マスターが後ろ手で扉を閉める。従業員用の控え室で、未桜は彼と向き合った。
「あっ、あの……どうしたんですか?」
 ドキドキしながら尋ねる。マスターと部屋に二人きりという状況自体、来世喫茶店に来てから初めてのことで、身体中が緊張に震えていた。
「実は、相談させてもらいたいことがあって」
「……相談? マスターが、私に?」
 予想だにしない展開に、ぱちくりと目を瞬く。マスターは小さく頷き、ためらいがちに、床に視線を落とした。
「未桜さんも、もしかすると同じ答えに辿りついているかもしれないけど……町井さまのお話を聞いて、一つ、気がついたことがあってね」
「え、何にですか?」
 思考を巡らせてみても、まったく心当たりがなかった。「そうか」とマスターがぽつりと呟き、しばらく無言になる。
 ややあって、マスターは気恥ずかしそうに口を開いた。
「僕はね、他人の人生に踏み込むのがひどく苦手なんだ。事なかれ主義、というのかな。ここにやってくるお客様方にとっては、来世喫茶店というのは通り道でしかない。すでにこれまでの人生は終わっていて、すぐにまた次の人生が始まるのだから、僕が必要以上に干渉することはない。お客様の来世を豊かにすることだけを考えればいい。──そう思いながら、今までずっと、仕事を続けてきた」
 だけど、とマスターが目を伏せたまま続ける。
「未桜さんのひたむきな接客の様子を見て、考え直したんだ」
「私の……ですか?」
「そう。緒林さまや長篠さまの一件で気づかされたんだ。来世喫茶店でのひとときは、現世と来世の“狭間”なんかじゃなく、あくまで現世の“延長”だってことに。こちらがお客様のことを真剣に考え、一生懸命手助けすることで、救われる魂もある。そんなふうに思えるようになったんだよ」
「そんな、私はただ突っ走ってただけで……」
 恐れ多くて、未桜は思わず首をすくめた。感謝の念を含んだマスターの視線を感じ、ますます縮こまる。
「それで──よかったら、未桜さんの口から、言ってもらえないかな」
「……え?」
「僕が気づいたことを今から話すから、それを町井さまに伝えてほしいんだ。相手を巻き込み、自らも相手の状況に巻き込まれていく力のある未桜さんなら、きっと誰よりも町井さまに寄り添うことができると思って。ぜひ、お願いできないかな」
「嫌です!」
 考えるより先に、言葉が飛び出した。
 マスターが形のいい目を見開き、唖然としてこちらを見ている。未桜は慌てて頭の中を整理し、説明を加えた。
「あの……マスターにそう言ってもらえるのは、とても嬉しいです。でも、私はそんな、万能な人間じゃなくて。実際、マスターが町井さまのお話を聞いて何に気がついたのかも、さっぱり分かりませんし……自分で答えに辿りついたわけでもないのに、真相を言い当てたふりをするなんて、町井さまに対して嘘をつくことになるというか……不誠実だと思うんです」
 考え考え、自分の率直な思いを口に出していく。
「何ていうんでしょう……自分の手柄(てがら)のふりをして言うのは卑怯(ひきょう)な気がする、というか。やっぱり、マスターが気づいたことは、マスターが伝えるべきだと思うんです。他人の人生に踏み込むのが苦手って言ってましたけど……仮に淡々と事実を伝えるだけだとしても、マスターに言われたほうが、町井さまもずっと嬉しいはずですよ。あっ、もし背中を押してほしいなら、いくらでも押しますから!」
「……そっか。なるほどね」
 ふふ、とマスターが可笑しそうに声を漏らした。
「よくよく考えれば、そういうところもすごく未桜さんらしいね。ご進言(しんげん)どうもありがとう。もう十分、背中を押してもらったよ」
 不意に、マスターがこちらに手を伸ばしてきた。
 頭のてっぺんを、ぽんぽん、と優しく叩かれる。
 その次の瞬間──未桜は、マスターに抱きしめられていた。
「……えっ?」
 黒いベストに包まれた胸元に両手を当てる。温かい。そして広い。その感覚は伝わってくるけれど、状況に理解が追いつかない。
 一瞬、何が起きたか分からなかった。未桜は動揺のあまり、マスターの腕の中で固まった。
 しばらくして、マスターがそっと未桜の身体を放した。手を引っ込め、一歩後ろに下がったマスターが、「じゃ、行こうか」と照れ隠しのように言い、扉を開けて店内へと戻っていく。
 呆然としていた未桜は、すぐに我に返り、慌ててマスターの背中を追いかけた。