「……わかった。今から食堂に移動するか?」
「ううん、ここで待ってる」
「じゃあ、店の厨房で作ってくる。どうせだし、おむすびと響も食べるか?」
一心さんは、スツールの背にかけてあったジャケットを持って立ち上がった。
「そうね。時間も経って小腹がすいてきたし……。少しだけいただこうかしら」
「ありがとうございます。私も、控えめサイズだったら食べられそうです」
「わかった。行ってくる」
ジャケットに袖を通しながら扉に向かう一心さんの後ろ姿を見送る。
ぱたん……という、扉が閉まる音。その余韻が消えたころ、響さんが叱るような口調でミャオちゃんをたしなめた。
「……ミャオ。一心ちゃんのこと、わざと行かせたでしょう」
え、わざと? と混乱するけれど、ミャオちゃんはまったく悪びれずにうなずいた。
「そう。おむすびと話すのに、邪魔だったから」
「じゃ、邪魔ってミャオちゃん、どうして? 一心さんに聞かれたくない話なの?」
男性には聞かせたくない類の話なのだろうか。響さんはおそらく、ミャオちゃんの中で女友達カテゴリーに入ってるだろうし。
ミャオちゃんは、真剣な表情で私の目をじっと見る。なにかを探るような、そんな視線に居心地の悪さを感じる。
「一心がいたらおむすびが、話してくれないから」
「私が……?」
なんのことだろう。ミャオちゃんはゆっくり、私に言い聞かせるようにして言葉をつなげた。
「おむすび。私と響に、言いたいのに話してないこと、あるよね」
「えっ……」
思わず響さんを見たのだが、こちらもミャオちゃんと同じような表情をしている。
「言っておくけれど、ごまかしても無駄よ。あたしもミャオも、前から気づいているんだから。なんのことか、わかるでしょう?」
響さんの口調は、優しかった。そこに姉のような慈愛の気持ちが込められているのを感じて、ドキリとする。
「なんのこと、か……」
思い当たることが、ひとつだけあった。ミャオちゃんが一心さんを遠ざけたのも、それなら納得できる。
「はい……。わかります。ふたりには、バレていたんですね……」
泣きそうな気持ちで、そう告げる。一転、心配するような表情に変わったふたりに「大丈夫」と微笑みかけて、話を続ける。
「私――一心さんが好きです」
そう言ってから、好きだと口に出したのは初めてだと気づいた。ただ、声に出しただけなのに、〝好き〟という気持ちが存在を主張するように、熱を持って私の体中を駆け巡り始める。
「もう、ずっと前から好きでした。今までは、響さんが一心さんを好きだったから言えなくて。でも、そうじゃなくなって打ち明けようと思っても、なかなか相談できなくて……」
熱い息を吐きながら、つっかえながら、ふたりに気持ちを打ち明ける。
重い鎖から解放されたみたいに、自由になった恋心で胸の中がいっぱいになる。
熱くて、苦しい。なぜだか泣きたくなる。心の中に隠していた間に、私の一心さんへの恋心は、ここまで大きくなっていたみたいだ。
「バカね。悩んでないで、早く言ってくれればよかったのに」
立ち上がった響さんが、スツールに座った私を後ろから抱きしめる。後頭部が響さんにすっぽり埋まって、こらえていた涙があふれてきた。
「私も響も、ずっと待ってた。おむすびが自分から話してくれること」
隣に座っているミャオちゃんも、私の手をぎゅっと握ってくれる。
「ごめんなさい……。最初はだれにも言わないつもりだったので、どうしていいかわからなくなっちゃって」
涙をぬぐいながら、嗚咽がもれるのをこらえる。
「だれにもって、一心ちゃんにも言わないつもりだったの?」
「はい、そのときは……。でも、今は……」
黙りこんだ私の背中を、響さんがばしんと叩いた。
「さっさと告白しちゃいなさい。今さらもったいぶったってしょうがないでしょ。もう一年以上も一緒にいるのよ、あんたたち」
「だいじょうぶ。私も響も、応援する。おむすびは一心に気持ちを伝えるべき」
ふたりがこんなに応援してくれるなんて、思っていなかった。告白して、私と一心さんの関係がどう変わったとしても、ふたりがいれば大丈夫だと思える。
「ありがとう、ミャオちゃん、響さん……」
ふたりの顔を交互に見つめたら、やっと笑顔を作れた。
正直、告白することはまだ怖い。振られたら、こころ食堂にいられなくなるかもしれない。一心さんはそんなことで解雇するような人じゃないけれど、もし一心さんの居心地が悪くなるようなら、やめることを考えなければいけないから。
でも、伝えてみたい、一心さんの気持ちを聞いてみたいという気持ちが私の中で大きくなり始めたのも確かだ。ふたりに打ち明けられたことで、私の中の恋心は間違いなく一歩前進している。
「いつになるか、わからないけれど……。ちゃんと気持ちを伝えられるように、心の準備を始めようと思います」
ちょっと弱気な告白宣言になってしまったけれど、ふたりはうなずいてくれた。
「まあ、ここまで来たら急いでも急がなくても変わらないか。そのくらいゆっくりなほうが、おむすびらしいかもね」
「おむすびのタイミングで、いいと思う」
じっくり、お釜でご飯を炊くように育ててきた、私の恋。蓋を開けるのは怖いけれど、その中にあるあったかくてきらきらした気持ちを、いつかあなたに伝えられますように。
告白を決意したものの、時間はずるずると通りすぎ、カレンダーは七月に。こころ食堂での二度目の夏を迎えた。
夏は恋の季節と言うけれど、食堂にはあまり関係ない気がする。お客さまの麦茶のおかわりが増えるので動く量は増えるし、そうすると汗をかくので匂いが気になるしで、むしろ恋の季節からは遠ざかっている気が……。
それならいつならいいんだ、と自問自答したくなる。私はただ単に、『まだ告白しなくていい』という言い訳を探しているだけなんだ。
毎朝、決意して出勤しても、一心さんの顔を見たとたん、『この居心地のいい場所をなくしたくない』と思ってしまう。このままじゃ、なにか大きなきっかけがなければ告白なんてできっこない。
私の気持ちなんて知らないまま、一心さんは新しい夏限定メニューの開発にいそしんでいる。とうとう完成したようで、今日のまかないはその限定メニューの試食をすることになったのだ。
「うわあ、かわいい!」
カウンターの上に置かれた定食を見て、私は歓声をあげた。
「去年の夏バテ定食が好評だったから、それを改良してみたんだ。今回は七夕をイメージしてみた」
去年の夏バテ定食は、薬味たっぷりのそうめんと夏野菜の揚げ浸し、肉巻きおにぎり。夏バテのときに足りなくなりがちなお米と肉を摂るためのメニューだ。薬味で食欲を増進させたあと、肉巻きおにぎりを食べ、揚げ浸しで口の中をさっぱりさせる、という作戦だった。
今回は薬味たっぷりのそうめんと肉巻きおにぎりのセットで、去年より一品少ないのだが、そうめんの見た目が素敵すぎた。
天の川をイメージして、お皿にななめに盛り付けられたそうめん。その周囲には、星に見立てたトッピングたち。輪切りにされたオクラは星形でかわいいし、パプリカやアスパラガス、輪切りにされたとうもろこしといった色鮮やかな夏野菜たちもそうめんをにぎやかに彩っている。これを、薬味をたっぷり入れたつゆにつけていただくのだ。
「そうめんって、ずっと食べていると飽きてくるんですが、こんなにたくさんトッピングがあったら最後まで楽しく食べられそうです」
「見た目も食欲に影響してくるからな。今まで、料理のかわいさは意識してこなかったんだが……。女性には大事なのだろう?」
確かに、それは大事なことだ。おいしさはもちろん、料理の見た目の美しさでときめいたり、心が華やいだりする。食べる過程でのときめきって、女性には必要なことだよね。
「はい! 見た目が素敵だったらそれだけでテンションが上がってお腹がすきます。食べ物の見た目でときめくのって、スイーツがほとんどだと思っていたんですけど、そうめんでもできるんですね。一心さん、すごいです」
でも、一心さんはどこでそんな女心を学んだのだろう。響さんかな?
興奮ぎみの感想を静かに聞いていた一心さんは、安心したように表情をゆるめた。
「そこまで喜んでもらえたなら、このメニューは正式採用してよさそうだな」
「もちろんです。あ……、そろそろいただいてもいいですか?」
「ああ。味のほうも確認してくれ」
「はい。しっかり味わいますね」
トッピングと一緒にそうめんを味わうのは、新しい感覚だった。次はどれにしようかな、と選んで、つゆにつけたそうめんと一緒に食べる。ざるに盛られた天ぷらうどんを食べるときの感覚に近いかも。
そうめんが夏野菜とこんなに合うというのもびっくりだったし、肉巻きおにぎりの濃い味つけと、さっぱりしたそうめんが相性バツグンだった。
「夏野菜は、それぞれ違った調理法なんですね」
オクラは生だったけれど、とうもろこしはゆでてあったし、パプリカとアスパラガスには焼き目がついている。それがまた、それぞれ違った食感で楽しい。
「ああ。味つけをしていないから、素材の味が増す方法で火を通さないとな」
私だったら面倒で一気に焼くかゆでるかしてしまうだろう。ちょっとした手間を惜しまないのが一心さんらしいし、そうめんのつゆが薄まったとき用に、陶器の水差しに注ぎ足し用のつゆが用意してあるのもうれしい心配りだ。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
完食されたお膳を見て、一心さんは「おそまつさまでした」と口角を上げた。
母から急な電話があったのは、それから数日後、仕事を終えて帰宅したときのことだった。
「えっ、入院!?」
開口一番、『実は……』と告白され、なにか大きな病気でも見つかったのかと、私の心臓はドキドキと嫌な音をたてた。
「そうなのよ。ほら、この前雨が降ったでしょ。お庭が濡れてて、うっかりすべって転んじゃって。それで、手をついた拍子に手首を骨折しちゃって。入院して手術することになったのよ」
手首、骨折、という言葉に少しホッとする。命に関わる自体ではなさそうだ。
「骨折……。病気じゃなくてよかったけど、手術しなきゃいけないほどひどいの?」
「そんなことないわよ。自分でタクシーを呼んで自分で帰ってきたんだから。お医者さまがね、プレートを入れたほうがいいって。そうしたほうが、骨がちゃんとくっつくんですって。手術自体は部分麻酔の簡単なものらしいんだけどね、付き添いが必要なのよ。決まりなんですって」
「いつ手術なの?」
「明日から入院してあさってに手術。入院自体は四、五日くらいみたい」
四、五日か……。入院中、ずっと実家にいるのは無理だろうか。せめて、明日とあさってだけでも休みがとれたらいいんだけど。
「わかった。店長に事情を話せばお休みもらえると思うから、明日すぐにそっち帰るね。入院の準備は手伝えないと思うけど、ごめん」
「お母さんのほうこそ、たいしたことないのに結に迷惑かけちゃって」
「そんなこと気にしなくていいから」
そのあと、病院や担当医師の話を聞いたり、必要なものの確認をしたりして電話を切った。
「はあ……」
携帯電話をローテーブルに置いて、クッションの上に倒れ込む。なんだか、どっと疲れが出た。
茨城にある実家で、ひとりの夜を過ごしている母を思う。骨折したのも病院に行ったのも昼間のはずなのに、私が仕事を終える時間まで待って連絡をしてきたんだ。そう思うと、せつない。たいしたことない、なんて明るい声を出していたけれど、本当は痛かったはずだ。
母ひとり子ひとりの期間が長かったため、なるべくお互いに面倒をかけないよう、気を遣ったり遠慮するくせができている。きっと母は、少しくらい体調が悪くても私に連絡はしてこない。私だって、去年熱中症と風邪で倒れたときも、母に報告したのは治ってからだった。
「こういうの、ほんとはよくないんだろうな……」
母が体調不良を無視して仕事を続け、病院に行ったときには手遅れ、なんて想像をするとぞっとする。これから先、母も歳をとっていくし、そんなことがないとも限らない。
離れていると、気づかなきゃいけないことにも、気づいてあげられない。せめて母が安心してなんでも相談できるくらい、私がしっかりできればいいんだけど。
「お母さんに会ったら、そういうこともちゃんと、話してみよう」
こんなとき、ひとりっ子じゃなくてきょうだいがいたらな、と思う。ミャオちゃんみたいな家族思いの妹とか、響さんみたいなしっかり者のお姉さんとか。
でもそれより、自分に家族がいたら、こういうときに心強いんだろうな、と四葉さんと柚人さんの結婚式を思い出す。
――おむすびも、したいの? 結婚。
あの日のミャオちゃんの言葉が、唐突に頭に響く。
「そりゃ、できるものなら、したいけど……」
カーッと赤くなった顔を、クッションにうずめる。
一心さんと、ずっと一緒にいられたら、幸せだと思う。でも、告白もしていないのにその先のことまで想像するのって、いけないことのような気がして……。
芸能人と結婚する妄想なら許されるのに、身近な、本当に好きな人だとできないのはどうしてだろう。よこしまな思いが自分からもれそうで、怖いのかな。それとも、自分には恐れ多いっていう気持ちになるからなのかな。
「それより、早く一心さんに連絡しないと」
休みのお願いをするために、私はまだ食堂で仕込みをしているであろう一心さんに電話をかけた。
一心さんは、母へのお見舞いの言葉と私への気遣いの言葉を口にしたあと、すぐにもと従業員の大場さんに連絡してくれた。大場さんはこころよく私の代理でシフトに入ってくれることになり、私は一週間、茨城に帰ることになった。
退院するまででいいと断ったのだけど、『お母さまは手が不自由だろうし、退院してからも慣れるまで手伝ってあげたほうがいい』と大場さんが提案してくれたらしい。 母が骨折したのは利き手とは逆の左手なので、二日あれば、左手を固定したままでも生活はできるようになると思う。
「ただいま」
朝イチの電車に乗ったのだが、実家に帰ると、すでに母は入院準備を終えて病院に向かったあとだった。母がいないだけでがらんとして見える家に荷物を置いて、タクシーではなくバスで病院に向かう。
「お母さん」
病棟の個室に顔を出したとき、母はすでに入院着を着てテレビを見ていた。
「あら、結」
振り返った母はいつも通りの明るい笑顔だったのでホッとする。直接顔を見られたことで、昨日からこわばっていた心に、やっと血が通い始めたみたいだ。手のひらのにぶい痛みを感じてやっと、病院に入ってからずっと手をきつく握りしめていたことに気づく。
「よかった、元気そうで……。痛みはないの?」
ベッドの脇にある椅子に腰かけながら、たずねる。
「痛み止め打ってもらってるから大丈夫。骨が折れてるから、違和感はあるけどね」 左手はギプスで固められていて、動かせないみたいだ。
「お昼前に、主治医の先生から手術の説明があるみたい」
「あ、じゃあ私も一緒に聞くよ」
お昼まであと一時間以上ある。私は院内にあるコンビニで飲み物とサンドイッチ、母にリクエストされた夫人雑誌を買って戻った。母は「ありがと。テレビだけだと飽きちゃって」と器用に片手だけで雑誌を読み始めた。ここが病室なのを除けば、実家にいる母の姿と変わらない。
「お母さん、手術を控えてて怖くないの?」
意外にもリラックスした母の様子に、そんな言葉が口をついて出た。
「うーん、全身麻酔だったら怖かったかもしれないけど、局所麻酔だから意識もあるし……。特に緊張もしていないかな」
「そっか」
意識があるままというのも怖いんじゃないかと思ったけれど、お母さんが平気と言っているんだから余計なことを言うのはやめよう。
「プレートを入れるだけだしね。病気で内臓を切る、とかだったら局所麻酔でもさすがに怖いと思うわ」
「お母さんがそうなったら、私もきっと怖いだろうな……」
昨夜想像してしまった最悪の事態が頭をよぎる。不安に思っていることを、今、話してみようか。でも、明日手術を控えたこんなときに話さなくてもいいんじゃ。
尻込みしてしまいそうだったけど、ミャオちゃんと響さんの顔を思い出した。そうだ。ふたりは、悩んでいたことをもっと早く話してほしかったと言ってくれたんだ。
私は姿勢を正して、母に向き合った。
「ねえ、お母さん。昨日の電話って、もっと早くかけられたよね。骨折したときでも、病院の診察が終わったあとでも……。あの時間にかけたのって、私が仕事中だから気遣ってくれたんだよね」
「気を遣ったわけじゃないわよ。仕事中に電話しても出られないでしょ」
「休憩中だったら出られるし、メールを送ってもらえれば、携帯を見るタイミングですぐに気づけるよ」
珍しく食い下がる私に、母はちょっと驚いた顔をした。