代わりにいたのは、着物を着て腰に刀を差した男の霊だった。髷を結っているが月代をそり上げておらず、江戸時代より前の武士のようだ。着物は前に紐があって――あとで調べたら直垂というらしい――これも江戸時代の装束とはやや違う。

『はあ~~~~』
 と武士の霊がため息をついている。写真を撮って清正井をお参りする振りをしながら、真名は心の中で呼びかけた。

(こんにちは。初めまして。あなたはこの井戸を護ってくださっている方ですか?)

 すると、武士の霊は目を丸くして真名に語りかけてくる。

『おぬし。わしの姿が見えるのか』

(はい)

 あとたぶん、こっちの泰明さんも、と言おうとしたが何となくやめた。

『わしは加藤清正公にお仕えしていた武士でな。名前は恐らくいまの時代まで残ってはいないだろう』

 真名は驚いた。単純な幽霊だと死んだ時点で時間が止まっている霊が多いが、この武士はいまの時代における自分の立ち位置をきちんと理解している。

(ずっと井戸にいるのですか?)

『昔はときどき様子を見に来る程度だった。ところが最近何やら人が多くなってきて。一応ここは加藤清正公を偲ぶ場所であり、公のお心の如く清らかな場所。汚されてはかなわじと見張りに立っているが……こやつらは一体何を考えているのだ?』

(えっと、何を考えているのか、とは……?)

 真名が尋ねた。日本史が苦手なので加藤清正についてあまり知らないのだ。

『加藤清正公は秀吉さまの下で〝賤ヶ岳の七本槍〟と讃えられた武将。領地経営も巧みであられた。公の御遺徳を偲び、そのお力をお借りしたいと祈るならまだしも、ここに来る者たちは判で押したように金のことばかり。金儲けを願うなら公よりも、加賀百万石を築いた前田利家さまの方が御利益があるのではないか』

 武士が顔をしかめていた。参拝者が金運アップを願うのを嫌がるというより、純粋に困惑している顔だ。

(どうしてこうなったのでしょうね……)

『わしが訊きたい――』と武士の霊が、がっくりと頭を落とした。
『それにしても、どいつもこいつも願い事ばかりで、こちらの力を吸い取っていくばかり。たまには感謝の念いくらい捧げてほしいが……ああ、こんなわがままを言って井戸が穢れてはいけない』

 武士の霊が頭を振って背筋を伸ばす。するとそれまで黙っていた泰明が急に口を開いた。

「たまにはお国のものでも食べたいですか」

 声に出していったものだから、井戸の警備員がぎょっとなっている。

「え、ああ、そうですね! このあとどこか食べに行きましょう」
 と、真名がごまかす。自分でも下手な演技だと思うが、仕方がなかった。泰明の言葉は明らかに武士の霊に向けられている。それが分かった武士の方は苦笑していた。

『不成仏霊ではないのだから、別に何か食いたい物があるわけではないが』

「もちろん。けれども、気分だけでも違いますでしょ?」

「東京なら何でも食べられるけど、故郷の料理だと確かに」と真名が演技を続ける横で、武士と泰明が平然としゃべっている。

『ははは。確かに〝お供え〟をいただけば、そこにある〝感謝の念い〟が伝わってくるものだ。それが懐かしい肥後国の物、公がお好きだった物ならなおさら』

 泰明は軽く頭を下げるとさっさと清正井から歩き出した。慌てて真名も武士に礼をしてあとを追う。泰明は大股でどんどん咲に歩いていった。ほとんど小走りになって追いつく。

「泰明さん。泰明さん。どこへ行くんですか」