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 篠崎椿が幽霊となって戻ってきた。一大事だった。いやそんなはずはない。幽霊なんているはずがない。じゃあ今目の前にいるのは何だ。そんなの幻覚に決まっているだろ。落ち着け。これは幻覚。僕の会いたいという欲求が見せている幻。
「ねえ、洸基。洸基ってば」
 今度は幻聴まで聞こえだした。僕の頭はついにおかしくなってしまったのかもしれない。
「ちょっと、見えてるんでしょ。聞こえてるんでしょ。ねえ、ねえって」
 これは幻覚。これは幻覚。篠崎は僕に話しかけながら、僕の周りを浮遊したりしていない。
「洸基くーん。南波(なんば)洸基くーん。返事してくださーい」
 返事をしたら駄目だ。返事をしたら僕は僕を精神異常者だと認めてしまうことになる。
「あ、エロ本みっけ」
「エロ本なんて持ってねえよ、バカ! …………あ」
 やってしまった。
「…………やっぱり、聞こえてるじゃん」
「違う。今のは不可抗力だ」
「じゃあ最初に私の顔見て名前呼んだのは何だったのよ」
「知らない。僕は何も知らない」
 頭から布団を被って現実を遮断する。そうだ。これは夢だ。寝て起きたら全て元通り。僕は正常だ。
「往生際が悪いなあ。認めてよ。私のことが見えるし、声も聞こえるって」
 布団の隙間から篠崎が覗き込んでくる。目と目がばっちりと合って、ついに僕は言い逃れが出来ない状態になってしまった。
「……本当に篠崎、なのか?」
「そうだよ。君の幼馴染みで一週間前に死んだ篠崎椿だよ」
「信じられない」
「信じてよ」
 黒く透き通った大きな瞳が僕をみつめてくる。死んでいるはずの彼女の目に僕が映り込んでいるのは、とても不思議な光景だった。
「…………何で僕の部屋にいるんだよ」
 もう認めるしかなかった。
 篠崎椿は今僕の目の前にいるのだと。
「いやね、気付いたら道路に突っ立っててさ。何となく死んだときのことは憶えてたから、じゃあ今の私は幽霊なんだなって思ったのね。で、とりあえず洸基の部屋に来てみた」
「何でそこでとりあえず僕の部屋なんだよ!」
 普通は自分の家とか、ゆかりのある場所とか色々あるだろうに。どうしてそこで僕の部屋が真っ先に浮かぶのか全くもって理解出来ない。
「ほら中学の修学旅行でやった肝試しで、洸基めちゃくちゃ怖がってたじゃん。だから驚かせてやろうかなって」
「動機が不純すぎる。ていうかあれは怖がってたんじゃなくて」
「じゃなくて?」
「……何でもねえよ」
 好きな人とペアで緊張していただけなんて、恥ずかしくて言える訳がない。
「にしても洸基に霊感があったなんて、私知らなかった」
「いやそれに関しては僕も初めて知った」
 今まで幽霊を見た経験なんて一度もない。ラップ音を聞いたこともなければ、変な視線を感じたこともない。本当にそういう経験が一切なかったから、僕には霊感なるものは秘められていないのだと思っていた。というか、そもそも幽霊の存在自体信じていなかった。
「幽霊を見たのは篠崎が初めてだよ」
「なーんだ。てっきり私は、霊感があるから肝試しのときビビってたんだと思ってた」
「その話まだ引きずるのかよ」
 いい加減にして欲しい。
「怒んないでよ。ね、落ち着いて。どうどう」
「お前そんなガキっぽかったっけ」
 少なくとも最後に見た篠崎はもう少し大人っぽかったような気がする。
「あーほら私、高校入ってすぐ入院しちゃったでしょ。家族以外誰とも会っちゃいけなくて、何か寂しかったんだよね。だから家族に結構甘えちゃって。もしかしたらそれで子供っぽくなっちゃったのかも」
「…………ごめん」
 そういうことはもっと早く言って欲しかった。それこそ入院していることを秘密になんかせずに打ち明けて欲しかった。言ってくれていたら、こっそり忍び込んだり、会えないながらもどうにかして笑顔にしてあげられたのに。いつだって篠崎は口に出すのが遅い。
「いいよ。今こうしてまた会えたんだし、洸基が私のこと見えなかったら、私ひとりぼっちになっちゃうもん。軽口言い合えるくらいがちょうどいいんだ」
 ああ、ずるい。
 篠崎は本当にずるい人だ。
 そうやってすぐに僕の心をまた掴んでくる。
「てか何でまた幽霊になったんだ?」
「さあ?」
「さあってお前な」
「だって気付いたらなってたんだもん。なりたくてなった訳じゃないんですう」
 確かになろうと思ってなったとか言われたら、それはそれで怖い。いくら好きだった相手だとしてもさすがにドン引きする。
 仕方がないのでスマホで『幽霊 理由』と検索をかけてみる。一番最初に出てきたのは、幽霊は存在するのか検証してみたというもの。二番目は、幽霊に足がない理由。三番目は、幽霊が見える理由。どれも僕の知りたいことと少しだけ違う。役に立たない。ちなみに目の前の篠崎には足がある。
「検索の仕方が悪いんじゃないの」
「じゃあ何て検索するんだよ」
「幽霊になる理由、とか?」
 さっきのとほとんど変わらない気もするが、一応『幽霊になる理由』でも検索してみた。けどやっぱりさっきのと同じような記事が出てくる。それどころか、全く同じものまで上位に出てきた。つまり何の成果も得られなかった。世界一無意味な時間だった。
「で、篠崎これからどうすんの?」
「どうするって?」
「幽霊になった理由はわからなかった訳だけど、幽霊であることには変わりないじゃん。そのまま幽霊として第二の人生エンジョイするのか?」
「うーん。でもエンジョイしようにも、何も出来ないし、洸基以外の誰にも見えないし」
「そう、それだよ」
 篠崎が意味がわからないという感じで首を傾げる。
「篠崎の姿って、本当に僕にしか見えないのか?」
「見えない、んじゃない? だって私、スタート地点道路だったんだよ。それなのに誰も私に見向きもしなかったし」
「けどその後真っ直ぐ僕の部屋に来たって言ってたよな? じゃあ篠崎のことを知ってる人の中で、今の篠崎と会ったのは僕が最初ってことになるから」
「そっか。私を知ってる人なら、私の姿が見えるかもしれない」
 僕は頷く。
「篠崎が道路で気付かれなかったのは、誰も元々篠崎のことを知らなかったから。その説はあると思う」
 もしこれで篠崎のことを知っている人が同じように篠崎の姿が見えたとしたら、この説は立証される。
「私、ちょっと家族とか友達とかに会いに行ってみるよ!」
 そう言って篠崎は、僕の部屋の壁をすり抜けて何処かへ行ってしまった。
 僕は少しだけほっとしていた。ずっと僕の部屋にいられたりしたら堪ったものじゃない。どうか他にも篠崎の姿が見える人がいて、その人のところでどうにかしてくれますように。

 しかし二時間後、篠崎は僕の部屋に戻って来てベッドの上を体育座りの体勢で浮遊しながら泣き出した。僕は溜め息しか出なかった。

 僕はそろそろ限界だった。
「あのさ、いい加減泣き止んでくれる?」
 篠崎が再び僕の部屋に現れてかれこれ一時間は経過しているが、彼女は未だに体育座りで浮遊し続けていた。ついでにずびずびと鼻水をすする音も聞こえてくるから、まだ泣いているのも確かなはずだ。
「いやまあ、僕も期待させるようなこと言って悪かったとは思ってるよ」
 篠崎を知っている人なら見えるかもしれないから、他の人にも会いに行けばいいと言い出したのは僕の方だ。彼女がこうなっている原因の半分は僕にあるのだろう。
「でもいつまでもそうしてる訳にもいかねえじゃん。ほら、どうやったら幽霊ライフをエンジョイ出来るのか僕も考えるからさ」
「幽霊ライフとか楽しみたくないし」
 膝から離れた顔は随分とむくれていた。
「あーもう、人間に戻りたいー!」
「肉体がないんだから無理だって」
 篠崎の身体はとっくの前に燃え尽きてしまっている。戻る身体がないのだから、人間に戻るのは不可能だ。
「別に自分の身体じゃなくてもいいんだけど」
 篠崎がじっと僕の身体を見てくる。その目はまるで肉食動物のようだ。
「まさか、僕の身体に憑依するつもり?」
 いやいや駄目だろ。普通に、常識的に、倫理的に考えて。
「物は試しって言うじゃん」
「試した後の結果をちゃんと考えてから言ってくれないかな」
「つべこべ言わない!」
「ちょ、おい!」
 篠崎が僕にめがけて突っ込んできた。どうしたらいいのかわからなくて、とっさに目を瞑り身構える。
 そして次の瞬間、とんでもないことが起きた。
「…………は?」
「…………え?」
 僕達は目を合わせ、現状を確認する。
「どういうことだよ」
 篠崎が倒れ込んだ僕の上に馬乗りになっていた。
 つまり、篠崎が、僕に触れたのだ。
 あまりにも非現実的な現象に腰に走った鈍い痛みなんて一瞬で吹き飛んでしまった。動揺したまま、僕は尋ねる。
「え、篠崎、確認したいんだけど」
「な、何でしょう」
「お前、死んだよな?」
「そのはずだけど」
 気まずい雰囲気が僕らを包んでいる。それでも聞かない訳にはいかなかった。
「じゃあ何で触れてるんだ?」
「それは私が一番知りたい」
「…………とりあえず、どいてくれない?」
「あ、はい。すみません」
 篠崎が僕の上からどいてくれたので、ようやく僕は起き上がることが出来た。そして篠崎は何故か正座をして僕と向かい合っている。反省している意思表示だろうか。
「ほら私幽霊でしょ。身体乗っ取るぞーっていうのはもちろん冗談な訳でして、普通にすり抜けるものだと思ってたのね。それがまさか押し倒しちゃうとは本当に思ってなくてですね、あの、その、ごめんなさい!」
 ごつんという音はしないのだけど、それくらいの勢いで篠崎は土下座をかましてきた。幽霊に土下座されるとか、シュール過ぎて逆に笑えない。
「いや、僕も避けられなかったというか、こうなるとは一切思ってなかったし、気にしてないから、うん」
「その歯切れの悪さは絶対気にしてるじゃん」
 つい先日まで好きだったやつに押し倒されたんだぞ。気にするに決まってるだろ。
 なんてこと、僕は紳士だから絶対に言わない。
「驚いてるだけだよ。幽霊に触られたら、誰だって動揺するだろ?」
「確かに。幽霊である私もびっくりしてるし」
 どうやら誤魔化せたらしい。篠崎が単純なやつで良かった。
「あのさ、もう一回触ってみてもいい? そのさっきのは何かの間違いだったり、一回きりって可能性もあるでしょ?」
「……別に、いいけど」
「じゃあ、手」
 言われるがまま、篠崎に向かって手を伸ばす。僕の手に向かって、篠崎もまた自分の手を伸ばしてくる。
 僕達の手はゆっくりと引かれ合って。
 そして指先に触れた。
 触れてしまった。
 そのまま僕達は互いの存在を確かめるように手を絡めた。
「篠崎」
「洸基」
 目と目が合って、急に気恥ずかしくなり顔に熱が集中してしまう。絡めている手も何だか汗ばんできたような気がする。
「洸基の手、あったかい」
「わかるのか?」
「うん、わかる。洸基は? 私の手、どんな感じ?」
「温度、は感じない」
 生き物特融の温もりのようなものは一切感じられなかった。冷たくもない。ただ何かに触れているということしか感じ取れないのは、とても奇妙な感覚だった。
「まあ、私死んでるし」
「でも死体って、冷たい、じゃん」
 ゾンビとかも一応温度なるものは持っているらしいし。
「本当に何も感じないんだ。こうして人の手に触ってるってのはわかるのに」
「さっき私が馬乗りになっちゃったときはどうだった? ほら重さとか」
 聞かれて、さっきの感覚を呼び覚ます。
「…………いや、重さも感じなかった。やっぱりただ触れてるって感覚だけだったと思う。何て言うんだろ。服って肌に触れてるっていう感覚はあるけど、特別変なやつでもない限り重さとか感じないだろ? それに近い気がする」
「それも私が幽霊で、重力を無視した存在だからかな」
「かもしれない」
 不可解なことだらけで、頭がパンクしそうだ。
「そろそろ、手、離そっか」
「ああ、そうだな」
 篠崎の手が離れていく。もう少し触れていたかったなんて言ったら、どう思うだろう。言える訳ないけど。
「何か、生きてるみたいだな」
 こうしてはっきりと姿が見えるだけじゃなくて、普通に触れ合うことも出来るとなると、こんなの生きているのとほとんど変わらない。
「私は幽霊だよ」
「知ってる」
 知っているからこそ、生きているように思ってしまうんだよ。
「これからどうしよう」
 今にも泣きそうな、不安げな顔だった。
「とりあえずさ、色々試してみないか?」
「試す? 何を?」
「何か僕以外にも触れるものがあるか、とか」
「でも」
 篠崎はふよふよと動き回って、壁や床、僕のベッドをすり抜けていく。
「全部すり抜けちゃうよ。だからきっと駄目だよ」
 その困ったような顔に。
「そもそも私幽霊だよ。洸基が触れるだけ奇跡なんだよ。ね、試すまでもないと思わない?」
 僕は苛立っていた。
「やってみなきゃわかんねえだろ!」
 あまりにも篠崎らしくない発言に、つい声を荒げてしまう。そんな僕に驚いたのか篠崎の肩が跳ね上がった。それでも僕の口は止まってくれなかった。
「まだ何も試してねえじゃん。そりゃ壁とかはすり抜けるかもだけど、それは建造物だからで、シャーペンとかぬいぐるみとか、何かそういうのは触れるかもしんねえだろ。やる前から諦めるなよ」
 篠崎はいつだって前向きだっただろ。諦めるなんて言葉が似合わないくらい、どんなときも前に向かって走って行けるような人間だっただろ。
「簡単に、諦めるなよ」
 らしくない。
 こんなふうに感情のままに言葉を口にする僕なんて、全然僕らしくない。けど黙ってなんかいられなかった。このままだと篠崎が篠崎じゃなくなりそうで仕方がなかった。だから、何とか繋ぎとめたかった。
「…………うん。そうだよね。まだ何もやってないもんね」
「篠崎、僕」
「ごめんね。私、弱気になってた」
 篠崎がふわりと笑う。
 ああ、僕の知っている、僕が好きになった篠崎だ。
「僕の方こそ急に怒鳴って悪かった」
「いいよ。私のために怒ってくれてありがとう」
「そういうんじゃねえし」
「あれ? もしかして照れてるのかな?」
 篠崎が指先で僕の頬を突いてくる。
「あのさ、触れるってわかったからってベタベタしないでくれる?」
「色々試せって言ったのはそっちでしょ!」
「人の話聞いてた? 僕の身体じゃなくて、無機物に触れてみろって言ったんだよ! あーもう、何なんだよ」
 昂っていた熱が急速に冷えていくような気がした。人の気も知らないで、もうこいつ本当に嫌だ。調子狂いまくりだ。
「ごめんごめん。冗談はよしこさんにするから」
 そんなくそしょうもないギャグ、一体何処で仕入れてきたのだろう。
「そろそろ本題に移りたいんだけど」
 若干切れ気味で言った。
「あ、うん。そうだね」
 ようやく空気を察したのか、篠崎の表情が少しだけ強張った。
「とりあえず」
 僕は篠崎の前に筆記用具や本、それからクッションに服と他にも様々なジャンルのものを並べていく。
「順番に触ってみろよ」
「わかった。やってみる」
 小さく息を吸って、篠崎が手を伸ばす。
 しかしどれもこれも、篠崎は触れることが出来なかった。掴もうとしたものをすり抜けて、そのまま床もすり抜けてしまう。
「やっぱり、駄目なのかな」
 暗い表情に、僅かに震えた声。見ているだけでこっちまで辛くなってしまう。
「…………もう一つだけ、試したいものがある、んだけど」
 立ち上がって、机の引き出しの中にしまっていたものを取り出す。
「え、それって」
 僕が取り出したのは、青いリストバンド。
 そして僕の右手には赤いリストバンドがついている。
「うん。これは篠崎のもの(、、、、、)だよ」
 色違いでお揃いのリストバンド。
「どうして洸基が持ってるの?」
「おばさんに譲ってもらったんだ。形見、として」
「そっか。形見」
「これくれたときのこと、憶えてるか?」
「忘れる訳ないよ」
 そのとき、僕達は絶賛大喧嘩中だった。
 中学二年生のときだ。
 珍しく篠崎が僕を本気で怒らせた。いやさっきも本気で怒ってしまったのだけど、当時の僕はいたずらっ子の悪ガキを卒業し、ちゃんと篠崎を一人の女の子として丁寧に扱うように心がけていたから、彼女に対し怒りを抱くようなことは全然なかった。
 でもそのときは違っていた。僕は割と本気で篠崎の顔なんか二度と見たくないと思っていた。
 篠崎が、僕が大切にしていた祖父から譲り受けた腕時計を壊したのだ。
 体育で男子が隣の教室、女子が僕達の教室で着替えることになっていた。僕は腕時計を外して机の上に置き着替えに行った。着替え終わったとき、水筒を持ってくるのを忘れたことに気が付いた。僕の中学では体育のときに水筒を持参してもいいことになっていた。それでちょうど出てきた女子に入ってもいいか確認して、中に入ったときだった。
 篠崎が僕の腕時計を踏み潰していた。他の女子とふざけ合っていて、僕の机にぶつかってしまいその拍子に腕時計が落下。そして踏んでしまった。という感じだった。
 別にそんなふうにただ壊されただけなら、僕だって怒りはしなかった。多少のショックは受けるだろうけど、わざとではないということはわかっていたし仕方がないと許していただろう。
 じゃあ何故僕が顔も見たくないと思うほど怒ったのか。
 それは篠崎が、腕時計を壊したことをすぐに謝らなかったからだ。
「何してんだよ」
 僕は聞いた。
「違うの」
 そう言って篠崎は腕時計を拾って手の中に隠した。
「違うくないだろ」
 僕は篠崎の手から腕時計を取り返した。
 腕時計は完全に壊れてしまっていた。表面のガラス部分にひびが入っていて、秒針も止まっていた。部品の一部も何処かへいってしまっていて修繕は無理だと、誰が見ても明らかだった。
「洸基が悪いんじゃん。そんなところに置いておくからでしょ。だいたい、大事なら持ってこなけりゃ良かったんだよ」
 僕の堪忍袋の緒が切れた瞬間だった。
「もういい」
 腕時計を乱雑に鞄の中に入れて、当初の目的だった水筒を取って教室を出た。
「待って!」
 そんな声が聞こえてきたけど、僕は待たなかった。
 今思えば、あの頃はまだまだ子供だったし、壊してしまったということに動揺して思ってもいないことを言ってしまったのだとわかる。篠崎らしくない態度だったのも、失言と同じように動揺からだったのだろう。でも当時の僕もやっぱりまだまだ子供で、そんな気持ちを推測出来るはずもなかった。
 僕はしばらく篠崎を無視し続けた。彼女が気まずそうに僕の名前を呼んできても、僕は無視を決め込んだ。謝ろうとしてくれていたのだと気付いていたのに、僕は意固地になって全力で彼女を避け続けた。今謝るのなら、どうしてあのときすぐに謝ってくれなかったんだ。そんなどうしようもない怒りの方が勝ってしまっていた。
 そして僕と篠崎が喧嘩をして二週間。
 突然、篠崎が僕の家にやってきた。
「何」
 本当は出たくなんかなかった。そのとき家には僕しかいなかったし、インターホンのカメラで相手が篠崎だということもわかっていたから無視しようと思った。けど延々とインターホンを鳴らしてくるから出るしかなかった。
「用があるなら、早く言って欲しいんだけど」
「あの、これ」
 篠崎が小さな包み紙を僕に差し出してきた。半ば奪い取るような形で、僕はそれを受け取った。
「開けて」
 嫌だと言ってやりたかったけど、篠崎の目があまりにも真剣だったので断れなかった。
 包みを乱雑に開けると、中には赤いリストバンドが入っていた。
「この前は、腕時計壊しちゃってごめんなさい!」
 大声でそう言いながら、篠崎は勢いよく頭を下げた。
「本当はすぐに謝るべきだったのに謝らなくてごめん。洸基のせいにしようとしてごめん。酷いこと言ってごめん」
 篠崎が顔を上げる。
「腕時計、弁償したかったけど、おじいさんからもらったやつだって言ってたからそういうんじゃないって思って、それで」
「それで、これ?」
 リストバンドを見せつけるように持つ。
「同じ手首につけるもので、同じようにプレゼントってこと?」
「代わりになるなんて思ってる訳じゃないよ。代わりなんてないってわかってる。でもせめてものお詫びの気持ちっていうか。えっと、これ!」
 篠崎が袖を捲り、手を突き出してくる。その手首には青いリストバンドがついていた。
「色違いなの。私、このリストバンド死ぬほど大事にする。洸基とお揃いだから、絶対絶対大事にする。洸基があの腕時計を大事にしていたのと同じくらい大事にする。でも洸基は別に大事にしなくていいよ。もう今すぐここで捨てちゃってもいい。そしたら」
「…………僕の気持ちになれる。そう考えた」
 僕の問いかけに、篠崎は小さく頷いた。
「僕を傷付けたから、同じように自分も大切にしているものに対して酷い仕打ちをされて、僕と同じ思いをしようと思った?」
 今度は深く頷いたのを見て、僕は溜め息が出た。
 バカだなと思った。やり方があまりにも不器用で、本当にバカだと思った。
「あのさ、篠崎。僕は大切にしていたものを壊されて傷付いたから怒った訳じゃないんだよ」
 なるべく優しい言葉遣いをするよう心がけて、僕は続ける。
「僕はね、僕自身をぞんざいに扱われたと思ったから怒ったんだ」
 すぐに謝ってくれなかったから、篠崎にとって僕は間違いを犯しても謝らなくていい相手なんだと、そう認識されているのだって思って、それが悲しくて怒ったんだ。
「腕時計はいいんだ。大切にはしていたけど、古かったし、どのみち壊れていたと思う。僕はただ、君にちゃんと謝って欲しかった。それだけなんだ」
「ごめん。洸基、ごめん」
「いいよ。すぐ謝らなかったことも、さっき謝ってくれたし。僕もずっと無視したりしてごめん。本当に悪かったと思ってる」
 手の中にあるリストバンドを手首につける。
「これ、ありがとう。大切にする。だから篠崎も、ちゃんと大切にして」
 次はもう間違わないように。
「うん。大切にする。一生つける!」
「一生……は無理、じゃないかな」
 僕達は笑った。ほぼ同時に笑い出した。
 それで僕と篠崎の最大の喧嘩は収束した。
 あの日から、僕はこのリストバンドをずっと大切にしてきた。だってそれが篠崎との約束だったから。
 でも篠崎が死んで、篠崎はこれを大切にすることは出来なくなってしまった。
「だから僕が代わりに大切にしようと思ったんだ」
「それで形見としてもらってくれたんだね」
 ただつける勇気はなかなか出なかった。つけてしまったら、篠崎が死んだことを認めることになってしまうから。僕は篠崎の死をまだ完璧に受け入れてはいなかった。
「これ、篠崎に返す」
 リストバンドを篠崎に差し出す。
「でも」
「触れる。だってこれは篠崎がずっと大切にしてきたもので」
 僕達を繋ぐものでもあるから。
「僕に触れたのなら、同じように僕達が大切にしてきたものだって触れるはずだ」
 根拠なんて何処にもない。そもそも篠崎と僕が触れ合えるという現象自体が異例中の異例で、現状どう頑張っても解明のしようがない。
 だけどどうしてか、僕は絶対に大丈夫だという自信があった。
 篠崎の手を掴み、そしてその手首にリストバンドをつけてあげる。
 リストバンドは。
「ほらな」
 落ちることなく、篠崎の手首にあり続けた。
「本当だ」
「よく似合ってる」
「ありがとう」
 そう言って篠崎は泣きながら笑った。