「大公に娘が生まれたそうだ」



 父であるこの国の王がそれはそれは嬉しそうにそう言った。

 この国は、前世の祖国からそう遠くない、けれど特別近くもない細々した交易をしていた国であった。特別発達しているわけではないが、貧困や疫病、飢饉に苦しまないゆるやかな時間を生きる国。

 騎士として、国交に訪れたアリスタについてきたことがあった。当時この王はまだ若き青年でこんな立派な王になろうとはとても想像できなかったのを覚えている。



 あの日はまだ自分のほうがいくつも年上であったのに、今やその青年は国王となり、たった一人しか妻を娶らず仲睦まじくこの国を切り盛りしている。

 五つになった弟も自分をあにうえあにうえと慕ってくれていて、今世は生まれだけでも十分に幸福であった。



 大公、エンディア公の娘。

 それは長いこと待っていた王家に近い家の女児であり、自分かロランの妻にするために望まれた存在と言える。

 だからこそわかる。ああ、その娘こそ私が敬愛し、忠誠を誓い、お守りしようと志半ばで命を散らしてしまったあの女王に違いないのだと。



 いまも時折夢に見る。冬の泉のように美しく透き通った声でその名を愛おしそうに呼んでくれるあの日の彼女を。

 そして塗りつぶされる。金切り声で、死の間際で、自分より騎士に心を割いてくれたあの石畳を染める赤色に。



「父上、大公と夫人とご令嬢になにかお祝いの品をお贈りいたしましょう。まず花は絶対あったほうがいいと思います」



「花か、そうだな。祝いには花が必要だな。お前はどんな花がいいと思う? リシャール」



 リシャール。

 ルネ、ではないその名前で過ごして早いものでもう七年が過ぎていた。

 アリスタはもうアリスタではない。このからだがルネではないのと同じように。だからもう彼女に出会っても「女王陛下」と呼ばなくていい。もし彼女が謁見に来たら名前を呼んでもいいし、親しくなれば愛称で呼ぶことも許されるだろう。

 騎士では許されなかったその領域へ、踏み入ることを許されている。



「そうですね、ベロニカや、ポインセチア……あとプルメリアなんかはいかがですか」



「む? あまり贈るのによくある花ではないようだが……」



「ベロニカには名誉という意味があります。ポインセチアはそのまま貴方の祝福を祈る、という意味だそうです。プルメリアは……」



 アリスタが、好きだった花ならば、なんて。もう彼女とはちがうのにどうしても彼女の面影を求めてしまうのはなかなかどうして未練がましい。



「気品、という意味が。そう母上が、教えてくださったのです」



「そうかそうか、よく勉強している! そういった女性への気遣いもできねば民を慮ることなどとてもできまい」



 ああそうだとも、父王よ。今世のこの身を愛してくださる勤勉な王よ。

 俺はそれをようく知っている。人一人慈しむために、メイドが飼っていた小鳥が死んだとき、一緒になって土を掘った女王がいたのだ。コックがやけどをしたときに、自ずから包帯を巻いてくださる女王がいたのだ。庭師が暑い日に倒れては困るからと、帽子と水筒を配って回り、城まで遊びに来てくれたのだろうと城下の子供たちに抱えきれないほどのお菓子を持たせ、戦いで傷つくことなど本望である騎士一人の些末なかすり傷で大げさに泣く女王が、たしかにこの世に生きていたのだ。



 今もまだ愛している。あの彼女のような王に俺はなれるのだろうか。魂の素養が聖人でなくとも、また善人としてあらゆる人々を愛せるようになりたいと願っている。必ず彼女と結ばれるとわかっているのならなおさら、彼女の隣で、彼女とともに手を取り笑って生きていけるように。











「リシャールでんかは、わたくしのことがおきらいなのですか?」



「はあっ? いや、んんっ、どうしてそう思うんだ」



「だっていつもけわしいおかおをなさっていますもの」



 彼女に初めて会ったのは彼女が五つになったときで、その姿は大公と大公夫人を足して割ったようにどちらにも似た大層美しいこどもだったけれども一目見たときに心が叫んだ感覚を味わった。ああ、間違いない。彼女だ。

 十二年、待った。たった十二年が、まるで無間地獄のようだった。必ず結ばれると神は言ったからその言葉だけを支えにいつ現れるかもわからない彼女を待ち続けた。十二年で済んでよかったじゃないか。いや十二年も待ったじゃないか。
 ぐるぐると様々な感情が渦を巻き、つい彼女の前でしかめっ面をしてしまった。

 彼女……クロエはそれをどうやら俺の機嫌を損ねたのではないかと考えたらしかった。たった五歳の女の子相手に向きになる十二歳、というのは王子でなくともどうかと思うが。



「違うんだ、その、クロエ以外のご令嬢とはあまり話したことがないんだ」



「まあ、なぜですの? おうぞくのかたは、いろんなかたにおあいしますでしょう?」



「ああ、会う。会うけれど、遊び相手、とかはどうにも。俺の態度が怖いと言って泣かせてしまう」



「ぶきようでいらっしゃるのね」



 くふふ、と小さく笑ったクロエは〈クロエ〉に違いないのに魂が同じなら所作も似るのかアリスタがよくやっていた仕草とまったく同じことをするので驚かされる。

 なくて七癖、ともいうしもしかしたら自分にもそういうのがあるのだろうか。特にクロエに指摘はされないので彼女の中にアリスタはいないのかもしれない。



「だから、怖い顔をしていると……思うかもしれないが、俺は決してクロエに怒っているわけではないんだ」



「はい、でんか」



「そうだ、そう、クロエがもしいいなら、俺を殿下ではなくリシャールと呼んでくれないか。そうすればもっと仲良くできそうな気がすると思わないか?」



「よろしいのですか?」



「ほかならぬ俺が、きみに名前を呼んでほしい」



 お願い、というよりほとんど懇願であった。情けない話だが、どうにも俺はどの体になりどの時代を生きようとも、そして彼女が〈誰〉であろうとも彼女に名前を呼ばれることが好きらしい。



「リシャールさま」



 そうだ、そうして俺の名を呼び、俺を瞳にうつして穏やかにほほ笑んでくれ。

 何度でもその美しい声音で俺の名前を紡いでくれ。そうしてあの日の君の断末魔を塗り替えて、幸せな未来を描いていきたい。



「クロエ、君といると心地がいい」



「はい、リシャールさま。わたくしもです」



 アリスタ、あなたの騎士はここにいます。

 いや、もう騎士ではないのか。一歩前でお守りするわけでもなく、一歩後ろで控えるわけでもない。手を取って共に、隣に立って歩くことを許される。同じ速度で進み、立ち止まり、同じ景色を瞳に移してその美しさを語らうことができるのだ。



「クロエ、君がもうすこし大人になったら、俺のもとへ嫁いでくれるか」



「……まだ、おあいしてはんとしもたっておりませんよ」



「魂が言っている。きみを手放してはいけないと。そう決まっていたのだと、そんな気がする」



 すまないクロエ。俺はきみに、嘘をついた。

 そんな気がする、などと曖昧な言い方をしたけれど本当はそう願い続けてきたし、神にそれを約束されたのだ。どんな手を使っても君を手に入れる。そうして今度こそ、君が本当に本当に幸せに生き抜く世界を約束しよう。そして俺は君より一分だけ長生きをしようと思う。

 死の間際、君の手を握り、ともに虹の橋を渡る約束をして、一緒に父たちの身許に行こう。君は神になり、もうこれから先同じ時間を生きることがないかもしれないのだから、今世は絶対に君と。



「リシャールさま」



「ああ」



「わたくしのとなりにいてくださいますか?」



 ああ、そんなのは、願ってもないことだ。