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 一時間半ほど勉強を続けた後、鹿島くんは「少し休むか」と立ち上がった。もう少し早く休んでもよかったと思う。

 私たちは一階の自販機で缶のカフェオレを買い、二階の円卓で一息つくことにした。

「今のままいけば、今週中にはノート作りが終わるな」

「そんなに進むかな」

「進ませるんだ。家でもちゃんとやってるだろうな?」

「ん。家ではちょっと……。ごめんね、家事があるから」

「……そうか。謝ることなんてない。立派なものだ」

 と、鹿島くんは首を振った。

 しかし、一息つくとはいっても鹿島くんとするのは勉強の話ばかりだ。

「ところでさ、学校の以外に参考書とか問題集やらなくていいの?」

「まずは定期試験で九割とれるようにするのが先だ」

「九割!?」

「定期試験なんてできて当たり前だ。範囲が分かっているし、出題者は普段から授業している先生だぞ? どんな問題が出るかなんてほぼ予想がつくだろう。それができないんじゃ、その先なんてやっても無駄だ」

「確かに」

「君、昔はどう勉強してたんだ」

 中学の頃は私立の進学校で一位をとっていた。あの頃の自分はどんな勉強をしていただろう? というか、どんな脳みそをしていたのだろう?

「……よく覚えてないけど、とにかく目の前にあるもの全部できてたよ。ううん、できるようにしてた。繰り返し、繰り返し、できるまで、できないことがなくなるまで」

 かかる時間とか、労力とか、効率とか、あの頃の私にそういう発想はなかった。

「学校は中高一貫で、とにかく詰め込みって感じだったの。教科書も問題集も山のように買わされたよ。みんな嫌がってたけど、私にとっては楽だったな。何すればいいのか、自分で考えなくてよかったから。……何のためにあんな頑張ってたんだろう」

 鹿島くんはカフェオレの缶を傾け。それから口を開いた。

「昔の自分を救いたかったら、意味を見出すしかないだろ」

「今の自分の礎になってる、みたいな?」

 鹿島くんが頷く。

「少なくとも今の君には目標がある。追追試に受かるためには一学期の範囲をできるようにする。そのために中学時代の基礎学力や、当時した努力の習慣が活きてくる」

「そうだね。追追試に受かったら、報われたと思えるかな。……少しはね」

 追追試なんて結果じゃなくて、この先の人生の中では過程の一つでしかない。将来に繋がるなんて思えないけれど。少なくとも季帆さんに心配かけなくて済む、というのは小さくても大事な報いだ。

「そういえばさ、何かの小説で『将来に復讐されている』みたいな言葉なかったっけ? 中学の教科書に載ってた気がするんだけど」

 ふと思い出した記憶から、話題の転換を試みる。深刻な話はもういいでしょう。

「……実篤の『友情』じゃないか? 序盤にそんな一節があった気がする。ただ、ちょっと違った気もするな」

 鹿島くんは首を捻り、それから提案した。

「探してみるか。このフロアなら教科書や小説もあるんじゃないか?」

 資料の検索機で探してみたところ、『友情』は予想通り二階にもあった。円卓に戻り、鹿島くんの記憶を頼りにページを捲ると、序盤の方にそれに近い一節があった。『君は前に復讐を受けているのだ』。鹿島くんの言う通り、私の記憶とは少し言葉が違っていた。

「やっぱりちょっと違ったね」

 問題の言葉は、主人公の野島が、友人である大宮から言われた言葉だった。野島は売れない脚本家で、大宮の方は高評価を得ている小説家である。

「この一節、よく意味が分からなくて印象に残ってるんだよな」

「確か授業で教わったよ。『前に』っていうのは未来、将来のこと。野島はまだ売れてないけど、将来は必ず成功するから、今はその分苦労させられだけだって、大宮は野島を慰めてるの」

「なるほど。それを『復讐』と表現しているのか。面白いな」

 と鹿島くんは感心した様子を見せた。考えてみれば、私が鹿島くんに何か教えるなんてこれが初めてだ。

「借りて行くかな。久しぶりに読みたくなった」

「この話、好きなの?」

「……引っ掛かる話なのは、間違いないな」

 鹿島くんは『友情』の表紙を軽く撫でながらそう呟いた。

 そして私の方をちらりと見てから問いかけてきた。

「……君にはないのか。何か、引っかかる話は」

「私? ……そうね。あれかな、『山月記』」

「懐かしいな。僕も授業で読んだよ。虎になった主人公は、確か李徴だったか?」

「そうそう。私、李徴の言葉が好きなんだよね」

「李徴の言葉?」

「『人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短い』っていうの」

 私が『山月記』の一節を諳んじると、鹿島くんは「ほう」と感心したような声を出した。

「あったな、そんな台詞。今思うと興味深い」

「鹿島くんは『山月記』好きそうだよね」

「そうか?」と、鹿島くんが首を傾げる。

「うん。そうよ」

 ガリ勉超エリートなんてそのままでしょう、と言うのは流石に自重しておいた。