――どれくらい、時間が経っただろうか。
ぼんやりとした思考が、微かに戻ってきた。
生きているのか、死んでいるのか。暗い世界の中で、最初に浮かんだ疑問はそれだった。
少しずつ復活する脳の機能に伴い、四肢の存在が伝わってくる。掌に当たる柔らかい何かの感触、静かに目を開いた先にある見慣れない天井が、カレンが生きていて、仰向けになってどこかに寝かされているという証明となった。
獣の姿には戻っていない。人間の格好のまま寝かされていると気づけたのは、自身のみを纏っているのが軽い衣服と肌で、毛並みではないと感じ取れたからだ。
一つ目の疑問は解消された。ならば二つ目の疑問――どうしてここにいるかを解かねば。
確か、カレンはクロエ、サーシャと共にクラーク達を追っていた。彼らが今回の事件に大きくかかわっているところまでは問い詰められたが、クロエが奇襲を受け、斃れた。サーシャと自分で応戦したが、あまりに強い敵に手も足も出ず、敗れた。
事件の主犯である忍者のリヴォルの目的である拉致と拷問から仲間を守るべく、最も守らなければならない者を敢えて呼び出す、派手な忍術を狼煙に用いた。
誰を呼ぶ為か。
確か、己に道を説いてくれた、忍術の師――。
「――師匠おぉッ!」
フォンだ。
自分達にとって、カレンにとって最も価値のある恩師、フォンを呼ぶ為に放ったのだ。
結果はどうなったのか。自分は無事だとしても、クロエ達は、何よりフォンはどうなったのか。炸裂しそうな心臓を抑えて跳ね起きたカレンだったが、全身に激痛が奔った。
「おっ、ぐぐぅ……!」
背骨を直に締め付けられるような痛みに、思わず彼女は悶えた。雷を流されたのかと錯覚する激痛の中で、カレンは自分が上半身の衣服を脱がされ、胸元と背中にかけて包帯をぐるぐる巻きにされているのと、顔や腕にガーゼを貼りつけられているのに気付いた。
スカートはそのままだが、足にも包帯は巻かれている。彼女が獣ではなく人間の姿を保てているということは、体力は相応に回復している証だが、飛び出た青い尻尾が完治はしていない証拠でもある。
色々と負傷はしているが、とにかく自分は生きている。紛れもない事実に僅かだが安堵しつつ、まだ背中の痛みをじくじくと生の実感としていると、左側から声が聞こえてきた。
「……寝ていた方がいい。まだ怪我は治ってないから」
顔だけを振り向かせると、そこには背中を向けて床に座っているフォンがいた。
ここでようやく、カレンは自分が、新しい宿の借りた部屋にいるのだと把握できた。
爆風で吹き飛ばされた部屋よりもやや小綺麗で、寝ているのは二人が泊まる部屋のベッド。二部屋しか取れなかったので、隣はクロエとサーシャの部屋が共同で使う部屋だ。ついでに窓から差し込む光はまだ明るく、昼間だと分かる。
段々とカレンの疑問が解けていく。陽の光が溜まる部屋で、フォンは話を続ける。
「傷が酷かったけど、忍者の秘薬を背中に塗っておいた。マツクリソウとゲキトリカブト、トゲアロエを調合した薬だ。暫くひりつくけど、傷は半日で塞がる」
「……かたじけない、で、ござる」
「謝るのは僕の方だ。君達がいなくなったのに、リヴォルに襲われたのに気付けなかった」
「どうして、あの女の仕業と……?」
「君達三人を纏めて倒せるのと、あんな傷痕を作れるのはリヴォルだけだ」
「君達……クロエとサーシャ、二人はどうなったでござるか!?」
「隣の部屋で寝てるよ。かなりの怪我だったけど秘薬を塗って縫合して、隣の部屋に寝かせてある。アンジーが見張っててくれてるから、奇襲の心配はない」
「そうで、ござる、か……」
仲間達も無事だった。その事実だけで、カレンは安心してベッドで横になれた。
ところが、一つだけまだ気になることがあった。フォンの様子だ。
自分に対して過剰な評価をしているわけではないが、フォンは人以上に他人を心配する性格だ。駆け寄ったり、安堵したりといった反応をしてくれると予想していたし、怒っているなら怒っているで、説教の一つでもあるだろう。
しかし、今のフォンは違った。まるで何かの準備を執り行っているかのように、ずっと体で隠れたものを弄繰り回している。ただ黙々と、カレンを一瞥もしないままに。
「師匠、さっきから何を……?」
カレンが問うと、フォンはぴたりと手を止めた。
「……僕が甘かった」
「え……?」
「リヴォルの、彼女の蛮行に怒るだけだった。君達に僕を守らせるのも過ちだ。何より、まだ『止める』なんて考えで動こうとしていた。忍者にあるまじき、恥ずべき甘えだ」
「ど、どうしたのでござるか、師匠! 何を言って――」
真意を問い質そうとして、カレンは思わず息を呑んだ。
「――『殺さないと』いけない。あれだけは、絶対に殺さないと駄目だ」
ほんの少しだけ顔を見せたフォンの目は、どす黒く濁っていた。
クラークに埋められた時、貶められた時など比ではない。あらゆる要素がフォンであるのに、その瞳だけが、彼をフォンではない、別の何かへと昇華させていた。
理由は二つ。仲間を傷つけたリヴォルへの怒りと、それを遥かに上回る自分への怒りだ。つまり、無力さと不殺の掟に縛られてしまった我が身の間抜けさに対してだ。
何度も自分の甘さに苛立ってきたフォンだったが、今回ばかりは違った。誰も殺さないと決意した鉄の掟を破り、彼は今、リヴォルを絶対に討つ準備をしている。それがどれほど重く、恐るべき事実か、カレンは嫌でも思い知らされた。
「今夜、リヴォルをおびき出す。近くの山にキル・ボックスを作って、そこで始末する」
キル・ボックスとは、敵を仕留めるべく準備された三次元的領域である。簡単に言えば、罠や有利な状況を設定し、状況を有利に運ぶ為の空間だ。そしてその名の通り、大体の場合対象を殺める前提で作る。
やはり、フォンはリヴォルを殺す気だ。弟子としては、とても見過ごせない。
「で、でも、師匠は殺さずの誓いを立てているはずでござる」
「温い考えは、もう終わりだ。誰も殺さず守り抜くなんて夢物語だったんだ」
「師匠、そんな……!」
「とにかく、作戦は今夜決行する。カレン、君は他の二人と一緒にこの宿に――」
再び床に散らばった大小様々な武器や道具と睨み合いながら呟く彼だったが、カレンが体を起こして反論しようとするよりも早く、宿の扉が開いた。
「聞き捨てならない話ね、フォン。私を置いて、あの忍者を殺すなんて」
乱暴に扉を開けたのは、隣の部屋を監視しているはずのアンジェラだ。どうやらフォンの話を聞いて、割って入るべくやってきたようである。何故かなど、決まっている。
「アンジー……」
「本気になってくれるのは嬉しいけど、フォン、敵を討つべきは私よ」
リヴォルは家族の仇。そんな相手を別の誰かに殺させるなど許せるはずがない。
「反論は聞かないわ。戦いの地へ、連れて行ってちょうだい」
澱んだフォンの目が、アンジェラを見据えた。
彼女の紫色の瞳もまた、純粋な殺意に満ちていた。
フォンは、正直なところ、アンジェラの加勢を快く思っていないようだった。
今やこの戦いは、彼の中では彼自身の戦いとなっていた。仲間達を傷つけられ、過去の因縁を引きずる敵を、何としてでも滅さなければならない。いくらアンジェラと因縁のある相手だとしても、これ以上他者を巻き込むのには抵抗感がある。
何より、彼女の協力を許せば、フォンが怖れている事態が起きるのは明白だ。反面、その可能性を持ち出す者がこの場におらず、隣の部屋で寝ているのも、事実ではある。
「どうする、フォン? 首を横に振るなら、半殺しにしてでも同行させるわよ」
加えて、アンジェラを無視してこの部屋を出るのは、随分苦労しそうだ。
一度だけ目を閉じ、冷たい瞳で少しだけ睨みながら、彼は告げた。
「……僕の指示に従えるのなら」
「ふぅん。じゃあ、とどめは私がさしてもいいってことよね?」
「好きにしてくれ。けど、さっきも言った通りだ。作戦自体は僕が指揮する」
「交渉成立ね。私も細かい命令を下すなんてのは苦手だし、その辺りは任せるわ」
フォンの表情や態度など意に介せず、アンジェラはにっこりと歯を見せて笑った。
協力者が一人ならば、作戦を大幅に変更する必要はなくなる。とどめを任せればいいだけだと考え、三度作業に戻ろうとしたフォンだったが、予想した通り、カレンが口を開いた。
「では師匠、拙者もお供するでござる!」
「駄目だ」
何としてでも役に立つと言いたげに協力を申し出たカレンだったが、彼女の顔をじっと睨むフォンに射竦められたうえにぴしゃりと断られ、思わず委縮してしまった。
「だ、だけど、拙者は師匠の弟子でござる! 師匠の危機には、必ず……」
「自分の体を見て言ってるのか? 傷だらけで起きるのにも背中が痛む、そんな奴に何ができる? 君の為すべきことは一つ、僕がリヴォルを殺し終えるまで、ここでじっとしていることだ。それ以外は、何もしないでくれ」
「奴は言っていたでござる、師匠だけでなく仲間も狙えと言われていると! 拙者達が殺されない保証がない今は、皆が運命共同体でござるよ!」
「僕が表に出れば、リヴォルは僕だけに標的を定める。余計な心配はしなくていい」
「しかし……」
「――黙ってろって言わないと、黙らないのか!?」
とうとう、フォンの堪忍袋の緒が切れた。
初めて見る彼の純粋な怒りに、カレンは尻尾と体を大きく震わせた。
澱んだ目の中に、放ちたくもない怒りが垣間見えた。歯を食いしばり、カレンに向かって怒鳴り散らすその顔は、フォンではない他の誰かのようにすら感じられた。
「これは忍者と忍者の殺し合いなんだ、気を抜けば一瞬で死ぬんだ! 言いたくはないけど、未熟な僕には、そんな状況で誰かを守りながら戦う余裕なんてない!」
今まで彼は、人生で何度怒りを露にしただろうか。この様子を見る限り、二度も、三度もありはしないのだろう。それくらい不安定な表情と声で、彼は感情を発露しているのだ。
「弟子だから共に戦うというなら、師弟関係は破棄だ! 同じパーティだから守るというなら、パーティも解散だ! 僕の言っている意味が分かるな!?」
ぜいぜいと、肩で息をするくらい怒鳴り散らしたフォン。
大事な人を何としてでも傷つけさせない。度を越えているともいえる意志の爆発は、カレンの大きな瞳から、はらはらと涙を流させるには十分過ぎた。
「……師匠、そんな、そんなことを……拙者は……」
大粒の滴が、カレンの頬を濡らす。アンジェラはただ眺めるだけで、何も言わない。
「……声を荒げたのは、済まない。けど、もう決めたんだ」
彼の決意は固まっていた。孤独の道に身をやつすとしても、もう誰も傷つけさせないと。
カレンを泣かせてでも犠牲にしないと腹を括ったフォンだったが、彼の考えに苦言を呈する者が、アンジェラをどかして部屋の中に入ってきた。
「――その話、待った。あたし達の意見を、聞いてくれてもいいんじゃないかな」
クロエとサーシャだ。
腹を貫かれたクロエは腹部に、体中に怪我を負ったサーシャはカレン同様全身に包帯を巻いている。水色のパジャマを羽織る二人はカレンより体力が回復しているようだが、顔色や足の震えから、まだ完治とはいかないようだ。
そして彼女達は、どうやらフォンとカレンのやり取りを聞いていたらしい。
「……君達も、まだ動かない方がいい。傷が開く」
つっけんどんな態度を取るフォンに対して、クロエはともすれば呆れたような態度だ。
「自分の体は、自分が一番よく分かってるよ。それよりも、フォン、一人であの忍者と戦いに行くんだってね」
「そうだ、僕とアンジーで行く。君達には絶対に行かせない」
「パーティなのに?」
「そんな理由なら、さっきカレンにも言ったが、僕は抜ける。これは僕の、忍者の問題だ」
「……そっか」
どこまでも冷めた返答をするフォンだが、クロエは果たして、彼の真意を見抜いていた。
「……勝てる見込みがないんだね」
ぴたりと、フォンの作業をする手が止まった。
薄暗い瞳に、微かな明るみが戻ってきたような気がした。口を開くクロエも、無言で腕を組んでいるだけのサーシャも、彼がどうして一人になるのかを理解していた。
手を下ろし、目を逸らす彼を囲むように、二人はしゃがみ込む。
「気づいてるよ、一人で決着を付けようとしてるってことくらい。復讐の覚悟が固まってるアンジェラ以外は、とても連れて行けない……彼女も失敗して、万が一の時は、リヴォルを道連れにして自分も死のうなんて考えてるんでしょ」
「……君達が邪魔なだけだ。僕の過去も知らないで、勝手なこと……」
「サーシャ、お前の過去、知らない。けど、今のお前、分かる。お前、死のうとしてる」
黙りこくったフォンの態度が、答えだった。
彼の作戦など一つも聞かなくても、フォンが自己犠牲精神の塊であるのはクロエが一番よく知っていた。仲間を守り切れないほどの実力を持つ相手を止めるならば、彼はきっと己の身を滅ぼしてでも敵を倒そうとするだろう。
カレンも、アンジェラすらも、フォンの真意を全く察せなかった。ただ二人、クロエとサーシャに腹の底を見透かされ、忍者としての冷たい人格はゆっくりと瓦解していった。
肯定も否定もしないフォンの肩を、クロエが優しく叩いた。
「ねえ、フォン。あたしの両親はね、十五の時に死んだの。地元の人は誰も助けてくれなかったから、あたしは一人で旅に出て、ギルディアに着いてからも一人で冒険者稼業を続けてきた。誰も信じなかったし、フォンだって最初は利用するつもりで雇ったの」
彼女にとって、フォンはもう、パーティではない。単なる一員ではない。
「サーシャとは戦ったね。カレンとは色々ありすぎるくらい、あたしも含めて沢山の蟠りがあったね。けど、今は違う。あたし達は友達じゃない、もう仲間でもない」
瞳を少しだけ潤ませたクロエの声は、震えてすらいた。
「あたし達は、家族だよ。家族なら、どんな困難も一緒に乗り越えるんじゃないかな」
自分達は家族である。クロエ達が伝えたいメッセージの、一つ。
「あとね、フォン。あたし達は絶対に、フォンを人殺しにはさせない。『人不殺』の掟は、破らせたくないんだ――その為に、あたしは協力したいの」
これが、もう一つのメッセージだ。
フォンの誓いを、願いを破らせたくないと、クロエの潤んだ瞳が確かに言っていた。
フォンの目がはっと見開き、光が戻った。
一同にとって、フォンは家族だった。
彼だけではない。クロエも、サーシャも、カレンも、互いがもう友人や仲間以上のかけがえのない存在であるならば、どうして犠牲を見過ごせるだろうか。
ゆっくりと肩の力が抜けたフォンに、涙を拭ったクロエが微笑みかけた。彼女と同じ気持ちであるサーシャやカレンも、我が一番気にかけていると言わんばかりに言った。
「サーシャ、トレイル一族の、最後の生き残り。家族、いなかった。でも、今は違う」
「……それを、それを言うなら、拙者も一人だったでござる! でも今は師匠が、皆がいるでござる! 共に居る家族が一人で死地に赴くなど、絶対に、絶対に嫌でござる!」
サーシャは悲しげに、カレンは落涙を止めようともせず、自分達がどれほど大事に思っているのかを叫ぶ。これを無下にできないと、アンジェラも悟っている。
「私からは、家族を亡くした人生の先輩としてアドバイスしとくわね。死すらも決意した思いを蔑ろにしたら、どんな結果だろうと後悔するわよ?」
だからこそ、彼女は先陣としての教訓だけを、静かに囁いた。
彼の目は、とうの昔に迷っていた。
一人で死に遂げるなど――鋼の如き決意など、彼女達の前では氷の柱も同然だった。陽の光で照らされ、あっさりと溶けてしまうほど脆く、儚い概念でしかなかった。
それがフォンの弱さではなく、彼が持ち得る忍者に最も不要な感情の一部であると知っていたクロエは、だからこそ、彼の前に回って手を握った。酷い怪我を負って間もないはずの、冷たいはずの手は、どうしてかフォンよりも暖かかった。
「……フォン、あたし達にも戦わせて。フォンの誓いを、フォンを守らせて」
いや、理由など分かり切っている。この手の暖かさは、愛情だ。
フォンが他者に対して無私の愛情を注ぐように、今、自分に対してもそれが向けられているのだ。例え無力でも、無用でも、死のうとすらしている家族を見捨てられない愛情だけが、三人を突き動かしているのだ。
守ってもらわずとも、ただ最期の時まで傍にいる。
そう聞いて、何もかもが矛盾して合理的でないとしても、フォンの結論は定まった。
「――分かった。掟は破らない……『人不殺』を貫き、皆で彼女を止める」
彼は決めた。守れないのではなく、死を選ぶのではなく、共に歩むと。
カレンは胸を撫で下ろし、サーシャは大きく鼻を鳴らした。アンジェラは肩を持ったとはいえ強情な彼女達に内心呆れ、クロエは心から彼の決断を嬉しく思っていた。
今、この部屋には結束ができていた。誰にも崩せない、黒鋼の結束が。
同時にフォンは、そうと決めれば即座に動く方だった。
「やると決めたからには、皆にも、ほんの少しだけ作戦を手伝ってもらうよ。その前に三人とも、詳細を聞きながらでいいから、これを呑んでくれ」
彼はカーゴパンズのポケットから小瓶を取り出し、掌の上に中身を転がした。ベッドからゆっくりと這い出たカレンにも見えるように出てきた球体は、おどろおどろしい色の丸薬。クロエにはこの正体が勘付けているようで、顔色がさっきより少し悪くなる。
「師匠、それは……?」
「兵糧丸だ。二十種類の薬草と生薬、虫を混ぜ合わせてある。一時的にだけど、自然回復力と体力を高めてくれるだけじゃなく、痛覚を鈍らせてくれるんだ」
「……味は……?」
クロエが問うと、フォンは答えをはぐらかした。
「……良くはないけど、呑まないと碌に動けないと思うから……はい、どうぞ」
今まで何度もお世話になってきた忍者の携帯食にして薬、兵糧丸。何れも苦く、特にサーシャがゴブリンから受けた毒を無効化する際に食べたものは彼女ですら吐き出しそうになったほどだ。今の彼女達の怪我を緩和するくらいの兵糧丸は、最早毒と同じ味だろうか。
「それじゃあ、フォン。作戦を説明して」
渋い顔をしながら薬を受け取った三人をよそに、アンジェラに急かされ、フォンは床に大きな紙を広げた。狭い範囲の地図に、これでもかと赤い文字や円が記され、中央には赤い棒人間が描かれている。これがリヴォルだろう。
「まず、殺さないとは言ったけど、殺す気でやる。リヴォルほどの忍者からすれば、それでようやく死なない程度に止められるはずだから」
「それは問題ないわよ。殺すのは私の役目だから」
「うん、そもそも時間もないからね、簡潔に皆の役割だけを教えておく。キル・ボックスは街から北西に進んだ先にあるポルデン山に設置するから、作戦会議を済ませたらリヴォルに気付かれないよう、服を全て着替えてアンジェラと一緒に向かってくれ」
「三人は参加する予定がなかったのに、分担があっさり決まっちゃうのね?」
「元々僕一人でやる予定だったのを分けただけだよ。皆、この地図を見てくれ……」
こうして、作戦会議は始まった。
作戦を開始するのは、その日の夜。不確定要素が多い上に時間がない中、それでも淡々と作業は進んだ。全てはただ一つ、リヴォルを抹殺する目的に辿り着くべく。
宿の部屋から四人が出たのは、それから間もなくのことだった。
◇◇◇◇◇◇
その日の夜、ギルディアの街はいつも以上の静けさに包まれていた。
昼ですら人の通りも少なく、誰もが家に閉じこもっていたのだから、夜ともなれば通りには誰もいなくなる。家屋の戸も厳重に閉められ、酒場は開かれず、街そのものが死んでしまったかのような雰囲気だ。
さて、死に恐れ慄く街を創り出した張本人はというと、その街で一番大きな通りを練り歩いている。文字通りがらんどうの道なので、真ん中を歩いていても何にもぶつからないし、上から下まで黒ずくめのコートを纏っているから、猶更目立たない。
悠然と闊歩する二人組の目的は、当然今日の生贄を探すこと。
「んー、結局お兄ちゃんは来なかったなあ」
あどけない顔で犠牲を物色しながら周囲を見回すのは、リヴォルだ。
妹にして自我のない人形であるレヴォルを引き連れた彼女は、今朝の約束通り、待ち合わせ場所に来なかったフォンを怒らせるべく、新たな悲劇を生み出そうとしに来たのだ。
朝のうちに彼の仲間を傷つけてからは、何度か街を徘徊してみたが、フォン一行を一度も見ていなかった。上手く逃げ切ったのだろうか、それとも。
「子供が多いとお兄ちゃんが怒ってくれそうだし、三人は絶対必要だね。あとは……」
生贄の絶対条件を呟きながらレヴォルと歩くリヴォルは、ふと立ち止まった。
「……ん? この匂い……?」
つんと鼻を突いたのは、ツブシサザンカの匂い。普通なら気づかない程度の匂いは、忍者同士の暗号や道案内に用いられる。つまり、街唯一の忍者であるフォンが、自分に向けて何かしらのメッセージを送っているのだ。
鼻をひくつかせながら、すたすたと彼女は歩いてゆく。通りから家屋の影に入り、別の小さな道に出て、昨日家族の首を吊らせた公園とは別の広場に出る。
そのまままっすぐ歩くと、直ぐにツブシサザンカの匂いの発生源――五色の米が、木の下に乱雑に置かれているのを見つけた。
「五色米かあ。どうしてこんなところに……あっ」
リヴォルは首を傾げたが、たちまち五色米を置いてある理由を知った。
木の幹には、苦無で忍者文字が彫られていた。これでもかと力強く刻まれている棒状の暗号がリヴォルに伝えた内容は、こうだ。
『仲間は死んだ。北西のポルデン山に、道標を辿って来い。決着をつける』
罠か。仲間の死に駆られた復讐か。
どちらでも、リヴォルにとっては良かった。
「……ようやくその気になったんだね。待っててね、お兄ちゃん」
彼女と妹の姿は、夜の闇に紛れるように消え去った。
音を置き去りにするほど速く駆け抜けていく彼女の目的は、フォンとの決戦である。
生贄も自身の待つ場所も忘れて、嬉々として口を裂かすリヴォルは街を出て行った。
ギルディアの街から、木々が森の如く鬱蒼と茂るポルデン山までは、そう遠くない。
だからといって、人がそうそう立ち寄る山というわけでもない。
ここは魔物が生息していない代わりに土地柄の都合で草木の生える数も少なく、しかも滝が多い上に勾配が激しく、転落死や滝壺に呑まれる被害に遭う者が必ず毎年出てくる、所謂危険地帯である。来るとすれば山籠もりでもする変人か、何かを隠しに来る罪人くらいだ。
しかし、月が陰り、闇を齎すこの夜は違った。
「わざわざ道標まで用意するなんて、お兄ちゃん、何を企んでるのかなー?」
けらけらと笑いながら、山道を凄まじい速度で駆け抜けていく二つの影。
忍者のリヴォルと彼女の武器、人形のレヴォルが、黒い衣服をはためかせて疾走していた。
彼女達とて、意味もなく山を登っているわけではない。先程から目に入る木や岩、獣の死骸などにフォンが残したらしい、忍者にしか分からない標が点在しているのだ。
五色米をはじめとして、苦無の傷痕、わざとらしく抉られた地面、折った枝で作られた印章。一般人が見ればおかしな置物程度にしか認識されないそれらは、間違いなくリヴォル達を、どこかへと導く道標である。
どう見てもフォンが用意した罠への案内状で、普通に考えれば飛び込むなど有り得ない。彼だけが目当てであれば、リヴォルは引き続き、本来予定していた区域でフォンを待ち続けていればいいのだから。
それでも彼女がポルデン山を駆けるのは、偏にフォンが用意した罠への好奇心だった。
「仲間が死んで本気になってくれたのか、それとも作戦があるのか……どっちにしても、お兄ちゃんの方から遊びに誘ってくれたんだもん! 行かない理由はないよね、レヴォル!」
彼女にとって、戦いと拷問は楽しい児戯だ。以上でも以下でもないし、遊びであるなら参加しないわけがない。特に今回は、ずっと恋焦がれたフォンからのお誘いなのだ。
一日ですっかり修復されたレヴォルはというと、問いかけに答えない。人形だから当然なのだが、リヴォルは彼女がまるで生きているかのように語り掛け、一人で笑っている。
狂った二人組はどんどん山の奥へと走ってゆく。ただでさえ薄暗い山は月が隠れているせいで、一層辺りが見え辛くなっているが、リヴォルの目にははっきりと五色米と刃物の痕が見えている。その感覚は狭くなり、目的地が近づいてくる。
そしてとうとう、彼女は木々の隙間から飛び出し、とある場所に着地した。
「よっと!」
リヴォルがやってきたのは、人為的に切り開かれた土地だった。
十歩ほど離れたところにある滝口から落ちてゆく激しい水の音以外は何も聞こえない世界。リヴォルの足元は乾いた土だが、彼女から見て少し奥は岩場となっており、勢いの強い川が流れている。辺りを囲むように木は伐採されたさまは、まるで庭のようである。
大きな音を奏で続ける滝壺を見なくても、リヴォルにはどれだけの落差があるかが把握できる。よほどの間抜けをしなければ落ちないだろうが、もしも落下しようものなら、並の人間であれば先ず命はないだろう。
結論から言うなれば、誰かが趣味で開拓した地域にすぎないと言っていいだろう。滝の音を聞きながらテントでも張り、のんびりと俗世から離れたい人が来るところだ。
「……何にもないなあ。罠の匂いもしないし」
自分がここに来ても罠の作動は探知できないし、そもそも罠の気配もない。地面や川、木々を観察してみても、細工の跡が見つからない。
ここに何かが仕組まれているのなら、フォンは予想している以上のやり手だろう。
「でも、誰かいるね。少なくとも三人、ってことは……そっか、そっか!」
ついでに言うなら、リヴォルはフォンには気づいていないが、それ以外の気配は感知できているのだ。だからここから離れないし、余裕綽々の態度なのだ。
「お兄ちゃん、仲間が死んだなんてのは嘘だよね! 嘘ついてまで私とレヴォルを連れてきたいなんて、もう、私が好きなら最初からそう言ってよーっ!」
どこをどうすればこんな結論に至るのかは、まともな思考では到底理解できないだろうが、リヴォルにとっては己の結論だけが世界の道理だ。つまり、フォンがわざわざここにリヴォルを呼び出したのは、彼女に気があるからだと思っているのだ。
そう思えば、尚のこと彼を連れて行かずにはいられない。
「隠れてるのは今朝の三人だよね? 安心してね、ハンゾーの目的を果たして、お兄ちゃんを本物にする為に……今度こそ絶対に逃がさないから、絶対に……」
闇の中へと一歩、また一歩、足を踏み入れてゆく。
楽しいイベントが待っているようなうきうきの気分で、歯の見えた頬から涎が垂れるほどの笑顔を伴いながら、リヴォルはとうとう広場の真ん中までやってきた。
「……ほら、早く始めようよ! 私、もう待ちきれない――」
彼女が嬉々として喚かずとも、戦いの火蓋は切って落とされた。
ここに仕掛けられているのであろう罠への警戒も喜びに掻き消された今、リヴォルは自分の足元が少し、ほんのちょっぴり緩んだのに勘付くのが、いつもより刹那くらい遅れた。
途端に、彼女の真下が大きく窪んだかと思うと、代わりに鋭く尖った木材がせり出してきた。先端がべっとりと輝くほど紫色の液体が塗りたくられた十本以上のそれは、即席の槍としてリヴォルを貫通するべく射出された。
「おっと!」
スライムの如く槍の先端を覆う液体が猛毒であると、忍者が見れば一目で察せる。レヴォルの手を器用に使って、妹の肩に乗っかる姉は、触れれば瞬きをする間に体の自由を奪う類の毒だろうとたちまち気づいた。
「これくらいの罠なんて引っかからないよーっ!」
挑発するかのように嗤うリヴォルだが、この罠は切欠に過ぎない。
飛び出た槍のうち一本に、鋼の糸が巻き付けられているのをリヴォルは見た。月が少しばかり顔を出し、彼女達を照らしていなければ気付けないほどの細さの糸。おまけに黒く塗り潰されていて、常人ならばまず見えない。
リヴォルには、この糸が何を意図していて、次に何を引き起こすのかも読める。
「罠の連鎖、広場自体が……!」
読めはするが、糸に引っ張られて引き絞られた木の枝が折れ、その反動で木製の杭が飛んでくるのは想定外だった。魔法の火球よりもずっと早く飛来するそれをリヴォルはかわせたが、レヴォルのコートは破けてしまう。
「よっと!」
こればかりは避けきれない。リヴォルは妹を引き寄せると、両手の袖から長い刃を引き出し、襲い掛かるナイフを全て叩き落した。
「お兄ちゃん、凄いね! こんな短い時間の間に、これだけの罠を仕掛けるなんて!」
四方八方から、杭やナイフが飛んでくる。楽しみながら刃で弾き、人形を盾にする。
手足が見えないほどの防御を続けていれば、この先発条の要領で飛び続ける投擲兵器が尽きるまでは対処しきれるだろう。だが、あくまで彼女を留める目的でしかない。
何本もの杭を叩き落とすリヴォルの頭には、既に狙いが定められていた。
木々の狭間、広場から離れた木の葉の山。そこに埋もれた両手と、番えた矢。
緑色で体中を覆ったクロエが、遠くの敵を見据えていた。森の住人であるかの如くリヴォルを睨む彼女は、静かに弦を引き、そして。
「――いくよ」
白銀に煌めく矢を、放った。
空気を切り裂く矢の速度は、通常、目視では捉えきれない。
見えると豪語する冒険者や騎士もいるが、見えているだけだ。視界の外からの攻撃となると、最早どうしようもない。相手が未熟な弓矢使いであるのを祈るだけが救いの術だが、今回は長年弓を獲物として愛用し続けてきたクロエの一撃だ。
遥か遠くを泳ぐ魚の目すら射抜く、必中の矢だ。
――ただし、あくまで凡人が相手ならば、の話なのだが。
「――ほい、っと」
ナイフをいなすリヴォルの目が、ぎょろりと矢を睨んだ。そして、子供の投げた石をキャッチするよりもずっと簡単であると言わんばかりに、それを掴んでしまった。
どれだけ早い矢であっても、握られれば意味がない。おまけに矢が飛んできた方向で、クロエはリヴォルに、自分がどこにいるかを教えてしまってもいるのだ。
「見ぃつけたあぁっ!」
葉っぱによるカモフラージュすら見抜き、目を細めるクロエを悪鬼のような形相で捉えるリヴォル。ここから彼女の元まで跳び、首を刎ねるのは容易い。
尤も、リヴォルはまだ分かっていない。掴んだ矢の、本当の目的を。
「あぁー……あれ?」
しゅう、しゅう、と何かが鳴る音で、ようやくリヴォルは握り締めた矢を見た。鏃の少し後ろに、妙な音と匂いを放つ液体が塗りたくられている。今の今まで察せなかった理由は、どうやら別の液体を塗布してコーティングしていたからだろう。
この匂いに、何かが擦れる焦げた匂いに、リヴォルは覚えがある。
灰色の液体が、どんな目的で使われるかも知っている。仮に知らずとも、液体が微かな煙を立て始めているのを見れば、嫌でも悟ってしまうだろう。
(これは、火遁の……っ!)
咄嗟に、彼女は矢から手を離し、レヴォルを引き寄せた。
ほぼ間髪入れず、矢がたちまち炎を纏い、耳を劈く爆発を起こした。
液体が起こした爆発は、とてつもない威力を伴っていた。レヴォルを盾にしていなければ、恐らくリヴォルの顔面の皮が剥がれていただろう。事実、妹人形の黒い衣服がたちまち焼け焦げ、顔の一部が溶けてしまっている。
地面を擦るようにして仰け反ったリヴォルには、正しく驚愕の事態だった。人形の無機質な肉体を再び自分の手元に手繰り寄せながら、彼女は顔を歪めた。
(今の爆発、火遁『爆火の術』! 忍者でもない女が、忍術を!)
彼女の疑問は、沸々と怒りに変換されてゆく。
(まさか、お兄ちゃんが! あんな凡人共に、忍者の技術を教えたの!?)
リヴォルの予想は、誰も答えを告げないが、正解である。
クロエが放った矢には忍者が使う着火剤と爆薬が絶妙な配分で塗られており、摩擦が発生すると爆発する仕組みだ。リヴォルが余裕をもって掴むのが前提となっているのだ。
だとしても、矢を射ったのはフォンではない。つまり、どこかで現状を見ている彼がリヴォルの行動と思考を読み、尚且つクロエに技術を分け与えなければできない。
「――お前みたいな死にぞこないが、忍者の力を使うなああぁッ!」
自分よりもただの人間に力を与えたと知り、リヴォルの怒りは瞬時に頂点を突破した。
「よくも、よくもッ! 私だって、お兄ちゃんに忍術を教えてもらったことなんかないんだぞ! 私のお兄ちゃんから、お前、殺されたいのかああぁッ!?」
フォンに対してではない。自分より寵愛を受けているとしか見えない――彼女の歪んだ思考ではそうとしか思えない相手がいるのに、彼女は耐えられなかったのだ。
頬から露出した歯をこれでもかと食いしばり、何としてでも人形で切り刻んでやるべく突進しようとしたリヴォルだったが、彼女が忘れた頃に、またもやナイフによる襲撃が再開される。しかも今度は、前後左右からの突撃だけではない。
殆どの刃物はレヴォルで弾いたが、弾き損ねたナイフが、川辺に生えた木と木の隙間に張られた細縄を切った。次の瞬間、勢いよくしなった木に貼り付けられていた杭が宙に打ち上げられ、尖った方を下にして、姉妹目掛けて落ちてきたのだ。
「ちいぃッ!」
四方ならまだしも、立体的な攻撃となると、回避は急に難しくなる。
軽やかな移動に急な制限が欠けられ、刃物と杭で埋め尽くされて足場も減る。幸い、まだリヴォル自身は負傷していないが、盾として使っているレヴォルにはナイフが刺さり、腕よりやや細いくらいの杭が足を貫通している。おまけにまだ、攻撃が止む様子がない。
矢のせいで、たちまち優勢を崩されてしまった二人。しかも絶え間ない刺突の雨霰は、どうやら不規則な攻撃というわけではなく、どこかに彼女達を誘導しているようなのだ。
(私達を押し出すように罠が作動してる……レヴォル諸共、滝壺に落とすつもり!?)
リヴォルが必死に攻撃を防ぎながら振り向いたのは、轟轟と鳴る滝口。
成程、じりじりと後退した先にある死への入口に自分を叩き落とすつもりなのだと、リヴォルはフォンの考えを読んだ。だが、随分と悠長な発想だとも思った。
(でも、滝口までは遠いし、そもそも足でも滑らせないとあんなところまで行くわけないよ! だとすれば、お兄ちゃんとあいつらの本当の目的は何!?)
ひたすら攻撃を続けるつもりだとしても、刃物と杭の数には限界がある。
降り注ぐ死の雨の終焉とレヴォルの限界、どちらが先に来るかといえば、間違いなく前者だ。そう理解できている以上、フォンが呑気に無意味な時間を過ごすはずがない。
何が狙いか、何を目的としているのか。レヴォルに無数の傷を付けながらぎょろぎょろと辺りを見回すリヴォルに、とうとう答えが与えられる瞬間がやってきた。
「……?」
ふと、足元に目をやった。隠すように小さく彫られた、バツマーク。足で擦ればすぐに消えるほど微かな文字にリヴォルが気づいた瞬間、木陰から誰かが飛び出してきた。
「なッ、どこから!?」
すぐ傍から出てきたのは、メイスを携え、黒いマントを羽織ったサーシャだった。
彼女が纏うマントに、リヴォルは見覚えがあった。どうして近くにいたのに気配を悟れなかったのか、答えは忍者が使うあの布だ。特殊な素材の布で匂いを内側に閉じこもらせ、光の屈折で背景と同化して見せる忍術、『纏隠れの術』だ。これもまた、フォンの入れ知恵だ。
こんな近距離で、しかも刺突の雨に降られている今では、サーシャを見つけても攻撃には回れない。凝視するだけのリヴォルを攻撃するかと思ったが、彼女は敵に近づかず、地面に向かって、思い切りメイスを叩きつけた。
「でえりゃあああッ!」
鈍撃が地面を揺らすのと同時に、リヴォルの視界が遮られた。
「な、ん、だってぇッ!?」
目を閉じたのでも、夜闇が深くなったのでもない。
サーシャの打撃に反応して、リヴォルの足元からせり出た四つの木板が、逃げる間も与えずに彼女を閉じ込めたのだ。
真下に罠が仕掛けられているのなら、本来ならば槍の時のように即座に発動と思っていたのだが、そこがフォンの狙い目だった。サーシャのメイスによる強打以外では起動しないように、わざと発動条件を鈍らせたのだ。
結果として、リヴォルは接地面に罠はないと思い込んでしまった。延々と続く攻撃とクロエの忍術に対する怒りが思考を鈍らせ、彼女を木の板に閉じ込めてしまった。
とはいえ、この程度であれば人形の殴打で破壊できる。即座にリヴォルがそうしなかったのは、土がこびりついた分厚い板から漂う、つんとした匂いで手を止めてしまったからだ。
さっきとは違うが、同じように目がひりつく匂い。何かは、知っている。
(この匂い……爆薬!)
彼女を囲んでいるのは、これでもかと爆薬を貼り付け、塗りつけ、最早これそのものが爆弾と化してしまった木板だ。つまり、対象を焼き尽くす為のキル・ボックスだ。
「まずい、早く――」
理解した時点で、遅かった。
彼女からは見えないが、サーシャの後ろからもう一つの影が突出した。ちりちりと燃える枯草を片手に、手首をしならせ、細い黒点で箱を睨むのは、青い髪の忍者。
「――忍法・火遁! 『牢獄猛火の術』ッ!」
フォンの一番弟子、カレンが火種を投げつけ、箱に触れるか、触れないかの刹那。
「――――ッ!」
鼓膜を破りかねない炸裂音。肌を舐め回す炎の応酬の果て。
箱の内側からの途轍もない絶叫を掻き消すかの如く、大爆発が巻き起こった。
圧縮した威容を点に解き放ったのかと思うほど、凄まじい爆発だった。
暗黒を切り裂く眩い炎が、広場どころか空をも焼き尽くすかのようだった。勢い余って転んでしまったカレンをサーシャが引っ張って逃げなければ、二人とも巻き添えを喰らっていただろう。
燃やす、などという言葉では到底表現できないほどの破壊は、山を揺らすようだった。近隣に住民がいれば、地震か、噴火でも起きたのかと思って逃げ出してしまうはずだ。それくらい、フォン達がリヴォルを仕留める為に仕掛けた爆弾の威力は凄絶だった。
天に昇るかの如く燃え盛っていた炎だが、ゆっくり、ゆっくりと小さくなってゆく。家を燃やすほどの勢いが木を焼き、草を焼く程度にまで縮まり、煙のみとなった。
本当ならもっと燃え続けるはずだろうが、これも忍者が使う火遁の術が持ち得る特徴のようだ。ついでに、周辺を黒焦げにしてしまった轟炎の傍にいても燃えておらず、爆風に耐えきった黒い塊が五つもあった。
もぞもぞと、何かを纏って蠢くそれらは、やがて漆黒の布を取り払い、姿を見せた。
「……やったで、ござる、か……?」
最初に顔を出したのは、土汚れと煤に塗れ、尻尾を揺らすカレンだ。
「……やった、かもね」
「げほ、ごほ……」
次いでクロエが林の中から出てきて、サーシャがのそりと吹き飛んだ倒木の影から顔を覗かせる。いずれも息は荒く、顔中土や泥だらけではあるが、朝に負った怪我のダメージはあまり感じさせない。ついでに服だってちゃんと着ている。
罠のシステムも破損したようで、ナイフと杭の雨霰はすっかり止んだ。地面に突き刺さっていないそれらは、爆風に乗ってどこかへ飛んで行ってしまったようだ。三人が投げ捨てた布に刃物が刺さっているのが、ある意味ではその証拠になっている。
こうして姿を見せた三人だが、彼女達だけで爆殺劇を披露するに至ったのではない。何もかもお膳立てし、計画を企てた主犯である男と冷徹さを湛える女が、草むらから出てきた。
「死んだかしらね、あの女は。まったく、とどめは私がさすと言ったのに」
ぶつくさと文句を言うのは、アンジェラ。隣を歩くのは、忍者のフォン。
「でも、妥協してくれた。ありがとう、作戦に協力してくれて」
「……確実に止める手段があるなら、そっちに従うわ。作戦は任せるとも言ったしね」
フォンが小さく笑うと、彼女はつん、とそっぽを向いた。
アンジェラの性格と事情を鑑みれば、自分がリヴォルを殺すといって突撃しかねなかったのだが、今回は作戦補助を優先してくれた。刃物や杭の攻撃を、彼女も移動しながらこっそりと起動してくれていたのである。
フォンが企て、クロエ達が名乗り出て実働し、アンジェラが補助した。五人による作戦の結果は、広場を真っ黒に塗り潰すほどの煤と倒木、武器の残骸、滝口の前に残る何かだ。
「それにしても、凄いね、このマント。爆風どころかナイフも防ぐなんて……」
「大洋に棲むシードラゴンの皮から作ったマントだからね。重いけど、忍者が使う防具の中でこれ以上に硬いものはない。ただ、今回で大分損傷したから、また作り直さないと」
「こんなものをまだ作れるのでござるか?」
「時間はかかるし、素材は金貨五枚分ほどかかるけど、不可能じゃない。時間を見て作るようにしておくよ……皆、あれを見て。あの炭化した人体、恐らくリヴォルだ」
警戒しながらフォンが指差す先には、地に伏せて動かない、黒い人型の物質。
地面と同化しているのかと思うほど真っ黒なそれは、リヴォルが爆散したところにうつ伏せに転がっていた。衣服は当然焼失し、髪や身体的特徴も爆ぜてしまったのか、人型の炭か人間かの区別がつかないが、辛うじてひくひくと動いている。
レヴォルがいないのは、盾にした際に跡形もなく粉々になってしまったからだろうか。
「……フォン、あれの首は貰うわよ」
そんな無惨な様を見ても、アンジェラに情は湧かなかった。
「お前、首を持って帰るのか?」
「そうでもしないと、ベンもパパも、ママもが納得しないわ。私が仇を取ったんだって、家族に伝えるにはそれしかないもの。いいでしょう、フォン?」
フォンとしては、あまり了承はしたくなかったのだろう。
「……ああ」
しかし、本来アンジェラが手を組んでくれた理由を考えれば、首を横には振れない。
彼が少し迷ってから頷くのを見て、サーシャやクロエ、カレンすら不安そうに見守る中、アンジェラはすたすたと亡骸に近寄る。彼が頷かずとも、そうするつもりだったかのように。
じゃらりと蛇腹剣を下ろしながら、指先の一つすら動かせない様子のリヴォルの首を刈り取るべく、アンジェラはリヴォルの前まで来た。あとは蛇の如くくねる剣を軽く振るうだけで、復讐は完全に果たされ、彼女の願いは叶う。
今回は、フォンと戦った時とは違う。ベンと彼女は似ても似つかないし、相手は家族を殺した張本人だ。剣を振るうのを躊躇う必要は一切ない。だから、右手を大きく振りかぶり、真っ直ぐに揃った刃で首に狙いを定める。
「ここで終わりよ、化物。私の復讐を、終わらせる――ッ!」
表情を憤怒に染め上げ、動かない屍に向かって、剣を一気に振り下ろす。
目をこれでもかと見開き、血走らせ、解き放たれた月光の刃は、確かに届いた。
間違いなく、確実に、首を斬り飛ばしたのだ。
「――え?」
ただ一つ、彼女の思い通りにいかなかったことがある。
黒く燃え焦げた屍の腕が動き、その指先から細い針が放たれた。
首がなくなったというのに、体が動いた。しかも人差し指が上下に開いて射出された針は、アンジェラの薄い鎧と胸を貫通して、遥か背後の木に突き刺さった。
「な、なん、で……!?」
ぐらりと、アンジェラがよろめいた。
貫かれた旨を抑える彼女だが、突如の襲撃はこれだけでは終わらない。なんと、巨大な木炭の如き姿だった死体が立ち上がると、アンジェラの腹に強烈な蹴りを叩き込んだのである。めきめきと、アンジェラの腹が抉れる音と、死体の指が砕ける音が響く。
「お、ごが、あ……ッ!」
アンジェラの体が、後方に吹き飛ばされた。二、三度、地面を擦って倒れ込んだ彼女は、何が起きたのかを理解できない表情で、仁王立ちする首なしの亡骸を凝視する。
クロエ達も、フォンですらも、こんな動きは予測できなかった。首が飛んだのに、爆発で焼き払われたのに、どうして動くというのか。
人理に反した奇怪なる動作の原因は、化物の背後の地面から、唐突に出現した。
「――キャハハハハ――ッ!」
リヴォルだ。
傷だらけ、煤塗れのリヴォルが、地面から這い出てきたのだ。
そんな馬鹿な、リヴォルは遺骸のはずだ。そんな五人の疑問は、彼女が代弁した。
「ねえねえ、私だと思った? 真っ黒こげになったレヴォルと私の区別がつかなかったんだよね? そうじゃなかったら、こんなに油断して近寄ってこないもんね!?」
完全に狂った形相で大口を開けて笑うリヴォルの作戦は、成功だ。
誰もがレヴォルは爆散し、リヴォルが死体だと思っていた。真実は、黒焦げになったレヴォルの下にリヴォルが潜り込み、爆発から逃れ、双方ともに無事だったのだ。
「もう終わりじゃないよね? 武器もあるし、体も残ってるし、遊べるよね?」
どうにか立ち上がったアンジェラも含め、五人の額を汗が伝う。
「私はまだ遊べるよ、皆が死ぬまで、お兄ちゃんを手に入れるまでずっと、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずうううぅぅっと遊べるよ。だから――」
首のない人形をカタカタと揺らし、唯一残ったらしい右手の刃を握らせ、彼女は嗤い。
「――だから、ハンゾーの願いを果たす為に、私を楽しませてね?」
血走った目が冷たい邪悪に染まり、五人を見据えた。
眼前のそれは、人間と呼んでいい生命体ではなかった。
握りつぶされているかのように錯覚する心臓の鼓動が、信じられないほど早くなってゆくクロエは、半ば堪えきれない恐怖の涙を止めようともしなかった。
フォンと戦い、生き延びた。刃物と杭の雨をかわした。閉じ込めて爆散させても、多少の怪我を負わせた程度だ。こんな怪物を、どう止めろというのか。
そうやって慄く彼女達の絶望を舐めとるかのようにリヴォルは歯を軋ませて笑顔を見せる。もう誰も、彼女に逆らえないのを知っているからこそ、狩人の笑みを見せられるのだ。
「逃がさないよ、どこにも逃がさない。皆死ぬ瞬間まで、絶対に――」
そんな彼女の言葉は、立ち尽くすクロエ達の間を縫って疾走する影によって遮られた。黒い刃物を片手に飛翔し、半ば炭と化した殺人人形の右手に握られた白銀の刃と鍔迫り合うのは、この場に於いて数少ない、諦めぬ者。
冷徹なる勇猛に身を染め、死と怒りの覚悟を瞳に宿す者。
「あとは僕がやる――行くぞ、リヴォルッ!」
フォンだ。顔を上げたクロエの目に映ったのは、不死身と見紛うリヴォルに対してすら欠片も諦めず、常人では視界に捉えることすら難しい剣劇を繰り出すフォンだ。
「そうこなくっちゃ、お兄ちゃん! きゃははははッ!」
リヴォルもまた、唯一攻勢に出ようとしたフォンの態度を心から喜ぶ。なんせ彼は、殺すに値しない有象無象とは違い、レヴォルの猛攻を見切り、死の舞を踊ってくれるのだ。
一方、今までは無傷で敵を倒してきたフォンはというと、今度ばかりはそうはいかない。レヴォルが人間では不可能な動きで斬撃を叩き込むのを、彼は衣服を裂き、時には微かに肌を掠めるすんでのところでかわし、苦無による一撃を叩き込もうとする。
金属がぶつかる音とリヴォルの甲高い笑い声だけが響く、人の立ち入る隙間のない、正しく忍者の死闘。極限まで肉体と精神を研ぎ澄ませた激闘を、ただクロエ達は眺めているばかりだったが、心臓の奥からは後悔と痛みの感情がこみ上げてきた。
足手まといにならないと言った。後悔しないとも、守ると言った。
その果てが、結末がこれか。誰も守れない、いつもの通りフォンに頼るだけの生き恥。ここについてきた意味など到底ないではないかと、三人は自分自身に質問する。
ひたすらに、自分に問いかけた末に――三人の答えは、同時に出た。
「――フォン、下がって!」
殆ど反射的に、クロエは叫びながら矢を番え、リヴォルに向かって放った。
驚くフォンの頬を掠めかねないほどに正確な弓の一撃は、リヴォルまで届きはしたが、彼女は何と素手で弾き飛ばしてしまった。戯れの妨害をされた彼女は物凄い形相でクロエを睨みつけたが、邪魔者は彼女以外にもいる。
「うおおらあぁぁッ!」
クロエの後ろから猛牛に用に突進し、メイスを叩きつけるのはサーシャだ。宙を舞って回避するリヴォルだが、今度は忍び寄っていたカレンが、爪に灯った炎を投げつける。
「忍法・火遁『尖火の術』!」
爪の先に光る炎の大きさは大したものではない。しかし、リヴォルの姿勢を崩し、防御を僅かに遅らせるのには十分だった。つまり、フォンが追撃を仕掛けるのにもだ。
「はあぁッ!」
がら空きになった腹に蹴りを叩き込まれたリヴォルは、川まで吹っ飛んだ。
小川に顔から突っ込み、ずぶ濡れになってしまったリヴォルと動かないレヴォルから一瞬たりとも目を逸らさないまま、フォンと仲間達は並び立つ。弓を、メイスを、火を灯した枯草を構える彼女達の介入に、最も驚いたのは敵ではなく、フォンだ。
「皆、どうして……?」
忍者同士の死闘に割って入った理由を問われたクロエ達だが、聞くまでもないはずだ。
「ここに来る前に言ったでしょ? 家族は絶対に守るって」
微笑むクロエの目元には、乱暴に涙を擦った跡がある。
「ごめんね、フォン。あたし、もう勝てないって思った。ここで終わりなんだって、あたし達じゃ何もできないんだって思って、動くのも諦めてた」
「……サーシャも、同じ。トレイル一族なのに、サーシャ、死を受け入れた」
「それで、それで正解なんだよ! 忍者との戦いだ、怖れるのは仕方ないんだ! 寧ろリヴォルに攻撃すれば狙われるだけだ、逃げたって誰も責めやしない!」
「いいや、いるでござる。拙者が、拙者自身を責めるのでござる」
カレンは震える足を抑えながら、それでも一歩も退かず、無理矢理に笑っていた。
「拙者達は家族でござる、ならば一人を置いて逃げるのも、戦いを諦めるのもあり得ないでござる! 畏怖するのはもう終わり――師匠達となら、何も怖くないでござるよ!」
屈託ないカレンの言葉で、四人の心の決意は完全なるものとなった。
口先だけの友情ではない。いざとなれば強張るほどの仲間意識でもない。フォンが今まで知らなかった家族の存在が、今この瞬間、言葉よりも確かな感情として生まれた。
四人は意志を強く固め、立ち上がろうとするリヴォルから目を逸らさない。手を握らずとも、血の契りを結ばずとも、四人はこれから、共に戦うのだ。
「よく、も、よくも……お兄ちゃんと、私、のッ!?」
訂正、四人だけではない。家族とまで言わずとも、協力者はいる。
レヴォルを操って四人に襲いかかろうとしたリヴォルだったが、人形は突如としてどこからか放たれた、連なる刃によって封じられた。鋼線で繋がれた刃の関節でぐるぐる巻きにされたレヴォルは、人形の力でも動けない。
またも何が起きたのかと困惑するリヴォルの前で、人形は水を遮る岩場に思い切り叩きつけられ、体の節々にひびが入った。今度こそ動かなくなった人形から刃を剥がし、四人に歩み寄ってきたのは、肩を鳴らしながら刃を振るうアンジェラだ。
「ちょっと、私のことを忘れるなんて薄情じゃない?」
余裕の表情を浮かべる彼女だが、リヴォルから受けたダメージは決して軽くはないようだ。時折腹を手で抑えながらも、それでもアンジェラはフォン達と並び立つ。
「これで終わりにするわよ。五人でこいつを倒す、とどめは私が貰うけどね」
アンジェラの言葉に、フォンは頷く。
「ああ……行くぞ!」
そして、まだ立ち上がる途中のリヴォル目掛けて、五人は猛攻を畳みかけた。
人形使いには、信じられなかった。
フォンが得た新たな繋がりを認めたくないと言わんばかりに、首を失った人形を立たせて、彼女は飛び出しかねないほど目をひん剥き、狂った雄叫びを上げた。
「邪魔をするな、あ、あああぁぁッ!」
リヴォルの咆哮が響き渡っても、誰も怯みはしなかった。
臆せず突進してくる、それだけで今の彼女にとっては脅威となった。
「クロエ、カレン、アンジーは僕達を援護して! サーシャ、挟み撃ちにするよ!」
「サーシャ、承知!」
数だけなら大したことはないが、問題はその中に忍者と、忍者に匹敵する力を有する女騎士がいること。加えて、彼ら五人はただの寄せ集めではなく、強い絆で結ばれた者達なのだ。
フォンが先陣を切って突撃してくるのを見るや否や、彼女はレヴォルを引き寄せて武器を構えさせるが、彼の背中から隠れるようにしてギミックブレイドの刃が飛んでくる。
レヴォルの体を盾にして刃を受け止めるも、アンジェラの腕力は人形を彼女の手元から剥がしてしまう。そうなればリヴォルは防御策を失い、クロエとカレンが放つ矢と火球を、ただ避けるしかなくなる。
勿論、遠距離攻撃だけではない。フォンの超高速近接攻撃と、サーシャのメイスが振るわれる度に、環境に破壊が齎されてゆく。岩が砕け、水が弾けると、リヴォルは嫌でも自分の体と未来を破壊された物体に重ねてしまう。
(こいつら、お兄ちゃんと息が合い過ぎてる! 孤独なはずの忍者が、どうして!?)
彼女には、到底理解できなかった。
自身が知る限り最も凶悪で強かった頃のフォンよりも、ともすれば今の彼は勝っている。おまけに五対一の状況を卑怯だと言及もできただろうが、これは決闘ではなく殺し合いだ。ましてや忍者同士の争いなのだから、正々堂々などあったものではない。
「お兄ちゃん、どうして!? お兄ちゃんの本当の姿はこんなのじゃないんだよ、もっと深い闇を持ってる、もっと強い力を持ってるのに、どうして!?」
「あんたには分かんないでしょ、あたし達とフォンとの繋がりなんて!」
「お前には聞いてないだろうが、このおぉッ!」
「べらべらと喋ってるなんて、随分余裕なのね!」
余裕などあるはずがない。知っていて、アンジェラは挑発している。
矢と炎が飛び交い、メイスと苦無が迫り、蛇腹剣が飛んでくる。真っ黒なレヴォルの体が削れてゆき、リヴォルにも傷が増えてゆく。
クロエやサーシャが気を抜けば死んでしまうほどの速さで斬撃が、打撃が飛び交う。ただし、気を抜けばレヴォルを破壊されて死ぬのは、リヴォルも同じ状況なのだ。
加えて、彼女は気づいていない。自分にとって最大の危機は多くなってゆく傷ではなく、次第に体が滝口へ通されていることであると。ただただ必死に攻撃を防ぐばかりで、フォンの真の目的を彼女は知らないし、知る余裕すらないのだ。
何度目か分からない、一瞬の油断が死を招く激闘の最中、遂に時が訪れた。
「そこだッ!」
クロエの矢とアンジェラの蛇腹剣を同時に避け、レヴォルをサーシャのメイスで抑えつけられたリヴォルにできた、完全なる隙。フォンとカレンは、それを逃さなかった。
「どりゃあ、でござる!」
カレンの一蹴り。リヴォルがぐらりと姿勢を崩す。
(しまった、後ろは……!?)
猫忍者の打撃の威力は微々だが、彼女はあくまで前振りでしかない。
真に待ち構えていたのは――大きく拳を振りかぶり、レヴォル諸共リヴォルを殴り飛ばす為に、真正面から突っ込んできたフォンだ。
「――うおりゃああぁぁ――ッ!」
振り抜かれた拳は、リヴォルの顔面を打ち抜いた。
「ぶ、ぐっおぉッ!?」
忍者が持ち得る腕力を最大限活かした一撃は、鼻血を噴き出すリヴォルの体を、レヴォルと共に宙に浮かせた。背を川に向けたまま跳ねた彼女の後ろに待っているのは、リヴォルも予想していた通り、大きな音を立てて口を開ける、滝への入口だ。
姿勢は崩れたまま。受け身も取れない。そもそも、あらゆる次の手をフォンは潰せるよう、彼女から微塵も目を離さない。ならば、姉妹が行き着く先はただ一つ。
フォンの作戦が成功し、リヴォルは滝へと叩き落とされるのだ。
「やった……!」
「滝に落ちたなら、あいつは……!」
上手く川の浅いところに着地した彼のみならず、息が上がった様子のクロエ達も、どういうわけか体の動きが鈍りつつあるアンジェラも、敵の転落死を確信した。
――ただ、彼らは想定していなかった。リヴォルが悍ましい執念の持ち主であると。
リヴォルとレヴォルが滝に吸い込まれ、姿が見えなくなった瞬間、フォンは自分の腹に熱いものがじわりと広まっていくのを感じた。クロエも、サーシャも、カレンも、アンジェラも、張本人であるフォンですら、何が起きたのかを把握しきれなかった。
静かに浸透していく感覚の正体を知るべく、フォンはゆっくりと自分の腹を見た。
「……これ、は」
彼の腹には、黒い刃物が深々と突き刺さっていた。
しかも、ただ長いだけの刃ではない。これはフォンも使う忍具で、手持ちの鎌の後部に鎖を付けた、『鎖鎌』だ。この武器の鎖は必ず手元に握られているので、つまり、誰かがそれを掴んでいるのは間違いない。
誰だろうか、などとくだらない質問だ。顔を上げたフォンは、全てを察した。
轟轟と流れる滝の下に、鎖は続いていた。この滝から落ちていったのはただ一人と一つだけで、フォンには分かり切っていた。どこかに武器を隠し持っていたレヴォルが、落ちる瞬間に、彼目掛けて鎖鎌を刺したのだと。
「……ッ!」
全員が、フォンの腹を貫いた刃を見た。しかし、もう何もかもが遅かった。
彼が仲間達に警告するよりも先に、滝の底から這い寄るような衝撃を覚えたフォンは、足でどうにか踏ん張るよりも早く、滝口へと引っ張られてしまった。
「師匠!」
「フォン!」
駆け寄ろうとする仲間達の姿が遠くなる。手を伸ばしても、誰にも届かない距離。
水を散々飲まされながら、フォンの体は滝壺の遥か上空に投げ出される。驚愕する仲間の顔が見えなくなり、代わりにぐるりと体を捻らせた彼の瞳に映ったのは、激流に体を打ち付けられながらも、彼を凝視して凄まじい笑顔を見せるリヴォル。
鎖鎌を首の中から放っているのは、レヴォル。どうやら人形が鎖鎌を握っているのではなく、体の中に仕込んでいたようだ。ならば当然、リヴォルが離さなければ鎖は離れず、フォンは彼女達が落ちていく方向に引っ張られてしまうのだ。
つまり、底の見えない地獄の入口。滝壺に向かってである。
「うわああぁぁ――ッ!」
レヴォルが腕で鎖を引き込むと、フォンの体は滝に沈んだ。
たちまち、二人と一つの影は、凄まじい水の怒号の中へと消えてしまった。
滝からの落下自体は、フォン自身、修行で何度か体験していた。
一度目は死にかけた。二度目は少し慣れ始め、三度目以降は落下してもそれほどの怪我を負わなくなっていた。だから、墜落自体に抵抗感はなかった。
ただ、それは怪我のない状態で、且つ体の自由が利いていた時だ。今は違う。腹に鎖鎌が刺さり、しかも滝の内側にいるレヴォルが彼を引き寄せているのだ。当然、フォンも内部に連れ込まれ、猛烈な勢いの水流の直撃と、崖の切り立った岩に激突させられる。
「うぐ、う、うおおおぉぉッ!」
真下に見えるリヴォルは、激突する箇所にレヴォルを挟んで落ちているので目立った衝撃を与えられていない。しかしフォンはというと、滝と岩の間に挟まれ、揺れる度に体をぶつけられる。いかに忍者といえども人間だ、ただでは済まない。
衣服が破れるのは当然、肌が裂けて血が噴き出す。頬、腕、足、衝突する度に傷が増え、しかもリヴォルは一向に引っ張る力を弱めない。どこかに手をかけようとしても、レヴォルが引きずる力の方が強く、掌が削れ、手が剥がれるのを繰り返す。
そうして何度も水に撃たれ、岩に叩きつけられ、ようやくフォンは滝壺へと落ちた。
落ちた時もまた、体を巨大な鞭で打たれるような激痛が奔った。体中を引き裂く感覚に耐え、彼はどうにか水面へと上がろうと足掻くように泳ぐ。滝の水は絶えず落ち続け、回り込んで浮き上がらないと忍者といえども脱出できない。
「……ッ!」
ところが、彼の動きは急に止まった。というより、足元から引き留められた。
何が起きたのかと足元に目をやると、レヴォルの黒い足が、フォンの足首を掴んでいた。その奥ではリヴォルは歯を見せて笑っている。明らかに彼女も危険だというのに、一向に自分から浮上する様子はなく、寧ろ奥へ、奥へと潜ってゆく。
彼女はレヴォルを使って、底の見えない闇へと彼を道連れにするつもりなのだ。
「――――ッ!?」
フォンは必死に抵抗するが、苦無を落とした上、水中では呼吸を必要としない人形の方がよく動く。骨をへし折りかねないほどの力を込めて、レヴォルは首から放たれた鎖を引き、フォンをリヴォル諸共溺れさせようとしている。道連れなど、正気の沙汰ではない。
鎌を引き抜くと、痛みで口が開く。フォンは水中での呼吸時間が常人の三倍以上保つが、負傷した状態ではやはりあてにならないし、そもそも多量の失血で気を失う方が先だ。
(こっちにおいで、お兄ちゃん)
リヴォルが口を開き、フォンに語り掛ける。何としてでも自分のものにするという途轍もない執念が心臓に圧し掛かり、ぞっと背筋が凍り付く。
このままでは、リヴォルの思い通りだ。フォンは気絶して連れ帰られる羽目になる。
次第に、振り払おうとする足にすら力が入らなくなってくる。血が流れ過ぎたのか、体中から力が抜け、視界の周りの黒い水が赤く染まる。
腹を抑えてどうにか力を込めようとするが、既に手遅れのようだ。リヴォルも彼の限界が近づいているのを察し、一気に仕留めるべく、レヴォルに足を潰すほど握らせようとした。
だが、それよりも先に、ぴたりとフォンの動きと藻掻きが止まった。
「……!?」
彼自身の力ではないはず。もしもレヴォルの引力に抵抗するだけのパワーがまだ残っていたならば、早々に発揮していたはずだ。そうしないということは、今こうしてレヴォルの手でどれほど動かそうとしても反応がないのは、外部的要因があるのだ。
赤と黒の水が澱む中、目を凝らしてリヴォルがフォンを見ると、彼の腹部に蛇の如く連なった刃が巻き付けられていた。フォンを切り刻むどころか、包帯のように傷を隠しているそれらは、明らかに水面の上から滝壺に差し込まれている。
この奇怪な武器の正体を知るリヴォルが慌ててフォンを引きずり込もうとするよりも早く、蛇腹の剣――ギミックブレイドが、フォンを勢いよく水上へと引きずり出した。
「うお、うわあああッ!?」
この状況に最も驚いていたのは、水中から無事脱出できたフォンだった。
フォンが飛び出せば、彼の足を握っているレヴォルも、彼女を自分の傍から離すわけにはいかないリヴォルもついてくる。まるで大魚の一本釣りのような光景を眺めていると、剣が持ち主の元へと手繰り寄せられた。
好機を逃さず、フォンはレヴォルの首に蹴りを叩き込む。水の中以外では彼に利があるようで、首なしの人形はたちまちフォンの足から手を離し、姉同様に地面に激突した。
一方でフォンはというと、全身の痛みを堪えながらもどうにか無事に着地できた。
「げほ、ごほ……」
ぜいぜいと肩で息をする彼の体から刃が離れ、後方から走ってくる主人のもとに戻ってゆく。フォンは、自分を助けてくれた誰かの正体を、水中にいた頃から知っていた。
「……助かったよ……アンジー……」
蛇腹剣、ギミックブレイドを振るいながらフォンに駆け寄ってきたのは、アンジェラだ。
レヴォルに攻撃されてからずっと顔色がやや良くないが、刃でフォンを捕まえ、敵ごと引きずり出すほどの腕力は残っているらしい。薄手の鎧は針で貫かれた以外は大きな損傷もなく、一行では最も負傷の蓄積値が低いと言えるだろう。
そんな彼女が加勢として滝の下まで来てくれたのは、フォンにはかなり有難い。
「随分とやられちゃったわね。動けそうにないなら、休んでてもいいのよ?」
鼻で笑うアンジェラに微笑み返しながら、フォンはどうにか立ち上がる。
「……アンジーこそ……顔色が、悪いようだけど……?」
「あいつに針を刺されてから、なんだが調子が良くないのよ。血でも出過ぎたのかしらね?」
「調子が……それは、まさか……」
フォンが何かを言おうとするより前に、リヴォルがようやく戦いの準備を終えた。
首のないレヴォルに刃物と鎖鎌を持たせ、めをぎょろつかせて姉が吼える。
「お兄ちゃんと私の邪魔をしないでって昨日も言ったでしょ、このババア!」
婆と呼ばれ、アンジェラの額に血管が浮かんだ。歳はまだ二十二だが、十九のクロエですら苛立つ禁句だ。リヴォルを憎むアンジェラが聞けば、猶更怒るだろう。
「……ここでケリをつけてやるわ、ガキが」
「ケリをつけるのはいいけど、アンジー、クロエ達はどこに?」
「三人とも、さっきの戦いで傷が少し開いたみたいよ。滝の上で体を休めてから下りてくるように伝えて、私だけがこっちに来たの。どうする、五人揃うまであいつを放っておく?」
アンジェラの問いに、びしょ濡れのフォンは首を横に振った。
「……いいや、僕とアンジーで倒す。とどめは任せるよ」
「分かってきたじゃない、行くわよ、フォン!」
「ああ、言った通りケリをつけよう、アンジー」
すう、と瞳のハイライトを消して拳を構えるフォンと、蛇腹剣の刃を垂らすアンジェラ。
二人のコンビネーションに、白い髪を濡らしたリヴォルは天を仰いで激昂する。
「だから――お兄ちゃんから離れろって言ってるでしょうがああぁッ!?」
首なし人形ですら絶叫しているのかと見紛うほどの雄叫びを上げながら、姉妹は物凄い勢いで二人に突進してきた。
今度こそ因縁を、過去の憎悪を斬り払うべく、忍者と女騎士は迎え撃った。