待っていたのだ、この日を。
まだまだ綺麗(きれい)な桜並木が、川沿いの通りを薄ピンク色に彩っている。
八(や)重(え)樫(がし)未(み)桜(お)が向かっているのは、このお洒落(しゃれ)な街の一角にあるカフェチェーン店だった。
「バイト、受かるといいねぇ」
隣を歩く明(あき)歩(ほ)が言う。千葉の片田舎にある高校から、都内の女子大に進学した仲間同士。地元の寂れた商店街とはあまりにも違う、洗練された街の風景を、さっきから二人でキョロキョロと見回していた。
「未桜ってば、受験中、ずっと言ってたもんね! このつらい時期が終わって、晴れて東京の女子大生になれたら、イメチェンして可愛くなって、緑のエプロンをつけて、お花でいっぱいのカフェで働くんだ、って」
「あはは、お花が飾ってあるカフェなんて、実際はなかなかないけどね」
そう答えながら、これから面接を受けにいく建物を思い浮かべる。太陽の光が燦々(さんさん)と降り注ぐ、ガラス張りの建物。内装はシックな黒で統一されていて、テラス席では若いカップルが談笑している。
まさに都会、まさに東京。
求人サイトから応募する前に、わざわざこの街に足を運んでお店の場所や雰囲気を確認したから、下見はばっちりだ。
今日も、電車のトラブルなどで遅刻しないように、三時間前には最寄り駅に到着した。「じゃ、私も」と駆けつけてくれた明歩のおかげで、近くの人気パンケーキ店で早めのお昼ご飯を食べられたのは、予想外の幸運だった。
「やっぱ、持つべきものは友だねぇ」
「どうしたの、しみじみと」
明歩が苦笑し、前方に見えてきたガラス張りの建物を指差した。
「あそこでしょ? じゃ、私はここで。お店の前までついていったら、過保護だと思われちゃうもんね。面接で不利になったら大変」
「そんな、親じゃあるまいし!」
「姉くらいには見えるかも?」
「あっ、小さいって言った? 小さいって!」
背の高い明歩に向かって、拳を振り上げる。明歩は未桜の攻撃をひらりとかわし、「結果報告、待ってるよぉ!」と手を振りながら、来た道を戻っていった。
──まったくもう! すぐバカにするんだからっ!
頬(ほお)を膨らませつつ、進行方向へと身体を向ける。約束の時間までは、あと五分ちょっと。早すぎて担当者を慌てさせることもなく、ギリギリすぎて悪い印象を与えることもない、ちょうどいい時間だ。
ハーフアップにした髪に手をやり、乱れていないことを確かめる。
よし、準備は万全――と意気揚々(いきようよう)と歩き始めた、そのときだった。
「あのっ、八重樫未桜さん、ですよねっ!」
高くて可愛らしい声がした。振り返ると、幼い少年がすぐ後ろに立っていた。
十歳くらい、だろうか。サイズがぴったり合った、しわ一つないスーツを着込んでいる。
色白の肌に、赤く上気したリンゴのようなほっぺ。喋(しゃべ)っている言語からすると日本人なのだろうけれど、髪や瞳の色素が薄く、西洋の絵画に描かれる天使を思わせる外見をしている。
近くに親は見当たらなかった。
こんな都会に子どもが一人で、どうしたんだろう。──というか、どうして私の名前を?
「ちょっとお時間いいですか? チケットをお渡ししたいんです」
「……チケット?」
未桜が目を瞬いていると、スーツ姿の少年は手に持っていた黄色の細長い紙を差し出してきた。
押しつけられるがまま受け取り、表面に印字された文字を読む。
八重樫未桜 様 二十一歳
店舗名:来世喫茶店 日本三十号店
来店日:四月九日(金)
二十四時間営業です。時を迎えたら、速やかにお越しください。
「来世……喫茶店?」
縁起(えんぎ)でもない名前のお店だ。占いや宗教関連だろうか。少年は自信満々に声をかけてきたけれど、まるで心当たりがない。
「すみません。人違いじゃないですか? 私、二十一歳じゃないし」
黄色いチケットを少年に返し、文字を指差した。けれど、少年はまったく動じない様子で、「ああ」と頷いた。
「八重樫さん、お誕生日はいつですか?」
「ええっと……四月八日だけど」
「やっぱり。明後日ですね。だから一歳ずれてるんですよ。チケットに書かれているのは、来店日当日の年齢ですから」
「でも――」
未桜の言葉を遮るようにして、少年は板についた口調で説明を続けた。
「念のため、ご一緒に確認をお願いします。お名前は、八重樫未桜さん。現在二十歳で、来店日時点では二十一歳。今から二日後――ああ、誕生日当日なんですね、かわいそうに――に急病で倒れて救急(きゅうきゅう)搬送(はんそう)され、三日後の四月九日に病院で息を引き取る」
「……え?」
「亡くなる際は、お父さんがそばで見守っていてくれますから、安心してくださいね。病気だろうと事故だろうと、それが八重樫さんの寿命なんです。短命ということで未練が残るかもしれませんが、その分、来世のプランをじっくり練りましょう。僕たちも全力でサポートします! それでは、日本三十号店でお待ちしていますね」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
くるりと身を翻(ひるがえ)した少年の肩を、未桜は慌ててつかんだ。
気が動転して、強く引っ張りすぎてしまったらしい。少年がバランスを崩し、どすん、と歩道に尻もちをついた。
「あっ、ごめん! 大丈夫?」
手を差し伸べたけれど、少年は見向きもせず、もともと小鹿のように丸い目をさらに丸くして未桜の顔を凝視した。「おかしいな」と首を傾げ、手元の黄色いチケットに視線を落とす。
「大抵の方は、このチケットを見せるとすべての運命を受け入れて、穏やかな表情になるんですけどね。死を三日後に控えているにもかかわらず、八重樫さんのように取り乱すのは珍しいです。どうして効かないのかなぁ」
「あの……私が二十一歳の四月九日に死ぬっていうのは、確定事項なの?」
「もちろんです! こちらで管理しているリストに、名前と日付が載っていますから」
「ってことは……死神?」
歩道に座ったままの少年に、人差し指を突きつける。
すると、彼は大真面目に首を横に振った。
「とんでもない! 僕はただの店員ですよ。本部から送られてくるリストに基づいて、これから僕たちの喫茶店を訪れるお客様のもとを訪れ、亡くなった後のことを案内して回ってるんです」
「その──喫茶店、って?」
「あ、ご説明が漏れていましたね。八重樫さんのような“生ける人”は知る由(よし)がありませんが、亡くなった方は皆、現世と来世を繋ぐ場所――『来世喫茶店』にお越しいただくことになっているんです」
「……三途の川とか、天国や地獄でなく?」
「ええ。人は死ぬたびに、この世と喫茶店を往復するんです。あの世=(イコール)喫茶店、と思っていただいて構いません。喫茶店を訪れた後、人はまた生まれ変わり、新たな人生を開始するわけですね」
本来なら、到底信じられる話ではない。
喫茶店の話はともかく――自分の寿命が、あと少ししか残っていないだなんて。
泣いて、喚(わめ)いて、そこら中を転げ回ってもまだ足りないくらい、ショックを受ける内容のはずだ。
だけど、不思議なことに、少年の言葉はすとんと胸に落ちた。
私は二十一歳で死ぬ。
急病で倒れて、運ばれた先の病院で。
いつも仕事が忙しいお父さんも、私の死に目には間に合って、最期(さいご)を見届けてくれる──。
そういう意味では、目の前のいたいけな少年は、やっぱり死神なのかもしれない。
死神という言い方が悪いなら、神様のもとで働く天使。最初に抱いた印象は、間違っていなかったということだ。
だけど──彼は一つだけ、大きな勘違いをしているようだった。
「ちょっと、指摘してもいい?」
「何でしょう?」
「今日が土曜日だから、三日後の四月九日は火曜日だよ。さっき見せてもらったチケットには金曜日って書いてあったけど」
「……あれ? すみません、二十四時間営業の喫茶店で働いているもので、曜日感覚が」
「それに、私、十八歳だよ? この四月に大学に入ったばかりの一年生。確かに明後日には一つ歳を取るけど、二十一歳なんてまだまだ」
「嘘だ、そんなはずは――」
少年は手元のチケットを見つめると、弾かれたように立ち上がり、上着の内ポケットから小さな手帳を取り出した。
その両目が大きく見開かれる。薄茶色の瞳が泳ぎ、赤い唇がわなないた。
「ご、ご、ご、ごめんなさいっ! 八重樫さんの命日は、二〇二一年の四月九日でした!」
やっぱりね、と未桜は頷く。
今日は二〇一九年四月六日。チケットに印字されていた『四月九日(金)』というのは、二年(、、)と(、)三日後の日付だ。そういうことであれば、享年(きょうねん)二十一歳という内容に間違いはない。
先ほどまでの落ち着きようはどこへやら、少年はすっかりしどろもどろになっていた。
「やや、どうしてこんな凡ミスをしちゃったんだろう……まさか、二〇二一年だなんて! 本当にすみません。それは素直に受け入れられないはずです、二年も早くネタバラシをしちゃったんですもんね」
「人の寿命をネタバラシって……言葉に重みがないなぁ」
「わっ、わあっ、本当に申し訳ありません! 二年後に出直しますっ!」
少年は、今にも土下座せんばかりの勢いで直角に頭を下げた。ズボンのポケットから小さな砂時計を取り出し、目の前に掲げてみせる。
「僕の注意不足のせいで、とんだご迷惑をおかけしてしまいました。今すぐ記憶を消しますね!」
「そんなことができるの?」
「はい。チケットをお見せした後は、いつも必ずこの処理をしていますから。こちらの砂時計をひっくり返すだけで済みます。それでは、大変失礼しました――」
そう言いながら、少年は胸を張り、掌サイズの砂時計を逆さにした。
しかし……何も起きない。
一回、二回、三回と、少年は砂時計をひっくり返した。彼の額に、脂汗が浮かび始める。
「お、おかしいな。どうして記憶が消せないんだろう!」
「……ねえ、これって、新手の詐欺じゃないよね? 本当に私、二年と三日後に死ぬんだよね?」
「それは本当です! 誓(ちか)って本当です!」
彼は嘘をついていない。直感がそう告げていた。
この少年は、人知を超えた存在。常識で理解できるものではないし、「死ぬ間際(まぎわ)」でなければ、こうして会うこともなかった。
──問題は、二〇一九年四月六日現在、八重樫未桜はまだ「死ぬ間際」でないということだ。
「あっ!」
大事なことを思い出し、未桜は腕時計を見た。
午後二時二分。顔から血の気が引く。
焦りに焦っている少年に追い打ちをかけるように、未桜は憤慨(ふんがい)して詰め寄った。
「ちょっと、どうしてくれるの! 二時からバイトの面接が入ってたのに、パーになっちゃったじゃない!」
「わっ、そうだったんですか? じゃあ今からでも、急いで行ってきてください。真剣に謝れば、きっと――」
「時間に厳しいことで有名なカフェチェーンなの! 無断遅刻をした学生は、面接さえ受けさせてもらえなくて、即お断りされるんだって。申し込んだときの注意事項にもしっかり書いてあったし……ああもう最悪! 二十一歳で死ぬなんて突然言われなければ、絶対に忘れなかったのに!」
「あ、あの……それは本当に……」
「謝って済む問題じゃないの! 私がお洒落な喫茶店で働くのをどんなに楽しみにしてたか分かる? 受験勉強中もずっとそのことを考えてたし、もっと遡(さかのぼ)れば、物心ついたときには『コーヒー屋さんのお姉さん』になりたいと思ってたんだよ?」
「物心ついた頃ですか……それはものすごく早いですね」
「でしょう? そんな十五年来の夢を、たった今、君に台無しにされたの!」
自分でも分かっていた。ここまでくると、ただのクレーマーだ。
どうしても喫茶店で働きたいなら、また別のカフェチェーンの面接を受ければいい。
だけど、悔しさがどうしても拭えなかった。理想のお店を一生懸命調べて、ドキドキしながら申し込みをして、店長さんとメールでやりとりをして、面接で何を訊かれてもいいように何度も受け答えの練習をして、明歩に付き合ってもらいつつ三時間も前からお店の近くで待機していた、その努力が無駄になってしまったのだから――。
「分かりました。では、来世喫茶店に、今から来てみませんか?」
「……へっ?」
少年の思いがけない提案に、間の抜けた声が出る。
だって、さっきの話を総合すると――来世喫茶店って、死んだ後に行く場所なんじゃなかったっけ?
「ご心配は無用です。来世喫茶店を訪れたからといって、死ぬわけではありません。もともと、“生ける人”も出入りできる場所なんです。とはいっても、生身のままではなく、魂だけをお連れする形になりますが」
身体をこの世に置いていかなくてはならないという意味では、死者も生者も一緒、ということなのだろう。
「どちらにしろ、八重樫さんの記憶を消せない事象について、マスターに相談しないといけないですし……ついでに、喫茶店の仕事の見学や、ちょっとした体験くらいはさせてあげられると思います。僕はただの下働きなので、マスターの判断次第ですけれど」
体験、という言葉に胸がときめく。──それはなかなかいいかもしれない。
「ちなみに、バイト代は出ないよね?」
「そ、そうですね……“この世”の喫茶店ではないので、給与をお支払いするのはちょっと難しいかもですが……でも、美味しい賄(まかな)いなら出ますよ!」
少年はそこでなぜか得意げな顔をした。「君が作るの?」と訊くと、「いえ……あの……マスターです」という恥ずかしそうな答えが返ってきた。
どうやらこの子、しっかりしているようでいて、ちょっぴり天然らしい。
少年の頬は、いっそう赤くなっていた。「で、どうします?」と早口で尋(たず)ねてくる。
未桜の中で、答えはすでに決まっていた。
――こんなの、興味がわかないわけがない。
「来世喫茶店って、変な名前だけど、基本的には普通の喫茶店なんだよね?」
「ええ、そうです。お客様にコーヒーや紅茶をお出しして、くつろいでいただくための場所です」
「じゃ、連れてってもらおうかな。次またバイトを探すにしても、実際のカフェ店員の仕事を学んでおいたほうが、面接で有利になるかもしれないもんね」
本当は、それだけではなかった。マスターの作る美味しい賄い、という条件にも惹(ひ)かれていた。マスターというのがどんな人か全然知らないし、賄いのメニューも不明だし、さらに言えばさっき明歩と一緒に人気店のパンケーキをたいらげたばかりなのに、お腹がぐーと鳴っている。
未桜の答えを聞いた少年は、背筋を伸ばし、上着の胸ポケットから銀色のネームプレートを取り出した。
「申し遅れました。来世喫茶店、日本三十号店に勤めている、笹(ささ)子(ご)旭(あさひ)といいます」
「今さら自己紹介?」
「いえ、チケットをお見せして記憶を消すだけだったら名乗る必要はないんですが……こうなった以上、怪しい者ではないことを強調しておこうかなと」
突然都会のど真ん中にスーツ姿で現れて、黄色いチケットを突きつけながら寿命の説明を始めた時点で十分怪しいよ、なんて言ったら、彼は凹んでしまうだろうか。
「年齢は十一歳ですが、勤続年数はもう十年になります。これ以上のヘマはしないよう努めますので、安心してついてきてください」
「十年って……えっ、一歳のときから?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
では行きましょう、と少年は春の青空を指差した。
小さな白い手が、未桜の手首に触れる。
頭上の桜が揺らめいた。
視界が薄ピンク色に染まる。
いつの間にか、未桜は白い丸石の敷き詰められた小道に立っていた。
左右には、丁寧(ていねい)に手入れされた芝生が広がっている。
不思議なのは、その向こうに浮かぶ景色が、常に移り変わっていることだった。
春の小川が見えたかと思えば、雨が降りしきる住宅街になり、次の瞬間には穏やかに凪(な)いだ海へと変わっている。まるで、透明のスクリーンが空中に吊られていて、映画の予告編でも投影されているかのようだ。
まっすぐ前を見る。
芝生の中央には、小ぢんまりとしたお店がぽつんと建っていた。
――あ、理想のお店。
即座に、そんなことを思う。
平屋の建物は、ガラス張りでもないし、お洒落なテラス席があるわけでもない。レンガ造りで、赤い庇(ひさし)が突き出た、昔の香りのするお店だ。入り口の前には、これまた年季の入った電飾(でんしょく)看板(かんばん)が置かれている。
バイトをしようとしていたお店とはだいぶ雰囲気が違うけれど、これはこれで素敵だ。「カフェ」よりも、「純喫茶」という言葉が近い。
「どうぞ、中へ」
笹子旭と名乗った少年が、すたすたと小道を歩いていく。喫茶店の外観に見惚れていた未桜は、慌てて彼を追いかけた。
木製のずっしりした扉を開けると、軽やかな鈴の音色がした。
現実とも夢ともつかない外の景色とは違い、中は普通の喫茶店だった。
二人掛けのテーブル席が四つ。
カウンター席も、同じく四つ。
そのカウンターの向こうに上半身を覗(のぞ)かせている、白いワイシャツと黒いベストに身を包んだ背の高い男性が、やや目を見開いてこちらを見た。
「あれ、アサくん……何かあった?」
アサくんというのが、笹子旭という少年のあだ名のようだ。
顔を見ただけで、トラブルがあったことを見抜いたらしい。特殊な神通力でも持っているのか、それともアサくんの表情があまりに分かりやすいのか。
「はじめまして。マスターの静(しず)川(かわ)です」
男性が、柔らかな声で話しかけてきた。一目見た瞬間からぼうっとして彼の顔を見つめていたことに気づき、「あっ、八重樫未桜です!」と慌てて会釈を返す。
──見目麗(うるわ)しい。
十九年近く生きてきて、この言葉がこれほどぴったり当てはまる男性を見たのは初めてのことだった。
喫茶店のマスターというから、なんとなくおじいさんを想像していたけれど、この人はずいぶんと若い。
たぶん、二十代後半だ。二十七とか八とか、そのくらい。白いワイシャツに黒いベストという組み合わせが、細身の身体によく似合っている。
彫りの深い端整(たんせい)な顔立ちは、まるで外国の俳優かモデルのようだった。けれどその切れ長の目を彩る瞳は、ふわりとした髪と同様に黒く、穏やかで不思議な光をたたえている。
息せき切ってカウンターに駆け寄ったアサくんを、マスターが首を傾げつつ見下ろした。
「僕の見立てが間違いじゃなければ……この方は、“生ける人”?」
そよ風のような声だった。一音一音がとても静かで、優しくて、耳たぶをくすぐるように通り過ぎていく。
「そうなんです! すみません、僕、とんでもない間違いを……二年も早くチケットをお見せしてしまって、砂時計で記憶を消そうとしたんですけど、どうしてだか時が戻らなくって……」
つっかえつっかえ、アサくんが状況を説明する。未桜がそのせいでバイトの面接を受けられなかったことも、ここでの仕事を見学希望であることも、余すことなく伝えてくれた。
「記憶を消せないなんて、聞いたことがないけどな。どうしたんだろうね」
マスターが顎に親指を当てた。アサくんから砂時計を受け取り、「壊れているということもなさそうだし」と首を傾げる。
ただ、表面では怪訝(けげん)そうにしつつも、マスターの口調には状況を面白がるような響きが含まれていた。落ち着いた様子で、掌の上で砂時計を転がしている。
一方のアサくんは、自分のミスにしょげ返っているようだった。肩を落とし、雨に濡れそぼった小動物のようにマスターを見上げる。
「あのう……本部に問い合わせてみたほうがいいでしょうか? 僕のミスについても、報告書を提出しないとですよね」
「いや、いったん様子を見ようか。“向かう人”の希望があったわけでもないのに“生ける人”を店に連れてきたと知られたら、もっと大きな問題になるかもしれないから。この件はいったん、僕が預かるよ」
「す、すみません! 独断(どくだん)で連れてきてしまって……マスターにこのことを隠蔽させるなんて、事態がいっそう大事(おおごと)に……ああ僕はなんてダメなんだ!」
アサくんが小さな両手で顔を覆(おお)う。ピシっとしたスーツ姿で、十一歳という年齢が嘘のようにしっかりして見えたのに、こういう仕草は妙に子どもらしい。
未桜は改めて、辺りを見回した。
アサくんの説明によると、ここは“あの世”のはずだ。だけど、驚くほど現実に似ている。
店内は、コーヒー豆を挽(ひ)くときの香ばしい香りで満たされている。他のお客さんは、おじいさんとおばあさんが一人ずつ。別々のテーブルについて、くつろいだ様子でカップを口に運んでいる。
先ほど入ってきた入り口の隣には、木製の棚があった。色とりどりのリボンで丁寧に袋詰めされたクッキーやパウンドケーキが、種類ごとに小さなバスケットに入れられ、並べられている。
見たところ、レジはない。お客さんにお金を払ってもらうわけではないから、必要がないのだろうか。
「ところで、彼女をどうやって連れてきたの?」と、マスターが手元のカップを拭きながら、アサくんに尋ねた。
「ええっと……どうやって、というと?」
「“生ける人”がここにいる間は、現世にある身体から魂が抜けて、意識不明の状態になるよね? とすると、八重樫さんの“器”は今どこにあるのかな、と」
「あっ、わっ、それは……普通に……生身のまま……その場に置いてきちゃいました……」
おっと、とマスターが苦笑する。
未桜も目を丸くして、アサくんに詰め寄った。
「もしかして私、今、あの歩道で気を失って倒れてるの? と、と、東京のど真ん中で?」
「きっと今頃、大騒ぎになってるね」マスターが神妙(しんみょう)に言う。「まあ、人通りが多い都会だからこそ、安全に病院まで運んでもらえるだろうとは思うけど」
「嘘っ……聞いてないよ! 確かに、魂だけを連れていくとは言ってたけど、まさか身体だけがあそこに置き去りだなんて……」
「ごめんなさい! 本当に! ああ、僕はなんでこんなに間抜けなんだろう。本部に何枚始末書を提出しても足りないっ!」
アサくんは頭を抱え、いよいよ落ち込んでしまった。
さすがにかわいそうになる。未桜は紛(まぎ)れもなく被害者で、過失割合はどう考えても〇対十だけれど、真っ赤なほっぺをした少年を徹底的に痛めつける趣味はなかった。
「まあ、もう後の祭りだし、それはいいんだけど……さっきから言ってる『本部』って、何のこと?」
「僕から説明しようか。ちょうど手が空いたところだし」
マスターが緩く微笑み、「よかったらどうぞ」と、誰もお客さんのいないカウンター席を指した。恐る恐る近づくと、度重なる失敗の埋め合わせをするかのように、アサくんが光の速さで椅子(いす)を後ろに引いてくれた。
未桜が腰かけるのを待って、マスターがカウンターの上に両手を置き、静かな口調で尋ねてきた。
「生まれ変わりの仕組みについては、すでにアサくんから聞いた?」
美しい瞳でじっと見つめられていることに、どうしようもなくドキドキする。未桜はやっとの思いで、こくりと頷いた。
「人間は、この世とあの世を往復するんですよね。あの世というのは、ここ来世喫茶店のことで……死ぬ直前にはお店の人が訪ねてきて、寿命を告げられ、行き先が書かれた黄色いチケットを渡される」
「そうそう。砂時計の効果でいったん忘れてしまうけど、死ぬ間際の人間というのはみんな、来世喫茶店の従業員に一度は会ってるんだ。招待券――黄色いチケットのことを再び思い出すのは、いざ死を迎えてから。事前案内をきちんとしておくことで、こちらの世界に来てから、お客様方が混乱をきたさないようにしてるんだよ」
あの黄色いチケットには、未桜が死ぬ日付が書いてあった。
死ぬのは寂しい。
享年二十一歳なんて、早すぎると思う。
だけど、不思議と怖くはなかった。
嫌だ、死にたくない、というマイナスの感情もない。
昔から、不思議に思っていた。小説やドラマでは、長いあいだ病魔(びょうま)と戦っていた人が穏やかに死を迎えるシーンが多いけれど、あれはフィクションだからだろうか、と。ただ、現実でも、亡くなる間際の老人が暴れて抵抗したり、恐怖に震えて泣き喚いたりしたという話は、ほとんど聞いたことがない。
あれはもしかしたら、黄色いチケットの効果だったのかもしれない。死後の行き先について案内を受けた記憶が無意識下に眠っているからこそ、なんとなく安心し、落ち着いた気持ちで最期の時に臨むことができたのだろう。
アサくんは今日、未桜にそういう心の準備をさせるために、黄色いチケットを持って声をかけてきたのだ。――まあ、タイミングが二年ばかり早かったみたいだけれど。
「ごめん、前置きが長くなったね。本部の正式名称は、『来世喫茶店日本統括本部』っていうんだ」
「と、とう――とうかつ?」
「さて、八重樫さんは、日本では一日何名が亡くなっていると思う?」
突然、クイズ番組の出題者のように、マスターが質問を投げかけてきた。
――えっ、何名だろう。
全然、答えが浮かばない。じっと考え込んでいると、マスターはそれ以上畳みかけることなく、長くて形の綺麗な指を三本立てた。
「三千名だよ。一日に、日本だけで」
「そんなに!」
「だから『来世喫茶店』は、一店舗では足りないんだ。日本には、ここと似たような規模の店が、全部で六十ある」
「全国チェーン、ってこと?」
口に出してから、その言葉の軽さに赤面した。マスターはくすりと笑い、「そう捉えてもらって構わないよ」と頷いた。
「全国、というと語弊(ごへい)があるけどね。この地域の人はこの店に行く、という明確な決まりがあるわけではないから」
「でも、この『日本三十号店』に来るのは、だいたいが千葉の人ですよねぇ?」
アサくんが口を挟んだ。うずうずしている様子を見るに、話に加わりたくて仕方がなかったようだ。
「確かに、そういう傾向はある」と、マスターが微笑む。「八重樫さんも、千葉の人なのかな?」
「あ、はい! そうです」
「あれぇ、でも今日は東京にいましたよね?」
首を傾げたアサくんに向かって、「地元にあんなお洒落なカフェはないから、大学の近くでバイトを探したの!」と口を尖らせる。自分のミスのせいで未桜が面接を受け損ねたことを思い出したのか、アサくんはまたしゅんとした顔になった。
「まあ、千葉だろうと東京だろうと、亡くなったときにどの店舗に割り振られるかは運次第なんだ。『日本何号店』なんて画一的な名前がついてるけど、一つ一つの喫茶店は、建物の作りもドリンクメニューも、コーヒーの淹(い)れ方も違う。さしずめフランチャイズだね」
未桜の「全国チェーン」発言に合わせたのか、マスターがややおどけた口調で言った。ふふ、という小さな笑い声が、妙に耳に心地いい。
「僕たちは言ってみれば加盟店のオーナーで、本部が僕たちを統括しているというわけ。といっても、本部はあくまで事務作業や店舗間の調整業務がメインで、ほとんどの仕事の裁量(さいりょう)はこちらにあるんだけど」
「このお店に来るお客様は、すっごくラッキーなんですよ! マスターは間違いなく、日本にある六十の来世喫茶店の中で、コーヒーを淹れるのが一番上手なんですから!」
またアサくんが、自分のことのように胸を張る。「美味しい賄い」の一件といい、アサくんはマスターのことを心から尊敬しているようだ。
目を見合わせて笑う二人を眺めながら、未桜は腕組みをした。
この喫茶店があの世の一部で、日本で亡くなった人の六十分の一がこのお店にやってくるということは分かった。
でも――。
「……で、ここっていったい何なの? 現世と来世の間にあるのが……なんで喫茶店?」
別に三途の川でもいいのにな、と思う。だだっ広い原っぱでも、よく西洋絵画で天使とともに描かれるような、綿あめのような雲の上でもいい。『あの世=喫茶店』説なんて、普通に生きていて、一度も聞いたことがなかった。
しかも、死んだらこんなにカッコいい男性と可愛い少年の二人組が待っているなんて、まったくの想定外だ。
未桜がよほどしかめ面をしていたのか、「大事な説明がまだだったか」とマスターは可笑(おか)しそうに口角を上げた。
「僕たちの役割は、特別なドリンクを提供することでお客様の希望を伺い、来世の大まかな形をデザインすることなんだ」
「来世の……形を……デザイン?」
「方法はとっても簡単。三つあるドリンクメニューの中から、気になる一杯を選んでもらうんだ。ブレンドコーヒーか、カフェラテか、紅茶か――どれを選ぶかによって、『こんな来世にしたい』という条件の決め方が変わる。それぞれのドリンクに、特有の効能(こうのう)があるからね」
タイミングを見計らったかのように、アサくんが「どうぞ!」と黒い表紙のメニュー表を持ってきた。見開き一ページしかなく、左にはドリンクメニュー、右にはスイーツメニューが載っている。
『メモリーブレンド』
人生で一番大事な思い出を、もう一度――そして来世でも
『相席カフェラテ』
今一番会いたいあの人と、話し合い――理想の来世について
『マスターのカウンセリングティー』
来世の条件は、マスターにお任せ――あなたのお話、じっくり聞きます
『本日のスイーツ』
りんごとヨーグルトのパウンドケーキ
それぞれのドリンク名の隣に書かれているのが、特有の効能、だろうか。
けれど、メニューの説明書きはシンプルすぎて、読んだだけではよく分からない。首を傾げていると、「接客の様子を見ていれば、じきに分かりますよ」とアサくんがメニューを未桜の手から取り上げながら言った。
「ドリンクの成分の調整次第で、来世が大きく変わるんです。その点、うちのマスターは本当に腕がいいので、皆さん安心されるんですよ」
すっごくラッキー、というのはそういうことか――と、アサくんの言葉を聞いてようやく理解する。
ここは、終わったばかりの人生を振り返り、それを踏まえて来世のあり方を決めていく場所。
その「大まかな形をデザインする」のが、来世喫茶店の従業員の仕事。
なるべく希望を反映させた形で生まれ変われるかどうかは、特別なコーヒーや紅茶を淹れる、店のマスターの腕に大きくかかっている――。
「さてと、説明はこんなところかな。何か質問はある?」
マスターの漆黒(しっこく)の瞳が、未桜を捉えた。
心の奥底まで見透かすような視線に、心臓がぴくんと跳ねる。
なぜかは分からないけれど、マスターの静かで優しい話し声を聞いていると、胸の奥がざわざわと揺れるのだった。そして、灯がともったように温かくなる。
目の前にいるのが、今まで会ったことがないほど顔立ちが整った男性だから、なのか。
もしくは、来世喫茶店という不思議な場所の力なのか。
「あの……さっきから、日本の話しか出てこないのが気になったんですけど……来世では、日本人にしかなれないんですか? 外国人とか、人間以外の生き物になることもあるんですか?」
「おっ、いい質問だね」
マスターがゆっくりと頷き、「基本的に、日本人は日本人に生まれ変わることになってるよ」と柔和(にゅうわ)な口調で答えた。
「とはいえ、“器”の数は決まってるから」
「……うつわ?」
「生物学的な個体のこと。近年、日本は少子高齢化が進んでるよね。亡くなる人数に対して、母親の胎内に宿る“器”――これから生まれてくる胎児の数が、ずっと少ないんだ。だから、一人一人の希望を聞いた上で、外国人や人間以外の生き物に生まれ変わらせる場合は、本部を通じて系列(、、)の(、)来世喫茶店に交渉することになる」
例えば、とマスターはいくつか例を挙げた。
アフリカ諸国では、亡くなる人数より“器”のほうがずっと多いため、“向かう人”をいつでも募集している。
日本と同じような先進国は、どこも出生率が2を下回っているため、他国から“向かう人”を受け入れることはほとんどない。
ペットに生まれ変わりたいという“向かう人”もそこそこ多いが、特に日本の犬の飼育数は年々減っているため、他の生き物や国を提案する場合も多い。
ちなみに、“向かう人”とは、来世喫茶店にやってきた死者を指す言葉なのだという。「現実世界に(再び)向かう人」という意味だそうだ。その反対語が、今生きている未桜のことを話すときに使っていた、“生ける人”。
来世喫茶店の組織図を思い浮かべようとして、めまいに襲われた。「日本」の「人間」だけで六十店舗あるという話なのに、系列のお店まで入れたら、いったいどれだけ膨大な組織になってしまうのだろう。
「それって……つまり、犬の喫茶店とか、猫の喫茶店も、どこかにあるってこと?」
犬カフェ、猫カフェのような雰囲気のお店をイメージしながら尋ねると、アサくんが噴き出した。
「いえいえいえ、喫茶店の形態をとっているのは人間だけですよ。犬は犬、猫は猫、鳥は鳥、虫は虫で、まったく別の死後の世界があります。犬の喫茶店だなんて……ふふっ」
「ちょっと、バカにしないでよっ!」
未桜が頬を膨らませると、アサくんは「すみません、すみません」と頭を下げた。必死に笑わないようにしているみたいだけれど、唇の端がぴくぴく震えているのが丸見えだ。
そのアサくんが手にしている、黒い革の表紙のメニュー表を見つめる。
「でも……みんなが好き勝手な来世を希望したら、大変なことになるんじゃないですか? “器”が足りないのに全員日本人に生まれ変わりたいって言い張ったり、百二十歳まで生きたいって無茶な要求をしたり」
「それもいい質問だね」と、マスターが頷いた。「さっきも言ったけど、ここで決めることができるのは、『来世の大まかな形』なんだ。お客様のすべての希望に応えたいのは山々だけど、オーダーメイド品の注文を受けるようにはいかない」
マスターがカウンター越しに手を差し出してきた。アサくんが背伸びをして、メニュー表を手渡す。
その革の表紙を、マスターは綺麗な指の先で軽くつついた。
「来世とは未知で、どうなるかも分からないもの。当然、全部の要望を叶えることはできない。だったら、絶対に外すことのできない、最も大事な“来世の条件”は何なのか。その答えを探す手助けをするのが、僕が日々心を込めて淹れている、これらのドリンクなんだよ」
再び、メニュー表がカウンターを越えて、未桜のもとへと返ってきた。
メモリーブレンド。
相席カフェラテ。
マスターのカウンセリングティー。
それらの「特別なドリンク」がどういうものなのか、未桜はまだ知らない。
けれど、興味がむくむくとわいていた。
ここにやってくるお客さんたちが、どのドリンクを注文して、どんな来世を選び取っていくのか。
来世に“向かう人”たちに、マスターやアサくんはどのように接し、どんな手助けをしていくのか。
「ええと、喫茶店の仕事を見学したいんだよね? カウンターの中でも、バックヤードでも、どうぞご自由に。その間、僕は八重樫さんの記憶を消す方法を、急いで調べることにするよ」
「あ、いいです、急がなくて。ゆっくりで」
未桜が両手を左右に振ると、マスターは怪訝そうな顔をした。
「いや、そういうわけにはいかないよ。八重樫さんは“生ける人”なんだから。アサくんに黄色いチケットを見せられたことは早く忘れて、さっさと現世に戻りたいだろうし――」
「いいえ。すぐに帰りたいだなんて、ちっとも思ってません!」
思わず大声を出してしまった。
お客さんをびっくりさせてしまったのではないかと、慌てて振り返る。けれど、意外なことに、別々のテーブル席に座っているおじいさんとおばあさんは、ゆったりと目をつむっていた。
「ああ、大丈夫ですよ、お二人はメモリーブレンドを飲んでいるところですから」
アサくんが明るい声で言う。どうして大丈夫なのかは分からないけれど、迷惑がかからなかったならよかった。
未桜は俯き、頭の中を整理した。
それから顔を上げ、マスターに向かって、まっすぐに告げた。
「しばらく、ここで働かせてください!」
マスターが無言で目を見開いた。「はっ、働くって、何を言い出すんですか! 僕が許可したのは、ちょっとした見学と体験だけですよっ!」とアサくんが未桜のブラウスの袖を引っ張る。
未桜はいったんアサくんへと向き直り、ぐっと顔を近づけた。
「だって、私は被害者だよ? 二年後に死ぬことを突然知らされて、絶対に受かりたかったバイトの面接までふいにしたんだよ? これくらいの要望は聞き入れてもらわないと困るよ!」
「そ、そ、そ、そんなこと言われても!」
アサくんが、助けを求めるような目でマスターを見る。
未桜はカウンターに両手をつき、マスターの大きな目を見てさらに力説した。
「私、ずっと、喫茶店で働くのに憧れてたんです。ここはすごく小ぢんまりとしてて、レトロで、コーヒーの香りがよくて……私の理想の喫茶店なんです! だから、私の気が済むまで、店員としてここでアルバイトをさせてください。記憶を消す方法を見つけるのは、全然急がなくていいですから!」
一生懸命、訴えかけた。
アサくんが、未桜の隣で慌てに慌てている。
マスターが、こちらの真意を推し量るような目で、未桜を見ている。
「現世のことなら、心配要りません。もともと……その、ちょっと……家には、あんまり帰りたくなかったりする……し」
これは、ダメ押し。別に家のことがなくたって、もう少し長く、このお店に滞在していたい。
それくらい、ここが気に入ってしまったのだ。
お店のレトロな雰囲気も、若いマスターが醸(かも)し出す不思議な魅力も、おっちょこちょいなアサくんの人となりも。
幼い頃からずっと夢見ていたカフェのバイトをするなら――絶対、ここがいい!
その思いが伝わったのかもしれない。マスターがふうと息を吐き、「いいよ」と悪戯(いたずら)っぽく笑った。
「店員になりたいなんて、珍しいね。まあ、そういうお客様は初めてじゃないけど……とにかく、気に入ったよ。その押しの強さといい、喫茶店への愛といい、ここで働いてもらうにはぴったりの人材だ。きっと、僕たちとは別のタイプの接客をして、大いに活躍してくれるんじゃないかな」
「え? え? マスター、本気で言ってます?」
アサくんが目を白黒させる。そんな彼に構わず、マスターはカウンターの中を指差しながら、未桜に向かって言った。
「じゃ、八重樫さん、どうぞこちらへ。ブラウスが汚れたら困るだろうから、エプロンを渡すね。仕事の説明は、アサくん、お願いしていい?」
「ええええっ、本当に雇っちゃうんですか? 現世から連れてきた“生ける人”を?」
前代未聞ですよぅ、本部に知られたら大変ですぅ――と、アサくんが手足をバタバタとさせている。そんなアサくんとは対照的に、マスターは涼しい顔でくるりと身を翻した。バックヤードに、予備のエプロンを取りにいくようだ。
「ありがとうございます!」
未桜は意気揚々と、マスターを追いかけた。
やっと、念願の喫茶店で働ける。
待っていたのだ――この日を!
《四月六日 来店予定者リスト》
・名前:緒(お)林(はやし)拓(たく)男(お)
・性別:男
・生年月日:一九三六年一月十七日(享年八十三歳)
・職業:鍛冶(かじ)職人
・経緯(けいい):半年前に起きた交通事故の後遺症(こういしょう)により寝たきりに。入院先の病院にて、誤嚥(ごえん)性(せい)肺炎(はいえん)で亡くなる。
・来店予定時刻:十四時四十七分
喫茶店の窓に映る景色が、数秒ごとに移り変わっている。
都会の雑踏(ざっとう)、青い山々の稜線(りょうせん)、外国のカラフルな家――まるでスライドショーのようだ。
未桜はカウンターのそばに立ったまま、飽きずにその光景を眺めていた。
「気になります?」
アサくんが話しかけてきた。こくりと小さく頷く。
窓の外には、雪がちらちらと舞い始めていた。
「どういう仕組みになってるの? お店の中に、プロジェクターは見当たらないけど」
「あれは、物理的に映像を投影しているわけじゃないんです。ここを訪れるお客様の、記憶なんですよ」
「……記憶?」
「はい。人生の中で見た、印象的なシーンです。あ、今は雪が降っていますね。さっきまでは見なかった景色なので、そろそろ、新しいお客様がご来店されるんだと思います」
まさに、アサくんの言うとおりだった。
突如、爽(さわ)やかな風が、入り口から吹き込む。
チリンチリン、と扉についた鈴が音を立てた。
「いらっしゃいませ」
「い、いらっしゃいませ!」
アサくんに倣(なら)い、未桜もぺこりとお辞儀(じぎ)をする。
下を向いた拍子に、さっき身に着けたばかりの茶色いエプロンが目に入った。
途端(とたん)に、気が引き締まる。まだ仕事の説明をひととおり受けたばかりの新人だけれど、お客さんから見れば、未桜だって一人の店員だ。
むしろ、十一歳にして勤務歴十年だというアサくんより、十八歳の未桜のほうが、お客さんに頼られてしまうかもしれない。
その予想は当たっていた。入店したおじいさんは、隣に立っているアサくんではなく、未桜をまっすぐに見て言った。
「ここは何なんだ? なぜ死んでまで、喫茶店なんかに来なきゃならねえんだ。俺はこういう、見てくればかり整えた店は嫌いなんだ。性(しょう)に合わん」
いきなり怒られるなんて、想像もしていなかった。
口をパクパクと動かしてみるけれど、言葉が出てこない。その間も、おじいさんは、眉間(みけん)に深いしわを寄せてこちらを睨んでいる。
「緒林拓男さまですね。お待ちしておりました! カウンターでもテーブルでも、お好きな席へどうぞ」
アサくんがするりと一歩前に進み出て、未桜の代わりにおじいさんを案内した。
さっき教えられたとおり――つまり、マニュアルどおりの台詞だ。
来店予定者リストに載っている名前を呼び、丁寧にお迎えする。席は自由に選んでもらう。「一人一人のお名前を口に出すのが、うちのモットーなんです。誰だって、そうやって迎えられたら嬉しいものでしょう?」とせっかくアサくんが説明してくれたのに、まったく実践に移せなかったことが、無性に悔しい。
緒林は、名前を呼ばれて面食らった顔をした。じろりとアサくんの顔を見て、「まだ子どもじゃねえか。変な店だな」などとぶつくさ言いながら、ゆっくりと移動を始める。
その間にアサくんは、いったんカウンターの内側に引っ込んだ。お盆に載せたおしぼりと水のグラスを、緒林が腰かけたカウンター席へと運ぶ。そしてもう一度丁重に頭を下げ、手元のリストに目を落とした。
「ご来店ありがとうございます! まず、こちらで把握している情報に間違いがないか、念のため確認させてください。緒林拓男さま、享年八十三歳。誕生日は、昭和十一年一月十七日」
生まれ年を和暦(われき)で言うあたりに、きめ細かい配慮(はいりょ)が見て取れる。昭和十一年という言葉が幼い少年の口からさらりと出てくるのは、見ていて不思議だった。
アサくんとは対照的に、緒林は頑固そうで、態度が大きい。鼻をふんと鳴らし、椅子の背に寄りかかった。
「ここは喫茶店だろう? 病院の診察室じゃあるまいし、なんでわざわざ個人情報を訊くんだ。気持ち悪(わり)ぃな」
「申し訳ございません。万が一取り違えが発生しないよう、確認するのがルールになっておりまして」
「さっき、享年、っつったな。俺の死因も把握してんのか? 最後のほうは意識が朦朧(もうろう)としてて、記憶にねえんだよ」
「ええっと……誤嚥性肺炎、と聞いておりますが」
「はっ、いかにも年寄りの病気だな。肺炎でくたばるなんて、若い頃の俺が聞いたらひっくり返るぜ」
緒林のぶっきらぼうな受け答えに、ドキリとする。
ここのお客さんは、本当に、たった今人生を終えたばかりの人たちなのだ。
つらい病気で苦しみ、目を閉じ、ふと気づいた瞬間に、この喫茶店が建つ不思議な世界に飛ばされている――。
「こんなことなら、半年前に死んどきゃよかったんだ。おい、そのへんの事情は聞いてんのか?」
「交通事故に遭(あ)われたんですよね? その後遺症のため寝たきりになり、亡くなるまでの半年間、入院されていた」
「ああ、そうだ、そうだ。夜中に、家の向かいで男の悲鳴が聞こえてよ、何事かと外に飛び出したんだ。叫び声を聞く限り、若者同士の喧嘩(けんか)のようだった。止めにいこうと、道を渡ろうとして――ドカン、よ」
ドカン、の部分で緒林の声が突然大きくなり、未桜は肩をびくりと震わせた。
「猛スピードで走ってきた無灯自転車と衝突して、脚を複雑骨折。でっかいギプスをつけられて、ずーっとベッドの上で寝たきり生活だ。筋力も体力も見る間になくなり、歩けなくなってよ。しまいにゃ肺炎でお陀仏(だぶつ)だ。あーあ、八十三年も生きてきて、悲しいもんだな。ま、息子たちからはすっかりお荷物扱いだったし、いい頃合いだったか」
そう言いつつも、緒林は自分の死因に納得がいっていないようだった。「若者の喧嘩くらい、ほっときゃよかったのによ」と自嘲(じちょう)気味に言い、カウンターに拳を叩きつける。
――何か、声をかけなければいけない。
そう思うのに、言葉が浮かばなかった。「それはつらかったですね」? 「きっと息子さんたちも悲しんでいますよ」? お前みたいな若者に何が分かる、と額に筋を立てられるのが関の山ではないか。
「本当にお疲れ様でした! 八十三年の人生、大変なことも、思い出に残ることも、いろいろありましたよね。どうか、ここでゆっくりくつろいで、身体と心を癒してください。緒林さまが来世に“向かう”お手伝いを、誠心誠意、させていただきます」
アサくんはまったく動じずに、慣れた仕草でメニュー表を開いて差し出した。緒林はドリンクメニューにちらと目をやり、失望した顔をした。
「なんだ、これだけかよ。俺は酒を飲みたかったんだがな」
「すみません、ここは喫茶店ですので……」
「最近は、アルコールを出す喫茶店もあるんじゃなかったか? かふぇばー、とかいう」
老人に似合わない横文字をたどたどしく口に出した直後、「お、奇妙だな。老眼鏡がないのに読めるぞ。これは死んだ甲斐があった」と嬉しそうに言う。
第一印象ほど、とっつきにくい人物ではないようだ。半年もの間、病院で孤独な時間を過ごしていたために、心がささくれ立ってしまったのかもしれない。
「では、お飲み物の説明をさせていただきますね」
緒林の機嫌がよくなったところで、アサくんがすかさず、小さな手でドリンクメニューを指し示した。可愛らしい見た目とは裏腹に、接客の仕方は熟練(じゅくれん)のホテルマンのようだ。
「ここでは、コーヒーや紅茶などを一杯だけ、召し上がることができます。お飲み物には、それぞれ異なる効能があります。こちらの喫茶店を出るとすぐ、緒林さまの新しい人生が始まるわけですが、どのお飲み物を選ぶかによって、“来世の条件”の決め方が変わります。ですので、じっくり選んでくださいね」
「ふうん、“来世の条件”ねえ。そんなものが決められるのか?」
緒林は懐疑的(かいぎてき)な目でメニューを見ている。