★前回のお話★
理不尽な『呪い』をかけられてから、あやかしに狙われるようになった玲央奈は、そのせいで二十四にして恋愛経験はゼロ。
見かねた従姉妹に仕組まれたお見合いで現れたのは、なぜか苦手なイケメン上司・天野だった。
彼の正体は半妖の『天邪鬼』!?
天野はあやかしから守ることを条件に、玲央奈に自分との婚約を持ちかける。
偽りの夫婦生活がスタートし、最初はぎこちないふたりであったが、あやかし関係の問題解決などをしていくうちに、徐々に距離が縮まってくる。
そんな中、玲央奈に呪いを掛けたあやかしが来襲。
玲央奈が襲われたところを天野が間一髪で助け、ことなきを得る。
しかし、そのあやかしは本体ではなく、玲央奈の呪いは解けないままであり、ふたりのウソと本当の想いを行き来する同棲生活はまだまだ続くのであった。
≪キャラ紹介≫
潮 玲央奈
OL。
とある事情によりあやかしに狙われている。
天野のことが苦手。性格は気が強いが根っこはお人好し。
料理が得意。
天野 清彦
玲央奈の上司。
イケメンで仕事もできるパーフェクト人間。
ウソつきなひねくれ者。ツンデレ体質とも言える。
妖怪『天邪鬼』の半妖で、人の心が読める。
その他、半妖やあやかしがいっぱい出ます!
「夫婦になって初めての旅行。つまりは新婚旅行だな、俺のお嫁さん?」
「……ただの旅行ですよ、旦那さま」
ウソつき夫婦の新婚旅行、はじまりはじまり。
ウソつき夫婦のあやかし婚姻事情②
~天邪鬼旦那さまと新婚旅行!?~
プロローグ
ヒールの音を軽快に鳴らしながら、潮玲央奈は早朝のオフィス街を会社に向かって歩いていた。
今日も今日とて、訳あって同棲している玲央奈の上司さまは、すでに異常な早起きで先に家を出ている。玲央奈たちの関係は周囲には秘密なので、どうしても出勤時間をズラす必要があるのだ。
彼はもう会社で優雅にPCでも叩いている頃だろう。
「私も急ごう……ん?」
しかし、足を速めようとしたところで、玲央奈は逆に足を止めてしまう。
立ち並ぶビルとビルの間。
なにやら蠢く影が見えた。
「クッテヤルゾ、クッテヤルゾ!」
口だけしかない、緑色のドロドロした気味の悪い化け物が、ギャハギャハと嫌な笑い声を立てている。
あれは――俗に言う『あやかし』という存在だ。
玲央奈は中学生の頃に、とある凶悪なあやかしからかけられた呪いのせいで、普通の人には見えない奴らが見えるようになった。それだけでなく、ずっと命までも狙われていた。
今は玲央奈の上司兼、仮の旦那さまの〝力〟のおかげで、どうにか身を守れてはいるが……玲央奈の首の後ろには、いまだ消えない【呪】という青い文字が刻まれている。
「あー……もう、どうしようかな」
緑色のドロドロしたあやかしは、「クッテヤルゾ」という言葉どおり、今にも〝なにか〟に襲いかかろうとしている。
その〝なにか〟とは、一匹の白蛇だった。
全長はそれほど長くはない、小さな細い蛇。暗がりで浮かび上がる白いボディに、赤い目のアルビノで、どこか清廉な印象を受ける。そして額には、特徴的な三日月型の傷がひとつ。
こんなコンクリートジャングルにあんな蛇がいるはずもなく、あの白蛇もあやかしだと玲央奈はすぐにわかった。
ただあやかしにも種類があり、『河童』や『妖狐』といった種族名のあるものを『名持ち』、種族名のないものを総称して『名無し』と呼ぶ。
緑色のドロドロの方は名無しであろう。まだ理性的で人間にも友好的な名持ちと違い、名無しは危険で人間だろうと同族だろうと見境なく襲う。玲央奈も名無しのあやかしに何度襲われたか知れない。
白蛇の方はおそらく、そのまま『白蛇』という種族に分類され、赤い瞳には理性の光が見える。同時に……怯(おび)えの色も。
(怖がっている、よね)
その怯えを見てしまったからには、基本的にお人好しな玲央奈はもう放っておけなかった。
「ちょっと! その蛇から離れなさい!」
壁際に追い詰められている白蛇を守るように、玲央奈は名無しのあやかしと相対する。
相手によっては危険極まりない選択だが、このあやかしは見るからに雑魚で、そうたいした相手ではない。
大きな猫目でキッと睨んで「さっさとどっかいきなさい!」と鋭く一喝。
「グ、グググ……」
玲央奈の見立てどおり、名無しのあやかしは悔しそうに唸りながらも、玲央奈の纏う〝気配〟に怖気づいてあっさり逃げていった。
ふうと一息ついて、玲央奈は握っていた拳を緩める。いざというときは、ストレートパンチでもお見舞いして追い払うつもりだったが、その必要はなかったようで一安心だ。
「もう危ない奴に襲われないよう、気を付けてね」
しゃがんで白蛇と目を合わせる。
お節介ついでに注意すると、白蛇はまるで甘えるように、玲央奈の膝にスリッと頭を寄せてきた。
けっこう人懐っこいようだ。
人差し指でその頭をクリクリと撫でると、クネクネと白い肢体が揺れる。
「君はどこから来たの? このあたりを住処にしている、ってわけじゃないわよね? 仲間とかは……って、あっ!」
バッと、玲央奈は立ち上がる。
「こんなところでのんびりしている場合じゃなかったわ……!」
思わず和んでしまったが、今は出勤途中である。玲央奈は腕時計を確認して、一気に焦りを覚えた。
とんだタイムロスだ。
遅刻しないように急がなくてはいけない。
「私はもう行くわね」
バイバイと、白蛇に手を振る。
仲間がいるかどうかなど、確かめることはできなかったが、いるなら無事にそちらに帰れることを祈るばかりだ。
(この子を助けたことを話したら、天邪鬼な旦那さまに『俺のお嫁さんはまた余計なことをして』って、嫌味を言われちゃうかしら……)
端正な顔をニヒルに歪める旦那さまを思い、玲央奈は小さく苦笑して、足早に場を去っていった。
白蛇はそんな玲央奈の背を、人混みに紛れるまでじっと見つめていた。
* * *
「――おや。帰ったのですね」
青藍の和服を着た男は、自宅の縁側で茶を啜っていた。
歴史のある古式ゆかしい日本家屋。
敷地はだだっ広く、庭のヤマボウシの木は秋色に色づいて、地面に熟れ切った赤い実をいくつも落としている。その実を避けるようにシュルリシュルリと這って、白蛇は男の足元までやってきた。
「おいで、シロ」
男が腕を差し出せば、『シロ』と呼ばれた蛇がゆるく絡まる。
白蛇と同化しそうなほど白い肌をはじめとして、男は髪も目も薄い灰色で、どこをとっても色素が薄かった。上背はあるものの整った美貌は中性的であり、たおやかな柳のごとき印象を受ける。
ただ瞳の奥だけは、爛々と抜け目のない輝きを放っていた。
「散歩中になにかあったのですね? だから好奇心であちこち行くなと忠告しましたのに。あなたは少し抜けているところがありますから、もっと気をつけないと。……なにがあったか、教えてくれますか?」
シロはコクンと小さく首を縦に振る。
意思疎通ができているようだ。
そっと腕を持ちあげて、男はシロと額を突き合わせる。瞼を下ろしてから、しばしの静寂を挟み、「ほう……」と感嘆の息と共に目を開けた。
「なるほど、あなたはこの奇特な女性に助けられたのですね?」
コクンと、またシロは肯定する。
「あやかしが見えて、勇敢で、慈しみの心も持ちあわせている……すばらしいです。それに大変可愛らしい」
ふふっと、男性は喉を震わせて笑う。
着物の裾が笑い声にあわせて揺れて、ヤマボウシの
葉がざわついた。
男性は秋晴れの空を仰ぎ、ここではない遠くを見つめる。思い浮かべているのは、たった今〝見た〟ひとりの女性の姿だ。
「見つけました――私の伴侶」
そう呟いた男の目は、まさしく獲物を捕らえた蛇のようだった。
暦は十一月の頭。
秋風が冬の冷たさを帯びていく頃。
タワーマンションの上層階の一室で、定時で退社した玲央奈は帰宅早々、エプロンをつけて台所に立っていた。
今夜の夕食のメインは豚の角煮だ。料理好きな玲央奈は下茹でからしっかりして、じっくりゆっくり、とびっきりトロトロでおいしい角煮を作ってやろうと意気込んでいた。
(清彦さんは二十二時くらいには帰るって言っていたし、なんとか一緒に食卓につけそうね。角煮を煮ている間に、スープや副菜も作って、お風呂も入って、洗濯物もたたんで……)
玲央奈の思考回路はすっかり主婦だ。
――ここに住み始めてから、もう七ヶ月。
あやかしから玲央奈を守ることを条件に、会社の上司である天野(あまの)清彦から偽りの結婚相手役を頼まれて、成り行きで始まったこの同棲生活。
天野は『半妖』という、名持ちのあやかしの血が混ざった人間で、しかもどんなあやかしかといえば『天邪鬼』ときたものだ。その特性として、人の心がぼんやりとだが読めるという少々ズルい能力もある。あいにくと、相性の関係で玲央奈の心は読めないらしいが。
性格も天邪鬼の名に恥じないウソつきかつひねくれており、玲央奈は最初、天野とうまくやれる自信など微塵もなかった。
しかしながら、共に過ごすうちにいろいろあって、現在のふたりはそれなりに良好な関係を築いている。
むしろ玲央奈からすれば、少しもどかしい関係とも言えよう。
天野がどう思っているかは定かではないけれど……。
「あっ、帰ってきた!」
やるべきことはすべて終えて、角煮もいい具合に煮込めたところで、ガチャッと微かにドアが開く音がした。玲央奈はエプロンを翻して、いそいそと玄関まで天野を出迎えにいく。
「おかえりなさい、清彦さん」
「……ただいま、玲央奈」
バランスの取れた体躯に質のいいスーツを纏った、切れ長の目の美丈夫がフッと笑う。青みがかった黒髪が、蛍光灯の下でサラリと揺れ、玲央奈は我が夫ながらその完璧な佇まいに一瞬見惚れてしまった。
〝夫〟といっても、仮のだけど。
「ここまでいい匂いがするな。今夜の献立は?」
「メインは豚の角煮ですけど……あの、いいんですか?」
「ん? なにがだ?」
「お、『お帰りなさい』を、もう一度言わなくて」
同棲を始めてから、玲央奈がお出迎えをしたときはなぜか、天野はやたらと玲央奈の「お帰りなさい」を繰り返し聞きたがった。必ずと言っていいほど、最低限二回は言わされた。
それは実のところ、〝玲央奈と共に住んでいる〟という実感を、天野が噛みしめたいだけの要望だったのだが……当の玲央奈はそんな裏側は知らない。
天野は「ああ」と呟いてネクタイを緩める。
「さすがにここまでさせたら、君も煩わしくなってくるかと思ってな。そろそろ次のステップに向かおうかと」
「なんですか、次のステップって」
「ユウに教えてもらったんだよ。新婚家庭ではこのやり取りをすべきだって。『ご飯にする? お風呂にする? それとも……』」
「言いませんからね!」
「ウソだよ、冗談だ」
玲央奈をからかって満足したのか、天野はさっさと靴を脱いでリビングに向かう。玲央奈は鞄を預かって肩を竦めた。
なお『ユウ』とは、天野の腹心の部下であり、また彼の幼馴染みでもある稲荷游(いなりゆう)のことだ。
(稲荷さんもたいがい、イタズラ好きな性格よね……)
稲荷は半妖でもあるし、まさしく天野とは類友だ。
天野と玲央奈についての話もよくしているようで、玲央奈としては、稲荷は油断も隙もない相手である。
「ああ、おいしそうだな」
天野が上着を脱いでいる間に、玲央奈は作った料理を運んでおいた。ふたりは向かい合わせに座って食卓につく。
天野は「いただきます」と手をあわせ、きれいな所作で箸をどんどん進めていく。
「……毎日食べても、君の料理は食べ飽きないな。豚の角煮はホロッと口の中で溶けるようだし、卵とワカメのスープも旨い。ゴボウとひじきのサラダも、サッパリとした味わいで口直しにいいな」
「本当、料理の感想だけは素直ですよね……」
箸を片手に天野が「俺はいつでも素直だが?」なんて嘯くので、玲央奈はすかさず「ウソですね、旦那さま」と返した。
だけど料理の腕を褒められるのは、けっして悪い気はしない。
それどころか、天野からの褒め言葉をもっと聞くために、玲央奈は密かに料理の研究をし始めているくらいである。
「ほら、コーヒーだ。熱いから火傷するなよ」
「はい、ありがとうございます」
食事のあとには、天野が手ずからコーヒーをふたり分淹れてくれた。
「取引先からもらった豆を試してみたんだが、どうだ?」
「いつもよりちょっと苦みが強いですけど、私は好きです。どちらの取引先の人からですか?」
湯気の立つ香り深いコーヒーを楽しみながら、他愛のない会話を交わす。
ふたりの職場は、ここらでは一番大手の総合インテリアメーカーだ。そこから仕事の真面目な内容で盛り上がる。
天野と玲央奈は偽りの婚約関係ではあるが、上司と部下の関係でもあるので、これはこれで話題は尽きない。
「それじゃあ、上層部の方で、その有名なアーティストさん……? とのコラボ企画が挙がっているんですか」
「まだ決定ではないから、俺も詳しくは知らないがな」
「きっと企画が決まったら、清彦さんがお役目を一任されますよ」
現在二十五歳の玲央奈より、天野は四つ上の二十九歳だが、その若さで営業部の主任に就くだけあって上からの信頼は厚い。本人は「だろうな」と不本意そうではあるが、優秀な人材は働かされる宿命だ。
ただ玲央奈は、少し不安そうに眉を下げる。
「でも、その……あまり無理しすぎないでくださいね。清彦さんには『守り火の会』の活動もあるんですから」
半妖たちによる半妖たちのための支援団体、通称『守り火の会』。
天野はその会のナンバーツーとして、半妖たちのお悩みを〝依頼〟として請けて、解決する活動も日々行っている。
「今日も仕事のあとに依頼をこなしてきたんですよね?」
「いや、今日は『守り火の会』の会合だったんだ。会のメンバーであれこれ話してきただけだぞ。まあそこで、新たな依頼は受けてきたがな」
「ほら、忙しいじゃないですか!」
玲央奈は飲みかけのマグカップを、つい強めにテーブルに打ちつけた。
コーヒーの黒い水面が波紋を生む。
鬼の半妖は身体能力が高く、あまり寝なくても平気だとか言って、天野はすぐに己の睡眠時間を削って無茶をする。玲央奈はそれが気がかりだった。
「今度はまた、いったいどんな依頼なんですか?」
「それがな……」
どこか気まずそうに、天野は言い淀む。
「清彦さん?」
「……受けた依頼は、八歳の娘さんの子守りだ。依頼主自身も会のメンバーだから、今回は半ば個人的な頼みを受けたとも言えるな。その娘さんも半妖なんだが、急に体調を崩したそうで心配だと。だが依頼主はどうしても仕事の関係で、今週の土日はその子を置いて家を空けなくてはいけないらしい。父と子だけの家庭だから、その間面倒を見てくれる相手を探していたようだ」
今週の土日って、もう明後日だ。ずいぶん急な依頼である。
子守りをする天野を想像しようとしたが、玲央奈はうまくできなかった。
それどころか、とある条件下のとき、子守りをされる側なのは天野である。これを口にしたら、さしもの天野も嫌がるだろうから言わないが。
「だけど二日間だけの子守りの依頼なら、危険もなさそうですし、そこまで難しい案件でも……」
乳幼児の相手ならまた変わってくるだろうが、八歳なら小学校二、三年生だ。子供好きな玲央奈からすれば、そう手がかかるとは思えなかった。
そもそも今までの依頼が、迷子の化け猫探しだったり、夫婦喧嘩の仲裁だったり、あまつさえ悪いあやかし退治である。それらに比べれば、いかにも安全で平和的な依頼と言えた。
しかし、天野にとっては違うらしい。
「俺は子供の相手はどうにも不得手でな……正直、今回の件は自信がない」
「……清彦さんが弱音を言うなんて珍しいですね」
「だから君に手伝ってほしいんだ」
へっ?と玲央奈は驚きのあまり声が裏返った。
(清彦さんから、私に『手伝ってほしい』って言った……?)
以前までなら絶対、こんなことは言わなかった。
天野は玲央奈をできるだけ、あやかし関係のことに巻き込みたくないようだったし、玲央奈から迫って依頼の手伝いを買って出ていたくらいだから。
信じられなくてまじまじと見つめれば、天野は整った顔をフイッと逸(そ)らす。
「俺はこれでも君を頼りにしているんだ。もちろん、君に危害が及ばない範囲での話だがな。……『夫婦は助けあうもの』、なのだろう?」
「っ!」
それはいつか、玲央奈が軽口で天野に吐いた台詞だ。
玲央奈の心臓がキュウッと絞られる。
「それで、手伝ってくれるか?」
「ま、任せてください! 私も子守り経験が多いわけじゃないですけど、精一杯やりますので!」
前のめりに承諾した玲央奈に、天野は「やる気十分で頼もしいな」と微笑んで、カップを持って立ち上がった。いつの間にか、彼のカップの中のコーヒーは空になっていた。
皿洗いはここ最近ずっと天野の担当なので、夕食に使った分もまとめて今からやってくれるみたいだ。
アイランドキッチンのシンクの前で、天野がシャツを腕まくりする。ほどよく鍛えられた腕が袖から覗いて、その何気ないワンシーンにも、玲央奈はちょっとトキめいてしまって困った。
「そうそう、子守りに行く当日までに、分厚いコートやマフラーの準備をしておくようにな」
「コートやマフラー……?」
確かに最近冷え込んではきているが、まだそんな完全防寒するには早い。
(準備しろというならするけれど……依頼主の方が、ここより寒いところにお住まいなのかしら?)
訝し気な表情の玲央奈に、天野は泡のついたスポンジを動かしながら、「理由は明後日のお楽しみだ」と口角を上げるだけだった。
当日、玲央奈たちは昼前くらいに家を出た。
依頼主の家までは、玲央奈たちのタワマンから車で片道一時間ちょっと。都市部から離れた山の方面にあった。
紅葉が始まって色付く山々に囲まれた、簡素な造りの鉄骨アパート。周囲に年季の入った民家が多いため、比較的新しい建物に感じるが、それでも築年数はそこそこありそうだ。
ここに、依頼主の雪谷銀一と、その子供である六花が、親子ふたりで住んでいるらしい。
(ここまでは無事に着いたけど、あのバッグの中身をどうするのかは不明なままなのよね)
アパート前の駐車場に停めた、天野のスタイリッシュな黒の車から降りながら、玲央奈は先に降りた天野に視線を遣る。
正しくは、天野が担いでいるボストンバッグに。
バッグの中には天野に言われたとおり、玲央奈はコートやマフラー、あげくに耳当てや手袋などの防寒グッズまで詰めたが、今のところそれらの出番が来そうにもなかった。
(山で冷えるからかなって思ったけど、持ってきただけで着ていないし……清彦さんの秘密主義は相変わらずだわ。雪谷さん親子がなんの半妖かも、何度聞いても『会えばわかる』と言って教えてくれなかったし……)
「難しい顔をしてどうした、玲央奈。早く行かないともう約束の時間だぞ。銀一さんは短気で気性の荒い人だから、遅れたら怖いぞ」
「ウソですね、旦那さま。さっき車で『銀一さんは温厚な人だから、そう緊張しなくてもいいぞ』って言っていたところじゃないですか」
「そっちがウソかもしれない」
「それこそウソでしょう」
そんな他愛のない掛けあいをしながら、アパートの二階の角部屋のドアを叩く。ドアは待ちかまえていたようにすぐ開いた。
「やあ、天野くん。待っていたよ、今日は急な頼みでごめんな」
出てきた銀一は、三十代半ばくらいか。百八十六センチある天野よりも高い、百九十センチ近くある長身の瘦せ型で、ひょろりと縦に長かった。特徴の薄い素朴な顔立ちで、いかにも人が良さそうだ。
「こちらが電話で連れてくるって話していた、天野くんの婚約者の玲央奈さんだよね。すごくきれいな人だなあ、よろしくね」
「は、はい」
臆面もなく玲央奈を褒めて、笑いかける様も朗らかだ。
(どこが短気で気性が荒いのよ)
握手を求めてきた銀一の手を握り返しながら、玲央奈は隣の天邪鬼な旦那さまをさりげなく睨む。
天野の方は睨みを軽く躱して、銀一に「それで、娘さんの容態は?」と素知らぬ顔で問いかけていた。
「娘……あっ、ああ、娘な。六花は寝室にいるよ。学校帰りにいきなり体調を崩したそうだけど、症状自体は倦怠感があるだけの軽い風邪っぽいかな。とりあえず部屋まで案内するな」
玲央奈は銀一の返答に、「ん?」と違和感を覚える。
しかし初対面で下手に突っ込むわけにもいかず、銀一のあとに続いておとなしく家にあがった。中は外観より広い印象で、間取りは2DKのようだ。
親子共同で使っているという寝室は、固くドアが閉ざされていた。銀一がノックをして「入るよ」とドアノブを回す。
途端、流れてきた冷気に玲央奈は体をブルリと震わせた。
「な、なんでこんな寒いんですか……!?」
室内自体はいたって普通だ。クローゼットに、教科書の類いが詰め込まれた本棚。部屋の大半を占めるベッドはセミダブルほどの大きさで、こんもりと布団が膨れていることから、そこに六花がいることがわかる。
だがそれにしたって、気温の低さが尋常じゃない。
玲央奈の気のせいでなければ、ベッドのヘッドボードの一部や枕が、カチンコチンに凍っているようにも見えた。
冷蔵庫を通り越して、これでは冷凍庫の中にいるようだ。
「だからコートやマフラーの準備がいると言っただろう?」
ふわりと、玲央奈の肩が温かいなにかに包まれる。
いつの間にボストンバッグから取り出したのか、天野がもこもこのボアコートを玲央奈にかけてくれていた。
「あ、ありがとうございます」
戸惑いながらも礼を述べ、玲央奈はその温かさに安堵する。天野も颯爽とネイビーのチェスターコートを羽織った。
家の中に入ってから、コートの出番が来るなどおかしな話だ。
だがここまでくれば玲央奈だって、この寒さこそが、六花の半妖の力によるものなのだと察しがつく。
「ご、ごめん! 先に注意してからドアを開けるべきだったね。六花はこのとおり『雪女』の半妖で、周囲の気温を下げたり、触れたものを生き物以外の無機物限定で凍らせたりできるんだけど、体調を崩すと力の制御が利かなくなってしまうんだ。それでしばらく、小学校も休ませていて……」
申し訳なさそうに謝る銀一は、薄手のシャツ一枚なのに寒がる素振りもない。
もしかしてこの人も……と玲央奈が思案していれば、天野が「ちなみに銀一さんは『雪鬼』の半妖だぞ」とようやく教えてくれた。
「雪鬼? 清彦さんと同じ〝鬼〟の半妖なんですか?」
「天野くんほど力は強くないけどね。『雪女』と『雪鬼』も、どっちも〝雪〟に関するあやかしだけど、分類的には別物だよ。僕は能力的にも〝寒さに異常に強い〟ってだけでショボいから、六花の方がはるかにすごいし」
つまり銀一は、半妖とは名ばかりのほぼ普通の人のようだ。
ふと、そこで銀一は腕時計をチラ見して「ああ、もう時間がない!」と血相を変える。
「僕はもう仕事に行くね! この家にあるものは食材でも電化製品でも、なんでも好きに使ってくれていいから! 六花のことをくれぐれも頼んだよ、天野くん、玲央奈さん!」
そう早口に告げたあと、銀一は「えっと、行ってくるな、六花」と、ぎこちなく布団の膨らみに声をかけて、慌ただしく去ってしまった。
託された玲央奈たちは顔を見あわせる。
「ひとまず、六花ちゃんが起きてくるまで待ちますか? 無理に起こしてもかわいそうですし……」
「そうだな。家のものは自由に使っていいそうだし、コーヒーでもないか探してありがたく一息つこう」
ふたりは音を立てないように、静かに寝室のドアをいったん閉めた。
一息つく前に一応、他の部屋も確認程度に探索しておく。もうひとつの部屋にはソファとテレビがあって、カラーボックスなども置かれていた。お風呂場やお手洗いの場所も見て、ダイニングに移動する。
天野と玲央奈は小さめのダイニングテーブルにつき、コーヒーの粉がなかったので、ペットボトルの麦茶をグラスに注いだ。
氷漬けの部屋を出たら気温は戻ったので、お互いコートは脱いで椅子の背にかけている。
「ところで、銀一さんはなんのお仕事をされているんですか?」
「ああ、彼は公務員だ。市役所の職員だったかな」
「ウソですね、旦那さま。ラフすぎる格好で出ていかれましたし、当たり前のように土日出勤しているじゃないですか」
「バレたか。銀一さんの職業……というか職場は、なかなかにおもしろいところだぞ。他に類のない職場だ。彼が帰ってきたら聞いてみるといい」
「清彦さんじゃまともに教えてくれませんもんね」
「やれやれ、信用がないな」
玲央奈と天野が雑談をしていると、やがてペタペタとペンギンのような足音がダイニングに近づいてきた。
同時に、ひんやりとした冷気も。
冷気を纏わせ、寝ぼけまなこを擦りながら現れたのは、青いパジャマを着た美少女だ。この子が六花だろう。
サラサラと流れる黒髪ロングのストレートヘアに、目鼻立ちのはっきりとしたきれい系の面立ち。八歳という歳のわりには大人びた印象の、将来有望だろうその容姿は、〝クールそうな美人〟だとよく称される玲央奈と似通っている部分もある。
だけど素朴な容姿の銀一とは、あまり似ていなかった。
「あなたたち……誰? まさか不審者? 強盗? うちを家探ししたって、ろくなものないから」
六花は纏う冷気と同じくらい冷え切った目と声で、玲央奈たちを警戒心たっぷりに見据えてくる。子供特有の高い声は可愛らしいのに、言っていることはまったく可愛くない。
「ふ、不審者でも強盗でもないよ。私たちは銀一さんに頼まれて……!」
「ああ、おねえさんたち、ギンの知りあいなのね。誰か来るって、ギンが言っていた気もするわ」
『ギン』とは銀一のあだ名か。
ほんの少しだが警戒を緩めた六花の前に、天野が目線をあわせるようにしゃがみ込む。
「そう、俺たちは銀一さんの知りあいだ。俺は天野清彦、あっちは俺のお嫁さんの玲央奈。銀一さんがお仕事に行っている間、君の看病を頼まれたんだよ」
「別に看病なんていらないのに……ギンのお仕事中はいつも、おうちのことは自分でやっているもの。ひとりでも平気よ。おねえさんたちは帰っていいから」
ツンツンとした態度を取る六花。
顔をあわせてまだ数分だが、手強いお子様であることは明白だ。
だけど体は正直で、きゅるるると六花のお腹から、なんとも間抜けな音が鳴った。六花は慌てて腹部を押さえるが、隠そうとしても遅い。
「六花ちゃん、お腹空いているの? もうお昼過ぎているもんね。私がすぐになにか作るよ」
「じ、自分でなんとかするってば! いつも私ひとりで……!」
「銀一さんから事前に聞いた話によると、いつも銀一さんが仕事前におかずを作り置きして、それを君は温めて食べているそうだな。だけど今日は食事面も俺たちが任されているから、君の大好きな銀一さんのご飯はないぞ」
「……ギンのことなんて、好きでもなんでもないし」
小声でボソッと憎まれ口をたたきながらも、六花は観念したようだ。「俺のお嫁さんの料理は旨いぞ」と笑う天野に、「まあ、ちょっとなら食べてあげてもいいけど」なんて生意気な返事をしている。
(このくらいの生意気さなら、許容範囲だけど)
玲央奈は小さく苦笑した。
「じゃあ頑張って作るね。冷蔵庫の中を見てからだけど、おかゆとかうどんとか、体調が悪いときでも食べやすいものにするよ」
「……うどんなら、麺がひとつだけあるわ。一昨日ギンが買ってきたの」
「それならうどんで。具材はあるものを使わせてもらうね。あっ、好き嫌いやアレルギーは? あたたかいものとかも平気?」
最後の質問は、六花の『雪女』の半妖という面を、玲央奈なりに考慮した上だ。
食べたら溶けるなんてことはさすがにないだろうが、単に熱いものは苦手かもしれないと考えて……だけど六花は、特にNGはないようだった。そのあたりは、半妖の特性とは関係ないらしい。
「わかったよ、じゃあ少し待っていてね」
サクッと作ってしまおうと、玲央奈はバッグからエプロンを取り出す。クリーム色の、フロントで紐を結ぶタイプのマイエプロンは、看病ならいるかなと想定して持ってきたのだ。
「俺も手伝おうか? お嫁さん」
「旦那さまはおとなしく、そこのテーブルで六花ちゃんと待っていてください。余計なことはくれぐれもしないように」
「手厳しいな」
「安全性を優先したまでです」
天野はコーヒーを淹れるのはうまいが、その他の調理は壊滅的だ。
完璧超人な天野の意外な弱点は料理である。人様の家のキッチンを荒らしてはいけない。
「へえ、けっこういろいろあるのね」
雪谷家のダイニングキッチンは、天野宅のアイランドキッチンよりは狭いものの、十分な調理器具がそろっていた。調味料の種類も充実している。
(おかずをマメに作り置きしているみたいだし、銀一さんはお料理のできるパパさんなのね)
玲央奈は感心しながら、冷蔵庫の中を物色した。
うどんの麺は早々に発見し、あとは具材に使えそうな卵と三葉。
ついでに赤々と熟れたりんごが三つ。
(卵があるなら卵とじうどんができそうね。お湯を沸かしている間に、りんごをひとつ、食後のデザート用に切っちゃおうかしら)
天野に反して、料理が得意な玲央奈には、りんごの皮むきも飾り切りもお手のものだ。
鍋に水を入れて火にかけ、それから包丁を巧みに操って、スルスルとりんごをウサギの形にしていく。皮でできた耳はツンと尖っていて愛嬌抜群だ。
この切りかたを、玲央奈は亡き母である玲香に教わった。
玲香も料理が得意で、おまけにあやかしの見える人だった。
彼女が玲央奈にくれたお守りは、あやかし避けの力をわずかながらも秘めており、長い間玲央奈を守ってくれていた。効果が切れた今でも、玲央奈は大切に持ち歩いている。
また、あのお守りは、玲央奈が生まれる前に亡くなった父との絆(きずな)でもあった。
「……よし、完成」
できたウサギりんごを一匹一匹、お皿に並べながら、玲央奈は遠い過去に想いを馳せる。
母が初めて自分にこれを作ってくれたのは、ちょうど玲央奈が六花と同い年くらいのときだ。幼い玲央奈は風邪をひいて、学校を休んで寝込んでいた。
ベッドの中で心細くて仕方なかった玲央奈に、玲香は「大丈夫よ、お母さんがそばにいるからね」と、つきっきりで看病してくれた。体が弱ると心も弱るもので、玲央奈はめったにないほど玲香にベッタリ甘えたものだ。
(好きでもなんでもないなんて口では言っていたけど、六花ちゃんもきっと、できるなら銀一さんにそばにいてほしいわよね……)
そんな素振りは今のところ見えないものの、あの六花の性格では表に出さないだろうし、内心ではこの状況を寂しがっているかもしれない。
六花のことを想いながら、ウサギりんごを並べ終えたところで、ぐつぐつとお湯が沸いた。うどんつゆは白出汁があったので、そのまま薄めて使う。白出汁はなんにでも使えて、これひとつでおいしくなる魔法の調味料だ。
溶き卵を鍋に注いでふわふわの卵を作り、うどんの麺に卵を絡め、仕上げに三葉を切って散らす。
人様の家の食器棚からどんぶりを探すのには少々手間取ったが、無事に卵とじうどんも完成した。
「はい、六花ちゃん。りんごも一緒にどうぞ」
ダイニングテーブルについて、存外おとなしく待っていた六花の前に、ホカホカのうどんとウサギりんごを置いてやる。六花は心なしか、ウサギりんごに反応して目を輝かせた。
六花の前に座って、ポツポツとだが話し相手を務めていたらしい天野も、「君の料理は常に芸が細かいな」と感心している。
「りんごをウサギにするくらいなら簡単ですよ」
「俺はできないぞ」
「なんで偉そうに言うんですか」
堂々と『できない宣言』をする天野に続き、六花も「……たぶん、ギンもできないわ」と呟く。
「ギンの料理は、味は悪くないけど、見た目はいつも酷(ひど)いの。りんごも切らせたらガタガタよ」
「そ、そうなんだ」
それなら六花は、りんごの飾り切りなど見るのは初めてなのかもしれない。さっきからウサギりんごに意識を奪われていて、うどんはスルー状態だ。
「うどん、先に食べないと麺が伸びちゃうよ。お箸はこれで良かったかな」
「うん……あっ!」
玲央奈が手渡した木箸は、六花が受け取った瞬間、触れたところから半分がパキンッと凍ってしまった。
凍った箸は、うどんにポチャン!とダイブする。銀一も話していたが、現在の六花は本当に力のコントロールが効かないようだ。
六花の小さな顔が、サッと青ざめる。
「だ、大丈夫だよ! お箸を取り除いて、うどんはレンジで温め直せばいいだけだから!」
玲央奈は努めて明るく六花を慰め、天野も「そうだ、気にすることはない」と援護してくれた。
「俺の幼馴染みのユウって奴も、『妖狐』の半妖なんだがな。自分の姿を別人に変える〝変化〟の能力を持っているんだが、昔は君みたいに力が安定しなくて、一分に一回は別人に変化していたぞ」
(これは確実にウソですね)
そう玲央奈はすぐにわかったが、天野なりの慰めかただと思って指摘はしなかった。やり玉に挙げられた稲荷には心の中で合掌しておく。
だがふたりから励まされても、六花の顔は青いままだ。
「こんなのだと……また捨てられちゃう……ギンにもどうせ……」
「捨てるって……あっ、六花ちゃん!」
ガタッと椅子をひっくり返す勢いで立ち上がり、六花は一目散に部屋を出ていった。寝室の方でドアが激しく閉まる音が響く。
しばし呆然としていたが、玲央奈は走り去る直前の六花の様子を反芻し、もしかして……と、隣に来た天野におずおずと伺う。
「銀一さんと六花ちゃんって、あの……」
「気づいたか。君の予想どおり、ふたりは血の繋がった親子ではないんだ。銀一さんにとって、六花は遠い親戚の子で、実の親は別にいる。そもそも遠縁ならまだしも、直系の親族で違うあやかしの半妖なんて、かなりのレアケースだからな」
やはりそうだったのかと、玲央奈は納得せざるを得なかった。六花の『また捨てられる』という発言もそうだが、銀一の六花への接しかたも、どこか遠慮がちな気がしたのだ。
天野は訥々と雪谷家の事情を明かす。
「実の親は六花を置いて家を出ていったきりで、その後は親戚中をたらい回しだったそうでな。半妖の能力のこともあって、受け入れてくれる先がなかなか見つからなかったんだろう。やっと銀一さんのところまで話が届いて、銀一さん自ら引き取りたいと申し出たんだ。ふたりは一緒に暮らして半年とちょっとで、まだ一年も経っていないと聞いている」
それでは、〝家族〟になって間もないのか。
奇しくも銀一と六花が半妖同士で、能力的にも相性が良かったこともあり、生活自体は基本的にうまくいっているようだが……。
「六花はあのとおり、これまでの環境から、容易に大人を信じ切れずにいるようだな。彼女の心を少し読ませてもらったが、銀一さんのことは確実に好きになっているのに、好きになった分、いつかまた過去のように、捨てられるかもしれないことを恐れている。その恐れを見せまいと虚勢を張っているな」
知らぬ間に、天野は天邪鬼の能力を使って、六花の心を読んでいたらしい。玲央奈は渋い表情を浮かべる。
「そんな恐れなんてなくなるように、銀一さんに頑張ってほしいところですけど……。当の銀一さんはどう思っているんでしょう?」
「彼は彼で微妙に勘違いしていてな……自分が単純に、六花に嫌われていると思い込んでいるんだ。俺に今回の依頼をしたとき、彼は『僕としてはもっと仲良くなりたいんだけど、たぶん僕がいろいろと不甲斐ないせいで、六花がちっとも懐いてくれないんだ』などと残念そうに零していたぞ」
その勘違いもあって、銀一は六花に遠慮した態度を取る。すると六花は銀一を信じたくても信じられないまま、結果としてふたりの距離はいっこうに縮まらない。
負の連鎖が起きている、ややこしい問題だ。
なんとか解決できないものかと悩める玲央奈の背を、ポンポンと天野が軽く諫めるように叩く。
「人様の家庭事情に首を突っ込んでも、余計にこじれるだけだぞ。君はすぐ人のことばかり考えすぎる。お嫁さんのお人好しにも困ったものだ」
「……私は旦那さまの天邪鬼さに困っていますけど」
「ではお互い治らないな。ただそれでも、深入りはほどほどにしておくといい。……そんなことより、うどんはこれ以上放っておいたら、本当に麺が伸びるぞ?」
「あ……一応、六花ちゃんに食べないか聞いてみます!」
天の岩戸よろしく、固く閉ざされた六花の寝室まで赴き、玲央奈はドア越しに声をかけてみる。
「六花ちゃん、うどんはもういらない?」
「…………」
「少しでもどうかな?」
「…………」
「き、気が向いたらまた作るから、いつでも言ってね!」
「…………」
返事は得られず、玲央奈はすごすごとダイニングに戻った。
一口も食べてもらえなかったうどんを前に、しゅんと眉を下げる。
「六花ちゃんはいらないみたいです……これ、どうしましょう」
麺類ゆえに保存はできないし、捨てる選択肢はないとしても、作った玲央奈自身がひとりで食べるのはどうにも虚しかった。
そこでひょいっと、「そういうことなら俺がいただこうか」と天野がどんぶりを持ちあげる。
「えっと、清彦さんが食べるんですか……?」
「箸を取り除いて、温め直せば大丈夫なんだろう? 俺もちょうど腹が空いてきたところだ」
「……そう、ですか」
玲央奈と天野は、ここに来るまでの車中で、昼ご飯としてコンビニで買ったホットフードやサンドイッチをしっかり食べてきていた。おそらく天野は空腹などではないだろう。
彼らしいウソだったが、玲央奈は普通に嬉しかった。
「なにを笑っているんだ?」
「内緒です」
天野は結局、空腹だという体を貫いて、汁一滴残さず玲央奈作のうどんを胃に収め切ってくれた。