結婚三年目を迎えた四月。
専業主婦としての生活にも慣れ、加奈子は平穏な日々を過ごしていた。
 新年度早々、夫は二泊三日の出張に行くという。まだ子どももいないことだし、なかなか日中は会えない友人を新築の家に呼んでいいかと尋ねると、夫は二つ返事で許可してくれた。
 砂羽は相変わらず仕事に忙殺(ぼうさつ)されているようだったが、加奈子が“お泊まり会”の提案を話すと、「夜遅い時間からでよければ、ぜひ!」と、意外にも乗り気の反応が返ってきた。
 実家の両親が門限に厳しく、大学時代に自由に遊び歩けなかった加奈子にとって、女友達と二人きりで家に泊まるのは、生まれて初めてのことだった。
 その日、加奈子は心を浮き立たせながら、今か今かと親友を待った。昼間から家中を掃除し、花瓶の花を取り替え、寝室にアロマキャンドルを置き、砂羽の仕事疲れを癒せそうな酒のつまみを作った。あまりに夜が待ち遠しくて、時間が経つのがいつもよりゆっくりに感じられ、じれったかった。
 約束は夜の十時だったが、砂羽は一時間半以上遅れてやってきた。
仕事が予定どおりにいかないものであるということは、社長夫人として、加奈子も重々承知している。「ごめん! ちゃんと手土産を買おうと思ったんだけど、どこもお店が閉まってて!」とありったけのコンビニスイーツと缶チューハイを買って転がり込んできた彼女を、加奈子は快く受け入れた。
典型的なキャリアウーマン街道を突き進んでいる砂羽はもちろん、普段は酒を飲む機会などほとんどない加奈子も、実は平均的な女性よりもアルコール耐性があった。
加奈子と砂羽は、冷蔵庫にストックしておいた酒のつまみを次々と出しながら、夜遅くまで缶チューハイを片手に語らった。
お互いの近況報告。同級生の結婚や出産に関する噂話。好きだった歌手の最新のリリース情報や、世間を騒がせている政治のニュース。
こうして長々と顔を合わせるのが久しぶりだったからか、どんな話題も盛り上がった。高校時代の昼休みに戻ったかのような、開放感のある時間だった。
だからこそ、ついつい気が大きくなってしまったのかもしれない。
しこたま飲んだ酒のせいもあるだろう。気がつくと、加奈子は何度もしつこく、砂羽に誘いをかけていた。
「ねえ、砂羽ぁ、また一緒にセッションしようよ」
「そうはいっても、仕事がね」
「砂羽は私と違って才能があるんだからさぁ、いくら忙しくたって、ちゃちゃっと練習してすぐに弾けるでしょ」
「買いかぶりすぎだってば」
「私、砂羽とまた音楽をやりたいって、ずっと思ってたんだぁ」
「……はいはい」
「周りのみんなにもよく言われるんだよ。ストリートライブはもうやらないの、って。ねえ、聞いてる? 砂羽ぁ」
 砂羽が鬼のような形相(ぎょうそう)で立ち上がったのは、その瞬間だった。
「いい加減にして! セッションもライブも、もうやらないって言ったでしょ⁉ 加奈子はさ、私が今、どんなに大変な時期か分かってる? もう学生の頃とは違うんだよ。いつまでもあんなこと、やってられないんだよ。音楽なんて、所詮金持ちの道楽なんだよ!」
 唐突に怒られた──と感じた。
しかし砂羽にとっては違ったのだろう。何度も何度も加奈子の誘いを穏便(おんびん)にかわそうとして、ついに限界に達したのがあの瞬間だったのだ。
そのことに、加奈子は気づけなかった。
「はあ? 金持ちの道楽って何よ!」
「言葉のとおりだよ。音楽なんて、加奈子みたいに、お金にも時間にも余裕がある人がやればいいの!」
「バカにしてるの? ふざけないでよ!」
「それは加奈子のほうでしょ⁉」
 売り言葉に買い言葉で、大喧嘩が始まった。アルコールも、二人の怒りに火をつけた。三十分以上に及ぶ口論の末、「もういい。明日も出勤だし、もう寝るから」と砂羽が言い捨て、先に荷物を運んでいた寝室へと上がっていった。
砂羽と同じ部屋で寝る気は起きず、加奈子は結局、夫の書斎で眠りにつくことにした。普段、夫婦の寝室は一緒にしているのだが、仕事で不規則な生活をしている夫の希望で、予備のソファベッドを置いていたのだ。
 せっかく“お泊まり会”のために布団まで用意していたのに、結局、加奈子と砂羽は別々の部屋で寝ることになった。
 ぐるぐると回り続けていた思考がようやく停滞し、まどろみの世界に足を踏み入れた、まだ薄暗い朝方のこと──。
 加奈子は、自分が咳き込む音で目を覚ました。
 焦げ臭さが鼻を突く。息を吸おうとした瞬間、またむせた。
 すぐには状況を理解できなかった。自分が夫の書斎にいること、寝室は砂羽に取られてしまったこと、大喧嘩をしたまま寝てしまったことを、パズルのピースを拾うように思い出す。
部屋の空気が、かすかに濁って見えた。パチパチと何かが爆(は)ぜるような音が聞こえ、加奈子はソファベッドから転がり落ちるようにして書斎から飛び出した。
二階の廊下には、灰色の煙が充満していた。
パジャマの袖で、鼻と口を覆う。閉ざされた視界の中、廊下の一番奥にオレンジ色の大きな炎が揺らめいているのを見つけ、血の気が引いた。
寝室から、火の手が上がっている。
あそこには──砂羽がいる。
 パニックを起こして叫んでいる砂羽の声が聞こえてきた。何を言っているのかはよく聞き取れない。広い家の中で方向感覚を失っているのだと思い、加奈子は煙を掻き分けるようにして、できる限り寝室に近づいた。
「砂羽! 砂羽! 階段はこっちよ!」
 必死に呼びかけた。飛び散ってきた火の粉が、髪をチリチリと焼く。
 熱い煙が喉に流入する。命の危険を覚える。これ以上接近したら、戻れなくなりそうだ。
「早く来て! こっちに逃げれば助かるよ!」
「やめて! 来ないで!」
 ドア越しに、砂羽の切羽詰まった声が返ってきた。聞き間違いかと思ったが、彼女ははっきりと叫び続けた。
「嫌だ! あっちに行って!」
「何言ってるの! 早く逃げないと──」
「やめてよ!」
 喉を嗄らした絶叫だった。この期に及んで拒否されたことに衝撃を受ける。まるで昨夜の喧嘩の続きをしているようだった。
 タイムリミットが迫っていた。目の前の炎が崩れかかってきて、加奈子はじりじりと後ずさった。
 そして、寝室に背を向け、一目散に廊下を走った。
 書斎のそばの階段を駆け下り、パジャマのまま、玄関から外に飛び出す。隣の家のインターホンを押し、危険を知らせるとともに、一一九番への通報を頼んだ。
 サイレンを鳴らしながら、何台もの消防車と救急車が駆けつけてきた。
 加奈子が覚えているのはここまでだ。あとは隣近所の人たちに両腕をつかまれたまま、火の中に置いてきてしまった彼女の名前をひたすら叫んでいたことしか、記憶にない。
 砂羽は、二階の寝室から、遺体で見つかった。
 後々聞いたところによると、火災の原因はアロマキャンドルだったのだという。「砂羽の仕事疲れを癒せるかなと思って、準備したんだ。寝る前に使おうね」と事前に伝えておいたのが、裏目に出たらしい。マッチもそばに用意していたから、酒に酔っていた砂羽が自分で火をつけ、そのまま寝てしまったのだろう。
それが何かの拍子に倒れ、キャンドルの火がカーペットやカーテンに燃え移ったのではないかというのが、警察や消防の見解だった。春先の乾燥した空気も、火の回りを加速する原因の一つだった。
そうして小山内砂羽は死んだ。
本来、死ぬような火事ではなかったのだ。加奈子が呼びかけたタイミングで寝室から出てきていれば、火傷は負うことになったかもしれないが、ほぼ確実に命は助かっていた。
なぜ、あのとき砂羽は、加奈子のほうに逃げてくるのを頑なに拒否し、部屋に閉じこもったのか。
故人に答えを訊くことはできない。残された加奈子は、その理由を想像しては苦しみ続けた。
やはり、寝る直前まで喧嘩をしていたからだろうか。あのような緊急事態でも口を利きたくないくらい、砂羽に嫌われてしまったのだろうか。口論の細かい内容はよく覚えてないが、自分はそれほどひどい言葉を、酔った勢いで砂羽にぶつけてしまったのだろうか。
もしくは、砂羽は働きすぎで、もともと精神的に参っていたのだろうか。加奈子との大喧嘩がきっかけでぷつんと糸が切れ、もう人生なんてどうだっていいや、このまま死んでもいいやと、捨て鉢な気持ちにさせてしまったのだろうか。
加奈子が寝室に近づいて声をかけなければ、いや、そもそもあの晩につまらない理由で喧嘩をしなければ、砂羽が自分の命を簡単に投げ出すようなことにはならなかったのかもしれない。
 加奈子が手の中で転がしたグラスから、カランコロンと氷がぶつかる音がした。
私が殺したようなものよね──と、自嘲気味に笑う。


未桜はふと我に返り、たった今聞いたばかりの話を、頭の中で反芻(はんすう)した。
それは、二人の女性の、あまりに悲しい物語だった。
──あたしが九歳の頃に、テレビでニュースを見たの。二階建てのお屋敷で、アロマキャンドルの火をつけたまま寝てしまったせいで火事が起きて、その部屋で寝ていた二十代の女性が亡くなったっていう。
二日前にお店を訪れた長篠梨沙が、キャンドルを眺めながらそんな話をしていたことを思い出す。
お屋敷というのは、ホテル事業を営む町井加奈子の夫が建てた新築の家。そして亡くなった二十代の女性というのが、小山内砂羽のことだったのではないか。
もしかすると、梨沙が見たのは、千葉のローカルニュースだったのかもしれない。
やはり、思いがけないところで、この世界は繋がっている。
「あれからずっと、後悔だらけの人生を過ごしてきたわ。本当は子どもがほしいと思っていたのに、何年もあの火事から立ち直れないでいるうちに、いつの間にか妊娠のハードルが高い年齢になっていて。主人には申し訳ないけれど、やりきれなさをお金で解消しようと、浪費やギャンブルに走った時期もあったわ。ただ……罪悪感は、いつまでも消えなかった。心の中に、ぽっかりと大きな穴が開いたままなのよ」
 加奈子はふくよかな胸に手を当てた。開いた穴を埋めようとするかのように、彼女の指先がワンピースの生地を引っかく。
「こんなこと言ったら、同じ病気の方々に失礼かもしれないけど……私、こんなに若くして癌で死んだのは、罰だったと思ってるの」
「……罰、ですか?」
「ええ。私は自分の命をもって、砂羽に償いをしたというわけ」
「それは違いますよ、町井さま」
 マスターが珍しく、はっきりとした口調で言った。
「死期というのは、複雑な要因により決まるものです。“器”の耐久性、現世で身を置いた環境、それと運。誰かに対する償いや、罪に対する罰といった理由で寿命が短くなることは、一切ありません」
 それまで聞き役に徹していたマスターに否定されたことが意外だったのか、加奈子は数回まばたきをした。それから表情を和ませ、「……ありがとう」と呟いた。
 ──カウンセリングって、こういうことなんだ。
 お客さんの話に耳を傾け、すべてを受け入れる。
でも、それだけじゃない。違うものは違う、ダメなものはダメと伝えることも、時には必要なのだ。
そのバランスを見極め、お客さんの笑顔と安堵感を引き出した先に、理想の来世への道筋が見えてくる。
未桜が恋するマスターには、そんな特別な力が備わっている──。
「ついつい長くなっちゃったわねえ。でも安心して、これで終わりよ」
 加奈子が水のグラスを引き寄せ、中身を一気に飲み干した。
「社長と結婚し、親友と新築の家を火事で同時に失い、夫の稼いだお金でストレス解消に走り、最後は病気で早死に。こんな波乱万丈な人生、なかなかないわよね? だから、来世では、とにかく平穏に生きたいの。そんな私におあつらえ向きの茶葉はあるかしら?」
 ──もちろんですよ、町井さま。マスターなら、ぴったりのブレンドを、たちまち用意してくれます!
 心の中で高らかに言い、横に立つマスターに熱い視線を送る。その瞬間、あれ、と未桜は首を傾げた。
 マスターは、じっと目を伏せ、何やら考え込んでいた。
 気になることでもあるのだろうか。
そんなマスターを、加奈子も怪訝そうな顔で見上げている。
「……未桜さん」
 突然柔らかい声で名前を呼ばれ、「は、はいぃ?」と間抜けな声で返事をする。顔を赤らめる間もなく、「ちょっと、一緒に来てもらえる?」と促された。
 加奈子に断り、マスターとともにバックヤードへと向かう。アサくんが興味津々の視線を向けてきたけれど、その様子にも気づかないくらい、マスターは思いつめた顔をしていた。
 マスターが後ろ手で扉を閉める。従業員用の控え室で、未桜は彼と向き合った。
「あっ、あの……どうしたんですか?」
 ドキドキしながら尋ねる。マスターと部屋に二人きりという状況自体、来世喫茶店に来てから初めてのことで、身体中が緊張に震えていた。
「実は、相談させてもらいたいことがあって」
「……相談? マスターが、私に?」
 予想だにしない展開に、ぱちくりと目を瞬く。マスターは小さく頷き、ためらいがちに、床に視線を落とした。
「未桜さんも、もしかすると同じ答えに辿りついているかもしれないけど……町井さまのお話を聞いて、一つ、気がついたことがあってね」
「え、何にですか?」
 思考を巡らせてみても、まったく心当たりがなかった。「そうか」とマスターがぽつりと呟き、しばらく無言になる。
 ややあって、マスターは気恥ずかしそうに口を開いた。
「僕はね、他人の人生に踏み込むのがひどく苦手なんだ。事なかれ主義、というのかな。ここにやってくるお客様方にとっては、来世喫茶店というのは通り道でしかない。すでにこれまでの人生は終わっていて、すぐにまた次の人生が始まるのだから、僕が必要以上に干渉することはない。お客様の来世を豊かにすることだけを考えればいい。──そう思いながら、今までずっと、仕事を続けてきた」
 だけど、とマスターが目を伏せたまま続ける。
「未桜さんのひたむきな接客の様子を見て、考え直したんだ」
「私の……ですか?」
「そう。緒林さまや長篠さまの一件で気づかされたんだ。来世喫茶店でのひとときは、現世と来世の“狭間”なんかじゃなく、あくまで現世の“延長”だってことに。こちらがお客様のことを真剣に考え、一生懸命手助けすることで、救われる魂もある。そんなふうに思えるようになったんだよ」
「そんな、私はただ突っ走ってただけで……」
 恐れ多くて、未桜は思わず首をすくめた。感謝の念を含んだマスターの視線を感じ、ますます縮こまる。
「それで──よかったら、未桜さんの口から、言ってもらえないかな」
「……え?」
「僕が気づいたことを今から話すから、それを町井さまに伝えてほしいんだ。相手を巻き込み、自らも相手の状況に巻き込まれていく力のある未桜さんなら、きっと誰よりも町井さまに寄り添うことができると思って。ぜひ、お願いできないかな」
「嫌です!」
 考えるより先に、言葉が飛び出した。
 マスターが形のいい目を見開き、唖然としてこちらを見ている。未桜は慌てて頭の中を整理し、説明を加えた。
「あの……マスターにそう言ってもらえるのは、とても嬉しいです。でも、私はそんな、万能な人間じゃなくて。実際、マスターが町井さまのお話を聞いて何に気がついたのかも、さっぱり分かりませんし……自分で答えに辿りついたわけでもないのに、真相を言い当てたふりをするなんて、町井さまに対して嘘をつくことになるというか……不誠実だと思うんです」
 考え考え、自分の率直な思いを口に出していく。
「何ていうんでしょう……自分の手柄(てがら)のふりをして言うのは卑怯(ひきょう)な気がする、というか。やっぱり、マスターが気づいたことは、マスターが伝えるべきだと思うんです。他人の人生に踏み込むのが苦手って言ってましたけど……仮に淡々と事実を伝えるだけだとしても、マスターに言われたほうが、町井さまもずっと嬉しいはずですよ。あっ、もし背中を押してほしいなら、いくらでも押しますから!」
「……そっか。なるほどね」
 ふふ、とマスターが可笑しそうに声を漏らした。
「よくよく考えれば、そういうところもすごく未桜さんらしいね。ご進言(しんげん)どうもありがとう。もう十分、背中を押してもらったよ」
 不意に、マスターがこちらに手を伸ばしてきた。
 頭のてっぺんを、ぽんぽん、と優しく叩かれる。
 その次の瞬間──未桜は、マスターに抱きしめられていた。
「……えっ?」
 黒いベストに包まれた胸元に両手を当てる。温かい。そして広い。その感覚は伝わってくるけれど、状況に理解が追いつかない。
 一瞬、何が起きたか分からなかった。未桜は動揺のあまり、マスターの腕の中で固まった。
 しばらくして、マスターがそっと未桜の身体を放した。手を引っ込め、一歩後ろに下がったマスターが、「じゃ、行こうか」と照れ隠しのように言い、扉を開けて店内へと戻っていく。
 呆然としていた未桜は、すぐに我に返り、慌ててマスターの背中を追いかけた。
 カウンター席に座る加奈子は、すっかり待ちくたびれた顔をしていた。
「お紅茶はまだいただけないのかしら? 喉が渇いてしまいそうよ」
「失礼いたしました。どのような茶葉の配合にすべきか、少々迷っておりまして」
 マスターが丁重に頭を下げた。
 アサくんが薄い茶色の瞳をくるくると回し、未桜のことを見た。その意外そうな表情を見る限り、マスターがカウンセリングティーの淹れ方で迷うのは、普段めったにないことのようだ。
 未桜がようやく夢から醒め、なんとか平常心を取り戻した頃、マスターがゆっくりと加奈子に問いかけた。
「さて──突然ですが、町井さま。一つ、お尋ねしてもいいでしょうか」
「ええ。何?」
「以前、こんな話を聞いたことがあります。あるオフィスビルのフロアで、火災が起きました。そのフロアには、目が見えない人と、耳が聞こえない人がいました。一人は避難に成功し、もう一人は逃げ遅れてしまいました。助かったのはどちらだと思いますか?」
 アサくんが仰け反り、「ええっ、マスター、いきなりクイズですかぁ?」と目を白黒させる。マスターの意図が分からず、未桜も「それって……」と首をひねった。
「そりゃあ、耳が聞こえない人でしょう」と加奈子が眉を寄せながら答える。「どこから火の手が上がったか、見えるわけだし」
「僕もそう思います!」
「私もっ!」
 アサくんと未桜も、同感の意を示す。
 しかしマスターは目を伏せ、「いいえ」と首を左右に振った。
「助かったのは、目が見えない人だったのです」
「えっ⁉」「なんで⁉」
「健(けん)常者(じょうしゃ)にとってはなかなか想像しにくいことですが、実は火事現場において、『見える』というのはそれほど意味がないんです。どちらにしろ、フロア中に煙が充満して、視界が閉ざされますから。この場合、『こっちへ逃げろ!』という同僚の声を聞いて避難できたのは、目が見えない人のほう。耳が聞こえない人は逃げ遅れ、不幸にも亡くなってしまいました」
「へえ……そうなの」加奈子が首を傾げて呟く。「でも、それとこれと、何の関係が──」
「メニエール病(、、、、、、)、と(、)いう(、、)病気(、、)を(、)ご存知(、、、)です(、、)か(、)?」
 マスターが静かに言った。
「似た病気に、突発性(とっぱつせい)難聴(なんちょう)があります。片耳の難聴の発作が一回きり起き、その状態が継続する突発性難聴に対し、何度も発作を繰り返すのがメニエール病です。症状は、激しいめまい、片耳の難聴、耳鳴り、吐き気や腹痛など。一回の発作は十分から数時間程度続きます。そして、発作を繰り返すごとに、難聴や耳鳴りが徐々に改善しにくくなり、状態が持続するようになります」
「だから、それが──」と言いかけ、加奈子が目を見開く。
 呆然とする加奈子に、マスターが一言一言を噛み締めるように語りかけた。
「小山内さんは、こう言っていたんですよね。『三日くらい徹夜しても、アドレナリンが出るから意外と働ける。めまい(、、、)や(、)耳(、)鳴り(、、)が(、)する(、、)くらい(、、、)で(、)』と」
「でも……待ってよ……あれは、砂羽が働きすぎだったから……」
「メニエール病の発症のきっかけは、精神的ストレスや肉体の疲労、睡眠不足と言われています」
 マスターの言葉を聞き、加奈子が口元を押さえた。「じゃあ、砂羽は、あのとき……」と声を震わせる。
「火事が起きたとき、小山内さんは『やめて! 来ないで!』『嫌だ! あっちに行って!』と叫んでいたそうですね。おそらくですが、あのとき彼女は、まさにメニエール病の発作に襲われていたのです。緊急事態にもかかわらず難聴と耳鳴りに苛まれ、激しいめまいのせいで平衡(へいこう)感覚も失い、パニックに陥(おちい)っていたのでしょう。小山内さんは必死に、発作(、、)と(、)いう(、、)現象(、、)そのもの(、、、、)に(、)対し(、、)、『来ないで!』『あっちへ行って!』と叫び続けた。つまり、周り(、、)の(、)音(、)は(、)、ほとんど(、、、、)聞こえて(、、、、)いなかった(、、、、、)の(、)です(、、)。町井さまの呼びかけを拒絶したわけではなかったのですよ」
「……なんてこと」
 加奈子が両手で顔を覆った。
 同時に、ふとあることに気づき、未桜は「あっ」と声を上げた。
「そっか、難聴の発作がいつ起きるかも分からないから……だから砂羽さんは、ストリートライブをやろうって持ちかけられたとき、突然怒ったんですね!」
「そういうことだったんだろうと思う」と、マスターが顎を撫でる。「さらに言えば、小山内さんの難聴の症状は、すでにだいぶ進行していたんじゃないかな。テーブル越しに会話をするくらいなら異変を気取られずにできるけれど、音楽の演奏は難しいくらいに。バイオリニストは、耳が命だからね」
「ということは、町井さまとの音楽活動を何年か前から断っていたのは、仕事が忙しかったからじゃなくて、病気の──」
 未桜が言いかけた台詞は、加奈子の激しい嗚咽(おえつ)に遮られた。
「もう、ひどいわ。ひどすぎる! そのことを、私に教えてくれないなんて。もし病気のことを知っていれば、音楽をやろうなんて言わなかったのに。ドアを蹴破ってでも助けに入ったのに。ううん、その前に、あの子を追い詰めた会社を、無理にでも休ませたのに!」
 ただね──、と加奈子が泣きながら続ける。
「今、久しぶりに思い出したわ。砂羽はそういう子なのよ。いつも明るくて、強くて、前向きで、人に弱みを見せるのが苦手なの。……ああ、でも、だからこそ、私が気づいてあげなきゃいけなかったのかしら。耳が聞こえづらくなっている砂羽を音楽活動に誘うなんて……私ったら……なんて無神経なことを!」
「いえいえ町井さまっ、そんな──」
「そんなことは決してありませんよ、町井さま。ご自分を責めないでください」
 マスターが未桜の言葉を遮り、力強く言い切った。
そうだ、自分の出る幕ではなかったと、未桜は慌てて口をつぐむ。
「世の中には、いろいろな人がいます。親しい相手にはいくらでも心の内をさらけ出したくなる人もいれば、相手のことが好きであればあるほど、絶対に自分の弱いところを見せたくないと考える人もいる。小山内さんは、後者だったのでしょう。古くからの友人である町井さまの前では、病気にかかる前の、“いつもの自分”でいたかったのだと思います。ですから、気に病む必要はないのですよ。町井さまが病気のことを知らなかったというのは、言ってみれば、彼女の思惑どおりに事が進んだ証拠なのですから」
 マスターがにこりと微笑み、「──と、僕は信じています」と付け加えた。
「大事なのは、町井さまは決して、小山内さんに嫌われていたわけではなかったということです。彼女の死は、火事や発作といった不運が重なった結果でした。……きっと、無事に翌朝を迎えられていたら、彼女のほうから仲直りを言い出すつもりだったと思いますよ。そうでなければ、町井さまが小山内さんの疲れを癒そうと用意したアロマキャンドルを、わざわざ寝る前に自分の手でつけるはずがありませんから」
「……砂羽ぁ!」
 加奈子が叫び、カウンターに突っ伏す。アサくんがそそくさと追加のおしぼりを持って駆け寄ると、加奈子はなりふり構わずそれを奪い取り、赤くなった目頭に当てた。
 しばらくの間、店内には、加奈子のすすり泣きだけが響いていた。
 長年心の底に貼りついていた鈍(にび)色(いろ)のシミを、涙が洗い流したようだった。ようやく顔を上げたとき、加奈子はよく晴れた夏の早朝のように、さっぱりとした表情をしていた。
「ありがとう、マスター。茶葉をブレンドしていただく前に──一つ、前言撤回してもいいかしら」
「はい。何ですか?」
「さっき、『来世では、とにかく平穏に生きたい』って言ったけど、やっぱりやめておくわ。砂羽と一緒に駅前でストリートライブをして、たくさんのお客さんを集めた経験は、とても非日常的で、華々しいものだったから」
 懐かしそうに目を細め、「あの思い出を否定するような来世にするわけにはいかないわ」と、決意のこもった口調で言う。
「私の希望はそれだけ。あとはマスターの腕を信じるわ。……あ、強いて言うなら、お金はそんなに要らないわね。あれで私は失敗したから」
「かしこまりました。お任せいただきありがとうございます」
 少々お待ちくださいね、とマスターは言い置き、いろいろな種類の茶葉が入った瓶が並べられている棚に向かった。
「ベースはさっぱりと、爽快に……かつ、ちょっとした刺激を。クローブ、シナモン、ペッパー、カルダモン……さて」
 コーヒー豆を選ぶときと同じように、彼の手つきに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。
 次々と茶葉やスパイスが入った瓶を開け、ごく少量ずつ、手元の白い器に集めていく。
 ブレンドした茶葉をティーポットに入れ、高めの位置からお湯を注ぐ。
 透明なガラス容器の中で、茶葉が舞い、踊る。
 回転するお湯が、みるみるうちに色づいていく。
「さあ、できあがり。うん……いい香りだ」
そしてマスターは、ティーポットとカップを自らお盆に載せ、町井加奈子のもとへと運んでいった。
「お待たせいたしました。町井さまのためにブレンドさせていただいた、オリジナルのフレーバードティーです。スリランカ産の紅茶・ディンブラをベースに、数種類の茶葉やスパイスをミックスしました。口当たりはマイルドでありながら強い香りを持ち、爽やかさと渋みが両立する味わいとなっております」
「あら、素敵ねえ。それで、これを飲むと、どんな来世を迎えられるの?」
「重視した要素は、『健康』と『人間関係』です。今回は四十七歳でご逝去(せいきょ)となりましたが、来世ではもっと長生きできますように。また、音楽仲間の小山内砂羽さんや、最期まで見守り続けてくれた優しい旦那さんのような、町井さまが深く心を通わせあえる相手に、来世でも出会えますように。そんな願いを込めました」
「スパイスは、さっきの私の希望を反映させるために?」
「そうです。ただ平穏なだけではなく、刺激的な出来事がたびたび起こる人生を、ぜひお楽しみいただければと」
 ふふ、と加奈子が笑った。
 完璧ね──と、吐息とともに、感じ入ったような言葉が漏れる。
「今から来世が楽しみだわ。いっそのこと、今回の倍くらい長く生きたいわねえ。あと、次は専業主婦じゃなくて、砂羽みたいなカッコいいキャリアウーマンになれたら嬉しいわ。ただし、ホワイト企業でね」
「素敵な構想ですね。あと三十秒ほど蒸らしてからお召し上がりいただければ、町井さまのご希望に最も近い形になるかと思います。ミルクともよく合いますので、お好みでどうぞ」
「ありがとう。そのとおりにするわ」
 加奈子の口調には、マスターへの信頼と満足感がにじみ出ていた。
 きっかり三十秒後に、加奈子はティーポットから紅茶を注ぎ、たっぷりとミルクを入れて、フレーバードティーを飲み始めた。
 マスター特製の紅茶を味わい尽くした加奈子が、入り口横の棚からクッキーの袋をつまみ上げ、ゆったりとした歩調でお店を出ていく。
「ありがとうございました!」
 マスター、アサくん、未桜の声が、一つに重なった。
 扉が閉まる。
 その瞬間、未桜は確かに聞いた。
 空高く昇っていく、バイオリンとピアノの、軽やかな音色を。
 昼下がりの太陽が、美しい黄緑色の芝生を柔らかく照らしている。
 白い石が敷き詰められた小道の真ん中で、黄色いチケットの束を手にしたアサくんが、薄茶色の髪を風になびかせながら振り向いた。
「よーし、じゃ、今のうちに行ってきちゃいますね! 混雑時間帯までには必ず帰ってきますので、それまでは一人で接客、よろしくお願いします」
「アサくんは忙しいねぇ。接客とチケット配りと、両方やらなきゃいけなくて」
 陽光の眩しさに目を細めつつ、「私も一緒に行こうか?」と申し出る。すると、アサくんが「あ、もしかして」とくるりと黒目を回した。
「未桜さん、そろそろ現世が恋しくなっちゃいました?」
「いやいやそんなわけないじゃん」
「……即答すぎて、逆に怪しいですよ。いったい現世で何があったんですか?」
「別に何も。アサくんが勘繰(かんぐ)りすぎてるだけじゃない?」
「もう! 未桜さんって、意外と秘密主義だなぁ。せっかく仲良くなったんですから、こっそり打ち明けてくれたっていいのにぃ」
 アサくんがもどかしそうに腰を振る。そんな愛らしい少年に向かって、未桜は「その話はおしまい!」と勢いよく人差し指を突きつけた。
「で? どうするの? チケット配り、もし大変なら私も手伝うけど?」
「ああ、いえ、それは大丈夫です! 店員登録されていない“生ける人”を堂々と連れ歩いていると、本部に見つかって面倒なことになるかもしれないですし……あと、喫茶店での接客以上に特殊な業務なので、一から教えるとなると時間がかかりますし、ミスも許されないですし……」
「間違えて私に二年も早く余命宣告したアサくんよりは、上手くやれると思うけどなぁ」
 未桜が冗談めかして呟くと、それは心外だと言わんばかりに、アサくんが色素の薄い眉を吊り上げた。
「あっ、あれはですねっ! 本部から送られてきたリストを日付順に並べ替えて印刷した際に、なぜか一つだけ二年後のデータが交じってしまって……通常では絶対にありえないミスというか、僕のせいじゃないというか……ぱっ、パソコンの不具合なんですっ!」
「はいはい、言い訳は分かったからいってらっしゃーい」
 アサくんの必死の弁解を受け流し、ひらひらと手を振る。彼は不満そうに唇を突き出しながらも、腕時計を確認し、せかせかと小道を走っていった。
 その小さな後ろ姿が、ぽん、と途中で魔法のように消えるのを見届けてから、未桜は回れ右をした。
 喫茶店の入り口の扉は、開け放してあった。
店内に一歩足を踏み入れようとして、ふと立ち止まる。
 中では、マスターが一人、中央のテーブル席に腰かけていた。
 片手に店員用のマグカップを持っているのを見るに、束の間の休憩を取っているようだ。未桜が外から帰ってきたのにも気づかない様子で、こちらに背を向けて、ぼんやりと宙を見つめている。
 ──どうしたんだろう?
 未桜は入り口の扉に手をかけたまま、黒いベストに包まれたマスターの背中を眺めた。
 ふと、町井加奈子の来店中に起こった、控え室での出来事を思い出す。
 未桜の頭をぽんぽんと優しく叩く、彼の大きな手。
そして、未桜の身体をすっぽりと包み込んだ、男の人らしい硬い腕と、広くて分厚い胸──。
 考えた途端、頬がかっと熱くなる。
 あれはいったいどういうことだったのだろう。
 手作りケーキでバースデーサプライズをしてくれたことといい、控え室での思わせぶりな態度といい、マスターが急に示し始めた親しげな行為の意味を、そのまま素直に受け取っていいのだろうか。
 ──私の思いを知ってて……応えてくれて……る?
 十九歳になったばかりの未桜と、大人の色気を漂わせている二十代後半のマスター。無謀な片想いかと思っていたけれど、案外、向こうも同じ気持ちでいてくれたのかもしれない。
自然とにやけそうになるのを、未桜は必死にこらえた。
足音を忍ばせ、そばに近寄る。
そして、無防備な広い背中に、そっと手を伸ばした。
「マスター──」
彼の温もりが指先に伝わりかけた、その瞬間だった。


未桜の頭の中に、突如として、色鮮やかな映像が流れ込んだ。


先ほどアサくんと別れたばかりの、喫茶店の目の前にある、青々とした芝生に挟まれた白い小道。
その中央に、綺麗な女の人が立っている。
マスターと同い年くらい、だろうか。艶のあるセミロングの黒髪が印象的な、凛とした佇まいの女性だ。
彼女がこちらに向かって、小さく手を振った。もう一方の手には、お土産のクッキーの袋が握られている。
「静川さん──いえ、孝之(たかゆき)さん」
 彼女が名残惜しそうに微笑んだ。
「いろいろありがとう。あなたのことは、ずっと忘れないわ」
 白いワンピースを着た彼女の後ろ姿が、徐々に遠くなっていく。


 僕もだよ──と、自分の口が勝手に動いた。
 両の頬を、熱い涙が伝う。
「わっ、ごめんなさい!」
 未桜はマスターの肩から手を離し、慌てて飛び退いた。
その瞬間、見慣れた店内の光景が目の前に戻ってくる。やや遅れて、マスターが驚いた顔でこちらを振り返った。
目の前にいるマスターも、もちろん未桜も、泣いてはいない。頬に涙が伝ったと感じたのは、頭の中に流れ込んできた映像の中での出来事だったようだ。
「も、も、もしかして……マグカップに入ってたの、メモリーブレンドだったんですか⁉」
「あっ……うん。こちらこそ、びっくりさせてごめんね」
 マスターも、珍しく動揺した顔をしていた。
長い睫毛が、せわしなく上下に振れる。
「確かにこれはメモリーブレンドの一種だけど……効能は限定的でね。来世への影響は一切ないんだ。だから、生まれ変わるつもりで飲んでいたわけじゃないよ」
 それって、つまり──。
 来世に影響を及ぼすことなく、過去の思い出の再体験だけをすることができる、ということだろうか。
 だとすれば、さっき未桜がマスターの肩に触れている間に覗き見てしまったのは、彼にとっての“最も大切な思い出”ということになる。
 頭を金槌で殴られたような衝撃を受け、未桜はぎゅっと目をつむった。
二日前のアサくんの言葉が、耳に蘇る。
──マスターは、この先二度と恋をしないって、決めてるみたいです。
──この喫茶店を訪れたお客様の中に、マスターと懇意になった同い年の女性がいたそうなんです。お互いにほぼ一目惚れで、カウンター越しに話すうちに恋をして。
──きっとマスターは、今でもそのお相手のことが忘れられないんでしょうね。時々、夜になるとお店の外に出て、寂しそうに星空を見上げていることがありますよ。
やっぱり、そうだ。
 たった今、未桜が記憶の中で出会ってしまった女の人こそが、マスターがずいぶん昔に思いを寄せた、彼の“最後の恋人”なのだろう。
 知的で、大人の魅力にあふれていて、崖に咲く一輪の花のような気高さを感じさせる女性──。
「……そんなの、勝ち目、ないよ」
「ん? どうした、未桜さん?」
 マスターに問いかけられて初めて、心の声が口からこぼれ出ていたことに気づく。
 すぐには答えられなかった。
マスターがかつて恋した女性に今も未練を残していると知って、胸が嫉妬心とやりきれなさでいっぱいになっている。少しは脈があるのかもしれないと勝手に盛り上がっていた自分が、急にバカらしく思えてくる。
 耐えきれなくなり、未桜は床に視線を向けたまま言い放った。
「休憩の邪魔をして、すみませんでした! 私、バックヤードに行きますねっ!」
「あっ、ちょっと!」
 速足で立ち去ろうとした瞬間、マスターが椅子から立ち上がり、未桜の手をつかんだ。
 振り返り、びっくりして見つめ合う。
 すぐに離してくれるかと思ったのに、マスターはいつまでも、こちらに目を向けたまま、未桜の手を握り続けていた。
 掌が熱い。マスターの体温なのか、未桜が舞い上がっているだけなのか、その両方なのか。
 血管が破裂してしまいそうなほど、心臓の鼓動が速くなる。
「あ、あの……マスター?」
 ようやく未桜が言葉を絞り出すと、マスターは我に返ったような顔をして、「ああ」と両手を身体の後ろに回した。
 マスターの滑らかな頬は、赤みを帯びているように見えた。──それが未桜の都合のいい勘違いでなければ、心なしか。
 余計に、分からなくなる。
憧れの存在である彼の本心が、まったく。
「……邪魔だなんてとんでもない。今はお客さんがいないんだから、未桜さんもここで休憩してくれて構わないんだよ。……あ、よかったら、飲み物を持ってこようか。オレンジジュースでもいい?」
「あの、じゃあ水を……」
「あ、ミネラルウォーターは冷えてなかったかもしれない。オレンジより、パイナップルジュースのほうが好みかな? もちろん、どちらも変な効能はないから安心して」
 取り繕うように言い、カウンター内へと大股で歩いていく。
そんなマスターの後ろ姿を、未桜は胸の痛みをこらえながら見送った。


今、窓の外には、青々とした芝生が広がっている。
 それは実際の光景か──それとも、彼の記憶の中のワンシーン、なのだろうか。
 《二〇二一年四月九日 来店予定者リスト》
・名前:八重樫未桜
・性別:女
・生年月日:二〇〇〇年四月八日(享年二十一歳)
・職業:大学生
・経緯:通学中に急病で倒れて救急搬送される。翌朝、父親に見守られながら、病院で息を引き取る。
・来店予定時刻:八時十一分


未桜が来世喫茶店で働き始めてから、三度目の夜明けがやってきた。
窓の外、遥(はる)か向こうに見える山々の稜線が、金色に輝き始めている。この雄大な景色は、先ほどまでカウンター席でメモリーブレンドを飲んでいた、登山が趣味だったというおじいさんの記憶だろうか。
不思議なことに、来世喫茶店に滞在するお客さんの数には、時間帯ごとに波があった。
どういう理由があるのかは分からないけれど、大抵の場合、真夜中は忙しい。朝が近づくにつれて、だんだんと店内が閑散(かんさん)としてきて、ほっと一息つけるようになる。
今日は、その時間帯が比較的早く訪れたようだった。二時間ほど前にはほとんどの席が埋まっていたのが嘘のように、今は一人もお客さんがいない。
「ねえねえ、未桜さん、未桜さんっ」
 流しに溜まっていたお皿を洗っていると、バックヤードで豆の発注業務を手伝っていたはずのアサくんが、軽やかな足音を立てて戻ってきた。
「朗報ですっ! 僕が一生懸命頼み込んだところ、マスターが、未桜さんのカウンセリングをやってくれることになりました! ねえねえ聞いてます?」
「……えっ?」
 顔を横に向けて初めて、得意げな顔をしているアサくんが、背の高いマスターの手を引いていることに気づく。バックヤードから無理やり連れてこられたらしく、マスターは気まずそうに苦笑していた。
 お皿洗いを中断し、タオルで手を拭きながら二人に向き直る。動揺を隠せないまま「か、カウンセリングって?」と尋ねると、アサくんが堂々と胸を張って答えた。
「ほら、未桜さん、『あんまり家には帰りたくない』って言ってたじゃないですか! 来世喫茶店でのアルバイトが楽しいからっていうのは建前で、本当は何か事情があるんでしょう? マスターはものすごく聞き上手ですから、悩み事を洗いざらい打ち明けたら、きっとすっきりしますよ。ほら、早くカウンター席に座ってくださぁい」
「ちょ……ちょっと待ってよ!」
 事情があるというのは図星だった。だからこそ、アサくんに何度か探りを入れられても、はぐらかし続けていたのだ。
 マスターの視線を意識しながら、未桜はしどろもどろに抵抗した。
「私のことは、気にしなくていいってば! 私はまだ、ここのお客さんじゃないし……ほら、カウンセリングティーを注文したわけでもないし……」
「それでもいいって、マスターが言ってくれてます」
「えっと……あ、そうだ、お皿洗いもまだ残ってるし……」
「それは僕がやっておきますっ!」
「で、でも……カウンセリングで私の悩みが解決したところで、めでたしめでたしって現世に帰れるわけじゃないんでしょ? せめて、アサくんに黄色いチケットを見せられた記憶を消す方法が、ちゃんと見つかってからじゃないと……だから今はまだ……ですよねっ?」
 思いつくままに言い訳しながら、恐る恐る、マスターの顔を見上げる。
 すると彼は、「うーん」と唸り、ためらうように睫毛の長い目を伏せた。
「実は、そっちの問題は、解決しようと思えばどうにかなるんだけどね」
「えっ⁉ 私の記憶を消す方法、見つかったんですか⁉」
「まあね」
 マスターは意外なほどあっさりと言い、隣のアサくんへと目を向けた。
「ただ、それを試すのは、カウンセリングを終えてからにしようかと。未桜さんの抱えている悩み事について、アサくんがどうしても気になるみたいだから」
「僕だけのせいにしないでくださいよ。マスターだって、すごく心配してたじゃないですか!」
「それはもちろん。未桜さんは、僕にとって……とても大切な存在だし」
 予想もしていなかった言葉に、不意を突かれる。
驚いて目を瞬くと、マスターがこちらを見つめ返してきた。冗談か、もしくは社交辞令かと思ったけれど、彼の漆黒の瞳には真剣な光が宿っていた。
「あれぇマスター、それって、『店員として』ですか? それとも──」
「どっちでもいいじゃないか」
 アサくんのからかうような台詞を、マスターが照れ隠しをするような口調で遮る。
 どっちでもよくないよ──と、未桜は密かに、心の中で叫んだ。