったが、やはり一から自分の好みに合った家を建ててみたかった。
「香りがいいからね」
僕は微笑んだ。いつもはそんなこと気にしないのに、この微笑みにはえくぼが出ているだろうかと思った。幼いころよりチャームポイントと言われたえくぼだ。
恋愛感情などとは長い間無縁だった。根が真面目なのだ。結婚したら他の女性に興味を持つのはいかがなものか、など古臭い考えを持っていた。
日常生活の水面は平穏だった。平穏さは落ち着きから退屈へと移り、雨を期待し始めていた。水面に揺らぎが欲しかった。その気配を感じさせたのが「いつもアールグレイですね」の言葉だった。
松川香澄との親密さが増すころには、求めていたのは水面の揺らぎだったのか、彼女の微笑みそのものだったのかなどどうでもよくなっていた。幸せ度合いが増したかどうかはわからないが、確かに生活には張りがでていた。
水面の揺らぎは表面だけがさざめいているときは美しい。水の中へ入っていこうとすると水面はそれを受けとめるだけの余裕はあるのかが問題だ。
海ならあるだろう。
湖なら。
池なら。
水たまりなら。
ちっぽけなちっぽけな泥水だったら?
麻子と自分との違和感…。
それはいつ頃始まったんだろう。
麻子にとって重要なことが自分にとっては大したことでなく、自分にとって大事なことが麻子にはどうでもよく、その違いが意外な驚きとして楽しさを与えていた時期を過ぎると、どこまでも続くレールのごとき無味乾燥な平行線へと変化していった。
けれど今は麻子との違和感について考えてている余裕などないはずだ。自分自身の違和感について考えるべきなのだ。
子供には昆虫派と犬猫派があると思う。虫に興味を持つ子と犬猫を代表とする哺乳類に興味を持つ子。もちろん両方に興味を持つものもいれば、どちらにも興味を持たないものもいる。年齢によって興味の対象が変わっていくこともある。
僕は圧倒的に虫派だった。虫の世界は面白かった。兜をまとい毎日戦っているように見えた。掌に虫をのせて観察するのが好きだった。たいていは必死で僕の小さい掌から脱出しようと動きまわったり、跳んだりするのだが、中には僕をじっと見つめるものもいた。彼らにとって僕がどのように見えていたのか今でも理解できないが、その瞬間はお互いの存在を認め合っているように思えた。
犬猫が嫌いだったわけじゃない。ハムスターだってリスだって飼ったし、かわいがった。けれど触れて常に温かい生き物は自分と同じ仲間で驚異の対象ではない。それに対して虫は宇宙生物のごとく僕を魅了した。
だからか多数のゴキブリが飛んできた時も特に驚かなかった。もちろんゴキブリは嫌いだ。けれど騒ぐには値しない。そして今、通常な精神を持つ大人だったら、自分が虫になったと知ったとき、僕のように落ち着いてはいられなかったと思う。その点では自慢していいのでは、など悠長なことも思った。
麻子も虫が苦手ではないのは、今の状況では幸いだった。ケーブルテレビの虫の番組も翔太と一緒に楽しげに見ていた。
「あら、足が一本取れててかわいそう。痛くないのかしら。治せないないものかしらね」
麻子は夫が虫になっていた、というシチュエーションをさほど動揺せずに受け止められる稀有な人物だと思う。虫人間になって麻子の良さに気付かされたわけだ。
それにしてもこの状態が僕に降りかかってきたということは、何か必然性があったのだろうか。
「松川さんがいらっしゃったわよ」
麻子が言った。僕が焦るか見てやろう、という意地の悪い声でもなければ、虫になった夫の妻としての動揺も感じられない。「あなた、クリーニングはワイシャツ一枚でしたっけ、二枚でしたっけ」くらいの何気なさだった。
僕は薄手のタオルケットを腰に巻いた。そんなことをしたって香澄の前に顔を出せるはずもないのに、おたおたと短く細い足で部屋の中をぐるぐるした。バネをまくとかたかたを動く夜店で売っていたおもちゃを思い出した。ウサギか? ネズミか? 虫ではなかったと思う。
麻子が入ると、タオルを巻いた僕を見た。吹き出すわけでもなく馬鹿にするでもなく穏やかな視線だった。
「松川さんに会わないわよね」
「会えるわけない…」
「そうよね。それより病院行く?」
「何科に?」
二人で困ったように笑った。
「麻子…。実は松川くんの用ってのは」
「わかってるわよ。大体のところ」
麻子は淡々としていた。
「とりあえず話を聞いておくわね」
「ありがとう」
金属音のビブラートがかった声で、僕は感謝した。僕は本当にありがたい…と感謝した。
麻子が出ていき、僕は布団にころんと横になった。むくんだときによくするように、足を上げてトントンと踵を合わせようとしたが、茶色の硬くて細い足の異様さにやる気が失せてしまった。
目をつぶる。香澄の笑顔が浮かんでくる。香澄と生活する…。何度も思い描いたが、その度になぜだかわからないが必ず翔太の「ユウビン、ユウビン」という声が頭に響いてきた。翔太は郵便物が好きだった。テーブルに並べて切手や印刷された文字を飽きもせず見つめていた。自分には荘太と翔太という子供がいる。特に翔太には一生守ってやる親が必要だ。妻以外に好きな人が出来たからといって家を出るわけにはいかない…。
急に麻子と香澄の会話が気になってきた。僕はなんとか立ちあがろうとした。
よっこいしょ…。丸っこい腹。細い足でふんばる。立ちあがってはみたが歩こうとするとひょこひょこする。客間に行くには階段を下りなければならないが、そんなことができるのだろうか。
階段を下りるなんて最初は不可能に思えた。階段を前にそれでも恐る恐る足を出してみた。体の割にバランスの悪い細い脚。チッ。細すぎるだろうが。虫になった自分の脚に悪態をついてみる。
一段目はうまく下りれた。二段目、三段目、なんとかオッケー。ところが四段目で足がぐらっときた。手すりをつかもうにも慣れない腕の長さのせいか、つかみ損ねる。次の瞬間、ごろっごろっと体が階段を転がった。
何とか三段を残したことろで足を広げて止めることができた。麻子や香澄が音と振動に驚いて出てくるのではと息を殺したが、特に動きはないようだ。なんとか立ち上がりながら、虫人間の僕に青あざはできないのだろうな、など思っていた。ただ、打った肘や膝や腰は外見が人間のときと同じくひどく痛んだ。
用心してゆっくり確実に客間のドアに近づき、耳をあててみる。少し興奮気味の香澄の声が聞こえてきた。
「マモルさんはどこなんですか? どうしてここにいらっしゃらないんですか? 二人で奥さんに話すって約束しましたのに」
「すみませんね。本人、ちょっと顔を出せない事情があって」
「私がお話すべきことは聞いていただきましたので、あとはマモルさんと一緒でないと…。これからのこと決めなくちゃなりませんし」
「ええ…。そのうち本人も交えて…。でも今日はちょっと無理なんですよ」
「ご在宅なんですよね。仮病とか使ってるわけじゃありませんよね」
「仮病…。病気といえば病気、といえるのかもしれませんけど」
「どこが悪いんですか?」
「あの…。松川さん…虫は好きですか?」
「虫? なんで虫なんですか? 虫は大嫌いです。それにしてもなんで虫! 虫なんですか!」
香澄の苛々した声が響いた。香澄はたいていは穏やかなのだが、緊張すると声高に攻撃的になる。
僕は耳をドアに押し当てていたが、耳たぶがあるわけではないので、押し当てた場所に耳があるのかもわからなかった。ただ声はよく聞こえてきた。
「あ、ちょ、ちょっとお待ちください」
麻子の声がしたかと思うと、戸が開き、僕はぐいっと戸に押された。突然開いたので、耳を押しあてていた僕はバランスを失って後ろに倒れた。
僕の倒れる音と香澄のきゃあぁぁぁぁぁ!という声が同時だった。
僕は必死で起き上がろうとした。両手両足をバタバタさせ、脇腹から出た二本の脚をぶらぶらさせ、なんとか必死で起き上がろうとしたが起き上がれない。
そんな僕を香澄は廊下に立ててあったモップ用の棒を手にもの凄い形相で殴りつけてきた。殴りながら、ありょ~~!ともおりゃ~~!ともつかない声をあげる。
そしてジャンプすらしそうな勢いで思いっきり殴りつけた。
脳天に衝撃が走った。正に電気を帯びた大きな石を頭に振り下ろされたような衝撃だった。
「ちょ!ちょっと待って! やめて! 主人なんですから! 主人なんですよ!」
香澄はその声にも躊躇することなく、廊下の隅に追いつめられ痛みに動きをとめた僕を何度も殴りつけ、さらに突こうとする。
はっ!
香澄は棒を力いっぱい僕に向かって突いた。
ガリっ!とも ボリッ! ともつかぬ音がした。
その瞬間、脇腹がずーんと痛んだ。
棒が刺さった…。
香澄は今度は棒を勢いよく引き抜いた。
さらなる激しい痛みが僕を襲う。香澄はさらに剣道の構えをすると僕の頭めがけて振り下ろした。
「やめて! やめて下さい! 主人なんですから!」
麻子の声も耳に入らぬようで、ギョェッ!という声とともに面!とばかりに、僕の頭に強打をあびせた。
失いつつある意識の中で一瞬、香澄と目が合ったように思う。香澄は殺気じみた目で再び剣道の構えをしていた。
頭が痛かった。体も痛かった。気がつくと廊下に一人転がっていた。麻子も香澄もいない。
廊下の隅にはさまったようになっている頭をかろうじて動かし、何とか起き上がろうとした。いたたたたたっ! 思わず声が出た。それでもゆっくり立ちあがろうとすると、ことっと何かが落ちた。
脚だ……。
落ちたのは脚だった。脇腹から出ていた形だけの脚がくの字形になって落ちている。
脇腹を見ると、香澄に棒で突かれたところに7センチほどの穴があき、その横に10センチばかりの縦長の傷があった。ここから脚が抜けたのだ。
血が出ている。少し色が薄い気もするが赤い血だ。虫なら緑色の血のはずだ。とすると、この硬い皮膚の下は人間なのか。哺乳類のままなのか。
僕は50センチばかりの脚を拾い上げ、脇腹に差し込もうとしたが、やめた。痛そうだし、もともと機能していなかった脚だ。もう片方も引っこ抜きたい衝動にかられたが止めておいた。
「マモル、大丈夫?」
麻子が小走りにやってきた。
「松川さん追い出すのどれどけ大変だったか。凄いわね。カンフー並みの棒使いね。奇声も凄かったわ。嫌がらせですか!嫌がらせですか!!って」
「えっ?」
「どうやら嫌がらせで大きな虫を用意したと思ったらしいわ」
「・・・・・・」
「痛いでしょ。病院に行かなきゃね」
「何科に?」
僕たちは笑った。ハハッ ハハッと大笑いした。脇腹がひどく痛んだ。頭も痛い。肩も胸も、体じゅう痛かった。
「とりあえずリビングのソファで横になってね。階段上がるの無理でしょ。わたし、どこに相談したらいいか考えるわ」
結局どこにも相談しないまま夕方になった。こんなことを相談する場所なんて見つかるはずもない。
頭痛は少し楽になったが脇腹の痛みは時間とともひどくなっていた。
「ロキソニン効くのかな」
麻子が水の入ったコップとロキソニン錠を持ってきた。
痛みをこらえながら、リビングのソファに横になっていた。太い体はソファから半分くらいはみ出しているが、どうにか落ちずにいられた。脇腹は麻子が消毒し、大きめのガーゼを何重にも貼ってくれた。
「ただいま!」
翔太だ。どうしよう、と目で問う僕に、麻子は「大丈夫よ。動かないで」と言う。
「翔太、お帰り! おやつ、買う時間なかったんだけど、昨日のシュークリームならあるわよ。夕ご飯の準備もちょっとわけがあってまだなんだけど、簡単に作れるものすぐに用意してあげましょうね。それよりね翔太、ちょっと大切な話なんだけど」
「なに、ママ、なに?」
「あのね、パパが虫になったの。ううん、パパはパパだけど、見かけがちょっと虫っぽくなったの。でもパパに変わりはないの」
「ふーん、虫だ。パパ、虫になった?」
翔太はそう言いながらリビングに入ってきた。そして少しはなれたところで僕をしばらく見ていたが、近づいてきて顔を覗き込んだ。
「パパ、虫になっちゃった?」
「うん。ま、そんなとこだ」
「声、変った。でも虫じゃない。話せる。脚も違う。目はパパ。色は虫。皮膚も虫。でもパパ。口もパパ」
僕はなんだか嬉しくなった。同時にひどく情けなくもあった。
「そうだ!」
翔太はそう言い、自分の部屋に行くと封筒を持ってきた。翔太の集めている郵便物の中から一つの封筒を持ってきた。
「ほら!」
それは保険会社からの内容説明の手紙が入っていた封筒だった。
「ほら!」
翔太が指差したのは切手だった。虫の切手だ。蛍のような長細い虫の切手だ。
「ほら、顔、ない。目はあるけど顔ない」
そういって僕の顔をのぞきこんでいたが、再び「そうだ!」っと言って駆け出した。
次に翔太が持ってきたのはごきぶりホイホイだった。台所の隅に随分長い間しかけっぱなしにしていたものだ。
「見て!」
翔太は開けて見せた。一匹、かなりの大きさのゴキブリがかかっている。随分前にかかったのか、水分が抜け乾燥し、平たくなって形が崩れかけている。足が一本とれて2センチほどはなれたところについている。
「ほら、顔ない。人間の顔ない。パパと違う」
そう言って、ごきぶりホイホイを僕の顔に近づける。
「パパは顔ある。パパはパパ」
僕は切なかった。涙はこぼれなかったが、本当は涙を流して泣きたかった。そんな僕たちを麻子は少し離れた椅子にすわって見ている。
やがて荘太も帰ってくるだろう。荘太はどう言うだろう。そして僕はいつまでこのままなのだ。
片手に虫の切手の封筒、片手にごきぶりホイホイを持ちながら、僕は心から夢であることを願った。
目が覚めたら、僕は昨日とは違った日を過ごしていきたいと思った。
ただ、漠然と、これは夢ではないと感じている。
その漠然とした確かさはどんどんはっきりとした確かさへ形を変えていき、僕の丸々とした体を満たしつつあった。
事務所への階段を急いで上った。三階なので、急いでいるときはエレベータより駆け上がる方がはやい。
山岸さんのことが急を要する。
マンションの隣に住む山岸さん一家。ミクが小さい頃はよく上のお兄ちゃんに遊んでもらった。山岸さんの奥さんとは時折一緒にコーヒーを飲む。大抵はどちらかのダイニングでだが。大昔、もしも学生時代に会っていたら、親友になれたのかもしれない。いや、無理か。あの頃の自分は誰とも友達になれなかった。
最近、ちょっと気になるのはそのお兄ちゃん、荘太くんのことだ。ここ一年で急に背が伸びた彼、数日前、チッと舌打ちしながらコンビニから出てきたが、その様子が気になった。以前の自分に重なったのかもしれない。大した理由もなくイライラしていた大昔の自分に。
そんな自分を思い出すたび、必ず母を思い出す。
階段途中で足をとめた。
お母さん…。
☆
あの日、私は小さなアパートにたたずんでいた。洗面所の鏡は右下に細かい割れ目が入っている。
鏡をじっくり見るのなど久しぶりだった。左手にはハサミ。
まずはオレンジの部分を切った。次にピンクのところ。パープルの前髪も切る。染め直す、という手もあったが、伸びすぎていたので、色の着いたところを切ることにした。色を全部取り去ると、かなりのショートになった。床にはカラフルに髪が散らばっている。
次に爪を切った。マニュキュアは剥げていて、でこぼこで白っぽくつやがない。痛くないぎりぎりの長さに切った。
次に眉を丁寧に、ごく普通の人、という感じで描いてみた。穏やかな感じに。顔色は悪く、肌は荒れていた。
そしてベージュのシンプルなワンピースに手を通した。
鏡を見ると、別人だった。自分であって自分でない。手をパン!と打った。なぜかわからないけれど、手をパン!と打った。心がざわざわした。
アパートの鍵を閉めるときには、心のざわざわは痛いほどになっていた。
病院に着くと、パピーが教えてくれた階と部屋番号を頭で復唱した。
仔犬のように可愛かったので、私は妹をパピーと呼んだ。お姉ちゃん、と呼び、どこでもついてくる、小さい頃は本当に可愛い子だった。
私が家を出て長かった。限りなく長かった。今考えると、親はさほど理不尽でもなく、パピーも良すぎる子だった。なのに家を出た。一人で荒れて家を出た。父はそれから数年後事故で亡くなった。
家を出てからも荒れたままだった。生活が荒れていた。心が荒れていた。態度が荒れていた。時の流れにも、荒れて対処した。荒れが似合う歳を過ぎても、荒れる以外、術を知らなかった。
エレベータで七階まで上がった。教えられた番号の部屋の前には四つの札があった。三つの札に三つの名前。どれも違う。四つ目は空欄だった。通りかかった看護師に、患者の名前を告げると、ご家族ですか?と聞かれ、私は口ごもった。
緊急集中ユニットに移されたと聞き、三階まで降りた。ユニットのガラス戸の前で私は動けなくなった。
一瞬、何で、髪切ったり、爪切ったり、いつもは着ない服を着てここにいるんだろ、ってわからなくなった。そうしなければって思ったわけを考えた。母が「下品」な感じが嫌いだったからだろうか。
電話でパピーは母の病状がよくないと言った。会うなら今会っておかないと、と。
パピー…。
母とパピーのことを考え、胸の圧迫が強くなったとき、緊急治療ユニットのガラス戸の向こうにパピーが見えた。こちらに歩いてくる。
確かにパピーだった。隣にいるのはパピーの旦那だろうか。
私は焦って、少し後ずさりをした。そしてくるっと反対を向き、トイレのある細い通路に隠れた。
「こんなに急だなんて」
声が聞こえてきた。パピーの声だ。泣いている。
「心の準備できてないよな」 パピーの旦那らしき者の声…。
胸が早く打ち始めた。壊れた機械みたいだった。私は壊れていた。
病院を出て向かいのファミレスに入った。
頭も心も真っ白だった。真っ白ではなく濁った灰色か…。オーダーしたつもりもないのに、パンケーキとコーヒーが運ばれてきた。
パンケーキにフォークを突き刺しながら、なぜか、「グロリア」という映画を思い出した。古い方だ。リメイクじゃない方だ。その中で主役の訳ありの中年の女が、ギャングに家族を殺された男の子を墓地に連れて行き、こう言うのだ。どのお墓でもいいから、家族のだと思って話してごらん。祈ってごらん。
なんで、グロリアを思い出したのかわからない。その中で男の子が父親をパピーって呼んでいたからか。
何しに来たんだろ。謝りに来たのか。ただ生きてるうちに会いたかったのか。母が誇りに思っていたのはパピーであって私ではない。一度たりとも母は私のことを誇りに思ったことがあったのだろうか。でも、愛してくれた、とは思う。事故で亡くなった父も愛してくれたと思う。パピーも慕ってくれていた。少なくともそんな頃があった。
ファミレスを出ると、再び、病院のエレベータに乗った。指は緊急 ユニットのある3階ではなく7階を押していた。母が何日も過ごしただろう7階の部屋へ足が向いていた。
面会時間だからか、カーテンで仕切られたベッドの周りから声が聞こえてくる。一つだけシーツがはぎ取られ、カーテンで隠されていないベッド。ここに母は横たわっていたのだ。
触れてみた。ベッドの端に触れてみた。左手で。私は左利きだった。左手で字の練習をする私を心配そうに見つめていた母の顔を思い出した。
お母さん、家を出てから、私はずっと荒れていました。変えたいとはずっと思っていました。でも変えれませんでした。お酒も飲み過ぎています。家を出てから、私はずっと荒れています。自分でもなぜパピーと自分がこんなに違うのかわかりませんでした。今でもわかりません。
今度は右手で母の枕があったであろうところを触った。
祈ろうとしていた…と思う。でも祈れなかった。何に祈るのか、祈りの意味さえわからないまま、シーツのないベッドのマットレスを見つめていた。
あら。その声に振り向くと、丸顔の看護師が私を見ていた。
あ、すみません。間違えたみたいで。
もごもご言って部屋を出た。
母に会いたかった…のか。パピーに会いたいのか。でもやっぱり会えない。荒れた私は会えない。母が亡くなった今、会えない。パピーと二人で母の手を握るというシナリオは消失してしまった。
病院から出ると、心が冷たく固まっていた。心の乱れはさほど感じていない…。悲しみが強すぎたわけでもないと思う。ただ心が冷たく固く固く…。
頭の中で、映画の男の子が叫ぶ。パピーに会いたい。ママに会いたい。
私は誰に会いたいのだろう。会いたかったのだろう。
しばらくあてもなく歩いた。短髪、短爪、ローヒール、姿を変えても、中身は同じだった。
ポケットに手を入れると、ファミレスの勘定書が出てきた。どうやら払わずに出てしまったようだ。
戻るか… そうつぶやいた。
レジで支払っていると、道路を隔てた病院の門からパピーと旦那とそれにさっきはいなかった男の子が出てくるのが見えた。パピーは泣いている。男の子は何かの模型を持っている。グロリアに出ていた男の子と同じくらいの年齢だろうか…。
私は動きをとめ、どうしたものか、と考えた。荒れている、ではなく、荒れていた、の自分だったら会えるのに…そんなふうに思った。
荒れていました、以前は荒れていました…荒れています、でなくて荒れていました、って言えるようになれたら…まずはそこから始められるだろうか…。
目をつぶると幼い自分が見える…そんな気がした。グロリアの中の男の子のように、手を合わせ、うなだれて祈る幼い自分が見える…そんな気がした。
必要なのは、祈る場所ではなく祈りそのものなのだ。そう思ったら、涙がこぼれてきた。
☆
あの日を思い出すと今でも胸が熱くなる。あの時、私は震えていた。くちびるが震えていた。肩が震えていた。
そして気づいたのだ。震えているのはくちびるではなく心だ、と。
それ以来、何度も何度も繰り返したこの気づき。
あの日、ファミレスを出たところで声をかけられた。
「落とされましたよ」 ビブラートのかかったハスキーな声だった。
振り向くと、ハサミを手に私よりさらに短髪の女が立っていた。
ハサミ? ハサミなどバックに入れていたのか?
その人物が手にしていたのは確かに私が髪を切った左利き用のハサミだった。
それがシルバとの出会いだった。
山岸さんのとこの下の子はショウタくん、という。小さい頃からかわいらしい知的な顔をしていた。「言葉の発達が遅くて」山岸さんはさほど気にしてるふうもなく言った。数日前会ったショウタくんは少し流れるような視線で「こんにちは!」と言った。その声が随分低くなっていたのに驚き、わあ!すっかりお兄ちゃんになったね!と言いたかったが、ゆっくり「こんにちは。ショウくん」と言うにとどめておいた。
「この子、大きな刺激が苦手なんです。ヘッドライトにあたった鹿って英語があるでしょ、その言葉聞いたとき、そんな感じだなって思ったんです。鹿が急に車のヘッドライトに照らされちゃったら、目を真ん丸にして驚いて固まるでしょ。この子、小さな刺激でもそんな顔になるんです」
よりによって大きな刺激が苦手なショウタくんのお父さんがメタか……。急に眼差しが大人びてきたお兄ちゃんのソウタくんの方はどう受け止めているんだろう。
メタ。メタモルフォーシス。変身。これは私たちが最も気を使わなければならない現象だ。一つのレイヤーだけに具現化するものなら、扱う方法は種々ある。けれど、メタだけは別だ。すべての層、レイヤーにさらされる。
私がメタを目の当たりにしたケースは多くはない。まさか隣の山岸さんのご主人に起こるとは思ってもみなかった。
「山岸さぁん」買い物から帰ってきたとき、ドア越しにゴミ袋をガサガサいわせるような音がしたので、声をかけた。小学校の南班のプリントをなくしてしまったので見せてもらえればと思ったのだ。
少しだけドアを開けた山岸さんは、いつもは、あーら!と元気に笑いかけてくるのだが、少し息をのみ、恐る恐るといった表情で私を見た。
どうしたんですか? ドアの隙間から、血らしきものが床についているのが見えた。点々、というより、かなりの量で、直径20センチほどもある血だまりも見えた。
「誰か怪我なさったんですか?」
そのとき、床に落ちている不思議な物体に目がとまった。山岸さんのところは角部屋のメゾネットタイプで入口の玄関扉こそうちの扉の隣に並んでついているが、中の広さは全然違う。吹き抜けもあるし、階段もある。
その物体は階段の近く、玄関から比較的近いところに転がるように存在していた。
緩やかな「くの字型」に曲がった子供の腕のような形だった。ただ色は薄い銅色、というかカッパー色というか…。
メタで似たケースを以前一度だけ見たことがあった。シルバに付いてメタの人の安全確認についていったときのことだ。メタモルフォーシスしたのは40代の妻で、夫は「身長は半分になってしまいました、でも、顔は妻のままです」と笑顔で言い、すーっと涙を流した。奥の部屋に座っていた妻は少し緑がかった薄銅色をしていた。
その経験もあったので、メタだ、と確信した。甲虫類のメタに違いない。
もしかしたら、ご主人の体に何らかの変化があって、あそこに落ちているのは彼の体の一部分ではないか…。単刀直入に聞いてみた。もし、そうなら、そのようなケースに私は少し経験があるので、安全対策に協力させてもらえないだろうか、と。
山岸さんは目を見開き、大きく息を吐くと言った。「お願い…します」
シルバに伝えなければ。今すぐ。
☆
シルバと出会ったのは、もう何年も前だ。限りなく昔のことのことのようであり、たった今のようでもある。
私がジョウと出会って2年程経ったころだっただろうか。
あの頃の私は若すぎないアル中で、ジョウはまだ若いアル中だった。ジョウと私は似たような年だったが、ジョウは男だからまだ若く、私は女だからそうともいかず…と不公平な話だ。
ジョウと私は酒がいける口で、それが不幸の始まりだった。酒がいけるとアル中にならない体質は同意ではない、それどころか反対だ、と気づいたときには既に遅しで、私もジョウもアル中だった。
私は顔にも態度にも出ないドリンカー。一杯、二杯、三杯、四杯…八杯、九杯…いくら飲んでも一向に平気。醜態もさらさず、泣き上戸にもならず、しらふのときとほとんど変わらない。
酒が飲めると知ったときひどく嬉しかった。自分の隠された才能を見出したようで嬉しかった。得意にさえなった。それまで何をやっても平凡の域を出なかった私だったから、不良少女になったときさえ、ちょうどいいあんばいの不良少女だった私だったから、女なのに酒が飲める、ひどく飲める、いくら飲んでもしらふのまま…この事実は私を有頂天にした。
ジョウは14で飲み始め、あたしは15だった。
最初はビール。口の中で線香花火がパチバチ弾けた感じは、初めてコーラを飲んだときに似ていた。酒が好きになるだろう…予感がした。すると、自分が大人びて思えた。
それから数カ月後にはウイスキーをロックで飲んで平気だった。酒を飲み始めた私の中には池ができた。いったん池ができると干上がらせるのが恐かった。だから、体に池を飼った。
アルコールの味が好きだった。自分の変化が好きだった。どんなに緊張していてもリラックスできる。度胸らしきものもついてくる。雄弁にもなれる。
お酒を飲むとね、体がふわっとなるのよ、そういう子もいたが、私は違った。酒を注ぎ込み池の水位が上がると、私の安定感は増した。体と頭のねじがほんの少しだけ緩んだが、緩んだ分だけ、物事の衝撃は少なくなった。
酒に強い女だと評判になった。酒が強いからといって、誰に迷惑かけるわけでもない。可愛げのない女だと思う男たちがいたが、そういう男はどちらにしても趣味じゃなかった。不良少女はとうに卒業し、一見普通のOLになった時期も数年あったが飲み続けた。
人並にデートもしたが、酒ねらいだった。彼らの前で、底無し沼のように飲んだ。ワイン、ウイスキー、ジン、ウオッカ、テキーラ、ラム、何でもこいだった。勘定を払うころには怒りで顔が引きつっている男も一人や二人ではなかった。家まで送るよ、という男たちの申し出を丁重に断り、しゃきっと一人で電車に乗った。女らしくないやつだ、陰口を叩かれた。山姥だ、面と向かって言ったものもいたが、私は鼻で笑い、気にもとめなかった。
長い間、酒の弊害は全くなかった。酒を飲むと食欲が落ちたから太りもしなかった。ただ、体の濃度が少しずつ薄くなるようで…それが多少気になった。
ある時、巨大な水袋になった夢を見た。動こうにも動けない。ごろごろ寝返りうって目が覚めた。
もともといたようでいなかった友達もいつの間にか完全消滅した。女友達は結婚し、少しずれて男友達も年貢を納めていった。恋人らしきものはできては消え、男運は悪かった。しまいには満足いく飲み友達さえ見つけられなくなった。そして残されたのは完全なるホームドリンカーの道だ。
店で飲む男たちに比べれば、私が酒に費やす金はずっと少なかった。それでもある日、ざっと計算したら五百万になった。五百万……。
その数字は私を愕然とさせた。
酒に費やさなくとも何かに使っていたには違いない。履きもしないパンプス、流行ブランドの擬似ファッション、自己満足のための小洒落た物……。
けれど案外有効に使っていたかもしれないのだ。貯金として残っていたかもしれない。焦りを感じた。何かしなければ…。五百万も使ってアル中になっただけだったら何とも淋しいじゃない。だから毎月少しばかり寄付する手続きを取った。特別な時以外は、もう酒は飲まない、と決心もした。前者は続いたが、後者は数日後には消滅した。
名前だけ夢々しい安普請のマンションに帰ると、取りあえず目に入ったリカーに手を伸ばす、それが日課だった。私へのレッテルは酒が強いから大酒飲みへととうの昔に変わっており、その違いもわからぬまま、数年が経っていた。そしてマンションからアパートに移るころには、仕事は飲み屋の給仕だけになり、髪に一色ずつメッシュを加えるのだけが楽しみになった。レインボーカラーの髪の私に真剣に同情するやつはいないだろう。憐れまれるのはいい。馬鹿にされるのもいい。だけど同情だけはされたくなかった。
ある日、シェフのレイコが妊娠した。子供を待ち望んでいた彼女だったから、満面笑みで仲間に報告した。もうつわりがひどくってね、と言いながら、レイコは満足そうな笑みを浮かべた。みなレイコの周りに集まってきた。タエコは自分の事細かな経験談を披露し、エリはうらやましいわ、とレイコの肩を抱き、カヨコにいたっては「こんにちは赤ちゃん」をハミングしでみせた。
私は、何か言わなければ……と手を止めた。
ねえ、つわりって二目酔いに似てるのかしら?
みな私を見た。一斉に私を見た。居心地悪さに私は続けた。あたしね、二目酔いなんて滅多にならないんだけど、ときおり朝起きるとね、むかむかして何も食べれないことがあるの。それってつわりに似てんのかな。
二目酔いですってさ、カヨコが眉をひそめた。神聖な妊娠と二日酔いを比べるのは徹底的に悪趣味のようだった。飲み屋をやっていてもだ。私ににまったく悪気はなかったにしてもだ。
レイコが臨月に入るころ、私も体調の変化を感じ始めた。もちろんこっちはおめでたくはない。アルコールに対する反応の変化だ。飲みすぎた翌日にとみに疲れを感じるようになった。吐き気や、めまいに立っているのさえ苦しい朝もあった。
ある朝、バスルームでふらりとしゃがみこんだ。ドクッドクッ。心臓。腹、こめかみ、首、あらゆる血管が波うっていた。私はゆっくり立ち上がり、冷たい水で顔を洗った。若さにまかせてお酒をがぶ飲みし、不安や焦りや怒り、全てを酒で薄めていく…そんな日々が去っていく…そう思うと泣けてきた。
その日、アルコールには手をつけず部屋をくるりと見まわした。
女にしては殺風景な部屋。タンスをわけもなく開けては閉じたあと、机の引き出しを一つ一つ開けてみた。三段目の引き出しを開けたとき、もう随分前に母が送ってきた見合い写真が目に入った。何年も会っていない母が送ってきた、田舎の親戚のマッチメーカーからの男性の写真。見合いせぬまま終わった見合い話。男はえんじのタイをして青みがかった灰色のスーツを着ていた。丹頂鶴みたいな顔だと思った。しばらく見つめたあと、写真を閉じた。そもそも今の時代見合いなど化石みたいなものなのだ。
パピーが大学時代から付き合っていた男性と結婚したと聞いたのはそれからしばらくしてからだった。結婚式はしたのだろうが、私は呼ばれなかった。
酒が体に害を与えている、この事実を認めぬわけにいかなくなった。そう、ひずみが出てきていた。予感はしていたが、予想はしていなかった。ひずみが出たのはジョウの場合は肝臓で、私の場合は盲腸だった。
盲腸と酒が関係があるなど思っちゃいない。けれど酒さえやめていたら盲腸にならなかった……そんな気がしてならなかった。酒さえ飲まなかったら、私の盲腸は痛みだしたりせず、取り出されることもなく、今だにあるべき場所にある……そんな気がしてならなかった。
手術のあと、私の中の池は干上がった。干上がった池は空洞になった。そして時とともに大きくなった。その空洞は酒をいくら飲んでもごまかせなかった。体中が酒づけになってもそこだけは酒をはじいて……それだけに始末が悪かった。
それは以前経験した或る空間に似ていた。私の中に視覚聴覚何もよせつけない一つの空間がある……そんな感覚。ほとんど悟りに似た感覚。皆もそれを持ってるのかそれを感じたことあるのか聞いてみたかったが、変人扱いされそうで恐かった。
誰にも言えなかった。なぜか、いつかあひるの夢見ていた私が寝ぽけて「水かきをよく洗っといてちょうだい」と言ったときの、パピーの何ともスイートで困った様子を思い出したりした。
ジョウに会ったのは、その急性盲腸でかつぎこまれた病院でだった。
手術も無事終わり、翌日には退院の予定だった。私はトイレの帰り、スリッパの音をぺ夕ぺ夕響かせながら、ロビーへの階段を下りていった。週刊誌でもあるのでは、と思ったのだ。階段を一段降りるたび右腹がつったが、手摺をつたわりながらどうにか降りていった。一日中うとうとしていたので、時間の感覚はなかったが、真夜中といっていい時間のはずだった。
ロビーに入るなり、人の気配を感じた。男が一人ソファに坐っていた。背を向けて煙草を吸っている。ぷふぁ……頭の上から煙が上がっていた。
禁煙でしょ、病院だし・・・。
あたしはソファの横のマガジンラックから、雑誌名も確かめずファッション雑誌らしきものを取った。腹にピピッと痛みが走った。手に取りながら男をちらりと見ると、男も横目であたしを見た。
奇妙な風貌だった。ちりちりの髪を頭の上だけ5、6センチ立たせ、サイドと後ろはほとんど刈り上げていた。
髪型を除いては特に変わったところは見られなかった。色は黒かったが顔立ちは日本人に見えた。それでもその髪型と浅黒さで、ハーフは無理でもクォーターくらいに見えなくもなかった。
男はうまそうに煙草を吸っていた。煙草を挟む男の指はひどく骨ばって見えた。
立ち去ろうとする私に男が声をかけた。
「あの……。これ、飲みますか?」
男が差し出しだのは、りんごジュースだった。
「はあ」
なぜか私は受け取った。露を持った缶は冷たかった。私はそれを不思議な物体のように手のひらに転がした。
「あのぉ、こんな時間に面会ですか?」
「いや、患者ですよ、僕も」
どこかやけっぱちな響きだった。
男は死んでも病院になど来たがらないタイプに見えた。口でもよじり、それこそ酒でもクイックイッと飮んでいるのが似合うタイプ。
「入院してるんですか?]
「そんなとこです。あなたは?」
「盲腸です」
男はああ、とうなづいた。
男は白地に黄色い太陽の描かれたティーシャツ、その上にブルゾンをはおっていた。胸の模様は、見方によっては電球のようにも見えた。
男は真っ白なスニーカーを履いていた。細い体の割に大きなスニーカーだった。真っ白で、力強い、大きなスニーカーだった。そのスニーカーを見ていると、重力に向かって巨大な手で思いっきり肩を押されたような気になった。
「入院患者には見えませんね」
「そうですか?」
「どこが悪いんですか?」
「ぱたりですよ」
「ぱたり?」
「わけがわからぬまま痛みがきてぱたり。…で、救急車です」
男は煙草の煙を吹き上げたが、途中でむせて、グリーンのブルゾンを揺らし咳き込んだ。
「どこが悪いんですか?」
私はもう一度聞いた。
「肝臓でしょう。ここのあたりです。とにかくぱたりだから参りました。不思議だな。今までこんなことなかったのに。いくら飲んでも帰るまでぶっ倒れなかったのに。それが五杯飲んだところでぱたりなんですよ。突然ぱたり。気づいたらここだったってわけです」
男は近視らしい目を少し細めて、あたしを見た。そして急にかしこまった様子になった。
「タマイジョウジです。みなジョウって呼びます」 男はジョージでもジョーでもなく、ジョウジ、と、ウを強調した。
私は少しだけ体を曲げお辞儀をした。
「川野タキです。…あのじょうじってカタカナですか?」
「いや、漢字ですよ」
「どんな漢字でしょう?」
「譲るの譲に一、二の二で譲二、タマイはお手玉の玉に井戸の井です」
「日本人なんですよね」
「そうです。全くの日本人です」
ジョウはチリチリした髪を撫でた。
ふと見えない手で頭から背中から触れられた気がした。周りの空気がスッと流れた。なぜか目をつぶらずにいられず、しばし固く目をつぶって開けた私は唖然とした。
夢なのか…。今は夢の中にいるのか…。案外死んでしまったのか、あたしは…。
目の前にいたジョウは大きなウォンバットに似た動物になっていた。黒々とした丸い小さな目がかたそうな毛に埋まっている。身長はそのままで、Tシャツ、ブルゾンもそのままウォンバットになっていた。
再びまばたきをすると、もとのジョウに戻っていた。
幻影か。飲みすぎの幻視? いや、飲んでない。手術もしたし、何日も飲んでない。麻酔の影響? アルコール脳症? そんなのがあっただろうか。
まさに固まっていたと思う。そんな私にジョウは言った。
「今、一瞬見えませんでした?」
「え?」
「一瞬、僕が何か違うものに見えたでしょう?」
「ウォンバットみたいでした」 言うかどうか考える前に口が動いていた。
「はははは」
ジョウは言った。
「大丈夫ですよ。一瞬こっちのレイヤーが見えたんです。あなたみたいな人、フィーラーっていうんです」
フィーラー?
ジョウの微笑みは優しかった。もしさっきのウォンバットだったとしても優しい微笑みを浮かべていただろう。
異様な状態のはずだった。シチュエーションもこの男も私も、何かおかしい。けれど突き止める気になれず、なぜか納得した。頭でなく心で納得した。
「川野さん、お目覚めですか」
退院の日、ナースがやってきた。
「おはようございます。看護婦さん。あの…一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「あたし、どういう患者扱いなんでしょう。ただの急性盲腸患者でしょうか、それとも……」
「ああ、胃洗浄のことですね」
ナースはブラインドを上げながら言った。
あの川野って患者はね、ちょいと変わってんのよ。睡眠薬を飲んで自殺しようとしてたところ急性虫垂炎になっちゃってさ。で、思わぬ痛みで寝ていられなくって119番したのよ。
こんなふうにナースからナースに伝わってるのかもしれない。けれど、事実は少し違っていた。どうにも眠れず酒を飲んだがやはり眠れない。もう立っていられないくらい酔っ払っているのにやはり眠れない。そこで睡眠薬を数粒のんだ。けれどやはり眠れない。そこでまた数粒。
これを二、三度繰り返した。いや三、四度、……案外五、六度だったのかもしれない。覚えてない。まったく覚えていないのだ。お腹が痛くなったのも、自分で119番したのも、何も覚えていない。
担架を持って駆け込んできた男たちはさぞかし首を傾げたことだろう。腹が痛い!と通報が入ったはずなのに、酒に睡眠薬、状況は自殺未遂だ。
運び込まれ、胃洗浄が行われた。そして盲腸の手術。白血球の数は爆発寸前だった。
盲腸プラス自殺未遂容疑の私と、五杯でぱたり、肝臓をやられたジョウは、入院仲間から友人になった。
あの時、ジョウが病院のロビーでぷかりと煙を吸いながら何を考えていたのかは今だに謎だ。彼が病院を抜け出して帰ってきたところだったのか、それともあの時間からふらりと出かけるつもりだったのかも聞かずじまいだ。ウォンバットに見えたことも詳しくは聞かなかった。フィーラーが何かも聞かなかった。
ジーザス!ことある度にジョウは言った。怒っても、驚いても、悲しくても、最初の一言がこのジーザス。
ジィーーーザス、時々あまりにジーをのばしすぎるものだから、もう少し短めでもいいんじゃない、と思った。
「驚いたときゴッド!って言うの知ってるけど、ジーザスってのもよく使うの?」
ジョウは少し考えるような目つきをして、うん、そうだなと答えた。一年ほどアメリカをふらふらしていただけだから、取り分け英語ができるわけでもなけりゃ、アメリカ通というわけでもないらしい。どうやらあまり楽しい思い出ばかりじゃないようだった。いろいろ聞かれると、早く話題を終わらせようとナーバスになる。
ジョウも私もこれ以上酒を続けると保証はないとの忠告を受けた。改めての忠告に私はさすがにビクッとした。血液成分の数値はいくつもが正常値を割っているかオーバーしているかで、もう酒には適してない体なのですよ、医者は言った。
医者は、禁酒セラピーを勧めた。グループで集まり互いの禁酒を励ましあうグループセッションがあるという。何より意志の強さが必要になりますからね、医者は顎のくぼみをこすりながら、言った。
何とかしなければ、と思いはした。気休めにジョーと時々会おうと決めたが、それは意外にも効果をもたらした。ジョウと話した後は、少しだけ気分がよくなった。
けれど、会う回数は次第に減っていき…三ヶ月ぶりにジョウから電話があったのは、初秋にしては冷え冷えした朝だった。受話器の奥から聞こえる声は干からびていた。
元気かい?元気よ。そのあとしばらくどちらも話さなかった。その沈黙に互いに元気にはほど遠い状況だと察した。
ファミリーレストランでジョウと会った。デイリーランチを頼んだあと、ジョウは水を一気に飲んだ。のどは乾いていなかったが私も一気に飲んだ。
ジョウは禁酒の二目目だと言った。禁酒の二目日と三日目は数え切れないほど経験したが、四日目を経験したのは数えるほどしかないとも言った。
「どうして電話しなかったのよ。互いに励まそうって言ったじゃないの」
「タキこそどうしてさ」
ジョウはマヨネーズに溺れそうなコールスローをフォークの先でつついた。
「うん…」
ジョウは運ばれてきたコーヒーを目をつぶり音をたてて飲んだ。目をつぶったジョーの顔は痩せた大仏みたいだった。病院で見たあのウォンバットのジョウをもう一度見たかった。そのことについて聞きたいことは山ほどあったが、聞いたら、ジョウの何から何まで、すべて消えてしまいそうな気がした。そうしたら、私はもう自分の記憶さえ信用できなくなるだろう。
「ねえ、ジョウって付き合ってる人いるの」
「人並みにいたような気がするけど…」
「気がするけどって、やーね。記憶がないみたいな言い方してさ」
「うん」
「じゃ、一番印象に残る子の話して」
「ま、今のとこタキかな」
「それは光栄だ」
「今さ、考えてるんだけど、会社辞めようかなって」
「ベンチャーの会社だったよね。経理だっけ」
「うん。でも税理士の資格も取ってる。で、父がやってる小さな税理士事務所、つがないかっていうんだ」
「そうなんだ」
「うん。親父、自分が結構はちゃめちゃやってたから、僕にはレールにのっかってほしいんだろうな。酒もやめて」
ああ、そういうこと…。髪型まともにし、仕事も安全に、そういうことなのね、ジョウ。
でも、それ何が悪いっての?幸せな光景じゃないの。ジョウの禁酒だって成功するかもしれない。
ひゅー…。
ジョウの溜息が風になった。
私はジョウを見た。
ジョウも私を見た。
「いいじゃない、レールにのっかるのは脱線よりずっといいわよ。あたし脱線って蟻地獄に似てると思うの」
何、言ってんだろ。
私たちはどちらからともなく目をそらし……しばらくジョウは空のコーヒーカップを、私は空の皿を見つめていた。
店を出て街を歩くと、どこからかラップが流れてきた。
わかるか、わかるか、キミにないもの、なんだかわかるか。
それは、それは それは
ア、ア、ア、ア、アティチュード。
ア、ア、ア、ア、アティチュード。
「ねえアティチュードって何だっけ?」
「アティチュードさ。わかるだろ」
「熊度ってことだよね?」
「うん、一般的にはね。でも僕はちょっと違うって思うんだ。アティチュードってのはさ、目的と存在が一致したとき生まれるんだと思う」
「わかんないわ」
「アティチュード……。僕はさ、物には何でもアティチュードがあると思うんだ。人間だけでなくって何にでもあるって思うんだ。皿みたいな物体がアティチュードを持つと灰皿になれる。一枚の布もアティチュード持つとマントやテーブルクロスになれる。わかるかな」
「わかんない」
「とにかくさ、アティチュードがなくなったとき、存在の意味がなくなるのさ」
「わかんないわ。じゃ、ぼろきれみたいな人間はアティチュードがないってこと?」
「違うな。ボロきれでいようと心を決める。それはそれでアティチュードさ」
「…ねえ…」
「うん」
「ねえ…あたしもできるかな。アティチュード持つっての」
あたしだって持ちたいじゃない、ジョウの言うそのアティチュード。
アティチュードを持つ、それは飛躍的なことに思えた。やればできる、そんな力がほんの少し頭をもたげたような気もしたが、くしゃみの予感程度のたよりなさだった。
ある日ジョウが猫の話をしてくれた。
「いつかしっぽの先だけ白い猫が三階の窓からアスファルトに突き落とされるの見た。そりゃもう凄いもんだった。命をかけたウルトラ宙返り…」
ジョウは悲しげだった。酒をくいっと胃に流し込めないのは、窓から突き落とされた猫どころじゃない苦しさなのだ。命をかけてのウルトラ宙返りもできないまま、ジョウはスローモーにときおり息を吐く。
ウルトラ宙返りのその猫は足を二本折ったけれど命に別状はなかったとジョウは話す。
「そいつさ、六才の誕生日の二日前に死んだんだってさ」
「えっ?」
「猫さ。ウルトラの猫さ。猫では早いほうなのかな」
「さあ……」
「チャーリー・パーカーはさ、死んだときには68才の体だったんだってさ」
「実際は何才だったの?」
「34才」
ジィーザス。あたしは言った。
ジィィザス…。ジョウは言った。
「彼、ジャズメンだったわよね」
「サックスさ」
「彼、ドラッグだったわね」
「うん」
「彼はドラッグだったのよね」
「うん」
「あたしね。わからないことだらけだわ。うん。わかんないことだらけよ」
「たとえば?」
「そう、たとえばね、ドラマ見てもらい泣きできても実生活では泣けないわけとか…。いつになったら何かに対するやる気が出てくるのか…とか」
「それから?」
「それから……」
沈黙のあと、あたしは話した。ジョウに話した。体に抱えた池の話……。いつの間にかそれが空洞になった話……。
話し終わると、虚しさがほんの少しだけ和らいだ。
冬が過ぎ春が来て…夏も過ぎ…紅葉の季節も終わった。そしてまた冬がやってきた。
その日は何だかひどく疲れていた。郵便受けを覗くと、家具屋のチラシの下に一枚の葉書が入っていた。
元気かい? 僕はとりあえず頑張ってる。タキに近いうちに会える、そんな気がする。
それは、サンタがクビから「ただいま禁酒中」という紙をかけた絵の絵葉書だった。
ジョウ……。
その夜、ベッドに横になると二つの言葉が浮かんできた。
再生と復活。
どちらもその時に私には、難しく、遠く、に思えた。
私に必要なのは何?奇跡では実態がなさすぎ…成長では優等生過ぎ……。
必要なのはもっと魔力のある言葉。限りなく奇跡に近く、それでいて現実味ある言葉。そんな言葉があったら教えてもらいたいもんだわ。
と、突然、ア、ア、ア、ア、アティチュードとラップっていた男の顔を思い出した。
アティチュードか…。
キッチンに行き、ウオッカのビンを撫でた。ウィスキーのビンを撫でた。禁酒二日目と三日目は数えられないほど経験したが四日目はなかなか来ない、ジョウは言っていた。
ボトルの蓋を開けて、閉める。
蓋を開けて、閉める…。
リビングに戻り、窓を少しだけ開けてみた。風が冷たい。
ベッドに戻り毛布に包まると、病院の待合室にいたジョウを思い出した。ジョウに会いたいと思った。恋愛感情などではない。寒さでぶるぶる震えている小動物が仲間の誰かに会って温もりを感じたい、そんな感情に似ていた。
ほとんど眠れぬまま、空が白んでいった。
母が危ないと、妹からの電話をもらったのはその日のことだった。
そしてシルバに会った。母が亡くなったあの日シルバに会った。
シルバは拾ったハサミを手渡すと言った。「サウスポーなのね」
「サウスポーのフィーラーね」
フィーラー。ジョウから一度だけ聞いた言葉だ。
「私もそうなの。あ、サウスポーではないけどね」
一瞬男か女かわからなかったのは、彼女が全くの銀髪で、中性的で、年齢も判断しかねたからからだろう。彼女は老齢には決して達していないだろうが、一見若さからは遠くかけはなれた容貌だった。それでいて俊敏さとひたひたとしたエネルギーを感じた。
「まずは依存症なおさなくちゃね」
シルバの声は低く穏やかで、ビブラートがかかっていた。
あの時、シルバは言った。
「大丈夫だから」
私は固まった。現状に一番ふさわしくない言葉…。
大丈夫だから。
だけど、あのとき私は、足先を少しだけ「大丈夫」の方向に向けたのかもしれない。
それからどれだけシルバに助けられたことだろう。シルバは道しるべになった。古い言葉だが、道しるべ。
そして、時間が経った。その間には結婚もして、ミチとの出会いもあった。
⭐️
ミチとの出会いはありふれてはいないにしてもとりわけ衝撃的でもなかった。
ある日、夫が抱っこして帰ってきたのだ。
ミチの第一印象はコアラだった。
顔が似てるとか、耳が大きいとか、そういうわけではない。夫に抱っこされている様子がコアラみたいだったのだ。強いていえば、目から鼻にかけて少し似ていたかもしれない。
赤いセーターに黒いズボン。髪は短かったので、男の子か女の子かもわからなかった。ただただコアラみたいだと思った。いつか赤いベストを着たコアラのぬいぐるを貰ったが、そんな感じだった。
私はあまり表情がない、言葉の抑揚も少ないとも言われる。自分では正直なだけだと思っている。喜んでないのにむやみに笑顔を見せられない。悲しくもないのに、言葉に抑揚をつけられない。
それでも世間の感情表現の平均値よりかなりずれていると子供のころから学んできたので、社会適応はかなりできるようになったと自負していた。けれど、気を抜くと素になった。人が楽しそうに話している中、黙々と箸を動かし無表情で食べたりする。別につまらないわけではない。興味がない会話のときは、話しかけられれば答えるが、自分から積極的には話さない。箸を動かしながら愛想で微笑むこともしない。おかしかったら笑う。そんな感じだ。
夫はそんな私の奇妙さ(周りから見たらであって、私にとってはあくまで自然な状態なのだが)を全くと言っていいほど気にしなかった。見栄とか、変な自負とかなく、飄々としてた。「おんなおんなしてる人は苦手なんだよなー」と言ったので、じゃあ、わたしは何なんじゃい、とツッコミたくなった。そして自分がツッコミたくなる人に出会えたということに密かに感動した。夫は私の友人ジョウの紹介だった。その頃は、私もジョウも断酒に成功しつつあり、自分に対する自信と目的意識を少しずつ構築しようとしているところだった。
恋愛、恋心、夫婦になって添い遂げる、愛情深いつれあい。私たち二人はこんな言葉とは全く違ったレールにのって、それぞれの存在を認め合い、それを心地よいと思い、一緒に住みだし、ある日ふらっと籍をいれた。
わたしたちは友達のようだった。お互いにしてもらって当然ってことが皆無に近かったので、無理をすることもなく、楽だった。ひとりでいたときより、ずっと落ち着いていられる、一人より二人がいい、それが私たちの共通の思いだった。
ある日、夫がコアラのようなミチを連れて帰ったとき、そのバランスがゆらり、と揺らいだ。
それでも、どうしたの? とさほど驚きもせずに私は聞いた。
マキがちょっと精神的にみられなくなってさぁ、一緒にしておくと何がおきるかわからないから、連れてきた。
マキって誰?
どうやら私との結婚前につき合ってた人で、子供が生まれたと結婚後に知ったそうだ。自分の子なのは確かだ、とも言う。マキって名前聞いたような気もしたが、どうだったんだろう、私は記憶をさかのぼったが、ジェラシーとか無縁の性格だったので、聞いたとしても忘れていたのだろう。
そう、確かなのね、と、リビングのソファに置かれ、きょろきょろしているミチを見ながら言った。見るというより、観察に近い感じだった。ミチは首をカクッカクッと90度ずつ動かした。その様子が小鳥みたいだと思った。
その顔をじっと見てみると、やはり似ていた。小鳥にではなく、夫にだ。
結婚前のことなら仕方ないか、と思った。もっとも結婚後であったにしてもさほど動揺しなかった気もした。
えっと、服や食べ物や、知っとくことは? あたし、育てたことないし、子供って。
ミチを抱き上げながら、パピーがペットのカメをこっそり買ってきたときや、捨て猫を拾ってきたときのことなどを思い出し、それとは違うでしょ、ちょっと不謹慎だと思ったりした。
その日から、猛勉強プラス実地訓練だ。本もネットもいろいろ調べ、基本的情報は得た。あとはとにかく安全第一に1才2カ月の子供の世話をする、これにつきる。
夫は翌朝からけっこう安心して会社に出ていった。凄く信頼されているのだと、かなり呆れた。
子供にはとにかく愛されている、存在を無条件に受け入れられている、という安心感を与えること、をモットーに育てることにした。
そこで、何があっても、「大丈夫だから」と言うことにした。私がシルバに言われて、わけもないのに心に少しだけ温かいものが流れた言葉。道しるべより以前に旅の前に書いてあってほしかった言葉。
子供ながらの好奇心から失敗しても物を壊しても、その他もろもろの不都合なことが起きても、必ず最後に「大丈夫だから」と言ってみた。
危ないことをしたときだけは別で、肩のところを強めにきゅっと両手で挟み、「危ないわよ!怪我をしたり、させたり、病気になるようなことはしてはだめよ!」と注意した。
それ以外はミチが不安そうになるたび「大丈夫だから」を繰り返した。時を変え、場所を変え、ミチに「大丈夫だから」と言った。ある時は抱きしめ、ある時はしっかり見つめ、ある時は一緒に床に転がり、ある時は並んで歩きながら言った。
最初の頃は、好奇心、責任感、観察の楽しさ、生き物の成長を見るワクワク感…そんないろんなものが混ざっていた。その中に、幼い無防備なものに対する愛情、母性本能はどれくらいあったのか…。
ただ、少しずつ変化していった。ミチが視界に入っていなくても、あれれ、どこにいったのだろ、くらいだったのから、どこ?どこ?大丈夫かな?何してんの?へ直線上をゆっくりと動いていった。
私は、しっかり抱きしめて、目をみて「大丈夫だから」ということをルールとし、悦に浸った。きちっと母親できてる感に満足した。
夫は正式にミチを引き取った。
私はごくごく普通の親になり、普通の親がすることはした。しすぎるわけでもないが、しなさすぎるわけでもない。丁度いいあたり、にいる平均的に良い親でいようとした。
顔は全く似てなかったので、あら、お母さん似ね、と言われることはなかった。夫に似ていたので、みな父親似で満足して、母親と血がつながっていないのでは、と思う人はいないようだった。
冷静な親、模範的な親、と言われた。凄くいい意味で使われたのではないな、と感じたけれど、冷静や模範的で悪いはずはなかった。
「ママ、目が見えにくい。見えない」
突然ミチが言ったのは4才になった頃だった。私は焦った。動転した。こんなに動転したのは初めてだった。
検査をすると、視力はかなり悪くなっていた。視野も狭い。しかしMRIや眼球の検査では、異常は見つからなかった。
「精神的なことが原因の可能性もあります」
若い柔和な医師は言った。子供は下の子ができて自分に注意を向けられてないと感じたり、以前より愛されてないと感じたり、ストレスや不安があったりすると、視力が落ち、視野が狭くなることがあるのだという。
「最近、何か変わったことはありませんか?」
産みの母親から離れて連れてこられたのは随分前だし、本人は覚えていない。じゃ、自分が本当の母親でないって言うべきだろうか、とふと思ったが言わずにおいた。
「特に思い当たりませんが・・・」
「とにかくしばらく不安を与えないよう、注意を向けてあげて下さい。それでいて神経質ではなく、大らかにしてください。必要なのは…」
医師がそこまで言ったとき、「優しい感情表現」とか「理屈でない無条件の愛」が続くのではないかと思ってひやっとしたが、「親まで必要以上に神経質にならないことです」だった。
その夜、ひどく暗い気持ちになった。悲しい気持ちにもなった。焦りもした。
アルコールに溺れて苦しんでいたときとも、どうにも心が通じないと私が一方的に思い込んでいた親がいなくなった切なさに心がちぎれそうになったときとも、まったくちがう感情だった。胸が上から押し付けられ、身動きがとれなくなるような切ない感情だった。自分はミチを守りたいのだ、と気づいたとき、パニックの中でも何かがはっきりと動いた。
夜、小さく、大丈夫だから、と声がする気がして目が覚めた。大丈夫だから。大丈夫だからね。
「大丈夫だから」って言ってもらいたかったのは、ずっと自分だったのだ。私はずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。シルバが言ったときはまだそれに気づいていなかっただけだったのだ。
ミチの視力は回復せぬまま、しばらく続き、私は、「大丈夫だから」をほおりなげた。
私は医師の言う「おおらかに」の逆を行っていた。言葉は少なくなり、気がつくと涙ぐみながら、わけもなくミチを抱きしめていたりした。ミチはもともと口数の少ない方で、黙って少し首を傾げながら、私を見たりした。
明日は病院で心理検査という前の日、公園へ出かけた。雲が三つ浮かんでいた。気持ちのよい日だった。私はミチの手をしっかり握り、少しだけ振りながら、無理してハミングして、木々の間を歩いた。ときどき、とりとめない言葉をミチにかけたりした。
公園内にあるバーガー屋でチキンを二本にお茶を二つ買い、ミチとチキンを一本ずつ持って食べた。
「明日、病院なのね?」
ミチが聞いた。
「そうよ」
「お目目の?」
「そうよ」
私はできるだけにっこり笑い、「大丈夫だからね」と言った。
久しぶりに言った「大丈夫だから」だった。
ミチはしばらくその丸い目で私を見ていたが、急にチキンをほおばる手をとめると言った。
「大丈夫だから」
「えっ?」
「大丈夫は大丈夫だから」
「うん?」
「ママ、大丈夫だから」
「うん…」
私のチキンを持つ手が少し震えた。涙があふれそうになるのをぐっと抑えた。
「大丈夫だから、は大丈夫よ、ママ」
ミチはわざとらしいほどの笑顔を見せた。幼いながら、私のために作ってくれた笑顔だった。
「それにね、ミチ、明日は見える気がするんだ」
うん、うん。私はチキンに落ちる涙ごとチキンをほおばった。
そうだといいね、そうだと。
大丈夫だから、と心の中でつぶやいた。幼い頃の自分につぶやいた。大人になった自分につぶやいた。お母さんもこの言葉、私から聞きたかったんじゃないかな。私もお母さんから言ってもらいたかったんじゃないかな。
世の中、大丈夫でないこと多いけど、大丈夫よ、ってつぶやくこと、言ってくれる誰かがいること、それって大切なんだと思う。そうすると、大丈夫じゃないときでも少しだけ希望が持てる。
希望って道しるべと同じですごく大切だと思う。
あの時、シルバが言った「大丈夫だから」は私からミチへ流れ、そして最近、ミチはよく友達に口にしてる。「大丈夫だからってさ! とりあえずそう思おうよ」 彼女の楽天的性格はこのままでいいのか、とも思ったりするが、まあ大丈夫。そう思いたい。
大丈夫だから、と言い聞かせ続けたミチも今11歳になっている。