1.
漣の音が聞こえる。
白い泡を寄せて、引いて、砂浜に打ち付ける音がする。
ほら、そろそろ起きなさい、今日は父さんの仕事についていくんでしょう?──そんな声が聞こえた気がするが、幻聴だ。波の音が聞こえるから、そう聞こえただけだ──彼はそう考えながら、薄っすらと瞼を上げ、上半身を起こした。
白い砂浜、打ち付ける波、広がる青い海に、海の色をそのまま映したような空、遠くに浮かぶ入道雲。徐々に、遠くで人々がはしゃぐ声まで聞こえてきた。
ぼんやりとしていた頭が徐々に回りだす。回りだした頭で考え、これは異常だと認識した。
「……え」
辛うじて出たのはその一音だけ。その続きは、ぱく、と声にならない驚きがただの空気として口から出た。おかしい、おかしい、これは確実に、おかしい!
「ここ、どこだ!?」
ようやくそれが声として出てきても、叫んだ彼の周囲には誰もいない。遠くではしゃぐ人々にそんな声は聞こえるはずもなく、ただ近くに生えていた木に止まっていた蝉が、ミンミンと鳴くだけだった。
✢
少年は机に座って、大人しく宿題の問題を解いていた。夏休みの宿題だけで正直いっぱいいっぱいだが、その上さらに中学入試の受験勉強なんて、憂鬱なことこの上ない。彼は問題を解く手を止めると、大きな溜息を吐き出した。差し出された炭酸水は、炭酸が抜けてただの水になっていた。丸眼鏡の向こう側にある水の滴るコップを眺めても、時は早く流れてくれない。
少年、渡海誠は小学六年生だ。高校の教師である父親と、塾の先生である母親の間に生まれた彼は、非常に凡庸な子供だった。だが、両親はそんな彼に失望などしなかった。
生まれながらの出来は仕方がない。ならばこれから賢くしていけばいいのだと、両親は明るく誠を励ましたが──誠にとって、それは成長するたびにストレスとなった。
自分は別に頭がとびきり良くなくたって構わない。私立中学なんて行かなくていいし、自分だって塾に行ったり家に直帰して勉強したりせず、友達と遊んでから帰りたいといつも思っていた。しかし、それを口に出せば両親は激怒する。何だそのわがままは、折角勉強ができるよう育ててやっているのにと、頼んでもいないことをありがたいと思えと言う親に、誠は辟易して、もう何を言っても無駄なのだと諦めきっている。
公務員になれ、と親は言うけれど、誠はもっと別のことがしたかった。
何年前のことだったか、近所のおじさんがフィッシングボートを持っているという友達が、夏休み中にそれに乗らせてもらったという話を聞いた。父親に釣り、ましてや船の趣味なんてあるはずもない誠にとって、それは別惑星の文化のように見えたが、なんとその数日後、誠もその船に乗せてもらえたのだ。
大きく広がる空、ボートと並走するイルカたち、通り過ぎていく潮風、キラキラと光る水面──船から見えた景色の全てが、誠を魅了した。その時誠の夢は、船乗りになることに決まった。もっと、もっと広く。もっと大きな世界を、もっと沢山の海を見たいと、彼の心は興奮していた。
……だが、あの親がそんなものを認めるはずがない。親に内緒で、スマートフォンでこっそりと海についての話や、もっと話を広げて過去の海にまつわる偉人を調べたりしても、虚しいだけだ。
ふと時計を見ると、時間は三時になっていた。一段落ついたら気分転換のため少し散歩に行こうと、誠は再びノートに鉛筆を走らせた。
✢
「………………」
誠は目の前の景色に呆然としていた。人が、ぐったりとしている。岩場が滑るから遊泳禁止、と言われている浜辺に、人が倒れている。ここは国道に面しているわけではない、子供がたまに通るような獣道を通った先にある小さな浜辺で、誰もこの倒れた人を見ることがなかったのだろう。
ぐったりと倒れて目を閉じてはいるが、死んでいるわけではないようで、ちゃんと呼吸をしていた。
背は高そうで、なんだか高級そうな真紅の半ズボンを身に着けて、それに飾り帯をつけていた。靴はブーツで、この時期ではかなり暑そうだ。上は少し古そう──使い古しているというわけではなく、中世ヨーロッパのような雰囲気があるという意味で──な物を着ていて、頭にバンダナを巻いている。顔を見る限りでは肌は浅黒いが、ズボンとブーツの間から少し見える脚を見る限り、おそらく日焼け肌なのだろう。
誠は丸眼鏡を一度外し、目を擦ってもう一度目の前を見てみたが、その人物は相変わらず横たわっている。自分の頬を抓ってみたが、夢ではない。どうしよう……少し迷った末に、彼は鞄から先程自動販売機で購入した紅茶のペットボトルを彼の頬に当てた。
「っ、うわっ!?」
暑さで気を失っていたが、冷たさに目が覚めたのだろう、浅黒の彼は勢いよく起き上がり、キョロキョロと周囲を見渡した。目をぱちくりとさせたあと、頭痛がするとでも言いたげに頭に手を当て、「これは夢じゃないのか……」と言いながら深く溜息を吐き出した。
「あ、あのぉ……」
遠慮がちに誠が声をかけると、ようやく彼は誠に視線を向けた。深海のような青い双眸は濃いまつげに縁取られ、やや年は食っていそうだが美しい人だった。男でも緊張するような美貌に戸惑いつつ、誠は続きを口にする。
「大丈夫、ですか?」
「……あー……」
外国人のようだが、先程の言葉を考える限り言葉は通じるようだ。彼は髪を掻いたあと、苦々しい顔をして言った。
「……正直、何も大丈夫じゃない」
「…………」
誠は、少し考えたあと、「ここじゃ暑いし、移動しませんか」と彼に言った。彼は少し警戒していたようだが、自分一人ではどうしようもないと判断したのか、やがて立ち上がると誠についていった。
二人が向かったのは、誠が来た獣道を海とは別の方向に向かった場所にある小さな公園だ。公園と言っても、屋根付きのベンチと古びた噴水、あとは水飲み場があるくらいで、遊具は一つもない。夜になると星が見えるが、日の差すこの時間では誰もいなかった。
誠はペットボトルを渡すも、浅黒い彼はまじまじと見つめるだけで、飲もうとしなかった。
「これは何だ? この……液体は。紅茶のように見えるが……」
「……紅茶ですよ?」
「薬でも盛ってあるのかい?」
「えぇ!? 違いますよ!」
誠は彼の手から紅茶を取ると、蓋を開けて大きく一口飲んだ。まだ冷たい紅茶が火照った体を冷やすように流れる感覚に思わず笑みを零すと、ようやく彼は安全を確認したらしい。ペットボトルを再び受け取ると、小さく一口飲んだ。誠と同じ感覚を得たのか、目を見開いてまたも注意深く紅茶を眺めた。
「ね? 大丈夫でしょう?」
「あ、あぁ……そのようだね。疑ってすまない」
彼はようやく笑みを見せて、誠に紅茶を返した。こほんと一度咳払いをすると、彼は少し笑みを浮かべる。
「助けてくれてありがとう。俺の名前は……と、言いたいところだが……信じてもらえないだろうけど、記憶を失っていてね……覚えてないことが沢山あるんだ。自分の名前も思い出せない」
「記憶喪失!?」
驚いた誠は、信じられないというように言ったが、彼としてもそんな反応をされても困ると思ったのか、ははは、と苦笑いを浮かべていた。
「覚えていることといえば……うーん……あぁそう、船が……他の船に襲われ……うん、襲われたんだな……よく覚えてないけど……あと、今は夏のようだけど……ここで目を覚ます前は、冬だったような気がする。いろいろとコートとか帽子とかも身につけていたはずだが……どこかへ行ってしまったみたいだ。ロザリオまでないとは、髪に見捨てられてしまったかな……」
はぁ、と重い溜息をついて、彼は胸の前で十字架を切った。
「あの、クリスチャンなんですか?」
「え? ……あぁ、そう……うんそうだ、敬虔なクリスチャン……のはずだな」
話しているうちにわかるかもしれないと思って、誠は彼に色々と質問したが、記憶が不明瞭な部分も多い。だが、一つ、信じがたい事実だけは判明した。
「そういえば……ここはどこだい? 海の向こうにはやたらと大きな建物なんかも見えたが……もしかしてここが噂に名高いアトランティスだったりするのかな?」
「違いますよ……ここは日本です。東の国の……」
「にほ……日本!? え、いや、おかしいな……聞いた話では日本は侍の国だろう? 皆が剣を持ち歩いているという……」
「いやいつの話ですか! そんなのもう百五十年以上前の話ですよ!」
話の噛み合わなさに、二人は互いの目を見た。瞳は嘘は互いについていない。嘘は言っていないとするのならば、これは。誠の頭の中に一つの言葉が浮かび上がった。
タイムリープ。
「あ、あの……」
「うん?」
「生まれた年は思い出せますか?」
「ええと……たしか、1600年代のだいぶ後半……1680年くらい……だったかな」
誠は頭を抱えたくなった。彼はおそらく冗談は言ってない。彼は自分の年齢は覚えていないが、おそらく30代だろう。となると、彼は18世紀の世界から来たことになる。なるほど、日本を侍の国と認知しているわけだ。信じがたい現象だが、辻褄は合う。
そんなことを考えていると、いつの間にか五時になったのか、夕焼け小焼けが流れ出した。ハッと誠は顔を上げて立ち上がる。
「っ! もうこんな時間……!? お、お母さんに怒られ……」
そこまで言ったところで、目の前の彼をどうするか困った。もう大人だが、突然知らない世界に放り込まれた彼としてはどうしていいかまるでわからないだろう。ここで待っててくると言われても、明日のこの時間まで無食では死んでしまうのではないか、など短い時間で色々考えた結果、誠は「とりあえず、ついてきてください!」と勢いで言ってしまったのだった。
家までの道中、二人は少し話をした。まず、おそらく彼が300年ほど前の時代からやってきたことと、彼のことをなんて呼べばいいか、という話だ。自分の名前を思い出せない彼は、じゃぁ、と言って一つ呼び名を言ったが、それが彼の名前のヒントになるかは、誠には今のところわからないのだった。いや、そもそも誠が知っている人かどうかもわからないのだ。考えるだけ無駄かもしれない。
家に帰って誠は、すでに夕飯の支度を始めていた母親に少し怒られたものの、特に長々と説教されるでもなく自室へと戻ることができた。誠の部屋は一階で、窓を開ければ簡単に中に入ることができる。靴を脱ぐように言うと、彼は素直に従って誠の部屋に窓から入った。
「お母さんやお父さんは勝手にドアを開けたりしないので大丈夫だと思うんですけど、もし入ろうとしていたら合図するので、このクローゼットの中に入ってくださいね」
彼はクローゼットを眺めて、おお、と感心するような声を出した。
「大きいね。立派だ。君は裕福な家の生まれなのかな?」
「いえ、普通の家ですよ……別にお金には困りませんけど」
「へぇ、金に困らないのはいいことだ。俺は……あ、そうだ」
「え?」
はた、と何か思い出したらしい。たしか、と彼は考えながら言った。
「教育を受ける金がなくて……少年の頃から水夫として働いていた……気がする」
彼は遠い目をしてそう言った。そういえば、船が襲われて……と言っていたな、と誠は思い出していた。
「だがまぁ、教育を受けられず船乗りになる子なんて沢山いたから、参考にはならないな」
彼は残念そうに顔をしかめたが、そのあと誠の方へ顔を向けた。
「元の世界に帰れるまで、少しばかり世話になるよ、少年」
「……はい、『キャプテン』」
「呼び名か、『キャプテン』なんてどうだ?」と、帰路で彼は言ったのだ。キャプテンだったかどうかなんて、彼は別に覚えていないらしい。だが、いい響きだろうと笑っていた。
たとえ大人だろうと、本当は、知らないところへ突然現れて、どうすればいいのかもわからなくて、頼る宛も子供一人しかない状況が不安で堪らないだろうに、本来明るい性質なのか、それともその子供を気遣って気丈に振る舞っているのか。そんなことは誠には判断できないが、生来の気性にせよ気遣いの結果にせよ、キャプテンに相応しいだろうなと、なんとなく感じられた。
「さて、ご飯はどうしようかな……」
「食事? だったら特に必要ない。なんでか空腹にならないからな」
「え? でも……」
「心配しないでいい。育ち盛りなのに俺に飯を分け与えてる場合でもないだろう?」
「…………」
心配ではあったが、誠は頷いた。
母親に呼ばれるまでの間、誠はこの世界のいろいろなことをキャプテンに教えた。ペットボトルを始め、写真、スマートフォン、ライト、服装、学校、勉強のことなどだ。キャプテンはどれも興味深そうで、特に電子機器の類なんかは何がどうなっているのかと誠に聞いたが、いくら勉強をたくさんしているとはいえ、小学生の誠にそこまでの知識はなく、わからないと答えるしかなかった。
学校や勉強のことを教えるために、誠は教科書を見せた。彼は難しい顔をして眺めたが、どうもよく理解はできなかったようだ。
「君はこんな難しいものをやってるのか?」
「これ、この時代では全然難しくないんですよ」
「凄いな……」
言いながら彼は教科書の裏を見た。ふと、刻まれた名前を目に入れたようだ。そしてその部分を指さし、誠に尋ねる。
「君の名前を聞きそびれていたけど……これが君の名か?」
「あ……はい、そうです。渡海……渡海誠って言います」
「へぇ……良い名だ」
「はは……ありがとうございます」
それからも、キャプテンは色々な教科書を見ては難しい顔をしていた。自分でもわかるものを大人が難しそうに見ているのは新鮮だった。そして、ポロっと口から言葉が漏れた。
「……あの、これは……少し弱音なんですけれど」
誠は、自分が置かれている状況のことを話した。父と母は教育熱心で、自分はいつも勉強漬けであること。今日キャプテンに出会えたのは夏休みだったからで、夏休みが終わればまた、学校から帰ってすぐ自主勉強をせねばならず、そのまま一日が終わってしまうことを。
キャプテンは、その誠の弱音を何も言わずに聞いていた。なぜ話してしまったのかはわからないが、何となく救われる気がしたのだ。
やがて誠は母親に呼ばれてご飯を食べ、風呂に入ってから部屋に戻ってきた。下手にいじると壊れるものがあるので、と言われたキャプテンは大人しく過ごしていたが、誠が部屋に戻ってきたとき、彼は本棚の中から一冊の本を取り出していた。誠は勉強机の椅子に座りながら尋ねた。
「何を読んでるんですか?」
「ええと、先程教えてもらった、シャシン、がたくさん載ってるやつだよ」
「写真集ですね」
「……綺麗だ、とても」
キャプテンは海が好きなんだな、と誠は嬉しくなった。誠の同級生にも海が好きな人はいる。だが、彼らは海で遊ぶのが好きなのであって、海の青さや広さを求めて、もっと遠くへ、と夢を抱いているわけではない。誠と同じ感覚で海が好きだという人は、一人もいなかった。
「この本は君のもの? それともご両親のもの?」
「僕のものです。って言っても……」
誠は少し俯いて続けた。
「元々は知り合いのものなんですけど。…………何年か前に、友達の近所の人が、ボートに乗せてくれて……それが凄く楽しくて、船乗りになりたい……海に出たいなって思って……それをその人に言ったら、くれたんです」
「出ればいいじゃないか」
あたかも当然のように言われた言葉に、誠はハッとしたように顔を上げた。何かおかしいことを言ったかな、とでも言いたげな顔をしたキャプテンは、海色の瞳で真っ直ぐ、彼の眼鏡の奥の瞳を見ていた。
「海に出ればいい」
「そんな……無理です、親に反対されてるのに」
「だから何さ、君の人生は君のものだ」
「…………」
まるで綺麗事のような言葉だ。いつもなら聞き流しそうなその言葉に、誠は何故か心を打たれた。
「親はそりゃ、自分のために、子供のために、確実な道を歩ませたがるだろう。俺の場合は……実際親の望むままに進んだけれど、それがたまたま俺の好きな道だったに過ぎない。……けれどね」
「俺だって本当は勉強がしたかったよ」、彼はそう言った。彼は、今こうして勉強漬けの日々に嫌気が差している誠のことすら、羨ましいのだ。
「人はね、マコト。自分の置かれている環境を心地がいいと思っていようが、いなかろうが、どこかで別の環境にいる人を羨んでしまうものだ」
「…………」
「生きている限り欲求は満たされない。必ずどこかに不満と羨みはある」
誠は、足の上に置いていた両手を、自然と握りしめていた。言葉の続きを、何も言わずに求めた。ではどうすればいいのか、その答えを求めた。
「ならどうしたらいいのか? ……その答えは」
キャプテンは笑って写真集を閉じた。数歩前に出てコツンと背表紙で彼の頭を軽く突いた。
「自分で見つけるんだ」
漣の音が聞こえる。
白い泡を寄せて、引いて、砂浜に打ち付ける音がする。
ほら、そろそろ起きなさい、今日は父さんの仕事についていくんでしょう?──そんな声が聞こえた気がするが、幻聴だ。波の音が聞こえるから、そう聞こえただけだ──彼はそう考えながら、薄っすらと瞼を上げ、上半身を起こした。
白い砂浜、打ち付ける波、広がる青い海に、海の色をそのまま映したような空、遠くに浮かぶ入道雲。徐々に、遠くで人々がはしゃぐ声まで聞こえてきた。
ぼんやりとしていた頭が徐々に回りだす。回りだした頭で考え、これは異常だと認識した。
「……え」
辛うじて出たのはその一音だけ。その続きは、ぱく、と声にならない驚きがただの空気として口から出た。おかしい、おかしい、これは確実に、おかしい!
「ここ、どこだ!?」
ようやくそれが声として出てきても、叫んだ彼の周囲には誰もいない。遠くではしゃぐ人々にそんな声は聞こえるはずもなく、ただ近くに生えていた木に止まっていた蝉が、ミンミンと鳴くだけだった。
✢
少年は机に座って、大人しく宿題の問題を解いていた。夏休みの宿題だけで正直いっぱいいっぱいだが、その上さらに中学入試の受験勉強なんて、憂鬱なことこの上ない。彼は問題を解く手を止めると、大きな溜息を吐き出した。差し出された炭酸水は、炭酸が抜けてただの水になっていた。丸眼鏡の向こう側にある水の滴るコップを眺めても、時は早く流れてくれない。
少年、渡海誠は小学六年生だ。高校の教師である父親と、塾の先生である母親の間に生まれた彼は、非常に凡庸な子供だった。だが、両親はそんな彼に失望などしなかった。
生まれながらの出来は仕方がない。ならばこれから賢くしていけばいいのだと、両親は明るく誠を励ましたが──誠にとって、それは成長するたびにストレスとなった。
自分は別に頭がとびきり良くなくたって構わない。私立中学なんて行かなくていいし、自分だって塾に行ったり家に直帰して勉強したりせず、友達と遊んでから帰りたいといつも思っていた。しかし、それを口に出せば両親は激怒する。何だそのわがままは、折角勉強ができるよう育ててやっているのにと、頼んでもいないことをありがたいと思えと言う親に、誠は辟易して、もう何を言っても無駄なのだと諦めきっている。
公務員になれ、と親は言うけれど、誠はもっと別のことがしたかった。
何年前のことだったか、近所のおじさんがフィッシングボートを持っているという友達が、夏休み中にそれに乗らせてもらったという話を聞いた。父親に釣り、ましてや船の趣味なんてあるはずもない誠にとって、それは別惑星の文化のように見えたが、なんとその数日後、誠もその船に乗せてもらえたのだ。
大きく広がる空、ボートと並走するイルカたち、通り過ぎていく潮風、キラキラと光る水面──船から見えた景色の全てが、誠を魅了した。その時誠の夢は、船乗りになることに決まった。もっと、もっと広く。もっと大きな世界を、もっと沢山の海を見たいと、彼の心は興奮していた。
……だが、あの親がそんなものを認めるはずがない。親に内緒で、スマートフォンでこっそりと海についての話や、もっと話を広げて過去の海にまつわる偉人を調べたりしても、虚しいだけだ。
ふと時計を見ると、時間は三時になっていた。一段落ついたら気分転換のため少し散歩に行こうと、誠は再びノートに鉛筆を走らせた。
✢
「………………」
誠は目の前の景色に呆然としていた。人が、ぐったりとしている。岩場が滑るから遊泳禁止、と言われている浜辺に、人が倒れている。ここは国道に面しているわけではない、子供がたまに通るような獣道を通った先にある小さな浜辺で、誰もこの倒れた人を見ることがなかったのだろう。
ぐったりと倒れて目を閉じてはいるが、死んでいるわけではないようで、ちゃんと呼吸をしていた。
背は高そうで、なんだか高級そうな真紅の半ズボンを身に着けて、それに飾り帯をつけていた。靴はブーツで、この時期ではかなり暑そうだ。上は少し古そう──使い古しているというわけではなく、中世ヨーロッパのような雰囲気があるという意味で──な物を着ていて、頭にバンダナを巻いている。顔を見る限りでは肌は浅黒いが、ズボンとブーツの間から少し見える脚を見る限り、おそらく日焼け肌なのだろう。
誠は丸眼鏡を一度外し、目を擦ってもう一度目の前を見てみたが、その人物は相変わらず横たわっている。自分の頬を抓ってみたが、夢ではない。どうしよう……少し迷った末に、彼は鞄から先程自動販売機で購入した紅茶のペットボトルを彼の頬に当てた。
「っ、うわっ!?」
暑さで気を失っていたが、冷たさに目が覚めたのだろう、浅黒の彼は勢いよく起き上がり、キョロキョロと周囲を見渡した。目をぱちくりとさせたあと、頭痛がするとでも言いたげに頭に手を当て、「これは夢じゃないのか……」と言いながら深く溜息を吐き出した。
「あ、あのぉ……」
遠慮がちに誠が声をかけると、ようやく彼は誠に視線を向けた。深海のような青い双眸は濃いまつげに縁取られ、やや年は食っていそうだが美しい人だった。男でも緊張するような美貌に戸惑いつつ、誠は続きを口にする。
「大丈夫、ですか?」
「……あー……」
外国人のようだが、先程の言葉を考える限り言葉は通じるようだ。彼は髪を掻いたあと、苦々しい顔をして言った。
「……正直、何も大丈夫じゃない」
「…………」
誠は、少し考えたあと、「ここじゃ暑いし、移動しませんか」と彼に言った。彼は少し警戒していたようだが、自分一人ではどうしようもないと判断したのか、やがて立ち上がると誠についていった。
二人が向かったのは、誠が来た獣道を海とは別の方向に向かった場所にある小さな公園だ。公園と言っても、屋根付きのベンチと古びた噴水、あとは水飲み場があるくらいで、遊具は一つもない。夜になると星が見えるが、日の差すこの時間では誰もいなかった。
誠はペットボトルを渡すも、浅黒い彼はまじまじと見つめるだけで、飲もうとしなかった。
「これは何だ? この……液体は。紅茶のように見えるが……」
「……紅茶ですよ?」
「薬でも盛ってあるのかい?」
「えぇ!? 違いますよ!」
誠は彼の手から紅茶を取ると、蓋を開けて大きく一口飲んだ。まだ冷たい紅茶が火照った体を冷やすように流れる感覚に思わず笑みを零すと、ようやく彼は安全を確認したらしい。ペットボトルを再び受け取ると、小さく一口飲んだ。誠と同じ感覚を得たのか、目を見開いてまたも注意深く紅茶を眺めた。
「ね? 大丈夫でしょう?」
「あ、あぁ……そのようだね。疑ってすまない」
彼はようやく笑みを見せて、誠に紅茶を返した。こほんと一度咳払いをすると、彼は少し笑みを浮かべる。
「助けてくれてありがとう。俺の名前は……と、言いたいところだが……信じてもらえないだろうけど、記憶を失っていてね……覚えてないことが沢山あるんだ。自分の名前も思い出せない」
「記憶喪失!?」
驚いた誠は、信じられないというように言ったが、彼としてもそんな反応をされても困ると思ったのか、ははは、と苦笑いを浮かべていた。
「覚えていることといえば……うーん……あぁそう、船が……他の船に襲われ……うん、襲われたんだな……よく覚えてないけど……あと、今は夏のようだけど……ここで目を覚ます前は、冬だったような気がする。いろいろとコートとか帽子とかも身につけていたはずだが……どこかへ行ってしまったみたいだ。ロザリオまでないとは、髪に見捨てられてしまったかな……」
はぁ、と重い溜息をついて、彼は胸の前で十字架を切った。
「あの、クリスチャンなんですか?」
「え? ……あぁ、そう……うんそうだ、敬虔なクリスチャン……のはずだな」
話しているうちにわかるかもしれないと思って、誠は彼に色々と質問したが、記憶が不明瞭な部分も多い。だが、一つ、信じがたい事実だけは判明した。
「そういえば……ここはどこだい? 海の向こうにはやたらと大きな建物なんかも見えたが……もしかしてここが噂に名高いアトランティスだったりするのかな?」
「違いますよ……ここは日本です。東の国の……」
「にほ……日本!? え、いや、おかしいな……聞いた話では日本は侍の国だろう? 皆が剣を持ち歩いているという……」
「いやいつの話ですか! そんなのもう百五十年以上前の話ですよ!」
話の噛み合わなさに、二人は互いの目を見た。瞳は嘘は互いについていない。嘘は言っていないとするのならば、これは。誠の頭の中に一つの言葉が浮かび上がった。
タイムリープ。
「あ、あの……」
「うん?」
「生まれた年は思い出せますか?」
「ええと……たしか、1600年代のだいぶ後半……1680年くらい……だったかな」
誠は頭を抱えたくなった。彼はおそらく冗談は言ってない。彼は自分の年齢は覚えていないが、おそらく30代だろう。となると、彼は18世紀の世界から来たことになる。なるほど、日本を侍の国と認知しているわけだ。信じがたい現象だが、辻褄は合う。
そんなことを考えていると、いつの間にか五時になったのか、夕焼け小焼けが流れ出した。ハッと誠は顔を上げて立ち上がる。
「っ! もうこんな時間……!? お、お母さんに怒られ……」
そこまで言ったところで、目の前の彼をどうするか困った。もう大人だが、突然知らない世界に放り込まれた彼としてはどうしていいかまるでわからないだろう。ここで待っててくると言われても、明日のこの時間まで無食では死んでしまうのではないか、など短い時間で色々考えた結果、誠は「とりあえず、ついてきてください!」と勢いで言ってしまったのだった。
家までの道中、二人は少し話をした。まず、おそらく彼が300年ほど前の時代からやってきたことと、彼のことをなんて呼べばいいか、という話だ。自分の名前を思い出せない彼は、じゃぁ、と言って一つ呼び名を言ったが、それが彼の名前のヒントになるかは、誠には今のところわからないのだった。いや、そもそも誠が知っている人かどうかもわからないのだ。考えるだけ無駄かもしれない。
家に帰って誠は、すでに夕飯の支度を始めていた母親に少し怒られたものの、特に長々と説教されるでもなく自室へと戻ることができた。誠の部屋は一階で、窓を開ければ簡単に中に入ることができる。靴を脱ぐように言うと、彼は素直に従って誠の部屋に窓から入った。
「お母さんやお父さんは勝手にドアを開けたりしないので大丈夫だと思うんですけど、もし入ろうとしていたら合図するので、このクローゼットの中に入ってくださいね」
彼はクローゼットを眺めて、おお、と感心するような声を出した。
「大きいね。立派だ。君は裕福な家の生まれなのかな?」
「いえ、普通の家ですよ……別にお金には困りませんけど」
「へぇ、金に困らないのはいいことだ。俺は……あ、そうだ」
「え?」
はた、と何か思い出したらしい。たしか、と彼は考えながら言った。
「教育を受ける金がなくて……少年の頃から水夫として働いていた……気がする」
彼は遠い目をしてそう言った。そういえば、船が襲われて……と言っていたな、と誠は思い出していた。
「だがまぁ、教育を受けられず船乗りになる子なんて沢山いたから、参考にはならないな」
彼は残念そうに顔をしかめたが、そのあと誠の方へ顔を向けた。
「元の世界に帰れるまで、少しばかり世話になるよ、少年」
「……はい、『キャプテン』」
「呼び名か、『キャプテン』なんてどうだ?」と、帰路で彼は言ったのだ。キャプテンだったかどうかなんて、彼は別に覚えていないらしい。だが、いい響きだろうと笑っていた。
たとえ大人だろうと、本当は、知らないところへ突然現れて、どうすればいいのかもわからなくて、頼る宛も子供一人しかない状況が不安で堪らないだろうに、本来明るい性質なのか、それともその子供を気遣って気丈に振る舞っているのか。そんなことは誠には判断できないが、生来の気性にせよ気遣いの結果にせよ、キャプテンに相応しいだろうなと、なんとなく感じられた。
「さて、ご飯はどうしようかな……」
「食事? だったら特に必要ない。なんでか空腹にならないからな」
「え? でも……」
「心配しないでいい。育ち盛りなのに俺に飯を分け与えてる場合でもないだろう?」
「…………」
心配ではあったが、誠は頷いた。
母親に呼ばれるまでの間、誠はこの世界のいろいろなことをキャプテンに教えた。ペットボトルを始め、写真、スマートフォン、ライト、服装、学校、勉強のことなどだ。キャプテンはどれも興味深そうで、特に電子機器の類なんかは何がどうなっているのかと誠に聞いたが、いくら勉強をたくさんしているとはいえ、小学生の誠にそこまでの知識はなく、わからないと答えるしかなかった。
学校や勉強のことを教えるために、誠は教科書を見せた。彼は難しい顔をして眺めたが、どうもよく理解はできなかったようだ。
「君はこんな難しいものをやってるのか?」
「これ、この時代では全然難しくないんですよ」
「凄いな……」
言いながら彼は教科書の裏を見た。ふと、刻まれた名前を目に入れたようだ。そしてその部分を指さし、誠に尋ねる。
「君の名前を聞きそびれていたけど……これが君の名か?」
「あ……はい、そうです。渡海……渡海誠って言います」
「へぇ……良い名だ」
「はは……ありがとうございます」
それからも、キャプテンは色々な教科書を見ては難しい顔をしていた。自分でもわかるものを大人が難しそうに見ているのは新鮮だった。そして、ポロっと口から言葉が漏れた。
「……あの、これは……少し弱音なんですけれど」
誠は、自分が置かれている状況のことを話した。父と母は教育熱心で、自分はいつも勉強漬けであること。今日キャプテンに出会えたのは夏休みだったからで、夏休みが終わればまた、学校から帰ってすぐ自主勉強をせねばならず、そのまま一日が終わってしまうことを。
キャプテンは、その誠の弱音を何も言わずに聞いていた。なぜ話してしまったのかはわからないが、何となく救われる気がしたのだ。
やがて誠は母親に呼ばれてご飯を食べ、風呂に入ってから部屋に戻ってきた。下手にいじると壊れるものがあるので、と言われたキャプテンは大人しく過ごしていたが、誠が部屋に戻ってきたとき、彼は本棚の中から一冊の本を取り出していた。誠は勉強机の椅子に座りながら尋ねた。
「何を読んでるんですか?」
「ええと、先程教えてもらった、シャシン、がたくさん載ってるやつだよ」
「写真集ですね」
「……綺麗だ、とても」
キャプテンは海が好きなんだな、と誠は嬉しくなった。誠の同級生にも海が好きな人はいる。だが、彼らは海で遊ぶのが好きなのであって、海の青さや広さを求めて、もっと遠くへ、と夢を抱いているわけではない。誠と同じ感覚で海が好きだという人は、一人もいなかった。
「この本は君のもの? それともご両親のもの?」
「僕のものです。って言っても……」
誠は少し俯いて続けた。
「元々は知り合いのものなんですけど。…………何年か前に、友達の近所の人が、ボートに乗せてくれて……それが凄く楽しくて、船乗りになりたい……海に出たいなって思って……それをその人に言ったら、くれたんです」
「出ればいいじゃないか」
あたかも当然のように言われた言葉に、誠はハッとしたように顔を上げた。何かおかしいことを言ったかな、とでも言いたげな顔をしたキャプテンは、海色の瞳で真っ直ぐ、彼の眼鏡の奥の瞳を見ていた。
「海に出ればいい」
「そんな……無理です、親に反対されてるのに」
「だから何さ、君の人生は君のものだ」
「…………」
まるで綺麗事のような言葉だ。いつもなら聞き流しそうなその言葉に、誠は何故か心を打たれた。
「親はそりゃ、自分のために、子供のために、確実な道を歩ませたがるだろう。俺の場合は……実際親の望むままに進んだけれど、それがたまたま俺の好きな道だったに過ぎない。……けれどね」
「俺だって本当は勉強がしたかったよ」、彼はそう言った。彼は、今こうして勉強漬けの日々に嫌気が差している誠のことすら、羨ましいのだ。
「人はね、マコト。自分の置かれている環境を心地がいいと思っていようが、いなかろうが、どこかで別の環境にいる人を羨んでしまうものだ」
「…………」
「生きている限り欲求は満たされない。必ずどこかに不満と羨みはある」
誠は、足の上に置いていた両手を、自然と握りしめていた。言葉の続きを、何も言わずに求めた。ではどうすればいいのか、その答えを求めた。
「ならどうしたらいいのか? ……その答えは」
キャプテンは笑って写真集を閉じた。数歩前に出てコツンと背表紙で彼の頭を軽く突いた。
「自分で見つけるんだ」