福沢時計店の思い出旅行『キ』




 寝静まった夜。

 チク……タク……と個々に音を立て、統一性のない合唱を繰り広げる彼らの声が、古めかしい階段の音よりもずっと大きく響き渡る。

 小さな子供の中には家で一人留守番をしているときに聞こえてくるいくつかの時計の音が怖いと感じる者もいるが、流石に物心ついたときからこの声を聞いて育てば、もう高校生になったから等関係なくそんな感性は持ち合わせない。

 夜中に目が覚めて、水を求めて一階に足を降ろした途端、零を指した振り子時計が鐘を鳴らしても一切動じない。もうそんな時間か……と呑気に考えられるほど音は彼の身体に馴染んでいた。


 ――福沢時計店。


 デジタル時計が普及している世の中、いくつものアナログ時計を取り扱い、修理を承るこの店は深夜三時にも関わらず明かりが灯っている。店主の一人息子である福沢幸哉は奥から漏れているオレンジ色の光を見て目を細めるが、泥棒かなんて疑いは欠片もない。もはや日常茶飯事で、もう何度目か分からないほど発した言葉を今夜もまた告げた。


「まだ起きてたのか、父さん」

 ちょっとした休憩や、お客を持てなすときに使われるソファーとテーブルを利用して、店主の福沢斗夢が小道具で時計に命を吹き込む。

 その後ろ姿は嫌いどころかむしろ逆だが、時間が時間だ。身体を壊しては元も子もないと、今だけはその背中を見せるのをやめて早くベッドで休んで欲しいと幸哉は思う。そんな心情など知りもしない斗夢は、振り返ることも手を止めることもせず、視線も時計から離さない。


「もう少しで機器が完成しそうなんだ。キリが悪いと明日はまた一からになる……お前は早く寝なさい。明日も学校だろ」

「創立記念でお休み。さっきまで熟睡してたから眠気も覚めた」


 幸哉は横を通り、キッチンにある冷蔵庫から麦茶を取り出すと勢いよくコップで喉に通した。

 どうせロクに休憩もとっていないのだろう。自分の喉が潤った後、父親の分も用意する。コーヒーカップに注ぎ、電子レンジで程よく温めた茶を、うっかり腕に当てて倒されないようテーブル上でも少し離れた位置に置いた。すっかり冷めた頃に口を付けるだろうと予想していれば、意外にも早くそのカップは手にとられる。


「二丁目のじいさんは、数字が大きく表示されている時計が欲しいらしい」

「ウチの店はそういう普通の時計が売りなわけじゃないだろ。来る店を間違えてる」

「ああ。だが、普通の時計も売っている。針で存在を主張し、消え行く一秒一秒を告げてくれる、命を感じられる時計達……」


 まだ針を動かす準備が整っていない我が子の一つを、斗夢は優しく撫でた。

 時計の針は二十四時間三百六十五日働き続け、その命が尽きるまで持ち主が過ごした時間をその身に刻む。小さな本体でそれを記憶しているとまでは、多くの人は知らないだろう。無論知っていたとして、それをアルバムのように簡単に取り出せなければ意味など無いのだが……。

 それでもその時計の価値は、針を埋め込むことが出来ない時計に比べて大いにあると幸哉は思う。価値観を押しつけることこそしないため声には出さないが、この価値を分かってくれる存在がもっと増えればいいのにと内に秘めていた。


「雨?」


 針の音で奏でられていた空間が、徐々に水の音に塗り替えられる。耳が遠くない幸哉は斗夢よりも早く外の合唱に気付いた。

 彼らの声はより一層大きくなり、雷のアクセントまで加えてくる。

 窓の方向を見つめながら、二人は同じ事を考えていた。


 ああ、今夜は……眠れない夜になりそうだ。












 冷たい雨の雫が一つ、また一つと上から落ちる。

 家というのは保護の役割を果たすものだが、年月が経ち古くなったその家は寿命へと近付いていて外の雨の侵入を防ぎ切れずにいた。他に落ちる場所などいくらでもあるのに、運悪く雨の一粒は畳の上ではなく小さな少年の頬へと落ちる。その雨の冷たさを少年は一生忘れることはないだろう。


「お腹……空いた……」


 電気が止められたことにより真っ暗で、まともな家具など揃っていない。畳の上にちゃぶ台と使えもしない飾りと化したテレビ、殆ど何も入っていない棚と空っぽの押し入れがそびえ立っているくらいの空間だ。そんな場所で七歳の少年は一人、タオルを布団代わりにして横になっていた。

 起き上がる気力が湧かず、かといって眠れもしない少年の目に瞳は宿っていない。しかし心はかろうじて生きていて、空の上の雷様の怒声を耳にした途端、素直に恐怖を感じた。罪の無い少年が身体を震わせても空は再び声をあげる。それを聞きたくないのと暗闇を照らす不気味な光を見たくなくて、少年は耳を押さえながら目を瞑り、唯一の盾であるタオルに顔を埋めた。


「おかーさん……」


 何度呼んだところでその存在が現れるわけがないことは理解している。これまでだって一度も来てくれたことはなかった。

 だから今、その呼びに答えるように開かれた玄関扉の音に少年は目を見開けた。音が身体の硬直を溶かす薬となり、希望をもたらされた少年は一目散に駆けだした。


「! おかーさんっ!」


 力が加えられきちんと立つことが出来ていた足は止まれば素直にフラついた。それでも壁に手をついてどうにかバランスを保ち、たった一人の家族の姿を見上げる。縋るように向けた瞳に返されたのは、靴を脱ぎながら面倒くさそうに息子を見下ろす母親の目。


「なに?」

「あっ、えっと……おかえりなさい」

「……忘れ物を取りに戻ってきただけ。邪魔だからさっさとどいて」

 乱暴な手に押しのけられ、少年は前へと崩れ落ちた。名残惜しげにキッチンに向かった母の方向を振り向いても、ガラスコップに注いだ水道水を一気に飲み干す背中が見えるだけで、その目が自分に向けられることはない。再び立ち上がって追いかけようとする前に、母の方から子がいる玄関へとやってくる。


「じゃ、また出掛けてくるからいい子で待っててよね」

「……いってらっしゃい」


 いってきます、の言葉はなかった。

 行かないで欲しいと少年は言いたかったが、口に出せば嫌われると直感的に感じ、毎日喉の奥に飲み込んでいる。母親は帰ってきては食べ物を置いていくが今日は何もない。自分の足で探しに行かなければ食事が出来ないと、静まり帰った暗い廊下にゆっくりと足を滑らせた。


 雷の音に怯えながら見つけた生野菜は決して美味しいものではなかったが、胃を満たすための食事などこういうものなのだろうと少年は深く考えない。

 食べ物も寝る場所も自分は至って普通、全ての人は皆こういった生活をしていると思い込んでいた。












 福沢時計店の朝は早い。

 否、早すぎる。

 世の店は大抵九時か十時、飲食店であれば早くて七時から開店するところが殆どだ。早朝からただの時計店に来る客などいるとも思えないのだから、朝の五時に起きて六時にオープンする必要など全くないと、福沢幸哉は常日頃から感じている。


 ――いくらカフェもやってたってな……! 看板が時計店な以上知ってる奴しか来ねーだろ! 休みの日くらい昼まで寝かせろ!


 ただでさえ昨夜は徹夜だったのだ。父のおかげで再度ベッドに入った時間はより遅くなり、すっかり寝不足状態。目の下にはクマが出来ている。しかし平日の朝は家を出る八時まで手伝うのが日課であり、創立記念日の今日も平日である限り例外じゃない。例外にしたかったが朝早く掃除機をかけにきた斗夢に起こされ、こうしてエプロンを纏ってカウンターに立つことになった。


 コクのある香りに包まれながらコーヒーの出来る音を聞くのは好きな方だが、睡眠を妨害しに来た父親が店の準備を終えて直ぐに二度寝へ向かったのを思い出すと苛立ちも込み上がるというものだ。

 カランコロンとドアベルが音を鳴らし、来客の訪問を告げるまで顔は不機嫌を露わにしていた。即座に取り繕う営業スマイルはお手の物である。


「いらっしゃいませー!」

「おはようユキ君、今日も朝早くからお疲れー。モーニング一つ」

「刻間さん……! いつもありがとうございます」


 カウンター席のみの小さなカフェ空間は、一度この店を訪れてコーヒーや食事を口にした客が数日おきに朝食や昼食をしに来たいと思う程には密かな人気がある。

 常連客を生み出すその理由が幸哉の淹れるコーヒーと作る食事にあると、気付いていないのは本人だけだ。ただの冷水に見えて少し果実が加えられたこだわりのあるお冷やも、訪れるお客にとっは目的の料理やコーヒーが来るまでの楽しみとなっている。


「今日は親父さんはいないのかい?」

「昨日遅くまで時計をいじってまして、今頃夢の世界に戻ってますよ」

「ははっ、相変わらずだなトムさんは! ユキ君ももう何年かすればああなるのかねー」

「どうでしょう……。個人的にはなりたくないですね。少なくとも俺は、十二時には布団に入る生活を習慣づけたいと――っとと、思ってます」


 冷蔵庫から取り出した卵を考えなしに作業台の上に置けば、コロコロ転がって床へと向かった。落下を阻止して落ちないよう小皿の上に乗せると、安心して料理を再開する。


「大抵の子供は皆、親に似るのを嫌がるものなんだよ。でもユキ君の場合、尊敬はしているんだろ?」

「そう見えますか?」

「否定しないところ正解だな。ユキ君は間違いに対しては直ぐに指摘する」

 いつの間にそんなところを見抜かれていたのだろう。自分で意識したことはなかったが、言われてみればその通りな気がした。またしても肯定はせず、代わりに相手に伝わるであろう笑みで返す。正解に対する素直でない表し方だ。


「アレルギーはなかったですよね? 苦手な物がありましたら今のうちに」

「苦手な物―? いい歳した大人がそんなもんあるわけ――ちょっ、ユキ君それは止めて!? 食パンに生クリームを塗るのは却下!」

「はいはい、かしこまりました」


 分かっていて聞きやがったな……。クスクス笑う幸哉に対し、刻間は苦笑しながら小さくぼやいた。

 以前学校が休みの土曜日に彼がお茶をしにやってきて、ガトーショコラに添えた生クリームが一切手を付けられていなかったことを幸哉は覚えていた。もしや生クリームが苦手なのだろうかと思っていたが、ビンゴである。


 本日の日替わりモーニング。サンドイッチ、サラダ、コーヒーもしくは紅茶が付いて五百五十円。おそらくサンドイッチがフルーツサンドとは思わずに注文したに違いない。