ギルディアの街から、木々が森の如く鬱蒼と茂るポルデン山までは、そう遠くない。
だからといって、人がそうそう立ち寄る山というわけでもない。
ここは魔物が生息していない代わりに土地柄の都合で草木の生える数も少なく、しかも滝が多い上に勾配が激しく、転落死や滝壺に呑まれる被害に遭う者が必ず毎年出てくる、所謂危険地帯である。来るとすれば山籠もりでもする変人か、何かを隠しに来る罪人くらいだ。
しかし、月が陰り、闇を齎すこの夜は違った。
「わざわざ道標まで用意するなんて、お兄ちゃん、何を企んでるのかなー?」
けらけらと笑いながら、山道を凄まじい速度で駆け抜けていく二つの影。
忍者のリヴォルと彼女の武器、人形のレヴォルが、黒い衣服をはためかせて疾走していた。
彼女達とて、意味もなく山を登っているわけではない。先程から目に入る木や岩、獣の死骸などにフォンが残したらしい、忍者にしか分からない標が点在しているのだ。
五色米をはじめとして、苦無の傷痕、わざとらしく抉られた地面、折った枝で作られた印章。一般人が見ればおかしな置物程度にしか認識されないそれらは、間違いなくリヴォル達を、どこかへと導く道標である。
どう見てもフォンが用意した罠への案内状で、普通に考えれば飛び込むなど有り得ない。彼だけが目当てであれば、リヴォルは引き続き、本来予定していた区域でフォンを待ち続けていればいいのだから。
それでも彼女がポルデン山を駆けるのは、偏にフォンが用意した罠への好奇心だった。
「仲間が死んで本気になってくれたのか、それとも作戦があるのか……どっちにしても、お兄ちゃんの方から遊びに誘ってくれたんだもん! 行かない理由はないよね、レヴォル!」
彼女にとって、戦いと拷問は楽しい児戯だ。以上でも以下でもないし、遊びであるなら参加しないわけがない。特に今回は、ずっと恋焦がれたフォンからのお誘いなのだ。
一日ですっかり修復されたレヴォルはというと、問いかけに答えない。人形だから当然なのだが、リヴォルは彼女がまるで生きているかのように語り掛け、一人で笑っている。
狂った二人組はどんどん山の奥へと走ってゆく。ただでさえ薄暗い山は月が隠れているせいで、一層辺りが見え辛くなっているが、リヴォルの目にははっきりと五色米と刃物の痕が見えている。その感覚は狭くなり、目的地が近づいてくる。
そしてとうとう、彼女は木々の隙間から飛び出し、とある場所に着地した。
「よっと!」
リヴォルがやってきたのは、人為的に切り開かれた土地だった。
十歩ほど離れたところにある滝口から落ちてゆく激しい水の音以外は何も聞こえない世界。リヴォルの足元は乾いた土だが、彼女から見て少し奥は岩場となっており、勢いの強い川が流れている。辺りを囲むように木は伐採されたさまは、まるで庭のようである。
大きな音を奏で続ける滝壺を見なくても、リヴォルにはどれだけの落差があるかが把握できる。よほどの間抜けをしなければ落ちないだろうが、もしも落下しようものなら、並の人間であれば先ず命はないだろう。
結論から言うなれば、誰かが趣味で開拓した地域にすぎないと言っていいだろう。滝の音を聞きながらテントでも張り、のんびりと俗世から離れたい人が来るところだ。
「……何にもないなあ。罠の匂いもしないし」
自分がここに来ても罠の作動は探知できないし、そもそも罠の気配もない。地面や川、木々を観察してみても、細工の跡が見つからない。
ここに何かが仕組まれているのなら、フォンは予想している以上のやり手だろう。
「でも、誰かいるね。少なくとも三人、ってことは……そっか、そっか!」
ついでに言うなら、リヴォルはフォンには気づいていないが、それ以外の気配は感知できているのだ。だからここから離れないし、余裕綽々の態度なのだ。
「お兄ちゃん、仲間が死んだなんてのは嘘だよね! 嘘ついてまで私とレヴォルを連れてきたいなんて、もう、私が好きなら最初からそう言ってよーっ!」
どこをどうすればこんな結論に至るのかは、まともな思考では到底理解できないだろうが、リヴォルにとっては己の結論だけが世界の道理だ。つまり、フォンがわざわざここにリヴォルを呼び出したのは、彼女に気があるからだと思っているのだ。
そう思えば、尚のこと彼を連れて行かずにはいられない。
「隠れてるのは今朝の三人だよね? 安心してね、ハンゾーの目的を果たして、お兄ちゃんを本物にする為に……今度こそ絶対に逃がさないから、絶対に……」
闇の中へと一歩、また一歩、足を踏み入れてゆく。
楽しいイベントが待っているようなうきうきの気分で、歯の見えた頬から涎が垂れるほどの笑顔を伴いながら、リヴォルはとうとう広場の真ん中までやってきた。
「……ほら、早く始めようよ! 私、もう待ちきれない――」
彼女が嬉々として喚かずとも、戦いの火蓋は切って落とされた。
ここに仕掛けられているのであろう罠への警戒も喜びに掻き消された今、リヴォルは自分の足元が少し、ほんのちょっぴり緩んだのに勘付くのが、いつもより刹那くらい遅れた。
途端に、彼女の真下が大きく窪んだかと思うと、代わりに鋭く尖った木材がせり出してきた。先端がべっとりと輝くほど紫色の液体が塗りたくられた十本以上のそれは、即席の槍としてリヴォルを貫通するべく射出された。
「おっと!」
スライムの如く槍の先端を覆う液体が猛毒であると、忍者が見れば一目で察せる。レヴォルの手を器用に使って、妹の肩に乗っかる姉は、触れれば瞬きをする間に体の自由を奪う類の毒だろうとたちまち気づいた。
「これくらいの罠なんて引っかからないよーっ!」
挑発するかのように嗤うリヴォルだが、この罠は切欠に過ぎない。
飛び出た槍のうち一本に、鋼の糸が巻き付けられているのをリヴォルは見た。月が少しばかり顔を出し、彼女達を照らしていなければ気付けないほどの細さの糸。おまけに黒く塗り潰されていて、常人ならばまず見えない。
リヴォルには、この糸が何を意図していて、次に何を引き起こすのかも読める。
「罠の連鎖、広場自体が……!」
読めはするが、糸に引っ張られて引き絞られた木の枝が折れ、その反動で木製の杭が飛んでくるのは想定外だった。魔法の火球よりもずっと早く飛来するそれをリヴォルはかわせたが、レヴォルのコートは破けてしまう。
「よっと!」
こればかりは避けきれない。リヴォルは妹を引き寄せると、両手の袖から長い刃を引き出し、襲い掛かるナイフを全て叩き落した。
「お兄ちゃん、凄いね! こんな短い時間の間に、これだけの罠を仕掛けるなんて!」
四方八方から、杭やナイフが飛んでくる。楽しみながら刃で弾き、人形を盾にする。
手足が見えないほどの防御を続けていれば、この先発条の要領で飛び続ける投擲兵器が尽きるまでは対処しきれるだろう。だが、あくまで彼女を留める目的でしかない。
何本もの杭を叩き落とすリヴォルの頭には、既に狙いが定められていた。
木々の狭間、広場から離れた木の葉の山。そこに埋もれた両手と、番えた矢。
緑色で体中を覆ったクロエが、遠くの敵を見据えていた。森の住人であるかの如くリヴォルを睨む彼女は、静かに弦を引き、そして。
「――いくよ」
白銀に煌めく矢を、放った。
空気を切り裂く矢の速度は、通常、目視では捉えきれない。
見えると豪語する冒険者や騎士もいるが、見えているだけだ。視界の外からの攻撃となると、最早どうしようもない。相手が未熟な弓矢使いであるのを祈るだけが救いの術だが、今回は長年弓を獲物として愛用し続けてきたクロエの一撃だ。
遥か遠くを泳ぐ魚の目すら射抜く、必中の矢だ。
――ただし、あくまで凡人が相手ならば、の話なのだが。
「――ほい、っと」
ナイフをいなすリヴォルの目が、ぎょろりと矢を睨んだ。そして、子供の投げた石をキャッチするよりもずっと簡単であると言わんばかりに、それを掴んでしまった。
だからといって、人がそうそう立ち寄る山というわけでもない。
ここは魔物が生息していない代わりに土地柄の都合で草木の生える数も少なく、しかも滝が多い上に勾配が激しく、転落死や滝壺に呑まれる被害に遭う者が必ず毎年出てくる、所謂危険地帯である。来るとすれば山籠もりでもする変人か、何かを隠しに来る罪人くらいだ。
しかし、月が陰り、闇を齎すこの夜は違った。
「わざわざ道標まで用意するなんて、お兄ちゃん、何を企んでるのかなー?」
けらけらと笑いながら、山道を凄まじい速度で駆け抜けていく二つの影。
忍者のリヴォルと彼女の武器、人形のレヴォルが、黒い衣服をはためかせて疾走していた。
彼女達とて、意味もなく山を登っているわけではない。先程から目に入る木や岩、獣の死骸などにフォンが残したらしい、忍者にしか分からない標が点在しているのだ。
五色米をはじめとして、苦無の傷痕、わざとらしく抉られた地面、折った枝で作られた印章。一般人が見ればおかしな置物程度にしか認識されないそれらは、間違いなくリヴォル達を、どこかへと導く道標である。
どう見てもフォンが用意した罠への案内状で、普通に考えれば飛び込むなど有り得ない。彼だけが目当てであれば、リヴォルは引き続き、本来予定していた区域でフォンを待ち続けていればいいのだから。
それでも彼女がポルデン山を駆けるのは、偏にフォンが用意した罠への好奇心だった。
「仲間が死んで本気になってくれたのか、それとも作戦があるのか……どっちにしても、お兄ちゃんの方から遊びに誘ってくれたんだもん! 行かない理由はないよね、レヴォル!」
彼女にとって、戦いと拷問は楽しい児戯だ。以上でも以下でもないし、遊びであるなら参加しないわけがない。特に今回は、ずっと恋焦がれたフォンからのお誘いなのだ。
一日ですっかり修復されたレヴォルはというと、問いかけに答えない。人形だから当然なのだが、リヴォルは彼女がまるで生きているかのように語り掛け、一人で笑っている。
狂った二人組はどんどん山の奥へと走ってゆく。ただでさえ薄暗い山は月が隠れているせいで、一層辺りが見え辛くなっているが、リヴォルの目にははっきりと五色米と刃物の痕が見えている。その感覚は狭くなり、目的地が近づいてくる。
そしてとうとう、彼女は木々の隙間から飛び出し、とある場所に着地した。
「よっと!」
リヴォルがやってきたのは、人為的に切り開かれた土地だった。
十歩ほど離れたところにある滝口から落ちてゆく激しい水の音以外は何も聞こえない世界。リヴォルの足元は乾いた土だが、彼女から見て少し奥は岩場となっており、勢いの強い川が流れている。辺りを囲むように木は伐採されたさまは、まるで庭のようである。
大きな音を奏で続ける滝壺を見なくても、リヴォルにはどれだけの落差があるかが把握できる。よほどの間抜けをしなければ落ちないだろうが、もしも落下しようものなら、並の人間であれば先ず命はないだろう。
結論から言うなれば、誰かが趣味で開拓した地域にすぎないと言っていいだろう。滝の音を聞きながらテントでも張り、のんびりと俗世から離れたい人が来るところだ。
「……何にもないなあ。罠の匂いもしないし」
自分がここに来ても罠の作動は探知できないし、そもそも罠の気配もない。地面や川、木々を観察してみても、細工の跡が見つからない。
ここに何かが仕組まれているのなら、フォンは予想している以上のやり手だろう。
「でも、誰かいるね。少なくとも三人、ってことは……そっか、そっか!」
ついでに言うなら、リヴォルはフォンには気づいていないが、それ以外の気配は感知できているのだ。だからここから離れないし、余裕綽々の態度なのだ。
「お兄ちゃん、仲間が死んだなんてのは嘘だよね! 嘘ついてまで私とレヴォルを連れてきたいなんて、もう、私が好きなら最初からそう言ってよーっ!」
どこをどうすればこんな結論に至るのかは、まともな思考では到底理解できないだろうが、リヴォルにとっては己の結論だけが世界の道理だ。つまり、フォンがわざわざここにリヴォルを呼び出したのは、彼女に気があるからだと思っているのだ。
そう思えば、尚のこと彼を連れて行かずにはいられない。
「隠れてるのは今朝の三人だよね? 安心してね、ハンゾーの目的を果たして、お兄ちゃんを本物にする為に……今度こそ絶対に逃がさないから、絶対に……」
闇の中へと一歩、また一歩、足を踏み入れてゆく。
楽しいイベントが待っているようなうきうきの気分で、歯の見えた頬から涎が垂れるほどの笑顔を伴いながら、リヴォルはとうとう広場の真ん中までやってきた。
「……ほら、早く始めようよ! 私、もう待ちきれない――」
彼女が嬉々として喚かずとも、戦いの火蓋は切って落とされた。
ここに仕掛けられているのであろう罠への警戒も喜びに掻き消された今、リヴォルは自分の足元が少し、ほんのちょっぴり緩んだのに勘付くのが、いつもより刹那くらい遅れた。
途端に、彼女の真下が大きく窪んだかと思うと、代わりに鋭く尖った木材がせり出してきた。先端がべっとりと輝くほど紫色の液体が塗りたくられた十本以上のそれは、即席の槍としてリヴォルを貫通するべく射出された。
「おっと!」
スライムの如く槍の先端を覆う液体が猛毒であると、忍者が見れば一目で察せる。レヴォルの手を器用に使って、妹の肩に乗っかる姉は、触れれば瞬きをする間に体の自由を奪う類の毒だろうとたちまち気づいた。
「これくらいの罠なんて引っかからないよーっ!」
挑発するかのように嗤うリヴォルだが、この罠は切欠に過ぎない。
飛び出た槍のうち一本に、鋼の糸が巻き付けられているのをリヴォルは見た。月が少しばかり顔を出し、彼女達を照らしていなければ気付けないほどの細さの糸。おまけに黒く塗り潰されていて、常人ならばまず見えない。
リヴォルには、この糸が何を意図していて、次に何を引き起こすのかも読める。
「罠の連鎖、広場自体が……!」
読めはするが、糸に引っ張られて引き絞られた木の枝が折れ、その反動で木製の杭が飛んでくるのは想定外だった。魔法の火球よりもずっと早く飛来するそれをリヴォルはかわせたが、レヴォルのコートは破けてしまう。
「よっと!」
こればかりは避けきれない。リヴォルは妹を引き寄せると、両手の袖から長い刃を引き出し、襲い掛かるナイフを全て叩き落した。
「お兄ちゃん、凄いね! こんな短い時間の間に、これだけの罠を仕掛けるなんて!」
四方八方から、杭やナイフが飛んでくる。楽しみながら刃で弾き、人形を盾にする。
手足が見えないほどの防御を続けていれば、この先発条の要領で飛び続ける投擲兵器が尽きるまでは対処しきれるだろう。だが、あくまで彼女を留める目的でしかない。
何本もの杭を叩き落とすリヴォルの頭には、既に狙いが定められていた。
木々の狭間、広場から離れた木の葉の山。そこに埋もれた両手と、番えた矢。
緑色で体中を覆ったクロエが、遠くの敵を見据えていた。森の住人であるかの如くリヴォルを睨む彼女は、静かに弦を引き、そして。
「――いくよ」
白銀に煌めく矢を、放った。
空気を切り裂く矢の速度は、通常、目視では捉えきれない。
見えると豪語する冒険者や騎士もいるが、見えているだけだ。視界の外からの攻撃となると、最早どうしようもない。相手が未熟な弓矢使いであるのを祈るだけが救いの術だが、今回は長年弓を獲物として愛用し続けてきたクロエの一撃だ。
遥か遠くを泳ぐ魚の目すら射抜く、必中の矢だ。
――ただし、あくまで凡人が相手ならば、の話なのだが。
「――ほい、っと」
ナイフをいなすリヴォルの目が、ぎょろりと矢を睨んだ。そして、子供の投げた石をキャッチするよりもずっと簡単であると言わんばかりに、それを掴んでしまった。