福沢時計店の思い出旅行『キ』



◇◇◇◇◇


「遅い……」


 時計が針を進める度に、もどかしく感じる。


 ――何かあったか?


 旅行記は鑑賞専用の旅行祈と違って、霊体ではないため普通に怪我もする。それとも体調の悪さに限界がきて、どこかで倒れているのだろうか。もしくは不法侵入がバレて、警備員の元にいるか。

 様々な可能性が脳裏に過り、食堂の扉に何度も繰り返し目を向けていた時環はついに待つという行為に限界が生じた。
 入れ違いになる覚悟で絵茉を探しに行こうと立ち上がる。


 ――一般開放されているのは確か食堂と……。


「すみません、図書館への道を教えてほしいのですが」


 清掃員の職員は口答と指で快く方向を指し示してくれた。それをしっかりと脳内に刻み込み、忘れないよう頭の中で復唱した。

 食堂以外に向かったと思う場所、というよりも向かえる場所が図書館しかない。他の場所では誰に聞いても不審者として扱われるのだから、絵茉もそこにいてほしいと願う他ない。

 教えて貰った道を進むと、図書館の場所は食堂よりも元いたあの廊下から近かったことが分かった。何故絵茉は図書館ではなく食堂を選んだのだろう。何かを食べるつもりでもなかったというのに。


「!」


 足の勢いに制止をかけ、時環は咄嗟に壁の後ろへ隠れた。血相を変えて図書館から飛び出してきた青年が、時環のよく知る顔だった。


「幸哉さん?」


 絵茉を探しに来た目的を忘れたわけではなかったが、予想外の人物との偶然の遭遇に驚きの感情は素直に現われる。時計店にいる印象が強い幸哉が何故この場にいるのか。

 何よりもあの表情だ。常に余裕があり、父親に似て穏やかな表情を浮かべている幸哉が何かに追い詰められているようだった。


「やっぱり、旅行記は幸哉さんために……」


 時環の足は、図書館ではなく幸哉の向かった先に走り出した。

 行き先は運動場。委員の生徒と教師達が、間もなく開かれる体育祭の準備をしている。


 目的地に着いた幸哉は息を整えて、表情を落ち着いたものへ取り繕う。足の速度を普通の歩きに変えて、準備を手伝いに近付いた。

 見つかるわけにはいかない時環は、離れた位置から光景を眺めた。直ぐに逃げ出せるよう、殆ど学外に近い場所。

 幸哉は一人の女生徒に話しかけていた。誰かの面影が感じられるその女生徒は、受付の方を手伝いに行くようだ。


「まさか……」

「駄目」


 可能性を過らせたと同時に、時環の後ろでフェンスの音が鳴らされた。振り向くと、そこには外から運動場の様子を窺う絵茉の姿。

 柵が越えられない壁を生み出していた。


「夏目さん! よかった、遅いから何かあったんじゃないかって心配したんだ。いつの間に学外に……そうだ、あの子ってもしかして中学生の夏目さ――」

「そうよっ! そんなことはいいから! 早く福沢先生をあそこから離して!」


 時環の言葉を遮って絵茉は叫んだ。突然のことで、時環は脳の処理が追いつかなかった。

 整理が付く前に再び強風が吹く。飛び舞う砂から目を瞑っていると、何かが崩れ落ちる大きな音と、人々の悲鳴の声が聞こえた。

 二本の足で立っていた彼が頭から血を流し、身体を横たわらせている。

 彼の近くから離れた少女が、彼に駆け寄って泣き叫ぶ。

 救急車を呼べと辺りは騒がしく、賑わっていた光景は一変し、切羽詰まった事態へ急変した。



『どうしたの、その怪我……』

『なんでもない、ちょっと事故っただけだ』


 脳裏に思い起こされたあの記憶も、旅行記の力だろうか。

 中学生の頃、知らない場所で起こっていた出来事は想像よりもずっと重く、未来を知っていても恐怖を感じる。


「ちょっと? どこがちょっとだよ……」


 例え自分達が彼らに関わっていなくとも、過去に来たという事実だけで未来が変わってしまわないか。

 横たわる彼が、もう二度と目を開けることのない未来が起こりうるのではないか。


「……や……いや……」


 辛い思い出の一つ。思い出したくなかった過去であり、忘れてはならない過去。

 タイミングが良いのか悪いのか、リミットが近付いた。現代へ戻ろうとする感覚が二人の身体に生じるが、絵茉は違和感に気付かない。気付ける程の余裕を心に無くしている。


「ごめ……なさ……ごめんなさい……先生!」


 中学生の少女と隣の少女を時環は交互に見た。彼女はトラウマを抱え、癒えた今、再び呼び起こされてしまった。

 そして元の時間軸へ戻ろうとしている。


 これは本当に、持ち主のためになっているのか。旅行記の力に意味はあったのか。

 未来を変えられるかは旅行者次第。旅行記のせいではない。












 現実から逃避したくなる過去の光景から、いつの間にか目が覚めていた。

 全身に漂う緊張感と恐怖が、今の現実でなくとも過去の現実であった事実を物語る。

 血相を変えたあの姿。テントの下にいた絵茉への行動。


 ――もしかして幸哉さんは。


「夏目さん、大丈夫?」


 意識を取り戻した少女は、重たそうに身体を起こした。記憶はしっかりと残っている。身を守るように両腕を抱え、顔は俯いたまま前を向かない。


「せんせ……」


 受け止めきれず、目尻に涙を浮かべた。耐えきれない滴が溢れ、零れ落ちる。


「会いたい……会いたいよ……会ってもう一度話したい」


 福沢時計店のことを教えるか、時環は頭を悩ませた。 
 出した結論は「言わない」。思い出旅行は失敗に終わった。時計店に絵茉を連れて行けば二人は再会を果たすだろうが、旅行記はこのエンドを望んでいない気がした。





 絵茉が落ち着きを取り戻すのを待って別れた後、時環は一人、いつもよりも歩幅の小さい足取りで時計店へと向かった。幸哉と顔を合わせることに一方的な気まずさが生まれるが、時計は返さなくてはならない。旅行記が発動した事実を相手が知らなくとも、足に重心はのしかかる。

 扉を開けて鳴り響くドアベルは、後戻りが出来ないと告げる音だった。

「おかえり。じゃなかった、いらっしゃい」

「ただいま」


 帰るべき家ではないが、自然と口から発していた。

 斗夢の姿は見当たらず、客一人いない店内では幸哉が客席に座って一人で時計をいじっている。ジョークに乗った割には暗い声が聞こえてきて、幸哉はその手を止めた。

 言い間違いであれば時環なら直ぐに気付き、恥ずかしがる素振りを見せるだろうがそのような様子もない。心ここにあらずといった時環の姿に一瞬だけ幸哉は訝しげな目を向けるも、平常心を保ちいつも通りに接しようと切り替える。時計は放置して、カウンターに立った。


「何か飲むか? 新しいコーヒー豆を取り寄せてみたんだ。店のメニューとして正式に提供するものじゃないから、粗く挽いてやってもいいぞ? 父さんが細挽きで飲んで、イマイチだって言っていたやつとか粗挽きなら合うかも」

「いや、何もいいよ」

「そうか」


 店に入って注文をしない迷惑な客にも、幸哉は嫌な顔を見せない。元より返しにきただけだと察していて、未提供のコーヒーに金を取る気はなかった。家に遊びに来た知人に出すお茶の感覚である。


「あの……さ……」

「なんだ?」


 時環は言いにくそうに視線を反らした。絵茉のことを言ってもいいか、旅行記のことを話すか、答えが出ない。

 三秒、五秒と時間が過ぎ去り、何も言わないのはおかしいと自分を急かす。咄嗟に口から出てきたのは。


「やっぱり、コーヒーもらえる?」

「ああ」


 コーヒーを挽く音を聞きながら、カウンター席の上に鞄を置いた。

 そのまま隣の席に座ることはせず、時環は奥のテーブルの上に出された部品に目をやった。近付いてみると、そこには出来上がった時計も置かれている。


「なに、作ってたの?」

「旅行キだ。過去を見に行く専門の旅行祈。『祈る』の文字に相応しく、流れ星のチャームを付けて出来上がり。と言っても試作品だから、不備があればまたやり直しなんだけど――」


 振り返った幸哉から、温厚な顔色が消え去った。かすかに怒りを含ませながら、その目は驚きに満ちている。視線の先には無断で時計を握っている時環の姿。


 ――旅行記は持ち主のために力を発揮したんだ。持ち主である、幸哉さんのために。俺があの人のためなら戻りたいと願ったから。


 それは旅行記達にとって、持ち主のために戻ってくれる者が目の前に現れたということ。

 旅行祈はどうだろう。

 旅行祈はこの意志を、持ち主のためになると信じてくれるだろうか。

 力を託してくれるだろうか。

 祈りと共に時環が手に力を込めると、止まっていた秒針が右に揺れた。通常のリズムよりも大きいその音が旅行祈からの返答だった。


「ごめん。勝手なことだって分かってる。人の物を許可無く使ってはいけないことも。人は他人に知られたくない過去が一つや二つあることも。でも……」


 見てしまった以上、たとえ目の前に無傷の本人がいても、頭の中はかつての幸哉をチラつかせる。


「助けたいんだ。アンタにとってはもう昔のことで、どうでもいいことかもしれない。それでも俺にとってはついさっきのことで、ただの自己満足なだけだとしても、俺はアンタを助けたい」


 ――いや、こんなのは偽善だ。それでアンタが作った時計の力を借りるのもおかしな話なんだ。多分俺は……。


「アンタのことが知りたい」


 助けたいというのは嘘ではない。けれどそれと同じくらい、兄のように慕っていて遠い彼のことが知りたい。

 一度動いて、再び止まった時計の針が再度動き出した。時環の身体が地に崩れ落ちる。

 床と衝突すると思っていた想像は外れ、不思議と痛みは生じなかった。
 











 福沢幸哉にとって学校内の生徒というものは、マークテストの採点機が見る解答欄のような存在だった。

 生徒ひとりひとりに個性はあっても、それらに興味を示さない以上は大きな違いがない。教師は生徒を見ているが、教育実習生として母校に再び足を踏み入れた幸哉は個々の生徒を見るのではなく自身の技量に着目し、それらがどの程度のものか生徒の全体を見渡して窺っていた。


 特定の個人の観察対象といえば、生徒ではなく教師だった。担当科目の授業がなく他に指示もない自由な時間も、幸哉は他の科目の授業にお邪魔して先輩である教員達の姿を教室の全体が見える後方から見学していた。だからこそ国語の教師の粗に気付けた。

 最初は首を傾げる程度だった。

 授業開始のチャイムが鳴り終わり、本格的に授業を始める前に雑談をするのも生徒とのコミュニケーションの一環で、人にもよるが珍しいことではない。ただその内容がいくつか幸哉の中で引っかかるものがあった。

 幸哉の母校では六限目の後に生徒が日記を書く習慣がある。それを教員がチェックすることで生徒の個々を把握し、直接語れない本心を知る。言うなれば教師との隠れたコミュニケーションだ。そう学生時代の幸哉は感じていて、今も変わらずそう思っている。

 だから国語の教師がその日記に書かれている内容を授業前の話題にしたとき、守秘義務はないのだろうかと疑問を浮かべた。

 好意的な内容であるのなら、百歩譲ってまだ聞かないことに出来た。しかし国語の教師が語った内容は否定。


 こういう勉強をしている生徒がいる。そんなもので身に付くわけがない。

 こういうのが好きな生徒がいる。こんなもの、何の役にも立たない。くだらない。

 昨日こんな生徒が――

 日記に――

 ――――

 ―― 


 名前こそは出していないが、話の対象にされている生徒は矛先を向けられているようなものだろう。自分がその生徒の立場になれば、日記を見返すことはおろか書くことが嫌になる。

 しかし教師は言っていた。皆の日記を読むのは面白い。

 学生の頃の幸哉の担任も言っていたことだが、この教師がその言葉を口に出すことを幸哉は良しとしなかった。

 かといって、幸哉に何が出来るだろう。教師でない人間が、教師に対して間違っているなんて盾突くことは出来ない。口論の際に言い返すに当たって、資格というものが足りないのだ。

 にもかかわらず、幸哉はクラスの担任に頼んで一人ひとりの日記を見せて貰った。国語の教師が語っていた生徒が誰か知りたかった。生徒からしてみれば知って欲しくないことは察しの上だ。