胸元を軽く触れるだけで確認出来てしまう存在は手で感じ取れなかった。時環の顔色はみるみる内に青くなり、信じたくない思いのあまりに視界で確認をとる。内側のポケットにあった筈の箱はそこに収まっていない。
「えっ……あれっ……」
時環は冷静な思考回路で思い出すことが出来なかったが、思い当たる節は十分にあった。ノートに手を伸ばすのと足場の安全に神経を集中させていたとき、身に宿る異物がスッと降りたような感覚。実際には抱えていた荷物だった。
おそらく、いや、きっとそうだ。
時環の動揺から、何も言わずとも幸哉は察している。だからこそ時環はなおさら幸哉の顔が見れない。逃げるように背中を向けた。
「下に降りて探してくるっ」
足を踏み出すより先に、幸哉に手首を掴まれた。誤解を招かねない行動だと考えた幸哉は時環が恐れている言葉と誤解を招く声を発しないように気をつけるも、父親のことを想うと笑うことは出来ず、精一杯の静かな声で告げる。
「いいんだ。あれはもういい。破損しているかもしれないし、していなくても落ちた物を相手先に届けるわけにはいかない」
「そういう問題じゃないんだ! 時計は幸哉さんの――っ」
我が子のように愛おしげに触れていた姿が脳裏に過る。
「俺の? 作ったのは父さんだ」
「そうじゃ……ないんだ……。ごめん、ごめんなさいっ」
他人に宝物を無くされ、それを損失したままにして良いわけがない。持ち主となる人の元に届けられなくなったからといって、時計の価値が失われるわけではないのだから。
自身に対する怒りと時計と幸哉に対する申し訳なさが入り交じり、時環から涙が溢れ出た。例え針が止まっていても迎えに行かなくてはならない。時計店に連れて帰ればきっと店主が助けてくれる。
足を踏み出したくとも時環の目の前の青年は行かせてくれなかった。気持ちを汲み取り、冷酷な彼は消えていつもの穏やかな表情が戻る。。時環が伝えていなくとも、幸哉はとうに時環を許していた。
「怪我がなくて良かった。無事でいてくれてありがとう」
そもそも怒っていたのは身を投げ出そうとしたことに対してだけだ。
幸哉は時環の頭を撫でると、手に持っていたロープを巻いた。時環を助ける際に命綱として使用した物だ。
「帰ったらきちんと手当しような。さっさと配達を終わらせるぞ?」
「……うん!」
任されたはずのお使いは、結局二人で行うという意味の無いものとなる。
涙が乾き、悲しみから生じる頭痛からもある程度解放され、気持ちが軽くなってきた頃。幸哉と並んで歩きながら、時環は幸哉が手に持っているロープを見た。
消毒液よりも偶然なんて言葉が似合わない持ち物であり、サイズ。
――何でロープなんて持ってるんだろう。
頭痛はまだ鳴り止まず、震えた涙声になる気配を感じて発することが出来なかった。元の声が出せるようになった頃には話の話題に困ることも無くなって、疑問は機会がなければ再び疑問に感じることはないという。
◇◇◇◇◇
時計店に戻ってくると、淹れ立てのコーヒーの香りが鼻についた。
「ただいまー」
「二人とも、お帰り」
父親が注ぐ音は食欲をそそり、幸哉は帰って来るや否やシンクの前に立った。胸ポケットに入れていた物を取り出して濡れないようにカウンターの端に置くと、洗面所ではなく流しの所で手洗いを済ませる。コーヒーと一緒にサンドイッチを食べたい気分になり冷蔵庫の中身をチェックした。
「間に合ったみたいだね」
時環を見ながら、斗夢は幸哉に向けて呟いた。
「余計なことを言うな」
幸哉も斗夢の方を見ず、視線を手に持ったトマトに向けたまま返した。
時環は幸哉と斗夢の間で行われたやり取りの意味が分からず遠くから首を傾げていた。追求はせず、洗面所に行こうと二人に背を向ける。
ふと、窓際の二人席が目についた。
「あれ?」
机の上の旅行キ達は変わらず出されたままだ。けれど少し違う 。規則正しく並んでいた箱の一つが乱暴に広げられている。その赤い箱の蓋は開いていて、中に時計の姿はない。机のどこにも見当たらない。
赤い箱に収められていた旅行キは――
「旅行機が無くなってる……」
客でも来たのだろうか。それなら箱ごと渡す。何より幸哉が箱をこんな風に広げたままにしていることを時環は信じられなかった。
泥棒という可能性も浮かんだが、それにしては斗夢は何も言っていない。店の中も荒らされた雰囲気がはなさそうだ。
「時環ー、お前はジュースでいいか?」
「あっ、はーい!」
手入れをするために取り出したのだろう。
時環は幸哉が持っていたロープにこそ気付いたが、小さな持ち物には気付いていなかった。人が持ち歩くことに何の違和感がないそれは、今やただの時計となりカウンターの上でその身の音を刻んでいる。
4
壊れない限り使用期限がない時計は、直ぐにその力を使われることなく玄関先に飾られることとなった。
時環が旅行祈を持ち帰り、驚愕した刻間夫婦がとった行動だ。その後福沢時計店に菓子折りを持って行ったが、金額的釣り合いが取れていないことは承知のため旅行祈を返そうともしたという。斗夢との談話の談話の末に彼らはようやく好意として受け取った。
一方時環は自分が持ち帰った旅行祈が使われずにいることを疑問に思った。来年か再来年、特別な日に使おうと、慎重になっている父親の提案から旅行祈の価値の大きさが想像の何倍も大きいものなのではないかとここで気付く。
来年は来年で用意する。これは非常に難しく、贅沢なこと。予感がして口に出す気は起きない。
――いくらだったんだろう。
正確な金額を父親は教えてくれなかった。勉強の合間に手伝いに行きなさいと言われ、時環は時計店にアポを取り、こうして今向かっている。
聞き慣れないサイレンの音が人様の自転車のベルの音を上書きした。何度聞いても、救急車と消防車とパトカーの音は区別がつかない。並んで一台ずつ鳴らしてくれれば聞き分けがつくだろうが。
「休業?」
時計店に着いた時環は、店先に出ている看板に日替わりメニューではなく文章が記されているのが目ついた。ただ休みであるならまだしも、休業の上には「しばらく」の四文字がついている。「しばらく休業します。時計店は通常通り営業してます」。まだまだ若い年齢の幸哉に何があったのだろう。
直接聞けば分かる。ドアハンドルを握っていつも通りに足を踏み入れた。
「こんにちはー――幸哉さん!?」
「ああ、時環くん。いらっしゃい」
斗夢がいつも通りの穏やかな笑顔で出迎えてくれたが、時環はカウンターに座っている幸哉を見て、とても同じように笑うことは出来なかった。
頭に包帯を巻いて左腕に至っては吊っている。直ぐ近くには松葉杖が立てかけられており、直接聞かずとも休業の理由など一目瞭然だ。
「どうしたの、その怪我……」
時環と目を合わせていた幸哉は、視線の先を反らして素っ気ない態度をとる。
「なんでもない、ちょっと事故っただけだ」
「ちょっとのレベルじゃないと思うけど」
不機嫌な理由は怪我のせいか、全く別のことが原因なのか、その原因が時環なのか。
反らしたかと思えば幸哉は再び時環を見た。まばたき一つせず見つめられ、時環は居心地が悪く戸惑いも隠せない。
「……いいんだ。お前の身の方が大事だから。ってか、マジで危ないことすんな! 頼むから理解しろよっ!」
無事な片手で肩を掴まれ、必死な形相で懇願された。
「よく分からないけど幸哉さん、人に言うならまず、自分が心配をかけさせるようなことをするなよな」
怪我については聞いても何も語ってくれず、純粋に心配する。
このような気持ちになりたくないから、先日の幸哉もあれだけ怒ったのだと分かる。今怒られていることについては、どれだけ考えても分かりそうにない。
1
腰はソファーに降ろしているというのに、刻間時環の心は床に正座をしているような気分だった。
一枚の紙を眺めている目の前の青年に目を向けることが怖くて、顔を上げることが出来ない。
青年は怒ってこそはいないが僅かに目を細め、なんとも微妙な心境を抱えている。
「んー……こりゃあ酷い。お世辞にも良い点数とは言えないな」
「知ってる」
「慰めの言葉すら思い浮かばない」
「反省はしてるので傷を抉るのはやめてもらえる!? 分かってるし勉強に付き合ってもらった幸哉さんには申し訳ないと思ってるよ! あー……家に帰るのが怖い」
元より勉強が得意とまではいかない時環は高校に上がってからというもの、格段に難しくなった勉強内容についていけず、実力はテストで再び明らかにされた。
以前は見逃してもらえたが、幸哉先生の世話になった以上は両親も何を言うか分からない。家に帰らず時計店に寄り道をして誰よりも先に幸哉に見せたのは、点数への客観的反応を知りたいのと、最も見せたくない相手に見せるのを少しでも先送りにするためだ。そんなことをしたとして、時間が止まることなどないというのに。
嫌なことは早々に終わらせるべき。
「別に怒られやしないだろう。点数だけなら酷いものだが、平均点の前後は取れてるし。多分成績もそこまで悪くはつかない……と思う、多分。これまでの成績を考慮すれば真ん中か、中の上か、国語と数学だけ中の下かもな。お前、文系と理系のどっち?」
「どっちだろう」
文系と理系の両方得意科目があり、両方に苦手科目がある。数学は苦手だが生物や科学はそこそこ。世界史は得意だが日本史はあまり。国語と英語は内容によって様々。得意とも苦手とも言えないのが副教科全般だ。
「両刀か」
受験には不利で、最も損をしている。誰にも負けない一つの科目を持つことが成績では大きく有利だ。
「とりあえず間違えた箇所の直しをして、国数英の復習と不得意分野を集中的に固めよう。何か希望とか困ってるところとかないか?」
「……今の勉強体制のことでなくてもいい?」
「ん? どうした?」
「テストに落ち着いて取り組める方法が知りたい」
わざわざ前置きをして聞いてくることから、てっきり人間関係のような複雑な悩みでも抱えているのかと幸哉は思ったが、そうではないようで安心した。普通の環境に置かれたとはいえ、幸哉の中で小学生の頃の時環の面影は完全には消え去っていない。
特に心の傷は完治することがなく、何かの出来事がきっかけで簡単に傷口が開いてしまっても不思議ではないのだ。
「なんだ、お前テストで緊張するタイプだったのか。意外だな」
「緊張というより、なんか見張られているのを感じると駄目になる。残り時間が知りたくて時計を見ようと顔を上げたら、必ず先生と目が合ったり。カンニングを疑われてるみたいで落ち着かない」
「ああ、悪いことはしていないけど冤罪を可能性を考えて怯えるやつね。そういうのは本人の気持ちの問題だからどうしようも……。先生達は不審な動きを見逃せない以上、どうしても反応してしまうものだからな」
視線を気にするのは、相手の顔色を反射的に窺ってしまうこととよく似ている。幼い頃に実母の顔色を窺って生きてきた習慣だろう。
人は相手に残る後遺症を一切考えずに人を傷つけ、それを平然とする人間は罪悪感を抱かない。
そして当然、被害者以前に事件を知らない他人は、人それぞれが個々に持つ古傷の大きさに気付くことがない。
「特にこの間のテストなんて二日目以降の見張りの視線がバチバチで。終わるまで見えない火花を放出させてんの」
「何かあった?」
「それが不明。強いていうなら二日目の数学のテスト中、トイレに行く前におかしなことをされてさ」
「テスト中にトイレに行くなよ」
幸哉が高校生の頃は、トイレに行く行為に答案を回収されるオマケが付属した。解答権を奪われてこれまでの努力が水の泡になるのである。
「どうしても我慢できなくて。一応休み時間には行ってたんだよ?」
眠気覚ましに缶コーヒーを飲んだのが間違いだ。コーヒーに含まれるカフェインには利尿作用がある。
「そのトイレに行く前と帰ってきたときに、二日目は金属探知機を使われたの。ポケットにスマホを入れていたら置いて行きなさいって。イケメン教師だったから後で女子に羨ましがられた」
「疑われたいのか女子達は」
「手間が増える分、相手に宿るのは好感度ではなくヘイトの方だろうにね」
大人は面倒な子供を好まない。時環はそう信じて疑わない。対しては幸哉は。
「夢を抱くだけ無駄なのにな……。教師と生徒は、結ばれるべきじゃない」
時環のように女子生徒のことを考えた言葉を表したが、目は口ほどに物を言う。細められた目から、言葉には他の意味があるように感じられる。まるで、自分に言い聞かせているような。
「幸哉さん?」
意識が遠い過去のどこかに向けられているよう。時環は幸哉を呼び戻そうと声をかけたが幸哉は顔に表さず、いつの間にか自然と戻ってきた。
「で、まさかトイレに行く生徒が続出して最初に言い出したお前が怒られて」
「ないよ。注意はされたけど……。俺が注目してほしかったのは金属探知機の方。変だと思わない?」
「何が」