1.


 漣の音が聞こえる。

 白い泡を寄せて、引いて、砂浜に打ち付ける音がする。

 ほら、そろそろ起きなさい、今日は父さんの仕事についていくんでしょう?──そんな声が聞こえた気がするが、幻聴だ。波の音が聞こえるから、そう聞こえただけだ──彼はそう考えながら、薄っすらと瞼を上げ、上半身を起こした。

 白い砂浜、打ち付ける波、広がる青い海に、海の色をそのまま映したような空、遠くに浮かぶ入道雲。徐々に、遠くで人々がはしゃぐ声まで聞こえてきた。
 ぼんやりとしていた頭が徐々に回りだす。回りだした頭で考え、これは異常だと認識した。
「……え」
 辛うじて出たのはその一音だけ。その続きは、ぱく、と声にならない驚きがただの空気として口から出た。おかしい、おかしい、これは確実に、おかしい!

「ここ、どこだ!?」

 ようやくそれが声として出てきても、叫んだ彼の周囲には誰もいない。遠くではしゃぐ人々にそんな声は聞こえるはずもなく、ただ近くに生えていた木に止まっていた蝉が、ミンミンと鳴くだけだった。

   ✢

 少年は机に座って、大人しく宿題の問題を解いていた。夏休みの宿題だけで正直いっぱいいっぱいだが、その上さらに中学入試の受験勉強なんて、憂鬱なことこの上ない。彼は問題を解く手を止めると、大きな溜息を吐き出した。差し出された炭酸水は、炭酸が抜けてただの水になっていた。丸眼鏡の向こう側にある水の滴るコップを眺めても、時は早く流れてくれない。
 少年、渡海誠は小学六年生だ。高校の教師である父親と、塾の先生である母親の間に生まれた彼は、非常に凡庸な子供だった。だが、両親はそんな彼に失望などしなかった。
 生まれながらの出来は仕方がない。ならばこれから賢くしていけばいいのだと、両親は明るく誠を励ましたが──誠にとって、それは成長するたびにストレスとなった。
 自分は別に頭がとびきり良くなくたって構わない。私立中学なんて行かなくていいし、自分だって塾に行ったり家に直帰して勉強したりせず、友達と遊んでから帰りたいといつも思っていた。しかし、それを口に出せば両親は激怒する。何だそのわがままは、折角勉強ができるよう育ててやっているのにと、頼んでもいないことをありがたいと思えと言う親に、誠は辟易して、もう何を言っても無駄なのだと諦めきっている。
 公務員になれ、と親は言うけれど、誠はもっと別のことがしたかった。
 何年前のことだったか、近所のおじさんがフィッシングボートを持っているという友達が、夏休み中にそれに乗らせてもらったという話を聞いた。父親に釣り、ましてや船の趣味なんてあるはずもない誠にとって、それは別惑星の文化のように見えたが、なんとその数日後、誠もその船に乗せてもらえたのだ。
 大きく広がる空、ボートと並走するイルカたち、通り過ぎていく潮風、キラキラと光る水面──船から見えた景色の全てが、誠を魅了した。その時誠の夢は、船乗りになることに決まった。もっと、もっと広く。もっと大きな世界を、もっと沢山の海を見たいと、彼の心は興奮していた。
 ……だが、あの親がそんなものを認めるはずがない。親に内緒で、スマートフォンでこっそりと海についての話や、もっと話を広げて過去の海にまつわる偉人を調べたりしても、虚しいだけだ。

 ふと時計を見ると、時間は三時になっていた。一段落ついたら気分転換のため少し散歩に行こうと、誠は再びノートに鉛筆を走らせた。

   ✢

「………………」
 誠は目の前の景色に呆然としていた。人が、ぐったりとしている。岩場が滑るから遊泳禁止、と言われている浜辺に、人が倒れている。ここは国道に面しているわけではない、子供がたまに通るような獣道を通った先にある小さな浜辺で、誰もこの倒れた人を見ることがなかったのだろう。
 ぐったりと倒れて目を閉じてはいるが、死んでいるわけではないようで、ちゃんと呼吸をしていた。
 背は高そうで、なんだか高級そうな真紅の半ズボンを身に着けて、それに飾り帯をつけていた。靴はブーツで、この時期ではかなり暑そうだ。上は少し古そう──使い古しているというわけではなく、中世ヨーロッパのような雰囲気があるという意味で──な物を着ていて、頭にバンダナを巻いている。顔を見る限りでは肌は浅黒いが、ズボンとブーツの間から少し見える脚を見る限り、おそらく日焼け肌なのだろう。
 誠は丸眼鏡を一度外し、目を擦ってもう一度目の前を見てみたが、その人物は相変わらず横たわっている。自分の頬を抓ってみたが、夢ではない。どうしよう……少し迷った末に、彼は鞄から先程自動販売機で購入した紅茶のペットボトルを彼の頬に当てた。
「っ、うわっ!?」
 暑さで気を失っていたが、冷たさに目が覚めたのだろう、浅黒の彼は勢いよく起き上がり、キョロキョロと周囲を見渡した。目をぱちくりとさせたあと、頭痛がするとでも言いたげに頭に手を当て、「これは夢じゃないのか……」と言いながら深く溜息を吐き出した。
「あ、あのぉ……」
 遠慮がちに誠が声をかけると、ようやく彼は誠に視線を向けた。深海のような青い双眸は濃いまつげに縁取られ、やや年は食っていそうだが美しい人だった。男でも緊張するような美貌に戸惑いつつ、誠は続きを口にする。
「大丈夫、ですか?」
「……あー……」
 外国人のようだが、先程の言葉を考える限り言葉は通じるようだ。彼は髪を掻いたあと、苦々しい顔をして言った。
「……正直、何も大丈夫じゃない」
「…………」
 誠は、少し考えたあと、「ここじゃ暑いし、移動しませんか」と彼に言った。彼は少し警戒していたようだが、自分一人ではどうしようもないと判断したのか、やがて立ち上がると誠についていった。


 二人が向かったのは、誠が来た獣道を海とは別の方向に向かった場所にある小さな公園だ。公園と言っても、屋根付きのベンチと古びた噴水、あとは水飲み場があるくらいで、遊具は一つもない。夜になると星が見えるが、日の差すこの時間では誰もいなかった。
 誠はペットボトルを渡すも、浅黒い彼はまじまじと見つめるだけで、飲もうとしなかった。
「これは何だ? この……液体は。紅茶のように見えるが……」
「……紅茶ですよ?」
「薬でも盛ってあるのかい?」
「えぇ!? 違いますよ!」
 誠は彼の手から紅茶を取ると、蓋を開けて大きく一口飲んだ。まだ冷たい紅茶が火照った体を冷やすように流れる感覚に思わず笑みを零すと、ようやく彼は安全を確認したらしい。ペットボトルを再び受け取ると、小さく一口飲んだ。誠と同じ感覚を得たのか、目を見開いてまたも注意深く紅茶を眺めた。
「ね? 大丈夫でしょう?」
「あ、あぁ……そのようだね。疑ってすまない」
 彼はようやく笑みを見せて、誠に紅茶を返した。こほんと一度咳払いをすると、彼は少し笑みを浮かべる。
「助けてくれてありがとう。俺の名前は……と、言いたいところだが……信じてもらえないだろうけど、記憶を失っていてね……覚えてないことが沢山あるんだ。自分の名前も思い出せない」
「記憶喪失!?」
 驚いた誠は、信じられないというように言ったが、彼としてもそんな反応をされても困ると思ったのか、ははは、と苦笑いを浮かべていた。
「覚えていることといえば……うーん……あぁそう、船が……他の船に襲われ……うん、襲われたんだな……よく覚えてないけど……あと、今は夏のようだけど……ここで目を覚ます前は、冬だったような気がする。いろいろとコートとか帽子とかも身につけていたはずだが……どこかへ行ってしまったみたいだ。ロザリオまでないとは、髪に見捨てられてしまったかな……」
 はぁ、と重い溜息をついて、彼は胸の前で十字架を切った。
「あの、クリスチャンなんですか?」
「え? ……あぁ、そう……うんそうだ、敬虔なクリスチャン……のはずだな」
 話しているうちにわかるかもしれないと思って、誠は彼に色々と質問したが、記憶が不明瞭な部分も多い。だが、一つ、信じがたい事実だけは判明した。
「そういえば……ここはどこだい? 海の向こうにはやたらと大きな建物なんかも見えたが……もしかしてここが噂に名高いアトランティスだったりするのかな?」
「違いますよ……ここは日本です。東の国の……」
「にほ……日本!? え、いや、おかしいな……聞いた話では日本は侍の国だろう? 皆が剣を持ち歩いているという……」
「いやいつの話ですか! そんなのもう百五十年以上前の話ですよ!」
 話の噛み合わなさに、二人は互いの目を見た。瞳は嘘は互いについていない。嘘は言っていないとするのならば、これは。誠の頭の中に一つの言葉が浮かび上がった。

 タイムリープ。

「あ、あの……」
「うん?」
「生まれた年は思い出せますか?」
「ええと……たしか、1600年代のだいぶ後半……1680年くらい……だったかな」
 誠は頭を抱えたくなった。彼はおそらく冗談は言ってない。彼は自分の年齢は覚えていないが、おそらく30代だろう。となると、彼は18世紀の世界から来たことになる。なるほど、日本を侍の国と認知しているわけだ。信じがたい現象だが、辻褄は合う。
 そんなことを考えていると、いつの間にか五時になったのか、夕焼け小焼けが流れ出した。ハッと誠は顔を上げて立ち上がる。
「っ! もうこんな時間……!? お、お母さんに怒られ……」
 そこまで言ったところで、目の前の彼をどうするか困った。もう大人だが、突然知らない世界に放り込まれた彼としてはどうしていいかまるでわからないだろう。ここで待っててくると言われても、明日のこの時間まで無食では死んでしまうのではないか、など短い時間で色々考えた結果、誠は「とりあえず、ついてきてください!」と勢いで言ってしまったのだった。



 家までの道中、二人は少し話をした。まず、おそらく彼が300年ほど前の時代からやってきたことと、彼のことをなんて呼べばいいか、という話だ。自分の名前を思い出せない彼は、じゃぁ、と言って一つ呼び名を言ったが、それが彼の名前のヒントになるかは、誠には今のところわからないのだった。いや、そもそも誠が知っている人かどうかもわからないのだ。考えるだけ無駄かもしれない。
 家に帰って誠は、すでに夕飯の支度を始めていた母親に少し怒られたものの、特に長々と説教されるでもなく自室へと戻ることができた。誠の部屋は一階で、窓を開ければ簡単に中に入ることができる。靴を脱ぐように言うと、彼は素直に従って誠の部屋に窓から入った。
「お母さんやお父さんは勝手にドアを開けたりしないので大丈夫だと思うんですけど、もし入ろうとしていたら合図するので、このクローゼットの中に入ってくださいね」
 彼はクローゼットを眺めて、おお、と感心するような声を出した。
「大きいね。立派だ。君は裕福な家の生まれなのかな?」
「いえ、普通の家ですよ……別にお金には困りませんけど」
「へぇ、金に困らないのはいいことだ。俺は……あ、そうだ」
「え?」
 はた、と何か思い出したらしい。たしか、と彼は考えながら言った。
「教育を受ける金がなくて……少年の頃から水夫として働いていた……気がする」
 彼は遠い目をしてそう言った。そういえば、船が襲われて……と言っていたな、と誠は思い出していた。
「だがまぁ、教育を受けられず船乗りになる子なんて沢山いたから、参考にはならないな」
 彼は残念そうに顔をしかめたが、そのあと誠の方へ顔を向けた。
「元の世界に帰れるまで、少しばかり世話になるよ、少年」
「……はい、『キャプテン』」

 「呼び名か、『キャプテン』なんてどうだ?」と、帰路で彼は言ったのだ。キャプテンだったかどうかなんて、彼は別に覚えていないらしい。だが、いい響きだろうと笑っていた。
 たとえ大人だろうと、本当は、知らないところへ突然現れて、どうすればいいのかもわからなくて、頼る宛も子供一人しかない状況が不安で堪らないだろうに、本来明るい性質なのか、それともその子供を気遣って気丈に振る舞っているのか。そんなことは誠には判断できないが、生来の気性にせよ気遣いの結果にせよ、キャプテンに相応しいだろうなと、なんとなく感じられた。
「さて、ご飯はどうしようかな……」
「食事? だったら特に必要ない。なんでか空腹にならないからな」
「え? でも……」
「心配しないでいい。育ち盛りなのに俺に飯を分け与えてる場合でもないだろう?」
「…………」
 心配ではあったが、誠は頷いた。

 母親に呼ばれるまでの間、誠はこの世界のいろいろなことをキャプテンに教えた。ペットボトルを始め、写真、スマートフォン、ライト、服装、学校、勉強のことなどだ。キャプテンはどれも興味深そうで、特に電子機器の類なんかは何がどうなっているのかと誠に聞いたが、いくら勉強をたくさんしているとはいえ、小学生の誠にそこまでの知識はなく、わからないと答えるしかなかった。
 学校や勉強のことを教えるために、誠は教科書を見せた。彼は難しい顔をして眺めたが、どうもよく理解はできなかったようだ。
「君はこんな難しいものをやってるのか?」
「これ、この時代では全然難しくないんですよ」
「凄いな……」
 言いながら彼は教科書の裏を見た。ふと、刻まれた名前を目に入れたようだ。そしてその部分を指さし、誠に尋ねる。
「君の名前を聞きそびれていたけど……これが君の名か?」
「あ……はい、そうです。渡海……渡海誠って言います」
「へぇ……良い名だ」
「はは……ありがとうございます」
 それからも、キャプテンは色々な教科書を見ては難しい顔をしていた。自分でもわかるものを大人が難しそうに見ているのは新鮮だった。そして、ポロっと口から言葉が漏れた。
「……あの、これは……少し弱音なんですけれど」
 誠は、自分が置かれている状況のことを話した。父と母は教育熱心で、自分はいつも勉強漬けであること。今日キャプテンに出会えたのは夏休みだったからで、夏休みが終わればまた、学校から帰ってすぐ自主勉強をせねばならず、そのまま一日が終わってしまうことを。
 キャプテンは、その誠の弱音を何も言わずに聞いていた。なぜ話してしまったのかはわからないが、何となく救われる気がしたのだ。
 やがて誠は母親に呼ばれてご飯を食べ、風呂に入ってから部屋に戻ってきた。下手にいじると壊れるものがあるので、と言われたキャプテンは大人しく過ごしていたが、誠が部屋に戻ってきたとき、彼は本棚の中から一冊の本を取り出していた。誠は勉強机の椅子に座りながら尋ねた。
「何を読んでるんですか?」
「ええと、先程教えてもらった、シャシン、がたくさん載ってるやつだよ」
「写真集ですね」
「……綺麗だ、とても」
 キャプテンは海が好きなんだな、と誠は嬉しくなった。誠の同級生にも海が好きな人はいる。だが、彼らは海で遊ぶのが好きなのであって、海の青さや広さを求めて、もっと遠くへ、と夢を抱いているわけではない。誠と同じ感覚で海が好きだという人は、一人もいなかった。
「この本は君のもの? それともご両親のもの?」
「僕のものです。って言っても……」
 誠は少し俯いて続けた。
「元々は知り合いのものなんですけど。…………何年か前に、友達の近所の人が、ボートに乗せてくれて……それが凄く楽しくて、船乗りになりたい……海に出たいなって思って……それをその人に言ったら、くれたんです」
「出ればいいじゃないか」
 あたかも当然のように言われた言葉に、誠はハッとしたように顔を上げた。何かおかしいことを言ったかな、とでも言いたげな顔をしたキャプテンは、海色の瞳で真っ直ぐ、彼の眼鏡の奥の瞳を見ていた。
「海に出ればいい」
「そんな……無理です、親に反対されてるのに」
「だから何さ、君の人生は君のものだ」
「…………」
 まるで綺麗事のような言葉だ。いつもなら聞き流しそうなその言葉に、誠は何故か心を打たれた。
「親はそりゃ、自分のために、子供のために、確実な道を歩ませたがるだろう。俺の場合は……実際親の望むままに進んだけれど、それがたまたま俺の好きな道だったに過ぎない。……けれどね」
 「俺だって本当は勉強がしたかったよ」、彼はそう言った。彼は、今こうして勉強漬けの日々に嫌気が差している誠のことすら、羨ましいのだ。
「人はね、マコト。自分の置かれている環境を心地がいいと思っていようが、いなかろうが、どこかで別の環境にいる人を羨んでしまうものだ」
「…………」
「生きている限り欲求は満たされない。必ずどこかに不満と羨みはある」
 誠は、足の上に置いていた両手を、自然と握りしめていた。言葉の続きを、何も言わずに求めた。ではどうすればいいのか、その答えを求めた。
「ならどうしたらいいのか? ……その答えは」 
 キャプテンは笑って写真集を閉じた。数歩前に出てコツンと背表紙で彼の頭を軽く突いた。

「自分で見つけるんだ」
2.


 あまりキャプテンを人目につかせるわけにも行かず、誠は彼を部屋から出すことがなかった。だが、いつもなら絶対に一日に一度は散歩に行って気分転換をしていたのが、行かなくて済むようになったとも言える。キャプテンは別に部屋の中にいるのを不満に思わないようだった──実際は不満だったかもしれないが、状況として外に出るのは得策ではないと理解していたのだろう──し、誠は外に散歩しに行かなくても、キャプテンが話し相手になってくれた。
 彼は、勉強なんかしてないとは言っていたし、特に何か教えてくれるということはなかった。だが、誠には思いつかないような観点で物事を見ていた。


 ある日、いつものように喋りながら勉強をしていると、道路の方から何か話す音が聞こえ、キャプテンは驚いたのか肩を竦ませた。誠は何度も聞いたことあるものだ。
「い、今の大きい女性の声はなんだ……?」
「ウグイス嬢です」
「ウグイス……?」
「ええと、もうすぐ選挙って言って、土地のリーダーを決める投票があります。立候補者は、自分に票を集めるために、女性に頼んでアピールしてもらってる……って感じです」
「へぇ……それはいいことだ。何においても民の意見は取り入れられるべきだからね。君もその投票をするんだろう?」
 当然のように言ったキャプテンに、誠は思わず笑ってしまった。なんで笑うのか、と言いたげな訝しげな瞳を見て答える。
「僕は行けないんです」
「……どうして?」
「投票に行けるのは18歳になってからって決まってて、子供は投票に参加できません」
「それは悪しき習慣だな……」
 難しい顔をして腕を組むその姿に、今度は誠が不思議そうにした。子供の意見など取り入れても、どうにもならない。政治のことがよくわからない子供に意見を聞いても、突拍子のないことになるのは間違いないのだ。だがキャプテンは違った。
「たとえ子供だろうと平等に権利はあるべきだ。そりゃ、子供と大人どっちのほうが知識がありますか?と言われれば間違いなく大人だ。でも、知識があるなら正しいのかと言われれば、そうじゃない」
 誠は、僅かに目を見開いた。
「持論だけど、この人はいい人だ、この人は悪い人だ、と見抜くだけの力なら、大人より子供のほうが上だと思うよ。それに今の子供はどんなことを考えているのか、大人はそれを知る必要がある。『子供だから』と言って権利を取り上げるのは……正しいとは思えないな」
 ──彼が生きた18世紀のヨーロッパといえば、絶対王政の時代だ。身分で全てが決まり、権力を持った人間はそれを振りかざし、国を掌握し、反抗する人は弾圧する……それが当然の時代。だからこそ、そういう意見を持つ彼が異端に見えた。そんな時代に生きてきたのなら、まず投票で決まることが不思議ではないのか。それとも彼は──反乱者としての素質があるのか。
 気になった彼は、勉強の手を止めたまま彼に訪ねた。
「あの、その、大人が絶対ではないって、いつ思ったんですか? 何かきっかけとか……」
「……絶対これ、というきっかけはなかった気がするな……ただ、俺は君より小さい頃から、世界を知っていたからね。色々見て、成長していくうちにそう思うようになった、というだけだと思うよ」
 少年の頃から船乗りをしていた、という話を彼は思い出した。今の時代の子供が知る大人といえば、自分を育てる親と、勉強を教える先生くらいだ。そうして育てられたから、この人は勉強を教えるから、そうした過程で自分たちは大人を正しいと思ってしまうのかもしれないが、キャプテンは違う。もっと沢山の大人を見ているうちに、これは間違ってる、これはおかしいと思うことが増えたのかもしれない。そんなことを誠は考えていた。



 翌日、また選挙カーが通っていった。別段驚きはしなかったが、キャプテンはまた難しい顔をしていた。
「うーん……大人だけが決めるのはまぁとにかくとして……腐敗しないか心配ではあるね」
「へ? 腐敗?」
「心配じゃないかい? だってリーダーというのは基本、自分だけ有利な規律を突然作ったりするじゃないか」
 あぁ、なるほどと思った誠は、今の時代はそんなことはないと前置きしてから、現代日本の政治の仕組みを説明した。どのような自治体でも、全ての法は人の上にあり、個人の気分などで変えられるものではないのだと。
 それは素晴らしい、と彼は言った。
「うんうん、いいことだ! 権力の集約はろくなことをもたらさないと思うよ。それは船の上でも同じだ。船長の独断で全てが変わってしまったら船員は不満を抱えるだろうし、海の上では海流によって船が難破することもあり得る。それを避けるために航海士もいて──」
 はた、と何か思いついたようにキャプテンの言葉は止まった。熱くなって語りだしたな、と内心苦笑していた誠は、その様子に首を傾げたあと尋ねた。
「何か……思い出しましたか?」
「航海士……あ、あぁ、そうだ! 俺は何かの船で航海士をしていた。等級持ちだった……何等だったかは覚えてないけど……」
「等級航海士!? 凄いじゃないですか!」
「うん……だが……」
 何かまだ、続きがあったような気がするよと、彼はこめかみを抑えた。


 鉛筆を削っているところを、興味深く見ていた。
「それは鉛筆?」
「はい……キャプテンが使ってたの、今とはやっぱり形が違いますか?」
「いや、鉛筆は同じようだけど……それよりこっちに興味あるかな」
 キャプテンが指さしたのは、卓上鉛筆削りだった。
「このレバーを回すだけでいいのかい?」
「はい。きれいに削れますよ、こんな風に」
 言いながら誠は削り終えた鉛筆を見せた。鋭利になった鉛筆に、おお、とキャプテンが声を上げる。
「すごいな。昔はナイフで削るしかなかったからね」
 技術の進歩とは素晴らしい、と彼が笑うのに釣られて誠も笑った。何もかもが、誠にとって当たり前の景色だったのに、キャプテンがそれを面白がるから、これは凄いことなんだと実感する。学校では習わないことを学んでいるのだと実感した。昔の人は、鉛筆削り一つでもこんなに新鮮な反応をするのだと。
「物の整備は大変なことだからね。それでもいつも点検しておくに越したことはないし、何なら義務化するべきだ。便利な道具があるならなおさらだろう?」


 若い母親と幼い子供が暴行を受け、母親は死亡、子供は重傷であるという話が新聞に載っていたらしい。誠は新聞をちゃんと読めと親に言われていた。犯人はまだ捕まっておらず、夜だったために誰もその姿を見ていないそうだ。
「そもそも、なんでその親はそんな夜中に子連れで出歩いていたんだろうね?」
「ニュースでも見たんですけど、夫が暴力を奮っていたらしいって……離婚しようとすると殴られて離婚できないって近所の人に相談してたみたいです。その夫は不倫してるって噂もあって、死に別れってことにするために殺したんじゃないかって噂まで……」
「そこまで下衆だと思いたくはないが、可能性は高いね」
 誠は少し考えたあと、キャプテンに尋ねた。
「キャプテンの時代にそういう人はいなかったんですか?」
「そこまで頭を使う輩がまずいなかったよ。不倫したならそれはそれでさっさと前の妻は捨ててその相手と結婚するからね。でもそういう奴は俺は嫌いだったな」
 というか、と彼は続けた。
「女子供に限らず、仲間は大切にしたいものだけどね」


 ある日、外が騒がしかった。なんだろう、と二人は気にして、窓から外を見てみた。だが、誠は嫌な顔をすると閉めてしまった。
「あいつらか……」
「あいつら?」
 キャプテンが不思議そうな顔をしたので、誠は説明した。外で騒がしくてしていたのは、誠の同学年の男子たち数人で、彼らは学校をしょっちゅうサボったり、下級生をいじめたり中学生に喧嘩を売ったりしている連中なのだ。
「止めなくていいのかい?」
「……僕一人じゃ……それに、今は煩く話してるだけで誰がいじめられてるわけでもないですから」
 そう言うと、キャプテンもそれもそうかと納得した様子だった。
「……ああいう輩は、将来苦労するさ。……この世界ではわからないが」
「……」
「遅くまで酒を飲んで賭博して、大負けして地面に這いつくばれくらいには思うよ。行くやつは挙げ句の果に、金品を盗んだりもして人生を棒に振る。そこまで落ちろと思うのも、そう悪いことじゃないさ」
 俺は賭博も盗みも、遅くまで酒を飲むのだって好きではないけどねと、キャプテンは嘲るように笑った。


 ある日、父がずいぶんと荒れた様子で帰ってきた。どうも、プロジェクト内で裏切り者が出て、こちらのプロジェクトを台無しにした人がいたらしい。
「前々からあいつのことは気に入らなくて、度々喧嘩していたが……あの野郎……!」
 母にそう愚痴っているのが、誠の部屋にまで聞こえてきた。
「僕に立派になれと言うくせに、お父さんはあれ、立派っていうのかな」
「うーん……立派にもいろいろ意味はあるからね。そこは俺が判断していいことではないが……それにしても喧嘩は感心しないな」
 やはりそこはそうなのか、と思いながら誠はキャプテンを見た。キャプテンは扉の向こうをじっと見つめたあと、視線をずらし、何でもないような顔で言った。
「どうせ何度も喧嘩するなら、そんなのは一度で済ませたほうがいい。相手が死ぬまで人の邪魔にならないところで決闘でもした方が手っ取り早いと思わないか?」
 誠はその言葉に、ぎょっとして目を見開いた。思わず驚いてしまったが、そうだ、目の前の彼は何百年も前に生きた人なのだ。発想は今の人より過激だろう。
「そ、そこまでしますか……? 今は決闘とかできませんけど」
「なんだ、出来ないのか? ……じゃぁ裏切り者は死刑とかは?」
「社内の裏切りは法では裁けないかと……」
「なんだ、生温い世界だね」
 ゆるゆるとキャプテンは頭を振ったが、その時、また父の声が聞こえた。
「まぁ、この件で次のボーナスは弾んでくれるとか言っていたけど……」
「あら、良かったじゃない」
 誠は苦笑した。わからないだろうと思って、ボーナスっていうのは普段もらう給料とは別のお金なんですと説明した。
「なるほどね。今回の件で裏切りがあったことを理解されて……ということか。良かったじゃないか。福利厚生はしっかりしてないとね」
 その日の夜、福利厚生はしっかりと言っていたことだし、と、誠はキャプテンに夜ご飯に出たぶどうを持ってきたが、彼は嫌そうな顔をしてぶどうを拒否した。
「ぶ、ぶどう嫌いなんですか?」
「わ、わからない……けど、やめてくれ。……見たくもないんだ、それ」


 日曜日でも、誠は勉強していた。
「……子供の仕事は勉強だとこの世界では言うらしいけどね」
 キャプテンは苦々しい顔で誠に声をかけた。
「何も安息日に仕事をすることはないんじゃないか!?」
 そういうと思った、と言いたかったがそんな言葉は出てこず、うっと誠は唸った。敬虔なクリスチャンなのだ、安息日……つまり日曜日には仕事をしないと考えるのが彼の基本だ。だがそうはいかない。日曜日でも気は抜けないのだ。
 母は友達とお茶にでかけているし、父は釣りをしに行った。家の中には誠しかいないだけに、普段静かなキャプテンも声を張り上げる。
「僕はクリスチャンではないので……」
「それはそれだ、君の父母も遊びに行ってるんだろう? 君だけ仕事する義理はないだろう!」
 それもそうだが、親には逆らえないのだ。逆らおうと思ったこともない誠に、勉強しないという手は考えられなかった。
「船乗りに休みはあったんですか?」
「ないよ。というか、誰かは絶対仕事しないと船沈んだら洒落にならないからね。みんなそれで仕事はしたけど……それはそれだ。陸の常識は海じゃ通じないんだから。でもここは陸だ!」
「……キャプテン」
 今の時代はですね、と誠は前置きした。昔と違って娯楽が今の世界には多い。そしてその娯楽を支えるのは、みんなが休みである日曜日に働く人なのだと。
「だからそう、安息日なのにと怒らないでください。みんな代わりに、ちゃんと休みがあるんですから」
3.


 ある日、誠は登校日だからと言って学校に行く支度をした。
「長期休暇なのに行く日があるなんて、大変だね」
「あはは……もう慣れちゃいました。じゃぁキャプテン、昼には帰ってきますので」
「あぁ、行ってらっしゃい」
 誠の両親はいつも仕事でいない。掃除は夜になったら母親がやっていて、その度にクローゼットに隠れているが、クローゼットの中にまで親には興味がないのか、開けられたことはなかった。
 ……それにしても不気味だ、とキャプテンは膝を抱えた。誠の前では決して口にしない不安が、溜息になって流れ出てくる。
 まず、全く腹が減らない。いい匂いがしても唆られない。次に、ここに来て幾日か経つが、排泄もない。風呂にも入ってないのに、臭わない。
「……これは夢なのか?」
 そう口にしても仕方がない。頬を抓ってみたって痛いだけで何も変わらないのだ。これは夢じゃないのだろう。夢でないとしたら……何なのか、何もわからない。
 紙と鉛筆の削りクズの溜まったゴミ箱、デジタル時計という、と教えてもらった不思議な時計、本のたくさん詰まった本棚。ここに来てからずいぶん見慣れた景色だったが、まだ、現実味がない。
 カチカチと時間の過ぎていく音がする。少し考えるのに疲れて、そのままベッドの上に横になった。足を軽く折らないと少し入りようなベッドだが、寝心地は悪くない。ここに来てからはずっと座って寝ていたし、体を動かせないから体はガチガチになっていた。あぁ、眠い。
 眠気には抗えず、キャプテンは微睡みに落ちていき、そのうち意識を失った。

 ふと目を開けると、すでに夕刻だった。だが部屋の中に気配を感じない。誠はまだ帰ってないのかと思いながら部屋の中を見回すと、サッと顔が青ざめた。ゴミ箱が空になっている。誠は帰っていたのか?自分を起こさないように気を使った?色々考えるも、何よりも焦りがあって考えきることができなかった。一方で、冷静でもあった。親のどちらかなら、必ず自分を見て叫んでいるはずだろう。それが無いということは、誠がやったと考えるのが正しい。
 そうだ、そうに決まっていると思ってしまえば、焦りも徐々に収まっていった。だがその一縷の希望でさえ、次の瞬間に打ち砕かれてしまった。玄関の方から話し声がしたのだ。ドアに耳を押し当てて内容を聞き取る。
「ただいま……」
「あら遅かったわね」
「友達と遊んでて……」
「こんな時間まで!? あんたねぇ、受験生なのよ!? ちゃんと勉強しなさい! あとゴミ箱! ちゃんと中身捨てなさいよ」
「はい……」
 子供が友達と遊ぶことすら許さないとは酷い親だな、という感情よりも先に、震えが来た。親がやったのだという事実が、ぐるぐると頭の中を回る。親がやった、だが親は悲鳴の一つも上げていない、誠に対し自分のことについて言及していない。どういうことだ、何がどうなっている、おかしい、おかしい、おかしい、おかしい──!
 一つの考えが思い浮かぶ。呼吸が荒くなる。
「ごめんなさいキャプテン、遅く……」
「はっ、はぁ、はぁっ……ひゅっ……」
「きゃ、キャプテン!?」
 空気が、肺に届かない。辛うじて誠の声は認識できた。だが、また遠くなっていく意識の中で、なんて言っているのかまで認識はできなかった。

 反応がないということは……見えてないってことじゃないか。そんな考えは、馬鹿げていて、所々に矛盾があって、所々で辻褄が合う。

 ……俺は、元の世界で死んでからここに来たのか?

 それが、過呼吸で力尽きる前に考えられた一つだった。

   ✢

 どうしたらいいのかわからなかったが、何とか彼の呼吸は彼が力尽きると同時に落ち着き、今はベッドでゆっくりと寝息を立てている。ゴミ箱のことを親に言われたときは肝が冷えたが、何とかキャプテンは上手く隠れたのだろうと思った。だが、ドアを開けてみれば、なぜか彼は苦しそうに息をしていた。
 起きたら何があったのか聞いてみよう、そう思いながら彼はランドセルの中身を取り出した。その中には、まだ一文字も書いていない作文用紙があった。
 宿題は大体提出できた。残りは将来の夢が題材となっている作文と、ポスターづくりくらいだったが、誠はいつもこの2つが苦手だった。絵の上手い下手は誰にでもあることだと言って親は気に止めることはなかったが、作文は別だ。親の審査が入る。それ故に、誠は本当の夢を書けたことはない。
 それでも苦痛というほどのものはなかった。どうせ公務員にさせられるのだから、それらしいことを書いておけば親は満足する。いい子だという。今年も本当はそれらしいことを書いて、今日のうちに提出するつもりでいた。
 誠は用紙をしばらく見つめたあと、自分のベッドで寝ている彼を見つめる。彼が、惑わせるというのなら、そうなのだ。

 ──出ればいいじゃないか。
 ──海に出ればいい。
 ──君の人生は君のものだ。

「う……ん……」
 わずかにキャプテンが声を上げる。薄らと瞼を上げると、寝転がったまま大きな欠伸を一つ漏らして、ぼんやりした顔のまま起き上がった。
「あれ……俺……」
「キャプテン!」
 まだ寝ぼけ眼で彼は誠の顔を見た。そのうち焦点があってきたのか、小さな声で誠の名を口にした。
「マコト……」
「良かった、突然倒れるから心配したんですよ? 何かあったんですか?」
 キャプテンは数回まばたきをしたあと、額に手を当てた。どこから話そうか、というより、どこまで考えたのだったを思い出しているようだ。やがて、ゆっくりと語りだした。
「……マコトが学校に行ったあと、少し寝ようと思って……かなり長いこと寝てしまった」
「はい」
「起きたのは……夕方。マコトが帰ってくる直前」
「……え?」
「ゴミ箱の中身が……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 マコトは目を見開いて彼の肩を、掴もうとして、すり抜けた。マコトは悲鳴を上げそうになったのを何とかこらえようと、咄嗟に両手で口を塞いだ。何とか悲鳴は出ずに、マコトは空気を飲み込んだ。
「……やっぱり死んでたか」
 さして驚きもせず、キャプテンは右手を開いて握ってを繰り返した。
「私の姿はきっと君にしか見えてない。腹も減らないし、排泄もない、匂いもしない」
「で、でも、本とかは触れて……」
「多分だけど……今の今まで、私は自分が霊的なものだと思ってなかった。だから触ることができたんだろう。でも、死んでるとわかった今では……」
 キャプテンは言いながら立ち上がり、本に触れそうとして、やはりすり抜けた。

 話を整理しようか、とキャプテンは言った。
 彼は夕方に目を覚ました。その時、ゴミ箱の中身が空になっているのを見て、帰ってきた誠が自分でやったのだろうと思ったが、誠が帰ってきたときの母親との会話を聞いて、それをやったのは母親だと知った。そして思ったのが、自分は死んでいるのではないか、ということだった。死してから、ここに来たのではないかと。
「もう、頭の中がパンクしそうで、過呼吸を起こしたみたいだ。迷惑をかけたね」
「……いえ。……あの、それより……」
 誠はごくりと固唾を飲んでキャプテンに尋ねた。
「自分の名前は、思い出せましたか?」
「……いや」
「……貴方が幽霊なら、ですけど……幽霊は、自分の名前を思い出したら、成仏できるという話があります」
 キャプテンは、わずかに目を見開いた。だが、すぐに苦笑した。
「300年も名前が思い出せずに彷徨っていると?」
「いえ、違います……違うんだと、思うんです」
 誠はそう言いながら、ランドセルの中に手を入れた。そして、一冊の本を取り出す。なんだか少し古そうな本だった。
「学校の図書室とか、市の図書館とか色々行ったけど、見つからなくて……隣町の大きな図書館で見つけたんです、この本。……それで帰りが遅くなったんですけど。これ、海に関する人……船乗りなんかの海拓者、海軍の偉人、そして──海賊に関する本です」

 凪いでいた青い瞳に、不穏な影が宿る。

「今まで話してきた中で推測するに……キャプテンは、こういう人ですよね」

 『投票権を平等にするべき』、かつ『法は守るべき』と主張し、『道具の管理は徹底的に』することを推奨し、『喧嘩は人の迷惑にならないところで決闘』するくらいが良く、『女性と子供には優しく』し、『金品の盗み、詐取を許さず』、『賭博が嫌い』で、『酒を遅い時間に屋内で飲むことも嫌う』。『裏切り者は死刑にすべき』という過激な考えを持つ一方で『福利厚生はしっかりするべき』と考える。
 そして、敬虔なクリスチャンで、『安息日には仕事をしない』──18世紀初頭の人物。ぶどうに拒否反応を起こしたのは、死因のせいだろう。

「最初は、誰だろうと思いました」
 キャプテン、と誠は彼に呼びかけた。彼は、もうすっかり全てを思い出したようだ。ある言葉を聞いたせいで。
 少年の頃に海に出た。やがて航海士になり、その船は捕縛され──望まず海賊船に乗せられた。その船長は、わずか六週間後に戦士して、その際頭角を示した彼は、重役たちの推進によりそのまま跡を継いで船長となった。
 特別厳しい法を敷き、圧倒的なカリスマ性で、あらゆる船を襲い、奪った、海賊の黄金期において最後にして最大の海賊。
「推定ですが……かの海賊エドワード・ティーチ……黒髭の五倍も稼いだと言われています」
「……そうか。そんなに稼いでいたのか。……あの海の悪魔と比べられるのはあまり好きではないんだが」
 苦笑する彼に対して、誠は笑うことはない。笑うことができなかった。何しろ、目の前にいる彼は、世界の歴史に名を刻んだ悪党なのだ。

「……貴方の名前は、バーソロミュー・ロバーツですね」

 彼の死は海賊の黄金期の終焉を意味した。海軍に見つかり、逃げ切れず、最期は葡萄弾に喉を貫かれ即死。その遺体は、遺言のとおりに重りとともに海の底へ沈められた。
「名前を思い出せず、何百年も彷徨っているのだとは考えられません。……けれど、何でここにいるのかは、僕にも……」
 キャプテン──バーソロミューは、その問いに対してゆるゆると首を振った。
「さっぱりわからない。わからないけれど……何か意味があることではあったんだろうと思うよ。魂は人に操れるものではないのだから……恐らくこれも、神の思し召しなのだろう。ならば……」
 己が、望まずして海賊になったのと同じように。それが神の思し召しなら、たとえ地獄に落ちるような試練でも、それをお与えになるのならば、それは受けねばならないのだ。そして目的を達成するべきなのだ。
「君が、海に出たいと言っていたから、ここにいると考えてもいいだろうね」
「……え?」
「何度も言ってるはずだよ、海に出ればいいと。まさか、まだ親がどうのこうのと言うつもりかい?」
 仕方のないことだと、誠は俯いた。親が全てなのだ、今も昔も。昔は養子縁組の手続きなどなかったから、親がだめなら育ててくれる人を自分で探そうとできたかもしれない。それが今は通用しない。家出して夜に歩き回れば警察に見つかる。
「……明日、君の親が仕事に行ったら海に行こう。……そこで俺と君はお別れだ」


 翌日、宿題なんか放り出して、誠はバーソロミューとともに彼と出会った海へ向かった。町中の人は、やはり誰もバーソロミューには気づいていないようだ。
 バーソロミューの目を覚ました浜辺に着くと、彼はそのままの服装で、海の方へ歩いていき、腰のあたりまで水に浸かった。落ち着く、とでも言うような顔をしていた。
「マコト」
「……はい」
「十字の切りは知ってるかい?」
「……切り方?」
「宗派によって違うのだけど……」
 バーソロミューはそう言いながら、右手の指を伸ばした。誠も真似するように、右手の指を伸ばす。その様子を見たバーソロミューはゆっくりと十字を切り始めた。まずは額へ、額から胸へ、胸から左肩へ、左肩から右肩へ、最後は祈るように両手を組んで少し俯いて。
「父と子と、精霊の御名によって、アーメン」
「……父と、子と……精霊の、御名によって……アーメン」
 言い終わって顔を上げると、彼は笑っていた。
「貴方がた、今泣いている人は幸福である。……マコト」
 彼の青い瞳が、真っ直ぐに誠を射抜いた。
「今君が色々なものに縛られ、泣きそうならば、今は泣いておくといい。そしていつか雨が止んだとき、君はその楔を引き千切って笑うんだ。君自身の力で、抜け出せ」
「……僕の、力で……」
 ふと気がつくと、バーソロミューの体はもう徐々に薄くなって、日の光に照らされて見えづらくなっていた。それでもバーソロミューは寂しそうな顔一つせず、海に沈んでいる自分と、海に出るであろう君は、いつかきっと必ず、また会えるよと言うような、満面の笑みでいて。

「大海に臨めよ、マコト!」

 そのまま、ふわりと青い海へと消えていった。
4.


 二十年後──。
「船長ー!」
「おー、どうした」
「航路順調です! 嵐は進路をずらしました! 航海続行できそうです!」
「お! そうか! じゃぁ予定通り航海するぞ!」
 船長がその知らせを無線で送る。やがて、客のいる船内に航路変更のアナウンスが流れた。嵐の進路変更により、航路は安定。別の港ではなく予定通りの港に着くと知った乗客たちから歓声が湧いた。何しろ次の港は夜景が楽しめることで有名な港だ。
「いやー、良かったですね普通に進めて」
「全く持ってそのとおりだ……まぁ、今回は物分りの悪い客が少なくて助かったけど」
 後輩の若い航海士が頭を掻きながら近づいてくる。船長に知らせをした航海士──誠は、肩を竦めて苦笑した。
「あー、楽しみだなぁ次の港! 絶景なんでしょう?」
「何度見ても飽きないよ」
「最高じゃないですか!」
 目を輝かせる後輩に、誠はハハッと笑った。
 風が強い。飛びそうな帽子を抑えた。太陽の光が海面を照らしていて、とてもこのまま進めば嵐にはぶつからない。不安もないわけではないが、長年の腕には自信がある。

 中学受験は、名前だけ書いて白紙で出して、公立に通った。高校も公立高校で、通いながら必死でバイトし続けた。大学は商船大学に通う旨を伝えたとき、親とようやく向き合って話をするに至った。夏休み頃からの誠の突然の反発に両親は戸惑っていたが、誠が「本当はずっと船乗りになりたかった。通わせてもらえないのなら縁を切って自力で行く」と言ったことで、自分の息子の気持ちを全く聞こうとしなかった自分を恥じたようで、二人は誠の言葉を受け入れてくれた。
 結果、彼は30を越えた今、航海士として立派に働いている。嫁も彼女も今のところ出来ておらず、同期や先輩に揶揄されることも多いが、今はこのままで幸せだ。
「さて、港までの時間が長くなるな。今のうちに飯食べてこいよ」
「いいんですか?」
「早くしろよ」
「はい!」
 後輩の背を見送る。きっとよほど腹が減っているのだろう。後輩の背が見えなくなって、誠はまた海面を眺めた。
 もう声は覚えていない、もう顔も覚えていない。ただ覚えているのは、彼が誠に最後に言った、人生を変えた言葉だけ。 

 大海に臨め。

 海面が通り過ぎる。いつかの大いなる海賊の瞳と同じ青が、勇ましく彼を迎えていた。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

大海に臨め

を読み込んでいます