第16話 萬代橋

 それから俺たちは他愛のないお喋りをしながら昼食を食べ終え、ドリンクバーのコーヒーを飲みながら、アイさんが俺の二話目を読んだわけなんだが……とにかくいちいち文句が入る。もっと舞を可愛く描いて欲しいらしいのだ。

「なんであたしはこんなに伊織君を王子様に書いてるのに、八雲君は舞を可愛く書いてくれないのっ?」
「可愛く書く必要が無いからですよ」
「じゃあ、伊織君もカッコ良く書いてあげないもん」
「それじゃ恋愛小説にならないじゃないですか」
「じゃあ舞も可愛く書いてよ」
「あのねえ、アイさん……」

 俺は推定七杯目のコーヒーを口に流し込んで言葉を継ぐ。

「アイさんが書きたいのは自伝なんですか? 小説なんですか?」
「小説」
「舞は確かにアイさんがモデルです。でもアイさんじゃなくて、あくまでも舞です。舞というキャラが伊織というキャラに一目惚れしたのであって、アイさんが私に一目惚れした話じゃありません」
「むうー」

 またもやわかりやすくふくれながら、無駄にオレンジジュースの氷をカランコロンとかき混ぜている。

「でも素のままのあたしと八雲君じゃん」
「素のままなんだから盛らなくてもいいでしょう?」
「でもあたしは伊織君盛ってるよ?」
「そっちは当然じゃないですか、恋する乙女なんですから」
「むー。八雲君の頑固者!」

 はい? どうしてそういう発想行く?

「もう八雲君なんて嫌い。コラボやめる」

 ハイハイまたですか。

「わかりました、やめましょう」
「何を?」
「コラボです」
「なんで?」

 そんな全身で焦りを表現しなくていいから。

「私は恋愛小説を女性視点と男性視点で書きたいというアイさんの話に乗っただけです。男性視点もアイさんの思い通りにしたいのなら、アイさんが両方の視点で書けばいい。私が書く必要はないですよ」
「え……」
「無駄な時間を随分と使いましたけど、結構楽しかったですよ」

 俺が原稿を片付け始めると、アイさんはあからさまにオドオドし始めた。まあ、昨日と同じパターンだ。

「用は済んじゃいましたね。これからどうします? その辺ブラブラします? 東京と大して変わりませんけど」
「えー、あの……」
「萬代橋《ばんだいばし》、見たことないでしょう? ただの橋ですけど、アーチの美しい橋ですよ」

 俺はさっさと原稿をカバンに片づけて、グラスに少し残っているコーヒーを一遍に流し込んだ。

「行きましょう」
「にゃ……」

 あれ? 想定外。いつものアイさんならここで「ちょっと待ってよー」と言う筈だ。しかし今のアイさんは急いで自分の荷物をまとめてる。全くの無抵抗のままお店を出てしまったのでちょっと計算が狂ってしまったんだが、まぁ、四時間も居座ってあーでもないこーでもないとやっていたんだからいい加減出ろよって感じでもある。

「新潟、大っきい通りがあるんだね」
「駅前だけですよ。ここから万代シティを通って、古町の辺りまでが中心街ですから」
「八雲君の育った街かぁ」

 隣を歩くアイさんが、キョロキョロと物珍しそうにあちこち眺めている。そんなに珍しいものがあるとは思えないが。

「そういえばアイさん、群馬のどこですか?」
「月夜野」
「月夜野ってどの辺ですか?」
「上毛高原。知ってる?」
「上越新幹線にその名前の駅ありますよね?」
「うん、駅の近くなの。新幹線と利根川と関越自動車道が三本並走しててね、新幹線と利根川に挟まれてる辺り。駅まで歩いて十分くらいなんだよ」

 パタパタとアイさんの足音が耳に心地いい。今日もストンとしたラインの綿のワンピースにサボを履いている。今日のワンピースはグレイッシュピンクだ。だが、形はこの前とほぼ同じで、胸元に二つ三つ木のボタンが付いている。背中にはモスグリーンのリュック、どれもナチュラルテイストだ。
 そういえばこの人、化粧っ気無いな。ナチュラルメイクって奴だろうか? すっぴんかもしれない。でも肌は綺麗だな。ほんとに三十代なのか? ほんとに俺より八つも年上なのか?

「スキー上手なんでしょうね」
「うん、得意だよ。冬場は友達の家に行くのにミニスキーで行ってたもん。周りは
スキー場だらけだし。八雲君も新潟は雪降るでしょ?」
「新潟市内は平野部なんで、そんなに積もるほど降りませんよ。それに私はスキーはやったことがないんですよ」
「え、そうなの?」

 そんなに驚きに満ちた顔しなくてもいいだろうに。

「変ですか?」
「新潟の人ってみんなスキー出来ると思ってた」
「みんなに同じこと言われますよ」

 アイさんが「あっ」と言って左の方を指さした。俺は突然自分の顔の前に出てきた彼女の腕に驚いて、思わずのけぞる。

「ねえ、あのカラフルな塔って何? 展望台っぽいヤツ」
「ああ、あれはレインボータワーですよ。展望席がクルクル回りながら上下するん
です。新潟市が一望できますよ。天気が良ければ佐渡も見えます」
「乗りたい!」

 アイさんが俺の腕にしがみつく。ただでさえコンニャクが重いんだ、絡まないで欲しい……。

「もう運転してないんですよ。私も子供の頃はよく乗ったんですけど」
「そっか、残念だにゃ」
「見えてきましたよ、萬代橋」
「おおー、あれが萬代橋にゃー」

 言うや否や、歩きながらリュックを下し、中からカメラを出して来る。俺はカメラの事はさっぱりわからないが、何やらゴージャスっぽいカメラだ。彼女はそれを首から下げると、再びリュックを背負ってカメラを構えて歩き出した。

「そういえばアイさん、写真が趣味だったんですよね」
「うん。八雲君は絵、描くんでしょ?」
「描くってほどのものは描きませんよ」
「ねえねえ、あの街灯、素敵」

 写真を撮りながら歩いてるよ……前見て歩けよ、危ないな。
 前方から自転車が来たんで、アイさんの腕を摑んで俺の方にグッと引き寄せる。彼女がよろけて俺の方に倒れて来たんで、両手で彼女の肩を抱きとめたら、キョトンとした顔で俺の顔を見上げてこう言った。

「ここでキスはさすがにマズいと思う」

 違うからっ!

「アイさん、前見て歩いてくださいよ、危ないですよ」

 俺が手を離して注意すると、彼女は不服そうに口を尖らせるんだよ。

「あたしは別にここでもいいけど、八雲君の地元だから一応気を遣ってあげたんだよ」
「そうじゃないから。キスしませんから」
「そんなに固辞しなくたっていいのに」
「しますよっ!」
「くふっ。照れ屋さん」

 この人の思い込みは、ある意味凄い。

「橋の写真を撮るなら川沿いの方がいいですよ。こっち」

 アイさんを遊歩道の方に連れていくと、水を得た魚のように大喜びで、何枚もシャッターを切っている。

「凄ーい、素敵! この橋、アーチが綺麗」

 俺は見慣れているせいかそんなに感動したことは無いが、そう言われてちゃんと見ると確かに美しい橋だ。この美しさに気づかないまま二十二年もこの地で生きて来たんだな。
 と、その時「おい、哲也」と俺を呼ぶ声が聞こえたのだ。
 ハッと振り返ると……親父! が、車の窓を開けて呼んでいる。

「お前こんなとこで何やってんだ? 乗ってくか?」
「あ、いや、その」
「どうしたのー?」
「あ、アイさん」

 うう~、今ここで顔を出すな!

「なんだ彼女と一緒か」
「いや、彼女じゃないっ!」

 俺が慌てているとアイさんがトコトコと歩いて来て、百万ドルの笑顔で割り込んだ。

「初めましてー、榊アイです。八雲君のお父様ですかぁ?」
「ヤクモ?」

 あああ、なんちゅうややこしい事を!

「ちょっと、あの、ヤクモってのは俺のあだ名で、そう呼ばれてるだけだよ。あ
あ、ええと、この人は榊アイさんて言って彼女じゃない、あのえーと」
「文芸サークルの仲間なんです。ね、八雲君?」
「そ、そう、文芸サークル」
「へー、お前そんなもんに入ってたのか」
「あたしのエッセイの批評して貰ったりしてるんですよ」

 余計なこと言うな。うちの親父は読書好きなんだ。

「ほー、アイちゃんのエッセイ、おじさんも読みてぇなぁ」
「ほんとですかぁ?」

 ダメダメダメ、これ以上話すな。

「アイちゃん、あとで家までコイツに送らせるから、ちょっと飲まねえか?」

 あー、出た。親父のヤツ、お猪口をクイッと空ける仕草をしてやがる。しかもアイさんは伏見という地名から酒しか連想できない人だ。

「うち、群馬なんですよ。今日は駅前のビジネスホテルに泊まるつもりだったんで、ホテルまでならタクシーで行けちゃうから大丈夫です」

 何? 泊りがけのつもりだったのか?

「そりゃいいや。今日はうちに泊って行けや。明日コイツにゆっくり新潟を案内させて、エッセイのネタにすりゃいいこて」
「おい、親父!」

 いくら俺でもこれはNGだ。

「ありがとうございます、お言葉に甘えますね!」

 え、マジかよ、なんで親父と意気投合してんだよ!

「よし、じゃあ後ろに乗りな。ホレ、哲也。気の利かねえ奴だな、ドア開けてやれ」

 だからっ。何故こうなるんだ!