善人騎士は聖人女王の夢を見る


 アリスタ。

 それは自分が初めて出会った家族ではない女児で、自分が初めて恋をした少女で、自分が唯一守ると誓った女性で、自分が生涯愛すと決めた女王の名前がそれだった。

 アリスタは王女、とはいえ兄がいたので継承の序列は二番目であったし、女子なのだからと嫁ぐことがほぼ初めから決まっていた。対して自分は侯爵家の息子、それも長兄は秀才で、次男だったために家を継ぐことは最初からまあないだろうという感じだったし、そもそもどうやって父親が自分を王女と会わせるに至ったかも詳しいことはずっと知らない。

 そんなことはどうでもよくて、大切なのは愛した女性が王女で、長兄が暗殺されたので女王となって、自分はその一番近い騎士として彼女をひっそりと愛することしか許されなくなったということだった。


 結ばれる未来を何度も夢見た。そして叶わなかった。それだけだ。貴族社会では政略結婚など珍しい話でもない。女王であるための美しさも賢さも彼女はすべて持っていた。当然だと思った。善い女王として国を治めた。入り婿であった国王とも子を成した。ただただ素晴らしい女王だった。誰もが口をそろえて賛美をした。



 なのに、なんなのだ、このありさまは。





「女王をっ! 殺せぇっ!」



「今こそ裁きのとき! 断罪だ!」



「断罪!」



「断罪!」



「断罪!」





 広間に転げ落ちた首は見慣れた国王のそれである。やさしく微笑んでいた面影もなく、その絶望は死してなおその目を濁らせていた。

 ああ、だが、私は聞いた。女王を差し出し、逃げようとしたのだ。この美しい女王を、自分のかわりに殺せと宣ったのだ。愛していたのではないのか、お前の愛はそんなものか。だったら、私は、俺は、どうしてアリスタを愛することを押さえてこなければいけなかったのだ。





「離せ! 離せ! これは命令だ! なにをしてる民衆を止めないか!」



「団長、無理です。もう、この国は」



「無理なものか! 俺は女王を、アリスタを守ると神に誓ったのだ! 触るなっ!」



「いけません! 団長! ……ルネ様!」





 ねえ、もし来世があったとしたら――――。

 アリスタ、アリスタ。きみといつかそんな話をしただろう。私が君を愛することを許してくれと頭を垂れたとき、君は笑って次の世の話をしてくれたのだ。

 それが俺にとってどれほどの救いであったのか君は知るまい。今、今生で、結ばれたかったと世界を呪った俺の心に、次の世を夢見せてくれた君をどれだけ愛しているか、きっと君でさえ知りえないのだ。



 ―――――――ねえ、もし来世があったとしたら、今度はあなたと二人仲睦まじく暮らして、愛し合える世界に生まれたいものね。――――――



 その約束ですらない約束を、妄想のような希望を、声にすることすら許されない喜びを、幾度となく慈しみ、抱きしめ、愛してきた貴女のすべてをこんな形で終わらせていいはずがない。

 愛しているはずだ。この国を。民を。国王を、王子たちを。たった一人、騎士でしかない私を愛している君だからこそ、そんな騎士でしかない俺などはとうてい想像もつかないほどに深く深くこの国を愛しているはずだ。

 なのに、どうして。





「離せ、離せお前ら! 裏切り者め、恩知らずめ、女王の国で生きてきたくせにその女王を殺そうというのか!」



「ルネ……! ルネだめよ!」



「アリスタァァァッ!」





 鈍い音、脳が焼け付くほどの痛み、石畳を汚す赤。

 ああ、違う、違うんだアリスタ。最期まで、君にそんな顔をさせたいわけじゃなかったんだ。笑って欲しかった。幸せでいてほしかった。君を守りたかった。君を愛していた。

 きみにそんな顔をさせる俺を許してくれ。絶望から救い出せず、逆に突き落としてしまう愚かな俺を許してくれ。そして俺を捨て、君は来世で幸せにならなくてはいけないのだ。なぜってそんなのは、そう望むのは、俺が君を、君だけを、痛いほどに愛しているからだ。

 自分のことばかり、ひどいエゴだと思うかもしれないが、そして君は私の手をとろうとするのだろうが、利己的で盲目的で献身的でいたいのだと、その矜持は何人たりとも切り捨てやできないのだと、ただただ、それだけは。





「お、のれ……おのれ、おのれおのれおのれえええぇっ! 貴様ら、許さぬ、何度貴様らが生まれ変わっても呪ってやる! この国を呪いお前らを呪い未来永劫苦しめてやる! 災いを、この国に晴れることなき永遠の暗雲を! 貴様らに! 貴様らに、死より果て無い絶望を目にもの見せてやる! ああああああああっ!」





 君の口から、怨嗟が零れ落ちる日などこないと思っていた。

 君の瞳に絶望が浮かぶ日などこさせるものかと思っていた。

 君の美しい身体を、老婆になった君を埋葬することが、自分の最期の仕事だろうと思っていた。





「あり、す……た……」





 歪んだ熱狂に包まれて刃物が空を切る音がした。

 災いあれ、災いあれ、女王を愛さぬこの国に、俺の愛した女王を殺したこの国に、女王を絶望させたこの国に! 死など生ぬるいほどの災いあれ!
「ここは……」



 目が覚めたとき、自分が寝そべっていたのはなにもない真っ白な闇であった。

 音もなく、風もなく、生き物の影すらない。ああ、私は死んだのだった、と両手を見る。見慣れた両手に両足があり、傷もなく血もついていなさそうだった。痛みもないが、それ以外の感情もどこかぼんやりしているような気がする。

 それでも、彼女だけは、アリスタだけはどうなっただろうと唇を噛んだ。

 私が彼女にあんな顔をさせたのだ。私が切られたところを見て、死に直面しながら私を案じたのだ。



『ルネ!』



 彼女の声がした。聞き間違うはずも、聞きこぼすこともない。生涯でたった一人だけ愛していた人の声を。





「ああ、良かった。消えなかった」



「消えなかった、消えなかった」



「強い魂だ、よい魂」



「あなた、がたは」



 大きな爬虫類。水をまとった女性。嘴を持った犬に、赤みがかった靄のようななにか。

 見覚えがある。自国の神々の姿絵はたしかこんな感じだった、と思う。本当に神を見た人間がいたのかと驚いたが、深呼吸をして頭を落ち着かせる。

 本当に見たか、自分のイメージに寄せてくれているのか、そんなのはどうでもいい。ただ目の前に神がいる。それだけの話だ。



「祖国を造り、民を造り、国を見守ってくださる神々よ。私の名はルネと申します」



「善人だ」



「ああ、善人だ」



 善人、とは私のことだろうか。挨拶をし、頭を垂れただけで善人とは、神というのは存外人間に甘いのかもしれない。いやどうだろう、人の子など赤子くらいでしかないと思っているのだろうか。

 どちらにしても相手に敵意がなさそうでほっとした。素手であっても訓練はしていたが、丸腰では少々心もとないと思っていたところだ。



「人の子よ、騎士よ、こたびの人生よくまっとうしてくれた」



「もったいないお言葉に感謝いたします。……ですが、騎士としては、まっとうできませんでした」



「人の女王の話か、たしかに死んだがお前のせいではないし、あの魂はまだ生きている」



「魂が、生きて?」



 聞けばこうだ。

 国民の間違いの代償が、我々の命だったこと。我々が死ぬことがあの国の最大の〈失敗〉と〈損失〉で、自分たちは死んだほうが幸せなのだそうだ。納得はいかないが、神がそういうのであればそうなのだろう。深く考えても得るものはあるまい。



 アリスタは聖人なのだという。

 たしかに昔から、彼女が間違ったところは一度も見たことがない。それはマナーやレッスンなどもそうだし、字を書き損じたところも、計算を間違えたところも、当たり前だが政治の数々も、なにもかもがそうだった。

 一度も字を書き損じたことがないなんて人間としてありえないだろうと思いつつ、自分がしらないところではあるのかもしれない、自分が見たことがないだけかもしれないと思っていたが、生まれてから死ぬまで本当の意味で彼女は完璧だったそうなのだ。



「そんなことが、ありえるのですか」



「普通はない。だが普通ではないからこそ、あったのだ」



「魂の素養が聖人なのです」



「生まれながらに、決まっている」



 魂の素養。ああ、やはり、私が仕えた女王は唯一無二にして最高の王であったのだ。

 私の忠誠をささげられたことを誇りに思う。あの方を愛せたことを幸運に思う。私はそんな美しい人の人生に足どころか半身を踏み込んでいたのだ。害していたのではないかと不安になるほど近かった。それを許されたようにさえ思う。

 愛しい君が、完璧でなくとも愛おしかったが、神に愛されているのだとわかればそれ以上に善いことなどそうそうあるまい。



「あの女王は聖人だったので神にしたかったが、断られた。もう一度人間をやりたいそうだ」



「お前は善人だが聖人ではないので、神にはなれないが、天へ行くか、もう一度人の子になるかは選んでよい」



「人になったら、今度はアリスタの魂と必ず結ばれる」



「ただし、お前はアリスタの魂に出会っても、自分のことを一切伝えられない」



「それでもいいのなら、次の世で、あの女王の魂と必ず出会い、必ず結ばれる運命を与えよう。必ず幸せに生きて、必ず愛し合う未来を約束しよう。そういう未来を語っていただろう」



 神はなんでも知っているようだと頭を抱えた。あんな妄想のような、二人きりの語りを聞いていたとはどうにも趣味が悪い。勘弁してくれと告げれば神々は愉快そうに声を出して笑っていた。

 ああ、神も笑うのか。そういう世界があるのだな。そして私たちはその神に祝福を約束していただいているのだ。祖国が、これ以上ないほどの苦しみを与えられるのと比例するように。



「慈悲深き神々よ、我々の父よ、どうか私を、また私の女王にお巡り合わせください。最期に見せたあの顔を、あの感情を、私は再度人生をかけて償わねばなりません」



「本当にそなたは善人である。来世もまた、善く生きよ。そして次は天に来るといい」



「祝福を」



「善人騎士に祝福を」



 すうっと消えていく白い闇の向こうに、父たちの笑い声が響いている。

 意識が遠のく。ああ、私はこれから「だれか」になり「わたし」として生きていくのだ。



 主よ、うつし世を離れて天翔けた日に身許に行き、御顔を仰ぎ見んとした私を、また主の身許に舞い戻るために善きことをして生きるよう祝福してくださり感謝いたします。

 女王よ、今一度、あなたの身許に舞い戻る私を、どうかどうか、受け入れてくださいますように。
「大公に娘が生まれたそうだ」



 父であるこの国の王がそれはそれは嬉しそうにそう言った。

 この国は、前世の祖国からそう遠くない、けれど特別近くもない細々した交易をしていた国であった。特別発達しているわけではないが、貧困や疫病、飢饉に苦しまないゆるやかな時間を生きる国。

 騎士として、国交に訪れたアリスタについてきたことがあった。当時この王はまだ若き青年でこんな立派な王になろうとはとても想像できなかったのを覚えている。



 あの日はまだ自分のほうがいくつも年上であったのに、今やその青年は国王となり、たった一人しか妻を娶らず仲睦まじくこの国を切り盛りしている。

 五つになった弟も自分をあにうえあにうえと慕ってくれていて、今世は生まれだけでも十分に幸福であった。



 大公、エンディア公の娘。

 それは長いこと待っていた王家に近い家の女児であり、自分かロランの妻にするために望まれた存在と言える。

 だからこそわかる。ああ、その娘こそ私が敬愛し、忠誠を誓い、お守りしようと志半ばで命を散らしてしまったあの女王に違いないのだと。



 いまも時折夢に見る。冬の泉のように美しく透き通った声でその名を愛おしそうに呼んでくれるあの日の彼女を。

 そして塗りつぶされる。金切り声で、死の間際で、自分より騎士に心を割いてくれたあの石畳を染める赤色に。



「父上、大公と夫人とご令嬢になにかお祝いの品をお贈りいたしましょう。まず花は絶対あったほうがいいと思います」



「花か、そうだな。祝いには花が必要だな。お前はどんな花がいいと思う? リシャール」



 リシャール。

 ルネ、ではないその名前で過ごして早いものでもう七年が過ぎていた。

 アリスタはもうアリスタではない。このからだがルネではないのと同じように。だからもう彼女に出会っても「女王陛下」と呼ばなくていい。もし彼女が謁見に来たら名前を呼んでもいいし、親しくなれば愛称で呼ぶことも許されるだろう。

 騎士では許されなかったその領域へ、踏み入ることを許されている。



「そうですね、ベロニカや、ポインセチア……あとプルメリアなんかはいかがですか」



「む? あまり贈るのによくある花ではないようだが……」



「ベロニカには名誉という意味があります。ポインセチアはそのまま貴方の祝福を祈る、という意味だそうです。プルメリアは……」



 アリスタが、好きだった花ならば、なんて。もう彼女とはちがうのにどうしても彼女の面影を求めてしまうのはなかなかどうして未練がましい。



「気品、という意味が。そう母上が、教えてくださったのです」



「そうかそうか、よく勉強している! そういった女性への気遣いもできねば民を慮ることなどとてもできまい」



 ああそうだとも、父王よ。今世のこの身を愛してくださる勤勉な王よ。

 俺はそれをようく知っている。人一人慈しむために、メイドが飼っていた小鳥が死んだとき、一緒になって土を掘った女王がいたのだ。コックがやけどをしたときに、自ずから包帯を巻いてくださる女王がいたのだ。庭師が暑い日に倒れては困るからと、帽子と水筒を配って回り、城まで遊びに来てくれたのだろうと城下の子供たちに抱えきれないほどのお菓子を持たせ、戦いで傷つくことなど本望である騎士一人の些末なかすり傷で大げさに泣く女王が、たしかにこの世に生きていたのだ。



 今もまだ愛している。あの彼女のような王に俺はなれるのだろうか。魂の素養が聖人でなくとも、また善人としてあらゆる人々を愛せるようになりたいと願っている。必ず彼女と結ばれるとわかっているのならなおさら、彼女の隣で、彼女とともに手を取り笑って生きていけるように。











「リシャールでんかは、わたくしのことがおきらいなのですか?」



「はあっ? いや、んんっ、どうしてそう思うんだ」



「だっていつもけわしいおかおをなさっていますもの」



 彼女に初めて会ったのは彼女が五つになったときで、その姿は大公と大公夫人を足して割ったようにどちらにも似た大層美しいこどもだったけれども一目見たときに心が叫んだ感覚を味わった。ああ、間違いない。彼女だ。

 十二年、待った。たった十二年が、まるで無間地獄のようだった。必ず結ばれると神は言ったからその言葉だけを支えにいつ現れるかもわからない彼女を待ち続けた。十二年で済んでよかったじゃないか。いや十二年も待ったじゃないか。
 ぐるぐると様々な感情が渦を巻き、つい彼女の前でしかめっ面をしてしまった。

 彼女……クロエはそれをどうやら俺の機嫌を損ねたのではないかと考えたらしかった。たった五歳の女の子相手に向きになる十二歳、というのは王子でなくともどうかと思うが。



「違うんだ、その、クロエ以外のご令嬢とはあまり話したことがないんだ」



「まあ、なぜですの? おうぞくのかたは、いろんなかたにおあいしますでしょう?」



「ああ、会う。会うけれど、遊び相手、とかはどうにも。俺の態度が怖いと言って泣かせてしまう」



「ぶきようでいらっしゃるのね」



 くふふ、と小さく笑ったクロエは〈クロエ〉に違いないのに魂が同じなら所作も似るのかアリスタがよくやっていた仕草とまったく同じことをするので驚かされる。

 なくて七癖、ともいうしもしかしたら自分にもそういうのがあるのだろうか。特にクロエに指摘はされないので彼女の中にアリスタはいないのかもしれない。



「だから、怖い顔をしていると……思うかもしれないが、俺は決してクロエに怒っているわけではないんだ」



「はい、でんか」



「そうだ、そう、クロエがもしいいなら、俺を殿下ではなくリシャールと呼んでくれないか。そうすればもっと仲良くできそうな気がすると思わないか?」



「よろしいのですか?」



「ほかならぬ俺が、きみに名前を呼んでほしい」



 お願い、というよりほとんど懇願であった。情けない話だが、どうにも俺はどの体になりどの時代を生きようとも、そして彼女が〈誰〉であろうとも彼女に名前を呼ばれることが好きらしい。



「リシャールさま」



 そうだ、そうして俺の名を呼び、俺を瞳にうつして穏やかにほほ笑んでくれ。

 何度でもその美しい声音で俺の名前を紡いでくれ。そうしてあの日の君の断末魔を塗り替えて、幸せな未来を描いていきたい。



「クロエ、君といると心地がいい」



「はい、リシャールさま。わたくしもです」



 アリスタ、あなたの騎士はここにいます。

 いや、もう騎士ではないのか。一歩前でお守りするわけでもなく、一歩後ろで控えるわけでもない。手を取って共に、隣に立って歩くことを許される。同じ速度で進み、立ち止まり、同じ景色を瞳に移してその美しさを語らうことができるのだ。



「クロエ、君がもうすこし大人になったら、俺のもとへ嫁いでくれるか」



「……まだ、おあいしてはんとしもたっておりませんよ」



「魂が言っている。きみを手放してはいけないと。そう決まっていたのだと、そんな気がする」



 すまないクロエ。俺はきみに、嘘をついた。

 そんな気がする、などと曖昧な言い方をしたけれど本当はそう願い続けてきたし、神にそれを約束されたのだ。どんな手を使っても君を手に入れる。そうして今度こそ、君が本当に本当に幸せに生き抜く世界を約束しよう。そして俺は君より一分だけ長生きをしようと思う。

 死の間際、君の手を握り、ともに虹の橋を渡る約束をして、一緒に父たちの身許に行こう。君は神になり、もうこれから先同じ時間を生きることがないかもしれないのだから、今世は絶対に君と。



「リシャールさま」



「ああ」



「わたくしのとなりにいてくださいますか?」



 ああ、そんなのは、願ってもないことだ。
「兄上は辛いと思うことがないのですか?」



「なにかあったのか?」



「己の無力さを嘆いていたところです。特に何ということではないのですが」



 ルネであったころなら同じように思ったのだろうかとロランを見る。この出来の良い弟はなにやら幼い頃にクロエとうまくやれなかったことを今でも悔いている節があるようだ。

 もう二十にもなって、と思うがロランの中では大切なことで、消化出来ていないことなのだろう。それを笑う権利は誰にも無いはずだ。



「辛いと思っても顔に出すとクロエが心配するんだ。まだ学生なのだしどうせ卒業したらすぐ結婚式なのだから今くらい気楽に過ごして欲しいだろう」



「ご自身の蟠りやお気持ちはどうなるのです?」



「それこそお前が私の手助けをしてくれている」



 つい先日、うっかりクロエにこぼした弱音については夢見が悪かったの一言に尽きる。夢を見たのは本当だ。その夢がなんの脈絡もない神託ではなく過去の自分の記憶だというだけで。

 そのクロエはといえば、彼女は彼女で女王だったころの夢を見たというではないか。それが本当かウソか、覚えていたのか、思い出したのか、自分に気を使ったのかはわからないが、そして自分がかつてそうだったのだと彼女に告げることは神との約束故できないことだが、それでも夢に身を委ねるなと言われたのは個人的には救われたものだ。

 前世も今世も彼女には救われてばかりいる。

 あと半年。夢にまで見た、いや、願い続けた結婚というその行為を控えて最近はすこしばかり浮かれている自覚もある。もっとしっかりしなくては。



「初めて、クロエ嬢にあった日のことをよく覚えています。愛らしい少女だと思いました。それ以上にどこか完成しているようでなんだか少し怖かったことも」



「お前より年下なんだけれどな」



「自覚がないのですか? クロエ嬢と兄上は全く同じなのです。こう、まるで、人生をやり直しているかのような完璧さを感じます」



 変に聡い弟の発言に笑って否定をすれば、たとえに決まっているでしょうとぶすくれた顔をする。前世も弟がいたが、早くに病でなくなってしまった。その時もアリスタが一緒に泣いてくれたのだったと思いだす。

 ロランのその怖かったという感情はごくまっとうな気がする。自分よりはるかに完成された生き物が怖くないのであればそれは単なる愚か者だ。



 クロエが怖い。

 たしか、母上も一度だけそう言っていた。もちろん、婚約に反対だとかそこまでは言わなかったがあの出来上がりすぎた賢さに危うさを感じたそうなのだ。

 いくらエンディア公が優秀で、その娘とはいえ、5歳児があいさつも言葉遣いも完璧なのではそう思うなというのも無理かもしれない。

 賢い子だと笑って済ませた父のずぶとさは国王ゆえのもののような気もするし、自分が動じずにいられたのはアリスタだと知っているからだ。



「目標にしている方がいます」



「へえ、お前の口からそういうのを聞くのは初めてだ」



「あまり大声で言っていいような人ではないので」



「どんな方だ?」



「亡国の、アリスタ女王陛下とその騎士です」



 動揺した。悟られてはいないか。どうしてロランの口からその名前がでたのかと返事が一瞬遅れてしまった。

 幸い「やはり大っぴらにいってはいけないので」とこちらの反応を勘違いしてくれたようだがどちらにしても理由は気になるので話を促す。



「まだかの女王が死んで40年くらいですが、国自体が滅んだのは10年ほど前ですね。徐々に悪化していたあの国の内情を知るからこそ本当にその女王が処刑されるようなことをしたのかずっと疑問に思っています。あの国の歴史書を手に取る機会があったのですが、あの国は、女王が死ぬまでは、完成されていました」



 ああそうだ。アリスタがそうしたのだ。

 聖人たる魂の素養、神々はそんなことを言っていた。
 本当の意味で完璧だった彼女の手によって作られていたあの国に間違いなどあろうはずもない。美しく、素晴らしい、楽園のような祖国こそが人間が追い求めた神の庭だったはずなのだ。

 間違っていたのは、最期の、あの日だけで。



「強く美しい女王だと記されていました。信頼されていた側近の騎士もまるで同じ目を通して見ているかと思うほど息がぴったりだったそうです。兄上にとって、自分がそうでありたいと、そのためには兄上のことももっと見なくてはと思っているのですが、どうにも兄上とクロエはなんだか別の次元を生きているかのようで」



 辛いと思うことはないのか、という最初の質問はここにかかってくるわけかと納得する。要は自分たちのやっていることについていけないのではと不安になっているのだろう。



 なんてことはない。私は、「リシャール」がしているのはあの頃のアリスタの真似事に過ぎない。下地があるから優秀に見えるというだけでやっているのは透かした紙をなぞっているようなもの。それでも自分は書き取りや、聞き間違いもするし、計算を間違うこともある。人を怒らせることも、転ぶことも、食器を割ったこともある。彼女とは違う。なぞっていても完璧ではないのだ。



「兄上とクロエはよき王になると確信しています。ただ、自分がそのそばにいるのに少しばかり自信がないというだけで。もしかしたら、自分はいなくても構わないのではないかと」



「なんてことを言うんだ!」



 思わず声を荒げると目を丸くしてロランは驚いたような泣きそうな顔をした。

 ロランに対して大声で怒鳴ったことなんてないし、兄弟げんかで泣かせたこともないから驚かせたのだろう。

 腹が立つことなんていくらでもあった。それは兄弟ゆえの、些末なことばかりで、腹は立ったけれど、それ以上に弟という存在が愛おしかったから喧嘩の必要などなかっただけだ。

 そんな些細なことも、私にとってはかけがえのない大切なものなのだ。



「いいか、ロラン。私がお前より優秀に見えるのは当然だ。なぜなら私が兄だからだ。歳の分、積み重ねた日々がお前より長いからだ。クロエだって、あの大公の娘なのだ。一癖も二癖もあるだろう。私たちは家族だ、無二の兄弟だ。だが私とお前は同じ生き物ではない。自分を他者と比べる必要なんかない。そうだろう、お前は、お前だけが私の弟だろう」



「あ、兄上っ、落ち着いて、もう言いません、言いませんから、どうか僕のために」



 泣かないでください、というその声も泣いていた。

 アリスタ、君を見ていたからよくわかる。自分と違う他人こそとても尊く愛しいものだ。メイドと一緒に泣いたあの日も、コックのために慌てていたあの日も、ただのかすり傷で大泣きしていたあの日も、あなたはこれ以上なくあなたの民を愛していたのですね。



 まだ自分の弟に、そしてクロエにしかそんな激しい感情を生み出せない自分は聖人ではないし、聖人にはなれない。こんな痛々しい思いを、国民すべてに向けていたあの女王なんかに比べれば私はまだまだ未熟者だ。そんな私を追うために、ロランに心を痛めてほしくない。



「たとえロランが、手足を失い、私を忘れる日が来ても、私はロランを、私の弟をずっとずっと尊く思う。だから壁の向こうで、ひとりで膝を抱えないでほしい。暗闇でひとりで迷わないでほしい。私を呼び、二人で歩けばそんなに険しい道でもないはずだ。私は聖人ではない、だが善人であることはできる。だからお前を大事にしたいという私の気持ちを、お前も汲んではくれないか」



「弟相手にずいぶん情熱的なことをおっしゃいますね」



「神も父上も、そしてほかでもない私がそう望んでいる」



「そう、ですか。ああ、そうですか……そう、兄さん、僕は……」



 今世も善人であれと、父なる神々はそういった。

 たとえ聖人になれなくても、世界中を慈しめなくても、神はそれを悪とは言わない。

 こうして目の前にいる肉親一人に心を割くこともまたひとつの善性だ。そうして私が、今世でこそ守りたいものを守り切ったなら、きっとクロエも、そしてロランも、一緒に父たちに拝謁する日がくるだろう。



 私はそのために、リシャールとして生きているのだから。
「王太子殿下、王太子妃殿下!」



「おめでとうございます!」



「なんてお綺麗なのかしら!」



「両殿下、万歳!」



「万歳!」



 最後の日と同じような民衆の叫びの嵐の中で、けれども制反対の祝福の声ばかりがあふれるこの国で、私とクロエの成婚パレードは恙なく執り行われた。

 慶び、希望、羨望、祝福。良い意味での熱狂に取り囲まれながら私たちの馬車は大通りをゆっくりゆっくり進んでいく。



「ねえ、リシャール様、ご覧になって。あの女の子のお洋服とても素敵、きっと今日のためにあつらえてくださったのね」



「あの男の子もきっとそうだな。隣にいるのがご両親だろう」



「わたくしたちのことなのに、とても幸せそうに笑ってくださるのね」



「それは君が、この国に愛されているからだろう」



 学び舎に通い、王大使妃教育も王妃教育も完璧にこなすクロエはやはりいつみても失敗などしなかった。字を書き損じず、計算を間違わず、カトラリーは落とさず、足音を立てず、優雅に微笑み続けまさに淑女として理想的な振る舞いとその頭脳を見せつけた。

 宮仕えの者たちは口々にクロエを褒めたたえた。幼いころから聡明でした、ご立派になられて、これでこそ国母です、クロエ殿下でしかありえません、王太子と王太子妃に仕えられることこそ最高の誉れです。



 賛美の嵐は貴族に広がり、そして徐々に悪辣な者たちを飲み込んだ。私とクロエはどんな時も行動を共にし、二人の愛が真実のものだと周りに見せしらしめた。

 せめて側妃や愛妾でもいいからと自らの娘たちを仕向けてきた一部の欲深い貴族たちも、その娘に「あんなのに適うわけがない」とヒステリックに叫ばれてはあきらめざるを得なかったのだろう、とは執事長の弁だが。



 いつからか、クロエの意見に父……国王が耳を傾けるようになった。

 賢いこの国王はクロエの言うことを聞いたほうがよいのだとすぐに気が付いたらしい。わが父とわが婚約者ながらとてもではないが追いつけそうもなくていっそ笑ってしまうほどだった。

 クロエがこの国を好いてくれてよかった。あの業火や、剣戟や、怨嗟の絶叫に彼女が魂を侵されていなくて本当によかった。また笑ってくれてよかった。彼女が世界を愛していれば、それだけで人々は豊かになることを約束されるのだ。



 なんせ、彼女は本物の聖女なのだから。



 教会に着き馬車から降りる。このあと彼女はドレスを着替えるのでしばしの別れとなる。通常、男は衣装を変えることなどないのだが、折角だからこれからは男も衣装を変えて花嫁の目を楽しませるべきではないかと進言したら父も大公もとても楽しそうにうなずいた。

 妻を愛する二人だからこそ、花嫁を楽しませようという私の言い方を気に入ったに違いなかった。



「兄上、よくお似合いです」



「ありがとうロラン。お前の結婚式でも同じ型のものを作らせよう」



「それは光栄ですが、いつになるか」



「……もし、お前が一人を貫こうとも、年も身分も違う相手を愛そうとも、あるいは同性であっても、私は常にお前を支持する。だから気楽に考えてくれ」



「……ええ、はい。いつかきっと、そのときは。頼りにしています」



 一足先に聖堂へ向かい、真っ赤な一本道を神父の前まで進む。

 「殿下に祝福を」とほほ笑む神父も昔から世話になっている敬虔な信徒だ。クロエの信心深さに理解を示すことができる、此方での本物の聖人の一人。

 私も、彼のようになりたかった、。間違わず、清らかに、美しくありたかった。そしたら死が我らを分かつ日など永遠にこないのにとさえ思う。



 だがわかる。こんな考えがもうすでに聖人にはなれない一つの理由であることを。アリスタは、クロエは決してこんな自分本位に考えたりしないのだということを。

 今日ここで、この場で、再度天上の父たちに誓う。私の名において、きっとクロエを、今度こそ私が1秒だけ長生きをして、きっと彼女を看取るのだと。最期の日まで笑い続けて、ともに虹の橋を渡るのだ。そのために幸せに生きなくてはいけないのだと。



 もう二度と、彼女にあんな顔をさせないように。



 蝶番のきしむ音がして振り返る。目もくらむような光の中で、天使のような少女が凛とたたずんでいる。隣では大公がすでに顔をくしゃくしゃとゆがめており、クロエが腕に手をかけると唇をかみしめて前を向いた。



 前世でも見た。国王との婚礼のとき、同じように真っ白なドレスを身にまとい、微笑みながら、でも少しだけ、私を見て顔を歪め、私ではないものに嫁いでいった彼女を。

 私が愛し、守り、忠義をささげた、あの女王を。

 ああ、今度はその彼女の行き着く先にこそ私が立っている。彼女と笑い、手をとり、同じ速度で、同じ場所で、ともに生きていくのだと。



「大公、私は必ず、かならずクロエを、大公夫人がうらやむほど幸せにしてみせます」



「はっはっは、豪気なことだ。私も負けていられない。……クロエ」



「はい」



「お前を守ってくださるこの方を、お前のすべてをもって愛し、支えあっていきなさい」



「はい、お父様。約束です」



 振り向いて神父のほうを向けば神父もすでに泣きそうな顔をして目頭を押さえている。笑って声をかければ慌てたように咳ばらいをした。



「汝らは、神の聖名において、病める時も健やかなるときも、これを愛し、敬い、永遠の愛を約束すると誓うか」



「はい」



「誓います」



 向き合って彼女のベールをそっと持ち上げる。やっと視界が鮮明になったらしい彼女は私の変えた衣装と髪形を見て小さな声で「ルネ」とつぶやいて目を見開いた。



「なんだ、知っていたのか。この服と髪形は私がデザインしたんだがその名前をルネにした。ロランに聞いたのか?」



「あっ、ええと、ええ、そうだったと……思いますわ」



 慌てたようにそう取り繕う彼女に少しだけ懐かしさを覚える。聡明な彼女でも、慌てると唇を舐めてから話し出す癖がある。今も、昔も。

 クロエ。そしてアリスタ。私は自分がそうであると、直接告げることはこれから先ないが、それでもどこかで何かがつながっているのかもと君に思わせることはできるだろう。

 それがささやかな、私のいたずら心だと笑って受け入れてくれればいいのだが。



「君のその髪型と、ドレスも私が進言した。オートクチュールのマダムが張り切って縫ってくれた。頼んだ甲斐があったというものだ」



「ええ、こんな、美しいものをリシャール様にいただけたことを光栄に、誇りに思います。わたくしのものにも名前がありますの?」



「アリスタ」



 彼女がその大きな目にいっぱいの涙を浮かべ、あふれ出た水晶はその滑らかな頬を伝ってプルメリアのブーケに輝きをもたらしていく。

 まだ誓っていないのに、そのまえからこんなに泣かせてしまっては。参列客は私を見つめたまま泣いているクロエにおやおや、あらあらと楽しそうな顔をした。



「アリスタという。私はこの美しい名前が好きなんだ。気に入ってくれたか?」



「はい、はい……はい、殿下。ルネも、よく、お似合いですわ」



 騎士だったときの私の正装を模したこの格好に、誰かが気づくことはない。

 彼女が分かればそれでいい。彼女に記憶がないのだとしても、琴線に触れる可能性があればそれでいい。それだけでいい。「ルネ」と「アリスタ」。それを口にする機会が訪れるようにすればいい。

 この国のものが「ルネ」と「アリスタ」の婚礼がよきものだったと口にして……いやそれは少々高望みしすぎだろうか。



「クロエ、父たちに、私はきみへの永遠の愛を誓う。いまも、いつの世も」



「はいリシャール様。このクロエ、あなた様の隣で、ずっとずっと、この敬愛を捧げさせてくださいませ」



 彼女にそっとキスを落とすと聖堂は割れるような拍手の洪水となり、外まで響いては外からも重ねて祝福の雨が降る。

 クロエ、きみが何も知らなくとも私だけは君を覚えていよう。初めて出会った日を、愛しくおもった時を、手放さないと誓ったその時を。誰が疎み、誰が忘れ、いつかこの世からすべてがなくなろうとしても、ほかならぬこの私がずっとずっと覚えている。



 手をとりあい、そして前を向こう。

 私たちの歴史が、ここから始まっていくのだから。
あとがき

いちおう二人の話はこれでおしまいです。
きっと今後もお互いそうかもしれない、そうだったらいいのにと思いつつ、口には出さないでそれでも仲睦まじく生きていくのだと思います。

賢王だの賢妃だの呼ばれて歴史に名前を刻むかもしれませんし、そうでなくても国に民に愛されて家族に看取られて最期を迎えるような幸せな今世を過ごしてほしいものです。

ロランに関しては04と05だけで空気感だけを楽しんでいただければいいと思います。彼が本当はどうしたかったのか、なにを隠しているのか、あるいはすべて本心なのか、そのあたりは皆様の中で彼を幸せにしてあげてください。

2020.12.02 守村 肇

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