シキは出かける前に抱きしめた時に、
 肩が震えていた。
 オレはそれが心配だった


「つー訳でついて来たわけだ」


 考えても無駄なことはある。
 信じて見送った結果として手遅れなんて寝覚めが悪ぃ。

 シキには一宿一飯の恩義もあるしな。
 まぁ、それに可愛いからな。


「それにしても電車っつー乗り物。狭っ苦しいなぁ、地獄かよ」


 オレがいま使っている魔法は、
 [[rb:不可視化 > インビシブル]]、隠密魔法だ。

 体を透明にする魔法じゃぁない、
 あらゆる存在からオレを認識できなくする魔法だ。

 誰にも認識できないだけで存在はしているし、
 オレの側から相手に触れることも可能だ。


「それにしてもシキ、目が死んでいるな。大丈夫か?」


 誰にも聞こえないような小声でブツブツと呟いている。
 まぁ、オレの地獄耳をもってすればバッチリ聞こえるんだが。


「”えっ……マジで? ウソっ……恥ずかしい……”……私のあの時のリアクションは大袈裟だったかな、うまく普通っぽいリアクションが取れたかな……顔の表情は自然だったかな」


 おいおい、気にし過ぎだっつーの。
 変なのはオレの方だ。

 オレなんてコスプレホームレスヒモ自宅警備員の無職だぞ?
 シキ、んな小さなこと気にすんなよ。


「"なかなか強気なヒモね"……"無職やめてお店開いたら"……冗談のつもりで言ったのだけど、ハルトくんの事を傷つけてしまったのではないか、言い過ぎたのではないか……なんで私はいつも失敗をするのだろう」


 朝の楽しいやり取りの事まで気にしてんのか。
 うーん。あいつは、ちょい真面目すぎる。

 オレは、1ミリもそんなこと気にしてねーよ。
 本人が言うんだから間違いねぇ。

 いい子過ぎるのが逆に心配だぜ。
 少しはオレの雑さをおすそ分けしてやりてー位だぜ。

 なんっつーか、ひな鳥を見守る親の心境が分かってきたぜ。


「――っやめっ」


 クソみたいな顔をしたジジイが
 シキの股間のあたりをまさぐってやがった。

 あんだぁ、あのクソジジイ。
 ――殺すか。

 ……世界へ、過度な干渉をすると、
 この世界の神とかいう存在から排除されるとかいう、
 七面倒臭えルールがあるんだったな。クソが。

 なら、少しだけのお仕置きで我慢してやるよ。


「まずはこの狭い車内で絶叫されても面倒だ。[[rb:沈黙 > サイレス]]」


 オレはシキの股間を触っているクソ野郎の両腕を掴み、
 前腕の骨をゆっくりと握り潰し粉砕した。

 クソみたいな汚ねぇジジイが脂汗を流しながら、
 悶絶しているが、[[rb:沈黙 > サイレス]]のせいで叫ぶ事もできない。
 手癖の悪い手にはお仕置きが必要だ。

 魔力適正のないこの世界の人間には、
 基礎的な魔法、[[rb:不可視化 > インビシブル]]だけで、
 両腕をへし折られてすらオレを認識できないのか。


 骨は皮から突き出たりはしないようにしているから、
 大騒ぎになることもない。
 恐らく、他の奴らには腹痛だとでも思われているんだろう。

 握った部分が紫にうっ血するのは目立つので、
 表皮と毛細血管のみヒール《治癒》で再生した。


 60過ぎたオッサンが漏らしながら、
 満員電車の中をゴロゴロと転がっている。

 本来は絶叫をあげているはずなのだが、
 [[rb:沈黙 > サイレス]]のせいで、
 声を出すことができない。


「ちんこ握りつぶさなかっただけ感謝しろ」


 車内は、泣きながら漏らしたオッサンが、
 ゴロゴロと転がって阿鼻叫喚の地獄絵図――

 と、言いたいところだが、現実は違う。
 意外な事に乗客達は平静を保っている。


 というか、転がるジジイに視点をあわせない。
 まるで存在していないかのように扱う。

 この車両の乗客はこういった光景には慣れてるみたいだ。
 床を転がるローリングおっさんをチラリと見た後は、
 面倒くさそうな顔であとは、見なくなった。

 ジジイの近くの吊り皮を握っていた乗客は、
 2、3歩分だけ距離を置き自分に被害の及ばない位置に移動、
 あとは再びスマホに目を落とすだけだ。


「……なんだか、な。これはこれで、異様な光景ではあるぜ」


 正直、もう少し何らかのパニックがあるのではと思った。
 実際は違った。この満員電車の中の乗客は、
 目の前の異常な出来事に関わらないようにしているようだ。


「そういや、シキはどうなった」


 シキは吊り革を握りながらスマホを見ているな。
 でも、怖かったんだろうな足が震えている。


「可哀想に。今後は、痴漢野郎は未然にへし折る事にしよう」


 まっ、勘違いだったらオレが完全に悪人だ。
 ある程度確証を経た段階でしかボコるつもりはねーけどよ。

 それにしてもこの狭っ苦しい満員電車といい、
 この電車の中の乗客といい、最悪だ。

 この狭い空間に充満しているのは、
 殺意、憎悪、虚無、抑圧、絶望。

 戦争に行くわけでも死地に赴く訳でもないだろうに、
 コイツらが発している気配はそれらと酷似していやがる。


「あー。オレも満員電車のせいかちょい、イラついちまっている。いかんぜ」


 この満員電車というのは知らず、
 人にストレスを与えるような物らしい。

 今のオレは"オープンステータスウィンドウ"が使えない。
 自分のパラメーターを確認できないから、
 自分の精神状態や体調は感覚で把握しないといけないのだ。


「当たり前のように使えていた物が使えないとは、面倒くせぇもんだな」


 漏らしながら床をゴロゴロ転がっているローリングオッサンは
 駅員さんに担架に担がれて停車駅で降りて行った。


「自業自得だ。良い歳したジジイがガキを怯えさせていんじゃねぇよ」


 それにしてもこの電車という乗り物手持ち無沙汰になるな。
 次回乗車する時は、シキの持っている本でも持っていくかな。


「おっと、シキはここで降りるのか」


 オレは、シキが恐れる会社という場所に向かうために、
 シキのあとをつけるのであった。