私はなにか、大切なことを忘れてしまったような気がする。
「キヨ、おはよう。今日の調子はどうかしら」
「おはようマリア、うん、元気いっぱい」
何かが変わったわけではないっぽい、だってみんなの態度が変だとか急に予定が変わっただとかそういうわけじゃないから。ただなんとなく違和感があって、体の中のなにかが抜け落ちてしまったような感じがするのだ。
「今日、マユとシキちゃんと寄り道してくるね」
「あら、いいわね、どこ行くの?」
「秋服見に行くの、マユが選んでくれるって」
相変わらず、私はアンドロイドには違いなくて、だけど実験は継続ってことになって、レイ以外は私がアンドロイドなのは知らないけれどそれだって夏前からなにも変わったわけじゃない。ちょっとした変化なんて、マユが二年生の男子生徒と付き合い始めたことくらいだ。
付き合い、といえばそうだ、エレーヌとショーンは冬にでも結婚するらしい。とはいえ研究所をやめるわけではないから特になにも変わらないけどとも言っていた。エレーヌのお父さんは結婚の報告をしてからすっかり元気になったらしい。孫の顔を見るまでは現役だなんて言っているそうだ。
ジュンイチはジュンイチで、大学に入るときに親と揉めたと言っていたけれど、最近たまに実家に戻るようになった。レイとお父さんともきちんと話して、和解というにはぎこちなく見えるけれど少しずつ前に進めていると思うって笑っていた。
かすかな違和感、周りに大きな変化はない。じゃあ変わったのは私?なにがおかしいのかさっぱりわからない。
「キヨハ、おはよう」
「レイ、おはよう、ジュンイチ今日の夜にまたそっち行くって」
「そうなんだ、キヨハは来ないの?」
「私は行かない」
「なんだ、残念」
レイは教室でのおどけた雰囲気をやめた。急におとなしくなってしまったってみんなは困惑していたようだけど、元々あの高いテンションを維持できていたほうがどうかしているのだ。素のレイはもっとおとなしい。
私のこの約十カ月は、波がありすぎたように思う。完成しきっていなかった頃の私の不安定さがデータとして残っているのが酷く恥ずかしいくらいには。
一時期、私はジュンイチが好きだったようだけれどそのころの記憶がまったくなくて、なんで記録がないんだって尋ねたらバックアップがうまく取れてなかったんだとジュンイチはどこか寂しそうに笑っていた。コピーもないのかって聞いたらスピカにないと断言までされて、私の違和感ってもしかしてそれなんじゃないかとか。
でも研究所内のことだ、みんなが何もないと言えば本当になにもない。ほかにそれを知っている人もいないのだから確かめようがない。
「なんか、最近ぼーっとしてる?」
「そうかな、考え事してるからかも」
「なんか気になることでもあんの」
「気になってるというか、忘れてるような感じ。でもなにを忘れてるかわかんないの。データ破損かなって思ったけどみんなにはバックアップを取れなかっただけって」
それにしては、ずいぶんぽっかりとなにかが消えてしまっているような、もちろんそんな気がするだけなのかもしれないけれど、大切にしていた何かを思い出せなくなってしまったようで。忘れてはいけないものだったような、そんな気さえして。
「んーまあ、考えすぎないほうがいいと思うよ」
「そうだね、わかんないものはわかんないし」
「そんな時どうしたらいいか教えてあげようか」
「対処法があるの?」
「俺のこと思い出せばいいよ、好きって自覚した瞬間みたいな」
「なにそれ?」
「まあまあ騙されたと思って」
レイと出逢ったとき、レイを好きだと自覚した時?私は彼にどんな印象を抱いていたっけ。最初はただジュンイチに似ているなって、同じ兄弟なのにずいぶん違うなとも、そうしてレイを知っていくうちに私は何を思ったんだっけ。
「なんて、衝撃的な…人だろう、って」
「いい言葉だよね、衝撃的なんて。局所的に強い力がかかってる感じ、頭を殴られたとか形容するような」
いつかどこかで、その言葉を聞いた気がする。思い出せない、酷く昔のような最近のような、曖昧な記憶には相変わらず濃い霧がかかっている。
「たぶんそれだけで十分だと思うよ」
衝撃的。すとんと落ちてきたその言葉を口の中で反芻させた。誰かが笑っているような気がする。誰だろう、その人は誰を愛していたんだろう。わからないけれど、その言葉だけは大切にしなきゃいけないんだって思う。レイはにっこりと笑っている。
私は今幸せな恋をしているのだと、それだけで十分だと誰かがそう言ったのが聞こえた。
終