こころ食堂のおもいで御飯~前に進むための肉じゃが定食~

 お皿からはみ出す、焼きたての大きなナン。チキンのかたまりがごろごろ入ったバターチキンカレーに、マンゴーラッシー。セットのサラダ。メニューに載った写真を見て、私は「わあ」と小さく声をあげる。

 インド人らしき店主が営むカレー屋さんは、驚くほど安かった。ランチセットにラッシーをつけても千円しないし、ナンはおかわりし放題だ。

「なんか、お母さんとこういう店でごはん食べるのって初めてかも」

 とてもフレンドリーな店員さんに注文を終えて、おしぼりで手を拭きながら店内を見回す。もともと和食レストランだったところを改装したのか畳の座敷に通されたが、インドっぽい内装と妙にマッチしている。足を伸ばせるのもうれしい。

「そういえば、そうね。外食のときはいつもファミレスだったし」

 地元は田舎なのであまり選択肢がないというのもあるけれど、男の子がいる家庭のようにラーメン屋や焼き肉屋に行くということもなかった。

「お母さんは、外食とかお茶とか、行ってるの?」
「行ってる、行ってる。婦人会の人たちとも行くし、職場の主婦メンバーでも行くし。地元にできたカフェやレストランの情報がいちばん早いのって主婦だと思うわ」

 それを聞いてホッとした。私は大学に入ってから、はやりのカフェやイタリアンレストランにも友達と行くようになったし、働き始めてからはひとりでも行くようになったけど、母にそういった楽しみはあるのか不安になったのだ。

「結に心配されなくても、お母さんはお母さんでちゃんと楽しくやってるんだから、心配しなくて大丈夫よ」

 バレてる。私の考えることなんて、付き合いの長い母にはお見通しだったようだ。

 しばらくすると、注文した料理が来た。テーブルの上に置かれたナンは、写真で見るよりもずっと大きい。大人の顔ふたつぶん、いや、三つぶんくらいはあるんじゃないだろうか。これをおかわりできるのはカレー好きな猛者か、すごくお腹がすいている人くらいだろう。
「すごく盛りがいいわね、このカレー屋さん」

 母も驚いている。さっき「サービスネ」と言ってトマトスープをくれたし、利益は出ているのか同業者として心配になってしまう。くったくのない明るさとフレンドリーさ、サービスのよさは見習いたいくらいだけども。

「お母さん、どう? バターチキンカレー、見た目はおばあちゃんのカレーと似てる?」
「そうねえ。お母さんも記憶が鮮明なわけじゃないんだけど、色はこんな感じだった気がする」
「じゃあ、食べてみよっか」

 ナンをちぎって、鮮やかなオレンジ色をしたカレーにひたひたに浸す。たれないように気をつけて口に運ぶと、バターの甘みとコク、少し遅れてスパイスの香りが舌と鼻先に広がる。カレーの中の大きなチキンをスプーンですくって食べると、ほろほろ柔らかい。

 これは、ルーがさらっとしていて具がチキンだけなぶん、普通のカレーよりも大量に食べられそう。ナンを手で食べるという行為も、食欲に拍車をかけている気がする。

 母も、片手なのをものともせず黙々と食べている。

「このカレー、おいしいね。味はおばあちゃんのと同じだった?」
「これはこれですごくおいしいけれど、おばあちゃんのカレーとは違うわね。ここまで甘くはなかったし、これを食べて思い出したんだけど、チキンじゃなくて牛肉が入っていた気がする」
「牛肉? 豚肉じゃなくて?」

 家庭のカレーといえば豚肉というイメージだったが、確かにビーフカレーというのもある。うちみたいな田舎の農家ではなくて、都会のお金持ちの家で作っていそうだけど。

「そう。普段牛肉ってあまり買わないから、豪華な気がしてうれしかったのよね」
「おばあちゃんがビーフカレー派だったのかな」
「そうだったのかしら。でも、ビーフカレーがはやったのって、もっとあとだった気がするのよね。今はレトルトでもあるけど……」

 母の言葉で、ハッとした。それを言ったら、その時代はまだバターチキンカレーなんて日本に入ってきていなかったはず。インドに行ったことのないおばあちゃんが、バターで甘みを出すなんて考えつくだろうか。

 結局、おばあちゃんの甘いカレーの正体は判明せず、謎が深まっただけだった。
 夜ごはんには、私が肉野菜炒めとお味噌汁を作った。母の入院中に、ひじき煮や豆の煮物など日持ちするものを作ってタッパーに詰め、ミートソースも多めに作って冷凍してあったのだが、予想以上に褒めてもらえた。

「すごい。結がこんなに料理上手になるなんて。こんなに作るの、大変だったでしょう」
「一度に作ったわけじゃなくて、毎日ちょっとずつ作ったの。私もまだまだ上手じゃないよ。メインのおかずとお味噌汁を一緒に作るのでせいいっぱいで、副菜は同時に作れないし」
「でも、こうして作り置きの副菜があるんだから問題ないじゃない。それに、ここまでできるようになったんだから、一度に何品も作れるようになるのも時間の問題だと思うわよ」

 母にそう言われると、自分が一年でだいぶ上達した気がして、顔がにやけてしまう。いつも一心さんを見ているから『自分はまだまだ』という気持ちが強いけれど、最初はお味噌汁を作るのにも苦労していたんだから、それを考えたらがんばったよね。

 上を見たらきりがないけれど、自分の努力は別に考えて褒めてあげよう。

 私の作った料理をおいしそうに食べてくれる母を見ながら、そう思った。
お風呂に入って、家を出てからも残してくれている自分の部屋に入る。学習机は撤去してしまったが、ベッドや本棚はそのままだ。

 ベッドの上に腰かけて、一心さんに送るメールの文面を考える。母が無事退院したこと、あさってには帰って、しあさってからは出勤できることまで書いて、指が止まる。

 おばあちゃんの甘いカレーの正体、一心さんならわかるだろうか。

 メールで聞こうにも、説明しづらいし長文になってしまう。電話してしまったほうが早いけど、迷惑ではないだろうか……。

 時計を見ると、二十三時。閉店作業も明日の準備も終わって、一心さんが二階にある自分の家に帰るくらいの時間帯だ。

 かけて、みようか……。携帯電話に表示される一心さんの電話番号を見ていたら、うっかり通話ボタンを押してしまった。

「わ、わっ……」

 切ろうかどうしようか迷っている間に、コール音がやむ。

『もしもし。……おむすび?』

 あわてて耳に近づけると、ちょっとくぐもった一心さんの声が聞こえてくる。

「い、一心さん、こんばんは。今、お時間大丈夫ですか?」
『ああ。ちょうど家に帰ってきたところだ。どうした? お母さんになにかあったのか?』

 あれ。声だけ聞くと、一心さんってすごく優しい話し方なんだなって気づく。落ち着いていて、心地よくて。ずっと聞いていたくなる。

「いえ、なにもないです。手術もうまくいったし、経過も順調で、予定通り今日退院できました」
『そうか、よかった』

 流れる、沈黙。一心さんの息づかいが聞こえて、ドキドキする。

「本当は、メールで報告しようと思って、途中まで書いていたんですけど……。一心さんに、相談したいことがあって」
『なんだ?』

 言葉が少ないのは電話でも変わらないんだなあ、と頬がゆるむ。逆に、そのいつも通りの感じが、電話で話しているという緊張を少しだけなくしてくれた。

「実は……」

 私は、お母さんの思い出カレーの話、バターチキンカレーだと思って食べに行ってみたけれど違ったという今日の出来事を話した。
「子ども用のレトルトカレーではなかったみたいなんです。昔はそんな感じの甘口のカレールーが売っていたんでしょうか」
『いや……。ルーの種類で言えば今のほうが豊富だと思う。あとは、普通のカレーにはちみつなどを入れて甘くしていた可能性だな』

 私も、それはいちばん最初に考えた。ただ、その可能性を否定したのは母のこの証言だ。

「はちみつを入れても、色は変わりませんよね? バターチキンカレーみたいな、オレンジっぽい色をしていたそうなんです」
『オレンジ色? それで、牛肉が入っていたんだな』
「はい」

少しだけ、電話の向こうの雑音が遠ざかる。一心さんが携帯電話を耳から離して考えているのだとわかった。そして、なにかに気づいたように息をのむ音。

『おむすび、わかったぞ。そのカレーの正体が』
「ほ、ほんとですか!?」
『カレーだと思い込んでいたからわからなかったんだ。いったんカレーから離れてみろ。カレーに似たもので、条件に合う料理があるだろう?』

 オレンジ色で、甘くて、牛肉が入っていて、カレーに似た料理……。

「……あっ」
『気づいたか? 俺は、おばあさんはそれを使っていたんじゃないかと思う』
「確かに、これだったら条件にぴったりです。……でもどうして、お母さんはカレーじゃないことに気づかなかったんでしょう」
『それは疑問だが、子どもだからカレーと言われてそのまま信じていたのかもしれないな』

 親がカレーと言って出してくれたからカレーだと思っていた。それはありそうだ。おばあちゃんがどうしてこの料理を〝カレー〟だと偽って食べさせたのかはわからないけれど……。

「ありがとうございます、一心さん。さっそく明日、母に作ってびっくりさせたいと思います」
『ああ。がんばれ』
「えっと、じゃあ……。お仕事、お疲れさまでした。おやすみなさい」
『……おやすみ』

 一心さんの返事のあと、電話を切った。なんだか、身体が熱い。慣れないことをしたせいか、手に汗までかいていたみたいだ。
 普段退勤するときには使わない、『おやすみ』の一言。その響きが甘くて、特別なキャンディをもらったみたいで。

「おやすみって言ってもらえたのに、なかなか眠れなくなりそう……」

 その夜は、一心さんの声をまどろみの中で何度も反芻していた。眠れそうで眠れない。胸がきゅんと痛むのは、現実の自分なのか夢の中なのかわからない。

 まくらを抱いて何度も寝返りを繰り返すうちに、私はいつの間にか、夢の境界線を越えていた。
 次の日。昼間はスーパーに買い物に行って日持ちする食材を買いだめし、夕方になると『おばあちゃんのカレーを再現したいから』と言ってキッチンにこもった。

 例の料理の材料と、牛肉も買った。炊飯器もセットしてスープとサラダの下ごしらえもして準備万端、なはずなのだが手に迷いがある。

 わからないのは、おばあちゃんがどうしてカレーだと嘘をついていたのかと、母がどうして違う料理だと気づかなかったのか、そのふたつだ。もし私が子どものころにこの料理を『カレーだよ』と言って出されても、食べる前に違うとすぐ気づくだろう。

 どうして母は、わからなかったのだろう。おばあちゃんには、カレーだと思い込ませるための秘策があった……?

 小さいころ作ってもらったおばあちゃんのカレーを思い出す。普通のカレールーを使った、ごくごく一般的なカレーだ。でも私は、給食のカレーより母の作るカレーより、おばあちゃんのカレーのほうが好きだった。その理由は、なんだったっけ。

 いつも私の健康を心配してくれていたおばあちゃん。すくすく成長できるよう、栄養にも気を配ってくれたし、塩分をとりすぎないよう、味噌おにぎりにみりんを混ぜたりもしてくれた。そんなおばあちゃんが作るカレーには、ほかにはない特徴があった。

「そうだった……。いつもおばあちゃんが言っていたセリフがあったっけ」

 結ちゃん。いっぱいお食べ。好き嫌いせずに――もちゃんと食べるんだよ。
 おばあちゃんのカレーと、なつかしい言葉を思い出したとき、おばあちゃんがどうして嘘をついたのかも、母がその嘘に気づかなかった理由も、察することができた。

 スーパーに行ったばかりだから、再現するのに必要な材料もそろっている。材料を調理台に並べて、包丁を手に取る。もう、迷いはなかった。

 材料を洗ったり、切ったり、炒めたりしているうちに、なつかしいような不思議な気持ちになってくる。子どものころ、おばあちゃんが料理をする後ろ姿を、台所の椅子に座って眺めていた自分。そんな幼い私が、今の私の姿を眺めているような、そんな感覚。

「おばあちゃんはいつも、こんな気持ちだったのかな」

 お腹をすかせた大事な人に、早くごはんを食べさせてあげたい。でも、できることならおいしいものを食べさせたいから、焦っちゃダメ。あの子のためのとっておきの工夫と、愛情の隠し味。

 母のためにおばあちゃんのカレーを再現している私の気持ちと、おばあちゃんの記憶がリンクする。私はおばあちゃんが亡くなってから初めて、遠くに行ってしまったおばあちゃんに追いつけた気がした。
「お母さん、できたよ」

 ダイニングテーブルの上に料理を並べて、母を呼ぶ。ランチョンマットにスプーンとフォークが置かれ、スープとサラダが並べられたテーブルを見て、母は軽く目を見開いた。

「去年、夏野菜カレーを作ったときはお味噌汁だったのに、今日はコンソメ味の野菜スープなのね」
「えっ、そうだっけ」

 言われてみれば、私がカレーを作って、お母さんにお味噌汁を作ってもらったような気がする。一年前はまだ、カレーと汁物を同時に作ることもできなかったのか。

「そうよ。お母さんも、カレーだからスープにするなんて発想なかったもの。だから今日は驚いちゃった。料理がうまくなっただけじゃなくて、そういうところまで気を配れるようになったのね」

そんなふうに褒められると、照れる。ふにゃりとなってしまった口元を隠すように、私はしゃもじを持って炊飯器に向き合った。

「カレーは、今よそってるから。座って待ってて」
「はいはい。料理から配膳までやってもらえるなんて、こんなぜいたくしていいのかしら」
「怪我人なんだから、甘えていいんだよ」

 私は今日までしか手伝えないんだし、と言おうとして、やめた。なんだかしんみりしてしまいそうだったから。

「はい、お待たせ」

 たっぷりよそったカレー皿をふたつ、テーブルの上にのせる。オレンジ色のその料理を見て、母は驚きの声をあげた。

「これ……! おばあちゃんのカレーにそっくりよ!」
「やっぱり? よかった」
「結、これ、どうやって作ったの?」
「ふふ、実はね」

 ひと呼吸おいた私を、母が期待と緊張の眼差しで見つめる。

「これ、カレーじゃなくてハヤシライスなの」
「えっ……。ハヤシライス!? だってこれ、具がまんまカレーじゃない!」

 お皿によそられた、牛肉と玉ねぎだけじゃなく、ニンジンもジャガイモもごろごろ入ったハヤシライス。そうなのだ、実はこの具材が、おばあちゃんオリジナルの部分だったのだ。
 お皿と私の顔に視線を行き来させながら、母は混乱していた。

「最初は普通にハヤシライスを作ろうと思っていたんだけど、不思議だったの。どうしてお母さんは、おばあちゃんが作った料理をハヤシライスって気づかなかったのかって。だってハヤシライスだったら、私もお母さんに作ってもらったことあったし」
「え、ええ……。そうね」
「だからなにか、おばあちゃんならではの工夫があったのかなって考えてたとき……、おばあちゃんの言葉を思い出したの。『好き嫌いせずに、ちゃんとお野菜も食べるんだよ』っていう口ぐせ。それで、おばあちゃんの作ってくれたカレーも思い出して」

 野菜が大きめに切ってあって、ごろごろ入っていたおばあちゃんのカレー。ジャガイモも、煮崩れないようにあとで入れてくれていた。思えば、おばあちゃんの料理は、お味噌汁や豚汁も具だくさんだった。

「そうか……。具がカレーと同じだったから、甘いカレーって言われて私はだまされちゃったのね。でもどうして、おばあちゃんはそんな嘘……」
「それはお母さんが、いちばんよくわかってるんじゃないかな」

私の言葉を聞いた母が、なにかを思い出したようにハッとする。

「そういえば私……。小学生のとき、どうしてもカレーが食べたいって、わがままを言ったんだったわ。みんなが給食で普通にカレーを食べているのがうらやましくってね。レトルトじゃなくて、具がたくさん入ったみんなと同じカレーが食べたいって。だからおばあちゃん……いえ、お母さんは、私を喜ばせようと思って……」

 それは、おばあちゃんの優しい嘘だった。ほかの子どもと同じようにカレーを食べさせたいと願う気持ちから生まれた、優しい嘘。

 にせものカレーを食べて、喜んでいる幼いころのお母さん。その笑顔を見て、おばあちゃんは事実を自分の胸にしまっておくことを決めたのだろう。

「これはハヤシライスかもしれないけれど、私にとっては〝おばあちゃんの甘いカレー〟だわ。結、ありがとう。おばあちゃんが亡くなってから同じ味が食べられるなんて、思ってもいなかった」
母は、涙声になっていた。本当はこう言いたかったのかも。『おばあちゃんが亡くなってから、秘密にされていた愛情に気づけるなんて』って。

「最初は心配していたけど……。食堂で働いていること、あなたにとってすごく意味のあることだと思う。すごく成長したわね、結」

 しんみりした声で告げられて、私まで目頭が熱くなってきた。

 私が一年半前のあの日、こころ食堂に出会ったことが、おばあちゃんの思い出の味を再現したことにつながっている。

 料理ができない私が、こころ食堂で働くことに意味はあるのかな、役にたてているのかなって思ったときもあった。

 でも――、ちゃんと意味はあったんだ。それは今、お皿の上でほかほかと湯気をたてている。

「お母さん……。ありがとう」

 その後、ふたりでスプーンを持って、にせものカレーを食べた。私は、ハヤシライスのルーと具が意外に合うことに驚いて、母は思い出と同じ味だと感激していた。

 お鍋いっぱいにたくさん作ったにせものカレーは、次の日のお昼――帰る直前のごはんにも母と食べた。残ったぶんは、『冷凍して少しずつ食べることにするわ』と母はうきうきした様子で教えてくれた。

 冷凍したぶんがなくならないうちに、また帰省できたらいいなと思っている。そのときはまた、お鍋いっぱいのにせものカレーを作ろう。四葉さんと藤子さんのお子様ランチみたいに、これからは私と母で、新しい思い出を足していけたらいい。カレーにちょっとずつ、新しいスパイスを足すみたいに。