オルビアは、人気の占い師ということで、予約がないと会えないと断られた。占いの話ではないと言っても、無駄であった。
それにしても、気になることがある。
火竜の目撃情報だ。
当時、ラウルも『火竜』を見たという話を聞いた。だが、普通に考えたらあり得ないことだ。
この帝都エリンは強い結界で守られていて、魔が侵入することはあり得ないし、そうであれば、『知恵の塔』の魔術師たちがだまってはいないはずだ。
ラウルは、そのあたりを確かめたくて、翌日、『子馬亭』を訪れた。
案内をされて、奥にある部屋に入ると、中にはオルヴィズとアリスティアが話をしていた。
「こんにちは」
にこやかに笑みを浮かべるアリスティアに、ラウルは、遠慮がちに頭を下げる。
昨日はアリスティアがいないことに、がっかりしたが、今日はいることに、臆してしまう。
相手は公女。普通なら、会話などできないはずの、姫君である。
「地図を描きに来たのか?」
オルヴィズが、テーブルの上に描きかけの地図を広げた。
「いえ、火災で燃えた場所の区画を確認したくて」
ラウルは、古い地図を見せてくれないかとオルヴィズに頼む。
「どういうことだ?」
「考えすぎなのかもしれませんけど」
古い地図と描きかけの地図を見比べながら、ラウルは考え込む。
「メイサさんの居所とは関係ないとは思いますが、少し気になったことがあるのです」
遠慮がちにラウルは口を開いた。
「あの火事、火竜の目撃情報が多いのです。でも、結界があるから入ってくるわけがない。錯覚なのだろうな、とも思うけれど、燃え方が普通の火事と違う気がするのです」
「……そうなの?」
「火事は建材の状態や大気の状態、風の向きと強さ、そして燃えるものの多さなどがいろいろにかかわってきます。だから一概には言えないんですけど」
確信は持てていないまま、ラウルは続けた。
「実は昨日、ある人を探しているときに火竜の話を聞いたのです。それで、昔、火事の燃えかたと、火元と思われる場所からの被害状況が風向きと一致していないって言われていたのを思い出しまして」
「確かに、当時の調書では風向きに反して燃え広がったと書かれていたと記憶しておりますな」
オルヴィズが頷く。
「今更、そんなことを気にしても意味がないですし、火事の時にメイサさんは『駒屋』にはいなかった。だから、全く関係のない話ですけども」
「本当に竜がいたとしたら、『知恵の塔』が大騒ぎよ」
アリスティアは苦笑する。
「でも、ひょっとしたら、調べた記録があるかもしれないわね」
「そっちの記録は、秘密主義ですからな」
オルヴィズは肩をすくめた。
「しかし、尋常ではない規模の火事であったのだ。原因を探ることは、無意味ではない」
オルヴィズに頷かれ、ラウルは安堵する。
給金をもらう以上、きちんと『仕事』はしたかった。
「とりあえず、メイサさんの知人に会いに行く予定です。昨日、約束をしましたから」
「びっくりした。すごいのね。憲兵隊より優秀だわ」
アリスティアに褒められて、ラウルは申し訳ない気分になる。
そもそも、立場的に憲兵隊は大っぴらに動けないのだから。もっとも、オルヴィズの方は気にした様子はなかった。
「今からなの? じゃあ私もいっしょに行こうかな」
「アリス様、それは」
「いいでしょ、別に」
オルヴィズは困った顔をした。実は苦労性なのかもしれない。
「では、私も参ります」
「だめよ、オルヴィズには別に仕事を頼むから」
オルヴィズの顔がますます渋くなった。
「仕事とはなんでしょうか?」
オルヴィズはこれ以上の厄介ごとはやめて欲しいという気持ちを隠そうともしない。ほんの少し、彼が哀れに思えた。
「イルクートについて、調べてくれない? 父上の許可はもらってあるから」
「イルクート? 侯爵で、魔術師の?」
「そう。そのイルクート」
オルヴィズは渋い顔をしたが、憲兵総監の許可があるとあっては断れず小さくため息をついた。
「わかりました。相変わらず、無茶をおっしゃる」
「ありがとう」
アリスティアが最上の笑みを浮かべると、オルヴィズはもっと困った顔をした。
ロキス神殿近くの裏路地を歩いていくと、香のかおりがしっとりとした雨の中に流れてきた。
アリスティアは、会ったときと同じく、魔道師のマント姿。服装に娘らしさは全くないのにもかかわらず、その美しさは目を引くものがある。
憲兵総監レニキス公は、現皇帝の弟である。その娘であるアリスティアは、皇帝の姪であり、順位は低いものの皇位継承権もある、やんごとなき姫君のはずだ。ラウルは、どう対応すべきなのかわからず、どうしても無口になる。
「占い師かあ」
アリスティアは、物珍しそうに、路地に掲げられた数々の看板を眺める。
「よく当たるって評判だそうです。約束がないと見てもらえないんだとか」
「占い師ってね、もったいぶった方が、ありがたがられるのよ」
くすりとアリスティアが笑う。
「私の従姉なんて、ひと月も待たされたって、喜んでるのよ」
「……見てもらいたいことを忘れそうですね」
ラウルには、想像もできない感覚だ。
そもそも自分の未来など、別に知りたいと思わない。知って何かが変わるのだろうか。しかも確実性のないことをわざわざお金を出して聞きたいなんて、理解を越えていると思う。
そう話すと、アリスティアは「そうね」と、苦笑した。
「ああ、ここです」
ラウルは、古ぼけた扉をノックする。すると、ひょろりとした少年が扉を開いた。湿気じみた空気に香の匂いが絡みつくように流れてくる。部屋には古ぼけた長椅子が置かれており、二人はそこで待つように少年に指示をされた。
「ずいぶん、暗いですね」
部屋には窓はなく、受付をしていた少年の作業机に置かれた、ろうそくの灯りだけだ。部屋の中のわずかな空気の動きで、影は濃淡を変えた。
「魔道もそうだけど、精霊や魔物に力を借りたりするものは、闇と相性がいいのよ。術者の集中力も高まるし」
「俺は、金が無くて油が買えなかった時を思い出します」
父が死んでまもなく、母が病に倒れた。そのころは今よりもラウルの賃金は安くて、食べていくことすら困難だった。今だって、裕福とは言いがたいけど。
「どうぞ、お入りください」
先ほどの少年が奥の扉を開けて、ふたりを手招きした。
中に入ると、部屋は流れてきていた香りがたちこめていた。銀色の燭台に、三つの炎が燃えている。
二人は勧められるまま、長椅子に腰を下ろした。大きい透明な水晶球の置かれた机の向こうに、紫のベールを被った女性が目を伏せるように座っている。部屋が薄暗いこともあり、ベール越しの表情をうかがい知ることは難しい。
「オルビアさんですね」
ラウルの問いに、彼女は少し頷いた。顔を一瞬、あげたものの、慌てるように目を伏せる。ベールをしていて見えないが、顔にひどい火傷があると聞いていた。ひとに見られるのが苦手なのかもしれないとラウルは思う。
「何をお知りになりたいのでしょう」
低い、落ち着いた口調だった。
「あなたは、昔、『駒屋』さんで働いていらっしゃいましたね」
「もちろん、見料としての料金はお支払いいたします。ご心配なさらずに」
オルビアの少し戸惑うようなしぐさに、アリスティアが慌てて口を添える。
「……あなたがたは?」
「私は、憲兵総監レニキスの娘、アリスティア。あなたに迷惑はかけませんから、話してくださいませんか」
あまりにあっさりと名乗ってしまったアリスティアにラウルは驚いた。もっとも、見ず知らずのラウルにもあっさり名乗ったアリスティアである。
自分が特別な立場にあることを、全く気にしていないのかもしれない。
「ああ。道理で」
オリビアは得心したらしく小さく頷いた。
「確かに、私は『駒屋』で娼婦をしておりました」
「そこにいたメイサという女の子のことを教えてください」
アリスティアが名乗ってしまった以上、もはや遠回しに聞く必要はない。
「メイサ、ああ、ユキアの子供ですね。もう何年も会っておりません。あの子がどうかしたのでしょうか」
「メイサは、ある事件に巻き込まれていると思われます。あの子を助けるために、力を貸していただけませんか」
アリスティアが身を乗り出しながら、頭を下げる。オルビアは視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「あの子の母親は、身寄りがなくて。だから母親が亡くなっても、誰も引き取る人がいなかったんです。そこで、私たち住み込みの娼婦たちが面倒を見て育てました」
「あの、彼女がお店に出ていた、というのは本当ですか」
ラウルは、隣のアリスティアをちらりと見て、ためらいを覚えつつも聞いた。
「はい。『駒屋』の主人は鬼ではありませんでしたが、商売人でした。あの子が少し大きくなってくると、私たちは反対したのですけど、客を取らせるようになりました」
オリビアは静かに答える。
「客って、だってまだ子供でしょ?」
アリスティアは眉をひそめた。
「非道ではあります。それでもね、あの界隈で産まれた子供としては、不幸とも言えません」
家もなく、食べ物もない。場合によっては酷い暴力を受けたりする子供のほうが圧倒的に多いのだと、オルビアは続けた。
「それにあの子は、すこし不思議な力を持っていました。暗い部屋にひとりでいると、大きな蛍のような光の玉と遊んでいたりしていて。そのことを知っているのは私とほんのわずかな人間でしたけど。そんなことがわかったら、店から追い出されてしまうことは間違いありませんでした。私たち、それが不安でいつも心配しておりました」
オリビアは、何かを思い出したらしく、わずかに肩を震わせた。
「あるかも。魔力の強い者は、訓練を受けていなくとも無意識に力を発現させることがあるの。『知恵の塔』は、そういう子供たちを見つけて、訓練させる活動も行なっている。メイサは、導師に見出されたと聞いているわ」
訓練すれば、力の暴走による事故はおこらない。この国において、魔道の力は徹底的に管理されている。ただ、そういう子供を探し出すのは難しい。
「メイサさんは、どういう経緯で導師と出会われたのでしょうか」
ラウルの問いに、オルビアはうつむいたまま答えた。
「私はほんの少しヒトと違うものが見えます。あの子からは、めらめらと燃えるような炎の化身のようなものが時折見えました」
「炎?」
アリスティアは不思議そうに首を傾げる。
「はい。私は、愛おしくも、怖かった。魔道の訓練なんてことは思いつかず、ただ、ロキス神に祈りをささげるよう、勧めました」
目の前に置かれた水晶の中に何かがあるかのようにオルビアは見つめる。
ロキス神は、この国で崇められている六貴神のひとりで、この地域では特に信仰の厚い神である。破壊と創造、炎と水を司る神だ。
「あの大火事のあとの神殿の焼け跡で、あの子は『知恵の塔』に拾われたのです。それ以上のことは私にはわかりません」
オルビアは激しく震えはじめた。辛い記憶がよみがえってきたのであろう。
ラウルたちは、彼女の震えが止まるのをじっと待った。
「あの火事は、不思議な火事でした。突然、火の粉が舞い始めたかと思うと、大きな竜が現れて柱を食い破り始めました。竜の体から、灼熱の炎が立ち上り、ありとあらゆるものが火に包まれました。そして、たくさんのひとが炎に巻かれました」
彼女は言い終えると、耳を塞ぐような仕草をした。まるで人々の悲鳴が聞こえてくるかのようだった。
「何故、あなたは助かったの?」
優しくアリスティアが続きを促した。
「わかりません。耳元で誰かの囁くような声が火の渦の中から、私を外へと導いてくれました。その声はよく知っているようでもあり、知らない人のようでもありました。外に出ると、店は火に包まれ、竜はのたうつように建物を焼きながら飛んでいました。みなが炎から逃げようと走り、叫んでいました。私は井戸のそばにたどり着いたところで、意識を失ってしまい、気がついたときは全てが燃え尽きていました」
オルビアは、顔を伏せたままだった。巻き戻した時が元に戻るまで待つかのように、沈黙が流れる。
「申し訳ありませんでした。辛いことを想い出させてしまって」
重苦しい空気の中で、静かにラウルは謝罪する。
彼女は小さく首を振った。
「お役に立つのであれば構いません」
オルビアは水晶球を手で触れる。心なしか、ざわりと空気が動いたような感触がした。
「なんだか嫌な感触があります」
ラウルには、見えない何かを水晶球の中に見ているようだった。
「あの子のことが全く見えません。暗い暗雲がたちこめて、全てがもやのよううです。何もわかりませんが不吉です」
オリビアは大きく息を吐いた。
「どうか、あの子を助けてあげてください。私の感じている不安がすべて杞憂であればいいと、祈らずにはいられません」
「まだ、何が起こっているかわからないけど、全力を尽くしてみるわ」
アリスティアは力強く頷いて見せる。
「神殿に行ってみましょう」
ラウルとアリスティアは、ふたたび雨の路地を歩き始めた。
混みあった街の一角に、少し大きめの敷地を持つ神殿がある。建物自体はそれほど大きくはない。破壊と創造の神ロキスを奉るその神殿は、十年前に再建されたものだ。
石造りの神殿が多い中、ロキスは木造の神殿である。破壊と創造を繰り返すその神の神気を取り込むために、およそ五十年の間隔で立て替えられているからだ。ラウルたち大工にとって、『創造』を意味するこの神は重要な神の一人である。特に、この再建された神殿はラウルの亡き父が中心になって建設したものだ。ラウルにとっては信仰以上に、想い入れの深い建物である。
「メイサさんは、大火と関係があるのでしょうか?」
降り止まぬ雨に濡れながら、ラウルは神殿を見上げた。
「わからないわ」
アリスティアは呟くように答えた。
「姫様」
「アリスでいいわ」
「アリスさま。メイサさんはどんな人なのですか?」
ラウルの中で描き出される女性は、あまりにも憐れな女性だ。
「気の強い子よ。いつも強気で、しかも才能にあふれていたわ」
神殿の門を静かにくぐりながら、アリスティアは答える。
「正直言うと、私、彼女に嫌われていたの」
ラウルは驚く。当たり前のように友達だと思っていた。
「私を露骨に、あそこまで嫌悪するひとなんて、どこにもいなかったわ。みんな『公爵の娘』に気に入られたくて、私を好きなフリをしていたから」
アリスティアの顔に自嘲めいた笑いが浮かんでいた。
「変な話だけど、だから私はあの子が好きだった」
彼女は間違っている。と、ラウルはアリスティアを見ながら思った。
彼女が公爵の娘でなくても、男であれば、彼女に好かれたいと思うはずだ。現に絶対に届くはずのない宝玉とわかっていてさえ、ラウルの胸は騒いでいる。
「一度、二人で共同研究をしたことがあるの。仲良くはなれなかったけれど、あんなに頼れるパートナーはいなかったわ」
アリスティアは神殿の扉を開き、フードに溜まった水気を軽く手で払うようにして、中に入った。
天井の高い広いホールだ。
板張りの床には、緋色の絨毯が扉から祭壇まで延びている。既に夕刻を過ぎているため、信者はおろか神官の姿さえみえない。ホールは、たくさんの燭台にともされた灯りで照らし出され、祭壇の奥には、逞しいロキス神の木彫りの神像が奉られていた。右腕に、水竜、左腕に火竜を絡ませ、破壊と創造を意味する大きな斧を構えている。表情は静かで知性を感じさせた。やや煤けた色をしているのは、大火の名残だ。
あの時、神殿そのものはほとんど焼けてしまったが、この神像はほぼ無傷であった。そのことに人々は恐れ、おののいた。火事はロキス神の怒りではないかとも言われた。全てに先駆けて再建されたのは、一刻も早く神を鎮めるためだった。
「神官長にお話を聞きましょう」
アリスティアは、神官の私室につながる扉をノックする。
ほどなく足音がして、白髪交じりの老神官が顔を出した。
「あの、お話をお聞きしたくて」
言いかけたアリスティアを制して、ラウルは久しぶりです、と挨拶をした。
「ええっと。ノルグさんの息子さんの?」
「ラウルです。ご無沙汰しております。クラウド様」
クラウドは懐かしそうに目を細め、二人を部屋に招き入れる。
飾り気のない古ぼけた椅子、使い込まれたテーブル。清貧という言葉がふさわしい部屋であった。
「知り合いだったの?」
「はい。この神殿を再建したのは父だったものですから」
びっくりしたように見つめるアリスティアに、なんとなく決まり悪げにラウルは説明をした。
「クラウド様、こちらは」
「レキサス公の娘、アリスティアです」
アリスティアは優雅に頭を下げる。
「なんと、お姫様でいらっしゃいましたか」
クラウドは目を向くように驚いて、あわてて礼を返した。
「それにしても、不思議な組み合わせですね。どうぞ、おかけになってください。何もおもてなしはできませんが」
「お構いなく。私たち、お話をお伺いしたかったの」
勧められた椅子に腰掛けながら、アリスティアは微笑した。
「さて。私でお役に立てればよろしいのですが」
水差しから水を注ぎいれ、クラウドは二人に勧めた。
「十年前の大火のことなんですけど」
アリスティアと軽く目配せすると、ラウルは口を開いた。
「火事の当日、ここに一人の女の子が来たと聞いているのですが、そのことでお伺いしたいのです」
クラウドの優しい笑みを浮かべた目が、厳しくなった。
「何故、そのような昔のことをお知りになりたいのですか?」
「導き手でいらっしゃるラバナス様が亡くなったのは、ご存知ですわね?」
アリスティアが静かに口を開くと、クラウドは無言で頷いた。
「その死に、少女が関わっている可能性があるのです」
「まさか……」
「信じられないのは私も同じです。だからこそ、彼女のことを教えていただけませんか」
身を乗り出さんばかりのアリスティアとは対照的に、クラウドの顔に深い皺が刻まれたようにラウルには思えた。
「毎日のように、神に祈りを捧げに来る少女がいました。そう、あの日もひとりで、彼女は祈っていたのです」
言葉を選びながら、重々しくクラウドは語り始めた。
「火事が起きたと知らせが聞こえたとき、私はあわててホールに駆け込みました。場合によっては、ご神体を担いで避難しようと思ったからです」
小さく息をつぎ、思い出すように瞼を閉じた。
「私が見たのは、床に倒れ、炎に包まれて、なお燃えない少女の姿でした」
クラウドの声が畏怖に震える。
「紛れもなく、ロキスの巫女でした。ロキス神は、真摯に祈る少女に火竜の力を与えていたのです。その証拠に、神像の腕に、火竜の姿はありませんでした」
「嘘、でしょ?」
信じられない、というようにアリスティアは首を振った。
「だって、彼女は炎系の魔法はいっさい使えなかったのよ? それが原因で、誰よりも優秀な魔導師でありながら、宮廷魔導師になるのを反対されていて。ずっとそのことで、悩んでいたのに」
哀しそうに、クラウドは目を伏せた。
「魔の乱れを感じとって、ほどなくラバナス様が駆けつけてくださいました。私が火竜を鎮める間に、ラバナス様は、封じの技を使い、彼女と火竜を切り離したのです」
炎系の魔法の源は、ロキス神の火竜に発するものだ。封じの技は、魔との接触を遮断するためのものであり、それを施されたのであれば、炎の魔法は使えない。
「ラバナス様は、彼女を『知恵の塔』で教育すると言って、連れて行きました。そして、大火の原因は私とラバナス様だけの秘密にしようと決めました。彼女は火竜を呼んだことなど理解してはいません。もちろん罪は罪です。しかし裁くにはあまりにも憐れでした」
沈黙が流れた。あまりにも話が突拍子もないようにラウルは感じる。
「では、この話は今日までメイサさんご本人にもされていないのですか?」
「はい。でも、一度だけ、どうしてもと言われ、ある方にはお話いたしました」
ゆっくりと、クラウドは深呼吸をした。
「その方は、彼女、メイサさんの才能を高く買っておられ、宮廷魔道師にしたいとおっしゃってました。そのため、どうして炎魔法が使えないのかをお知りになりたいと、熱心に聞かれました。私は迷いました。しかし、彼女がその力を認められ、幸せになれるならお話すべきだと思い、他言はしないことを約束してお話しました」
「それは、どなたですか?」
「イルクート侯爵です。あの方はロキス神の熱心な信者でいらっしゃいます。信頼に足るお方です」
クラウドは不安げに首を傾げた。
「まさか、そのこととラバナス様のことと何か関係があるのでしょうか?」
「わかりません」
アリスティアは答えて、クラウドに礼を言った。
そして、戸惑ったままのクラウドに微笑する。ラウルはアリスティアに連れられて、神殿を出た。
既に夜の帳が降りており、お互いの表情はよく見えない。
ラウルにはアリスティアが泣いているように感じられた。
降り続く小雨のせいだろうか。二人はラレーヌ地区の子馬亭の近くまで無言で歩く。濡れた石畳が店や民家の灯りに反射して、鈍く光っていた。
「聞いた噂の中にね、メイサに、秘密の恋人がいた、って話があったの」
ぽつり、と、アリスティアは呟いた。
「誰も、誰が相手か知らないんだけど、あの子が宮廷魔道師になりたいって思ったのはそのせいじゃないか、なんて言われててね。私、ぴんと来なかったんだけど、相手がイルクートだとしたら分かるわ」
「どういうことですか?」
「イルクートは、侯爵なの。名門中の名門よ。普通に考えたら、メイサは愛妾だって難しい。でも、宮廷魔道師なら、堂々と妻になれるわ」
娼婦の娘で、孤児だった彼女には、遠い存在の男。その恋を叶えるために、出世を願ったということは考えられることだ。
「でも、それと、ラバナス様の事件はどう関係があるのですか?」
「ラバナス様は焼死だったの。火の魔法で」
アリスティアは淡々と口にする。
「状況証拠は、全てメイサを指している。それでも、犯人と確定できなかったのは、彼女が火の魔法をまったく使えなかったから」
つまり。それが覆ったということだ。
「でも、封じられているのですよね?」
「そうね、もう少し調べてみないと結論は出せないけど」
もう一度、気を取り直すようにアリスティアは頷く。闇の中に、銀の髪が映える。彼女を美しいと感じるほど、ラウルの胸に寂しさがいっぱいになった。
「なんにしても、彼女がエレクーンにいる可能性はなくなったのではありませんか?」
ラウルは、慎重に口を開いた。勇気が必要な言葉だった。
「辛い想い出しかない、そして知り合いもいない、エレクーンに、彼女が潜むとは到底思えない」
エレクーンは彼女にとっては、忌むべき場所だ。そんなところに戻ってくるはずがない。
「もう、お手伝いできることはありませんね」
興味がないといえば嘘になる。アリスティアの力になりたいとも思う。しかしラウルは騎士でも憲兵でもない。ただの大工なのだ。これ以上、何が出来るだろう。
「待って。地図を描いてってお願いしたのは、メイサの事と関係ないわ」
アリスティアは、慌てたようにラウルの袖を引いた。
「地図は、憲兵隊で測量したほうがいいでしょう。メイサさんが関係ないとしたら、尚更、『知恵の塔』も否とは言わないはずです」
闇の中でも彼女の深い藍色の瞳が自分を見つめているのを感じて、ラウルの心は揺れた。しかし、それゆえに決別の決意は固くなった。
「オルヴィズ様に」
ラウルは、そっと彼女の手を振りほどく。
「あなたの大切な方が胸を病んで亡くなったとお聞きました。そのことで、同情してくださっているのはわかります。でも憐れみはいりません」
夜の闇が、お互いの表情を隠していた。
「ごめんなさい。そんなつもりは」
彼女を責めるつもりも傷つけるつもりもなかった。それでも、ラウルは己の矜持を守りたかった。
「失礼します。無事、真実にたどり着くことがかないますようにお祈りいたします。」
ラウルは振り返らなかった。
二人の間に、暗くて冷たい夜の雨が降り続いていた。
「ひどい雨漏りですね」
ラウルは顔をしかめた。
「これは手間がかかるかもしれません」
ほとんど廃屋といっていい物件だ。天井から大粒のしずくが降ってくる。いくら外が大雨だからとしても、ひどいとしか言えなかった。
「なんとかなりますでしょうか?」
心配そうに、男が尋ねる。
「費用はかかると思いますよ」
慎重にラウルは答えた。
あれから二日。意地を張ってアリスティアからの仕事を突っぱねたものの、この季節、そうそう仕事にありつけるものではなかった。頼み込んで大工の職人ギルドから、この建物の状態調査の仕事をやっともらったものの、手間賃は僅かだ。それでも仕事があるだけありがたい。
「ここも一部が腐っています。このあたりは張り替えたほうが良さそうですね」
床には、水溜りができていた。蝶番が外れた窓から、激しい雨が振り込んでいる。彼はこの古い廃屋を改装してパン屋にしたいという。改装は、雨の季節が終わると同時に始めたいらしい。ようやく暖簾分けを許された男がやっとみつけた場所だが、優良とは言いがたい。
しかし、帝都エリンの東の外れに位置したこの場所は、清流ニギリ川がすぐそばを流れて非常に美しい場所だ。彼がここに決めた気持ちもよくわかる。
「外側の方も確認してみましょう」
ラウルはフードを被り、外へ出た。激しい雨の音とともに、清流で名高い川も濁流となっていた。少し谷になっているため、いつもなら人ひとり下の位置にあるはずの水面が、とても近い。
「すごい雨ですね」
男は叫ぶように言った。水音が激しく、会話は不可能に近かった。
外壁も傷んでいたが、修繕できないほどではなかった。あとは、屋根の状態を確認することであったが、この大雨の中、屋根に上るのは気が進まなかった。
「屋根の状態は、また日を改めて確認するほうがいいかもしれません」
ラウルは叫ぶ。フードから滝のように雨粒が流れ落ちてくる。依頼人である男も異論はないようで、慌てて廃屋の方へ戻っていった。
足元を雨水が地面を波打つように流れていく。さすがにこれだけの雨になると、オルヴィズからもらったマントでも水がしみこんできて冷たかった。
ーーああ、そういえばマントを返していなかった。
ラウルはマントの上を滑り落ちていく水滴を見ながら思った。返さなくていい、と彼は言ったが、たぶんそれは仕事の報酬の一部としてだ。理由はどうであれ、頼まれた仕事を途中で放棄したことに間違いはない。
ーーメイサさんは、見つかったのだろうか。
激しい雨の向こうに、まだ見たこともない不幸な生い立ちを持つ女の姿を思い描く。気の強い子だ、とアリスティアは言った。どん底から始まった人生を、必死で立て直そうとしていたのであろう。身分違いの恋に身を焦がし、そのためにさらなる高みをめざしていた姿は、烈火のような激しさを感じる。
ーーまさに、ロキスの巫女だ。
ロキスはひとの真摯な姿を愛するという。その想いの善悪より、迷いのない純粋さと激しさを好む。それゆれに、破壊と創造の神なのだ。
「どうかしました?」
不意に、ラウルは自分を呼ぶ声に気がついた。廃屋の軒先で、男が待っている。依頼人を待たせていたことを思い出し、あわててそちらへ駆け出そうとしたとき、川の水面に目に入った。荒れ狂う川の流れの水面が、明らかに高くなってきている。
ーーまさか?
空は黒く、途絶えることもなく、滝のような雨が降り続いている。大地に降り注いだ雨は、すでにしみ込むことができずに土の上を滑るように流れていくばかりだ。
「川が決壊するかもしれません!」
大声でラウルは叫ぶ。そして、すでにぬれている顔を手で洗うようにぬぐった。
「人を集めてください! 僕は憲兵に知らせます!」
男が頷くのを確認し、ラウルは駆け出した。
走るたびに、足元の水が飛びはねたが、まったく気にならなかった。ただ、ごうごうと流れる川の音だけが耳元で鳴り続けていた。
「ラウルと言います。オルヴィズさんに会わせてください」
憲兵隊の詰め所に駆け込むなり、ラウルは頼み込んだ。
すぐに、隊長であるオルヴィズにつないでもらえたのは、ラウルの形相が普通でなかったからであろう。
「河川が氾濫?」
「はい」
ラウルは川の様子を話す。時間がない。
「なるほど。この雨だ。ありうるな。手を打った方が良さそうだ」
オルヴィズは窓の外を見ながら、頷く。
「それと、これは俺の勝手な考えなのですが」
ラウルが自分の考えを話し始めると、オルヴィズの顔は、どんどん厳しくなっていった。部下を呼び、細かく指示を与える。
「ついてこい」
「はい」
二人は、雨具をつけて外へ飛び出した。
オルヴィズは、どこへ行くのかは、告げなかったが、行き先はなんとなくわかった。
憲兵隊の束ねである、レニキス公の屋敷だ。
仕事ですら入ったことのない、大きな屋敷である。
「アリス様に」
オルヴィズが執事と話している間、ラウルは空を見上げた。
雨粒が目に入り、周りが良く見えないくらいだ。雨は止まない。
「中に入れ。少し待とう」
オルヴィズに促され、玄関ホールに入る。
外が暗いため、まだ昼間だというのに、薄暗い。堅牢な建物の中に入ったのにもかかわらず、激しい雨音が響いていた。
髪の毛から滴る雨水が汗といっしょに背中を流れていく。
先ほど、執事が迷惑そうに、自分を見たのは無理のないことだと、ラウルは思った。磨かれた美しいタイルには、泥まみれの靴の足跡がつき、雨水だか汗だかわからない液体の水溜りが出来ている。
「ラウル」
執事と共にやってきた、アリスティアは、白のドレスを着ていた。
ーーやっぱりお姫さまだ。
つい場違いな感想を抱く。本当に遠い人間なのだな、と思う。
「アリス様。ラウルの考えが正しければたいへんなことになります」
「この雨は、メイサさんが降らせているのではありませんか?」
単刀直入にラウルは口を開いた。時間が惜しい。
「どういう意味?」
アリスティアが首を傾げる。
「メイサさんがロキスの巫女なら、水竜だって呼ぶことが出来るんじゃありませんか」
ラウル自身、荒唐無稽なことを言っていると思う。魔道の知識など、皆無に近い。それでも、確信のようなものがあった。
「まさか、そんなこと」
「どちらにせよ、既に、エリンの南東の地域は下水があふれて浸水がはじまっています。雨がこのまま降り続ければ、深刻な水害になるでしょう」
オルヴィズが険しい顔で補足する。ここに来る前に、早急な調査と対策を指示してきたとはいえ、一時も速く現場に行かなければならないという、焦りがみえる。
「この雨が、自然のものにしろ魔道的なものにしろ、早急に手を打たなければなりません。そして、魔道的なものならば、止めることを考えなければ」
ニギリ川やルーゼ湖が決壊すれば、帝都エリン全体が水没する可能性だってある。否。エリンだけではない。川下の町や村にも被害が出るであろう。そうなれば、冗談でなく帝国全体の危機だ。
「……可能性は、あるかもしれない」
暗い瞳で、アリスティアは呟く。
「生命を捨てる覚悟なら、私でも竜は呼べる。もっとも、意のままに操ることは難しいけど」
「では?」
「問題は、場所ね。竜の気の多いところ、できればロキスの神域がいい。でも、エリン市内の神殿ではないわ。偶然ならともかく、儀式として行なうなら、人目は少ないほうがいいし、結界があるから広範囲に竜を飛ばすことは不可能よ。それにしても、もしそれが本当なら、考えたわね。火竜より、水竜は破壊力は少ないけど、竜が呼ぶ雨は、広範囲で雲が勝手に降らし続ける。しかも、雨に対して結界は全くなんの役にも立たない」
帝都エリンは、魔防都市だ。この地域は魔の活動が昔から活発で、この地の歴史はそのまま魔との戦いの歴史であるといっていい。
しかし、雨や水害に対して、結界は何の意味もない。水害は、水竜の関与の有無にかかわらずおこるもので、それを防ぐのは「魔道」ではなく、土木技術だ。その点に関して、帝都エリンは他の都市となんら変わるところはない。
「心当たりがあります」
ラウルは慎重に口を開いた。
「ルーゼ湖の北岸に、洞窟に古い神殿があります。帝国建国以前から崇められている場所です。今は、我ら大工と、湖の漁師やきこりたちくらいしか訪れない、神官もいない神殿ですが」
その神殿は、天然の洞穴の奥に、六貴神の中でも、古いとされている三柱が奉られている。帝都建設の祈願をこめて、帝国の始祖ラクラスが作ったと伝えられており、大工たちは今でも初めて大工道具を手にしたときは、一度そこに奉納してから使うのが慣わしであった。周囲は森になっており、湧水地も近い。人知れず、事を成すのにはもってこいの場所だ。しかも訪れたことのないものには、わかりにくい場所にある。
「ラクラスの洞穴ね。ずいぶん森の中にあると聞いたけど、案内はできる?」
「できます。半日はかかると思いますが」
ラウルは頷く。雨天で、道は険しくなることが予想されたが、知っていれば行けない場所ではない。
アリスティアは思案をまとめるように顎に手を当て、数秒沈黙した。
「オルヴィズ、父上に報告は?」
「部下に河川の状況の報告を入れさせるように指示はしました」
「では、今の話は、父上にはまだしていないのね」
確認するように、アリスティアが問うと、オルヴィズは頷いた。
「父上には、私から話すわ。急がなければいけないけど、少し時間がかかる。オルヴィズは、神殿に行くための装備を三人分ほど用意して。それから、ラウル、あなたは着替えたほうがいいわね。いくら雨の中を行くにしても、それでは行く前から体力を消耗してしまうわ。オルヴィズ、お願い」
アリスティアの顔が厳しく引き締まる。その表情は、高い知性と高貴な美しさが漂い、ラウルは思わず目を伏せた。
「一時間したら、ここに来て。場合によっては少し待たせるかもしれないけど」
「わかりました」
頷いたオルヴィズに連れられ、ラウルは屋敷を出る。
雨脚は、一向に弱まる気配はなかった。
降りやまぬ豪雨が、見る間に湖の水位を上げていくかのように見える。ルーゼ湖の湖水は、暗い色をしており、雨が激しい水紋を描いている。
そんな中を、一艘の小さな舟が三人を乗せて北へ進む。飛び込んでくる雨水のために、目を細めながら、ラウルとオルヴィズは必死で櫓を漕いだ。
「止みそうにない」
空を見上げながら、オルヴィズが叫ぶ。雨音が激しく、会話をするのも困難なほどである。ラウルとオルヴィズは憲兵隊から支給された若草色のマント、アリスティアは相変わらず青みのかかった魔道師のマントを身に纏い、雨をしのいでいた。雨水に濡れることはないが、大粒の雨は身体をじんわりと冷やし、少しずつ体力を奪っていく。
二人の男が懸命に舟を進める中、アリスティアはひとり、手に何かを握り締めながら、小さな声で言葉を唱え続けている。激しく叩くように降る雨も、彼女の集中を妨げることはないようだった。
「赤い屋根が見えてきました。船着場はすぐそこです」
土砂降りの雨に遮られ、視界は悪かったが、船着場のそばにある小さな小屋の赤い屋根がぼんやりと見えてきた。船着場は、既に水に洗われ始めており、舟をつなぐ杭だけが、水面から突き出ていた。
「岸に引き上げておいたほうが良さそうだ」
三人はひざ下を濡らしながら、舟を降り、湖岸に舟を引き上げ、立ち木にロープを結んだ。舟底に見る間に雨水が溜まっていく。轟々と降り続く雨は、対岸よりさらに強くなっているように感じられる。
「こちらです」
ラウルは、森の中に伸びてゆく、緩やかな上り坂を示した。
道は小さな川のようになっていた。水位こそ、くるぶしほどだが、かなりの水流で湖へと流れ込んでいく。小石の多い足元は、かなり滑りやすく、道の判別もつきにくい状態になっていた。
「足元、滑ります。気をつけてください」
ラウルは、慎重に周りを見渡した。何度も来た場所なのに、まるで別の場所のような錯覚を受ける。
「これは酷いな」
オルヴィズの提案で三人はお互いをロープで結び、アリスティアをはさむようにして、一列に並んだ。
先頭に立つラウルは、拾い上げた木の棒で体を支えるようにして、慎重に歩みを進める。降り続ける雨が、木々の葉をたたく音と、地表を流れる水音で、何も聞こえない。平坦でないその道は、ほんの少し雨水の流れが速くなると、とたんに、歩くのが困難になる。流れの激しさを受け止めるラウルを、他の二人が後ろから支えながら、亀のような速度で歩く。
やがて、日が落ちてくると、既に暗かった森の中は、あっというまに闇に呑まれてしまった。
「あと、どれくらいかしら」
ランタンに灯りを入れるために立ち止まると、アリスティアが訊いた。女性の身でこの道のりはかなり辛かったと思われるが、彼女はそんなそぶりを見せようとはしない。ただ、声にいつもの張りはなく、どことなく疲れを感じさせた。
「もうこの丘を登りきれば、すぐです」
闇の中でぼんやりと丘の頂点が遠くに見える。あと一息、と思うには、まだまだ遠いが、ウンザリするほどではない。ラウルは、無理に笑顔を作ってみせた。
「いつもなら、ひとっ走りって距離ですよ」
疲労は極限に達しようとしていた。強い雨に叩かれ続け、体は冷えきっており、悪路を進むために必要以上の体力を要している。天を仰いでも雲は厚く、雨のやむ気配は全くなかった。
「竜だわ」
静かにアリスティアが天の一点を指差した。
暗闇の中を青白い光を放ちながら、舞うように飛ぶものがそこに存在していた。それが体をひねるたびに、雲は黒く引き寄せられ、大粒の雨を落としていく。
「あれが……竜」
ラウルにとって、初めて見るものであった。
それは、災いをもたらしているにもかかわらず、禍々しさは感じられなかった。むしろ、青白く発光するその銀色の肢体は神々しさに満ちている。
魔のことわりに生きるものであり、そして、神の御使いでもあるそれは、歓喜に踊っているかのように、天を舞っていた。
「間違いないわね。メイサよ。どういう方法を使ったかはわからないけれど、あの竜を呼んだのよ」
アリスティアの言葉を聞きながら、ラウルは魅入られたように竜を見つめた。
ロキス神が善でも悪でもないように。竜もまた、どちらでもないのだ。
人知を超えた力を持って、そこに存在しているだけで。吉事も凶事も、あくまでひとの心の形から生まれるのだと思えた。
三人は再び、悪路を進み始めた。小さなランタンの灯火に照らし出され、大地を這うように流れる水が鈍く反射する。
永遠とも思える闇の中を進み、丘の上に近づくと、視界の先に小さな明かりを認めて、ラウルは歩みを止めた。
「神殿の入り口に、誰かいるようです」
三人は、持っていた灯火を消した。息を潜めるように、慎重に明かりのほうへ向かうと、洞穴の入り口に、篝火が焚かれていた。
目に見える位置に、二人の兵士の姿が確認できる。そして、もっと多くの人間の気配が感じられた。
「どうします? 他に出入り口はありません」
ラウルは、木の陰に身を隠しながら、振り返った。
「中に入れば、分かれ道も多く、身を隠すこともできますが」
天然窟を使用しているだけに、使われていない場所も多い。何人の兵が詰めているかわからないが、洞窟の全てを埋め尽くしているとは思えなかった。
「時間がない。突入するしかあるまい。怪我をせぬように、タイミングを見計らって、二人は走ってください」
オルヴィズはそういうと、背負っていた荷物をラウルに渡した。
「アリス様、場合によっては援護をお願いします」
「わかったわ」
闇に身を潜めながら、オルヴィズがゆっくりと篝火に向かって進むのにあわせ、ラウルとアリスティアは間をあけながら、後を追った。
世の中に、神業とも言うべき体術が存在することを、ラウルは初めて目にした。
木陰を飛び出して、すぐに間合いを詰めたオルヴィズは相手が声を出す暇を与えなかった。ひとりの腹に一発入れると、次の瞬間にはもうひとりの首の後ろに手刀を入れ、繰り出された別の刃をひらりとかわして肘鉄をいれる。
「一対一なら、この国でオルヴィズに勝てる人間は数人しかいないわ」
アリスティアはにこりと笑った。
「行きましょう」
雨の中を、全速で二人は走った。
洞窟の前にたどり着いたころには、勝負はついていた。既に、四人の男が地べたに転がっている。
「とりあえず、片付けましたが、これだけではないでしょうね」
僅かに息を弾ませながら、オルヴィズは、素早く倒れている男たちを縛り上げた。
「この人たち、どうするのですか?」
ラウルは男たちに猿轡を噛ませながら、聞いた。
「大切な証人だ。殺しはしないが、逃がすわけにはいかない 暫くここで寝ていてもらう」
男たちをその場に転がしたまま、オルヴィズは先へ行こう、と言った。
「この先は、どんな風になっているの?」
洞窟の中は、しん、と静まり返って、水の流れる音だけが聞こえてくる。
「少し行くと、下り坂になっていて、滝があります。大きなホールのようになっているんですが、そこを抜けると、神殿のある大広間に出ます」
滝までは道が狭く、ひとが二人並んで歩けるかどうかという感じだが、そこから先はかなり道幅が広くなる。ところどころに、小さなわき道はあるものの、基本的には袋小路で抜け道には使えない。父に連れられて何度もここには来て、そこらじゅうを探検したが、この洞窟は基本的に一本道だ。
唯一、滝のそばのホールには、人の視線より一段高い位置に、別の道が通っており、神殿へのショートカットコースになっているが、ホールのそばで視線は完全に通るため、滝のそばにひとがいれば、発見されることは間違いなかった。
「ホールに、見張りがいたら、私が引き受けます。通路側で迎え撃てば、一人で何とかなると思います」
暗い洞窟である。狭い位置で迎え撃てば、弓矢が飛んでくることもない。先ほどの神業的な体術を見たあとであるから、オルヴィズが大口を叩いているわけではないことがわかっている。
「いざとなったら、これでアリス様を守ってくれ」
使い方など知らない、というラウルの手に無理やり、オルヴィズは短剣を握らせた。確かに、オルヴィズがおとりになるのなら、アリスティアを守れるのはラウルだけだ。ラウルは託された責任の重さで、手に汗が滲む気がした。
三人は、声をひそめ、足音を忍ばせながら、ランタンの明かりを頼りに洞窟を進んでいった。足元が、わずかに濡れて滑る。
ゆるゆるとした下り坂を下り始めたとき、下方から灯りがもれているのが見えた。
流れ落ちる水音とともに、ひそひそと人の話し声が流れてくる。鎧が立てる小さな音も含めて、人の気配がしていた。
ラウルは人の頭の位置より高い位置にある、横穴を指差した。おとながひとり、やっと進めるくらいの小さな穴だ。
息を潜めながら、ラウルは岩壁を這うように登る。下から鈍く照らすランタンの光だけが頼りだけに、ほとんど手探りの登攀で、しかも息を潜めるように進まなければならない。身の軽いラウルでも、困難を極めた。ようやく横穴にたどり着くと、ラウルはロープを自分の体に巻きつけ、下に垂らし、アリスティアを引き上げた。
最後に、オルヴィズがランタンから松明に火を移してから、ランタンを引き上げた。
オルヴィズが松明を片手に、降りていくのを確認し、ふたりはゆっくりと横穴を進む。
暗闇の中から、人を誰何する声と、剣げきの音が響き渡る。その音を聞きながら狭い道を行くと、広い空間に出た。ひと一人がやっと通れるその通路は、まるでキャット・ウォークのように、ホールの周囲を一段高い位置を巡るように通り、奥へと続いていた。
眼下には篝火に照らし出された滝つぼのそばに、十人ばかりの人間が見え、奥のほうに獅子奮迅と戦うオルヴィズの姿が見えた。
ことさら派手に立ち回る彼のおかげで、頭上のラウルたちに気がついた者はいない。二人は、足音をしのばせながら、ひといきに狭いその道を通り抜けた。そして腰をかがめなければ進めないような道に入った。剣戟の音と水音が遠くなるにつれ、朗々たる女性の呪文を唱える声と、強い香のかおりが流れてきた。
「思ったとおりだわ。メイサよ。彼女は巫女としてじゃなく、魔道師として、水竜を召喚して、操っている」
巫女として竜に願っているのなら、呪文は不要である。封じられた力を取り戻した今、魔道師としてのメイサの力は竜を御すまで高まっているのだ。
「これを」
アリスティアから、小さな袋を渡された。船に乗っている間、ずっと彼女が握り締めていたものだと気がつく。重みは感じられない。
「中に、私の髪の毛が入っているわ。それを、ロキス神像の右腕に巻きつけて欲しいの」
「髪の毛、ですか?」
袋を開いてみると、長い銀色の髪の束が入っている。フードを被っていたせいで気がつかなかったが、アリスティアの肩よりも長かった髪の毛はぐんと短くなっている。
「メイサと竜との交信を妨害するの。本当なら正式な魔道具を使うんだけど」
前方に光が差し込み始め、二人は灯りを消すと身を隠すように前進した。
光の先は広い空間になっていた。
他の場所とは違い、人の手が加えられている。
出口の一段低い場所にある床は、もともとあった岩盤を使用してはいるものの、しっかり磨きぬかれていた。ほぼ円形の部屋の壁面にはぐるりと燭台がおかれ、幻想的に周りを照らし出している。
そして黒々とした岩肌に、六貴神の中でも、古くからの信仰を持つ、ロキス、大地の神リーズ、森の神レターニャの神像が大きく浮き上がるように彫られていた。
ロキスの神像の祭壇の前に、床に魔方陣が描かれており、その上で女性が呪文を唱え続けている。
祭壇に焚かれた香の甘い香りが漂う。見たところ、女性一人だけのようだ。
「危ないっ!」
ラウルは、アリスティアに引っ張られ床に転がった。同時に、先ほどまで立っていた場所に、小さな火球が破裂する。
「いきなりのご挨拶ね、メイサ」
いつの間にか女の呪文が止んでいた。長いこげ茶色の癖のある髪。美人といえなくもないが、鋭すぎる眼光。まさしく、烈火のような激しい気性を感じさせる。
「あなたが来るとは思わなかったわ。アリスティア姫」
メイサは唇にだけ笑みを浮かべる。
「私が来る意味はわかっているでしょ? 投降しなさい」
「あなたのそういう甘いトコ、嫌いじゃないわ」
ふわりと、メイサの手のひらが返ると同時に、青白い人の大きさほどもある蛇が出現した。
「ルーネよ! 水竜の眷属の中では下っ端だけど、毒があるわ」
アリスティアを抱え、ラウルは後方へ跳ぶ。間一髪、一撃を避けた。
ルーネは、鎌首をもたげ、悔しげに赤い舌を見せる。
ラウルは、オルヴィズから渡された短剣を構えた。剣の使い方など知らないが、やるしかない。
蛇の眸に自分が映っているのを感じながら、息をするのも忘れるにらみ合いが続く。
そのラウルの後方で、アリスティアが呪文の詠唱を始めた。
「斬ッ!」
叫び声とともに衝撃波がルーネの鎌首を切り裂いた。傷は小さかったが、張りつめたものが揺らいだ。その一瞬を見逃さず、ラウルは床を蹴って、ルーネの頭に短剣をつきたてる。
蒼い鮮血が飛び散った。ルーネは断末魔の声を上げ床に崩れる。
「やるわね。でも、邪魔はさせない」
メイサは、悔しそうに顔を歪め、再び呪文を唱えた。
メイサと、アリスティアの声が重なり、ラウルの目の前で、ふたつの火球がぶつかって消滅する。
「ラウル、神像を!」
「わかりました!」
アリスティアとメイサが、同時に長い詠唱に入る。ふたりの口から発せられる言葉で、大気が大きく歪んでいくのが感じられた。小さな火柱がアリスティアの前で弾けている。どちらが優勢なのかはわからない。
ラウルは、ねっとりと重い空気の中を泳ぐように進んだ。メイサに直接飛び掛った方が早いのではないかとも思ったが、アリスティアを信じて、祭壇へとたどり着く。
祭壇のそばは、酔うほどに甘い香りが漂っていた。見上げたロキス神の右腕には、本来あるはずの竜の姿が消えている。神像は、ラウルの十倍くらいの大きさがあり、下からでは右腕をどうこうすることは不可能だ。
ラウルは思い切って、神像をよじ登る。磨き上げられた神像はつるつると滑り、神への畏怖もあって、足をかけるのは難儀であったが、ようやく右腕にたどり着くと、渡された銀色の髪の毛を巻きつけるように縛り付けた。
「アリス様っ!」
ラウルは大声で叫ぶ。
「竜よ!」
アリスティアが手を広げた。とたん、神殿は轟音に包まれる。
神殿内に、洪水が起こったように水があふれ、大きな「力」が渦を巻く。外よりも激しい雨がラウルの体を撃った。滑り落ちそうになる体を支えながら、巻きつけた髪の毛が目を焼くほどの光を放っていた。
やがて。
静寂が訪れた。雨はやみ、暗闇が辺りを包む。
静かにアリスティアが呪文を唱える声がして、部屋全体が明るくなった。
「大丈夫?」
びしょぬれのアリスティアが心配げにラウルを見上げていた。
「なんとか。アリス様は?」
「生きているわ」
アリスティアは僅かに微笑する。
ラウルは、ゆっくりと神像から降りた。見上げると、銀の髪の毛のあった場所に、竜の姿が戻ってきている。結んだはずの髪の毛はどこにもなかった。
「メイサ、しっかりして」
床に描かれていた魔方陣は水に洗われてしまったかのように、消えていた。濡れた床に、青い顔の女性が横たわっている。
アリスティアはメイサの濡れた頬を手で拭った。
「完全に、負けたわ」
弱々しい声で、メイサは微笑する。
「どうして、こんなことを?」
「イルクートさまの、お役に立ちたかったの」
夢を見るように、小さな声でメイサは言った。先ほどまでの激しすぎる眼光は消え、静かでおだやかな眸をしていた。
「あなた、あの男の野心に利用されたのよ」
「そんなの知っているわ」
メイサの顔は柔らかく、満足そうだ。
「私が勝手にあのひとを愛したの。あのひとから、封印の技の話を聞いた時から、諦めることはできなくなった。ラバナスさまに封印の技を解いてほしいと願い、そのせいで恩あるラバナスさまを死なせたわ。それでも、あのひとと生きたかった。そんな私の居場所は、もう地上にはどこにもない」
「イルクートは、技の解除がラバナス様に危険を及すことは知っていたはずよ。それに、ラバナス様だって、ご承知の上でのこと。あなただけが責任を感じる必要はないわ」
アリスティアの瞳がうるんでいた。
「正論ね。私、あなたのそういうトコ、苦手なのよ」
メイサはアリスティアに手を伸ばす。
「知らなかったとはいえ、封じの技の解除を願ったのは私。それに、エレクーンを焼いたのも私。あのひとのために、水竜を呼んだのも私なの」
メイサの目の焦点が結ばれなくなってきていた。
「しっかりして、メイサ」
その手を握り、アリスティアは必死で名を呼ぶ。
「あなたが私のために泣いてくれるなんて思わなかった。私、酷いことばかり言っていたのにね」
メイサの唇が弱々しく動く。
「竜を呼んだときから、こうなることはわかってた。あなたが来たということは、あのひとも無事ではすまないってことね」
メイサは、青白い顔で、柔らかく微笑んだ。
「共に歩むことはできなかったけど、共に逝くことはできそう」
それが最後だった。
静まり返った神殿の中で、アリスティアの嗚咽がかすかに響いていた。
「ラウル、客が来ているぜ」
大工仲間の声に、杭を打つ手をやめて、ラウルは振り返った。
初夏の日差しが眩しい。雨の季節は去り、既に季節は夏になろうとしている。
「オルヴィズ様、それから、アリス様も」
憲兵の制服のオルヴィズと、魔道師のマントを来たアリスティアが微笑んでいた。
「アリス様に、無理やり押し切られてね」
オルヴィズが苦笑する。
「この建物は、父上が発注しているのよ。私、関係者だもの」
アリスティアの髪が伸び始めていた。その銀の髪の長さのぶんだけ、時が流れたことを意味している。
「良い仕事をありがとうございます」
憲兵隊の詰め所をかねた、広い道場つきの訓練所の建設が決まり、ラウルはギルドを通してその仕事を請けた。仕事の条件にラウルが参加することが入っていて、ギルドでは、棟梁でもないラウルの指名に意味がわからず首をひねったのだが。
「イルクートが自害したわ」
アリスティアは、静かに告げる。
「遺書には、メイサと共に逝く、と書いてあったそうよ」
大雨の中、王宮に私兵を引き連れてやってきたイルクートは、レキサス公の手配りによって、逮捕された。初動が良かったことと、メイサを止めたこともあって、街の被害も最低限で済んだ。
大事に到らず、ほぼ数日で街は日常を取り戻すことが出来た。
取り調べに対し、イルクートは、災害に乗じてクーデターを企てたことを素直に認めた。
ただ、メイサとの関係については無言だった。
そして、彼は牢の中で自分の魔法によって果てた。懐の中に、たった一枚の遺書を残して。
イルクートがメイサに抱いていたのも、彼なりの愛だったのかもしれない。
「今となっては、わからないけれど」
遠くを見るように、アリスティアが微笑む。
墓標は立てられないが、二人を近くに葬ることになった、とオルヴィズが呟く。
あの日。共に逝けると笑んで死んでいったメイサの顔が忘れられない。
「なあ、また、仕事を手伝ってもらえるかな」
笑いながら、オルヴィズがラウルを見た。
「君は、才能がある」
困ったラウルをけしかけるように、アリスティアも微笑む。
「仕事がなければ」
二人の笑顔に押し切られるように、ラウルは答える。
頭上には、青い澄み渡った空が広がっていた。
了