3.


 ある日、誠は登校日だからと言って学校に行く支度をした。
「長期休暇なのに行く日があるなんて、大変だね」
「あはは……もう慣れちゃいました。じゃぁキャプテン、昼には帰ってきますので」
「あぁ、行ってらっしゃい」
 誠の両親はいつも仕事でいない。掃除は夜になったら母親がやっていて、その度にクローゼットに隠れているが、クローゼットの中にまで親には興味がないのか、開けられたことはなかった。
 ……それにしても不気味だ、とキャプテンは膝を抱えた。誠の前では決して口にしない不安が、溜息になって流れ出てくる。
 まず、全く腹が減らない。いい匂いがしても唆られない。次に、ここに来て幾日か経つが、排泄もない。風呂にも入ってないのに、臭わない。
「……これは夢なのか?」
 そう口にしても仕方がない。頬を抓ってみたって痛いだけで何も変わらないのだ。これは夢じゃないのだろう。夢でないとしたら……何なのか、何もわからない。
 紙と鉛筆の削りクズの溜まったゴミ箱、デジタル時計という、と教えてもらった不思議な時計、本のたくさん詰まった本棚。ここに来てからずいぶん見慣れた景色だったが、まだ、現実味がない。
 カチカチと時間の過ぎていく音がする。少し考えるのに疲れて、そのままベッドの上に横になった。足を軽く折らないと少し入りようなベッドだが、寝心地は悪くない。ここに来てからはずっと座って寝ていたし、体を動かせないから体はガチガチになっていた。あぁ、眠い。
 眠気には抗えず、キャプテンは微睡みに落ちていき、そのうち意識を失った。

 ふと目を開けると、すでに夕刻だった。だが部屋の中に気配を感じない。誠はまだ帰ってないのかと思いながら部屋の中を見回すと、サッと顔が青ざめた。ゴミ箱が空になっている。誠は帰っていたのか?自分を起こさないように気を使った?色々考えるも、何よりも焦りがあって考えきることができなかった。一方で、冷静でもあった。親のどちらかなら、必ず自分を見て叫んでいるはずだろう。それが無いということは、誠がやったと考えるのが正しい。
 そうだ、そうに決まっていると思ってしまえば、焦りも徐々に収まっていった。だがその一縷の希望でさえ、次の瞬間に打ち砕かれてしまった。玄関の方から話し声がしたのだ。ドアに耳を押し当てて内容を聞き取る。
「ただいま……」
「あら遅かったわね」
「友達と遊んでて……」
「こんな時間まで!? あんたねぇ、受験生なのよ!? ちゃんと勉強しなさい! あとゴミ箱! ちゃんと中身捨てなさいよ」
「はい……」
 子供が友達と遊ぶことすら許さないとは酷い親だな、という感情よりも先に、震えが来た。親がやったのだという事実が、ぐるぐると頭の中を回る。親がやった、だが親は悲鳴の一つも上げていない、誠に対し自分のことについて言及していない。どういうことだ、何がどうなっている、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい──!
 一つの考えが思い浮かぶ。呼吸が荒くなる。
「ごめんなさいキャプテン、遅く……」
「はっ、はぁ、はぁっ……ひゅっ……」
「きゃ、キャプテン!?」
 空気が、肺に届かない。辛うじて誠の声は認識できた。だが、また遠くなっていく意識の中で、なんて言っているのかまで認識はできなかった。

 反応がないということは……見えてないってことじゃないか。そんな考えは、馬鹿げていて、所々に矛盾があって、所々で辻褄が合う。

 ……俺は、元の世界で死んでからここに来たのか?

 それが、過呼吸で力尽きる前に考えられた一つだった。

   ✢

 どうしたらいいのかわからなかったが、何とか彼の呼吸は彼が力尽きると同時に落ち着き、今はベッドでゆっくりと寝息を立てている。ゴミ箱のことを親に言われたときは肝が冷えたが、何とかキャプテンは上手く隠れたのだろうと思った。だが、ドアを開けてみれば、なぜか彼は苦しそうに息をしていた。
 起きたら何があったのか聞いてみよう、そう思いながら彼はランドセルの中身を取り出した。その中には、まだ一文字も書いていない作文用紙があった。
 宿題は大体提出できた。残りは将来の夢が題材となっている作文と、ポスターづくりくらいだったが、誠はいつもこの2つが苦手だった。絵の上手い下手は誰にでもあることだと言って親は気に止めることはなかったが、作文は別だ。親の審査が入る。それ故に、誠は本当の夢を書けたことはない。
 それでも苦痛というほどのものはなかった。どうせ公務員にさせられるのだから、それらしいことを書いておけば親は満足する。いい子だという。今年も本当はそれらしいことを書いて、今日のうちに提出するつもりでいた。
 誠は用紙をしばらく見つめたあと、自分のベッドで寝ている彼を見つめる。彼が、惑わせるというのなら、そうなのだ。

 ──出ればいいじゃないか。
 ──海に出ればいい。
 ──君の人生は君のものだ。

「う……ん……」
 わずかにキャプテンが声を上げる。薄らと瞼を上げると、寝転がったまま大きな欠伸を一つ漏らして、ぼんやりした顔のまま起き上がった。
「あれ……俺……」
「キャプテン!」
 まだ寝ぼけ眼で彼は誠の顔を見た。そのうち焦点があってきたのか、小さな声で誠の名を口にした。
「マコト……」
「良かった、突然倒れるから心配したんですよ? 何かあったんですか?」
 キャプテンは数回まばたきをしたあと、額に手を当てた。どこから話そうか、というより、どこまで考えたのだったを思い出しているようだ。やがて、ゆっくりと語りだした。
「……マコトが学校に行ったあと、少し寝ようと思って……かなり長いこと寝てしまった」
「はい」
「起きたのは……夕方。マコトが帰ってくる直前」
「……え?」
「ゴミ箱の中身が……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 マコトは目を見開いて彼の肩を、掴もうとして、すり抜けた。マコトは悲鳴を上げそうになったのを何とかこらえようと、咄嗟に両手で口を塞いだ。何とか悲鳴は出ずに、マコトは空気を飲み込んだ。
「……やっぱり死んでたか」
 さして驚きもせず、キャプテンは右手を開いて握ってを繰り返した。
「私の姿はきっと君にしか見えてない。腹も減らないし、排泄もない、匂いもしない」
「で、でも、本とかは触れて……」
「多分だけど……今の今まで、私は自分が霊的なものだと思ってなかった。だから触ることができたんだろう。でも、死んでるとわかった今では……」
 キャプテンは言いながら立ち上がり、本に触れそうとして、やはりすり抜けた。

 話を整理しようか、とキャプテンは言った。
 彼は夕方に目を覚ました。その時、ゴミ箱の中身が空になっているのを見て、帰ってきた誠が自分でやったのだろうと思ったが、誠が帰ってきたときの母親との会話を聞いて、それをやったのは母親だと知った。そして思ったのが、自分は死んでいるのではないか、ということだった。死してから、ここに来たのではないかと。
「もう、頭の中がパンクしそうで、過呼吸を起こしたみたいだ。迷惑をかけたね」
「……いえ。……あの、それより……」
 誠はごくりと固唾を飲んでキャプテンに尋ねた。
「自分の名前は、思い出せましたか?」
「……いや」
「……貴方が幽霊なら、ですけど……幽霊は、自分の名前を思い出したら、成仏できるという話があります」
 キャプテンは、わずかに目を見開いた。だが、すぐに苦笑した。
「300年も名前が思い出せずに彷徨っていると?」
「いえ、違います……違うんだと、思うんです」
 誠はそう言いながら、ランドセルの中に手を入れた。そして、一冊の本を取り出す。なんだか少し古そうな本だった。
「学校の図書室とか、市の図書館とか色々行ったけど、見つからなくて……隣町の大きな図書館で見つけたんです、この本。……それで帰りが遅くなったんですけど。これ、海に関する人……船乗りなんかの海拓者、海軍の偉人、そして──海賊に関する本です」

 凪いでいた青い瞳に、不穏な影が宿る。

「今まで話してきた中で推測するに……キャプテンは、こういう人ですよね」

 『投票権を平等にするべき』、かつ『法は守るべき』と主張し、『道具の管理は徹底的に』することを推奨し、『喧嘩は人の迷惑にならないところで決闘』するくらいが良く、『女性と子供には優しく』し、『金品の盗み、詐取を許さず』、『賭博が嫌い』で、『酒を遅い時間に屋内で飲むことも嫌う』。『裏切り者は死刑にすべき』という過激な考えを持つ一方で『福利厚生はしっかりするべき』と考える。
 そして、敬虔なクリスチャンで、『安息日には仕事をしない』──18世紀初頭の人物。ぶどうに拒否反応を起こしたのは、死因のせいだろう。

「最初は、誰だろうと思いました」
 キャプテン、と誠は彼に呼びかけた。彼は、もうすっかり全てを思い出したようだ。ある言葉を聞いたせいで。
 少年の頃に海に出た。やがて航海士になり、その船は捕縛され──望まず海賊船に乗せられた。その船長は、わずか六週間後に戦士して、その際頭角を示した彼は、重役たちの推進によりそのまま跡を継いで船長となった。
 特別厳しい法を敷き、圧倒的なカリスマ性で、あらゆる船を襲い、奪った、海賊の黄金期において最後にして最大の海賊。
「推定ですが……かの海賊エドワード・ティーチ……黒髭の五倍も稼いだと言われています」
「……そうか。そんなに稼いでいたのか。……あの海の悪魔と比べられるのはあまり好きではないんだが」
 苦笑する彼に対して、誠は笑うことはない。笑うことができなかった。何しろ、目の前にいる彼は、世界の歴史に名を刻んだ悪党なのだ。

「……貴方の名前は、バーソロミュー・ロバーツですね」

 彼の死は海賊の黄金期の終焉を意味した。海軍に見つかり、逃げ切れず、最期は葡萄弾に喉を貫かれ即死。その遺体は、遺言のとおりに重りとともに海の底へ沈められた。
「名前を思い出せず、何百年も彷徨っているのだとは考えられません。……けれど、何でここにいるのかは、僕にも……」
 キャプテン──バーソロミューは、その問いに対してゆるゆると首を振った。
「さっぱりわからない。わからないけれど……何か意味があることではあったんだろうと思うよ。魂は人に操れるものではないのだから……恐らくこれも、神の思し召しなのだろう。ならば……」
 己が、望まずして海賊になったのと同じように。それが神の思し召しなら、たとえ地獄に落ちるような試練でも、それをお与えになるのならば、それは受けねばならないのだ。そして目的を達成するべきなのだ。
「君が、海に出たいと言っていたから、ここにいると考えてもいいだろうね」
「……え?」
「何度も言ってるはずだよ、海に出ればいいと。まさか、まだ親がどうのこうのと言うつもりかい?」
 仕方のないことだと、誠は俯いた。親が全てなのだ、今も昔も。昔は養子縁組の手続きなどなかったから、親がだめなら育ててくれる人を自分で探そうとできたかもしれない。それが今は通用しない。家出して夜に歩き回れば警察に見つかる。
「……明日、君の親が仕事に行ったら海に行こう。……そこで俺と君はお別れだ」


 翌日、宿題なんか放り出して、誠はバーソロミューとともに彼と出会った海へ向かった。町中の人は、やはり誰もバーソロミューには気づいていないようだ。
 バーソロミューの目を覚ました浜辺に着くと、彼はそのままの服装で、海の方へ歩いていき、腰のあたりまで水に浸かった。落ち着く、とでも言うような顔をしていた。
「マコト」
「……はい」
「十字の切りは知ってるかい?」
「……切り方?」
「宗派によって違うのだけど……」
 バーソロミューはそう言いながら、右手の指を伸ばした。誠も真似するように、右手の指を伸ばす。その様子を見たバーソロミューはゆっくりと十字を切り始めた。まずは額へ、額から胸へ、胸から左肩へ、左肩から右肩へ、最後は祈るように両手を組んで少し俯いて。
「父と子と、精霊の御名によって、アーメン」
「……父と、子と……精霊の、御名によって……アーメン」
 言い終わって顔を上げると、彼は笑っていた。
「貴方がた、今泣いている人は幸福である。……マコト」
 彼の青い瞳が、真っ直ぐに誠を射抜いた。
「今君が色々なものに縛られ、泣きそうならば、今は泣いておくといい。そしていつか雨が止んだとき、君はその楔を引き千切って笑うんだ。君自身の力で、抜け出せ」
「……僕の、力で……」
 ふと気がつくと、バーソロミューの体はもう徐々に薄くなって、日の光に照らされて見えづらくなっていた。それでもバーソロミューは寂しそうな顔一つせず、海に沈んでいる自分と、海に出るであろう君は、いつかきっと必ず、また会えるよと言うような、満面の笑みでいて。

「大海に臨めよ、マコト!」

 そのまま、ふわりと青い海へと消えていった。