第15話 コンニャク
翌日正午、俺は約束通り新潟駅の新幹線改札口にいた。他の人だったら冗談と受け取っただろう、だが、相手はあのアイさんだ、彼女は来ると言ったら絶対来る、そういう人だ。
『そういう人だ』ときっぱり断言できるほど彼女との付き合いが長い訳ではないし、そこはむしろ短いというか『最も付き合いの短い人』でさえあるが、『付き合いが短い』イコール『付き合いが浅い』という式が成り立つわけでもなく、短くても濃い付き合い方というものが……などとグダグダと考えていると、現れた、俺のターゲット。というよりむしろ俺がターゲット。
「きゃはっ! 八雲くーん!」
モスグリーンのリュックを背負い、片手には紙袋を下げたアイさんが、向こうから手を振りながらやって来る。
「はあ~、新潟は暑いにゃー!」
「群馬とそんなに変わらないでしょう」
「群馬は涼しいよぉ。あっ、はいこれ、お土産」
いきなり紙袋を目の前に突き出されて、思わず両手で受け取ってしまう。
「あ、どうもありがとうござ……重っ! なんですかこれ」
「ああ、それコンニャク。うちのおばあちゃんが作ったの。すっごく美味しいんだよー」
ああ、そうか。この人、群馬から来たんだった。それにしてもこの量、全部コンニャクなのか?
「とりあえずお昼ですし、何か食べましょうか」
「うん、あたし八雲君と一緒に食べたくて、駅弁我慢してきたんだよ」
よほど暑いのか、赤い顔して手で必死に扇いでる。こんな小さな手で扇いだって、大して涼しくも無いだろうに。でもなんだかその仕草が妙に可愛らしいのも認めざるを得ない。
パンが食べたいというアイさんを近くのベーカリーレストランに連れて行き、腰が落ち着くや否や、いつもの調子でアイさんが喋り始めた。
「八雲君会いたかったよー。もう昨日から待ち遠しくって、あの後すぐにおばあちゃんに頼んで、冷凍しといたコンニャク芋引っ張り出して来て作って貰ったんだよー! うちにはコンニャク芋専用の冷凍庫があるんだから」
それはそれは嬉しそうに、椅子から飛び上がらんばかりの勢いだ。こんな風に
「会いたかった」と何度も連発されるのも、まんざらではない。
「新潟は初めてですか?」
「うん、お酒も美味しそうだし、おせんべいもいっぱい売ってそう」
「全国の流通に乗ってますから、あんまり変わりませんよ」
「もう! 夢をブチ壊すような事言うし。これだからリアリティ星人は!」
アイさんがプレートにてんこ盛り積んできた小さなパンにバターを塗りながらブ
ツブツ言うもんだから、思わず吹き出してしまった。
「リアリティ星人って……リアリティ星ってのがあるんですか?」
「あるのっ。えーとえーと、プレアデス星雲の向こう側に隠れてるから見えないの」
「それを言うならプレアデス星団ですよ」
「あ、そうだった、てへっ」
そうだった。この人と一緒に居ると「てへっ」が音声で聞けるのだという事を忘れていた。
「で、何を話したかったんですか?」
「あ……」
え? おい、どうした? パンにバターナイフを押し付けたまま石化してしまったぞ?
「アイさん?」
「なんだっけ?」
「は?」
「八雲君の顔見たら嬉しくて忘れちゃった」
新幹線で群馬から出てきて、忘れただって? 嘘だろ?
「昨日まで遡りましょうか。私の一話目を読んで、アイさんがコラボをやめると言ったんですよね、それで……」
「にゃあ! だめっ。八雲君コラボやめたら後悔するよ!」
「誰がですか?」
「八雲君が!」
「しませんよ」
「少しくらい後悔するよ」
「しませんよ」
アイさんが口を尖らせて、上目遣いにこっちを見てる。俺は知らん顔でアイスコーヒーに口を付ける。
「にゅー……」
ぷっ。なんだこの人、この尻すぼみ感がちょっと可愛い。
「あ、八雲君笑ったー。何がおかしいのー?」
「いや、アイさん」
まで言ったら笑いが止まらなくなった。「むー」と音声化してふくれるアイさんがおかしくて益々笑っていると、メインディッシュが運ばれてきた。
俺は白身魚のムニエル、クリームソースがかかっていて、野菜サラダがたっぷり添えてある。彼女の方はエビフライとカキフライとイカフライが山盛りの千切りキャベツの上に鎮座しており、タルタルソースとオーロラソースが横に添えてある。その上串切りトマトが三つもついている。俺も一切れ欲しい。
「何笑ってんのー」
「いや別に」
「みゅうー、教えてよー」
「怒りませんか?」
「わかんない、多分怒る」
「じゃ、言いません」
「あーん、怒らないから言って。言わないと怒る」
「じゃあ言いますけど、怒らないでくださいよ?」
「みゅう」
「ちょっと……可愛いなって思っただけです」
「にゃあ! ちょっとだけなのー?」
え? 怒るとこ、そっちかよ!
「ちょっとだけです。私は正直だけが取り柄ですから。その代わり嘘はつきませんよ」
「嘘でもいいから甘い言葉をちょっとくらい囁いてくれてもいいと思うにゃ」
「嘘でもいいんですか? 私が『アイさんすっごく可愛いですよ』って棒読みで
言っても嬉しいですか?」
「もー。八雲君のおたんこなす!」
は? おたんこなす?
「おたんこなすって音声として発信する人、初めて目の当たりにしました。凄く新鮮です。死語だと思ってました」
あ、また口を尖らせてる。
「にゃー、またばかにしてるにゃ」
「してませんて。アイさん昭和生まれ……ですよね?」
「ええっ? 八雲君平成生まれ?」
「そうですよ」
「みゅう~」
あ~あ~、そんな大きいエビフライ、切らずに口に突っ込んだって入る訳がないだろ……齧ってるし。つまり、最初からナイフを使う気は無いんだな。と思ったら、イカフライは切ってるし。行動パターンがさっぱり読めないなこの人。
「ねぇ、八雲君はあたしの事が嫌いなの?」
今度はなんなんだ一体。
「嫌いな人をわざわざ駅まで迎えに行って、一緒にご飯食べると思ってるんですか?」
「思わない」
「じゃ、何故聞くんですか?」
「好きって言って欲しいから」
……。
「じゃあ『嫌いなの?』じゃなくて『好き?』って聞けばいいじゃないですか。どうしてそういう持って回った言い方するんですか。アイさん、ストレートど真ん中かと思えば、変なところでカーブ投げてきますよね?」
「八雲君だって『消える魔球』だもん」
もはや意味不明だ。もー訳わかんねぇ。
「で、どうなの?」
クロワッサンを齧りながら、再び主語のない質問。
「何がですか?」
「好き?」
「クロワッサンが?」
「あたしの事」
「好きですよ」
「みゃう!」
日本語で表現して欲しい。まあ、通じたから特に問題は無いが。
「じゃ、コラボ続けようねっ」
何故そうなるかな?
「二話目持って来た?」
「一応」
「やっぱり持って来てるじゃん。くふっ、八雲君可愛い!」
俺はとても簡単に彼女の手のひらで転がされているらしい。
第16話 萬代橋
それから俺たちは他愛のないお喋りをしながら昼食を食べ終え、ドリンクバーのコーヒーを飲みながら、アイさんが俺の二話目を読んだわけなんだが……とにかくいちいち文句が入る。もっと舞を可愛く描いて欲しいらしいのだ。
「なんであたしはこんなに伊織君を王子様に書いてるのに、八雲君は舞を可愛く書いてくれないのっ?」
「可愛く書く必要が無いからですよ」
「じゃあ、伊織君もカッコ良く書いてあげないもん」
「それじゃ恋愛小説にならないじゃないですか」
「じゃあ舞も可愛く書いてよ」
「あのねえ、アイさん……」
俺は推定七杯目のコーヒーを口に流し込んで言葉を継ぐ。
「アイさんが書きたいのは自伝なんですか? 小説なんですか?」
「小説」
「舞は確かにアイさんがモデルです。でもアイさんじゃなくて、あくまでも舞です。舞というキャラが伊織というキャラに一目惚れしたのであって、アイさんが私に一目惚れした話じゃありません」
「むうー」
またもやわかりやすくふくれながら、無駄にオレンジジュースの氷をカランコロンとかき混ぜている。
「でも素のままのあたしと八雲君じゃん」
「素のままなんだから盛らなくてもいいでしょう?」
「でもあたしは伊織君盛ってるよ?」
「そっちは当然じゃないですか、恋する乙女なんですから」
「むー。八雲君の頑固者!」
はい? どうしてそういう発想行く?
「もう八雲君なんて嫌い。コラボやめる」
ハイハイまたですか。
「わかりました、やめましょう」
「何を?」
「コラボです」
「なんで?」
そんな全身で焦りを表現しなくていいから。
「私は恋愛小説を女性視点と男性視点で書きたいというアイさんの話に乗っただけです。男性視点もアイさんの思い通りにしたいのなら、アイさんが両方の視点で書けばいい。私が書く必要はないですよ」
「え……」
「無駄な時間を随分と使いましたけど、結構楽しかったですよ」
俺が原稿を片付け始めると、アイさんはあからさまにオドオドし始めた。まあ、昨日と同じパターンだ。
「用は済んじゃいましたね。これからどうします? その辺ブラブラします? 東京と大して変わりませんけど」
「えー、あの……」
「萬代橋《ばんだいばし》、見たことないでしょう? ただの橋ですけど、アーチの美しい橋ですよ」
俺はさっさと原稿をカバンに片づけて、グラスに少し残っているコーヒーを一遍に流し込んだ。
「行きましょう」
「にゃ……」
あれ? 想定外。いつものアイさんならここで「ちょっと待ってよー」と言う筈だ。しかし今のアイさんは急いで自分の荷物をまとめてる。全くの無抵抗のままお店を出てしまったのでちょっと計算が狂ってしまったんだが、まぁ、四時間も居座ってあーでもないこーでもないとやっていたんだからいい加減出ろよって感じでもある。
「新潟、大っきい通りがあるんだね」
「駅前だけですよ。ここから万代シティを通って、古町の辺りまでが中心街ですから」
「八雲君の育った街かぁ」
隣を歩くアイさんが、キョロキョロと物珍しそうにあちこち眺めている。そんなに珍しいものがあるとは思えないが。
「そういえばアイさん、群馬のどこですか?」
「月夜野」
「月夜野ってどの辺ですか?」
「上毛高原。知ってる?」
「上越新幹線にその名前の駅ありますよね?」
「うん、駅の近くなの。新幹線と利根川と関越自動車道が三本並走しててね、新幹線と利根川に挟まれてる辺り。駅まで歩いて十分くらいなんだよ」
パタパタとアイさんの足音が耳に心地いい。今日もストンとしたラインの綿のワンピースにサボを履いている。今日のワンピースはグレイッシュピンクだ。だが、形はこの前とほぼ同じで、胸元に二つ三つ木のボタンが付いている。背中にはモスグリーンのリュック、どれもナチュラルテイストだ。
そういえばこの人、化粧っ気無いな。ナチュラルメイクって奴だろうか? すっぴんかもしれない。でも肌は綺麗だな。ほんとに三十代なのか? ほんとに俺より八つも年上なのか?
「スキー上手なんでしょうね」
「うん、得意だよ。冬場は友達の家に行くのにミニスキーで行ってたもん。周りは
スキー場だらけだし。八雲君も新潟は雪降るでしょ?」
「新潟市内は平野部なんで、そんなに積もるほど降りませんよ。それに私はスキーはやったことがないんですよ」
「え、そうなの?」
そんなに驚きに満ちた顔しなくてもいいだろうに。
「変ですか?」
「新潟の人ってみんなスキー出来ると思ってた」
「みんなに同じこと言われますよ」
アイさんが「あっ」と言って左の方を指さした。俺は突然自分の顔の前に出てきた彼女の腕に驚いて、思わずのけぞる。
「ねえ、あのカラフルな塔って何? 展望台っぽいヤツ」
「ああ、あれはレインボータワーですよ。展望席がクルクル回りながら上下するん
です。新潟市が一望できますよ。天気が良ければ佐渡も見えます」
「乗りたい!」
アイさんが俺の腕にしがみつく。ただでさえコンニャクが重いんだ、絡まないで欲しい……。
「もう運転してないんですよ。私も子供の頃はよく乗ったんですけど」
「そっか、残念だにゃ」
「見えてきましたよ、萬代橋」
「おおー、あれが萬代橋にゃー」
言うや否や、歩きながらリュックを下し、中からカメラを出して来る。俺はカメラの事はさっぱりわからないが、何やらゴージャスっぽいカメラだ。彼女はそれを首から下げると、再びリュックを背負ってカメラを構えて歩き出した。
「そういえばアイさん、写真が趣味だったんですよね」
「うん。八雲君は絵、描くんでしょ?」
「描くってほどのものは描きませんよ」
「ねえねえ、あの街灯、素敵」
写真を撮りながら歩いてるよ……前見て歩けよ、危ないな。
前方から自転車が来たんで、アイさんの腕を摑んで俺の方にグッと引き寄せる。彼女がよろけて俺の方に倒れて来たんで、両手で彼女の肩を抱きとめたら、キョトンとした顔で俺の顔を見上げてこう言った。
「ここでキスはさすがにマズいと思う」
違うからっ!
「アイさん、前見て歩いてくださいよ、危ないですよ」
俺が手を離して注意すると、彼女は不服そうに口を尖らせるんだよ。
「あたしは別にここでもいいけど、八雲君の地元だから一応気を遣ってあげたんだよ」
「そうじゃないから。キスしませんから」
「そんなに固辞しなくたっていいのに」
「しますよっ!」
「くふっ。照れ屋さん」
この人の思い込みは、ある意味凄い。
「橋の写真を撮るなら川沿いの方がいいですよ。こっち」
アイさんを遊歩道の方に連れていくと、水を得た魚のように大喜びで、何枚もシャッターを切っている。
「凄ーい、素敵! この橋、アーチが綺麗」
俺は見慣れているせいかそんなに感動したことは無いが、そう言われてちゃんと見ると確かに美しい橋だ。この美しさに気づかないまま二十二年もこの地で生きて来たんだな。
と、その時「おい、哲也」と俺を呼ぶ声が聞こえたのだ。
ハッと振り返ると……親父! が、車の窓を開けて呼んでいる。
「お前こんなとこで何やってんだ? 乗ってくか?」
「あ、いや、その」
「どうしたのー?」
「あ、アイさん」
うう~、今ここで顔を出すな!
「なんだ彼女と一緒か」
「いや、彼女じゃないっ!」
俺が慌てているとアイさんがトコトコと歩いて来て、百万ドルの笑顔で割り込んだ。
「初めましてー、榊アイです。八雲君のお父様ですかぁ?」
「ヤクモ?」
あああ、なんちゅうややこしい事を!
「ちょっと、あの、ヤクモってのは俺のあだ名で、そう呼ばれてるだけだよ。あ
あ、ええと、この人は榊アイさんて言って彼女じゃない、あのえーと」
「文芸サークルの仲間なんです。ね、八雲君?」
「そ、そう、文芸サークル」
「へー、お前そんなもんに入ってたのか」
「あたしのエッセイの批評して貰ったりしてるんですよ」
余計なこと言うな。うちの親父は読書好きなんだ。
「ほー、アイちゃんのエッセイ、おじさんも読みてぇなぁ」
「ほんとですかぁ?」
ダメダメダメ、これ以上話すな。
「アイちゃん、あとで家までコイツに送らせるから、ちょっと飲まねえか?」
あー、出た。親父のヤツ、お猪口をクイッと空ける仕草をしてやがる。しかもアイさんは伏見という地名から酒しか連想できない人だ。
「うち、群馬なんですよ。今日は駅前のビジネスホテルに泊まるつもりだったんで、ホテルまでならタクシーで行けちゃうから大丈夫です」
何? 泊りがけのつもりだったのか?
「そりゃいいや。今日はうちに泊って行けや。明日コイツにゆっくり新潟を案内させて、エッセイのネタにすりゃいいこて」
「おい、親父!」
いくら俺でもこれはNGだ。
「ありがとうございます、お言葉に甘えますね!」
え、マジかよ、なんで親父と意気投合してんだよ!
「よし、じゃあ後ろに乗りな。ホレ、哲也。気の利かねえ奴だな、ドア開けてやれ」
だからっ。何故こうなるんだ!
第17話 寒梅で乾杯
まあ、いいんだけどさ、俺は。両親と俺とアイさんと四人でテーブル囲んだって別にね。
ただね、なんでこんなに懐いちゃってんだよ、俺の親に。
しかも話題が八海山だの久保田だのって酒にスタートして、亀田や岩塚のお菓子工場の話に行ったり、等外品が安く売ってる販売所の話になったり、今じゃ新潟のB級グルメ、イタリアンの話にまで移行している。親父だけならともかく母さんまで一緒になって越後のソウルフードについて熱く語りだす始末だ。コイツら手に負えない。
「新潟に来たからにはイタリアンはやっぱり食べておかないとね」
「明日のお昼にどこかで食べます。くふっ。お土産は何がいいかなぁ?」
「笹団子は必需品だでぇ。何処のが美味かったかなぁ?」
「冷凍のを買ってお家で蒸し直すとモッチモチになるから、そうした方がいいわよ~。レンジだと固くなるから、ちゃんと蒸してね」
「はーい」
懐いてる。アイさんが俺の両親に懐いてる。
「おー、酒が無ぇなったねっか、アイちゃん、次は寒梅と〆張鶴、どっちにする?」
「じゃあ、寒梅!」
「寒梅で乾杯! うははははは」
親父、寒いよ。ここだけ気候がシベリアだよ。
「にゃはー、寒梅を三杯!」
アイさんまで……。
「それにしてもアイちゃん、哲也つまんないでしょう。ボサーッとしてて、口下手でネクラで……」
根暗言うな。俺は明るいつもりだ。
「あたしがお喋りだからちょうどいいんですよ。それにしても八雲君が哲也君だなんて驚いたにゃー」
「あらぁ、哲也が八雲なんて呼ばれてる方がびっくりよぉ?」
コイツら、俺をネタに酒飲みやがって。
「アイさんちのコンニャク、美味しいですね。プリプリで」
「にゃあ! おばあちゃんに言っとくにゃ」
「んーめえのう。こらうんめーわ」
ああ、親父、新潟弁丸出しだよ。
「新潟のお魚美味しいですねー。群馬じゃこんな美味しいお刺身食べられないもん」
「おー、いっぺぇ食ってけ」
「はあーい」
だから、何故懐く! 親父、コイツにそんなに飲ませるな。何を暴露されるかわからん。
「先週だったら花火大会があったのにねぇ」
「にゃ? 花火大会?」
アイさんの目の色が変わったぞ。まさかストライクゾーンど真ん中か?
「かの有名な四尺玉が上がる奴にゃ?」
「四尺はこんがとこじゃ上げらんねぇこってぇ」
「あれは片貝の花火大会」
父よ、母よ、二人がかりで説明せんでいい。なんか俺、もう必要無さそう。玄関のメダカと遊んでおこうか。
「カタカイは遠いにゃ?」
アイさんも猫語どうにかしろ。両親よ、ナチュラルに猫語を受け入れるな。疑問に感じろ。
「片貝はもう終わっちゃったねぇ」
「みゅうー」
またそんな悲しげな顔をするし。
「いいですよ、アイさん、鶴見川の花火が来週ですから連れてってあげますよ」
「にゃ? ほんと?」
「おー、哲也いいねっかー。アイちゃんとデートかー」
「デートじゃないから」
「にゃあ、八雲君、あたしの彼氏になっちゃえばいいのに」
は? 何言い出すんだ、しかも俺の家で!
「そんなまどろっこしいこと言ってないで、哲也のお嫁さんになってあげてよ。この子ドンくさくて彼女もできないし、次男だからアイちゃんが持ってってくれてもいいから」
おいっ。母の言葉がそれかよ。
「にゃあ! あたしが新潟にお嫁に来た方がいいにゃあ。お酒もお魚も美味しいし、海水浴もスキーもできるし、お父さんもお母さんも大好きにゃ」
おいおい、勝手にお父さんお母さんって呼ぶな。
「あの。ちょっとアイさん」
「にゃ?」
「ちょっと外に出ませんか?」
「結婚式の相談なら、お父さんとお母さんが居――」
「違います」
「まあまあまあ、ここは若い二人に任せて年寄りは引っ込んどくこてー。はい、散歩散歩」
「違うからっ!」
「じゃ、お散歩行ってきます。あ、食べ散らかしてごめんなさい。ごちそうさまでした」
アイさんがぺこりと頭を下げて俺の腕を引っ張る。
「行こっ」
「あの……まあ、いいです、外で話しましょう」
「行ってらっしゃーい」
……二人で声揃えて言うな。
第18話 キスしよっ
外に出ると、夜だというのにもわっと湿った空気が、昼の温度を維持したまま攻撃的にまとわりついて来る。
「どこ行くにゃ?」
「信濃川」
「昼間萬代橋、通ったにゃ?」
「もっと下流」
サボのパタパタと言う音が道に響く。一歩が小さいのか、俺より若干回転が速い。
黙って歩いていると、アイさんが急に俺のシャツの袖を摑んだ。半袖だから摑んだというよりぶら下がっているような感じだが。
「怒ってるの?」
「何がですか?」
「あたしが八雲君ちに来たこと」
「怒ってないですよ」
「あたしの彼氏になるの、そんなに嫌?」
「え?」
アイさんを振り返ると、こっちを上目遣いに見ている彼女と目が合ってしまった。俺はこの目に弱い。非常に弱い。
「アイさんの彼氏になるのが嫌なんじゃなくて、そういうのがめんどくさいだけです。友達でいいじゃないですか」
アイさんは何も言わない。俺もそれ以上言う事も無いので黙って歩く。
信号を渡ると船が見えてきた。信濃川だ。
「ここによく船が泊まってるんですよ。海の香りがするでしょう?」
「あたしは八雲君を独り占めしたいの」
「は?」
「あたしだけの八雲君になって欲しいの」
ちょっと待て。俺の頭は大混乱をきたしている。何故そうなる。そういう話じゃ無かった筈だ。何処でそうなった。
「船、泊まってますね」
「八雲君が好きなの」
ええと整理しよう。どこからだ?
「あの、アイさん? 創作活動に熱心なのはよくわかりました。でも、私は八雲であなたはアイさんですよ。伊織と舞じゃありません。舞に感情移入するのは確かに必要かもしれませんけど、だからと言ってそのために私を好きにならなくてもいいんですよ、フィクションなんですから」
「違う。舞は伊織が大好き、一目惚れ。あたしはアイ、八雲君が大好き、一目惚れ」
「同じじゃないですか」
「違うの。あたしは八雲君に一目惚れだけど、会えば会うほど好きになっちゃったの。これはね、恋なの。判る?」
わかんねーよ! とは流石に言えず、知らず知らず大きな溜息に変換されている。
「アイさん、惚れっぽいでしょ?」
「うんっ」
「あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、いつも恋してるでしょう」
「そんなにあちこちフラフラしてないもん」
急にアイさんに腕を引っ張られて、向かい合う恰好になってしまった。正面で話されるのは、なんだか苦手だ。
「今は八雲君しか見てないもん」
「今はって……また他の人が現れたらそっちに行くんでしょう?」
「みゅう」
この「みゅう」は図星だ。
「ずっと八雲君より素敵な王子様なんて現れないもん」
「そんなもの明日にでも現れますよ」
「あたしの事嫌いなの?」
え、いきなり両手を摑まれた。なんかこの状態はあまり良くない傾向だ。ああ、パニックになってる、日本語が崩壊している。
「嫌いじゃないですってば。アイさんの方がいつも『八雲君きらい』って言うんですよ? もう二度も言われました」
「あ、気にしてるんだ」
はぁ……そうじゃなくてさ。
「事実をありのままに述べただけです」
そう言って俺は横を向いた。向かい合ってるのは苦手だ。だけど両手を握られているから、顔だけ横向いたって仕方ないんだな。
「嫌いじゃないんだね?」
「嫌いじゃありません」
「好き?」
「はい、好きですよ」
「じゃ、キスしよっ」
「しませんよ」
思わずソッコーで拒否してしまったじゃないか。
「なんで即答するかにゃー」
「なんでそうなるんですか」
「好きなんでしょ?」
「そういう好きじゃなくて、友達としてです。友達とキスはしません」
「みゅう。恋に障害は付きものにゃ」
「それ、本当に恋なんですか? アイさん、恋に恋してるようにしか見えないんですけど。恋愛中毒というか、恋愛依存症というか」
「うん、多分恋愛依存症」
ナチュラルに認めんなよ。頭痛くなってきた。
「でもね、モノは考えようだよね。恋は障害があればあるほど燃え上がるんだもん。舞は伊織に会いに、一人、夜行列車に飛び乗るの。伊織の待つ新潟へ」
「はあ、それでどうするんですか」
「上野発の夜行列車を降りると新潟駅は雪の中なの」
「なんで新幹線じゃないんですか。演歌みたいじゃないですか。言っときますけど連絡船ありませんからね」
「え? 無いの?」
「あ、佐渡汽船がありました。ジェットフォイル。フェリーもあった。佐渡へ行くんですか?」
「みゅうー、行かない」
何がしたいんだ?
「じゃあね、長い長ーいトンネルを抜けるとね、そこは雪国なの」
「まあ、関越トンネルは長いですね。でもそれ、川端康成ですよね?」
「あ、そうにゃ。てへ」
くっ。不覚にも一瞬可愛いと思ってしまった。俺はまだまだ甘い。
「大体アイさんさっき万代シティで『コラボやめる』って決めたばっかりじゃないですか。まだ舞の設定で疑似恋愛するんですか?」
「だから疑似じゃないっ。あたしは本当に八雲君の事が好きなのっ。わかんないかな」
どこまで本気かわかんねーよ、この人の場合。
「それとね、コラボはやめないから。あたしがコラボやめるって言ってるときは、八雲君が唐変木な時だけ! ほんとにやめるなんて思ってない。だからあたしは八雲君の事が大好きなアイのままで、伊織が大好きな舞を書くの、わかった?」
ノンブレスで一気に言い放ったよ……。
「やめないんですか、コラボ」
「やめないの! それともう一つ、ちゃんと覚えといて。あたしは本気で八雲君の
事が好きなの! 大好きなの!」
いきなり。手を離したアイさんが俺のシャツの襟を摑んでグイと引っ張った。何事かと思う前に……キスされた。
なんなんだよ、おい、なんなんだ、この人は!
「くふ。ハトが豆鉄砲食らったみたいな顔。可愛い、八雲君、大好き」
どんな顔なんだ、俺。
第19話 部屋
家に帰ると、食卓はきれいさっぱり片付いていた。残っていた刺身や揚げ物などのつまみは小さい皿に移し替えられて、大きなトレイにまとめてあった。これで続きを飲めという事らしい。
親父は朝が早いので、もうとっくに寝ている。母さんはいつも録画したドラマを夜中にまとめて見るので、これからその時間に突入する。彼女にとってこれは絶対的な時間であり、何人たりとも邪魔をすることは許されないのだ。
そういう訳で、俺とアイさんはトレイにグラスを乗せ、酒を持って俺の部屋に移動した。
俺の部屋……殆ど人を入れたことがないんだが、まぁ仕方がないだろう。居間でこの時間に飲んでいたら母さんにぶっ飛ばされる。大切な趣味の時間を邪魔されるのがどれほど心の平穏を乱すことかは、重々承知しているつもりだ。
アイさんの方は大喜びだ。俺の部屋というだけでハイテンションになっている。男の部屋くらい入ったことがあるだろうに。
「八雲君のお部屋、思った通り片付いてて綺麗だね」
「モノが置いてないだけですよ。適当に座ってください」
俺はテーブルをさっと拭くと、トレイの刺身や揚げ物をテーブルに並べ、グラスに酒を注いだ。
「今度は〆張鶴にゃ。かんぱーい」
意味も無くアイさんとグラスを合わせる。つくづく日本人は乾杯の好きな民族だ。
「こうやって八雲君と一緒に居るだけで、舞と伊織のネタが増えていくね」
「ああ、まあそうですね。逆にこれだけ一緒に居て一つもネタにならなかったら悲しいですけどね」
「もう。すぐそういうこと言う。さっきのお船を見に行った散歩の事もちゃんと書くからね。そこで舞と伊織は信濃川をバックに抱擁を交わし、熱い口づけをす――」
「してませんよ、抱擁は」
当然だが、俺は彼女の言葉を遮った。
「フィクションなんだから固いこと言わないでよ」
「舞の方でそう書くのはいいですけど、伊織の方では舞にいきなりキスされてしまったと書きますよ」
「ふにゅー」
「二人の視点で書くんですから、それぞれの感じ方が異なる方が読者としては盛り
上がりますよ」
そこまで言って、俺はコンニャクをつまむ。このコンニャクは掛け値なしに美味しい。さっきからこればかり食べてる気がする。実家にいる時くらいしか美味しい刺身は食べられないというのに、コンニャクが美味しすぎて箸がそっちに伸びてしまうのだ。
「こうやってさ、八雲君と一緒に居るの、凄く楽しい」
「そうですか。ありがとうございます」
「もう。なんでそうやって線引くの? 他人みたい」
「他人じゃないですか」
「コラボの相棒でしょ」
「相棒……」
そうか、コラボするんだから相棒か。でも、あんまり近寄りすぎてもいけないような気がする。甘えてしまって作品がグダグダになるんじゃないだろうか。
「明日はどこに連れてってくれるにゃ?」
「は?」
「さっきお父さんが言ってたじゃない。新潟巡りしてエッセイのネタを探して来いって。八雲君は車持ってるの?」
「持ってませんよ」
「じゃあ、電車でお出かけかにゃー」
美味しそうに刺身を食べながらワクワクと話すアイさんはそれだけで可愛い。三十二歳か。うーん、八つも年上には見えない。見た目には俺よりちょっと年上くらいだが、話していると年下の人と一緒に居るような錯覚を起こす。
「この辺は電車じゃ小回りが利かないんですよ。アイさんさえ嫌じゃなければ、私のバイクがあるんですけど。後ろ、乗りますか?」
え? 何そのキラキラした目は。
「にゃあ! 八雲君のタンデムシート!」
この反応は、恐らく喜んでいるんだろうな。そんなに嬉しいか?
「乗る乗る! 海行きたい。海水浴場みたいなとこじゃなくて、んーと、岩場があって、写真撮れそうなところ」
「じゃあ、笹川流れかなぁ。福浦八景も綺麗だしなぁ」
「どっちが近い?」
「同じくらいです」
「佐渡見える?」
「佐渡はここが一番近いですよ。笹川流れの方なら粟島が目の前に見えます」
「じゃ、そっち!」
はっと気づいた時には、明日の予定が決定してしまっていた。なんでいつもこうなんだ、俺?
第20話 お魚
翌日は快晴だった。これは暑くなりそうだ。
アイさんは昨日とは違うワンピースを着ていた。が、形はやっぱりストンとした感じのもので肩が出ている。これは日焼けするだろうなと思っていたら、薄手の七分袖カーディガンを羽織ってきた。
バイクの方は兄貴がたまに乗っていたらしく、ガソリンも満タンに入っていてメットもちゃんと二つあった。
「八雲君がバイク乗りだとは思わなかったにゃ」と言うアイさんを後ろに乗せて、俺は村上市に向けて海岸沿いの道を真っ直ぐ北上した。
俺は別に仲間とツーリングするような趣味も無いので、バイクも至って普通の中型だ。俺にとってバイクは中距離移動手段の一つでしかない。だから実は後ろに人を乗せて走るのは初めてだ。所謂「彼女を後ろに乗せて走るのが俺のステータスだぜ」なんて言ってる連中とは根本的なところで違う。移動距離を稼げる自転車のような感覚なのだ。
だが、後ろに乗っている人はそうではないらしい。ただでさえ暑苦しいのに俺の胴にしがみつき、必要以上にくっついてほっぺた(と言ってもフルフェイスのメットをかぶっているが)を背中に押し付けている。実に楽しそうだ。
さすがにこの季節は海水浴のできそうな砂浜には人の姿が見える。まあ岩場だろうが砂浜だろうが、そこに海がある限り人は海に入りたいものなんだが。
たまにアイさんがお腹に回した手を外して、肩をトントンと叩く。その度に俺は道路の端にバイクを寄せて停めてやる。アイさんが写真を撮りたいと思うポイントがあったら肩を叩くようにと、出発前に彼女と決めた合図だ。そして彼女が満足のいくまで写真を撮ったら、また出発である。
俺は簡単に言うと単なる“足”に成り下がっているわけだが、これはこれで結構楽しい。彼女が被写体に選ぶポイントは、どこも絵になる風景ばかりなのだ。そういう意味ではとても勉強になる。同時に彼女の感性に驚かされたりもする。まさしく彼女は右脳で生きている人だ、そう確信できた。
絵を描くときは、必要のないものを無かったことにして省くことができるし、逆にそこに存在しないものを描き足すこともできる。それは言ってみれば『計算ずく』だ。しかし写真は違う。そこにあるものすべてを受け入れ、消化し、一枚の画像として表現する。彼女の素直さが写真に現れていると言っても過言ではない。
事実、彼女は驚くほど純粋だ。心が少女のまま大人になってしまったんじゃないかとさえ思う。
猫のように気まぐれで、我儘で、甘えんぼで、いじけ虫で、プライドが高くて、感情の起伏が激しくて、そして俺を振り回す。なのに俺はそれを心地良く受け入れている。どうしてだろう。一番嫌いなタイプだった筈なのに、振り回されれば振り回されるほど彼女に惹かれていく。そして彼女に振り回されることを楽しんでいる自分がいる。訳が分からん。
ふと、アイさんが俺の肩を叩く。停めてくれの合図だ。そこで気づいた。当初の目的地に到着していたことに。
俺はちょっとした駐車場にバイクを停めた。ここは日本の名勝に指定されているだけあって、年間通して人が来る。観光地と言うほどのものでもないが、知っている人はやはりいるのだ。その為、僅かではあるが車を停めるスペースがある。
俺がメットを外すとアイさんもメットを取り、こちらを向いてニコッと笑った。ヤバい、可愛い。きっと俺は今だけそんな気分なんだ、普通に考えて俺がこのタイプに惹かれることはありえない。一時の気まぐれな感情に流されないようにと自分に言い聞かせながら、彼女に曖昧な笑顔を向ける。
「ねえねえ、四阿があるよ。ここ、結構人が来るの?」
「一応日本百景にも選ばれてるんで。地味ですけど」
「全然地味じゃないよ、こんな素敵なところ滅多に来られないよ。ねえ、あの岩、凄くいい、素敵!」
「ここが目的地ですよ。この辺一帯を笹川流れって言うんです。この下、降りられるんですよ」
「えっ、ほんと? 行こ行こっ!」
当たり前のように彼女が俺の腕を取る。俺は何とも言えない複雑な気持ちのまま、特にそれを拒否するわけでもなく、一緒に海岸に降りる階段を下りていく。
アイさんの事を考えていてここを通り過ぎるところだったなんて、口が裂けても言えない。だが事実だ。この俺が? 嘘だろ? 嘘だと思いたい。
「ねえ、あの岩のところまで歩いて行けそう」
「あれが有名な『眼鏡岩』です。潮が引いていれば結構なところまで行けますよ」
海岸まで下りると、彼女は尋常じゃなくはしゃいでいた。リュックからカメラを出して、パシャパシャとシャッターを切りまくっている。もう俺の存在なんか忘れているんじゃないだろうか。
でも。そんな彼女が純粋に可愛く見えてしまって、俺はどうにもこうにも困ってしまう。今だけだ、今だけそんな気がしてるんだ、昨日からずっと一緒に居るからそんな錯覚に陥っているだけだ。
「ねえ、八雲君、あそこまで行ってみようよ。因幡の白うさぎみたいに岩の上を渡って行ったら、あの辺まで行けそうだよ?」
「私は行けますよ。海で育ってますから。でもアイさん、山育ちでしょう? ひっくり返っても知りませんよ? 海藻類は滑りやすいんですよ?」
「でも行きたいのー!」
こんなキラキラした目で言われたら断れないよ。全く……。
「じゃあ、カメラ気をつけてくださいよ?」
「うん」
俺たちの他にもここで遊んでいる家族連れが何組もいる。眼鏡岩の真ん中をぶち抜いているスリットに入って遊んでいる子供たちの姿も見える。ちょうど潮も引いていて、この感じなら奥の岩場まで行けそうだ。
「ねえねえ八雲君、この岩、真ん中に穴が開いてる!」
「だから連れて来たんですよ。好きでしょ、こういうの」
「大好きー」
こんな所でも写真を撮ってる。とても生き生きして楽しそうだ。そんなアイさんを見ているだけで、何故か俺まで頬が緩んでしまう。
「写真撮るときは、ちゃんと足場を確認してくださいよ。とにかく足元滑るし危ないから」
「はーい」
ヤバい。こんなに素直に返事されると本当にヤバい。
「あっちも行こう」
アイさん、一人でどんどん行ってしまう。どこまで行く気なんだよ。仕方ないから俺も追いかける。少し奥まで行って、大きな岩場の影に回った。
「アイさん、岩もいいですけど、足元見てますか?」
「大丈夫だってば。滑らないところ狙って歩いてるから」
「違いますよ、海の中です」
「え?」
俺は地元民だから知ってるんだ、ここがただの海岸じゃないことを。
「凄い綺麗。透明度高いねー」
「透明度が高いから見えるんですよ、ほらそこ」
「え、何?」
「見えませんか? 魚がいっぱいいるんです」
じっと海中を凝視していたアイさんの目が見る見る輝いていく。
「すごーい、お魚がいっぱい」
「そこの岩陰、見えますか? カニですよ」
「カニ? そんなものが海にいるの?」
俺は思わず吹き出してしまった。
「海じゃなくてどこにいるんですか。見えませんか? すぐそこ」
アイさんが顔を寄せて来る。
「きゃー、カニがいる、可愛い!」
これだけ喜んでもらえれば、連れて来た甲斐があったというものだ。
暫く魚の写真を撮って満足したアイさんは、撮った写真のチェックがしたいと言い出した。確かに日陰に入らないと画面はよく見えない。一旦浜に戻って、大きな岩の影に二人で入り、撮った写真をチェックする。
「良く撮れてる、ほら、この子さっきのカニ」
「クラゲも撮ったんですか?」
「うん、大きくてびっくりした」
頭を付き合わせてカメラの小さな画面を見るのは少しドキドキする。
「魚、随分撮ったんですね」
「このお魚なんだろう?」
「ああ、これは鱚ですよ」
急にアイさんが顔を上げた。びっくりして俺は思わず身体を引いてしまった。けれども彼女はまっすぐ俺を見ている。
「ねえ、もう一度教えて。このお魚、なあに?」
ヤバい。俺の頭は『ヤバい』で埋め尽くされている。なのに金縛りにあったように身動きが取れない。
「こ、これは、鱚……です」
アイさんが右手にカメラを持ったまま左手を俺の背中に回す。少し背伸びして、俺の方に顔を寄せて来る。ヤバい、どうしよう。ここで拒否するのは簡単だが、その後どうしたらいいかわからない。かと言って受け入れてしまったら、それもそれで、その後どうしたらいいかわからない。
アイさんの顔が近づいて来る。ヤバい、ヤバい、ヤバい……。
ふと、アイさんが俺の顔の真ん前でニコッと笑った。
「えへ。ちょっと八雲君を困らせてみたかっただけ」
「はぁ?」
悪戯っぽく笑う彼女を見てちょっとカチンときた俺は、思わずその華奢な肩を抱き寄せ、小憎らしいほど可愛い顎を持ち上げた。
「え、八雲く――」
柔らかい感触で初めて気づいた。俺が彼女にキスしてしまっていたことに。
第21話 イタリアン
「あの……さっき、すいません」
「何が?」
「海岸で……」
俺がモゴモゴと口ごもっているのなんか全く意に介さない様子で、アイさんは実に美味しそうに焼きそばを頬張っている。
「美味しいね、イタリアン。ミートソースが焼きそばに合うなんてビックりにゃ。新潟県民、とんでもないこと考えるね」
「さっきのは勢いで。あの、特に深い意味とか無いんで……」
「あたしは嬉しかったにゃ」
「え」
「八雲君がチューしてくれた」
「ですからあれは」
「怒ってる?」
アイさんが俺に被せて来る。なんて答えよう。確かにあの時はカチンと来た。俺、あんなにパニックになってたのに、ちょっと困らせたかっただけってどういう事だよって思った。
だけど。あれでパニックになったのは、俺にもそうしたいという気持ちが少なからずあったからだ。無ければ普通に「鱚ですよ」と返事して突き返すことだってできたんだから。
俺が返事に迷っていると、待ちきれなかったのか、アイさんが俺の手にその小さな手を重ねてきた。
「ごめんね。もう悪戯しないから。怒らないでね」
可愛らしくちょこんと首を傾げて見つめられたら、もう俺、どうでも良くなってしまう。
この人ズルい。八つも年上のくせに、こんな風にしていると年下にしか見えない。しかも我儘放題された後に急に素直になられると、つい、許してしまいたくなる。とんでもない悪女だ。「いや、別に……」と自分でもわけのわからない返事をしてしまう。
「もっと八雲君のこと知りたい」
「もう十分でしょう。これ以上何が知りたいんですか」
「なんでも。八雲君の事ならどんな小さい事でも全部知りたいの」
こんな積極的な人、見たことない。正直、俺には珍獣レベルだ。どう扱っていいのかわからない。
けど、確実に一つ言えることがある。あまり認めたくはないが、俺は多分この珍獣の事が好きだ。お互いに好きなんだから、何も問題は無い筈だ。でも何故かいけないような気がする。なんでだろう、自分でもわからない。
「あ、やっぱり一つだけ知りたくないことがあった」
突然アイさんがイタリアンを食べる手を止めた。
「今まで付き合った女の子の事は聞きたくない」
「は?」
「ヤキモチ妬いて、その女のこと殺したくなるからダメ」
……おい。
「随分物騒ですね」
「それくらい八雲君の事が好き」
「今だけですよ、きっと」
俺はそう言って焼きそばを口に運ぶ。このチープながらも一度味わったら二度と浮気できない悪魔的な魅力、一体誰が思いついたんだろうな、焼きそばにミートソースなんて。
「そんな事ないよ、ずっと好き」
「前の彼氏はどうして別れたんですか」
「あたしがベッタリして、好き好きって毎日言い続けたら『鬱陶しい』って。前に言ったじゃない、忘れたの?」
「いえ、覚えてますよ。それで捨てられたのに、また同じことを何度も繰り返すのかなと思って」
「だって好きなんだもん。好きって思ったら口に出ちゃうでしょ? あたしの場合は顔にも態度にも出るの」
普通出ないよ。
「直す気はないんですね」
「うん、気持ちを伝えないと溢れちゃうもん」
よくそういうことを真っ直ぐ俺の目を見て言えるなぁ、感心するよ。俺の方が視線泳いでるし。
「そのうちに私もアイさんの『好きだった男の一人』になるんでしょうね、過去形で」
「八雲君より素敵な人なんて、もう現れないよ」
「その台詞、今までに何人の男に言いました?」
「ヤキモチ妬いてるの?」
「は?」
何を言い出すかなぁ。
「八雲君以外の男の人の話すると、八雲君、機嫌悪くなるよね」
「そんな事ないですよ」
ちょっとムキになっている自分に焦る。図星か、俺?
誤魔化すようにカルピスソーダを一口飲む。普段はこんな甘いものは注文しないんだが、イタリアンにはこれと昔から決まっているのだ。
「今日の事、書こうね。海で遊んだこと。お魚もカニもクラゲもいたこと」
「あー……はい」
「八雲君の後ろに乗ったこと。八雲君にキスして貰ったこと」
「いや、それは」
慌てて否定するが、実際俺の方からしたのは紛れもない事実だ。
「いいよ、舞におちょくられて伊織がカチンときてキスしちゃったっていう書き方でも。舞の方はいきなり伊織にキスされて、嬉しくて舞い上がってるように書くから。二人の感じ方が違う方が面白いんでしょ?」
「ええ、まあ、そうですね」
モゾモゾと口の中で歯切れの悪い返答をしていると、アイさんが残ったカルピスソーダを飲み干して言った。
「そろそろ行こっか。お土産も買わなきゃならないし。えっと、笹団子と、元祖柿の種と……」
指折り数えるその仕草も妙に可愛くて憎たらしい。
「『えご』と『かんずり』と『へぎ蕎麦』は押さえておいて欲しいですね」
「何それー」
「お土産買うのも付き合いますよ。サラダホープと万代太鼓も美味しいんです。行きましょうか」
俺は目を白黒させているアイさんを連れて『みかづき』を後にした。
第22話 書くの好き?
数日後、俺は東京に戻った。ここにはメシを作ってくれる母さんもいなけりゃ、ちょこっと外出するのに使えるバイクも無い。横長だった景色も縦長に戻って、視界を圧迫している。まあ、足が無くても数分歩けばコンビニがある訳で、そういう意味では一人で住むには便利な街ではある。
あれから俺は、アイさんがお土産を買いに行くのに付き合って、新潟駅まで送った。しっかり『えご』と『かんずり』と『へぎ蕎麦』と『万代太鼓』と四角い缶に入った(ここ大切)『元祖浪花屋の柿の種』を仕入れ、電車の中で食べると言って『サラダホープ』とテイクアウトの『越後もち豚ヒレカツバーガー』を手にし、彼女は意気揚々と新幹線に乗り込んだ。
笹団子は、俺たちが笹川流れに行っている間に母さんが伯母さんに話してすぐに作って貰ったらしい。出来立ての笹団子をアイさんに持たせてやることができて、母さんはなんだか凄く喜んでいた。まだ湯気の立っている笹団子をその場で一つ食べたアイさんが「ヨモギが濃いっ!」と言って大喜びしているのが可愛くて、母さんも「またおいで」って何度も何度も念を押して言うのが可笑しかった。本気でアイさんを嫁にしようと企んでいそうで怖い。実に怖い。
実家にいる時は何もやる気にならずダラダラと過ごしていた俺だが、東京に戻って来ると生活サイクルが戻るせいか、あれもしようこれもしようという気になる。人間は時間があるといくらでも怠けるが、時間が限られてくるとその中で何とかやりくりしなければと次々動きたくなる不思議な生き物なのだ。
お盆休み残りあと三日、何をしようかと考えていると、アイさんからLINEが入った。内容は「笹団子が美味しい」だの「今日はへぎ蕎麦を食べた」だのというどうでもいい話だったが、その様子から新潟をいたく気に入ったことがひしひしと伝わってきた。まあ、つまらんところだったと言われるよりははるかに嬉しい。次は福浦八景に連れてってくれと次回の予約までされてしまった。あそこは柏崎のはずれの方だったか。それなら途中、寺泊で浜焼きを食べさせてやりたいな……。
などと考えていたら、アイさんから思いがけない話が飛び出した。例の東京湾ダイブしたくなるラブコメの話だ。ここのところずっと舞と伊織の話で盛り上がっていてすっかり忘れていたが、そうだ、あれをPCに打ち込めと言われていたんだった。
アイさんを連れて行くと約束した鶴見川の花火が土曜日……って明後日だ。今日中にやっつけて、明日アイさんに送り付けようか。
そう思って午前中から打ち始めたんだが、打っている途中で気に入らないところがどんどん出て来る。改稿しながら打つような感じになってきてしまった。
半分打ったところで日付が変わったことに気づいて焦る。俺、昼飯も食ってねえ!
戸棚を空けると非常食のカップ麺や缶詰、インスタントラーメンやらスパゲティなんかが出て来る。一人暮らしには欠かせないアイテムたちだ。
とりあえずスパゲティを茹で、同じ鍋にそのままレトルトのトマトソースを入れて一緒に温める。何事も時短だ。明日はちゃんと買い物に行って、野菜を仕入れて来よう。インスタントやレトルトばかりじゃ体を壊す。
スパゲティを食べながらビールを飲むと、なんだかホッとする。こんなに夢中になって何か一つの事をするのは学生の時以来だ。改稿は麻薬的に楽しい。麻薬の味は知らないが、二食も忘れるなんて俺には考えられない。
俺、もしかして文章書くの結構好きなのかな。普段そんなに本を読むわけでもないし、これだってラブコメの真似事みたいに書いてる。脳味噌もまるっきり理系だし、この方面は全く向いてないとは思うが、好きなのと向いてるのは別次元の話だ。もしかしたら俺、割と書くの好きかもしれない。
そんな事を考えていたら、俄然書きたくなってきた、このラブコメもどきの続き。表に出すのは少し抵抗があるが、アイさんだけなら見せてもいいかなという気がする。彼女は言葉に裏表が無い、つまらなければつまらないと言ってくれるだろうし、具体的にどこが面白くないのか教えてくれそうだ。
俺はスパゲティを食べ終えると、実家から持って来た焼きうるめをビールのアテに、再びPCに向かった。
第23話 サラスヴァティ
二日後、俺はアイさんを川崎に呼び出した。もちろん鶴見川の花火を見るためだ。実は俺には特別なスポットがある。そこだと誰にも邪魔されずに花火を堪能できるのだ。
花火は夜なので夕方に会おうと呼び出したのだが、アイさんがお昼を一緒に食べたいと言い出したので昼間から会うことになった。なんだかまたデートのようになっている。最近多いな、この構図。
アイさんのお気に入りのお店があるというのでついて行ったら、またまた隠れ家的なところに連れ込まれた。この人、首都圏のあちこちにアジトを持ってるらしい。
梵字っぽい記号が並んだいかにも怪しげな看板のかかるお店のドアを開けると……中はもっと怪しい雰囲気が漂っている。
インド綿のカーテンに縁どられた窓、燭台のようなランプのような照明器具、アンティークと呼ばれるものとはちょっと違う感じの古めかしい椅子やテーブルなどの調度品、一目でガネーシャやラクシュミーと判るヒンドゥー神の真鍮製ペーパーウェイト。全てにおいて怪しい。とにかく怪しい。
「ここ、何屋さんですか?」
恐る恐る訊くと、アイさんは俺とは対称的にとても楽しげに笑う。
「インド料理のお店だよ。見たらわかるでしょ。ここのカレー、すっごく美味しいの」
「イラッシャイマセ」
うわぁ、店主、本物のインド人だ、凄い。席も少ししかなくて、テーブルも六つしかないところを見ると、完全家内制手工業ってやつか。
俺たちは案内された席に座り、「本日のおすすめ」という、何が出て来るかわからないものにチャレンジすることを告げ、やっと一息ついた。
さて、落ち着いてみると、今度はアイさんが気になる。今日の彼女は珍しく、いつものような長いがばっとしたワンピースではないのだ。ミニのワンピースにひざ下くらいのパンツを合わせている。足元はいつものサボだが、長いストンとしたワンピースしか見たことがないせいか、今日は別人のように感じる。とは言え、こうして座ってしまうと、もう下の方は見えなくなるのだが。
「結論から言うね」
水を一口飲むと、アイさんはいきなり切り出した。しかもあのアイさんが結論からスタートするなどとは、天変地異の前触れか?
「昨日のメール、貰ってすぐに読んだの。ラブコメっぽいって言ってたやつ」
「ああ、あれですか」
そう、俺は昨日、例のラブコメもどきを全部打ち終えて、メールに添付してアイさんに送ったのだ。
「あれは正真正銘のラブコメ」
「いいんですかね? ヒロイン、たぬきですよ?」
「ラブコメでいいと思う。愛する奥さんが化けたぬきだったと知って裏切られた感満載のところに、それでも彼を思う化けたぬきの一途な思いに、彼の気持ちが揺れ動いていく過程が書きたいんでしょ?」
「そうです」
「じゃ、ラブコメね」
ふーん、そんなもんなのか。じゃ、とりあえずこれはラブコメだ。
伝票を押さえているペーパーウェイトが気になるのか、アイさんは喋りながらもずっとその真鍮製のヒンドゥー神をいじくりまわしている。
「ねえ、この人、何か楽器っぽいの持ってる」
「人って……神様ですよ。サラスヴァティでしょう。日本で言うところの弁財天ですよ。持ってる楽器はヴィーナっていうインドの楽器です」
え? 俺何か変なこと言ったか? 何でそんな目で見る?
「凄いね、八雲君そんなこと知ってるの?」
「割と普通じゃないですか?」
「普通じゃないよ」
「そうですかね」
「何の話だっけ?」
……アイさんがサラスヴァティに話を逸らしたんだよね。
「結論から言うとこれはラブコメである、という話です」
「あ、そうだった。てへ」
って言うかそれだけかよ……と俺の顔に書いてあったのかどうかは定かではないが、アイさんがペーパーウェイトを元に戻して急に真面目な顔になる。
「八雲君、このお話、サイトに上げようよ」
「このって、どの?」
「八雲君のラブコメ、あとタイトル決めるだけじゃん。面白かったよ、すっごいキュンキュンした。この主人公たちの気持ちがすれ違っていくたびに『違うよー、そういう意味じゃないんだよー』って教えてあげたくなる感じとか、『そこで一言、愛を囁くんだ!』とか、悶絶じれじれしたよ。これ、絶対ウケるよ。藤森八雲の名前で出そうよ!」
「読者つかないんじゃないですか?」
ちょっと投げ気味に言うと、アイさんはテーブルに肘をついて身を乗り出してきた。
「つくよっ。文体は軽めで読みやすいし、同じ年齢層の子たちなら自分に投影して読めるもん。女性ファンが絶対つく! ねっ、これ、アップしよう」
なんか逆らえないようなパワーというかオーラというか、そんなもんがあるんだが。
「あー。じゃあ、もう少し練ってから……今のままじゃほんとラフスケッチ状態ですから。アイさんだから見せたんですよ、他の人にこんなもん見られたら、本当に東京湾に身投げしますよ、原稿と一緒に」
って言ったらさ、何をどう勘違いしたのか、それはそれは嬉しそうににっこり笑ってこう言ったんだ。
「あたしだけに見せてくれたんだね。あたしは特別だもんね、八雲君」
なんか違う。って言うかそういう意味じゃない。いや、まあ、特別だけど、アイさんの言う『特別』とは多分意味が違う。
と思っていたら、『本日のおすすめ』という名の何種類かのカレーと黒米ごはんとナンが運ばれてきたので、この話は一旦中断となった。