佐藤先生が私にとって「先生」としての存在だけでなくなったのは、ほんの一ヶ月前。

 電飾や店の電灯で賑やかな暗い夜道を、一人で歩いていた。


 向かった先は会員制のリゾートホテル。門をくぐるだけでも予約者の名前が必要となり、私は母の名前を伝え、制服姿でも不審に思われることなくホテルの人に案内された。宿泊ではないから勿論入り口までで、そこからは一人。夕御飯時のこの時間、ラウンジに人は少なく目で数えられるくらいの人数しかいない。とても静かで、落ち着いている。クラシックの音楽が、心地よく耳に入る。

 セキュリティーが高い来慣れたこのホテル内を、一人で歩くことは何の恐怖も感じないどころかむしろ、自分が特別な存在になっているかのような錯覚に陥り、いつもより気が高くなる。



 ――せっかくならイタリアンにしてくれたら良かったのに、なんでバイキングにしたのよ、お母さんは。



 和食、中華、フランス料理、イタリアン。どこも小さな子供は個室を除いて空間に足を踏み入れられないが、唯一バイキングは例外だ。その規則のお陰で非常に騒々しい空間を想像する。バイキングには時間制限もあるから、こうして着替えもせずに急いで来る羽目になっていることに、母は気付いているだろうか。



 ――のんびり食べてるからゆっくりおいでって……そんなことしたら、私が急いで食べなきゃいけないことになるじゃない。



 急いで来るのと、急いで食べるのなら、前者を選択する。のんびり来て、のんびり食べたいという願望を現実にすれば、時間制限により後々お腹が後悔することになる。大食いとまではいかなくても、私はクラスの女子高生並には食べる方だ。

 少し早足で向かい、ホテルの人に名前を伝え、席まで案内してもらった。

 母の姿が見えたとき、少しの違和感を感じた。


「あっ、来た! 旭ちゃーん!」


 叫んではいけません。騒がしくしてはいけません。

 幸い賑やかなバイキング空間で目立ってはいないものの、周囲の人達はやはり私と母を注目している。

 母を叱りたい衝動に駆られたけれど、あともう少しだけ我慢する。文句は席で、小さな声で、その方が目立たず恥ずかしくない。


 椅子を引いてもらい席につくと、飲み物のメニューを受け取った。軽く目を通して、ノンアルコールのカクテルを頼む。

 周囲に人は沢山いるも、そこから先は母と私のみの空間。夕食にバイキングを選んだことは、ここしか空いていなかった可能性を考えて何も聞かないにしても、大声に関しては一言言いたい。だけどそれ以上に、先程から目に見えている違和感を私は知りたかった。


「――で、誰を私に会わせようとしているの?」


 二人で来たグループが、四人席に案内されることは珍しい。母の荷物もそんなに数は多くなく、荷物置きに納まる程度で椅子を使わなければならないことはない。案内されたとしても、あらかじめテーブルの上、各席の前に並んでいる飾りは下げられるし、その後ナイフやフォーク、お皿が持って来られることはない。

 この四人席のテーブルには、三つの席にナイフレストが置かれている。そして私の向かい、空いている筈の席にはワインが注がれたグラスがそびえ立っている。その椅子を使う誰かがいるという証。


「気付いちゃった?」

 ワイングラスやお手拭きの数を見れば、誰であっても気付くと思う。


「当然でしょ」

「実はパパが仕事から帰ってきたのよー! 旭ちゃんを驚かせようと思って――」

「嘘。お父さんだったらお母さんは私の隣には座らない。四人席に案内されたとき、親は隣同士に並んで座って、向かいに子供一人を座らせる。昔からウチはいつもそうだったじゃない」

「もうっ! 旭ちゃんってばつまんない! 変なところで観察力と記憶力があるんだから! そういうところも好き! 流石は私の娘だわ」


 上品さはどこへやったのか、グラスに入っているワインを母は一気に飲み干した。他のテーブルの食器を下げているウエイターを呼び止めて、追加のワインを注文する。

 その最中に、私が頼んだノンアルコールカクテルがやってきた。誰とも乾杯せずに一口喉に通すと、苺の微炭酸にほんの少し、パイン風味の味が口の中に広がった。


「覚悟は出来てるよ」


 ウェイターのお兄さんが下がったのを確認して、グラスを置くと共に母に問いかける。



「お父さんが私の結婚相手を見つけてきたんでしょ?」

 私は、佐藤の娘だ。

 親が決めた人と結婚する。小さい頃からそれが当たり前だと認識している。高校に上がったあたりからは、そろそろ婚約者の一人でも現れるのだろうと思い始めた。

 今日か、明日か……。頭の中で日々考えて、日々覚悟をして、一日一日を過ごしていた。


 ようやくその日が来た。

 付き纏われている頭の中が、楽になれる。緊張と不安が渦巻きながら、逃げられない今の瞬間に安堵するほど、見えない存在は思考の中を埋め尽くしていた。


 母の目を真っ直ぐに見つめると、母は呆然と口と目を開けていた。

 そして、笑いを堪え出す。


「お母さん?」


 何も変なことは言っていない。私は真剣な話をしている。

 真面目な人間に対してこの対応はいささか失礼ではないか。これが失礼でない対応だと言うなら、根本的に間違っているということになる。私が間違っていることに。勘違いをしていることに。

 その考えの方は、正解だった。


「そんな大事な人なら、バイキングになんてしないわよ! あえてここにしたのは、楽しく明るい雰囲気にするため」

「じゃあ……誰を私に会わせるつもり?」


 緊張が解け、心が軽くなる。代わりに疑問が大きくのしかかる。


「それはね……」


 誰かが、近づく気配がした。

 母が頼んだワインだろう。私はそちらに目をくれず、一心に母を見つめていた。

 母の口から出る、人物が気になって――


「あなたのお兄ちゃん」


 気になって、目を向けなかった。

 私の横で、一人の青年が足を止めた。

 彼の手にはいくつもの種類の料理が乗った、一枚の大きなお皿。反対の手にデザートが数個乗ったお皿を持っている。



 私は、彼を見て固まった。

 彼も、私を見て固まっていた。



「佐藤……先生……」


 どうか、そのお皿をこのテーブルの上に置かないで。あなたの席がここではないことを、真っ白になった心のどこかで願っていた。


 あなたがここにいること自体は問題ではない。飲食店で教師と生徒が鉢合わせするなんてことは、珍しいようで珍しくない。

 問題は、そのお皿を持って離れるか、離れないか。


 先生の手にばかり注目していた。私の知りたいことは、予想に反して隣の席からネタバレされた。


「キャーッ夜明くーん! デザートありがとうー!」


 それはもう見事に、母が。知りたくない答えを、聞きたくない答えを、大きな声で教えてくれた。

 混乱と困惑で動けないでいる私に対し、佐藤先生は母の一言で硬直を脱した。我に返り、手に持っていたお皿の一枚を私の目の前の席……自分の席のテーブルに置いて、もう一枚のお皿を母に手渡す。


「いえ。すみません、トルテとプディングだけタイミングが悪く無くなっていまして」

「いいのよ! 次行ったとき、殆ど誰も取っていない新品に近い状態がゲット出来るってことなんだから、むしろ嬉しいわ。ごめんね取りに行かせちゃって! もうすぐ旭が来ると思うと立つわけにはいかなくて――ほらっ旭、挨拶しなさい。あなたのお兄ちゃんの――」

「佐藤夜明、二十七歳独身です……って、言わなくても知ってるよな? まさか制服で来るとは思わなかった」


 にこやかな笑顔の裏で、この人が今何を考えているのか、全く分からない。


「……と?」

「旭?」

「お兄ちゃんってどういうこと!? ちゃんと説明して! 確かに昔、私には兄がいたってお父さんもお母さんも言ってたけど! 生まれる前に死んだって……! だから私は一人っ子なんだって二人とも――」

「ああ、あれは嘘よ」

「嘘!?」

 一刻も早く答えて欲しいというのに、母は落ち着けと言わんばかりにのんびりと苺のショートケーキを口に運ぶ。お手拭きで口を拭いてから私に告げた。


「子供にも言えない事情というものが大人にはあるの。あなたのお兄ちゃんはちゃんと生きてるわ。私の親友の佐藤さんの子供として」

「親友……」


 親戚ではないらしい。


 昔から母は言っていた。世の中に「佐藤さん」は何人もいる。「佐藤」という名字はこの国で最も多い。だからこの先、何人もの佐藤さんと出会うことになる。自分のようにと。

 母の親友も、佐藤さんの一人だったらしい。


「佐藤先生は、このことを知っていたんですか? 私が……その……妹だって」

「ああ。お前が入学する前に知らされた」

「よく信じましたね」

「驚いたけど、いい歳した大人をからかっている風には見えない真面目な空気だったからな。佐藤はやっぱり信じられない?」

「そりゃあ、まあ。高級リゾートホテル内とはいえ、真剣な話には不似合いな、賑やかバイキング空間ですし」


 料理が味だけでなく見た目が大事なように、重要な話の内容にはそれに見合った空間が大切になる。


「それに、私はこういう話をあっさりと受け入れられるほど、大人ではありません」


 自分で言っておいて情けなくも感じるが、受け入れたところでそれこそ信じてもらえないと思う。自分の感情は決しておかしなことではないとだけ信じられた。


「家族だから、だよ」

 佐藤先生の手が、頭の上に乗せられる。


「あえてここを選んだのは、気兼ねなく話せる家族だから。それは信憑性をあげる小さな欠片にはならないか?」

「それは……」


 デザートに夢中な母を見ると、信じたい気にはならなかった。


「……大体、なんで今になって私に紹介したの? 一生隠し通すつもりではなかったってこと?」

「ひゅうはひひょうははっへ」

「食べてから話して」


 佐藤の娘であることに常に自覚を持って生きなさい、と言っていた母はどこに行ったのだろうと、こういう姿を見せられる度に毎回思う。頭が痛い。

 冷水でケーキを流し込み、口の中に物を無くして母は言った。


「急な事情があったのよ。これ」


 どこからともなく取り出されたのは、一枚の紙切れ。

「世界一周旅行、ペアチケット?」

「そう! 福引きで当たったのよー! 誰か知り合いにあげようかなとも思ったんだけど、パパに電話したら一緒に行こうって!」

「お父さん仕事は!?」

「帰ってきたって言ったじゃない」

「嘘じゃ無かったの!?」

「今日は久しぶりに帰ってきて、時差ボケで動けなくて来られなかったのよー。今頃家で、ゆっくり好物のおでんでも食べているんじゃないかしら」


 きっとコンビニのおでんだ。父は家のお手伝いさんが作ってくれるおでんも大好きだが、コンビニのおでんの特有の味をえらく気に入っていた。日本に帰ってきておでんが食べたくて仕方なかったのだろう。


「長期休暇は娘を一人残して夫婦水入らずの世界旅行ってわけね」

「旭ちゃんも行く?」

「行かない。学校あるし飛行機は嫌い。海外なんて絶対に行かないよ」


 あんな鉄の塊が空を飛ぶなんてどうかしている。旅行なんてものに、命をかける趣味は私にはない。もし私が福引きで一等を当てたら、当てたことには大喜びをするけど賞品には全く喜ばないだろう。きっと最下賞の方が良かったと呟いている。


「そう言うと思った。だから、夜明くんを呼んだのよ。ここまで言ってもまだ理解しない?」

「しない」

「年頃の一人娘を一人、家に残していけるわけないでしょ」

「お手伝いさんが大勢いるじゃない」

「他人の中に一人残すっていうのは、余計に不安になるものなの。せめて身内が一人でもいるなら話は別」

「それってつまり……」