こころ食堂のおもいで御飯~前に進むための肉じゃが定食~

 * * *

 二週間足らずの準備期間は、あっという間に過ぎてしまった。
試作と試食を重ねたちらし寿司と桜餅。ちらし寿司は、千切りにしたキュウリとほぐした鮭で段を作って、上に錦糸卵とさやえんどう、バラの形に丸めたサーモンを飾る。遠くから見たら本当にカップスイーツみたいだ。

 桜餅は、甘さ控えめのこしあんを、桜色のクレープ生地で包み、塩漬けにした桜の葉を巻く。しょっぱさと甘さのバランスがちょうどよくて、ちらし寿司のデザートにすごく合う。

 持っていく調理器具や材料もピックアップし、タイムテーブルも作って、いよいよ当日。

 つぼみがほころぶ程度だった桜は祭りに合わせたように満開で、準備のために朝から公園に向かった私たちは、思わず感嘆の息をもらす。
高低差のある公園に生えた、何百本もの桜。自然のままの丘に競うように咲いた桜たちは圧巻で、桜まつりには来たことがあるのに鳥肌がたった。

「おむすび。桜、すごい」

 私と一緒に食材の搬入を手伝ってくれているミャオちゃんは、台車を押しながらきらきらと目を輝かせている。お母さんである優里さん手作りの猫耳つきベレー帽をかぶり、カットソーと重ね着したチュニックワンピに、ゆるっとしたデニムを合わせている。

「見事ねえ。まだ一般の人たちは来ていないから、なんだか得した気分ね」

 響さんも、酒瓶を運びながら桜を見上げてつぶやいた。
 屋台の準備がなければ、人混みの中での桜しか見物できなかったわけだから、確かにこれは特権だ。
「人がいないと、神秘的な気さえするな」

 バーテンの制服を着た響さんに対して、一心さんはカットソーとパンツに食堂の紺色のエプロンという、いつもの私と同じような格好だ。

「わかります。神さまが宿っていそう」

 私も、一心さんの言葉にうなずいた。鳥肌がたつのは、きっと美しすぎるから。人は美しい自然を見ると、神さまを感じるようにできているのかも。

「あ……っと」

 桜に気を取られていたら、押していた台車が小石を踏んでがたんと揺れた。

「大丈夫か?」

 自分だって大荷物を抱えているはずの一心さんが、さっと肩を支えてくれる。

「あ、はい……。すみません」
「気をつけなさいよ。ちらし寿司用の卵だって積んであるんでしょ、それ」
「ちらし寿司に使う錦糸卵は、すでに焼いて切ってタッパーに入れてある。ほかの材料も、屋台では盛り付けるだけだ」
「あら、そうなの。……ってそういう問題じゃないわよ。一心ちゃんはおむすびに甘いんだから」
「……そうか?」
「そうよ。気づいていないところがやっかいなのよね、これ」

 ふたりのやりとりを聞きながら内心ドキドキしている私を、ミャオちゃんが神妙な表情でじっと見ていた。

「ミャオちゃん、どうかした?」
「なんでもない」

 顔色を変えず、ガラガラと台車を押していくミャオちゃん。以前より表情豊かになったとはいえ、クールなのは相変わらずだ。
 屋台の設営はそつなく終わり、公園にも人が集まり始めた。

「今日の役割分担をもう一度確認しますね。私が接客とお会計で、一心さんが盛り付け。ミャオちゃんがお箸と料理を袋に入れてお客さまに渡す役ですね。カクテルは、そのまま響さんが手渡し」
「そうだ。よろしく頼む」

 桜餅はできあがっているのを包装するだけだし、ちらし寿司もさっき響さんに説明した通り、切ったり焼いたりする必要のある材料はすでに準備してある。酢飯は、保温効果のあるおひつの中だ。

「やること自体は、いつもと変わらないですね。そう考えると少し緊張がほぐれました」

 注文を取って、できあがった料理を運んで、お会計をして。いつも食堂でしていることと変わらない。人前で料理をするのも、寿司職人だった一心さんは慣れているだろうし。

「緊張していたのか」
「えっと、少し。お祭りの雰囲気って独特ですし」
「あたしは全然緊張してしていないわよ。たぶんミャオもそうなんじゃないかしら」

 きゅっと唇を引き結びながらも頬を上気させているミャオちゃんは、緊張というよりワクワクといった感じだ。そして、いくつもの修羅場を乗り越えていそうな響さんが緊張しないというのはなんだか納得。

「おむすび今、さもありなん、みたいなこと考えてるでしょ」
「えっ、どうしてわかるんですか」
「否定しなさいよ、そこは」

 響さんとわいわい言い合っているうちに、ひとり目のお客さまがやって来た。

「いらっしゃいませ~!」

 オネエ口調で挨拶する響さんに、中年夫婦のお客さまは目を丸くしていた。

「い、いらっしゃいませ!」

 出遅れたかたちで、私と一心さん、ミャオちゃんも声を出す。
 さくら祭りは始まったばかりだ。どれくらい忙しくなるか想像がつかないが、せいいっぱいがんばろう。

 そう決意して、私はお客さまに注文をたずねた。
「ふう。意外とノンアルコールカクテルのほうが売れるのね。お祭りっていっても、昼間だからかしら」

 響さんが、お酒のボトルの在庫を数えながらつぶやく。お祭りが始まってから、一時間ちょっと。屋台では、桜餅とノンアルコールカクテルがよく売れていた。

「車で来ている人が多いからかもしれませんよ。毎年、臨時駐車場ができているみたいですし」

 ドリンクメニューは、カシスオレンジやカシスウーロンといった定番のカクテルのほかに、桜をイメージしたピンク色のカクテルも取りそろえている。苺のシロップを使ったノンアルコールカクテルが特に人気だ。

「まだ十時で、時間が早いからな。昼が近くなったら、売れるものも変わってくるだろ」

 ちらし寿司の注文が全然入らないので焦っていたのだが、一心さんは冷静だ。

「確かに。ちらし寿司と一緒にさっぱり系のお酒が売れそうよね。準備しておかなくっちゃ」

そのとき、屋台に向かってくる人の中で、見知った顔を見つけた。

「あれっ、裕樹くん!」

 私服姿だから一瞬わからなかったが、それは去年の十二月に知り合った橘裕樹くんだった。当時は高校三年生で学生服だったから、私服姿を見るのは初めてだ。

「こんにちは。お久しぶりです」
「裕樹くんか。久しぶりだな。橘さんは元気か?」
「はい。今日は仕事なので僕ひとりですが」

 そう答える裕樹くんは、なんだか落ち着いて大人っぽくなった気がする。以前は思春期の男の子といった印象だったのに、表情にも話し方にも余裕がある。

 裕樹くんは去年、受験のストレスとお父さんとの確執で悩んでいた。一心さんが、亡くなったお母さんの思い出料理である『鍋焼きうどん』で父と子の橋渡しをして、ふたりの間に横たわっていた誤解をとくことができたのだ。

 あのあと、受験勉強が忙しくなったみたいでお店には姿を見せなくなったけれど、受験の結果はずっと気になっていたのだ。
「こころ食堂さんが屋台を出すってチラシで知って、今日は来てみたんです。無事に第一志望の大学に合格したこと、報告したくて」
「わあ、おめでとう!」
「そうか、がんばったな」

 私と一心さんが順番にお祝いを述べ、事情を知らない響さんとミャオちゃんも拍手をしてくれた。

 照れくさそうに頬をかく裕樹くん越しに、満開の桜が見える。サクラサク。うれしい報告を聞くのに、なんてぴったりな日なんだろう。

「ありがとうございます。これで僕も、おむすびさんの後輩ですね」

 裕樹くんの第一志望は地元にある国立大学で、私の母校だった。私はもうOBだけれど、知り合いが後輩になるのは素直にうれしい。

「合格発表が終わったあともいろいろと忙しくて、すぐに報告に来れずにすみません」
「ううん、わざわざ桜まつりにまで来てくれてありがとう」

 裕樹くんは、『お父さんへのお土産にする』と言って、ちらし寿司と桜餅をふたつずつ買っていってくれた。そんなところにも橘さんとの関係がうまくいっていることが垣間見えてうれしい。

 そのあとすぐ、一心さんのご両親も様子を見にきてくれた。

「一心、どうだ。繁盛しているか」
「うふふ。お父さんが気になるっていうから、様子を見に来ちゃったわ」

 いかにも〝親方〟という感じの強面でがっしりしたお父さんと、ほっそりして楚々とした、まとめ髪が似合うお母さん。あじさわでは板前服と着物姿だけど、今日はふたりともシャツにパンツのカジュアルな格好だ。

「親父、また店を休みにしてきたのか?」

 にこにこしているご両親とは対照的に、一心さんは心配そうに顔をしかめている。芋煮会をやったときも店を休みにして来てくれたから、気にしているのだろう。
「いや、昼営業に間に合うようにすぐ帰るさ。ここのメニュー、全部三つずつくれ」
「三つ? 親父と母さんで、ふたつじゃないのか?」
「司にも買っていってやろうと思ってな。あいつも来たがっていたんだが、開店準備のために置いてきたから」
「そこは親父が残るべきだったんじゃないのか?」

 口ではそう言いつつも、一心さんはうれしそうだ。

「あら、このちらし寿司、素敵ね。この見た目、結さんが考えたんでしょう」

 一心さんの盛り付けを観察していたお母さんが、私に笑顔を向けた。

「はい。でも、どうしてわかったんですか?」
「一心にこんなかわいらしいセンスはないもの。本当に、結さんがいてくれてよかったわあ。これからもよろしくね」

 お母さんは会うたびに私のことを褒めてくれるが、過大評価されている気がしなくもない。

「はい、もちろんです。でも、いつも一心さんに助けられているのは私のほうなんですよ」

 謙遜ではなく、一心さんへの感謝を伝えたくてそう言ったのだが、すぐさま横から一心さんからの否定が飛んできた。

「そんなことはないだろう。俺のほうが――」
「いえ、そんなこと――」

 ねぎらい合戦になりかけていたら、響さんが私の頭を軽くチョップした。

「あんたたち、あたしの前でいちゃつくとはいい度胸ね!」

 条件反射的に、カアッと顔が熱くなる。

「いちゃついてない」
「いちゃついてません!」

 焦りながら抗議したら、一心さんと声が重なった。

「こりゃあ、響くんに一本取られたな」

 お父さんが豪快にはははと笑う。そのままご両親は、上機嫌で帰っていった。

響さんがおかしなことを言ったせいで、私と一心さんの間に気まずい空気が流れる。そんな中、今まで黙々とお手伝いをしていたミャオちゃんが私の服の袖を引っ張った。
「おむすび。もうすぐ、行列ができそう」
「え、ほんと? ミャオちゃん」
「うん。このあたりの人、増えた気がする」

 確かに、じわじわと人出が多くなっている感じではあるけれど……。猫と意思疎通できるくらいだし猫っぽいところがあるから、ミャオちゃんは周りのちょっとした変化にも敏感なのだろう。猫は雨が降るのがわかるというし。

「ミャオは勘が鋭いからね。もうすぐ十一時になるし、気を引き締めたほうがいいかもしれないわよ」
「そうだな」

 その後、お昼が近づくにつれて行列ができていき、ピーク時は何組並んでいるのかわからなくなるほどだった。役割分担がうまくできていたからうまくさばけたが、一心さんとふたりだったら大変だっただろう。響さんとミャオちゃんがいてくれてよかった。

「ふう。だいぶ客足も落ち着いてきたわね」
「そうだな。注文も、ちらし寿司より桜餅が多くなってきた」

 腕時計を見ると、もう午後二時。みんなそろそろおやつが食べたくなる時間だ。

「おむすび、今のうちにミャオと休憩に行ってきていいぞ。ついでになにか食べるものを買ってきてもらえるか?」
「いいんですか? ありがとうございます」

 一心さんの提案は正直ありがたかった。お手洗いにも行きたかったし、朝ごはんを食べたきりでお腹が鳴りそうだったのだ。

「休憩っていうか、おつかいよ、おつかい。片手でさっと食べられるようなものがいいわね。あと、ノンアルコールビールがあったらお願い」
「わかりました。ミャオちゃん、行こうか」

 ミャオちゃんと手をつないで屋台の裏から出ると、ザアッと吹いた春風がたくさんの桜の花びらを運んできた。足下にも散った花びらで絨毯ができているし、視界全体がふんわりとしたピンク色に染まる。
「……キレイ」
「ほんと、キレイだね」

 人がたくさんいても、キレイなものはちゃんとキレイだ。お客さんたちがみんな笑顔のせいか、朝の神秘的な美しさとは違って、牧歌的な光景に思える。特設ステージから聞こえてくるのど自慢の歌声も、なんだかホッとする。

「ミャオちゃんは、なにか食べたいものある?」
「……わたあめ」
「じゃあ、探してみようか」

 桜まつりを隅々まで見て屋台を物色したあと、牛串とキュウリの一本漬けを人数分と、缶入りのノンアルコールビールを買った。〝片手でさっと食べられるもの〟という注文は満たしているだろう。ひとつだけ買ったわたあめは、歩き回っている間にミャオちゃんがぺろりと平らげてしまった。

「ただいま戻りました。休憩ありがとうございます」
「早かったな。あんまり休めなかったんじゃないのか? どこかに座ってゆっくりしてもよかったんだが」

 食堂の屋台に戻ると、調理台を拭いていた一心さんが気遣わしげな表情を見せた。

「いえ、大丈夫です。桜まつりは満喫できたし、ミャオちゃんも早く戻ってみんなで食事したいみたいだったから」
「そうか。ちょうど客も途切れたところだし、いただくか」

 買ってきたものを渡すと、響さんは牛串と一本漬けを手に取って相好を崩した。

「あら、ちゃんと気が利くチョイスじゃない。おむすびにしては、わかってるわあ」

 響さんが好きそうなものを考えて、ノンアルコールビールに合いそうなおつまみっぽいフードを選んだのだ。

「でもこれって、辛党の好みでしょ。おむすびとミャオの食べたいものは買えたの?」
「はい、ミャオちゃんにはわたあめを。でも、私の食べたかったものは屋台に売ってなくて……」

 屋台は全部見て回ったつもりなんだけど、見落としがあったのだろうか。

「なにが欲しかったんだ?」

 少しがっかりしている私に一心さんがたずねた。
「煮イカです。イカ焼きは売っていたのに見当たらなくて」
「煮イカって……ジャガイモを入れて作る煮物のこと? 屋台で売ってるものなの?」

 響さんはキュウリを上品にかじりながら首をかしげる。

「いえ、それではなくて……。丸々一杯のイカを煮たものなんです。食紅で色づけしてあるから、赤い色をしているんですよ」

 酢イカのような鮮やかな赤色をした、あっさりしょうゆ味が恋しい。ビニール袋に入って、単品のものと三杯ひと袋のものが売っていて、母と夏祭りに行ったときは三杯セットを分けて食べたっけ。

「赤いイカ……? うーん、私はイカ焼きしか知らないわね」
「そうなんですか。私は夏祭りでよく買っていたんですけど」

 知らない人もいるんだなあと驚いていると、一心さんはさらに驚くような事実を口にした。

「響が知らないのも無理はない。煮イカはご当地グルメだからな」
「え、そうなんですか!?」
「確か、茨城と……あとは栃木くらいじゃなかったか。煮イカが祭りで売られているのは」

 なんだかカルチャーショックだ。一心さんの料理の知識が屋台メニューにまで及んでいることもびっくりだけど。

「全然知りませんでした……。人気の屋台メニューだったし、全国的に有名だとばかり。それなら、見つからないはずですよね」
「煮イカが食べたいなら、今度まかないで作ってやる。俺は食べたことがないから、屋台の味にはならないかもしれないが」
「えっ、本当ですか?」
「まあ、こういうのは祭りで食べるからいいんだと思うが」
「そんなことないです。うれしいです!」

 はしゃいだ声を出すと、響さんとミャオちゃんがじっとこちらを見ていた。観察するような視線は、私の一心さんへの気持ちが見透かされているようで居心地が悪い。響さんはともかく、ミャオちゃんも朝からなんだかおかしい。なんなのだろう、一体。