「ここはホテル、俺は教師、お前は生徒、しかも制服姿。まずいと思わないか?」
「まずいですね」
普通に考えて、かなりマズイ。
「でも兄妹なら、大して問題なくないですか?」
「信じたのか?」
「いえ。もしも、私達が兄妹ならの話です」
「んー……問題はないが……でも、お前の方に変な噂が立つぞ。大人は事情を理解するが、子供は理解してもなお噂を流して面白がる」
「それは嫌ですね。絶対に嫌です」
「そこで提案だ。まだ全然食べていないが、今すぐここから退散するか……お前が下のショップで服を買って着替えてきて、八時から出てくるエビチリを食してから帰る……どちらがいい?」
前者は却下、あり得ない。
後者は微妙なところだ。着替えで私の食事時間が短くなってしまうのはいいにしても、エビチリだけを召し上がって帰るのはなんだか勿体ない。それに、その方法でも危険が回避されたわけではない。例え服装を変えたところで、生徒と教師が二人でホテルで食事をしているという事実は変わらない。この危険を回避するに至って、私の結論は……。
「服を買って着替えてきて、エビチリを食した後もゆっくり食事を楽しみたいです。主に個室で」
「なるほど、個室という手があったか。忘れていた」
服を着替えるのはただの保健。
決まれば行動は急げだ。急遽個室を用意してもらうためには佐藤先生ではなく私が動く必要がある。そしてショップに行って衣服をチェンジ。目標時間は十分。
「私は着替えてきますので、もし八時を過ぎてしまったら先生は私の分もエビチリを確保しておいてください」
「よし、まかせろ。ところで……」
早足で席を離れようとして、聞こえてきた先生の言葉の続きが気になり振り返った。
「兄と信じていない割には、俺と密室で二人きりになるのは平気なんだな」
個室といってもウェイターさんは出入りしますし、それに……。
「なにかあれば、佐藤先生一人を社会的に抹消することくらい簡単なので。先生も私の兄なら、佐藤の家のことくらい存じておりますよね?」
母が私を任せた相手なのだから、大丈夫だと思っている。
納得したからなのか、予想していた答えだったからなのか、理由は分からないけれど先生は面白そうに意味深な笑みを浮かべて見送った。
八時前、戻ってきてテーブルの上に新たに料理を持ってきた様子がなかったのは、どうせ移動するから取りに行かなかった、もしくは一人バイキングが駄目、そう思うことにする。
3
「家に戻ってくる気はありませんか?」
佐藤夫婦が旅立った後、娘の佐藤は俺の家に住まうことになり、荷物の整理、段ボールの箱を開けながら突拍子もなくそんなことをぼやいた。
敬語、疑問形。この家の中には佐藤旭を除いて俺しかいない。九十九パーセント俺に向けられた言葉だろう。顔は向いていないけど。
「それはつまり、やっぱり自分家の大きい屋敷で暮らしたいと? 小さな俺の家がいいって言ったのはお前だが、心変わりしたのならまだ間に合うから段ボールの蓋は開けるな。直ぐに荷物をまとめなさい」
「違います! 帰りたいのでも、佐藤先生に屋敷で一緒に暮らして欲しいわけでもありません。戸籍的に戻ってきませんか、という話です」
「お兄ちゃんと呼んでくれるなら……」
「ふざけないでください」
私はまだ、あなたを兄とは認めていません。
黙々と作業を続ける彼女の姿がそう言っているように感じた。戸籍上で家族になれば、納得出来るからその提案をしたのだろう。けれど少し深刻そうに、沈んだ彼女の目を見て、何か他に理由があるという可能性を捨て切れず、聞いてしまった。
それはビンゴだった。
「戻ってきて、佐藤先生が家を継いでくれれば、私が継ぐ必要はなくなります。そうなれば私は、結婚しなくて済みますから」
「結婚、したくないのか」
親は子供よりも先に死ぬ。長い時間を一人で生きなくてはならなくなる。一人の時間を少なくするには、結婚するのが一番だ。結婚により生じる女側の不利益といえば一生の家事だが、佐藤旭の場合は家が貧乏にならない限り無縁だろう。代わりに本来男側の苦労、一生の労働が付き纏うが、自営業なら結婚した方が夫に苦労を分散出来る。夫婦喧嘩のストレスを除いて不利益はないと思うのに、変わった娘だ。
「婿養子をとって、家を継ぐことは決まっていましたから、そういうわけでは……いえ、そうかもしれません。それが決められた道だから、その上を歩くことが当たり前になっているだけで本心では歩きたくないのかも。他に道があるのなら、そこを歩きたい。でも、道なんて目に見えないから、だから――」
自分で用意したわけではない、人に用意してもらった道を歩くしかない。立ち止まるという考えは彼女にはなく、分からないのであれば、立ち止まるより歩き続けた方が良いと信じている。この道でいいのかと疑問に思いながら、もやもやして。
「先生?」
無意識に彼女の頭を撫でていた。
どう言い訳しよう。頭を回転させても出てくるものはなく、からかうように「可愛いな」と笑うことしか出来なかった。
彼女は怒った。
悪口は言っていないというのに、子供扱いされたみたいなのが気にくわず、ご機嫌斜め。それでも自分にとって重要なコミュニケーションは、とることをやめない。
「佐藤先生が兄とは信じていませんけど――」
それなら何故一緒に暮らす。
「仮に本当に兄妹だとして、私と先生の関係は学校では秘密でお願いします」
「なんで?」
無論そのつもりだが、佐藤旭という人間のことをもう少し知りたくて、どういう考えからその答えにたどり着いたのか聞かせて欲しく、向こうにとっては無駄な回答をさせてしまう。
「利用されたくないからです。あと、面倒だから。佐藤先生が私の兄と知って、更に一緒に暮らしてると知られれば、テスト問題教えてとか絶対に数人からは言われますよ。私が良い点数を取っても、努力じゃなくて元から答えを知っていたんでしょう? って。根拠のないことを言ってくる人もいるかもしれません。面倒くさい人間関係は、必要最低限に留めたいんです」
――先程のことといい、予想外の会話から、あの日……彼女の母親があの提案をした理由が少し分かった気がする……。
「佐藤先生だって、私が妹だと知られて根堀り葉堀り職員室で質問レースに遭うの、嫌でしょう?」
知られることは、別に構わない。むしろ知られるべきであり、知られた方が好都合でもある。
けれど質問レースは確かに嫌だ。身動き取れない椅子に座らされて、両手両足を拘束されている気分に陥ることだろう。その想像は顔にしっかりと現れていたらしい。
「嫌なら利害は一致しますよ。お互いの平穏な今の生活を守るためにも、秘密にしておきましょう」
表情の返事のみで、彼女は勝手に結論づけた。元から同意であったため、反論する必要はない。
この手は再び、彼女の引っ越し作業の手伝いへと集中した。私物へは極力触らないよう気をつけて、ベッドの組み立て、クローゼットの組み立て、時々手を貸して貰う。
――俺たちは明日から、皆に嘘をつく。
警戒が薄い様子からして、おそらく彼女は気付いていない。
抱えている秘密は、自分と交わした一つのものだけだと、信じている。
今同室にいる、十歳近く歳の離れた青年が、自分に秘密を抱えている等と疑いもしない。
まだ、知られてはいない。
まだ――
◇◇◇◇◇
誰も聞いていない。プライバシーが保護された、リゾートホテルのイタリアン、個室空間。
直ぐ外には大勢の人がいる。防音設備がともなっていない以上、声量には抑えめに。それでいて食器音を乗り越え、相手に聞こえるくらいの大きさで。
『兄としてしか見られなくなったら、どうします?』
まだ数回しか会ったことのない女性と一足先に食事を楽しんでいた。
顔にこそ出さないが、彼女と二人きりは少々居心地が悪い。いつもは彼女の旦那も交えて三人で食事をしていたが、今日は家でダウンしているそう。個室だというのに、よく旦那は奥さんにオーケー・ゴーサインをだしたものだと感心する。日取りを変えて、また改めてとドタキャンして欲しかったというのが本音だ。
口に物を運び続けることで、居心地の悪さから目を反らし続けた。
この心情を知らない相手は、楽しそうな声と共に右手の赤ワインを揺らす。
『それならそれでいいじゃない。結婚っていうのは家族になるってことなんだから大して変わらないわよ。戸籍上の関係が兄か夫婦かの違いだけ』
小さく一口、それを口の中に運んだ。
『いや、だいぶ違うと思いますけど』
『じゃあやめる? あの子に兄としてしか思われなくなったら……あの子の婚約者を、辞退する?』
つい先ほど美味しいと感じた筈の海鮮が、今の一瞬で不味いものへと変わった。料理というのは五感で楽しむ他に、共にする相手にも味を左右される。その相手が自分にとってどういう存在か、その相手は自分にどういう言葉を投げかけてくるか。それらにより、美味しいものはいつだって美味しくないものへと変わる。
別に、彼女は怒っているわけではない。
ただ、彼女の言葉が……自分にとって聞きたくないものだった。
今も変わらず、彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。
『生まれた子供同士を結婚させよう』
穏やかな笑みと共に、彼女は言った。
『親友同士で交わした約束とはいえ、冷静に考えてみれば、子供は被害を受けたも同じ。あなたが嫌なら、気にせず断ってくれていいのよ。これまで通り普通の教師と生徒でいる道がある。どう?』
『その提案は却下させていただきます』
『あら。どっちでもいいっていう返しを期待していたわ』
『そんなことを言ったら、俺は旦那さんに殺されますよ。半端な奴に娘はやれん! ってね』
『ふふっ、そうね』
空気の中和に成功した。
マズイ海鮮が再び美味しくなる。イカはやはり、やりいかが一番だ。
『前から気になっていたことがあるんです』
話題を逸らさず、それでいて話題を逸らした。
『どうして、娘さんを俺の学校に?』
デメリットしか見当たらない。
名家の娘に婚約者がいる。その相手が年上の青年。それについては何の問題もないが、その相手が娘の通う学校の教師となると話は変わってくる。周囲に知られれば、佐藤のスキャンダルになりかねない。こちらが教師をしていることを、どこの学校の教師なのかを知りながら、あえて娘を同じ学校に入れさせる理由が考えても分からなかった。元から娘を違う学校に入れていれば、わざわざ嘘をついて……これから芝居をする必要もないというのに。
彼女は少し黙り込んでから、静かに言った。
『あの子は人との関わりを避けている部分があるの。きっと、あなたを婚約者だと紹介しても、受け入れられないと思う。自然と絆が生まれるには、肩の力を抜いて信頼を築く必要があるわ。親が決めた相手だからとギクシャクしたままじゃ、絆は生まれない。そんな微妙な遠慮し合った関係を続けて、そのまま結婚してもいいことなんてないと思うの。だから――』
『自然の絆を築けるように、教師と生徒、兄と妹として』
『そういうこと。あの人と相談して、これが一番だって納得したの。兄と妹と嘘をつくことで、家族の絆を手にするだけでなく本当は婚約者だって事実を学校側に隠せられるからね。一石二鳥というやつよ。でも……あなたにとっては凄く迷惑ね。ごめんなさい』