おそらくトキワと刻間夫婦は、その壁を取り去ってしまったのだと幸哉は考えた。否、取り去ることに成功したのだろう。トキワに自信がないだけで、壁などなくとも問題ないのだから。
「知ってるか? 刻間の旦那さんもお前と同じ、旅行記を使ったことがあるんだ」
「旅行記?」
幸哉は立ち上がって棚の中から一つの箱を取り出した。深い緑色の布で覆われたその箱には店のマークが金色の箔で押されていて、いかにも高級そうな代物だ。幸哉がその箱の蓋をを開けると、斗夢の手作りである懐中時計がシルクの布の上で心地良いリズムを刻んでいる。
その時計はあの日、トキワが斗夢から貰った物。
「福沢時計店で扱っている、三つの奇跡の時計の内の一つ。自身の過去を見に行く力を秘め、一度だけ未来を変えるチャンスを与えてくれる、それが『旅行記』。刻間の旦那さんはああみえて、いいとこのお坊ちゃんでな。俺が六歳の頃に政略結婚をさせられそうになったんだ」
今のトキワよりも小さい頃の幸哉の記憶。保っていられたのは今日この日、義理の息子である彼に聞かせるためだろうか。幼い自分が父親の隣で目にした思い出を、幸哉は頭の中から引っ張り出した。
「刻間さんには当時付き合っている女性がいた。でもその女性は子供を身籠もることが出来ない身体だった。跡継ぎを必要とする刻間さんの両親は猛反対して、刻間さんも女性とは別れて親の決めた相手と結婚しようとした。だけど……」
人が示した道に幸福はなく、彼は長い時間頭の中ですっきりとしない感情に悩まされた。
「後悔したんだ。自分が選んだ道を進むのではなく後ろに戻りたいと強く願った。その想いの強さが、普通の人は見ることが叶わない福沢時計店のもう一つの名称を彼に見せた。今のお前にはもう、『店』の字は一つしか見えなかっただろ?」
丁度オレンジジュースをストローで飲み終えたトキワは直ぐに椅子から降りた。
注文を受けてもいないにもかかわらず追加のジュースを用意し始める幸哉を余所に、飛び出すように外へ出る。かつての背と同じくらいの高さであるA型看板を確かめると、そこには「福沢時計店」の文字と「本日は休業しました」という知らせの文字。普段は知らせの箇所にカフェの日替わりメニューが記されている。
そしてこれらの二つの間に、あの日はもう一つ書かれていた。
五年前、確かにトキワには「店」の字が二つ見えていた。
『見せなくていい。それは店で何かを、自分の手でレジに持って行ったときにだけ見せて渡しなさい』
『ここも店……』
『え?』
『看板に書いてあった。『店』って字が二つ、並んでた』
あの頃のトキワは書かれてあった店の名前がどちらも読めなかった。ただ五つの漢字の下にカッコで囲われた三つの漢字が並んであったことは覚えている。その字を五年経った今は思い出すことが出来ない。
「あの看板って幸哉さんが――っ」
「書いてるよ」
店内に戻ったトキワはドリンクおかわりを差し出された。聞きたいことの好奇心が優先して、それがサービスの一つであることに気付かない。
「けど、メニューを書き換えるくらいだ。他は字が消えてこない限りはそのまま。店の名前が変わらない限り、書き換える必要も……店の名前の一部を消す必要も無い」
もしもトキワが自力で看板の変化に気付いていれば、自身の記憶違いかボードの字が消されたのだと自己完結をして気に止めなかっただろう。幸哉の言い回しからして記憶違いではなく、文字は今もあそこに存在している。
「ここは福沢時計店。そして……」
特定の人にしか見えない。奇跡の時計を求める人だけが見えるもう一つの名前。時間の戻しを心から願う人ならば、その名前に引かれて店の中へ足を運ばずにはいられない。
その名を――
「逆行店」
店内にある大きな古時計が、低音の音を響かせた。
お金を殆ど持てない子供であり、その字を読むことが叶わず、意味も知らないでいたトキワがあの日見えることを伝えられたのは運が良かったの他ならない。
今も「福沢時計店」の文字の下には「(逆行店)」と記された文字がある。この字が見えない人は、幸福に近づいた証とも言える。
「この店は端から見ればただの時計屋だ。ここがどういう時計を扱っている店なのか知って貰う必要があり、知らない人が普通の時計を求めて訪れた人なのか、特別な時計を必要としている人なのか見極める必要がある。だから奇跡の時計を必要とする人にだけ見えるよう、逆行店の字は特殊なチョークで書いてあるんだ。店のことを知らなくても奇跡の時計を求めていることに、俺達が気付けるように」
過去に戻りたいと、追い詰められるほどに願う人ならば、例え非現実的な内容だとしても興味本位を装って問いかける。
逆行店とは何ですか――と。
「ちなみにチョークは企業秘密だから聞かれても答えないぞ? あれも自家製のオリジナルだ」
「不思議な時計を作れる人が、不思議なチョークを作ったって別に驚かないよ」
どちらも平凡な日常を過ごす人に非凡を体験させる、神様のような技術だ。
「ま、そういうわけで。刻間さんも逆行店の文字に惹かれてこの店を訪れた。父さんは旅行記を薦めて刻間さんはその力で未来を変えた。お前はこれを聞いてどう思う?」
「どうって……」
「刻間さんの今は、旅行記によって成り立っているものだと思うか?」
唐突に幸哉が始めた話の意図を、トキワは汲み取った。幸哉はトキワが口に出した言葉を否定し、間違いだと指摘している。
旅行記を体験したお前なら分かるだろ? 穏やかな笑みを浮かべながらトキワを見つめる幸哉の目は、そう告げていた。
トキワは俯いて、時間に少しの沈黙を生じさせた。答えは既に出ていて、それが正解だと自信を持つために考え直す。どうやら回答に変化はなさそうだ。
「……思わない」
「どうして?」
「旅行記を使ったからって、未来を変えられるわけじゃない」
一度体験したからこそトキワは分かる。旅行記は過去に戻れるが、過去からやり直せるものではない。トキワが過去に戻ってもその時間軸のトキワは存在して、時間が経てば元の時間に戻ってしまう。
過去に戻れる時間には限りがあり、未来を変えるためには限られた時間で行動する必要がある。何も出来なければ、失敗すれば、未来は何も変わらない。
「そうだ。旅行記なんて、ただチャンスを与えるだけの物に過ぎない。そのチャンスをどうするかはその人次第だ。刻間さんの今の幸せは旅行記を薦めた父さんのおかげでもなければ旅行記のおかげでもない。旅行記を使うと決めて、未来を変えるために過去に戻って行動した、あの人自身が自分の力で手にした物」
誰かに与えられた物ではない。
「確かにお前の今の生活は、二人がいるから成り立っている。二人の好意があるからこそ、お前は幸せに暮らせているんだろう。でも、その幸せを手にするための道を開けたのは間違いなくお前自身だ。お前の意志があったから、旅行記はお前に力を貸した。当たり前のことじゃない……でも、成し遂げた成果だと思えば、当たり前の日常だと思ってもいいだろう。お前はもう――」
口に出そうとして幸哉はやめた。この先の言葉はトキワ本人から聞きたい。おそらく直ぐに教えてくれるだろう。
「いや、なんでもない」
半ば誤魔化すように、最近趣味で始めたラテアートを作り始めた。ある程度ミルクの泡立てに慣れてくればメニューに加えたい遊び心の一品だ。すっかりケーキを食べ終えたトキワが頬杖をついて疑わしい目を向けている。
「……幸哉さんさ、客のことを喋っていいのかよ」
「駄目に決まってんだろ。昨日までならお前にも話さなかった。でも、もういいかなって」
キャラメル色のエスプレッソの上にゆっくりとミルクが注がれる。順調に猫を描いていく幸哉は顔を上げもせずに続けた。
「今日来るなんて、突然予約みたいな伝言を刻間さんにを頼んで、何か言いたいことがあるんじゃないか?」
きっかけを相手の方から与えられてしまい、これを逃せば自らタイミングを掴み直すことは難しくなるだろう。さっきのは冗談だったと、直ぐに笑い飛ばせるのなら別だが。
本来の目的を達するために来たことを忘れてはならない。トキワは五年前のあの日を思い浮かべ、おそらくこの先も忘れることがないだろう消えない苦しみを懐かしむ。小さく開いた口から静かに声を発した。
「あの日、助けてくれてありがとうございました。申請、通ったんです」
その報告を耳にして、ようやく幸哉も顔を上げる。ここから一歩、新しい道をやり直すための土俵を手にしたトキワは、立ち上がって幸哉を真っ直ぐに見た。
養子の申請に五年もかかるとは想像以上であったが、それだけの猶予があったにもかかわらず、気持ちに変化がなかったのであればこの先も彼らは大丈夫だろう。
里親じゃない本当の親として。本当の息子として。本当の家族として。
「改めまして、刻間時環です」
出来上がった幸哉のラテアートは、幸せそうに笑っている三匹の猫が描かれていた。一匹は大きく、二匹目は少し小さく、三匹目は最も小さい子猫。
不慣れな故による仕上がりだが、それはまるで仲睦まじい家族のようなアートだった。
1
今年の蝉の誕生はおそらく早いと予測出来る。
気持ちを新たに切り替えられる新学期が過ぎておよそ一ヶ月。ある程度学校とクラスに慣れて、かろうじてまだ新鮮な気持ちを生徒達が維持できる五月は四季に分類すると春の筈だ。しかし室内の温度計の数値は二十七度を示していて、湿度も不快感を生じさせる程度に高い。ここが自宅でない以上、勝手無言で冷房のスイッチを押すことは刻間時環には出来なかった。
「暑い……」
シャープペンシルを走らせるにも限界が生じ、我慢していた一言がつい時環の口からこぼれ落ちた。その言葉が届いたのか、はたまた彼自身も時環と同じ気持ちであったのか、救いの冷房スイッチそれも除湿機能のボタンが福沢幸哉によって押される。彼が片手に持っていたお盆は机の上に顔を預けている時環の目の前に下ろされた。
「はいよ、アイスコーヒーレモン入り。宿題なんて一日で終わらせろ! 寝るのは夜になってからだ」
「無茶言うな幸哉さん……。この量を一日とか無理に決まってるだろ。しおりのタイトルなんか『ゴールデンウィークの敵』だぞ。あー……こんな金にならない宿題じゃなくてバイトがしたい」
身体を起こした時環は別添えのシロップを少量注ぎ、紙ストローで程よく混ぜてから手に持った。グラスは水滴で塗れていて中の氷がもたらす冷たさが心地いい。一口運ぶとすっかり飲み慣れてしまったコーヒーの味とレモン酸味、シロップの甘みが同時に広がる。
福沢時計店が提供しているコーヒーは店主の好みにより細挽きで、酸味の強い粗挽きを好む時環は毎回レモンも希望していた。今では何も言わずとも、こうして初めからコーヒーの中に入れてくれている。飲み終わった最後に残りのシロップをかけて食べるのもいつものことだ。
時環がコーヒーを一気飲みをしている目の前では、幸哉が腰掛けて先ほどまで時環が解いていた数学プリントに目を通していた。まだ全ては終わっていないため出来ている分のチェックだが、さほど酷い出来ではなさそうで一安心する。
「中間テストがある以上、諦めるんだな。中間が終わったら直ぐに期末もやってくる。夏休み明けには実力テスト。学生の本分は勉強というわけだ。高校受験に備えて一年の今からきっちり勉強しておかないと後で困るぞ? そもそもバイトをするにしたって、中学生はどこも雇ってくれないよ」
「新聞配達は小学生でもいいって聞いた」
「だーめ」
「知ってる。つかアンタは俺の親か」
「親じゃなくて休日限定の先生な、お前専用の。ここ間違ってるぞ、自然数とはマイナスなんて余計な物が付かず、分数みたいな中途半場なものでもない数えることが出来る数。ゼロは何もないってことだから、数えられないだろ? つまり自然数ではなくて――」