きっかけを相手の方から与えられてしまい、これを逃せば自らタイミングを掴み直すことは難しくなるだろう。さっきのは冗談だったと、直ぐに笑い飛ばせるのなら別だが。
本来の目的を達するために来たことを忘れてはならない。トキワは五年前のあの日を思い浮かべ、おそらくこの先も忘れることがないだろう消えない苦しみを懐かしむ。小さく開いた口から静かに声を発した。
「あの日、助けてくれてありがとうございました。申請、通ったんです」
その報告を耳にして、ようやく幸哉も顔を上げる。ここから一歩、新しい道をやり直すための土俵を手にしたトキワは、立ち上がって幸哉を真っ直ぐに見た。
養子の申請に五年もかかるとは想像以上であったが、それだけの猶予があったにもかかわらず、気持ちに変化がなかったのであればこの先も彼らは大丈夫だろう。
里親じゃない本当の親として。本当の息子として。本当の家族として。
「改めまして、刻間時環です」
出来上がった幸哉のラテアートは、幸せそうに笑っている三匹の猫が描かれていた。一匹は大きく、二匹目は少し小さく、三匹目は最も小さい子猫。
不慣れな故による仕上がりだが、それはまるで仲睦まじい家族のようなアートだった。
1
今年の蝉の誕生はおそらく早いと予測出来る。
気持ちを新たに切り替えられる新学期が過ぎておよそ一ヶ月。ある程度学校とクラスに慣れて、かろうじてまだ新鮮な気持ちを生徒達が維持できる五月は四季に分類すると春の筈だ。しかし室内の温度計の数値は二十七度を示していて、湿度も不快感を生じさせる程度に高い。ここが自宅でない以上、勝手無言で冷房のスイッチを押すことは刻間時環には出来なかった。
「暑い……」
シャープペンシルを走らせるにも限界が生じ、我慢していた一言がつい時環の口からこぼれ落ちた。その言葉が届いたのか、はたまた彼自身も時環と同じ気持ちであったのか、救いの冷房スイッチそれも除湿機能のボタンが福沢幸哉によって押される。彼が片手に持っていたお盆は机の上に顔を預けている時環の目の前に下ろされた。
「はいよ、アイスコーヒーレモン入り。宿題なんて一日で終わらせろ! 寝るのは夜になってからだ」
「無茶言うな幸哉さん……。この量を一日とか無理に決まってるだろ。しおりのタイトルなんか『ゴールデンウィークの敵』だぞ。あー……こんな金にならない宿題じゃなくてバイトがしたい」
身体を起こした時環は別添えのシロップを少量注ぎ、紙ストローで程よく混ぜてから手に持った。グラスは水滴で塗れていて中の氷がもたらす冷たさが心地いい。一口運ぶとすっかり飲み慣れてしまったコーヒーの味とレモン酸味、シロップの甘みが同時に広がる。
福沢時計店が提供しているコーヒーは店主の好みにより細挽きで、酸味の強い粗挽きを好む時環は毎回レモンも希望していた。今では何も言わずとも、こうして初めからコーヒーの中に入れてくれている。飲み終わった最後に残りのシロップをかけて食べるのもいつものことだ。
時環がコーヒーを一気飲みをしている目の前では、幸哉が腰掛けて先ほどまで時環が解いていた数学プリントに目を通していた。まだ全ては終わっていないため出来ている分のチェックだが、さほど酷い出来ではなさそうで一安心する。
「中間テストがある以上、諦めるんだな。中間が終わったら直ぐに期末もやってくる。夏休み明けには実力テスト。学生の本分は勉強というわけだ。高校受験に備えて一年の今からきっちり勉強しておかないと後で困るぞ? そもそもバイトをするにしたって、中学生はどこも雇ってくれないよ」
「新聞配達は小学生でもいいって聞いた」
「だーめ」
「知ってる。つかアンタは俺の親か」
「親じゃなくて休日限定の先生な、お前専用の。ここ間違ってるぞ、自然数とはマイナスなんて余計な物が付かず、分数みたいな中途半場なものでもない数えることが出来る数。ゼロは何もないってことだから、数えられないだろ? つまり自然数ではなくて――」
ゴールデンウィークという連休は、中学生達はテスト勉強の予定で埋め尽くされる。
時環もサボり魔という名の例外ではなく、両親の命令により無理やり勉強をさせられることとなった。中学一年の中間は最も簡単なテストであるため時環に点数を取らせておきたいのだ。
しかし刻間夫婦は勉強が得意ではなく、教えるのも同様。その上時環が勉強に関心を示さないため、彼らは幸哉に家庭教師の依頼をした。
その話を聞いたとき、幸哉は驚いた。引き取られた子供は親の顔色を窺って、良い子でいようと真面目に勉強に取り組む子が多いと聞くからだ。時環が勉強をしないのはそれだけ気を許している証だろう。
良好な家族仲に幸哉は微笑ましく思ったが、それはそれとしても時環のサボり魔化には問題がある。とはいえ店を空ける訳にもいかず、店で勉強するならと引き受けることにした。
幸哉という監視の眼の効果は絶大で、今日は何時間も休憩することなく時環は机の上の宿題達と戦った。机の上に完全に突っ伏したのは理科の宿題を倒した直後だ。難敵の数学はまだ倒せていない。
「はあ……。未来の教師に勉強を見て貰えてる俺って、真面目クンや真面目ちゃんからしてみれば幸せ者なんだろうなー」
「良い子。自分の幸せを自覚出来るヤツは幸せになれる。ほい、かき氷」
先ほどのコーヒーは眠気覚ましの差し入れなだけであったが、今度は本当に休憩の許しをくれるらしい。いくつもの苺の果肉を乗せ、こだわりのお手製いちごソースをかけたオリジナルのかき氷だ。
「お疲れさん」
幸哉は二つのグラスにラムネソーダを注ぐと、その一つを時環に手渡して自分のグラスを軽く当てた。カツンと乾杯の音が響き、幸哉はストローも差さずに勢いよく喉に通す。対して時環は呆然と幸哉を見つめて動かない。
「どうした?」
自分に向けられたその眼差しに気付いてしまえば、その後は内心落ち着かないものだ。
「幸哉さんが炭酸を飲んでるの、珍しいなって思って。なんか苦手そうな顔をしているし」
「どんな顔だよ。まあそうだな……基本的に俺はコーヒー党だからな。イメージが沸かないのも無理はない。でもジュースだって飲むぞ。オレンジとか林檎とか、フルーツ牛乳とか普通に好きだ」
「炭酸も?」
「まだ疑うか。嫌いな物を自分から飲むわけないだろ。風呂上がりに炭酸水とか飲むときだってあるよ。でもビールの味は苦手だなー。あれが美味しいという大人の気がしれん」
思い返しても、ビールの味は指で一舐めする程度の楽しみ方で十分だ。
飲み会では幸哉はソフトドリンクを注文するが、周りが酒を頼んでいる中フルーツ系は頼みづらく、炭酸ならそれのアルコール入りとパッと見の区別がつかないため、大学に行ってからは炭酸を飲む機会も増えたのだという。
家で嗜む炭酸といえば炭酸水であったが、ラムネのような味のある炭酸ジュースの美味しさに気付けたのは学校生活の影響だ。この先社会に出たときのことを考えると多少は酒に慣れておきたいところだが、そんな日が無事に訪れるのかどうか、本人も想像がつかない。
「大学の仲間と飲み会かー。そうだよな、幸哉さんもう四年生だもんな。教育実習いつからだっけ?」
「休み明け」
「マジ!? 俺の先生、もうすぐ現役教師かよ!」
「そうだ。期間限定だけどな。悪い点数を取ったらシバく」
「うげぇ……」
少しでも勉強の再開時間をずらそうと、時環はかき氷をゆっくり食べようと考えたが、氷は時の流れに比例して徐々に溶け出す。時間は待ってはくれないらしい。
いくつもの時計の音が流れている一階に、二階から近付く低いリズムが鳴らされた。降りてきたこの店の店主は、向かい合って対話を楽しむ二人を見て温かな笑みを浮かべる。
「頑張ってるかい?」
「父さん」
「斗夢さん! すみません、起こしちゃいました?」
昨夜も遅くまで時計の作業をしていた斗夢は、相変わらず昼と夜が逆転している。つい先ほどまでが彼の睡眠時間だ。まともな生活リズムに戻そうと、日々注意をしている幸哉の努力は報われない。
「いや、一階の声は殆ど聞こえてこないから気にしなくて大丈夫だよ。人の声よりも時計の針の音の方がずっと大きいからね」
「二階も一階と同じくらい時計が働いているからな。叫んでようやく普通の会話と同じくらいに聞こえるか、それよりも小さいくらいだろう」
「メンテナンスと電気代、大変そう……」
懐中時計や腕時計は電池で動いているが、振り子時計や鳩時計、その他大型家具に分類される時計の全ては電気の動力の元で動いている。これらを全て休ませずに働かせているのも生活費を苦しめる原因だろう。自覚している分、改めて他人から突きつけられた事実は幸哉の心に深く突き刺さった。
「時々は休ませているよ」
斗夢の言う時々は本当に時々だ。週休一日ではなく月休一日。
ぶっきらぼうに両目を細め、疑心の眼差しを向ける幸哉に気付いていないフリでもしているのだろうか、息子の方に顔を向けなかった。
「中学一年の数学か。コイツの勉強を見てやったのが懐かしいな」
「幸哉さんの先生は斗夢さんだったんですね」
「ああ。家庭科の成績だけ無駄に良くて、数学の方は勉強をする姿勢すら見せなくてね。よく無理矢理させたものだ」
「へー……」
「何か言いたげな目でこっちを見るな」
自分は勉強しなかったのに人にはさせるんだ。と時環は言いたいのだろう。自分がさせられたからこそ人にもさせるのだと、幸哉は視線で言い返した。
「ははっ。時環くんもコイツに教わるのは不服だろうが、我慢してやってくれ。自分が受験のときに苦労をした分、テスト対策の知識も無駄に身についている」
「無駄じゃねーだろ無駄じゃ。将来に繋がる素晴らしい知識だ」
「幸哉さんも斗夢さんも、やたらとテストに拘るけどさ、一、二年のテストってそんなに大事? 三年だけ頑張ればよくない?」
一年の初めから三年の最後まで頑張るよりも、三年生の一年間だけを我慢して集中したい。実際にその通りに出来るかどうかの確証はなく、サボり魔の戯れ言だ。
「三年になっていきなり勉強する癖が身に付くわけないだろう。内申にだって響くし、何より勉強は積み木だ。数学は特に」
「積み木……」
「過去に習った内容を活用して解く問題をこれから沢山習うからね。そのときに過去の内容が理解出来ていなければ解けないだろう? コツコツ勉強して積み上げていくんだよ」
出来る単元が増えれば増えるほど、この先学ぶ内容がより簡単に感じることが出来る。高難易度の問題と対峙して、倒すために必要な武器が未入手の状態では長い道のりにやる気が削がれるものだ。強い敵には序盤から少しずつレベルを上げて、きちんと装備を手にしてから挑むもの。
「受験はもう始まってるってことか」
「そういうこと。お前もこれから実感するだろうけど、十年はあっという間に感じるんだ。三年なんて一瞬。一年はそれよりも早い。のんびりしていたら、後悔した頃には取り返しがつかなくなっている」
「幸哉さんみたいに?」
「俺は苦労も後悔もしていない」
主に斗夢が、勉強を強制的にさせてくれたおかげである。