暦は十一月の頭。
秋風が冬の冷たさを帯びていく頃。
タワーマンションの上層階の一室で、定時で退社した玲央奈は帰宅早々、エプロンをつけて台所に立っていた。
今夜の夕食のメインは豚の角煮だ。料理好きな玲央奈は下茹でからしっかりして、じっくりゆっくり、とびっきりトロトロでおいしい角煮を作ってやろうと意気込んでいた。
(清彦さんは二十二時くらいには帰るって言っていたし、なんとか一緒に食卓につけそうね。角煮を煮ている間に、スープや副菜も作って、お風呂も入って、洗濯物もたたんで……)
玲央奈の思考回路はすっかり主婦だ。
――ここに住み始めてから、もう七ヶ月。
あやかしから玲央奈を守ることを条件に、会社の上司である天野(あまの)清彦から偽りの結婚相手役を頼まれて、成り行きで始まったこの同棲生活。
天野は『半妖』という、名持ちのあやかしの血が混ざった人間で、しかもどんなあやかしかといえば『天邪鬼』ときたものだ。その特性として、人の心がぼんやりとだが読めるという少々ズルい能力もある。あいにくと、相性の関係で玲央奈の心は読めないらしいが。
性格も天邪鬼の名に恥じないウソつきかつひねくれており、玲央奈は最初、天野とうまくやれる自信など微塵もなかった。
しかしながら、共に過ごすうちにいろいろあって、現在のふたりはそれなりに良好な関係を築いている。
むしろ玲央奈からすれば、少しもどかしい関係とも言えよう。
天野がどう思っているかは定かではないけれど……。
「あっ、帰ってきた!」
やるべきことはすべて終えて、角煮もいい具合に煮込めたところで、ガチャッと微かにドアが開く音がした。玲央奈はエプロンを翻して、いそいそと玄関まで天野を出迎えにいく。
「おかえりなさい、清彦さん」
「……ただいま、玲央奈」
バランスの取れた体躯に質のいいスーツを纏った、切れ長の目の美丈夫がフッと笑う。青みがかった黒髪が、蛍光灯の下でサラリと揺れ、玲央奈は我が夫ながらその完璧な佇まいに一瞬見惚れてしまった。
〝夫〟といっても、仮のだけど。
「ここまでいい匂いがするな。今夜の献立は?」
「メインは豚の角煮ですけど……あの、いいんですか?」
「ん? なにがだ?」
「お、『お帰りなさい』を、もう一度言わなくて」
同棲を始めてから、玲央奈がお出迎えをしたときはなぜか、天野はやたらと玲央奈の「お帰りなさい」を繰り返し聞きたがった。必ずと言っていいほど、最低限二回は言わされた。
それは実のところ、〝玲央奈と共に住んでいる〟という実感を、天野が噛みしめたいだけの要望だったのだが……当の玲央奈はそんな裏側は知らない。
天野は「ああ」と呟いてネクタイを緩める。
「さすがにここまでさせたら、君も煩わしくなってくるかと思ってな。そろそろ次のステップに向かおうかと」
「なんですか、次のステップって」
「ユウに教えてもらったんだよ。新婚家庭ではこのやり取りをすべきだって。『ご飯にする? お風呂にする? それとも……』」
「言いませんからね!」
「ウソだよ、冗談だ」
玲央奈をからかって満足したのか、天野はさっさと靴を脱いでリビングに向かう。玲央奈は鞄を預かって肩を竦めた。
なお『ユウ』とは、天野の腹心の部下であり、また彼の幼馴染みでもある稲荷游(いなりゆう)のことだ。
(稲荷さんもたいがい、イタズラ好きな性格よね……)
稲荷は半妖でもあるし、まさしく天野とは類友だ。
天野と玲央奈についての話もよくしているようで、玲央奈としては、稲荷は油断も隙もない相手である。
「ああ、おいしそうだな」
天野が上着を脱いでいる間に、玲央奈は作った料理を運んでおいた。ふたりは向かい合わせに座って食卓につく。
天野は「いただきます」と手をあわせ、きれいな所作で箸をどんどん進めていく。
「……毎日食べても、君の料理は食べ飽きないな。豚の角煮はホロッと口の中で溶けるようだし、卵とワカメのスープも旨い。ゴボウとひじきのサラダも、サッパリとした味わいで口直しにいいな」
「本当、料理の感想だけは素直ですよね……」
箸を片手に天野が「俺はいつでも素直だが?」なんて嘯くので、玲央奈はすかさず「ウソですね、旦那さま」と返した。
だけど料理の腕を褒められるのは、けっして悪い気はしない。
それどころか、天野からの褒め言葉をもっと聞くために、玲央奈は密かに料理の研究をし始めているくらいである。
「ほら、コーヒーだ。熱いから火傷するなよ」
「はい、ありがとうございます」
食事のあとには、天野が手ずからコーヒーをふたり分淹れてくれた。
「取引先からもらった豆を試してみたんだが、どうだ?」
「いつもよりちょっと苦みが強いですけど、私は好きです。どちらの取引先の人からですか?」
湯気の立つ香り深いコーヒーを楽しみながら、他愛のない会話を交わす。
ふたりの職場は、ここらでは一番大手の総合インテリアメーカーだ。そこから仕事の真面目な内容で盛り上がる。
天野と玲央奈は偽りの婚約関係ではあるが、上司と部下の関係でもあるので、これはこれで話題は尽きない。
「それじゃあ、上層部の方で、その有名なアーティストさん……? とのコラボ企画が挙がっているんですか」
「まだ決定ではないから、俺も詳しくは知らないがな」
「きっと企画が決まったら、清彦さんがお役目を一任されますよ」
現在二十五歳の玲央奈より、天野は四つ上の二十九歳だが、その若さで営業部の主任に就くだけあって上からの信頼は厚い。本人は「だろうな」と不本意そうではあるが、優秀な人材は働かされる宿命だ。
ただ玲央奈は、少し不安そうに眉を下げる。
「でも、その……あまり無理しすぎないでくださいね。清彦さんには『守り火の会』の活動もあるんですから」
半妖たちによる半妖たちのための支援団体、通称『守り火の会』。
天野はその会のナンバーツーとして、半妖たちのお悩みを〝依頼〟として請けて、解決する活動も日々行っている。
「今日も仕事のあとに依頼をこなしてきたんですよね?」
「いや、今日は『守り火の会』の会合だったんだ。会のメンバーであれこれ話してきただけだぞ。まあそこで、新たな依頼は受けてきたがな」
「ほら、忙しいじゃないですか!」
玲央奈は飲みかけのマグカップを、つい強めにテーブルに打ちつけた。
コーヒーの黒い水面が波紋を生む。
鬼の半妖は身体能力が高く、あまり寝なくても平気だとか言って、天野はすぐに己の睡眠時間を削って無茶をする。玲央奈はそれが気がかりだった。
「今度はまた、いったいどんな依頼なんですか?」
「それがな……」
どこか気まずそうに、天野は言い淀む。
「清彦さん?」
「……受けた依頼は、八歳の娘さんの子守りだ。依頼主自身も会のメンバーだから、今回は半ば個人的な頼みを受けたとも言えるな。その娘さんも半妖なんだが、急に体調を崩したそうで心配だと。だが依頼主はどうしても仕事の関係で、今週の土日はその子を置いて家を空けなくてはいけないらしい。父と子だけの家庭だから、その間面倒を見てくれる相手を探していたようだ」
今週の土日って、もう明後日だ。ずいぶん急な依頼である。
子守りをする天野を想像しようとしたが、玲央奈はうまくできなかった。
それどころか、とある条件下のとき、子守りをされる側なのは天野である。これを口にしたら、さしもの天野も嫌がるだろうから言わないが。
「だけど二日間だけの子守りの依頼なら、危険もなさそうですし、そこまで難しい案件でも……」
乳幼児の相手ならまた変わってくるだろうが、八歳なら小学校二、三年生だ。子供好きな玲央奈からすれば、そう手がかかるとは思えなかった。
そもそも今までの依頼が、迷子の化け猫探しだったり、夫婦喧嘩の仲裁だったり、あまつさえ悪いあやかし退治である。それらに比べれば、いかにも安全で平和的な依頼と言えた。
しかし、天野にとっては違うらしい。
「俺は子供の相手はどうにも不得手でな……正直、今回の件は自信がない」
「……清彦さんが弱音を言うなんて珍しいですね」
「だから君に手伝ってほしいんだ」
へっ?と玲央奈は驚きのあまり声が裏返った。
(清彦さんから、私に『手伝ってほしい』って言った……?)
以前までなら絶対、こんなことは言わなかった。
天野は玲央奈をできるだけ、あやかし関係のことに巻き込みたくないようだったし、玲央奈から迫って依頼の手伝いを買って出ていたくらいだから。
信じられなくてまじまじと見つめれば、天野は整った顔をフイッと逸(そ)らす。
「俺はこれでも君を頼りにしているんだ。もちろん、君に危害が及ばない範囲での話だがな。……『夫婦は助けあうもの』、なのだろう?」
「っ!」
それはいつか、玲央奈が軽口で天野に吐いた台詞だ。
玲央奈の心臓がキュウッと絞られる。
「それで、手伝ってくれるか?」
「ま、任せてください! 私も子守り経験が多いわけじゃないですけど、精一杯やりますので!」
前のめりに承諾した玲央奈に、天野は「やる気十分で頼もしいな」と微笑んで、カップを持って立ち上がった。いつの間にか、彼のカップの中のコーヒーは空になっていた。
皿洗いはここ最近ずっと天野の担当なので、夕食に使った分もまとめて今からやってくれるみたいだ。
アイランドキッチンのシンクの前で、天野がシャツを腕まくりする。ほどよく鍛えられた腕が袖から覗いて、その何気ないワンシーンにも、玲央奈はちょっとトキめいてしまって困った。
「そうそう、子守りに行く当日までに、分厚いコートやマフラーの準備をしておくようにな」
「コートやマフラー……?」
確かに最近冷え込んではきているが、まだそんな完全防寒するには早い。
(準備しろというならするけれど……依頼主の方が、ここより寒いところにお住まいなのかしら?)
訝し気な表情の玲央奈に、天野は泡のついたスポンジを動かしながら、「理由は明後日のお楽しみだ」と口角を上げるだけだった。
秋風が冬の冷たさを帯びていく頃。
タワーマンションの上層階の一室で、定時で退社した玲央奈は帰宅早々、エプロンをつけて台所に立っていた。
今夜の夕食のメインは豚の角煮だ。料理好きな玲央奈は下茹でからしっかりして、じっくりゆっくり、とびっきりトロトロでおいしい角煮を作ってやろうと意気込んでいた。
(清彦さんは二十二時くらいには帰るって言っていたし、なんとか一緒に食卓につけそうね。角煮を煮ている間に、スープや副菜も作って、お風呂も入って、洗濯物もたたんで……)
玲央奈の思考回路はすっかり主婦だ。
――ここに住み始めてから、もう七ヶ月。
あやかしから玲央奈を守ることを条件に、会社の上司である天野(あまの)清彦から偽りの結婚相手役を頼まれて、成り行きで始まったこの同棲生活。
天野は『半妖』という、名持ちのあやかしの血が混ざった人間で、しかもどんなあやかしかといえば『天邪鬼』ときたものだ。その特性として、人の心がぼんやりとだが読めるという少々ズルい能力もある。あいにくと、相性の関係で玲央奈の心は読めないらしいが。
性格も天邪鬼の名に恥じないウソつきかつひねくれており、玲央奈は最初、天野とうまくやれる自信など微塵もなかった。
しかしながら、共に過ごすうちにいろいろあって、現在のふたりはそれなりに良好な関係を築いている。
むしろ玲央奈からすれば、少しもどかしい関係とも言えよう。
天野がどう思っているかは定かではないけれど……。
「あっ、帰ってきた!」
やるべきことはすべて終えて、角煮もいい具合に煮込めたところで、ガチャッと微かにドアが開く音がした。玲央奈はエプロンを翻して、いそいそと玄関まで天野を出迎えにいく。
「おかえりなさい、清彦さん」
「……ただいま、玲央奈」
バランスの取れた体躯に質のいいスーツを纏った、切れ長の目の美丈夫がフッと笑う。青みがかった黒髪が、蛍光灯の下でサラリと揺れ、玲央奈は我が夫ながらその完璧な佇まいに一瞬見惚れてしまった。
〝夫〟といっても、仮のだけど。
「ここまでいい匂いがするな。今夜の献立は?」
「メインは豚の角煮ですけど……あの、いいんですか?」
「ん? なにがだ?」
「お、『お帰りなさい』を、もう一度言わなくて」
同棲を始めてから、玲央奈がお出迎えをしたときはなぜか、天野はやたらと玲央奈の「お帰りなさい」を繰り返し聞きたがった。必ずと言っていいほど、最低限二回は言わされた。
それは実のところ、〝玲央奈と共に住んでいる〟という実感を、天野が噛みしめたいだけの要望だったのだが……当の玲央奈はそんな裏側は知らない。
天野は「ああ」と呟いてネクタイを緩める。
「さすがにここまでさせたら、君も煩わしくなってくるかと思ってな。そろそろ次のステップに向かおうかと」
「なんですか、次のステップって」
「ユウに教えてもらったんだよ。新婚家庭ではこのやり取りをすべきだって。『ご飯にする? お風呂にする? それとも……』」
「言いませんからね!」
「ウソだよ、冗談だ」
玲央奈をからかって満足したのか、天野はさっさと靴を脱いでリビングに向かう。玲央奈は鞄を預かって肩を竦めた。
なお『ユウ』とは、天野の腹心の部下であり、また彼の幼馴染みでもある稲荷游(いなりゆう)のことだ。
(稲荷さんもたいがい、イタズラ好きな性格よね……)
稲荷は半妖でもあるし、まさしく天野とは類友だ。
天野と玲央奈についての話もよくしているようで、玲央奈としては、稲荷は油断も隙もない相手である。
「ああ、おいしそうだな」
天野が上着を脱いでいる間に、玲央奈は作った料理を運んでおいた。ふたりは向かい合わせに座って食卓につく。
天野は「いただきます」と手をあわせ、きれいな所作で箸をどんどん進めていく。
「……毎日食べても、君の料理は食べ飽きないな。豚の角煮はホロッと口の中で溶けるようだし、卵とワカメのスープも旨い。ゴボウとひじきのサラダも、サッパリとした味わいで口直しにいいな」
「本当、料理の感想だけは素直ですよね……」
箸を片手に天野が「俺はいつでも素直だが?」なんて嘯くので、玲央奈はすかさず「ウソですね、旦那さま」と返した。
だけど料理の腕を褒められるのは、けっして悪い気はしない。
それどころか、天野からの褒め言葉をもっと聞くために、玲央奈は密かに料理の研究をし始めているくらいである。
「ほら、コーヒーだ。熱いから火傷するなよ」
「はい、ありがとうございます」
食事のあとには、天野が手ずからコーヒーをふたり分淹れてくれた。
「取引先からもらった豆を試してみたんだが、どうだ?」
「いつもよりちょっと苦みが強いですけど、私は好きです。どちらの取引先の人からですか?」
湯気の立つ香り深いコーヒーを楽しみながら、他愛のない会話を交わす。
ふたりの職場は、ここらでは一番大手の総合インテリアメーカーだ。そこから仕事の真面目な内容で盛り上がる。
天野と玲央奈は偽りの婚約関係ではあるが、上司と部下の関係でもあるので、これはこれで話題は尽きない。
「それじゃあ、上層部の方で、その有名なアーティストさん……? とのコラボ企画が挙がっているんですか」
「まだ決定ではないから、俺も詳しくは知らないがな」
「きっと企画が決まったら、清彦さんがお役目を一任されますよ」
現在二十五歳の玲央奈より、天野は四つ上の二十九歳だが、その若さで営業部の主任に就くだけあって上からの信頼は厚い。本人は「だろうな」と不本意そうではあるが、優秀な人材は働かされる宿命だ。
ただ玲央奈は、少し不安そうに眉を下げる。
「でも、その……あまり無理しすぎないでくださいね。清彦さんには『守り火の会』の活動もあるんですから」
半妖たちによる半妖たちのための支援団体、通称『守り火の会』。
天野はその会のナンバーツーとして、半妖たちのお悩みを〝依頼〟として請けて、解決する活動も日々行っている。
「今日も仕事のあとに依頼をこなしてきたんですよね?」
「いや、今日は『守り火の会』の会合だったんだ。会のメンバーであれこれ話してきただけだぞ。まあそこで、新たな依頼は受けてきたがな」
「ほら、忙しいじゃないですか!」
玲央奈は飲みかけのマグカップを、つい強めにテーブルに打ちつけた。
コーヒーの黒い水面が波紋を生む。
鬼の半妖は身体能力が高く、あまり寝なくても平気だとか言って、天野はすぐに己の睡眠時間を削って無茶をする。玲央奈はそれが気がかりだった。
「今度はまた、いったいどんな依頼なんですか?」
「それがな……」
どこか気まずそうに、天野は言い淀む。
「清彦さん?」
「……受けた依頼は、八歳の娘さんの子守りだ。依頼主自身も会のメンバーだから、今回は半ば個人的な頼みを受けたとも言えるな。その娘さんも半妖なんだが、急に体調を崩したそうで心配だと。だが依頼主はどうしても仕事の関係で、今週の土日はその子を置いて家を空けなくてはいけないらしい。父と子だけの家庭だから、その間面倒を見てくれる相手を探していたようだ」
今週の土日って、もう明後日だ。ずいぶん急な依頼である。
子守りをする天野を想像しようとしたが、玲央奈はうまくできなかった。
それどころか、とある条件下のとき、子守りをされる側なのは天野である。これを口にしたら、さしもの天野も嫌がるだろうから言わないが。
「だけど二日間だけの子守りの依頼なら、危険もなさそうですし、そこまで難しい案件でも……」
乳幼児の相手ならまた変わってくるだろうが、八歳なら小学校二、三年生だ。子供好きな玲央奈からすれば、そう手がかかるとは思えなかった。
そもそも今までの依頼が、迷子の化け猫探しだったり、夫婦喧嘩の仲裁だったり、あまつさえ悪いあやかし退治である。それらに比べれば、いかにも安全で平和的な依頼と言えた。
しかし、天野にとっては違うらしい。
「俺は子供の相手はどうにも不得手でな……正直、今回の件は自信がない」
「……清彦さんが弱音を言うなんて珍しいですね」
「だから君に手伝ってほしいんだ」
へっ?と玲央奈は驚きのあまり声が裏返った。
(清彦さんから、私に『手伝ってほしい』って言った……?)
以前までなら絶対、こんなことは言わなかった。
天野は玲央奈をできるだけ、あやかし関係のことに巻き込みたくないようだったし、玲央奈から迫って依頼の手伝いを買って出ていたくらいだから。
信じられなくてまじまじと見つめれば、天野は整った顔をフイッと逸(そ)らす。
「俺はこれでも君を頼りにしているんだ。もちろん、君に危害が及ばない範囲での話だがな。……『夫婦は助けあうもの』、なのだろう?」
「っ!」
それはいつか、玲央奈が軽口で天野に吐いた台詞だ。
玲央奈の心臓がキュウッと絞られる。
「それで、手伝ってくれるか?」
「ま、任せてください! 私も子守り経験が多いわけじゃないですけど、精一杯やりますので!」
前のめりに承諾した玲央奈に、天野は「やる気十分で頼もしいな」と微笑んで、カップを持って立ち上がった。いつの間にか、彼のカップの中のコーヒーは空になっていた。
皿洗いはここ最近ずっと天野の担当なので、夕食に使った分もまとめて今からやってくれるみたいだ。
アイランドキッチンのシンクの前で、天野がシャツを腕まくりする。ほどよく鍛えられた腕が袖から覗いて、その何気ないワンシーンにも、玲央奈はちょっとトキめいてしまって困った。
「そうそう、子守りに行く当日までに、分厚いコートやマフラーの準備をしておくようにな」
「コートやマフラー……?」
確かに最近冷え込んではきているが、まだそんな完全防寒するには早い。
(準備しろというならするけれど……依頼主の方が、ここより寒いところにお住まいなのかしら?)
訝し気な表情の玲央奈に、天野は泡のついたスポンジを動かしながら、「理由は明後日のお楽しみだ」と口角を上げるだけだった。