はい、こちら「月刊陰陽師」編集部です。

 先日の占星術部の話だった。すでにページレイアウトソフトに流し込まれていて、雑誌の段組になっている。イメージ写真も入っていてほぼ完成状態だ。

「何を見ればいいんですか」

「内容。一応、大学と人名を特定されないようにしているけど、削ってほしい表現があったら教えろ。あと、内容的に気になったところがあれば、それも」

 真名が泰明の書いた文章に意識を集中させる。最初の数行でちゃんと状況説明が終わっている。「いつ・どこで・だれが・なにを・どのように・どうした」――いわゆる5W1Hと呼ばれる文章の基本がしっかりできているのだ。性格には難ありのドS陰陽師だが、仕事はしっかりしている……。

 真名がじっくり記事に目を通している間に、昭五と泰明が何度か席を立った。パソコン島で作業をしたり、同じくパソコン島の律樹と打ち合わせをしたりしている。特に泰明が席を立つときは二回に一回は律樹と揉めていた。

「読みました」と真名が原稿から顔を上げる。少し涙が浮かんでいる。
「すごくいい文章でした。感動しました」

 記事はルポ形式の三人称だ。泰明が言っている通り、真名の大学とは分からないし、出てくる女子学生は留美とは特定できないようになっているのに、具体性に乏しいわけではない。しかも出てくる人間の心の動きを的確に捉えていて、なぜ留美は水晶玉リーディングに深く入っていったかが自分のことのように迫ってきた。

 真名の感想に、パソコン島の律樹が笑う。

「あははは。感動したってさ。よかったね、やすあ」

〝き〟まで律樹は言えなかった。泰明が指を鳴らして律樹をフリーズさせたからだ。昭五が「泰明く~ん」と情けない声を出すので、泰明が舌打ちと共に律樹を再起動させた。

「おい、泰明。いちいち僕を止めるなよ!」

「いちいちくだらないことに反応するおまえが悪い」

「くだらないことって何だよ!? 真名ちゃんが感動したっていってくれて、いい話じゃないかよ」

 すると泰明は真名の方に振り向いた。

「感動した、なんて読者の感想だけではなく、文字や表現の校正はしてくれたんだろうな?」

「はいっ」

 例によって真名へ巻き添えが来て、真名は直立した。ちなみに原稿に対して真名からの校正指摘はない。

 すると編集長席の昭五が別の記事を真名に見せた。

「真名ちゃん。ちょっとやってほしいことがあるんだけど」

「はい、何でしょうか」

 真名は軽やかに昭五の側へ急いだ。おかげで泰明のお怒りに触れなくて済むからだった。泰明が獲物を逃がして舌打ちしている。

 昭五が持っていたのは例のパワースポット特集の紙束だった。
 一箇所、赤ペンでバツがついている。
「パワースポットは神の聖域である」――記事の終わりの写真に添えられる、総括の文言だった。

「これさ、私が考えたんだけど、間違っていないんだけどこれだけじゃしっくりこなくてさ。これ、真名ちゃんに考えてほしいんだけど」

「ええ!?」と真名が驚きの声を上げる。
「これって、特集記事の最後のシメですよね!?」

「うんうん。そうだね」

「それって大事ですよね!?」
 と真名が言わずもがななことを訊くと、昭五がにこやかに何度も頷いた。

「うんうん。とっても大事。だから真名ちゃんにお願いしたいの」

 どうしよう――。真名は不安になって周りに視線をさまよわせる。ちょうど泰明と目が合った。

「やれよ」と、泰明が短く言う。

「やって、いいんですか?」

「いつかはやらなきゃいけないことなんだから、やれよ」と、そこで止めてくれればいいものを、一言付け加えた。
「たった数行なんだから、よっぽどひどいのでない限り誌面の影響は少ない」

 その通りかもしれないが、何となくかちんとくるのが真名である。

「そうですねっ。やらせていただきます」

 真名が強めの口調で答える。売り言葉に買い言葉といった勢いだ。

「うんうん。いいね、いいね。ついでだから真名ちゃんに、パワースポットに行ってきてほしいんだよね」

 取材して実体験して感じたものを言葉にしてほしい。昭五はそう言って真名に微笑んだ。場所は都内にあるふたつの有名〝パワースポット〟だった。
 

「すっかり駅の雰囲気が変わりましたね」
 と、新しい駅舎に変わった原宿駅を振り返って真名が言った。
 同行している泰明が眩しそうに日射しに目を細める。昭五がわざわざ占いで晴れと予想しただけのことはあった。大勢の人――たいていは若い女の子――が駅前を満たしている。

「原宿とは不思議な街だよな」と泰明がそんな若い女の子たちを横目に見ながら歩いていった。
「ファッション文化の発信基地とはいうものの、竹下通り付近と表参道辺りでは全然違う顔を持っている。そのうえ、駅から反対側に行けば明治神宮の鎮守の森だ」

 泰明が竹下通りと表参道の違いを指摘するのは面白かったが、真名はそれ以上突っ込んで訊かなかった。また変に睨まれても悲しいからだ。ただ、泰明の言う通り、駅を出てすぐの神宮橋の方へ曲がると、眼前には天に連なる木々が無数に見えた。

「明治神宮か」
と、スクナが明るい声で言う。パワースポットの取材と言うことで特別に今日は真名の頭上で出突っ張りだ。スクナはやる気に満ちている。

「スクナさまと明治神宮ってご関係があるのですか?」

「明治神宮はその名の通り明治天皇と昭憲皇太后を神格化して祭っておる。スクナは祭られておらぬが、同じ神社の神さま仲間じゃ」

 明治神宮へ行く人たちも多かった。老若男女、とまではいかないが、中高年だけではなく若い女性が結構大勢いる。噂では神社を巡る若い女性がいると聞いていたが、こうして実際に目にすると――真名自身も十分若い女性であることを棚に上げて――不思議な気持ちがした。

「近年のパワースポットや御朱印集めのブームのせいだな」
 と泰明が呟く。真名は、自分の心が読まれたのかと思って飛び上がりそうになった。

「御朱印もそういえば、ブームですね」

「神域を護るには信仰心を持った神職や信者が参拝し、感謝の奉納をしたり環境整備をすることで保たれる。だから、参拝者の増加が即、悪いわけではないが」

 ため息をついた泰明が、見鬼の才を使うように促す。真名は歩きながら何度か深い呼吸をして、意識を集中させた。

 すると、歩いている人に重なるように霊的なものが見えてくる。

「噓? これって……」

 明治神宮はきちんとした格式のある神社だ。鎮守の森も素晴らしい。けれども、そこここにいるのはあやかしたち。空を飛んだり、地面を跳ねたりしている。牛のような頭のあやかしや一つ目のあやかし、きれいな和服の女性のあやかしもいた。

「結構な数のあやかしだな。昔、奈良の吉野山に登ったときほどではないけど」

「何でこんなにあやかしがたくさんいるんですか」

 しかも、東京のど真ん中に。森の外は日本の最先端のファッション文化が華やかにひしめいているのに……。

 よく見ればあやかしだけではなく、動物霊などの邪霊の類もいる。

「あやかしが出現するにはふたつのパターンがある。ひとつは自然に恵まれてあやかしが棲める場所があること。吉野山みたいに。もうひとつは、あやかしと同通する心の持ち主がいること」

「〝森〟というのはあやかしにとって棲みやすい。でも、ここまで運んでくれたのは、あやかしと同通する心の参拝者たちだってことですか?」

「少しは分かるようになったみたいだな。褒めてりやる」
 と、泰明が皮肉っぽく片方の頰をつり上げていた。

「あ、ありがとうございます。でも、あやかしに同通する心って……」

「まあ、自己保存欲というか、ただの本能というか。簡単に言えば事務所で言ったように、自分のことしか考えていない心だな。他人を害する程度はあまりないレベルだけど、正直、邪霊悪霊と紙一重だ」

 何はともあれ、真名たちは本殿に参拝する。
 さすがに本殿の周りにあやかしはいなかったが、参拝者の中には鳥居をくぐって参道へ戻るとあやかしがぴったりと戻ってくる者もいた。あれでは祈りも天に届くまい、と泰明が残念そうな顔で呟く。

「どうしてなんですか」

「本人の心が自分のことしか考えていないから、祈りが神さまのところまで届かないのさ」

 今日の本命〝パワースポット〟は本殿ではない。
 真名たちは参道に戻り、明治神宮御苑を歩いた。
 白い砂利を踏みしめる音が心地よい。高い木が空を支えるように屹立していた。


 目指す場所は清正井。

 戦国時代から江戸時代まで生きた武将、加藤清正が掘ったと言われる井戸で、明治神宮御苑内にある。飲むことはできないが、いまでも清水が滾々と湧いているという。加藤清正は肥後国、つまり熊本県の武将だが、この井戸の辺りに江戸屋敷があったらしい。

 参拝者の流れに逆流するようにしばらく歩くと、「清正の井」と書かれた緑色のロードコーンが見えてきた。再び人が増えてくる。みな、清正井を目指していた。

 井戸の所へつくと、何人かが並んでいる。井戸に〝お参り〟する列だった。
警備員が立っている。ひとりで長時間、井戸の前を独占しないようにという配慮だろうが、真名には何とも世俗の匂いがして仕方がなかった。

 また、あやかしも増えてきた。

 順番が来るまでずっとあやかしを見つめているのも嫌なので、真名はスマホを取りだして清正井について検索した。

「清正井……金運の御利益のあるパワースポットって書かれていますね」

 足元に小さなせせらぎが見えた。井戸から溢れた水らしい。おかげで辺りと比べてずいぶん涼しい感じがする。悪霊やあやかしが寄ってきたときのような嫌な冷気ではなかった。天を覆う枝と木の葉と、通年で水温十五度という井戸の水によるのだろう。

 井戸の前でみな写真を撮っている。この井戸の写真をスマホの待ち受けにすると金運が上がる、と言われているらしい。

「不思議だよな」と泰明がごちる。
「死んであの世がある、この世で生きてきたときの心の総決算があの世の世界を決めるという理路整然とした仏教の理論も無視するのに、湧き水の写真で金運が上がるっている謎理論を信じられるんだものな」

「あの、泰明さんはパワースポット否定派だったりします?」

 泰明はかぶりを振った。

「そうじゃない。神さまの力をいただけるパワースポットは信じるし、現に存在する。ただ、人間の欲望をかなえるためのパワースポットはどうかと思うだけだ」

 いままさに、そのような〝金運アップ〟の場所に並んでいるに……。周囲の人が怪訝な顔をするのを、真名は目をそらしながら頭を下げてやり過ごす。

 真名たちの番が来た。

 井戸、というが、つるべのある井戸の形ではなく、地面の高さまでの丸い井戸から清水が湧出していた。頭上の枝が揺れ、日の光が水を輝かせる。ときに白く、ときに七色に輝かせるのはきれいだった。都会のど真ん中なのに、と真名は気持ちがすっとする。

 だが、そこには神さまは――金運を上げる御利益をくださる富の神さまは――いらっしゃらなかった。

 代わりにいたのは、着物を着て腰に刀を差した男の霊だった。髷を結っているが月代をそり上げておらず、江戸時代より前の武士のようだ。着物は前に紐があって――あとで調べたら直垂というらしい――これも江戸時代の装束とはやや違う。

『はあ~~~~』
 と武士の霊がため息をついている。写真を撮って清正井をお参りする振りをしながら、真名は心の中で呼びかけた。

(こんにちは。初めまして。あなたはこの井戸を護ってくださっている方ですか?)

 すると、武士の霊は目を丸くして真名に語りかけてくる。

『おぬし。わしの姿が見えるのか』

(はい)

 あとたぶん、こっちの泰明さんも、と言おうとしたが何となくやめた。

『わしは加藤清正公にお仕えしていた武士でな。名前は恐らくいまの時代まで残ってはいないだろう』

 真名は驚いた。単純な幽霊だと死んだ時点で時間が止まっている霊が多いが、この武士はいまの時代における自分の立ち位置をきちんと理解している。

(ずっと井戸にいるのですか?)

『昔はときどき様子を見に来る程度だった。ところが最近何やら人が多くなってきて。一応ここは加藤清正公を偲ぶ場所であり、公のお心の如く清らかな場所。汚されてはかなわじと見張りに立っているが……こやつらは一体何を考えているのだ?』

(えっと、何を考えているのか、とは……?)

 真名が尋ねた。日本史が苦手なので加藤清正についてあまり知らないのだ。

『加藤清正公は秀吉さまの下で〝賤ヶ岳の七本槍〟と讃えられた武将。領地経営も巧みであられた。公の御遺徳を偲び、そのお力をお借りしたいと祈るならまだしも、ここに来る者たちは判で押したように金のことばかり。金儲けを願うなら公よりも、加賀百万石を築いた前田利家さまの方が御利益があるのではないか』

 武士が顔をしかめていた。参拝者が金運アップを願うのを嫌がるというより、純粋に困惑している顔だ。

(どうしてこうなったのでしょうね……)

『わしが訊きたい――』と武士の霊が、がっくりと頭を落とした。
『それにしても、どいつもこいつも願い事ばかりで、こちらの力を吸い取っていくばかり。たまには感謝の念いくらい捧げてほしいが……ああ、こんなわがままを言って井戸が穢れてはいけない』

 武士の霊が頭を振って背筋を伸ばす。するとそれまで黙っていた泰明が急に口を開いた。

「たまにはお国のものでも食べたいですか」

 声に出していったものだから、井戸の警備員がぎょっとなっている。

「え、ああ、そうですね! このあとどこか食べに行きましょう」
 と、真名がごまかす。自分でも下手な演技だと思うが、仕方がなかった。泰明の言葉は明らかに武士の霊に向けられている。それが分かった武士の方は苦笑していた。

『不成仏霊ではないのだから、別に何か食いたい物があるわけではないが』

「もちろん。けれども、気分だけでも違いますでしょ?」

「東京なら何でも食べられるけど、故郷の料理だと確かに」と真名が演技を続ける横で、武士と泰明が平然としゃべっている。

『ははは。確かに〝お供え〟をいただけば、そこにある〝感謝の念い〟が伝わってくるものだ。それが懐かしい肥後国の物、公がお好きだった物ならなおさら』

 泰明は軽く頭を下げるとさっさと清正井から歩き出した。慌てて真名も武士に礼をしてあとを追う。泰明は大股でどんどん咲に歩いていった。ほとんど小走りになって追いつく。

「泰明さん。泰明さん。どこへ行くんですか」

「いま聞こえただろ? 肥後国の物を買いに行くんだ」

 追いついて会話をはじめたからといって泰明の歩調が遅くなりはしなかった。

「――まさか、いまから熊本ですか」
 と真名が本気で尋ねると、たいそう残念なものを見る目つきで真名は見下ろされる。

「おまえひとりで行くなら止めないぞ」

「どこへ行くんですか」
「銀座。熊本県のアンテナショップがある」

 真名は安心した。それと同時に軽くイラッとする。行き先くらい言っても罰は当たらないだろうに。

 銀座につき、熊本県のアンテナショップに入ったところで、泰明の動きが止まった。無言で店内を見渡し、ゆっくりと中に入る。真名も泰明の後ろについて店内に入ると、確かにこれは迷うだろうと思った。

「何を買えばいいんでしょうね」

「戦国時代から江戸時代の初め辺りからある物の方がいいのだろうな」
 と泰明が壮大な指定をする。真名は眉をしかめたが、気を取り直すとスマホをいじった。しばらくスマホを操作し、真名はアンテナショップの奥へ進んでいく。ごく目立たない棚に少しだけ置いてある食べ物を真名は手に取った。

「これにしましょう」

 真名がきっぱり言い切ると、泰明は最初、不思議そうな顔になった。真名が理由を説明すると泰明は小さく頷く。いいんじゃないか。ドS陰陽師らしいぶっきらぼうな物言いだったが、真名には絶賛に聞こえた。


 清正井に戻ると昼過ぎのもっとも暑い時間だったが、やはり数名が並んでいた。しばらくして真名たちの順番になると、警備員が「またか」と言わんばかりの顔をしていた。覚えているようだ。

(先ほどはどうもありがとうございました)
 と真名が心の中で声をかけると、清正井を護っている武士の霊が笑った。

『おう。おぬしらか。また来たのか』

(この井戸をお護りくださり、ありがとうございます。せめてものお礼です)
 と真名が熊本県のアンテナショップで買ってきた食べ物を袋から出す。
 警備員が真名を止めようとするが、泰明が睨んで動けなくさせていた。この食べ物を清正井に放り込もうというのではない。ただ、お供えとしたいだけだった。持ってきた食べ物を見て武士が目を丸くし、次いで涙を堪えるような表情になる。

『何と――。黒米ではないか』

 真名が手にしていたのは、ほんの一合程度だが熊本県で収穫された黒米だった。

(加藤清正さまが遺した『掟書』には『食は黒米たるべし』とあったとか。清正さまを偲びつつ、あなたさまにも元気になっていただこうと供養の品として、持ってきました)

 真名がスマホで調べていたのは、加藤清正の好物だった。
「よく見つけたのう。スマホというのは便利じゃな」とスクナが感心していた。

『おうおう。うれしいことよ』と武士の目尻に涙が浮かんでいる。
『おぬしらの感謝の心、確かに受け取った。もう少しこの場所を護るためにがんばってみようか。――おぬしらの幸福をわしも陰ながら祈っているぞ』

 黒米をそのまま撒くわけにはいかない。一端、清正井の前を去り、少し離れたところで袋に入ったまま縁石の上に置き、手を合わせて感謝の念いを手向けた。背後で泰明が口の中で何かを唱える。

「――急急如律令」

 泰明の呪に黒米がほんのり光った。その光がボールのように飛び出し、先ほどの武士の霊の胸に吸い込まれる。武士の霊が明らかに元気そうになり、真名たちに手を振った。

 清正井の水が一瞬、ぼこりと音を立てて勢いよく吹き出す。ちょうど清正井の写真を撮っていた女性ふたりが歓声を上げていた。


 清正井をあとにして、真名たちは電車に乗り、原宿から飯田橋へ移動した。あまり降りない駅だったが、ここも都内屈指の〝パワースポット〟があるという。

「伊勢神宮を俗に〝お伊勢さん〟というが、東京大神宮は〝東京のお伊勢さん〟と言われている」
 と泰明が簡潔に説明してくれた。東京にいながら伊勢神宮にお参りしたのと同じ御利益を得られるのだという。

「近くの大学の印象が強くて、全然知りませんでした」

「結構格式のある神社で有名なんだが……」

 通りを少し入ると鳥居が見える。突然、という感じで東京大神宮が出現した。鳥居をくぐると大きな屋根の本殿が見える。右手には近代的な社務所があった。明治神宮からこちらに来たせいで――申し訳なくも――こぢんまりして見えてしまったが、鳥居の中に入ると空気が違う。立派な神域だ、と真名は思った。

「ここが〝東京のお伊勢さん〟なんですね」

 西に傾いた太陽の白い光が境内を強く照らしている。明治神宮ほどの鎮守の森がないのが残念だが、都心のど真ん中にあるとは思えない静謐さな空間だった。もうすぐ夕方になるが、女性が何人かお参りに来ているだけだ。

「もちろん伊勢神宮の天照大神にお参りするのが本則じゃ。しかし、伊勢は遠いし、お金もかかる。昔の人にとっては一大決心が必要じゃった。どうしても伊勢までいけない場合に、同じような御利益を授けたいと天照大神がお許しくださったのがこの神社なのじゃ」
 とスクナが説明してくれた。

 皆で本殿にお参りをする。

「いまでは都内最大の恋愛成就の〝パワースポット〟とされているがな」と泰明が説明した。その口調がどこか苦々しげだ。
 真名が不思議そうな表情を見せると、泰明は参拝に来ている女性の方を顎で指した。白いシャツにロングカーディガンをアウター代わりに羽織っている。きれい系の女性だった。真名は大きく呼吸を繰り返して心を調え、目をこらす。見鬼の才の出番だった。

「あ」と、真名が呆然とした声を出す。

 真名の目には参拝の女性の頭の周りに、欲望の想念が渦巻いてもんわりしているのが見えた。

「天照大神の内宮では基本的に個別の祈りをしないものじゃ。天地万物の恵み、大和のまほろばへの深い感謝をただただ捧げるのが伊勢神宮内宮なのじゃが……東京大神宮になると途端に個別の祈りばかりになりよる。スクナは悲しい」

 真名の頭の上でスクナが泣いている。小さく小さく。誰にも見えない神さまが、心を痛めていた。

「スクナさま……」

「天照大神は太陽神であり、日本の主宰神だ。その神へ自分の恋愛成就を祈る。これを申し訳ないことと思うか、〝ラッキー〟と思うか。あの参拝者はどちらかな?」
 と泰明が極めて冷ややかな目で言う。

 ロングカーディガンの女性は参拝を終えると社務所へ歩いていった。

「すみませーん」とその女性が呼びかける。お守りなどを頒布していた巫女さんが対応しようとするが、女性は神職を呼び出してくれと言っている。

 しばらくして水色の袴をはいた禰宜が出てきた。

「はい、何かございましたでしょうか」

 ロングカーディガンの女性がひどく顔をしかめている。

「先週、こちらで縁結びの祈禱をしたんですけどダメになったんで、お金返してくれませんか」

 女性の声が大きい。だから真名たちにも聞こえたのだが――。

「おいおい。祈祷料は神さまへの感謝であって、対価とか代金とかじゃないぞ」
 と、泰明が辟易したように言った。
 真名が慌てる。
 泰明の声は小声だったし、女性もクレームに夢中だったので泰明の声は聞こえなかったようだった。聞こえたら揉めるよねと思っていると、泰明がわざわざその女性に近づいていく。

「ちょ、ちょっと泰明さん!」

「あ?」

「あの、やめてくださいね?」

 泰明が怪訝な顔をした。

「何が」

「変なクレームとかつけるの」

「変なクレームつけてるのはあの女の方だろ。神職とはいえ、いや神職だからこそ、怒らないもの、言い返さないものと思って好き勝手言ってるんだろ」

 泰明の言っていることは正しいのだが……。

 真名がどうしようか困っていると、頭の上からスクナがいつになく凜々しい声を上げた。

「泰明の言う通り、スクナもアレはいけないと思うのじゃ」

(お気持ちは分かりますが……)と、なだめようとしたらスクナがヒートアップした。

「何の罪もない神職を困らせおって。真名、あの女に初穂料の何たるかをきちんと教えてやれ」とスクナがやる気に満ちてくる。

「ええ!?」

 真名が思わず絶叫してしまい、その女性が振り返った。固まる真名。

「大丈夫じゃ。スクナが言うべき言葉を教えてあげるから」

 そうじゃないんです、と言いたかった。すでにロングカーディガンの女性がこちらを睨んでいる。

「何か?」

「いいえ……」
 と真名が言い淀むと、頭上でスクナが子供らしい声で毅然と言い切った。

「初穂料とはそそもそも神さまへの感謝の心じゃ。この大和の国で生きとし生けるものの恩恵と日の光と水と空気を与えられたことへの感謝の現れじゃ。それを返せとは無礼千万じゃ」

 さすが、スクナは神さまである。
 声は子供なのに、その気になったいまは抗いがたい神威があった。

〝言え、言え〟という霊圧がすごい。

「あー、あのですね……祈願のお金って、神さまへの感謝ですから、戻せっていうのは――ちょっと……違うのではないかと……」

 真名が何とか当たり障りない言葉に翻訳を試みた。真名を――性格には真名の頭の上辺りを――ちらりと見た泰明が目を見開く。いつも氷結美男子の泰明がそんな顔をするのを初めて見た。
「おお、スクナ様が燦然と輝いている」とか呟いている。

「あなた、誰? 関係ないでしょ?」

「えっと、何と申しますか……」

「関係ないことはないのじゃ。天照大神はスクナたち神々の頂点の太陽神。その神域での無礼は許さないのじゃ。――よいか。ここは縁結びの場所。神さまとの縁を結ぶ場所じゃ。そうして信仰心を持った者同士をも結びつけるために人と人との縁結びも請け負う。その考え方を現代風に広げて恋愛成就も大目に見ている」

 スクナの話は続いた。ロングカーディガンの女性の怒りとスクナの熱弁に挟まれ、真名は頭がくらくらする。

「あの、神社の恋愛成功なわけですから、神さまから見て〝ふさわしくない相手〟となら別れさせることも、神さまの側としては、あなたを守れたという〝成功〟なわけで……」

 真名がしどろもどろになりながら何とか言葉を繋いだ。

 そのときだ。

 さっきまで怒り満ちていたロングカーディガンの女性の顔が、不意に歪んだ。

「そんな……そんなこと……うわああああん、コージぃ……」

 清楚な見た目の女性だったが、身も蓋もなく顔をぐしゃぐしゃにして泣き出したのだ。大きな口を開けて、涙と鼻水とよだれとでせっかくのきれいな顔を台無しにしながら……。

「あ、そんな」と真名の方が泣かせてしまったとうろたえる。

 横で泰明がため息をついた。

「――ほんとはこの人、気づいてたんだろ。恋愛の祈禱のせいではないって」

「え?」と真名が泰明を振り返る。しかし、返答は、泣いているロングカーディガンの女性から来た。

「そうよ……。その男の言う通りよ。自分でもどこか無理してる気はしてたよ? けど、好きだったんだもん。だからお参りだってしたんだもん。お金なんて別にいいのよ。コージさえ帰ってきてくれれば。……うわああああん」

 またロングカーディガンの女性が泣き出した。巫女も神職も沈鬱な顔でうつむくばかり。泰明は頭を搔いて違う方を向いている。真名はおろおろするばかりだった。

「真名よ、真名よ」とスクナの声がする。
「ちょっと面白いことが起きるかもしれんぞ。鳥居の所を見てみろ」