イザベラと別れ、一人暮らしをする部屋で、今日の三つの言葉を書こうとペンを取った。そして、イザベラを思い出す。
「あれは、イザベラがオレのためにしてくれたんだよな……」
そうひとり呟いて、窓の外を見た。
***
「ジャン、あなた、これから10日間、毎日私の部屋に来なさい」
イザベラが命じた。文字が読めないとオレが言ったら、その答えがそれだった。
「そんな命令しなくても、毎晩、愛しのご主人様に会いに行くよ」
得意の流し目でそう言えば、イザベラは相も変わらず冷たい顔で答える。
「そういう嘘はいらないのよ」
「それにしたって、なんで10日間? 毎日会えるのに」
「私はあなたを買いましたが、毎日会うことは強制していません」
カッチカチに固くて真面目な答えが返ってくる。
オレは小さく肩をすくめた。
「でも、10日間は強制するんだ」
「ええ、最低でも10日間休まず繰り返すと、習慣になりやすいのよ」
「オレが部屋に来るのを習慣にしたいんだ?」
にやけた顔で冷やかしてみる。
いつものイザベラなら、怒って否定するはずだ、そう思ったのに今回は違った。
「別にそう思うならそれでいいわ」
オレは拍子抜けしてしまう。
「で、なにするの?」
聞けば、イザベラは真面目な顔をオレに向けた。
「今まで見に行った舞台のこと、教えてほしいの」
イザベラは引き籠もり令嬢だ。自分で観劇に行くことはない。オレは、以前のご主人様のペットとして、数々の舞台を見に行ったことがある。
「ふーん? いいけど。どの演目?」
「ジャンが面白かったものから話してちょうだい」
まるで事務報告でも聞くように尋ねる。
色気もへったくれもない空気に、オレはハーッとため息を吐いた。
「ここへ来て」
イザベラは自分が腰掛ける三人掛けのソファーをポンと叩いた。
オレはその意外性に、思わず満面の笑みになる。つれない態度をとったところで、結局はオレのことを気に入っているに違いない。
「はい!」
オレは尻尾を振る犬のように嬉々としてイザベラの隣に座った。
イザベラはビックリしたようにオレを見る。
「どうしたの。やけに嬉しそうね?」
「ご主人様の隣にいられることが嬉しいんです!」
オレが答えると、イザベラは苦笑いをした。
「……嘘でも、少し嬉しいわ」
「嘘じゃ」
「さぁ、話して」
否定する俺の声をイザベラが遮る。オレは渋々と演劇の説明を始めた。
どこが面白かったとか、ここがわからなかったとか、学のない奴隷が話すのだから、まちがったことも多いだろう。それなのにイザベラは、興味深そうに聞いている。
「……って、盛り上がってるシーンで『ドアの釘ほど死んだ』ってセリフがあって、意味がわからなくてキョトンとした」
「そうなの」
イザベラは興味深そうにオレの話を聞き、テーブルの上にあった詩集を手に取った。繰り返し読んだことがわかる、開き癖のついた本だ。
「それはね、『絶望的』とか『希望がない』っていう意味なのよ」
そうして、詩集の一節を読む。
舞台で歌われていた歌詞と同じだ。しかし、悲壮感漂う男の声と違って、イザベラの歌声は小鳥のようだった。
耳に心地よい。いつまでも聞いていたい。
「この詩集が原点なの」
そうして、その部分をオレに見せる。
「ここにそう書いてあるの?」
「そうよ。この部分が『ドアの釘ほど死んだ』」
オレに詩集を手渡すと、イザベラはテーブルの上に紙をガラスペンのセットを持ってきた。そこに『ドアの釘ほど死んだ』と書く。
「はい、この下にジャンも同じ文字を書いてみて」
オレはイザベラの字をよくよく真似て書く。丁寧で真面目そう、線の細い文字は、まるでピンと張り詰めた糸のようなイザベラに似ていた。
オレの文字はヨレヨレだ。そもそもペンも上手く持てない。
たったこれだけの文字を写すだけで、ドッと疲れる。
「はー……」
オレは書き切って大きく息を吐いた。
「初めてにしては上手よ」
イザベラは微笑んだ。こんな微笑みをオレに向けたのは初めてだ。そして、オレの頭に手を伸ばすと、ヨシヨシと撫でまわす。
オレはポカーンとしてイザベラを見た。
イザベラはハッとして手を引っ込めた。
「ごめんなさいね、セシリアとの癖で……」
うつむき顔を赤らめる。
「ううん。嬉しかった……」
オレは格好つけるのも忘れ、思わず呟いた。
「嘘」
「嘘じゃない! オレ、生まれてからこんなことされたことないから」
褒められたことがないわけじゃない。見た目はいつだって賞賛されたし、色恋ごとのテクニックでは喜ばれている。
だけど、こんな純粋に、母が子どもにするように、頭を撫でられたことはなかった。不意打ちで心が震えた。もうとっくに殺してしまった、胸の奥の子どもが目覚めてしまった。
奴隷としての顔を忘れてイザベラを見る。
イザベラは少し悲しそうに微笑んだ。
「そうなの。嫌じゃないなら、同じようにしてもいいかしら」
イザベラが言い、オレは黙って頷いた。気恥ずかしくて、紙に目を落とす。そして口早に願う。
「ついでに『絶望的』って書いてください。ご主人様」
「ええ、いいわ」
イザベラはサラサラと紙に書く。紫色のインクはオレの瞳と同じ色だ。
イザベラが書き終わると、オレもその下に真似をして書いてみる。さっきより上手く書け、思わずイザベラの顔を見上げた。
イザベラは微笑んで頷いた。
「ジャン、あなた上達が早いのね」
そう言って髪を撫でる。俺は思わず目をそらした。それでも口元は緩んでしまう。お腹の中がくすぐったい。耳たぶが熱くなる。触れられた髪がソワソワと揺れ、落ち着かないのに、初めてお腹いっぱい食べたときのような気分だ。
「お腹がいっぱい」
口にしたら、イザベラはキョトンとした。
そして、ああ、と呟いて紙になにかを書いた。
「なんて書いたんですか?」
「『お腹いっぱい』よ」
イザベラは笑った。
オレは胸がキュンと苦しくなる。今の気持ちをイザベラが文字にしてくれた。そして、オレはその気持ちを文字としてみることが出きたのだ。
オレは丁寧に丁寧にその文字を真似た。
真似て何度も繰り返す。
掃きだめで生まれたオレにとって、「お腹がいっぱい」ということは、「幸せ」という意味でもあったから。
「ジャン、本当は勉強熱心なのね」
繰り返し文字を書くオレを見てイザベラは感慨深く呟いた。
オレは急に恥ずかしくなって手を止めた。
「そんなことない」
「そう? ジャン、あなた、これから10日間、毎日私の部屋にきなさい」
イザベラはもう一度そう言った。
オレは黙って頷いた。初めの頃のように茶化したりできなかった。
***
初めて習った言葉が、『絶望的』だという意味なんて、あまりにもオレらしくて今思えば笑えてしまう。
印刷屋で出た裏紙に『ドアの釘ほど死んだ』と書いてみる。
そして、あの人の名前。このガラスペンのイニシャル、イザベラ。
最後に『会いたい』。そう書いて、今日の三つの言葉を終えた。
イザベラの言ったとおり、十日間繰り返すことで三つの言葉を書くことが習慣になった。
イザベラがいなくても、オレは毎日繰り返す。
そしてあの日を思い出すのだ。
イザベラに会いたい。またあの日をなぞりたい。
絶望的な願いは、捨てられるはずの紙に紫の文字で刻み込まれた。