タキさんからの連絡を受けて大急ぎで事務所に向かった。メタに関するアクションが必要だという。今回は甲虫系だ。
 
 僕の能力は凡庸だが、僕は僕なりにやるしかない。

 駆け足になりながら、もう何年も前のことが頭をよぎる。

 それまで勤めていた会社を辞めて、「インテグリティ」に入るきっかけになった出会い…。それはルネビルに入っていた調査事務所に興味を持ったことから始まった。
 
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 自分を見失うことないですか?

 えっ? 見失うなんて馬鹿らしい? 

 そんなにおかしいことですか? ケタケタと笑うようなことですか?

 そんなに馬鹿げたことじゃないと僕は思うんです。自分で自分を見失うわけでしょ。ありそうな話ですよ。

 いえ、別に超自然現象とか、そんなこと言ってんじゃないんです。

 自分が自分から離脱していく自己離脱感? そんな心理学的なことでもないんです。

 突然、自分のこと、あれっ、誰だっけ?っていうような軽い感覚なんですよ。ケロッグのコーンフレーク食べながら、あれ、これオートブランだったっけっていうような一瞬のラップなんですよ。つまりですね、一瞬のあれっ?てな感覚なんです。ただ一瞬のあれってな感覚が積み重なると非常に重くなるもんで・・・。そうなんです。かるーい感覚で、1、2秒自分を見失っていたつもりだったのに、気がつくと完全に自分を見失ってんです。

 おわかりでしょう? それが自分を見失うってことなんです。まだ財布の中に金が残ってると思ってたのに、気がつくとなくなってた、ってように、きっとそうなるべくしてなったんでしょうけど、あれぇって感覚なんですよ。

 ことはラジオで聞いた脳天気なアナウンサーの言葉で始まりました。

「暑い日が続きますね」

(はん、別に)

「雨も降りそうで降りませんね」

(はん、そうかい)

「今週末あたり、パアーっとパーティでもやりたいですね」

(みんながみんなじゃねえだろよ。部屋の隅で膝を抱えて顎を膝にくっつけたりしてさ、ちっちゃくちっちゃく死んだ蜘蛛さんみたいになってしまいたいやつだっているんだよ)

「ところで最近、こんな奇妙なことが案外奇妙でなくなってきてるんですよ」

 僕は機嫌が悪かったもんですから、いちいちアナウンサーの言葉にかみついてたわけなんですが、「奇妙な」ってとこで、はたと興味を持ってしまったんです。悪態をつき続けてればよかったんでしょうが、突然、えっ?って興味を持ってしまったんです。

「自分の素姓調査を自分で頼むんですよ」

(自分で自分の?)

「就職や結婚を控え、ふと不安になるんですよ。はたして自分は他人様の目から見てどう見えているのだろうと」

(自分で自分の?)

「何でも予行練習のある世の中ですから、自分で自分が調べられることへの予行練習をやり、改善できるものなら改善しようというんです。考えようによっては全くシャープなアイデアじゃないですか」

(自分で自分の?)

 その瞬間、僕はそのアイデアに全くとりつかれてしまったんです。



 そう、僕は自分で自分の素行調査を頼むと言うアイデアにまったく取りつかれてしまったんです。そしてちょっとした後ろめたさとバカバカしさも感じました。自分で自分の影を踏もうとするような・・・鼻の先についた汗を舌でなめようとして出来なかったところを人に見られてしまったような、エスカレーターで横の鏡に映った自分をナルシスト的に見つめているような、なんとなくちょっと気恥ずかしいような後ろめたいような感覚です。

 僕は正直言ってもう若いとは言えない歳です。何歳かは皆さんの想像におまかせしましょう。女なら結構開き直っている歳です。けれど男にとっては曖昧な歳というカテゴリーなのかもしれません。

 そういえばおふくろが僕を産んだとき、10才は老けたといいます。もともと5才は若く見えたおふくろでしたから、10才老けてもそれほどひどくやつれたという感じはしなかったでしょうけど・・・。歳をとると人は落ち着きが出てきたとか、大人っぽくなったとか言いますが、それはちょっとやつれたわねの裏返しですよね。そんなにおふくろに重労働を強いて生まれてきた僕でしたが、この歳になっても自分の存在感の希薄さに悩むとは何とも悲しい話です。

 とにかくラジオがきっかけで僕は調査屋さん、つまり興信所に行くことにしたのです。
 
 興信所という言葉はもう古いですよね。調査事務所・・・これも古くなってきています。探偵事務所? インフォメーションサービス? パーソナル情報サービス? 

 けれど僕はあえて古い言葉の興信所を探したいって思ったのです。でも困りました。人が普通に生活していたのではどこの興信所がいい、なんてという評判は聞かないからです。そこでイエローページを引いてみました。笑うなら笑って下さい。僕はパソコンのキーを叩くより、紙媒体のイエローページの方が心地よいし、落ち着く、そんな人間なのです。

 名は体を表すと言いますが、はたして名は興信所の良しあしをあらわすのでしょうか。

 僕は一つの興信所の名前に目を留めました。「ブルースカイ調査事務所」 ちょっと笑ってしまうでしょう。僕は横文字言葉は好きじゃないのですが、流石に「青空興信所」だったら、もっと威勢よく大声で笑ってしまったかもしれません。けれど、「ブルースカイ調査事務所」はオッケーだと思ったのです。それどころか、ここに行ってみよう!とかなりの確信さえ持ったのです。

 「ブルースカイ調査事務所」のコピーには、「パーソナルなサービス。親密に調査させていただきます」とシンプルに書いてありました。おいおい、おかしいんじゃないか、僕は思いました。親密に調査させていただきます、はどうにもおかしい、と思ったんです。でも、その「親密に」というところに少しばかりの甘さを感じないわけでもありませんでした。ちょっとした甘さをです。そこで、僕はそのオフィスの入っているビルに行き、もう少しきちんと掃除をしたらいいだろうに、という小さなエレベータに乗り、もう少しきれいに拭いたらどうだい、というドアをノックしてみたというわけです。

 入るなり、ああ、来なきゃよかった・・・って思いました。まるでテレビのギャグの一こまのような感じだったんです。どうしてそんな感じを受けたかというと、やっぱりあれでしょう。妙に物が少なく、薄っぺらなんです。いかにもセット用に作ったかのようで、ファイルケースだって、旧式のパソコンだって、コピー機だって、ソファもテーブルも何だか無理によそからもってきたようで、どうにもマッチしていないんです。けれど空気だけが、部屋に閉じ込められた空気だけが、どこか澱んでいて、テレビギャグのような底抜けのいい加減さや軽さとはずいぶん違うんです。

「どんなご用件でいらっしゃいますか?」

 声がしたとき、僕はびくっとしました。人の気配を感じてなかったからです。その女の事務員(調査員という感じではかったので、僕は当然事務員だと思ったわけですが)は、どうやら机に突っ伏して昼寝でもしていたようですが、突然頭をぴょこんと起し、べっこうの丸メガネの奥で目をパチパチさせながら、僕を見ているじゃありませんか。どうして気づかなかったんだろう、僕は自分の目を疑いました。けれど女はモグラたたきのすばしこさで頭を起こしたにもかかわらず、モグラたたきのモグラほどの存在感もなかったわけです。

 その机にはりついていたときは薄っぺらだった女は、すぐにしっかりした存在感で「どんなご用件でしょう?」と話しかけていました。突然の声の出現だったので、その存在感は少しばかりテンポがずれたにしても、次第にみしっみしっと僕に伝わってきました。

「調査のお願いにあがったのですが」

 僕が言うと、女は驚くほどの笑みを浮かべて立ち上がりました。営業用の笑みにしても驚くほどの変わり身の早さでした。立ち上がった女は「まあおかけ下さい」とねずみ色のソファを指しました。エンジの絨毯にねずみ色のソファはどうにも趣味が悪く、僕にはこたえましたが、それでも言われる通り、大人しく腰掛けました。腰がどわんとソファに沈みこみました。

 女は今度はいそいそとお茶を入れだしました。オフィスの端には、昔どこの家にでもあったような水屋があり、それもどうにも場違いでしたが、とりあえず物を集めて置いたセットという一貫性には貢献していたわけです。

 女は確かな手さばきでお茶を入れ始めました。するとさっきまで、ねずみ色のソファさながら活気のない事務員だったのが、鼻歌でも歌いだしそうな陽気なウエイトレス風に見えてきたから不思議じゃありませんか。

 もっとも、ほんの錯覚ってやつで、よくよく見れば女は相変わらずべっ甲の丸メガネをかけ、どこか曖昧であることに変わりありませんでした。うっすらと鼻の下に毛も見えそうな気もしてきました。身なりにかまわない女のようでした。

 お茶をポンと僕の前に置いた女は、そのままお盆をソファの横に立てかけて、僕の前にすわり、「さて」と言いました。いや、女は実際には言わなかったかもしれません。ただ女の目も眉も手も体中が「さて」と言っていたのです。女は「わたし、こういうものです」と言って胸ポケットから名刺を一枚取り出しました。

 「わたくし」と言わずに「わたし」と言ったところに、それも「あたし」に近い「わたし」と言ったところが何とも僕には艶っぽく感じました。ここしばらく僕の目の前でも平気で便秘の話をする会社の女の子以外とは身体的接触はもちろん話すことも全くといっていいほどなかった僕でしたから、目の前にいる彼女に思わず女を感じてしまったというわけです。けれど、じっくり、体を少し後ろにひいて見れば、やはりべっ甲の丸メガネをかけたまあどちらかというと冴えない女がいるわけで、けれど受け取った名刺はまだ彼女の胸のあたたかさが残っているようで、そして胸の曲線に沿ってか、名刺の斜めにすっと一本寄った線はまさにイエローページにあった「パーソナル」というのにふさわしく感じました。
 
 じーっと名刺を見つめている僕に彼女の「さて」の雰囲気は段々苛々したものに変わってきました。
 
 だから彼女は全身で「さて」を表すのをやめ、「ご用件はどのようなものですか?」と普通に聞いてきました。ふと彼女の名前は何だろうと思いました。名刺の皺ばかり見ていて肝心の名前を見ていなかったのです。名刺を見直すと今度は字が浮き上がって見えました。

 川野タキ、とありました。相手の名前を知ると、いやそのときの僕はきちんと把握した、という気持ちになり、なんだかゆったりと優越感まで持てたようで、顎をひき、胸を張り、「川野さんですか」を ほぉ~、川野さんというんですか、なるほどぉ~というニュアンスをこめ、言いました。

 川野さんは微笑んでいました。むっとする様子もありませんでした。よく口元は笑っていても目は怒っている人がいます。そんな器用なこと、僕にはできないと思うのですが、口で笑い、目で怒ることのできる人は結構いるんです。けれど川野さんは目も笑っていました。それは僕をひどく安心させました。

 川野さんはどうやら、このときまでに僕のタイプをつかんだようでした。

 僕はいわゆる曖昧人間です。なかなか要点を言わない、いや要点が言えないんです。要点が何かがよくわかっていないこともしょっちゅうです。

 北川さんはまるでウエイトレスがメニューを置くように、僕の前に一枚の紙を置いたのです。アイボリーの和紙に印刷した料金表というか、まさに探偵メニュー、調書メニューといったものでした。信用調査、浮気調査、ストーカー調査など、いくつかのメニューがありましたが、僕はいい紙を使っていることに、ひどく感銘を受けました。だから男にしては細く美しいといわれる指で、ゆっくりなでてみました。

すると和紙の感覚が指先に伝わり、ひどく何か懐かしい気になったのです。

「この紙、どこで購入なさったのですか?」
 
 僕はまるで紙職人でもあるかのように真剣なまなざしで川野さんに尋ねました。すると川野さんはさすがに少し苛々した様子もありましたが、口元の笑みはそのまま目元に少しだけ苛々の残光のようなものを浮かべ「すぐそこの文房具屋です」と言いました。

「こんないい紙を使うんですか? コピー用紙で十分じゃないですか?」と僕が言うと「DMにして何百人、何千人に配るわけではありませんから、ほんの数部作っただけですし、今残っているのはこれだけです」と奇妙な誠実さで教えてくれました。

 そうか、これは僕にくれるパンフレットというわけではなく、あくまで調査メニューなのだ、と気がつきました。喫茶店で注文したら「メニューおさげしてよろしいですか?」とウエイトレスが持っていってしまうあのメニューと同じなのです。友人でレストランのメニューを集めてるやつがいて、押し入れから何十枚も出してみせてくれましたが、何だか虚しいものでした。メニューというのはやはりあるべき場所になければならないのです。押し入れの中に押し込まれた下着の入った紙ダンスの横に挟んで置かれるべきものではないのです。

 僕は調査メニューに目を走らせました。どれを注文するのか決めなければなりません。ファミリーレストランにその日のランチスペシャルが終わる3時直前に駆け込み、「すみません、もうランチは終わってしまいました」と言われ、チェッと心で舌打ちし、「じゃ、いいです」と少し憤慨して出たことが何度かありますが、そのたびに後悔しました。別にその日のグラタンコロッケと唐揚げ、豚肉しょうが焼と餃子、白身魚のあんかけと海老フライのどれかが真剣に欲しかったわけではないのです。ただ、「え、ないのか~~~」というわけのわからない不満を誰かにぶつけたかっただけなのです。「じゃ、いいです!」と店を出た後、必ず後悔しました。そして結局違う店で割にあわない勘定を払うはめになり、そんなときは心の中ではなく、ほんとに舌うちしたりしました。スペシャルランチがない日曜日などは、何度もメニューを見直し、裏返したりもしますが、今日はなにぶん川野さんの目もあり、裏返してまで見る気にはなりませんでした。それでもじっとメニューを見つめずにはいられませんでした。メニューから最適なものを選ぶことがとてもとても大切なことに思えたからです。

 信用調査、浮気調査、財務調査など幾つかある中で、「尾行」というメニューがありました。

 尾行・・・。それはひどく具体的でも生々しくもありますが、なんだか爽やかな感じすら受けました。信用調査、浮気調査、結婚調査、就職調査、と目的がはっきりしている中、「尾行」というのは行為そのもので、so what? の世界だったのです。何のために尾行なのでしょう。

「尾行、というのは、つまり、尾行だけですか?」

 すると川野さんは、ああ、そのご質問ですか?というように大きくうなづきました。

 僕はそのとき川野さんの瞳の色が淡いのに気がつきました。まあ日本人にしては、ってことなんですが・・・茶色は茶色だけど薄茶色でした。けれど髪の色は真っ黒で、そこがアンバランスで普通と反対だと思いました。今はみんな髪、染めてるじゃないですか。茶色に。男でもかなりいるくらいですから、女ではほとんど100パーセントって言いたいぐらい、何らかの方法で色を抜いているのです。生え際が黒くなってくるのが嫌だったり、はやいピッチで染めるのが面倒ではないのかな、なんて思ったりしますが、それはおしゃれ心のない男の言うことでしょう。

 川野さんのような茶色い目を持った女性なら当然髪も色を抜いてくると思うのですが、彼女は真っ黒な髪のまま、後ろで一つに結んでいてなんの飾り気もないのです。川野さんって何才だろう、僕はふと思いました。そう思ったってことは、つまり、彼女に興味を持ったってわけです。僕より若いのだろうか。髪にリボンをつけるのはちょっとおかしいにしても、それなりに流行りの格好をしたら似合うだろうに、と思ったりしました。

「この、尾行、というのはですね、お客様のプライバシーを大切にするという意味なんです」

「プライバシーですか?」

「ええ、ご理由は言いたくないけれど、とにかく尾行してほしい、そいうお客様が結構いらっしゃるんです。従来のメニューですと、それにお答えできませんので」

「ただ尾行だけお願いできるのですか? 理由を言わなくても」

「ええ」

 川野さんは頷きました。できますね、とその顔は自信にみなぎっていました。

「ただ・・・」

 川野さんは笑みをさらに強めました。

「もちろん、ご理由を伺った方がやりやすいのは確かです。そこにさらなる注意を払えるっていうんでしょうか。たとえば…もし、ご主人が浮気しているのでは、とお考えのご婦人がいたとします。けれど、浮気調査をお願いします、とは言いづらい。そこで単に尾行を、と依頼されたとします。もちろん、我々といたしましたらそれでもお受けいたします。御依頼人様のお気持ちを一番に考えておりますので…。けれど、何にフォーカスして尾行すればいいのかわからないところがやりづらいのです。ドラッグをしているのではないか、の調査なら、尾行対象が人とすれ違うたび何かを手渡していないか、と見なければなりませんし、万引きの癖があるのでは、と心配している場合は、対象が店に入るたび細かい手の動きに注目しなければなりません。けれど浮気のための尾行と目的がはっきりしていれば、そんな細かい手先の動きには注意しなくてよくなります。つまり…目的をお聞きした方がより効率のよい尾行ができるわけなんです」

 川野さんはそう言って、僕を見つめました。その目は僕の目的が何なのか、まだつかみかねているようでした。

「僕は、やはりその尾行、というのを頼みたいと思います」

「どなたの?」

 川野さんは少しいたわるような口調で尋ねました。

 僕のです、僕は自分について知りたいのです。客観的に自分を見てみたいのです。おかしいですか。

「僕の……兄のです」

「お兄様ですか」

 川野さんは少し意外そうなトーンでしたが、すぐに自分の気持ちは外に表さないぞ、という営業用のスマイルになっていました。

「わかりました。特にどこか焦点をあてて、ということがありますか?」

「いいえ…特に…。なんとなく…いや、全体的に尾行してほしいのです」

 僕はとっさに「兄の」と言った自分の言葉に驚きました。僕自身のです、と胸を張って言うつもりでいたような気がしますが、兄の、と言ったあとはもともと僕自身などという気などなかったのではないか、そんな気にもなったのです。

 兄か…。兄などいない。

 そのとき、ドアが開き、一人の男が入ってきました。タキさんが何もいわず少し微笑んだように見えたところを見ると知り合いだろうと思いました。

「連絡は?」

 男は僕をちらっと見て軽く会釈したあと、川野さんに声をかけました。かすれた声でした。蛙の声をさらにすりつぶしたような声でした。だからといって魅力のない声というわけではありませんでした。それどころか、その男の容姿と同じく、ひどく心惹く声でした。

「まだありません」

 川野さんはそう言い、僕に視線を移しました。

「所長のフルセです」

 男は「古瀬流」と書かれた名刺を僕に差し出しました。

「ながれ?と読むんですか?」

「リュウです」

 所長は答えました。

 古瀬所長は決して若くはありませんでしたが、さびれた魅力がありました。それも、ひどく、とか、抜群に、をつけたいくらい魅力的な男でした。上背もありました。184センチはあるでしょう。握手をしようと立ち上がった僕より7、8センチは目の高さが上にありましたから。

 所長は僕の手を握りました。なんだかSF映画の中で善いエイリアンと握手しているような気になり、なんでだろう、と思ったりしました。

「お話はこちらの部屋で伺いましょう」

 所長は無理やりにパティションで仕切って作った部屋ごとき場所に僕を連れていきました。そこにはコバルトブルーのソファと小さなガラスのテーブルがありました。

「お待ちください」

 所長はそう言ってすぐにパティション部屋から出ていきました。

 本当に稀に見る魅力的な男でした。デザイナースーツでも着せて髪に手を入れ、それなりの表情を作り、小道具も活かして写真でも撮れば、十分にモデルとして通用するのではないでしょうか。顔には渋みに似た人生疲労のようなものが伺えましたが、それもこの所長の場合プラスに働いていました。所長は自分の魅力を知っているのだろうか、僕は思いました。

 所長は僕のことを川野さんからどのように聞くのだろう、と少し落ち着かなくなりました。

 戻ってきた所長は柔らかな笑みを浮かべていました。

「川野から聞きましたが、お兄様の尾行をということで」

「はい…。実は兄がおりまして、ちょっと問題を起こしたものですから、尾行をお願いしようかと思ったのですが、やはり弟がそんなことをしていいものかと二の足を踏んでいるところです」

「そうですか」

 所長はそう言ったきり、セールストークのようなことは言わず、心優しい教師のような視線で僕を見ました。

「迷っていらっしゃるようでしたら、今はいろいろ進んでましてね、顔を合わせることなく、自分の名を知らせることなく、調査を依頼することもできるんですよ。ネットで調査会社のサイトにアクセスし、依頼内容をインプットするだけで依頼ができるんです。もちろん何らかの名前を記入しますが、偽名でもいいですし…。先日の依頼者は『真夏の猫』と名乗っていました」

 僕はアナログ人間です。この言葉自身が滑稽なほど古いのはもちろん自覚しています。女の子なら、わたしアナログだから~~~で済むのかもしれませんが、男の子がパソコンもスマホもSNSも苦手とあれば、まじ!??の世界でほんとうに目を覆いたくなるのです。

 僕は決して数字やサイエンスが苦手なわけではありません。ただ数字以外のものが好きなんです。時も、数字で1から2、2から3に唐突に変わるのではなくきちんとチッタチッタと刻んでほしいんです。唐突なチェンジでなく滑らかな流れであってほしいんです。だって世の中、ぶつぶつ切れたものだらけじゃないですか。ぶつぶつ切れた切れっぱしだらけ見てると、何だか息切れしてしまいます。

 ちょっとしたいざこざで父と話をしなくなって随分になりますが、父は退職前はやり手のサラリーマンで専務まで出世しました。でも、家ではひどく無口な人でした。父のことを思い出すとき、なぜかバックグラウンドミュージックが流れるのです。ほら、ご存知ないかもしれませんが大昔、鶴田浩二という俳優が歌っていたあの歌です。ミュージックというより、セリフですね。セリフつきの歌ってやつです。

古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか。

 このあと、歌になるんです。何か~ら何ま~で 真っ暗ぁ~闇よぉ~  と続くんですが、IT企業に勤めていたにもかかわらず、父はこの古臭い歌が大好きでした。カラオケでよく歌いました。歌う姿は真剣そのものでした。

 父の心の奥底の世界観の中では数字も漢数字だったような気がします。でも数学は得意でデータ処理に長けていました。人間って誰でもそんな矛盾を抱えた存在なのかもしれませんね。母はきっぷのいい人でしたから、僕が数学が出来ないのを決して責めたりせず、カズトはカズトだから、とほとんど気にしていませんでした。

 ま、それほど数学ができなかったわけじゃないのですが、僕がより興味があるのはものの描写、そしてそれに内在するものなのです。僕にとっては、皆の愛情を一身に受けているスマホもどこか不気味な存在なのです。本なら一字一字の積み重ねで意味を織りなしていくじゃないですか。なのにスマホは唐突なんです。突然なんです。そうabruptです。何もなかった画面から一瞬にして、僕の周りの空間はもちろん世界のあらゆるところを満たし溢れる情報を流出させるのです。情報を惜しげもなく投げつけてくるのです。もういいよって行っても聞かないんです。確かに困ったとき、情報を得たり、日常を豊かに楽にするアプリは便利だし、もちろん僕も一目置いています。へぇ~~、ほぉ~~、と感心します。

 僕は昭和初期に生まれていたらよかったのかもしれません。手紙と電話がコミュニケーション手段だったころのペースの中だと呼吸が楽だったのかもしれません。そんな時代は人は今とは違ったある種の感性で繋がっていた、そんな気がするのです。

 話がそれてしまいましたか? とにかくネットだと自分の素姓を隠して依頼できますよ、とその格好よすぎる所長に言われても、「そうだったのか! それは素晴らしい考えだ」とは思えず、もしそうしていたら、この奇妙なオフィスにも、川野さんにも、所長にも会えなかったじゃないか、とネットに頼らなかった自分のチョイスが妙に正しかった、優れていた、という確信を得ました。



 小さなワンルームのマンションに帰った僕の頭には、オフィスのねずみ色のソファとエンジの絨毯の空間が広がったままでした。消えないどころか、それは石膏さながらの頑固さで僕の頭をかたどっていました。

 所長の存在もどんどん大きくなっていました。僕は所長にかなり興味を持ってしまいました。所長のルックスがよかったから…それだけのことと思われるかもしれません。けれどそれだけであってそれだけでないのです。

 僕がつきあいたいと思うのは女の子です。それは小さいころから変わりありませんし、いくらかは行動に移してきました。もちろんあまり成功しとは言えませんが。

 けれど僕は時々、ひどくひどく男性に惹き付けられるのです。事実ですから否定はしません。なんせ、僕は正直なアナログ人間ですから。すみません、どこか僕の中で  正直=アナログ ってなっているところがあります。もちろんアナログな人間にも嘘つきが多いと思いますので、ま、そこのところは聞き流して下さい。

 僕が男の人に惹きつけられるときは決してつきあいたいとかではなく、その男になりたい、という同一化願望なのです。どうしてあのさびれた事務所にいたルックスはいいにしてもどこかうらぶれた印象の所長になりたいのか、どこが魅力的だったかと聞かれますと確かに困ります。ルックスは確かにいいのですが、ルックスのいいだけの男なんて五万といるじゃありませんか。ただ、所長がもっと洗練された事務所でもっとスマートに登場したら、もっと惹かれたかと言われれば、はっきりノーと答えられます。ここに鍵があるのかもしれません。
 
 あまりに高尚な存在だと浮力でふわーんと飛び上がってしまい、僕との接点が無くなってしまいます。接点がないものには感情は流れていかないのです。電流と同じですね。所長の適度にくたびれたスーツも靴も、親しみを感じさせました。僕も何年かすると、この所長くらい憂いを含んだ、どこか謎めいた魅力のある存在になれるのかもしれないという希望と錯覚をもたらしたのです。もちろん10年経とうが身長が7、8センチ低いのには変わりなく、顔の彫は所長にははるか及ばず、髪だって僕の家系からするとすっかりなくなっているかもしれないのです。

 いろいろ考えては見ましたが、所長の魅力は、風もないのに決して落ちずに舞う埃のように、僕の頭に漂っていました。

 ネットで依頼し、報告書もネットで受け取ることもできるわけですが、ネットで報告される僕って一体何なのでしょう。頭でっかちなアバターになるようでまっぴらでした。

 報告書は紙でもらいたい。その方がずっと実体があるように思えたのです。

 問題は誰が僕を尾行するか、ということでした。所長が「今日、申し込まれるようでしたら、具体的な手続きは川野が説明いたします」と言い、消えて行ったあと、川野さんに尋ねました。

「あの・・・尾行は誰がなさるのですか?」

「はい、尾行ですね」

 川野さんは僕をじっと見ました。じっとと思ったけれど、それは今までより、少しだけ長めだったのにすぎなかったのかもしれません。でも、川野さんがちょっと考えたのだけはわかりました。

「尾行は大体所長がいたします」 

 北川さんは答えました。

 そして川野さんは目を左右に動かしました。そんな動きは僕が事務所に入ってきてから初めてだったので、僕はちょっと考えてしまいました。目はきょろきょろするとき左右には動くが上下にはうごかない。上下に忙しく動かしたら、宇宙人ぽくなってしまう、などと思ってから、そんなこと今どんな関係があるのだろう、とおかしくなりました。

 川野さんは和紙のメニューカードを一度持ちあげ、トンとテーブルに立てるようにしました。そしてそのあと少し息を吐き、メニューを置きました。実際は落とした、という感じでもありました。そしてもう一度言ったのです。今度はしっかりと僕を見て、目も動かしませんでした。

「今申し込まれたら、尾行は所長が責任を持ってチームを作り、指揮いたします」

 なんと大げさな、と思わないわけではありませんでしたが、

 決めた、

 僕は思いました。

 所長が僕が尾行する。そのことに僕はときめきすら覚えました。所長が尾行することで何だか自分の価値が棒高跳び並みに持ち上がるような気になったのです。

 それって案外タレントに似てるのかもしれません。スターというべきでしょうか。今、スターは不在だけど、スターとタレントの中間くらにならいるかもしれませんよね。タレントはファンがいるから光を放てるわけです。ファン一人一人の小さな光がタレントに当たり、結果として輝やいている錯覚を与えるのです。ファンがいないタレントなんて動きを止めたマリオネット、指をはずされた指人形、無人島の石像、みたいなものです。

 見る者、見られる者、ここにある種の関係が成立します。光を与える者、与えられる者。パワーをもらう者、与える者。

 ファン一人一人小さな発光体を持ってタレントに向ける。光の数が多いほど輝く。光が消えれば、パワーも消える。

 もっとも以前はこの構図だったかもしれませんが、今は一人一人が光を投げかけるわけではなく、たくさん集まった動く物体を興味をもって懐中電灯で照らしてみる程度かもしれません。暗いとこでなんか動いてる、どれどれ光を当ててみるか、お、意外におもしろいことやってるな、ま、見てみよう、あはははは。そしてしばらくすると興味もなくなり、光も消えていく…。

 タレント評論家ではないので、これくらいにしておきましょう。話がまたまたそれてしまいましたが、僕が言いたいのは、物でも者でも光源に照らされなければ光を放てない、ということなのです。僕の場合、光源が所長です。所長が僕を尾行してくれれば、僕そのものが輝けるような錯覚を持ったのです。

 僕はろくすっぽ人に見られたことがありません。まして賛美なんて縁がありません。人に見られなければ輝きもない、と感じたのです。けれど、所長が僕を尾行し、僕の報告書を作る…このアイデアは僕に小さな希望というか期待の芽を植え付けたのです。まさに小さな光です。
 


 僕は三カ月プランをたてました。三カ月で外見を、容貌を変える、そう決めたとき、とても清々しい気持ちとともに目的設定に満足して力がみなぎるのを感じました。ドーパミン? アドレナリン? 何かわからないけど、脳内物質が流れ出したのは確かでした。

 所長には、あの事務所へ行った僕ではなく、未知の僕、を尾行してほしいと思いました。そのためには、やはり僕が僕とわからないくらい変化するしかないと思いました。

 痩せるか太るか…。どちらも健康には悪いでしょう。クリスチャン・ベールは役のために骨と皮ばかりになったのですが、ひどく健康を害したそうです。ロバート・デ・ニーロ、ヴィンセント・ドノフリオ、ジャレット・レトは太りました。これも体に悪そうです。ウルブリン役のヒュー・ジャックマンは筋肉質の体を作るため、脂肪の少ない鶏肉を常に食べ続けてると言っていました。

 僕はもともと痩せ形です。だから、10キロも20キロも痩せることは不可能だし、もし頑張って少しばかり痩せても、到底別人には見えないでしょう。もとの僕が少し痩せた僕になるだけです。

 では太るというのはどうでしょう。痩せるのが駄目なら太るしかないのですが、それもため息です。僕は太れない体質なのです。普段の体重より2、3キロ重くなると、なぜか胃が悪くなり吐いてしまうのです。太るのが嫌だとか太ってしまったという強迫観念にかられるとか、そんなわけではないのです。もう少し体重は重い方がいいと思ってるわけですから。なのに太れないのです。

 変装をする、というのは問題外でした。そんなことをすればもう僕ではないのです。あくまで小道具は使わず、僕自身を変えることで、外見が今の僕とわからないくらいにならなければ意味がないのです。

 いろいろ悩み……いろいろな方法を模索し…実行し……

 そして3か月が経ちました。

 いよいよその日がやってきました。僕はブルースカイ調査事務所に電話をし、3か月前に事務所をたずねたものだと伝えました。そのとき尾行のことで川野さんと所長に相談したのだが、尾行をやはりお願いしたいと伝えました。兄が、実際には血のつながりはないが兄と思っている人間が東京に戻ってきたので、しばらく尾行をお願いしたい、と言い、住所と写真は調査事務所のポストに既に入れておいた旨、伝えました。川野さんはきっと僕のことを覚えていたと思いますが、事務的でいながら感じよく、金の支払い方法、その他の手続きなど、電話で対応してくれました。

 さあ、いよいよ尾行の始まりです。