雪が、舞っていた。
トタンの壁に囲まれた薄暗い鍛冶場から、灰色の空が見える。
入り口の戸を開け放したのは、靖(やす)子(こ)だった。
「見て、雪よ」
厚手の白いコートに身を包んだ彼女が、子どものようにはしゃぎ、空を指差している。
まるで対照的だった。
仕事道具が雑然と置かれた狭い作業場と、ひらひらと落ちる、白い花びらのような雪が。
いつも煤(すす)で汚れた作業着を着ている拓男と、こんな自分のために、よそいきのコートを羽織ってきてくれる靖子が。
コークス炉(ろ)の火は、何時間も前に消えていた。祖父の代から受け継いできたこの鍛冶場は、いくら屋根や壁の修繕(しゅうぜん)を繰り返しても、どこからともなく隙間風が吹き込んでくる。いっそのこと思い切って戸を開け放ち、外の世界と繋がってしまったほうが、不思議と空気が暖かく感じられるのだった。
いや――この温もりは、彼女のおかげ、なのかもしれない。
「喜ばないの? たぶん、今年の初雪よ」
「そうだったっけか。いつもここに閉じこもってばかりで、空模様なんかろくに気にしてねえからな」
これから自分が起こす予定の行動に気を取られすぎて、返答がぶっきらぼうになってしまった。「何よう、もう」と靖子が頬を膨らませ、雪が降りしきる夕方の街に出ていこうとする。
「あ、まだ行かないでくれ!」
「ええ? 一緒に散歩でもしようかと思っただけなのに」
靖子が可笑しそうに口元を緩めた。大げさで間抜けな引き止め方をしてしまった――と、途端に耳が熱くなる。
そこら中に置いてある工具につまずかないよう、慎重すぎるほどに足元に目をこらしながら、靖子がゆっくりと戻ってきた。
おそらく、もともと注意深い性格をしていたわけではない。彼女はただ、知っているのだ。置き方こそ雑然としているが、今は亡き祖父や父がかつて振るっていた金槌(かなづち)や矢(やっ)床(とこ)を、拓男がどれほど大事に手入れして使っているかということを。
両親が高校の教員という、育ちがよく、真面目で、頭もいい娘。
幼い頃から近くに住んでいて、頻繁に遊んでいたというだけの縁だった。
そんな彼女が、いつの間にか、父の急死により若くして家業を一手に担うことになった拓男の、一番の理解者になっていた。
本当にこの場所でいいのだろうか、と自問する。
いやいいんだ。ここが俺のすべてなのだから――と、自答する。
「拓男さんは偉いわね。もう年末だというのに、せっせと鉄を打ち続けて」
「いろいろと注文を受けちまったからな。今年のうちに、なるたけ片付けておかねえと」
「おじいさんの代からのお客さんが今でも離れていかないのは、拓男さんの頑張りのおかげね。きっと素晴らしい三代目になるわ」
「さあ、どうだか。小さな店だから、いつ商売が傾くかも分からねえよ。これからの時代、機械の性能がどんどん上がって、こういう刃物はでっかい工場で作るようになるんだろうし」
そんな暗い話をしたいわけではない。よりによって、靖子相手に。
いい加減しっかりしろ――と、拓男は心の中で自分を一喝した。
作業着のポケットを、靖子に気づかれないように、上からぎゅっと握りしめる。
その硬い感触が、分厚くなった掌の皮膚に伝わり、拓男を奮い立たせる。
「靖子。ちょっといいか。受け取ってほしいものがあるんだ」
後ろを向いてもらい、その間にポケットから出そうか。
目をつむってもらい、手にのせて驚かせようか。
事前にあれこれ考えていた計画は、彼女を前に、すべて吹き飛んだ。
「……なあに?」
「ほらよ」
ポケットから取り出したそれ(、、)を、丸めたちり紙でも渡すかのように、靖子の掌にぽんと置いた。
「これ……」
彼女の桜色の唇が、かすかに震えた。
続く言葉は、しばらくの間、出てこなかった。
見慣れた鍛冶場に、沈黙が降りる。
丸く見開かれた靖子の目が、まっすぐに見つめている。
――大きな青緑色の石がついた、無骨な指輪を。
「……もしかして、拓男さんが?」
「おう。ここで作った」
何日もかけて、理想の形を探した。
地金を叩いて、焼いて、また叩いて。
遠くのデパートで貯金をはたいて買ってきた、青緑色の美しい石を嵌め込んで。
普段は刃物や工具ばかり作っているから、指輪は専門外だった。だが、貧乏職人の拓男には、これしか方法がなかった。
ダイヤモンドを買う金はない。宝飾品売り場に燦然と並んでいた既製品の指輪も、到底手が届かない。なんとか購入できたのは、何の装飾(そうしょく)も施されていない、素のままの石だけ。
「俺が手作りした指輪なんざ……靖子は気に入らねえかもしれねえが……」
「――綺麗。すごく、綺麗」
靖子が、にっこりと微笑んだ。
その表情に、胸を撃ち抜かれる。次の瞬間、拓男は彼女の手を取っていた。
「俺と、結婚してくれ」
そう早口で言いながら、ほっそりとした左手の薬指に指輪を通す。
指輪のサイズは、ぴったりだった。
靖子が目を細め、大きな青緑色の石で彩られた指を、入り口から差し込む淡い光に照らす。
彼女の頬は上気していた。心なしか、両目が潤んでいるように見えた。
「これから、よろしくお願いします」
靖子が手を下ろし、丁寧に頭を下げた。と思いきや、全身の体重を預けるようにして、拓男の胸に飛びついてくる。
「お、おい! 通りから見えるぞ」
「いいじゃないの、今日くらい」
だって、ものすごく嬉しいんだもの――と、拓男の胸に顔を押しつけたまま、彼女が恥ずかしそうに囁いた。
靖子の頭越しに、雪のちらつく空が見えた。
寒さは感じない。
代わりに、確かな温もりが、胸に灯っている。
トタンの壁に囲まれた薄暗い鍛冶場から、灰色の空が見える。
入り口の戸を開け放したのは、靖(やす)子(こ)だった。
「見て、雪よ」
厚手の白いコートに身を包んだ彼女が、子どものようにはしゃぎ、空を指差している。
まるで対照的だった。
仕事道具が雑然と置かれた狭い作業場と、ひらひらと落ちる、白い花びらのような雪が。
いつも煤(すす)で汚れた作業着を着ている拓男と、こんな自分のために、よそいきのコートを羽織ってきてくれる靖子が。
コークス炉(ろ)の火は、何時間も前に消えていた。祖父の代から受け継いできたこの鍛冶場は、いくら屋根や壁の修繕(しゅうぜん)を繰り返しても、どこからともなく隙間風が吹き込んでくる。いっそのこと思い切って戸を開け放ち、外の世界と繋がってしまったほうが、不思議と空気が暖かく感じられるのだった。
いや――この温もりは、彼女のおかげ、なのかもしれない。
「喜ばないの? たぶん、今年の初雪よ」
「そうだったっけか。いつもここに閉じこもってばかりで、空模様なんかろくに気にしてねえからな」
これから自分が起こす予定の行動に気を取られすぎて、返答がぶっきらぼうになってしまった。「何よう、もう」と靖子が頬を膨らませ、雪が降りしきる夕方の街に出ていこうとする。
「あ、まだ行かないでくれ!」
「ええ? 一緒に散歩でもしようかと思っただけなのに」
靖子が可笑しそうに口元を緩めた。大げさで間抜けな引き止め方をしてしまった――と、途端に耳が熱くなる。
そこら中に置いてある工具につまずかないよう、慎重すぎるほどに足元に目をこらしながら、靖子がゆっくりと戻ってきた。
おそらく、もともと注意深い性格をしていたわけではない。彼女はただ、知っているのだ。置き方こそ雑然としているが、今は亡き祖父や父がかつて振るっていた金槌(かなづち)や矢(やっ)床(とこ)を、拓男がどれほど大事に手入れして使っているかということを。
両親が高校の教員という、育ちがよく、真面目で、頭もいい娘。
幼い頃から近くに住んでいて、頻繁に遊んでいたというだけの縁だった。
そんな彼女が、いつの間にか、父の急死により若くして家業を一手に担うことになった拓男の、一番の理解者になっていた。
本当にこの場所でいいのだろうか、と自問する。
いやいいんだ。ここが俺のすべてなのだから――と、自答する。
「拓男さんは偉いわね。もう年末だというのに、せっせと鉄を打ち続けて」
「いろいろと注文を受けちまったからな。今年のうちに、なるたけ片付けておかねえと」
「おじいさんの代からのお客さんが今でも離れていかないのは、拓男さんの頑張りのおかげね。きっと素晴らしい三代目になるわ」
「さあ、どうだか。小さな店だから、いつ商売が傾くかも分からねえよ。これからの時代、機械の性能がどんどん上がって、こういう刃物はでっかい工場で作るようになるんだろうし」
そんな暗い話をしたいわけではない。よりによって、靖子相手に。
いい加減しっかりしろ――と、拓男は心の中で自分を一喝した。
作業着のポケットを、靖子に気づかれないように、上からぎゅっと握りしめる。
その硬い感触が、分厚くなった掌の皮膚に伝わり、拓男を奮い立たせる。
「靖子。ちょっといいか。受け取ってほしいものがあるんだ」
後ろを向いてもらい、その間にポケットから出そうか。
目をつむってもらい、手にのせて驚かせようか。
事前にあれこれ考えていた計画は、彼女を前に、すべて吹き飛んだ。
「……なあに?」
「ほらよ」
ポケットから取り出したそれ(、、)を、丸めたちり紙でも渡すかのように、靖子の掌にぽんと置いた。
「これ……」
彼女の桜色の唇が、かすかに震えた。
続く言葉は、しばらくの間、出てこなかった。
見慣れた鍛冶場に、沈黙が降りる。
丸く見開かれた靖子の目が、まっすぐに見つめている。
――大きな青緑色の石がついた、無骨な指輪を。
「……もしかして、拓男さんが?」
「おう。ここで作った」
何日もかけて、理想の形を探した。
地金を叩いて、焼いて、また叩いて。
遠くのデパートで貯金をはたいて買ってきた、青緑色の美しい石を嵌め込んで。
普段は刃物や工具ばかり作っているから、指輪は専門外だった。だが、貧乏職人の拓男には、これしか方法がなかった。
ダイヤモンドを買う金はない。宝飾品売り場に燦然と並んでいた既製品の指輪も、到底手が届かない。なんとか購入できたのは、何の装飾(そうしょく)も施されていない、素のままの石だけ。
「俺が手作りした指輪なんざ……靖子は気に入らねえかもしれねえが……」
「――綺麗。すごく、綺麗」
靖子が、にっこりと微笑んだ。
その表情に、胸を撃ち抜かれる。次の瞬間、拓男は彼女の手を取っていた。
「俺と、結婚してくれ」
そう早口で言いながら、ほっそりとした左手の薬指に指輪を通す。
指輪のサイズは、ぴったりだった。
靖子が目を細め、大きな青緑色の石で彩られた指を、入り口から差し込む淡い光に照らす。
彼女の頬は上気していた。心なしか、両目が潤んでいるように見えた。
「これから、よろしくお願いします」
靖子が手を下ろし、丁寧に頭を下げた。と思いきや、全身の体重を預けるようにして、拓男の胸に飛びついてくる。
「お、おい! 通りから見えるぞ」
「いいじゃないの、今日くらい」
だって、ものすごく嬉しいんだもの――と、拓男の胸に顔を押しつけたまま、彼女が恥ずかしそうに囁いた。
靖子の頭越しに、雪のちらつく空が見えた。
寒さは感じない。
代わりに、確かな温もりが、胸に灯っている。