「いってらっしゃい」

 いってきます、と姉の言葉に返事をして家を出る。大きな欠伸をしてから自転車に跨り、ペダルを漕いでいく。
 昨日は興奮気味であまり眠れなかった。夜の学校に侵入。それが非日常的で帰宅してからも気持ちが高ぶったままだった。
 途中で小泉と合流し、並走して学校へ向かう。

 教室に着くと、予想通り生徒たちは黒板に注目していた。雪乃もぽかんと口を開けて、席に座ったまま黒板を見つめていた。

『井浦さん、高梨さん、松井さん。変なことを書いてしまい、申し訳ありません。全て、嘘の情報を書きました。本当にごめんなさい。
 それから雪乃さん、あらぬ疑いをかけてしまい、すみませんでした。雪乃さんは悪くないです。本当にごめんなさい。
 皆さん、いろいろとお騒がせして、申し訳ありませんでした』

 ピンク色のチョークで書かれた文字を、皆食い入るように見つめている。俺と小泉は頷き合う。

「は? なにこれ、うざいんだけど」

 登校してきた井浦は黒板を睨みつける。反対に高梨は、ほっとした表情を見せて自分の席へと向かっていった。
 数分後やってきた伊吹は、黒板には目を向けず席に座る。教室内の穏やかな雰囲気を感じ取ったのか、頰が緩んでいた。


【昨日、上手くいったんだね。伊吹くん、美晴ちゃんたちに謝ってて偉いね】

 放課後、生徒たちが下校した後に雪乃は満足そうに言った。効果があったのか、この日は雪乃に対するいじめは緩和していた。

「伊吹、雪乃に感謝してたよ。一年の頃、優しくしてくれて嬉しかったって」
【一年の頃? 私、何かしたかなぁ】

 雪乃は首を傾げる。伊吹に優しく声をかけたことを忘れているようだ。

【でも、これで一件落着だね。他に悩んでる人、もういないかな】
「いるにはいるけど、わざわざ取り上げる必要のない悩みばっかだよ。それより雪乃はどうなんだよ」

 前にも一度訊いたことはあったが、もう一度振ってみた。すると雪乃は突然口を開き、何かを発しようとしていた。

「どうした? 話せるのか?」
「う……あ……う……」

 雪乃は両手で喉を掴み、必死に声を出そうとしている。

「大丈夫か? なんか飲むか?」

 喉が詰まっているわけではないのに、俺は焦ってそんなことを口走る。雪乃は泣きながら、ゴホゴホとむせていた。

【だめ……だったぁ。昨日は、少し出たのに】

 雪乃は心の中でも苦しそうに言った。涙を拭いながら、彼女は笑ってみせた。

「発声の練習? みたいなことしてるの?」
【練習というか、リハビリというか。やっぱり、クラスの皆とも話したいし、碧くんともちゃんと声に出して話したいし】

 雪乃の言葉に、確かにそうだよなと思った。一日中、誰とも話せないなんて辛いに決まっている。いや雪乃の場合、一日どころではないのだ。もう何ヶ月もの間、誰とも言葉を交わしていないのだ。それがどれほど苦痛であるのか、俺には想像できなかった。

「これからは人の悩みなんか考えなくていいから、まずは自分のことを一番に考えるべきだと思う。俺にできることがあるなら協力するし、なんでも言ってくれていいから」

 雪乃はキョトンと目を丸くする。泣いたからか目と鼻が少し赤くて、幼く見えた。

【ありがとう。じゃあ、何かあったら頼るね】

 雪乃の素直な言葉が照れ臭くて、俺は顔を背けて立ち上がる。

「じゃあ、また明日な」

 結局この日、クマのことや高梨のことは訊けず、雪乃を残して教室を後にした。




「ちょっと話があるから、今日の放課後時間ある?」

 翌日の昼休みに、俺は一人で廊下を歩いていた高梨に声をかけた。いつも一緒にいる井浦やその他の女子はトイレに行ったようで、ようやく高梨が一人になったタイミングで彼女を捕まえた。

「まだ昼休み時間あるから、話なら今聞いてもいいけど」

 高梨は振り返り、怪訝そうに俺を見つめる。

「今はやめとく。放課後、視聴覚で待ってる」

 そう言って俺は踵を返し教室に戻った。伊吹のあの話が、ずっと気にかかっていた。雪乃が井浦に盗られてしまったという、もう一つのクマのキーホルダー。以前高梨がそれを手にしているところを見たことがあった。そのことについて、俺は高梨に訊こうと思っていた。

 放課後、高梨は先に教室を出ていった。俺は数分遅れて二階にある視聴覚室へ向かった。
 左右に首を振って、誰も見ていないことを確認してから視聴覚室の扉を開けた。中に入ると、高梨は暇だったのかホワイトボードに絵を描いていた。犬の絵上手いね、と褒めるとこれはアルパカだ、と怒られた。

「雪乃のことで話があるんだけど」

 早速本題に入った。高梨と二人で視聴覚室にいるところを誰かに見られたら、学年中の男子を敵に回しかねない。さっさと話を終わらせて速やかに立ち去りたかった。

「……なに?」

 高梨は分かりやすく嫌な顔をした。雪乃をいじめていることを咎められると思ったのかもしれない。

「一年の頃、高梨は井浦にいじめられてて、高梨を庇った雪乃がいじめられるようになったって聞いたんだけど、その話は本当?」

 高梨の目が泳ぎ出した。明らかに動揺していて、俺と目を合わせようとしない。嘘をついても心の声が聞こえる俺には通用しないが、これでは心の声を聞くまでもなかった。
 高梨は俺に対して嘘は通用しないと踏んだのか、黙って頷いた。伊吹が言っていたことは、真実だったようだ。

「私のこと、最低だって言いたいの? わざわざそんなことを言うために、私を呼び出したの?」

 そうじゃないよ、と否定した。俺は高梨を責め立てるつもりで呼び出したわけではなかった。女同士のねちねちとした面倒な人間関係は、昔から姉に嫌というほど愚痴を聞かされてきたのだ。多少は理解しているつもりだ。

「だったら、何が言いたいの?」
「雪乃が持ってるクマのキーホルダー、高梨も同じやつ持ってるよな。あれって、元々雪乃が持ってたものじゃないの?」

 おそらくそうだろうけれど、念のため確認してみた。すると高梨の目が再び泳ぎ出した。やはりな、と確信した。

「井浦に盗られたって聞いたんだけど、どうして高梨が持ってるんだ」

 高梨はため息をついて、やがて観念したように話を始めた。

「一年の頃、愛美が令美の鞄から盗んだのよ。それが双子の姉の形見だって知っていながらね。踏みつけてカッターで切り刻んで、それを私に寄越してきたの。どこかに隠してって」

 顔を歪めて苦しそうに高梨は話す。そして鞄からぼろぼろのクマのキーホルダーを取り出した。薄汚れていて、継ぎ接ぎだらけのクマだ。高梨が修復したのだろう。

「これ、本当は令美に返したいんだ。でもこんな状態だから、令美がもっと傷つくかもしれないし、返したら愛美に何を言われるか分からないし、どうしたらいいのか分からなくて」
「雪乃の大切なものなんだから、返したほうがいいと思う。あいつ、きっと喜ぶよ」
「そんなに簡単に言わないでよ。こっちも、いろいろと大変なんだから」

 高梨は保身のために、クマのキーホルダーを雪乃に返せないでいる。このクラスで生きていくには、現状そうするしかない。誰もが保身に走り、雪乃を救えないでいるクラスの連中には、高梨を責める権利はない。それは俺自身にも言えることで、だから俺は、キーホルダーを返したほうがいいと思う、と控えめに言うことしかできなかった。

「これさ、森田が令美に渡してくれない? 愛美にバレたら困るから、鞄には付けないでって言っておいてほしいんだけど」

 高梨はぼろぼろのキーホルダーを俺に手渡そうとしたが、俺はそれを受け取らなかった。

「それを雪乃に返すのは、俺の役目じゃないよ。高梨が返すべきだと思う。雪乃に一言謝って、高梨の手で返すべきだと俺は思う」

 これは雪乃と高梨二人の問題なのだ。俺が関わるのは違うと思った。

「無理よ、そんなの。だって……」
「そういうわけだから、頼んだ」
「森田、ちょっと待ってよ」

 縋るような高梨の声を無視して、俺はそのまま視聴覚室を出た。
 雪乃はまだ教室にいるだろうけれど、今日は寄らないで帰ることにした。今頃雪乃は、一人寂しげに空を見上げているのだろうか。吹奏楽部の演奏が薄っすらと聴こえてくる廊下を歩き、階段を下った。