それは何気ない始まりだった。
おどおどしたりびくつく暇もないくらい何気ない始まりだった。
そういうことの始まりには、私なりのイメージがあった。
小さい頃の空想癖をそのまま引きずって大人になった女の一人だから、今だに何をしていようと、どんな人混みの中でも、目をつぶれば自分なりのイマジネーションを広げられる、というやっかいな能力を捨て切れずにいた。だからそういうことの始まりを何度も想像してたと思う。自分でも気づかぬうちに…。
想像しながら、自分だけはそうならないだろうと自負してきた。TVの中でばたばた演じる女たちを、ソファに寝そべり大きなマグカップでコーヒー飲みながら見ている、そんな余裕を抱え込み、イマジネーションの世界だけにとどめてきた。
しかし、ここに来てイマジネーションはクリアになった。
それは多分夜だろう。六時、七時、そんな生易しい時刻ではなく、九時、十時…あるいはミッドナイトかもしれない。
ゴーストじみた人間や、浮浪者たちの彷徨いタイム。私はアパートへの帰り道、二十四時間スーパーからオレンジジュース、ミルク、それにココナッツ入りクッキーなどを買って出てくる。
私は多分疲れて見えるだろう。ギギ、ギギー…思考がほとんど止まってしまったかのように疲れて見える。スーパーのドアを開け、ストリートに出る私からはエネルギーというエネルギーが流れ出てしまっている。
多分、私は窮地にいる。お金か何かのことで困っている。そうだ、私はお金がいるのだ。
サイドウオークには、それなりの男や女がいる。リカーのボトルを茶色の紙袋に隠して体を左右へ揺らして歩く男…。肩や腕に刺青をいれた男…。訳のわからないことを口走りながらふらふら歩く女…。陽気に大声をあげる黒い髪、黒い髭、南方系の男たち…。
その中へ一歩踏み出すと私も彼らの一員だ。 Wanderer。彷徨い人。夜、歩き回る彷徨い人。異空間での彷徨い人。生暖かい風が耳の後ろをそっと撫で、夏の湿気がまとわりついてくる。
ヘイ…。
男が声をかけるのはそんなときだ。人種は…何でもいい。ただそれらしい格好をしている。黒シャツに黒ズボン、金のネックレス。男は私を見つめ、私の窮地を悟る。私も目で男のねらいを察する。男はゆっくりと口を開く…。
ここでイマジネーションは終わりだ。そこまでだったらクラシックムービー、フィルムノワールの香りすらある。続いての安ホテルのシーンはごめんだ。とたんにチープな映画になる。
純粋な恋愛以外の男と女の始まりを、私は長い間、こういうふうに空想し、予感さえしながらも、それは空想の世界だと安心していた。けれどそんなのは極々ありふれたものなのだ。黒シャツに黒ズボン、金のネックレスの男に荒んだ路上人たち…そんなお膳立てがいつもあるとは限らない。
実際、その始まりは空想のようにエキサィティングでもなければ神秘的シャドーにも染まっていなかった。それは趣味でもないのに気まぐれで買ったセーターみたいなものだった。窓をカタカタいわせる秋風、カーペットに跳んだリンゴの種、傘から垂れる雨の滴、そんな何気なさだった。
男は柔らかな微笑みを浮かべていた。ニートにカットされたブラウンとレッドの中間の髮。鼻の周りの密集したそばかすと、額にくっきりとよった皺数本がどこかアンバランスで、少年の面影が残っているようにも四十過ぎのようにも見えた。
たまった洗濯物を二つのビニール袋に詰め、コインじゃらじゃらサンダルぺたぺた、アパートのランドリールームに入っていく私に、男は軽く微笑んだ。
男は洗濯物を洗濯機から一枚一枚取り出しては広げ、乾燥機に入れていた。長袖シャツ、トレーナー、ブリーフ、灰色のソックス…。血管の浮いた男の手で取り上げられた灰色のソックスはライトの下でぐったりしたネズミのようにも見えた。
男はひよこ色のトレーナーを着ていた。レモン色でも山吹色でもなく、ひよこ色だった。赤味がかった髪とひよこ色のセーターはなぜか私に安心感を与えた。
軽く微笑む私に男も微笑んだ。私は隣の洗濯機に洗濯物を入れ、スイッチをホワイトのところに合わせようか色物のところに合わせようかと迷ったが、結局色物に合わせた。実際はほとんどホワイトだったが色物の方がどことなくフェミニンな気がしたのだ。意味なき見栄ってものだった。
ハロー。
男はゆっくり声をかけた。
ハロー。
学生ですか?
そんなところです。
大学の夜間クラスを取っていたのだから、まんざら嘘とはいえなかった。たとえ三回に一回しか出ないにしてもだ。
ショーンです、男は言った。あたしはミミです、と返すと、ニックネームかと男は聞いた。にっこり曖昧に微笑む私に、男はそれ以上聞いてこなかった。
卒業はいつですか?
卒業する予定はないんです。単に趣味なんです。それに、ノーマネー、ノータイムですから。
なぜ、ノータイムと付け加えたんだろう。残業もない仕事なので、時間だけは十分にあった。ただお金がないまま時間だけいくらあっても虚しい気がして…それがノータイムと付け加えさせた。
それは残念ですね…。男は最後の洗濯物を広げて…それは青いストライプ人りのティーシャツだった。二、三度振って、乾燥機に入れた。
ここに一生住みたいなんて惚れ込むには、冬は寒すぎ、家賃は高過ぎたが、国へ帰りたくはなかった。あのホームタウンに帰ることを思う度、心にざざーと風が吹いた。ここへ来て小さな自由を掴んだ、そう感じていた。まあ常識外れの女、なんて陰口を叩かれ、家族が肩身の狭い思いもすることもなければ、誰にもうるさいことを言われない、そんな小さくて大きな自由。小さなプールで手足を伸ばし、たまに爪先で水しぶきをピシャンとあげながら背中で浮かんでるような、そんな小さくて大きな自由。
ロンリー?イエス…。けれど、もう戻れなかった。
生活はきりきりで小切手帳を前に溜息をついたり、財布を意味なく開けたりすることがないとはいえなかったが、なんとか暮していけた。もっと田舎の物価の安いところへ移っていたら、スリーベッドルームのアパートも夢じゃなかったかもしれない。けれど私は都会に住みたかった。三十マイル走ってやっとデパートがあるようなのどかで広大なところは、それなりに素敵だろうけどノーサンクス。私は雑多な人間が共存するエネルギーが好きだった。
ジャズが流れるカフェでのランチがカウンターでのコールドサンドになっても、好きだったシアターから足が遠ざかっても、一時間程度なら雨が降っていようとタクシーに乗らずに歩き、雨を吸って靴がジャッジャッと音をたてるのを聞く羽目になっても、別に苦にはならなかった。そう、苦にはならなかった。
男を二度目に見かけたのは、冬が誇り高きスピードで領地を広げようとしているときだった。私は以前よく行ったカフェの前で、コートのポケットに手を入れ、何やら映画の半券のようなもの握り締め、立っていた。
実のところ、取りたてて何を考えていたわけでもなかった。強いていうならノスタルジックなフィーリングか…。そのカフェは、生活がまだ新鮮だったころのシンボルで、多いときには日に二回も来た。アーモンドクロワッサンとコーヒーを頼み、スケッチブックでも入りそうな大きな鞄から雑誌を取り出しゆっくりとページをめくるのがささやかな楽しみだった。
私は決して贅沢な人間じゃない。ジュエリーとか、スーパーカーとか、一等地のコンドミニアム…そんなのなんて望んでるわけじゃない。ただ、たまにゆったりしたカフェで、アーモンドクロワッサンとコーヒーを飲みながら、人生も捨てたもんじゃないわね…など思いたかったのだ。
焦点不明の目をしてぼぉーっと立っている私に、入りませんか、と男は声をかけた。私はなぜか動揺した。古いアルバムに涙しているのを見られてしまったようで気恥ずかしかった。
お財布持ってくるの忘れちゃったんです。
そんなのいいですよ、僕のおごりです。
そういう男の手にはマホガニー色のアタッシュケースが握られていた。隠し模様でストライプ入りのライトブラウンのスーツが明るい髪によく合っていた。
男はスピナッチ入りのクロワッサンにブロッコリスーブ、それにティをオーダーした。私はアーモンドクロワッサンにコーヒー。
パリパリとクリスピーな音をたてるクロワッサンを噛みしめながら、私は陽気な装いというのを取り戻していた。至福とは言わなくともほとんどハッピーだった。幸せな装いに成功して気をよくした私は、おいしいですよ、ちょっと飲んでみませんか、と男が差し出したスープのスプーンを、無邪気を装い受け取ってすすってみた。丸いスプーンにブロッコリをのせて口に流し込み、私は全く上機嫌だった。
スープの味が残っている口に、アーモンドのかけらを皿から摘み上げ、奥歯で噛んでいると男が言った。
あのアパート、僕は出たんですよ。
そうですか。
前よりはちょっとリッチというわけです。
それはおめでとうございます。
それはそれはというように頷きながら、私は微笑んだ。
すると男は不思議な視線で私を見た。私は男の表情を読めなかったし、読む努力もしなかった。男は借金を申し入れた様にどこか申しわけなさそうにも、何かいたずらを考えてる男の子のようにも見えた。
今でもノータイム、ノーマネーですか。
時間だけはありますね。
額を中指で押さえながら、私は言った。
パートタイムジョブでもさがしているんですか。
そんなとこですね。
私はディスカウントショップで、この商品もう少しばかり安くなりませんか、とでもいう表情をしていたに違いない。パートタイムなどする気はないはずだった。仕事と名のつくものは九時から五時まででたくさんのはず。プリンターの音の中で過ごす毎日に私は疲れきっていた。
カフェを出て、男と一緒に歩き出した。風が歯にしみ、耳がちぎれそうに痛かった。帽子を買わなきゃ、耳がすっぽり入るくらいの…。大きなマフラーも買わなきゃね、首と頬にしっかり巻きつけるため…。
こんな風に異性と歩くのは久しぶりだったが、ちっとも浮かれてこなかった。
ここ数年で三回恋をしたが、裏切るか裹切られるかで、実は結ばなかった。それは湿気のあるペーパーにつけた火みたいなものだった。最後の方は情熱もなくなって「裏切る」なんて言葉すらドラマチック過ぎる、そんな関係だった。
実際、もう男にときめくことはないだろう、と感じていた。自分が女の定義にあてはまるのかすら、わからなくなっていた。
少し前から、肩の下まで伸ばしていた髪がところどころ白くなり始めていた。若白髪・・・。どうにもぴんとこない言葉だった。私は白くなった髪をグレイヘアではなくシルバーと呼ぶことにした。グレイは光を弾かないが、シルバーは弾く。今のところ、ファッションでメッシュに染めたように見えなくもない。
ふん! 鏡を見て時々そんな声を上げた。別に悪くないじゃん、と思った。まったくのシルバーになったら、全てが吹っ切れそうな気がした。自分の中途半端な思考や感情、全てが。
私は英語を二段階おとして話し、四才若く言い、秘書学校に行くために英語の勉強をしていると嘘をついた。自分で自分のコーティングだ。何のコーティング?
anonymity。 匿名のコーティング。
どうして? 得はしないまでも損はしないだろうと思ったのだ。漠然とながら。
アパートすぐそこなんです。僕の部屋に寄りませんか。
男はこもった声に無理にはずみをつけたように言った。
そうですねえ…。
その誘いを私は二ヶ月ぶりにきた請求書のように受け取った。
男と並んでゆっくり歩いた。頭でかすかに羽音がした。
男がエレベータのボタンを押したときには、その羽音はうるさいほどになっていた。耳鳴りかしら、耳をとんとん叩いたが、音は確かに頭の中からだった。
エレベータは時折、ギーギーと不快な音をさせながら上がっていき、私はいつか見たテレビでマネキンが動き出すというエピソードを思い出していた。人間になったマネキンが、自分がマネキンであったことを忘れエレベータに乗り、街へ繰り出すのだ。
あたしの場合は反対ね、人間のマネキン化。匿名コーティングし、マネキン化していくのだ。いったい毎日、毎晩、何人の人間がマネキン化していくのだろう。エレベータに乗り、街へ繰り出していくのだろう。
ショーンの部屋は暖房がよくきいていた。家賃は私のアパートの二倍はするだろう。フロアと壁の色がミスマッチ。カーペットのグリーンが濃すぎる。ライトグリーンならまだしも、モスグリーンに黒を落としたような緑はどうにも暗すぎた。
素敵ね。
ビールにする?ワイン?
どちらもいらないと言った。ショーンはテレビをつけた。民主党の何とかという上院議員が演説している。
あなたがたは本当に欲しいものがわかっていますか?
お得意のポーズで両手を広げている。そのあと、教育か、温かい家族の往む家か、子供を安心して歩かせられる環境か、完璧なる医療保険かと聞き続ける。
突然ショーンが肩に手を回してきたので、私はびっくりした。けれど動揺はしなかった。予期した突然、予想したびっくりだった。にもかかわらず私の心臓は速く打ち始めていた。
ショーンのタッチに少しずつ反応していきながら、私は依然、この部屋の暖房効きすぎね、なんて思っていた。心は中性で、反応は一応女性…。
私とショーンはベッドルームに入っていった。肩を抱き合ってはいたが、ロマンチックさのかけらもなかった。一人の病人をもう一人が支えてる、という感じだった。支えているのが私なのか、病人が私なのか、どっちにしても薄暗いライティングの中で二人の男女がベッドルームに向かう雰囲気にはほど遠かった。リビングのテレビはついたままで、トークショーに変わっていた。
ベッドルームは悪くなかった。パープルがかった青。私の好きな色。
私たちは極々普通のラブメイキングをした。
どこからが普通でどこからがちょっと変、どこからがエクセレントなんてはっきり言えるほどのエキスパートでもなかったが、極々普通と結論を出したあと、私はナイトテーブルにあった本をパラパラ指先で弄んだ。
ショーンがバスローブをはおってバスルームから出てきた。黒いローブ。エアロビックスのあとのように汗をかいた胸にはそばかすが浮き上かっている。
わたしがボタンの掛け間違いに気づき、一つずつ止め直していると、ショーンが小さな箱を差し出した。
何、これ?
見上げる私にショーンは軽く口の端だけ上げてスマイルした。
それは小さな黒い箱だった。つやのある黒に、細い赤いストライプが入っている。メンズパフュー厶の箱のようにも見えた。
開けると四つにたたまれた百ドル札が一枚入っていた。
何なの?
私は聞いた。怒るか、当惑するか、冗談めかして笑いとばすか、何か積極的な感情表現をすべきだったのかもしれない。けれど私はまるで無表情だった。
私は数日前に見た映画を思い出していた。その中で女は、ワンナイトスタンドの男に二十ドル渡されて、プロじゃないわよ、と一旦返すのだが、結局受け取る。彼女はそれで何を買ったのだろうか。ちょっとましなウォッカの一本でも買えば、それで終わりの二十ドル。
私の手の中に黒い箱がある。そしてその中に百ドル。
何、これ?
再び聞いた。
ショーンは母親に叱られたかのように私を見た。お金がタイトだと言ってただろ。返さなくていいよ。
私は親指と中指で紙幣を摘み上げた。指先の紙幣の感覚になぜか笑いたくなった。腹を抱えて笑いたくなった。笑い袋のようにあたりかまわず下品な大声で笑いたくなった。両手を叩いてこりゃおかしいと笑いたくなった。けれど、私は相変わらず無表情で箱をテーブルに置き、ベッドに脚をクロスしてブラウスの最後のボタンをとめた。
プロスティチュート。
浮かんできたこの言葉。
プロスティチュート。
私か白人で、もっと知的に着飾っていたら、彼はこんなことはしなかっただろう。見くびられたわね。侮辱の中でも最も程度のひどい侮辱に違いない。私はストリートガールでもなければ、エスコートサービスでもないのだ。
けれど心の中に怒りが湧いてくる気配はなかった。責任は私にあるようにも思えた。どうしてこんなことになったんだろう。何かおかしい。何かがおかしい。もつれにもつれた糸が、巨大な綿菓子のように頭に広がっていく。
ショーンは箱を取り上げ、奇妙なほど緩慢な動作で再び私に渡した。私は、煙のように曖眛に微笑み、立ち上がった。そしてドアを閉め、一、二、三、四、かっきり三十歩歩いてエレベータに乗った。
エレベータに入ると。首をガクッとそらせて天井を見つめた。心と頭と体、三つがばらばらになって空間に浮かんでる、そんな感覚に目をつぶり大きく息を吐いた。私という部品が一瞬にしてばらばらになり、宙にほおり出され、疲れだけがどんよりと空中に残る。
百ドル…この金はショーンに惚れてても憎んでても受け取ることはできなかっただろう。けれど、彼に対する感情は、好き嫌いのスケール上にはなく、罪の意識など感じてやしなかった。私は買い物でお釣りを多く貰ったような気持ちだった。
アパートへ帰ってから百ドル札一枚、ガラステーブルの上にのせてみた。かなり新しい。それを見ながらショーンが言った言葉を思い出した。今月から離婚手当ての心配がなくなったんだ、妻が再婚したんでね。それにちょっと昇格もしたんだ。だから金に余裕ができた。ショーンは自分から私への金の移行がいかにも正当であるかのように言った。それまで買い控えてきた写真集やコートや靴や鞄に金を費やすのが当然であるのと同じようにだ。
紙幣を見ながら、これが二十ドル札五枚だったり、十ドル札十枚だったらどうだっただろうか、と考えた。返したかもしれない。けれど百ドル札一枚というのはちょっと小粋に思えたのだ。
次にショーンから電話があったのは二週間後だった。私は何を期待していただろう。ショーンの体の温もりか、百ドル札か。どちらにも緊急の欲求は感じていなかった。
ブザーを鳴らす。ドアを開けたショーンはストライプのジャケットに黄色のタイをしていた。靴の茶色は限りなくオレンジ色で、この夜のショーンはビジネスマン風というよりピエロ風だった。
ショーンは微笑み、リビングまで私の手を引いていった。ショーンってこんなに外股だったかしら、そんなこと思いながらソファに腰をかけた。
それから数分後にはベッドルームでショーンの首に手を回していた。フィットネスクラブのマットの上でのエクササイズに似ている。スクイーズースクイーズ! エアロビインストラクターのジーンの声が聞こえてくるようだった。
帰りにショーンがまだ金はタイトかと聞いた。イエス。彼の頭の向こうの壁を見つめながら私は答えた。ノーと言えばショーンとのつながりがなくなってしまうように思えた。整理下手で、余分なものでもしまっておく私だ。関係を絶つ理由がとりたててなければ、しばらくキープしておくのも悪くない。
ショーンはほっとしたように小さなカードを入れるような封筒を差し出した。私はゆっくり頷き、握りしめたまま、エレベータに乗った。
アパートへの帰り、リカーショップでワインを買った。レッドかホワイトか決めかね、二本、買ってしまった。
外へ出ると、どこか不穏な空気が流れていた。いや、不穏…というネガティブなエネルギーではなく、それでいてミスティリアスといってしまえば陳腐すぎ、どこか凝縮した空気だった。
そのエネルギーは体を包み込み、背中の上から下まですーっと見えない手で撫でられる……。そんな不思議な感覚だった。
そのときだった。道を隔てた向こう側の人物が、僅かだがぼんやり光っているのに気が付いた。
その人物に焦点を合わせた。
長いコートを着た男だった。
男はこちらに向かって横断歩道を渡ってきた。すれ違う人は誰も彼に目をとめない。
不思議なのはその顔だった。
横断歩道を渡り切った男は、私のすぐ前に立っていた。大して背も高くなければ、横幅も太すぎるわけではなかった。ただ顔が人間とアライグマの中間に見えたのだ。
You can see me.
私が見えるんですね、男の声はソフトでテナーで囁くようだった。口はほとんど動いてないようにも見えた。
初めてですか? 心配はいりません。
そしていたわるようにこう言ったのだ。You are a feeler.
そう、確かにそう言った。
You are a feeler.
私は男に背を向け、小走りをした。混乱していたが、大丈夫だと感じていた。
部屋に戻ったころにはすっかり落ちついていた。赤ワインの栓を抜き、グラスに入れ、一口飲んだ。
そして調べた。フィーラーの一番の意味は「触覚」だった。他の意味もいろいろあったがどの辞書でも一番に出てくるのは触覚だった。
触覚か……。
虫がもっている二本の触覚。ふと私は、自分が目に見えない二本の触覚でいつも何かを探してきた、求めてきたんじゃないかと思った。
男は私がフィーラーだと言ったのだ。フィーラーとは、私の特質なのか種類なのか能力なのか、それとも存在そのものなのか。
私を一本の触覚と言ったわけではないのだけは確かだった。触覚のような人間。触覚を持つ人間という意味だったのだろうか。
なんだったんだろ、あの男は…。夢でもみたのか。いや、頭はクリアだった。今夜はショーンのところでアルコールも飲まなかった。酔ってもいない。そして精神も病んでいない。なぜかそれには妙な自信があった。けれど病んでいる人ほど病んでないと思うのだろう。私は フッ フッ と二度ほど笑った。
それからもショーンとは会い続けたが、あの不思議な男には会うことがなかった。
ショーンは時としてとてもスキルフルで、何回かに一度はとてもいい気持ちになることすらできた。彼は生活の中にパラパラちりばめられていた空白の一つを埋めた。ほんの小さな一つの空白であったにしても。
マネキン化した私がショーンに感じるのはほんのテンポラリーな体の接触、それにともなう何のへんてつもないエキサイトメント…ただそれだけのことで、私たちの問には依然会話の広がりは見られなかった。
一度、彼は、これからどうするのと聞いた。私は適当に音楽学院の名をあげ、ピアノを専攻するつもりだと答えた。彼がくちびるの端を中途半端に上げ、笑いを浮かべたところを見ると、どうやら嘘は見破られたようだった。秘書になるつもりだったんじゃないのか、あの学校にピアノ学科などあったかと聞くショーンに、もちろんよ、バリーマニローが出たじゃないの、と大昔のコパカバーナのメロディをハミングしてみせたが、実のところバリーマニローがどこを出たかなどまるで知らなかったし、何より私は音楽を愛するタイプには見えないはずだった。
一度からかい半分で、前の奥さんの写真を見せて欲しいと言った。ちょっとした好奇心だった。ショーンが引き出しから取り出しだのは、ダークヘアとブルーの目がなんとなくアンバランスな印象を与える顎の尖った女の写真だった。素敵じゃない、と言ったあと、私はこう聞いた。
私と彼女、どっちか魅力的?
言ってから、自分でぞっとした。ぞっと…ぞっと…ぞっと…した。自分をローラーでひき、くるくると丸めて壁に叩きつけたくなった。そしてこのシチュエーション全てを嫌悪した。
その時を除くと、私とショーンの関係は悪くはなかった。マネキンは人との摩擦をできるだけ避けようとする。話らしい話をしなかったのは、都合のよい関係が崩れるのを恐れていたからだ。
雨が降ってる。
ほんとね。
時間まだある?
あるわよ。
今度の水曜?
そうね。
私たちの会話は二語の世界だった。
親しくなるほど言葉数が少なくなるというが、それは精神と肉体の親密さが浸透し、次第に言葉が単純化されていく場合だ。私たちは最初から二語の世界から入ったのだから、出発点と到達点が逆さだった。私たちの二語の世界はそのまま何の広がりも見せなかった。
けれど、それは心地よくすらある世界だった。絶えず投げかけられる言葉の洪水に目をパチクリさせることもかく、深みのない二語の世界に身を横たえる…。
おどおどしたりびくつく暇もないくらい何気ない始まりだった。
そういうことの始まりには、私なりのイメージがあった。
小さい頃の空想癖をそのまま引きずって大人になった女の一人だから、今だに何をしていようと、どんな人混みの中でも、目をつぶれば自分なりのイマジネーションを広げられる、というやっかいな能力を捨て切れずにいた。だからそういうことの始まりを何度も想像してたと思う。自分でも気づかぬうちに…。
想像しながら、自分だけはそうならないだろうと自負してきた。TVの中でばたばた演じる女たちを、ソファに寝そべり大きなマグカップでコーヒー飲みながら見ている、そんな余裕を抱え込み、イマジネーションの世界だけにとどめてきた。
しかし、ここに来てイマジネーションはクリアになった。
それは多分夜だろう。六時、七時、そんな生易しい時刻ではなく、九時、十時…あるいはミッドナイトかもしれない。
ゴーストじみた人間や、浮浪者たちの彷徨いタイム。私はアパートへの帰り道、二十四時間スーパーからオレンジジュース、ミルク、それにココナッツ入りクッキーなどを買って出てくる。
私は多分疲れて見えるだろう。ギギ、ギギー…思考がほとんど止まってしまったかのように疲れて見える。スーパーのドアを開け、ストリートに出る私からはエネルギーというエネルギーが流れ出てしまっている。
多分、私は窮地にいる。お金か何かのことで困っている。そうだ、私はお金がいるのだ。
サイドウオークには、それなりの男や女がいる。リカーのボトルを茶色の紙袋に隠して体を左右へ揺らして歩く男…。肩や腕に刺青をいれた男…。訳のわからないことを口走りながらふらふら歩く女…。陽気に大声をあげる黒い髪、黒い髭、南方系の男たち…。
その中へ一歩踏み出すと私も彼らの一員だ。 Wanderer。彷徨い人。夜、歩き回る彷徨い人。異空間での彷徨い人。生暖かい風が耳の後ろをそっと撫で、夏の湿気がまとわりついてくる。
ヘイ…。
男が声をかけるのはそんなときだ。人種は…何でもいい。ただそれらしい格好をしている。黒シャツに黒ズボン、金のネックレス。男は私を見つめ、私の窮地を悟る。私も目で男のねらいを察する。男はゆっくりと口を開く…。
ここでイマジネーションは終わりだ。そこまでだったらクラシックムービー、フィルムノワールの香りすらある。続いての安ホテルのシーンはごめんだ。とたんにチープな映画になる。
純粋な恋愛以外の男と女の始まりを、私は長い間、こういうふうに空想し、予感さえしながらも、それは空想の世界だと安心していた。けれどそんなのは極々ありふれたものなのだ。黒シャツに黒ズボン、金のネックレスの男に荒んだ路上人たち…そんなお膳立てがいつもあるとは限らない。
実際、その始まりは空想のようにエキサィティングでもなければ神秘的シャドーにも染まっていなかった。それは趣味でもないのに気まぐれで買ったセーターみたいなものだった。窓をカタカタいわせる秋風、カーペットに跳んだリンゴの種、傘から垂れる雨の滴、そんな何気なさだった。
男は柔らかな微笑みを浮かべていた。ニートにカットされたブラウンとレッドの中間の髮。鼻の周りの密集したそばかすと、額にくっきりとよった皺数本がどこかアンバランスで、少年の面影が残っているようにも四十過ぎのようにも見えた。
たまった洗濯物を二つのビニール袋に詰め、コインじゃらじゃらサンダルぺたぺた、アパートのランドリールームに入っていく私に、男は軽く微笑んだ。
男は洗濯物を洗濯機から一枚一枚取り出しては広げ、乾燥機に入れていた。長袖シャツ、トレーナー、ブリーフ、灰色のソックス…。血管の浮いた男の手で取り上げられた灰色のソックスはライトの下でぐったりしたネズミのようにも見えた。
男はひよこ色のトレーナーを着ていた。レモン色でも山吹色でもなく、ひよこ色だった。赤味がかった髪とひよこ色のセーターはなぜか私に安心感を与えた。
軽く微笑む私に男も微笑んだ。私は隣の洗濯機に洗濯物を入れ、スイッチをホワイトのところに合わせようか色物のところに合わせようかと迷ったが、結局色物に合わせた。実際はほとんどホワイトだったが色物の方がどことなくフェミニンな気がしたのだ。意味なき見栄ってものだった。
ハロー。
男はゆっくり声をかけた。
ハロー。
学生ですか?
そんなところです。
大学の夜間クラスを取っていたのだから、まんざら嘘とはいえなかった。たとえ三回に一回しか出ないにしてもだ。
ショーンです、男は言った。あたしはミミです、と返すと、ニックネームかと男は聞いた。にっこり曖昧に微笑む私に、男はそれ以上聞いてこなかった。
卒業はいつですか?
卒業する予定はないんです。単に趣味なんです。それに、ノーマネー、ノータイムですから。
なぜ、ノータイムと付け加えたんだろう。残業もない仕事なので、時間だけは十分にあった。ただお金がないまま時間だけいくらあっても虚しい気がして…それがノータイムと付け加えさせた。
それは残念ですね…。男は最後の洗濯物を広げて…それは青いストライプ人りのティーシャツだった。二、三度振って、乾燥機に入れた。
ここに一生住みたいなんて惚れ込むには、冬は寒すぎ、家賃は高過ぎたが、国へ帰りたくはなかった。あのホームタウンに帰ることを思う度、心にざざーと風が吹いた。ここへ来て小さな自由を掴んだ、そう感じていた。まあ常識外れの女、なんて陰口を叩かれ、家族が肩身の狭い思いもすることもなければ、誰にもうるさいことを言われない、そんな小さくて大きな自由。小さなプールで手足を伸ばし、たまに爪先で水しぶきをピシャンとあげながら背中で浮かんでるような、そんな小さくて大きな自由。
ロンリー?イエス…。けれど、もう戻れなかった。
生活はきりきりで小切手帳を前に溜息をついたり、財布を意味なく開けたりすることがないとはいえなかったが、なんとか暮していけた。もっと田舎の物価の安いところへ移っていたら、スリーベッドルームのアパートも夢じゃなかったかもしれない。けれど私は都会に住みたかった。三十マイル走ってやっとデパートがあるようなのどかで広大なところは、それなりに素敵だろうけどノーサンクス。私は雑多な人間が共存するエネルギーが好きだった。
ジャズが流れるカフェでのランチがカウンターでのコールドサンドになっても、好きだったシアターから足が遠ざかっても、一時間程度なら雨が降っていようとタクシーに乗らずに歩き、雨を吸って靴がジャッジャッと音をたてるのを聞く羽目になっても、別に苦にはならなかった。そう、苦にはならなかった。
男を二度目に見かけたのは、冬が誇り高きスピードで領地を広げようとしているときだった。私は以前よく行ったカフェの前で、コートのポケットに手を入れ、何やら映画の半券のようなもの握り締め、立っていた。
実のところ、取りたてて何を考えていたわけでもなかった。強いていうならノスタルジックなフィーリングか…。そのカフェは、生活がまだ新鮮だったころのシンボルで、多いときには日に二回も来た。アーモンドクロワッサンとコーヒーを頼み、スケッチブックでも入りそうな大きな鞄から雑誌を取り出しゆっくりとページをめくるのがささやかな楽しみだった。
私は決して贅沢な人間じゃない。ジュエリーとか、スーパーカーとか、一等地のコンドミニアム…そんなのなんて望んでるわけじゃない。ただ、たまにゆったりしたカフェで、アーモンドクロワッサンとコーヒーを飲みながら、人生も捨てたもんじゃないわね…など思いたかったのだ。
焦点不明の目をしてぼぉーっと立っている私に、入りませんか、と男は声をかけた。私はなぜか動揺した。古いアルバムに涙しているのを見られてしまったようで気恥ずかしかった。
お財布持ってくるの忘れちゃったんです。
そんなのいいですよ、僕のおごりです。
そういう男の手にはマホガニー色のアタッシュケースが握られていた。隠し模様でストライプ入りのライトブラウンのスーツが明るい髪によく合っていた。
男はスピナッチ入りのクロワッサンにブロッコリスーブ、それにティをオーダーした。私はアーモンドクロワッサンにコーヒー。
パリパリとクリスピーな音をたてるクロワッサンを噛みしめながら、私は陽気な装いというのを取り戻していた。至福とは言わなくともほとんどハッピーだった。幸せな装いに成功して気をよくした私は、おいしいですよ、ちょっと飲んでみませんか、と男が差し出したスープのスプーンを、無邪気を装い受け取ってすすってみた。丸いスプーンにブロッコリをのせて口に流し込み、私は全く上機嫌だった。
スープの味が残っている口に、アーモンドのかけらを皿から摘み上げ、奥歯で噛んでいると男が言った。
あのアパート、僕は出たんですよ。
そうですか。
前よりはちょっとリッチというわけです。
それはおめでとうございます。
それはそれはというように頷きながら、私は微笑んだ。
すると男は不思議な視線で私を見た。私は男の表情を読めなかったし、読む努力もしなかった。男は借金を申し入れた様にどこか申しわけなさそうにも、何かいたずらを考えてる男の子のようにも見えた。
今でもノータイム、ノーマネーですか。
時間だけはありますね。
額を中指で押さえながら、私は言った。
パートタイムジョブでもさがしているんですか。
そんなとこですね。
私はディスカウントショップで、この商品もう少しばかり安くなりませんか、とでもいう表情をしていたに違いない。パートタイムなどする気はないはずだった。仕事と名のつくものは九時から五時まででたくさんのはず。プリンターの音の中で過ごす毎日に私は疲れきっていた。
カフェを出て、男と一緒に歩き出した。風が歯にしみ、耳がちぎれそうに痛かった。帽子を買わなきゃ、耳がすっぽり入るくらいの…。大きなマフラーも買わなきゃね、首と頬にしっかり巻きつけるため…。
こんな風に異性と歩くのは久しぶりだったが、ちっとも浮かれてこなかった。
ここ数年で三回恋をしたが、裏切るか裹切られるかで、実は結ばなかった。それは湿気のあるペーパーにつけた火みたいなものだった。最後の方は情熱もなくなって「裏切る」なんて言葉すらドラマチック過ぎる、そんな関係だった。
実際、もう男にときめくことはないだろう、と感じていた。自分が女の定義にあてはまるのかすら、わからなくなっていた。
少し前から、肩の下まで伸ばしていた髪がところどころ白くなり始めていた。若白髪・・・。どうにもぴんとこない言葉だった。私は白くなった髪をグレイヘアではなくシルバーと呼ぶことにした。グレイは光を弾かないが、シルバーは弾く。今のところ、ファッションでメッシュに染めたように見えなくもない。
ふん! 鏡を見て時々そんな声を上げた。別に悪くないじゃん、と思った。まったくのシルバーになったら、全てが吹っ切れそうな気がした。自分の中途半端な思考や感情、全てが。
私は英語を二段階おとして話し、四才若く言い、秘書学校に行くために英語の勉強をしていると嘘をついた。自分で自分のコーティングだ。何のコーティング?
anonymity。 匿名のコーティング。
どうして? 得はしないまでも損はしないだろうと思ったのだ。漠然とながら。
アパートすぐそこなんです。僕の部屋に寄りませんか。
男はこもった声に無理にはずみをつけたように言った。
そうですねえ…。
その誘いを私は二ヶ月ぶりにきた請求書のように受け取った。
男と並んでゆっくり歩いた。頭でかすかに羽音がした。
男がエレベータのボタンを押したときには、その羽音はうるさいほどになっていた。耳鳴りかしら、耳をとんとん叩いたが、音は確かに頭の中からだった。
エレベータは時折、ギーギーと不快な音をさせながら上がっていき、私はいつか見たテレビでマネキンが動き出すというエピソードを思い出していた。人間になったマネキンが、自分がマネキンであったことを忘れエレベータに乗り、街へ繰り出すのだ。
あたしの場合は反対ね、人間のマネキン化。匿名コーティングし、マネキン化していくのだ。いったい毎日、毎晩、何人の人間がマネキン化していくのだろう。エレベータに乗り、街へ繰り出していくのだろう。
ショーンの部屋は暖房がよくきいていた。家賃は私のアパートの二倍はするだろう。フロアと壁の色がミスマッチ。カーペットのグリーンが濃すぎる。ライトグリーンならまだしも、モスグリーンに黒を落としたような緑はどうにも暗すぎた。
素敵ね。
ビールにする?ワイン?
どちらもいらないと言った。ショーンはテレビをつけた。民主党の何とかという上院議員が演説している。
あなたがたは本当に欲しいものがわかっていますか?
お得意のポーズで両手を広げている。そのあと、教育か、温かい家族の往む家か、子供を安心して歩かせられる環境か、完璧なる医療保険かと聞き続ける。
突然ショーンが肩に手を回してきたので、私はびっくりした。けれど動揺はしなかった。予期した突然、予想したびっくりだった。にもかかわらず私の心臓は速く打ち始めていた。
ショーンのタッチに少しずつ反応していきながら、私は依然、この部屋の暖房効きすぎね、なんて思っていた。心は中性で、反応は一応女性…。
私とショーンはベッドルームに入っていった。肩を抱き合ってはいたが、ロマンチックさのかけらもなかった。一人の病人をもう一人が支えてる、という感じだった。支えているのが私なのか、病人が私なのか、どっちにしても薄暗いライティングの中で二人の男女がベッドルームに向かう雰囲気にはほど遠かった。リビングのテレビはついたままで、トークショーに変わっていた。
ベッドルームは悪くなかった。パープルがかった青。私の好きな色。
私たちは極々普通のラブメイキングをした。
どこからが普通でどこからがちょっと変、どこからがエクセレントなんてはっきり言えるほどのエキスパートでもなかったが、極々普通と結論を出したあと、私はナイトテーブルにあった本をパラパラ指先で弄んだ。
ショーンがバスローブをはおってバスルームから出てきた。黒いローブ。エアロビックスのあとのように汗をかいた胸にはそばかすが浮き上かっている。
わたしがボタンの掛け間違いに気づき、一つずつ止め直していると、ショーンが小さな箱を差し出した。
何、これ?
見上げる私にショーンは軽く口の端だけ上げてスマイルした。
それは小さな黒い箱だった。つやのある黒に、細い赤いストライプが入っている。メンズパフュー厶の箱のようにも見えた。
開けると四つにたたまれた百ドル札が一枚入っていた。
何なの?
私は聞いた。怒るか、当惑するか、冗談めかして笑いとばすか、何か積極的な感情表現をすべきだったのかもしれない。けれど私はまるで無表情だった。
私は数日前に見た映画を思い出していた。その中で女は、ワンナイトスタンドの男に二十ドル渡されて、プロじゃないわよ、と一旦返すのだが、結局受け取る。彼女はそれで何を買ったのだろうか。ちょっとましなウォッカの一本でも買えば、それで終わりの二十ドル。
私の手の中に黒い箱がある。そしてその中に百ドル。
何、これ?
再び聞いた。
ショーンは母親に叱られたかのように私を見た。お金がタイトだと言ってただろ。返さなくていいよ。
私は親指と中指で紙幣を摘み上げた。指先の紙幣の感覚になぜか笑いたくなった。腹を抱えて笑いたくなった。笑い袋のようにあたりかまわず下品な大声で笑いたくなった。両手を叩いてこりゃおかしいと笑いたくなった。けれど、私は相変わらず無表情で箱をテーブルに置き、ベッドに脚をクロスしてブラウスの最後のボタンをとめた。
プロスティチュート。
浮かんできたこの言葉。
プロスティチュート。
私か白人で、もっと知的に着飾っていたら、彼はこんなことはしなかっただろう。見くびられたわね。侮辱の中でも最も程度のひどい侮辱に違いない。私はストリートガールでもなければ、エスコートサービスでもないのだ。
けれど心の中に怒りが湧いてくる気配はなかった。責任は私にあるようにも思えた。どうしてこんなことになったんだろう。何かおかしい。何かがおかしい。もつれにもつれた糸が、巨大な綿菓子のように頭に広がっていく。
ショーンは箱を取り上げ、奇妙なほど緩慢な動作で再び私に渡した。私は、煙のように曖眛に微笑み、立ち上がった。そしてドアを閉め、一、二、三、四、かっきり三十歩歩いてエレベータに乗った。
エレベータに入ると。首をガクッとそらせて天井を見つめた。心と頭と体、三つがばらばらになって空間に浮かんでる、そんな感覚に目をつぶり大きく息を吐いた。私という部品が一瞬にしてばらばらになり、宙にほおり出され、疲れだけがどんよりと空中に残る。
百ドル…この金はショーンに惚れてても憎んでても受け取ることはできなかっただろう。けれど、彼に対する感情は、好き嫌いのスケール上にはなく、罪の意識など感じてやしなかった。私は買い物でお釣りを多く貰ったような気持ちだった。
アパートへ帰ってから百ドル札一枚、ガラステーブルの上にのせてみた。かなり新しい。それを見ながらショーンが言った言葉を思い出した。今月から離婚手当ての心配がなくなったんだ、妻が再婚したんでね。それにちょっと昇格もしたんだ。だから金に余裕ができた。ショーンは自分から私への金の移行がいかにも正当であるかのように言った。それまで買い控えてきた写真集やコートや靴や鞄に金を費やすのが当然であるのと同じようにだ。
紙幣を見ながら、これが二十ドル札五枚だったり、十ドル札十枚だったらどうだっただろうか、と考えた。返したかもしれない。けれど百ドル札一枚というのはちょっと小粋に思えたのだ。
次にショーンから電話があったのは二週間後だった。私は何を期待していただろう。ショーンの体の温もりか、百ドル札か。どちらにも緊急の欲求は感じていなかった。
ブザーを鳴らす。ドアを開けたショーンはストライプのジャケットに黄色のタイをしていた。靴の茶色は限りなくオレンジ色で、この夜のショーンはビジネスマン風というよりピエロ風だった。
ショーンは微笑み、リビングまで私の手を引いていった。ショーンってこんなに外股だったかしら、そんなこと思いながらソファに腰をかけた。
それから数分後にはベッドルームでショーンの首に手を回していた。フィットネスクラブのマットの上でのエクササイズに似ている。スクイーズースクイーズ! エアロビインストラクターのジーンの声が聞こえてくるようだった。
帰りにショーンがまだ金はタイトかと聞いた。イエス。彼の頭の向こうの壁を見つめながら私は答えた。ノーと言えばショーンとのつながりがなくなってしまうように思えた。整理下手で、余分なものでもしまっておく私だ。関係を絶つ理由がとりたててなければ、しばらくキープしておくのも悪くない。
ショーンはほっとしたように小さなカードを入れるような封筒を差し出した。私はゆっくり頷き、握りしめたまま、エレベータに乗った。
アパートへの帰り、リカーショップでワインを買った。レッドかホワイトか決めかね、二本、買ってしまった。
外へ出ると、どこか不穏な空気が流れていた。いや、不穏…というネガティブなエネルギーではなく、それでいてミスティリアスといってしまえば陳腐すぎ、どこか凝縮した空気だった。
そのエネルギーは体を包み込み、背中の上から下まですーっと見えない手で撫でられる……。そんな不思議な感覚だった。
そのときだった。道を隔てた向こう側の人物が、僅かだがぼんやり光っているのに気が付いた。
その人物に焦点を合わせた。
長いコートを着た男だった。
男はこちらに向かって横断歩道を渡ってきた。すれ違う人は誰も彼に目をとめない。
不思議なのはその顔だった。
横断歩道を渡り切った男は、私のすぐ前に立っていた。大して背も高くなければ、横幅も太すぎるわけではなかった。ただ顔が人間とアライグマの中間に見えたのだ。
You can see me.
私が見えるんですね、男の声はソフトでテナーで囁くようだった。口はほとんど動いてないようにも見えた。
初めてですか? 心配はいりません。
そしていたわるようにこう言ったのだ。You are a feeler.
そう、確かにそう言った。
You are a feeler.
私は男に背を向け、小走りをした。混乱していたが、大丈夫だと感じていた。
部屋に戻ったころにはすっかり落ちついていた。赤ワインの栓を抜き、グラスに入れ、一口飲んだ。
そして調べた。フィーラーの一番の意味は「触覚」だった。他の意味もいろいろあったがどの辞書でも一番に出てくるのは触覚だった。
触覚か……。
虫がもっている二本の触覚。ふと私は、自分が目に見えない二本の触覚でいつも何かを探してきた、求めてきたんじゃないかと思った。
男は私がフィーラーだと言ったのだ。フィーラーとは、私の特質なのか種類なのか能力なのか、それとも存在そのものなのか。
私を一本の触覚と言ったわけではないのだけは確かだった。触覚のような人間。触覚を持つ人間という意味だったのだろうか。
なんだったんだろ、あの男は…。夢でもみたのか。いや、頭はクリアだった。今夜はショーンのところでアルコールも飲まなかった。酔ってもいない。そして精神も病んでいない。なぜかそれには妙な自信があった。けれど病んでいる人ほど病んでないと思うのだろう。私は フッ フッ と二度ほど笑った。
それからもショーンとは会い続けたが、あの不思議な男には会うことがなかった。
ショーンは時としてとてもスキルフルで、何回かに一度はとてもいい気持ちになることすらできた。彼は生活の中にパラパラちりばめられていた空白の一つを埋めた。ほんの小さな一つの空白であったにしても。
マネキン化した私がショーンに感じるのはほんのテンポラリーな体の接触、それにともなう何のへんてつもないエキサイトメント…ただそれだけのことで、私たちの問には依然会話の広がりは見られなかった。
一度、彼は、これからどうするのと聞いた。私は適当に音楽学院の名をあげ、ピアノを専攻するつもりだと答えた。彼がくちびるの端を中途半端に上げ、笑いを浮かべたところを見ると、どうやら嘘は見破られたようだった。秘書になるつもりだったんじゃないのか、あの学校にピアノ学科などあったかと聞くショーンに、もちろんよ、バリーマニローが出たじゃないの、と大昔のコパカバーナのメロディをハミングしてみせたが、実のところバリーマニローがどこを出たかなどまるで知らなかったし、何より私は音楽を愛するタイプには見えないはずだった。
一度からかい半分で、前の奥さんの写真を見せて欲しいと言った。ちょっとした好奇心だった。ショーンが引き出しから取り出しだのは、ダークヘアとブルーの目がなんとなくアンバランスな印象を与える顎の尖った女の写真だった。素敵じゃない、と言ったあと、私はこう聞いた。
私と彼女、どっちか魅力的?
言ってから、自分でぞっとした。ぞっと…ぞっと…ぞっと…した。自分をローラーでひき、くるくると丸めて壁に叩きつけたくなった。そしてこのシチュエーション全てを嫌悪した。
その時を除くと、私とショーンの関係は悪くはなかった。マネキンは人との摩擦をできるだけ避けようとする。話らしい話をしなかったのは、都合のよい関係が崩れるのを恐れていたからだ。
雨が降ってる。
ほんとね。
時間まだある?
あるわよ。
今度の水曜?
そうね。
私たちの会話は二語の世界だった。
親しくなるほど言葉数が少なくなるというが、それは精神と肉体の親密さが浸透し、次第に言葉が単純化されていく場合だ。私たちは最初から二語の世界から入ったのだから、出発点と到達点が逆さだった。私たちの二語の世界はそのまま何の広がりも見せなかった。
けれど、それは心地よくすらある世界だった。絶えず投げかけられる言葉の洪水に目をパチクリさせることもかく、深みのない二語の世界に身を横たえる…。